デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
2節 神社
2款 諏訪神社(埼玉県)
■綱文

第41巻 p.464-472(DK410097k) ページ画像

大正5年9月27日(1916年)

当神社拝殿落成シ、是日祭典当日ヲ卜シ、献納ノ奉告祭行ハル。栄一参列シテ演説ヲナス。又同拝殿内ニ掲グル扁額ヲ献納シ、記念樹ヲ境内ニ手植ス。


■資料

集会日時通知表 大正五年(DK410097k-0001)
第41巻 p.464 ページ画像

集会日時通知表 大正五年         (渋沢子爵家所蔵)
九月廿六日 火 血洗島ヘ御出向
九月廿七日 水 諏訪神社奉告祭
九月廿八日 木 午後〇時半血洗島ヨリ御帰京


渋沢栄一書翰 阪谷芳郎宛 大正五年八月二七日(DK410097k-0002)
第41巻 p.464-465 ページ画像

渋沢栄一書翰  阪谷芳郎宛 大正五年八月二七日   (阪谷子爵家所蔵)
 - 第41巻 p.465 -ページ画像 
○上略
来月ハ兼而御打合之如く血洗島へ参り、鎮守之社殿新築之奉告祭を挙行之積ニ候、是ニて老生之一生涯も、稍其終を告候心地いたし候事ニ候○中略
  大正五年八月廿七日
                         栄一
    阪谷芳郎様
        梧下
Baron Y. Sakatani
  ○是年(一九一六年)六月、阪谷芳郎ハ、パリニ於テ開催ノ、第一次世界大戦末期ノ聯合国経済会議ニ我国代表トシテ出席シ、帰途九月ニユー・ヨークニ立寄ル。


村社諏訪神社中興史 第四六―四八丁(DK410097k-0003)
第41巻 p.465-466 ページ画像

村社諏訪神社中興史  第四六―四八丁   (諏訪神社所蔵)
○上略廿六日○大正五年九月となれば大字一同午後四時渋沢男爵閣下其他来賓の出迎をなす
翌二十七日穂積男爵閣下を深谷駅に出迎ふ
初秋の空は隈なく晴れ、日麗に東天に昇り、旭光は新築の拝殿に輝き檜の白木香り高く、金色の金物光まばゆく、一しほ神威の尊厳を覚えたり
境内の模様を見れば、拝殿の両側に幄舎を造り、右手の広場に十間四面の天幕を張り、社前には渋沢男爵閣下の揮毫に成りし神旗は朝風に翻れり
やがて定刻も近づけば、東京方面の来賓を始めとし続々踵を接して参集し、又此盛典拝観せんものと近郷近在之老若男女其数稷《(夥カ)》しく、実に千数百人と目せらる、而して定刻となりたれば、左記次第《(衍)》に書に依りいとも厳蕭に式は挙行せられたり
 諏訪神社御拝殿並に社務所新築奉告祭儀、九月廿七日早旦祓所を設備し社殿を装飾す
    第一鼓
一午前九時祭主以下祭員祓所に着く
ヽ建築主任技師以下祓所に着く
ヽ渋沢男爵以下工事関係者一同祓所に着く
ヽ祓主祓詞を奏す
ヽ大麻行事
ヽ塩場行事
    第二鼓
一、諸員幄舎之本位に着席
次本殿開扉   此間奏楽警蹕 着床之諸員起立
ヽ献饌     此間奏楽
 - 第41巻 p.466 -ページ画像 
ヽ建築主任技師棟札を供進す
ヽ奉幣行事
ヽ祭主祝詞を奏上     着床之諸員起立
ヽ祭主玉串奉奠      祭員一同座後拝礼
ヽ渋沢男爵閣下以下工事関係者並ニ参列員順次玉串奉奠拝礼
次建築主任技師以下玉串奉奠拝礼
ヽ奉幣を撤す
ヽ建築主任技師棟札を撤して殿内に納む
ヽ撤饌    此間奏楽
ヽ本殿閉扉  此間奏楽警蹕 着床諸員起立
ヽ退手 一揮 四拍子
    第三鼓 式畢り
一、参列員一同昇殿着座
次渋沢男爵閣下之挨拶
ヽ大里郡長島崎広太郎氏之祝辞
ヽ当字神社氏子惣代謝辞
    第四鼓  一同退場 休憩
    第五鼓  氏子一同獅子舞献上
 此夜午後七時より渋沢市郎氏宅に於て、氏子一同獅子舞を男爵閣下之御覧に供セリ
○下略


