デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.425-436(DK420090k) ページ画像

大正2年5月25日(1913年)

是ヨリ先、是月十日、当社評議員会、渋沢事務所ニ於テ開カレ、栄一ソノ晩餐会ニ出席ス。次イデ是日、当社第四十九回春季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三〇〇号・第五八―五九頁 大正二年五月 ○竜門社評議員会(DK420090k-0001)
第42巻 p.425-426 ページ画像

竜門雑誌  第三〇〇号・第五八―五九頁 大正二年五月
    ○竜門社評議員会
竜門社にては、五月十日午後五時より兜町渋沢事務所に於て、評議員会を開きたり、当日の来会諸君は左の如し。
  井上公二  石井健吾   堀越善重郎
  高根義人  明石照男   植村澄三郎
  阪谷芳郎  日下義雄   佐々木勇之助
  郷隆三郎  佐々木清麿  渋沢義一
常任幹事八十島親徳君病気欠席に付き、幹事石井健吾君代理となり、先づ出席員一同の同意を得て阪谷男爵を座長に推選し、社則第十六条「評議員の任期は二箇年とし、毎年其半数宛を改選す」とあるを
 第十六条評議員の任期は四ケ年とし、隔年其半数宛を改選す
との社則改正案を附議せしに、満場一致を以て可決し、直ちに之を施行することに決したり、次に渋沢社長病気の為め辞任申出の儀に就ては、暫く幹事の手元に預り居りしかども、御当人が達ての御辞退、如何取計らひ然るべきやの件は、事情止むを得ざれば御承認申上ぐる外なし、併し社長は欠員の儘と決し、次に
 一、評議員会に於て評議員会長一名を選定す
 一、評議員会長は社長欠員中社長の職務を代理す
右二案を可決し、而して評議員会長には阪谷男爵を推選し、同男爵の
 - 第42巻 p.426 -ページ画像 
承諾を得て可決し、次て本社春季総集会は五月廿五日(日曜日)を卜し、午後一時より王子飛鳥山曖依村荘に於て開会することに決し、夫より前年度会計報告及入社申込承認の件を議了し、別室に於て晩餐の饗応ありて散会せり、晩餐会には青淵先生にも出席せられ、其他前評議員大川平三郎・山口荘吉・渋沢元治・斎藤峰三郎・清水一雄・佐々木慎思郎諸君も列席せられたり。


竜門雑誌 第三〇一号・第五七―六三頁 大正二年六月 ○竜門社春季総集会(DK420090k-0002)
第42巻 p.426-430 ページ画像

竜門雑誌  第三〇一号・第五七―六三頁 大正二年六月
    ○竜門社春季総集会
竜門社第四十九回春季総会は、既報の如く、五月廿五日午後一時より飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり、時は維れ初夏、新緑濃に涼風梢に囁きて、居常樊籠の裏に在る都人士に取りては、復た自然に反ることを得たるの雅致なくんば非らず、三々伍々集ひ来りて、定刻には既に四百有余名に及べり、振鈴一過、さしも広き会場も殆ど空席を剰さず軈て幹事石井健吾君登壇、開会の辞に次いで、前年度の社務及び会計報告を為して満場の承認を得、次いで講演会に移り、法学博士高橋作衛氏(北米加州問題)理学博士田中館愛橘氏(飛行機に就て)及び青淵先生の講演あり、是れにて閉会を告げて、園遊会を開けり、社員の多くは是れ塵網の中に役々たるもの、誰か旧林に反り故園に放たれたる想ひなかるべきや、樹林を洩るゝの声、葉末に響く音や賑はしく、各種の摸擬店は忽ち売切の札を掲げぬ、頃をはかりて、此方の会場にては細川風谷の講談あり、彼方の庭園にては小供の角力抔あり、一層の興味を催し、軈て三々伍々帰途に就きたるは六時前後にてありき