村社諏訪神社中興史 第五三―五四丁 【拝殿新築奉告祭祝詞】(DK410097k-0004)
第41巻 p.466 ページ画像

村社諏訪神社中興史  第五三―五四丁   (諏訪神社所蔵)
    拝殿新築奉告祭祝詞
掛麻久母畏伎諏訪神社乃大前爾社掌根岸要三畏美畏美白左久従三位勲一等男爵渋沢栄一伊旧御社乃御氏子止生出志昔乎思比畏美真木柱本乎忘礼奴清伎信志伎精神乎持此度数多乃金円乎奉納里伎工匠長工学士渋沢虎雄爾事依付工匠人等諸忌麻波里清麻波里伎厳志久美波志久造奉畢奴礼婆専良皇神等乃助計賜比阿那々比給津留思頼止斎比定米伝神賀伎事賀伎奉里伝御祭仕良久止神饌物捧供奉留此事乃由乎奏上奉良久乎御神慮母美波志久所聞食相宇豆那比給比伝笠立留新御殿乃百八十柱波天乃御柱国乃御柱止常盤爾竪磐爾動伎傾久事無取葺計留御屋根軒端乃板目雨風乃佐夜芸母無御床御階乃錯緩乱留々事無御空飛鳥這虫乃災母無守里座志伝此之新宮乎千代万代之静宮止神慮安穏爾鎮坐麻里座志伝御氏子等諸斉志久厳志久庭雀蹲踞恐美恐美母白須
               諏訪神社々掌 根岸要三


竜門雑誌 第三四一号・第七三頁 大正五年一〇月 ○諏訪神社奉告祭(DK410097k-0005)
第41巻 p.466-467 ページ画像

竜門雑誌  第三四一号・第七三頁 大正五年一〇月
○諏訪神社奉告祭 青淵先生の敬神の念厚きは今更喋々を要せざれども、先生は今年喜寿に達せられたるを機として、神恩感謝の意を表する為め、郷里埼玉県大里郡八基村字血洗島村社諏訪神社に拝殿を造営して寄進せられたるが、同村に於ては九月廿七日同神社祭礼当日を卜し、其奉告祭を執行したり。来賓として式場に参列したるは、青淵先生・同令夫人其他同族の方々にして、式は午前十時に開始せられ、先
 - 第41巻 p.467 -ページ画像 
づ神官の進饌に続いて祭文朗読あり、次に清水組技師渋沢虎雄氏の建築に関する報告あり、それより先生を始めとし同族一同の参拝ありて式を終り、次で先生には拝殿の廻廊に起ちて社殿寄進の趣旨を述べ、且つ村民に対して益々敬神の念を厚うし、敦朴の風を養はれんことを望むとて、種々訓戒的演説を為されたり。当日の来賓諸氏は左の如し
 青淵先生 同令夫人 穂積男爵  同令夫人
 阪谷男爵 同令夫人 渋沢武之助 同令夫人
 渋沢正雄 同令夫人 渋沢秀雄  同令夫人
 渋沢敬三 渋沢信雄 渋沢智雄  穂積重遠
 穂積晴子 渋沢元治 清水釘吉  増田明六
 渋沢虎雄 其他郡長及近郷名誉職員