前年度社務報告並に当日来会者諸君は即ち左の如し
    社務報告(大正元年度)
一本年度会員異動
 一入社員 特別会員拾弐名 通常会員弐拾名
 一退社員 特別会員拾六名(内死亡退社九名)
      通常会員拾三名(内死亡退社三名)
一年度末会員現在数
 一名誉会員        一名
 一特別会員    三百六拾一名
 一通常会員    四百六拾五名
一現在役員の事
 一評議員 拾九名(内幹事弐名)
  但評議員の内九名(拾名の処壱名死亡)は四拾五年五月十六日社則第十六条に依り改選せられたるものなり
一本社雑誌発行兼編輯人木戸有直君十二月死去せられたるに依り、同名義を高橋金次郎君に変更せり
一本年度集会の数
 一総集会       弐回
 一評議員会      弐回
一雑誌発行部数
 一毎月一回      凡九百部
 - 第42巻 p.427 -ページ画像 
 一本年度発行部数   壱万八百部
    △会計報告(大正元年十二月卅一日現在)
      貸借対照表
        貸方(負債)
一金参万六千弐百五拾円也  基本金
一金四千七百五拾八円九銭  積立金
一金参千五百八拾円八拾九銭 収入超過金
 合計 金四万四千五百八拾八円九拾八銭
        借方(資産)
一金四万参拾八円拾五銭   第一銀行株式五百株
一金八百九拾七円弐拾五銭 四歩利公債額面壱千円
一金四拾弐円也       保証金
一金参拾参円拾銭      什器
一金弐百四拾六円弐拾壱銭  仮払金
一金参千弐百八拾六円五拾銭 銀行預ケ金
一金四拾五円七拾七銭    現金
 合計 金四万四千五百八拾八円九拾八銭
      収支計算書
        収入の部
一金参千七百拾参円七拾弐銭 配当金及利子
一金千七百八拾円九拾銭   会費収入
一金千百参拾円也      寄附金
一金六拾壱円也       雑収入
 合計 金六千六百八拾五円六拾弐銭
        支出の部
一金千参百五拾壱円九拾弐銭 定時総集会費
一金五拾五円参拾銭     集会費
一金九百弐拾八円弐拾弐銭  雑誌印刷費
一金七拾六円四拾九銭    郵税
一金六百九拾弐円八拾銭   報酬及雑費
 合計 金参千百四円七拾参銭
  差引
   金参千五百八拾円八拾九銭 収入超過金積立金に編入
右之通に御座候也
  大正元年十二月卅一日          竜門社幹事
一、名誉会員
 青淵先生   同令夫人
一、来賓
 高橋作衛君    田中館愛橘君
一、特別会員(イロハ順)
 石井健吾君    岩崎寅作君     伊藤新作君
 伊藤潔君     伊藤半次郎君    一森彦楠君
 萩原久徴君    萩原源太郎君    原胤昭君
 - 第42巻 p.428 -ページ画像 
 西田敬止君    西谷常太郎君    西野恵之助君
 堀越善重郎君   堀越善重郎君令夫人 堀井宗一君
 堀井卯之助君   本間竜二君     星野錫君
 穂積陳重君令夫人 鳥羽幸太郎君    利倉久吉君
 沼崎彦太郎君   沼間敏郎君     大川平三郎君
 同令夫人     岡本銺太郎君    尾高幸五郎君
 尾高次郎君    同令夫人      尾川友輔君
 沖馬吉君     金谷藤次郎君    川田鉄弥君
 柏原与次郎君   神田鐳蔵君     同令夫人
 吉岡新五郎君   横山徳次郎君    横田清兵衛君
 吉野浜吉君    田中元三郎君    田中太郎君
 田中徳義君    高橋波太郎君    高松録太郎君
 田中栄八郎君   同令夫人      高橋金四郎君
 田中楳吉君    曾和嘉一郎君    塘茂太郎君
 長滝武司君    成瀬仁蔵君     中井三之助君