竜門雑誌 第三五三号・第二二―二六頁 大正六年一〇月 ○諏訪神社奉告祭に於て 青淵先生(DK410097k-0006)
第41巻 p.467-470 ページ画像

竜門雑誌  第三五三号・第二二―二六頁 大正六年一〇月
    ○諏訪神社奉告祭に於て
                      青淵先生
 本篇は、渋沢男爵が大正五年喜寿に躋られたるを機として、神恩感謝の意を表する為め、郷里埼玉県大里郡八基村字血洗島村社諏訪神社に拝殿を造営して寄進せられたるを以て、九月二十七日同社祭礼当日を卜し、同村が其奉告祭を執行したる際、青淵先生が演説せられたるものなり(編者識)
 満場の諸君、私が長い年月深く心懸けました当諏訪神社の拝殿が、玆に落成を致しましたに就て、今日は神官各位の御斡旋に依りまして此奉告祭が滞りなく相済みましたことは、私の此上もなく喜ぶ所でございます、所謂感極つて涙下ると申すことは、斯かる場合を形容したのであらうかと思ふ程でございます。
 私は当年が喜寿でございまして、此血洗島に呱々の声を揚げましたのは、丁度今より七十七年以前で、斯く多数お集りの諸君中にも、竹馬の友とては一両人のみである、小倉百人首にございます通り「まつも昔の友ならなくに」と同様にて、長生が友達を失ふと云ふやうなものでございます、回顧しますると五十有余年前、当大字血洗島にも今日の青年団体とも見るべき若い者仲間と云ふものがございました、其頃の風習は男子は十五歳になると元服して若い者の仲間入をする、仲間の頭領には五十に近い人もあつて百事の世話を致しました、現今の青年諸君は如何であるか、私も当時其団体に入つて当鎮守の本殿の余りに荒涼なることを憂へましたが、其内に仲間中の相談が一決して改造のことを企てたのでございます、併し夫れは若い者仲間のみでは出来ぬことで、今の村長は其頃は名主と称しました、其他組頭、百姓代等の役々に迫つて、遂に其事が確定致して、此御本殿は其時に改造されたものでございます、其工事も相当の手数を要して、殆ど三年余を経過した、私も其担当者の一人として、或は隣村に木材を買ひ求め、又は近郷に石を集むる為め、諸方を奔走したことを、今尚明瞭に記憶して居るのでございます、御覧の通り其時の工事は本殿丈けは落成致しましたが拝殿までは届きませず、本殿拝殿合同の造営に致しましたが、周囲の玉垣やら其他の設備が完成しませぬ間に、私の位地は農家
 - 第41巻 p.468 -ページ画像 
から転じて浪人たらざるを得ぬやうになつたのであります、私の身分の変遷は今玆に喋々は要しませぬけれども、蓋し私の青年客気より生じたる心得違もありましたらうが、其時の気運が私をして身分を変化せしむる場合も多かつたかと思ひます、一村の住民と生れて、其村の進歩繁盛に努むるは当然である、不幸にして奮を発して家郷を離別したと言ふことは、私は今尚心に満足しては居りませぬ、所謂已むを得ざるに出たのでございます、其出処進退は玆に陳弁する必要はありませぬが、前にも申上げまする通り、若い者仲間が幸に鎮守の社殿の改造を図つて、其工事半ばにして私の故郷を去つたことは、如何にも心懸りになつて居つたのでございます、其後光陰は矢の如く物変り星移りて、私の身体も一橋の家来から幕府の役人となり、欧羅巴を旅行して帰国すると、更に現政府の官吏となり、東京に永住の身分となつてから、何とか致して宿昔の心懸けを果したいと企望しましたけれども力も少なく機会も生ぜず、村方の諸君と共に充分なる御協議をするやうな場合もありませぬ為めに、思を齎して経過致しました、但し其間に全く着手を致さぬではなくて、時々氏子総代の諸君と御相談をしまして、中宮の塗替修理其他境内の増設等のことに付ては、愚見も陳上致して、多少の力を添へましたけれども、未だ以て拝殿の造営を見ることは出来得なんだのでございます。前にも申上げました通り、私も段々に老衰して最早余年も少なからうと思ひます、青年の頃より種々の変遷に出遭うて、或は死なんとしたことも幾回かございましたが、幸に今日あるを得ましたのは、一に此諏訪神社の私を加護して下さるお蔭と深く感銘致して居るのでございます、故にどうぞ生前に拝殿を造営して、御恩報じを致したいと考へまして、昨年始めて其事を氏子総代の諸君に御相談を致しました所が、諸君も誠に喜ばしいことである、速かに同意するから着手を望むと云ふ御賛成を得まして、幸に私の門下生ともいふべき渋沢虎雄氏が、建築技師として共に尊信する氏神の社殿御造営に尽力することゝなり、又此工事を請負ふたる清水組も従来