 中沢彦太郎君   村木善太郎君    村上豊作君
 内海三貞君    上原豊吉君     植村澄三郎君
 植村金吾君    野口弘毅君     倉沢粂田君
 日下義雄君    矢野由次郎君    矢木久太郎君
 山口荘吉君    矢野義弓君     山本久三郎君
 山中善平君    松本常三郎君    松平隼太郎君
 松谷謐三郎君   前田青莎君     藤木男梢君
 古田錞次郎君   古橋久三君     郷隆三郎君
 同令夫人     小橋宗之助君    小池国三君
 手塚猛昌君    朝山義六君     安達憲忠君
 阿部吾市君    浅野泰次郎君    安藤保太郎君
 粟津清亮君    佐藤正美君     佐藤一雄君
 佐々木慎思郎君  佐々木勇之助君   斎藤章達君
 阪谷芳郎君令夫人 斎藤精一君     佐々木清麿君
 西園寺亀次郎君  吉川宗光君     湯浅徳次郎君
 三好海三郎君   芝崎確次郎君    清水一雄君
 清水揚之助君   渋沢治太郎君    渋沢義一君
 白石甚兵衛君   渋沢元治君     平岡利三郎君
 肥田英一君    弘岡弘作君     平田初熊君
 諸井時三郎君   持田巽君      諸井恒平君
 関屋祐之助君   関誠之君      瀬下清君
 鈴木金平君    鈴木清蔵君     鈴木善助君
 鈴木紋次郎君
一、通常会員
 石井健策君    石井与四郎君    石井禎司君
 石井義臣君    石田豊太郎君    石川竹次君
 市石桂城君    井田善之助君    伊藤英夫君
 伊沢鉦太郎君   猪飼正雄君     伊知地剛君
 家城広助君    板野吉太郎君    市川廉君
 - 第42巻 p.429 -ページ画像 
 井出徹夫君    入江銀吉君     早川素彦君
 蓮沼門三君    原直君       長谷川千代松君
 馬場録二君    秦虎四郎君     林興子君
 長谷川謙三君   西正名君      本田竜二君
 友田政五郎君   友野茂三郎君    東郷一気君
 千葉重太郎君   大橋悌君      大畑敏太郎君
 小原富佐吉君   大原万寿雄君    大升栄君
 小熊又雄君    小田島時之助君   岡原重蔵君
 岡本謙一郎君   尾上登太郎君    奥川茂太郎君
 大井幾太郎君   恩地伊太郎君    岡戸宗七郎君
 大木為次郎君   小倉槌之助君    落合太一郎君
 尾崎秀雄君    脇谷寛吉君     和田巳之吉君
 川口一君     金沢求也君     金井二郎君
 笠原広蔵君    神谷新吾君     金古重次郎君
 上倉勘太郎君   加藤雄良君     河崎覚太郎君
 鹿沼良三君    金子四郎君     益子保蔵君
 河村桃三君    金沢弘君      神谷岩次郎君
 吉岡鉱太郎君   吉岡仁助君     横田半七君
 横尾芳次郎君   横田晴一君     吉岡慎一郎君
 吉田升太郎君   横山正吉君     田中七五郎君
 田中一造君    俵田勝彦君     高橋森蔵君
 武沢顕二郎君   高橋毅君      玉江素義君
 竹内玄君     田岡健六君     田島昌次君
 只木進君     田子与作君     高山仲助君
 武沢与四郎君   高山金雄君     村井竜君
 左右田良三君   蔦岡正雄君     辻友親君
  永田市左衛門君 中村習之君     中村敬三君
 永田常十郎君   滑川庄次郎君    長井喜平君
  中西善次郎君  中村新次郎君    内藤種太郎君
 村山革太郎君   梅田直三君     上田彦次郎君
 宇賀神万助君   氏家文夫君     梅津信夫君
 宇治原退蔵君   内海盛重君     生方裕之君
 野口夬君     野口森君      野村修三郎君
 野村喜十君    野村喜一君     久保幾次郎君
 熊沢秀太郎君   山崎豊治君     山本鶴松君
 山村米次郎君   山田仙三君     安田久之助君
 柳田観己君    山川逸郎君     山口乕之助君
 山崎一君     山崎栄之助君    八木安五郎君
 八木仙吉君    松村繁太郎君    松村修一郎君
 町田乙彦君    松本幾次郎君    松岡忠雄君
 松村五三郎君   藤原富太郎君    福島元朗君
 福本寛君     福田盛作君     小森豊参君
 小林梅太郎君   小林茂一郎君    小林森樹君
 小島順三郎君   河野通吉君     河野間瀬治君
 - 第42巻 p.430 -ページ画像 
 小山平造君    小島健三郎君    近藤良顕君
 江山章次君    江口百太郎君    赤木淳一郎君
 浅見悦三君    浅見録三君     相沢才吉君
 綾部喜作君    秋元孝治君     足立芳五郎君
 赤萩誠君     桜井武夫君     阪田耐二君
 斎藤又吉君    沢田正寿君     斎田銓之助君
 斎藤亀之丞君   木村益之助君    木村弘蔵君
 木之本又一郎君  北脇友吉君     吉川宗光君
 木村金太郎君   木村亀作君     御崎教一君
 三宅勇助君    宮下恒君      芝崎徳之丞君
 塩川誠一郎君   東海林吉次君    柴田房吉君
 芝崎保太郎君   篠塚宗吾君     塩川薫君
 渋沢武之助君   渋沢長康君     平井伝吉君
 久本順造君    平岡五郎君     広瀬市太郎君
 関口児玉之助君  鈴木正寿君     鈴木源次君
 鈴木旭君     椙山貞一君     鈴木順一君
 須田武雄君    鈴木富次郎君    須山壮造君
玆に当日会費中へ金品を寄贈せられたる各位の芳名を録して、謹で厚意を深謝す
 一金三百円也        青淵先生ヨリ寄附金
 一金五十円也        第一銀行同
 一金三十五円也       渋沢篤二氏同
 一金二十円也        穂積博士同
 一金二十円也        阪谷男爵同
 一金二十円也        神田鐳蔵氏同

 一金二十五円也       東京印刷会社同
 一金十五円也        佐々木勇之助氏同
 一金十五円也        東洋生命保険会社同
 一金十円也         大川平三郎氏同
 一金十円也         田中栄八郎氏同
 一金十円也         郷隆三郎氏同
 一金十円也         浅野総一郎氏同
 一金十円也         堀越善重郎氏同
 一金十円也         朝鮮興業会社同
 一金五円也         星野錫氏同
 一金五円也         白石元治郎氏同
 一金五円他         尾高幸五郎氏同
 一金五円也         尾高次郎氏同
 一ミユヘンビール八打    植村澄三郎氏同


竜門雑誌 第三〇三号・第一一―一七頁 大正二年八月 ○メービー博士の衷情 青淵先生(DK420090k-0003)
第42巻 p.430-435 ページ画像

竜門雑誌  第三〇三号・第一一―一七頁 大正二年八月
    ○メービー博士の衷情
                     青淵先生
    文明の老人
 - 第42巻 p.431 -ページ画像 
  本編は、五月廿五日午後一時より、飛鳥山曖依村荘に於て開かれたる本社第四十九回総集会の講演会に於ける、青淵先生の講演なりとす