私が其営業に心添をして居りまする縁故から、今日出席され居る同組の代表者たる清水釘吉氏が大に此工事に助力せられ、玆に始めて此改造が成功されたのでございます、当初の計画からは短い時日ゆゑに、都合よく工事が成功し得るか、願くば今年今日、此定例の祭典に於て、完全の落成を告げ、奉告の祭典を挙げたいと希望したのが、予期の通り行届きましたのは、私の幸福歓喜此上もございませぬ、詰り此工事を担当して下された人々、又此地方の氏子総代の諸君が、鋭意之を御幇助なされた賜ものと、独り私が之を感謝するのみならず、恐入つた申分ではございますが、諏訪神社の神霊も必ず諸君の御尽力を嘉納なさるであらうと信ずるのでございます。
 斯く拝殿を造営すると云ふに就ての私の心事は前に申上げた通りであるが、尚加へて私は玆に二つの希望を持つて居るのでございます、其一は凡て国家の繁盛は国運の伸暢にある、国運の伸暢は何から原因するかと云ふと、即ち一村一郷から其端を啓くと云ふは申すまでもないことである、既に古経にも君子の道は端を夫婦に発すと云ふてある一村の和睦進展しなければ、一郷も繁盛に至らぬ、一郷繁盛ならずん
 - 第41巻 p.469 -ページ画像 
ば一県一国も隆昌の域に達し得られぬ、詰り一国一県を分解すると其細胞は一村にある、故に此大字血洗島の諸君が知識あり理想あり、勉強にして耐忍力ある国民たり得たならば、埼玉一県の繁盛期して待たれるのである、而して其理想と云ふは、どうしても此敬神が根本になることを私は深く信ずるのでございます、蓋し人は物質上に知識を進めて行かねばならぬが、それと同時に精神を充分に修養せねばならぬ而して精神の修養は詰り敬神に帰すると思ふのでございます、一村の人民が我氏神を深く尊信して常に、敬虔の念を厚うするに於ては、必ず、其郷民の信仰心を増す、此信仰心は軈て道徳と相一致するものである、併し単に此一方ばかりでは、未だ完全とは言はれぬ、これと同時に人は宜しく智恵を励磨し、業務を勉強し、且つこれに耐忍して、其敬神と相待つて、玆に真の文明国民となり得るのである、此精神修養の本は信仰に由る、其信仰心を涵養するには、実に敬神の念が必要である、故に私の此拝殿を造つたのも、どうぞ一村の老若男女を、皆此敬神に帰一せしめたいと云ふのでございます、更に其一つは従来婚姻の式は各自の家に於て挙げると云ふのが、私の故郷に居つた頃の風習でありました、決してそれが悪いではありませぬが、近来東京に於ける神前結婚の方法は、敬神の念を増進する手段として甚だ宜しきことゝ、私は賞讚して居るのでございます、故に此大字の諸君も敬神の情を深くする為めに、どうぞ此神前に於て、結婚の儀式を挙げるやうに致したいと希望するのでございます、玆に於て此拝殿の造営は大に意味あり、権威あり、一村に対して有効なるものと相成るであらうと私は深く喜ぶのでございます。
 再三陳上しました通り、私は故郷を去つて最早五十四年目に相成ります、爾来時々来訪して村方の人口の繁殖すること、事物の進歩することを喜ばざるではございませぬが、願くば其敬虔の念を注ぐ所の諏訪神社の拝殿をして、相応しい体裁に致したいと思ふた微衷が今日玆に貫徹致しまして、而も此定例祭典の当日に斯く多数諸君のお集りに依つて、芽出度く奉告の祭典を挙行し得ましたことは、私の生前此上もない光栄で、是にて私の長い年月の間故郷を余所にしたことも、聊かお詫が出来たやうに思ふのでございます、而して此お詫の言詞は独り諏訪神社に申上げねばならぬのみならず、お集りの諸君に対しても併せて陳謝致すのであります、併し斯く陳謝は致しますけれども、或る場合には他所に居る者が時々帰りて、斯くては世の進歩に後れる、他郷には斯々の事があるから、我地方も一段の勉力を要すると云ふ忠言は他山の石、以て珠を磨くと云ふではなくして、自己の砥石で我刀を研ぐやうなもので、大に諸君を教導し或は激励し得ることがあらうかと思ふ、斯く考へると、故郷を去つた私が唯相済まぬとばかり言はずして、或る方面からは諸君より謝詞を受けることが、無いでもなからうかと、独り自ら慰むるのでございます、併し是は諏訪神社の神慮には如何に思召されまするか、少しく私し得手勝手の申分かも知れませぬから、諸君の公平なる御判断にお任せする外はございませぬ、私の長い希望が幸に貫徹致しました喜びを述べますと同時に、此拝殿造営は斯かる念慮であると云ふことを、此神前に於て陳上致して、大字
 - 第41巻 p.470 -ページ画像 
血洗島の諸君の此御場所に対する、御注意と致したいと存じます。