 春季の総会が仕合せに好天気で、竜門社員諸君の為に甚だ喜ばしい訳であります、今日は高橋博士より時に取つて重要の問題、又田中館博士からは未来の発展に深い興味を持つ学術上のお話を精しく拝聴致して、縦令素人ながらも、稍々要領を伺ひ得たやうに思ひます、社員諸君も定めて御同感であらう、此両君の学理と事実とを、詳細に御分解なすつて吾々に御説明を下された其労を、諸君に代つて謝し上げまするのであります。
 私は何時も此会には一言を述べる例になつて居りますから、今日御断りするのも甚だ遺憾に心得ますので、此壇に登りましたが、三月末に旅行先で工合を悪くした為に、爾来一ケ月ばかり休養して居りまして、其後稍々快方でありますけれども、どうも演説をすることが余程困難でございます、悪くすると逆上する気味があつて、健康の為に宜くないかと思ひます、私の口が無くなりますると、筆ばかりになるけれども、其筆も近頃は大に鈍つて来ました、段々種々の機関が減損するやうに思ふと、少し心細くなりますけれども、果して全く口を閉ぢて居られるか、是から気候でも好くなつたら、雲雀のやうに少々づつ囀ることが出来るか、どうぞ暫く御猶予を願ひたい、それ故に、私の今日のお話は――時間も大分経つて居りますから、余り管々しい事を申さずに、唯諸君と共に此の竜門社の将来を祝して、老も若きも勉強しようと云ふことを告げるに止めようと思ひますが、併し一言申上げたいのは、他国の人が我国民をどう観るかと云ふ問題に付て――今高橋君が加州土地法に関して、法理若くは実際に付てのお講演がありましたが、其亜米利加人が日本を如何に観察して居るかと云ふことである、但し是は或一部の狭い範囲ではありますけれども、頃日来の談話を事短かにお話して見ようと思ふ。
 カリフォルニア州の或る地方に於ては、日本人を人と見ぬと云ふけれども、押並べてさうとも限らない、先頃交換教授として日本へ参つて居つたメービー博士が、帰国するに臨んで、日本の観察を簡単に私に述べられたが、――其事を私は爰に諸君に移して置きたいと思ふのであります、少しく旧聞ではありますけれども、亜米利加人の吾々を観る目は斯様である、此点は斯うもありたい、彼の点は斯く懸念すると極く真率に衷情を述べられて、決して溢美も邪推も無いやうに思ひましたから、其事を話して見ようと思ひます、併し是は来賓諸君にお聴かせする程の話ではございませぬ、只竜門社の諸子のお心得までにと申すのであります。
 元来メービー博士の日本へ来たのは、交換教授と云ひまして、日米間の国交が動もすれば常軌を逸するやうなことがあるから、努めて之を緩和せしめたい、又一方には両国の真相を、両国民若くは両国の学生に明細に知らせたいと云ふ趣意で、最初菊池博士も行つた、又米国からラツトと云ふ博士も来た、一昨年は新渡戸博士が行かれて、其交換にメービー博士が昨年十一月に来られ、半歳余各地に於て講演して
 - 第42巻 p.432 -ページ画像 
当月初旬に東京を出立した、其滞在中に帝国大学を始め各私立の大学銀行集会所若くは商業会議所、其他大阪・京都・神戸の各所に於て講演をされて、更に満洲・朝鮮の旅行をして、此月十日に帰国されたと云ふ順序であります、私が特に其世話を致したと云ふのは、此交換教授の取扱ひは、単に民間ばかりで世話するのではありませぬけれども亜米利加に関係の深い人々が一の団体を組織して、其団体に於て教師の来往を送迎し、且つ多少の世話を致すに依て、到着以来始終接触致して、種々なる世話を致して居りましたから、博士も、私の労を多とした様子であつて、帰国の前に一日特に話したいと云ふて、兜町の宅へ参られて、差向ひにて(通訳は勿論這入つて居りましたが)、色々の談話をした、其話の顛末である、博士は朝鮮・満洲の旅行を大変喜んで――最初は此旅行を予期せなんだのであるが、兎角亜米利加人が朝鮮・満洲に付て不満を訴へる、外国人と日本人と特殊の待遇をすると云ふ誤解を持つものですから、故に至公至平の博士の如き人に能く実況を見させた方が宜からうと云ふ考から、満洲旅行をも勧めた、それで其旅行を終つて帰つてから、いざ帰国すると云ふ時に、特に会見を求めて来られて、彼れの言ふた概要は、第一満韓の旅行は、別して自己を利益したやうであるが、全体に於て殆ど半年間、各学校又は官辺若くは実業家・学者等の種々なる方面から、款待を受けて、温いお世話を戴いたから、其点に付ても、感謝に堪へぬけれども、是は先づ普通のことであるから、それが忝ないと云ふて唯謝意を述べるに止めずに、失礼ながら貴下は日本に於ては老人中で、特に国を愛し君に忠なる人と深く信じて居る、又今度の私の旅行に付ては、容易ならぬお世話を下すつた人であるから、自分の衷情を忌憚なくお話して置く、或は置土産になるであらうと思ふ、そこで満韓の旅行に付て、従来米国人のいふ処は、兎角日本人にのみ便利を与へ欧米人には不親切であると云ふが、それは誤解であると云ふことを、私は十分理解した、満洲に於ける経営には、見る目に依つて多少不公平といふ感触を与へることもあるやうに思ふが、是等は殊に注意ありたい、例へば亜米利加人が頻りに苦情を云ふて居つたから、能く聴いて見ると、其苦情の事実は甚だ乏しい、大豆の買入方が日本人には便利であるけれども、海外の人には不便であるとて、頻りに愚痴を言ふて居つたが、能く聴いて見ると、日本の人は満洲の大豆を農家に就て買ふ、亜米利加の人は市場に持つて来たのを買ふ、そこで日本人が先に買入れるものだから亜米利加人の方が苦情をいふ。畢竟日本人の方が勉強なのである、亜米利加人の方が殿様商ひをするから不便を感じて、終に不平を言ふやうになる、決して内外人に依つて取扱に差等のある訳ではない、是等の点に付ては、能う外国人に解らせるやうにしたならば、機会均等の主義に背くなど云ふ苦情は追々に消滅して行くであらう、朝鮮に於ては宗教問題に多少の面倒はあるけれども、是も能く質して見ると、強ち宗教家が悉く適当で、政治が悪かつたとも言へぬやうである、――此点に付ては私の関係の少ないことであつたから、余り叮嚀の説はなかつた、唯私の朝鮮に対する事業発達に付ては、今日寺内総督の主張する会社令を廃さなければいかぬと云ふことは、メービー氏も同感で
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他の事柄に付ては能う運んで居るけれども、自分の眼から見れば実業の発達を企図するならば、会社組織を、もう少し寛大にせねばなるまい、其点に付ては渋沢の主張は尤もだと云ふて同情を表された、併し施政の大分は決して宜しきを失つては居らぬ、好い工合にやつて居らるゝと或はお世辞かも知れぬが、満韓に対しては概して讚辞を呈された。
 それから吾々国民性の全体に付てどう云ふ評語があつたかと云ふとメービー氏の言ふには、私は初めて貴国に来たのだから、総てのものが珍らしく感じた、如何にも新進の国と見受け得る所は、上級の人も下層の人も、総て勉強して居ると云ふことは、著しく眼に着く、惰けて居る者が甚だ少ない、而して其勉強が、さも希望を持ちつゝ愉快に勉強するやうに見受けられる、希望を持つといふは、何処までも到達せしむると云ふ敢為の気象が尽く備つて居る、殆んど総ての人が喜びを以て、彼岸に達すると云ふ念慮を持つて居られるやうに見受けるのは、更に進むべき資質を持つた国民と申上げて宜からうと思ふ、それらは善い方を賞讚し上げるけれども、唯善いことのみを申して、悪い批評を言はねば、或は諛言を呈する嫌がありますから、極く腹蔵のない所を無遠慮に申すとて、私の接