〔参考〕村社諏訪神社中興史 第二七―二九丁(DK410097k-0007)
第41巻 p.470-471 ページ画像

村社諏訪神社中興史  第二七―二九丁    (諏訪神社所蔵)
大正五年一月二日例年之通り大字血洗島初会儀之席上に於て、渋沢治太郎氏より拝殿及社務所建碑等に関する諸般之報告をなせり
  建碑 選文 文学博士  萩野由之先生
     揮毫 宮中御歌係 阪正臣先生
       篆額 公爵  徳川慶久公
 拝殿工事は東京清水組之請負に係り、渋沢工学博士《(衍)》○虎雄之が設計を掌り、大正五年一月四日を以て基礎工事に着手せり、此工費金壱万円
一月十二日 神樹大欅枯損し且つ拝殿造営とに付き狭隘により其之筋之許可を得て現在之位置に移したり、其之発掘に際し樹下三尺有余之地下より丈三寸余なる石造之大黒天像出現したり
十二月廿日附社務所改築願提出す
    社務所改築願
        大里郡八基村大字血洗島
                 村社諏訪神社
 一、社務所 間口四間半、奥行二間半
  此建坪拾壱坪弐合五勺、外に庇坪六坪七合五勺
 右神社御大典紀念として社務所改築仕度候間御許可被成下度、最も右改築に対する費額は本村出身現今東京なる男爵渋沢栄一に於て其全額を寄附相成候事に有之候間、別紙正側図面及仕様書並に収出予算書等相添へ此段奉願候也
  大正四年十二月廿日     右諏訪神社々掌
                      根岸要三
                 氏子惣代 渋沢市郎
                      福島治三郎
                      笠原源太郎
    大里郡長 島崎広太郎殿
 前書之通り相違無之候也
  大正四年十二月廿日
           埼玉県大里郡八基村長 橋本八郎次

             大里郡八基村大字血洗島
                 村社 諏訪神社
    社務所改築収支予算書
      収入
 一、寄附金壱万円也   男爵渋沢栄一寄附
      支出
一、建築諸費 九千七百参円七銭 社務所改築材料大工手間共
一、雑費 弐百九拾六円九拾参銭 上棟式其他雑費
   計金壱万円也
 - 第41巻 p.471 -ページ画像 
            大里郡八基村大字血洗島
               村社諏訪神社々掌氏子惣代
 大正四年十二月廿日附願御大典紀念として社務所改築之件聞届く
            但し落成之上は届出可し
  大正五年二月七日
              大里郡長 島崎広太郎印
二月廿八日、社地編入願許可書到着
三月五日、社務所改築願許可書及社地編入願許可到着《(書脱)》、準備整理に付社務所建設基礎工事に着手す
 工事設計は当村棟梁安沢与作之を作成す、此の工費額金壱千弐百円なり、手伝人夫氏子一同順次出勤す、大工及氏子一同之精励により工事着々進捗し四月五日を以て上棟式挙行せり、氏子一同参列す



〔参考〕横山虎雄談話筆記(DK410097k-0008)
第41巻 p.471 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕村社諏訪神社中興史 第五一―五三丁(DK410097k-0009)
第41巻 p.471-472 ページ画像

村社諏訪神社中興史  第五一―五三丁   (諏訪神社所蔵)
    三鼓奉納記
 一、楽大鼓
 一、鉦鼓
 一、羯鼓
青淵渋沢男爵閣下本年喜寿之高齢に達し、其之郷里埼玉県大里郡八基村大字血洗島 諏訪神社に拝殿を造営して奉献せらる、蓋し報本反始の意に出たるなり、吾等親族の末に列なり、其喜を共にするもの胥
 - 第41巻 p.472 -ページ画像 
謀り、玆に三鼓一組を奉納して、先生之敬神の誠意を賛け、先生の寿康を祈る云々
        孫  渋沢敬三       渋沢信雄
           渋沢智雄       穂積重遠
           穂積仲子       穂積律之助
           穂積秀子       渋沢元治
           渋沢孝子       石黒忠篤
           石黒光子       穂積真六郎
           穂積敏子       穂積晴子
           阪谷希一       阪谷寿子
           高嶺俊夫       高嶺和子
           堀切善次郎      堀切敏子
           阪谷俊作       中村貫之
           中村八重子      阪谷千重子
           阪谷総子       渋沢昭子
           明石景明       明石春雄
           渋沢一雄
        曾孫 渋沢享三       石黒忠久
           石黒志げ子      石黒元子
           石黒孝次郎      穂積重子
           堀切寛子       堀切治雄
           堀切国雄       高嶺信子
           高嶺孝子       高嶺秀一
    天犬奉納記
 一、天犬一対
男爵渋沢青淵翁は本年七十七歳之高齢に達し、所謂喜寿を祝福する記念として、郷里八基村大字血洗島産土神諏訪神社に拝殿を造営し奉献せらる、不肖同族之末席に伍し、其之慶を共にし、且つは翁の寿福にあやからんと欲し、玆に天犬一対を献納して、翁の敬神の誠意を輔け以て翁の寿康を祈る云々
                      渋沢義一