触したのが官辺とか会社とか又は学校などであつたから、余計にさう云ふことが眼に着いたのかも知れぬけれども、兎角形式を重んずると云ふ弊があつて、事実よりは形式に重きを置くと云ふことが強く見える、亜米利加は最も形式を搆はぬ流儀であるから、其眼から特に際立つて見えるのかも知れぬけれども、少しく形式に拘泥する弊害が強くなつて居りはせぬか、一体の国民性がそれであるとすれば、是れは余程御注意せねばならぬことゝ思ふ、又何処の国でも、同じ説が一般に伝はると云ふ訳にはいかぬ、一人が右と云へば一人は左と云ふ、進歩党があれば保守党がある、政党でも時として相反目するものが生ずるけれども、それが欧羅巴或は亜米利加であれば、余程淡泊で且つ高尚だ、然るに日本のは淡泊でもなければ高尚でもない、悪く申すと甚だ下品で且つ執拗である、何でもない事柄までも、極く口穢く言ひ募るやうに見える、是は自分の見た時節の悪かつた為に、政治界に於て、殊にさう云ふ現象が見えたのでありませう、――而して彼は之を解釈して、日本は封建制度が長く継続して、小さい藩々まで相反目して、右が強くなれば、左から打倒さうとする、左が盛になれば右が攻撃する、之が終に習慣性となつたであらうと、彼はさうまでは言ひませぬけれども、元亀・天正以来の有様が遂に三百諸侯となつたのだから、相凌ぎ相悪むと云ふ弊が兎角に残つて居つて、温和の性質が乏しいのではないか、之が段々長じて行くと勢ひ党派の軋轢が激しくなりはしないかといふ意味であつた、――私も此の封建制度の余弊と云ふことは或は然らんと思ふ、既に近い例が水戸などが大人物の出た藩でありながら、却て其為に軋轢を生じて衰微した、若し藤田東湖・戸田銀次郎の如き、或は会沢恒蔵の如き、又其藩主に烈公の如き偉人が無かつたならば、斯ばかり争もなく衰微もせなんだであらう、と論ぜねばならぬから、私はメービー氏の説に大に耳を傾けたのであります、それから又、我が国民性の感情の強いと
 - 第42巻 p.434 -ページ画像 
云ふことに付ても、余り讚辞を呈さなかつた、日本人は細事にも忽ちに激する、而して又直ちに忘れる、詰り感情が急激であつて、反対に又健忘症である、是は一等国だ、大国民だと自慢なさる人柄としては頗る不適当である、もう少し勘忍の心を持つやうに修養せねば往けますまい、と云ふ意味であつた、更に畏多いことでありますけれども、国体論にまで立入て、彼れは其の忠言を進めて、実に日本は聞きしに勝つたる忠君の心の深きことは、亜米利加人などには迚も夢想も出来ない、お羨しいことゝ敬服する、斯る国は決して他に看ることは出来ぬでありませう、予てさう思つては居つたが、実地を目撃して真に感佩に堪へぬ、さりながら私をして無遠慮に言はしむるならば、此有様を永久に持続するには、将来君権をして成るべく民政に接触せしめぬやうにするのが肝要ではあるまいかと申されました、是等は吾々が其当否を言ふべきことではございませぬ、併し此抽象的の評言は一概に斥くべきものでもなからうと思ひますので、如何にも親切のお言葉は私だけに承つたと斯う答へて置きました、此他にも尚ほ談話の廉々はありましたが、最終に、其滞在中の優遇を謝して、此半年の間真率に自分の思ふことを述べて、各学校で学生若くは其他の人々に親切にせられたことを深く喜ぶ、目下日米の間に面白からぬことのあるのを深く遺憾としますけれども、私が今此処で、弁解をした所で日本人に喜ばれもしますまいし、又それには相当の解決法もあらうと思ひます、私も其解決に付ては屡々本国に電報も打ちました、帰国しましたら、亜米利加の人に届くだけの融和を勉めますと云ふて別れたのでございます、是は特に取り立てゝ御話する程のことではありませぬ、亜米利加の学者の一人が、日本を斯く観察したからと云ふて、それが大に我国を益するものでもなからうけれども、前にも申す如く、公平なる外国人の批評に鑑みて、能くこれに注意し、所謂大国民たる襟度を進めて行かねばならぬ、さう云ふ批評によりて、段々に反省して終に真正なる大国民となる、それと反対に困つた人民だ、斯かる不都合があると云ふ批評が重なれば、人が交際せぬ、相手にならぬと云ふことになるかも知れぬ、されば一人の評語がどうでも宜いと云ふては居られぬ恰も君子の道は妄語せざるより始まると、司馬温公が誡められた如くに、苟めにも無意識に妄語を発するやうになつたならば、君子として人に尊敬されるやうにならぬ、して見ると一回の行為が一生の毀誉を為すと同じやうに、一人の感想が一国の名声に関すると考へる、メービー氏の左様に感じて帰国したと云ふことは、些細なことであるけれども、やはり小事と見ぬ方が宜からうと思ふのです、是に付て考へて見ても、御互に平素飽迄刻苦精励して、今日までに進んだ国運をしてどうぞ弥増拡張させたいと思ふが、それに付て一言したいのは、近頃は、青年々々と云つて、青年説が大変に多い、青年が大事だ、青年に注意しなければならぬと云ふは私も同意するが、私は自分の位置から言ふと、青年も大事であるけれども、老年も亦大切であると思ふ、青年とばかり云ふて、老人はどうでも宜いと言ふのは考へ違ではないか曾て、他の会合の時にも申したが、自分は文明の老人たることを希望する、果たして自分が文明の老人か、野蛮の老人か、世評は如何であ
 - 第42巻 p.435 -ページ画像 
るか知らぬが、自分では文明の老人の積りである、諸君が見たら、或は野蛮の老人かも知れぬ、併し能く考察して見ると、私の青年の時分に比較して、青年の事務に就く年齢が頗る遅いと思ふ、例へば朝の日の出方が余程遅くなつて居る、さうして早く老衰して引込むと、其活動の時間が大層少くなつてしまふ、試に一人の学生が三十歳まで学問のために時を費すならば、少くも七十位までは働かねばならぬ、若し五十や五十五で老衰するとすれば、僅に二十年か二十五年しか働く時はない、但し非凡なる人は百年の仕事を十年の間に為るかも知れぬが多数の人に望むには、さう云う例外を以てする訳にはいかない、況や社会の事物が益々複雑して来る場合に於ておや、但し各種の学芸技術が追々進化して来ますから、幸に博士方の新発明で、年取つても一向に衰弱せぬとか、或は若い間にも満足なる智恵を持つといふやうな、馬車より自働車、自働車より飛行機で世界を狭くするやうに、人間の活動を今日よりも大に強めて、生児が直に用立つ人となつて、さうして死ぬまで活動すると云ふ工風が付けば是は何よりである、どうぞ田中館先生などに其御発明を願ひたいものであります、(笑)夫れまでの間は、年寄がやはり十分に働くことを心懸ける外なからうと思ふのです、而して文明の老人たるには、身体は縦令衰弱するとしても、精神が衰弱せぬやうにしたい、精神を弱らせぬやうにするは学問に依る外はない、常に学問を進めて時代に後れぬ人であつたならば、私は何時までも精神に老衰と云ふことはなからうと思ふ、是故に私は肉塊の存在たるは人として甚だ嫌ふのである、身体の世に在る限りはどうぞ精神をも存在せしめたいと思ひます、文明の老人たることは、私の平素これを庶幾して居る事ですから、此席には私程の老人は見えぬけれども、さりとて又青年ばかりでもないから、斯う申上げますことが、年取つた人のお為めにもならうかと思ひます、どうぞ唯青年々々とばかり言ふて、老人はどうでも宜いと、言つて戴きたくないと思ひます(拍手)


中外商業新報 第九七二七号 大正二年五月二六日 ○竜門社総集会(DK420090k-0004)
第42巻 p.435-436 ページ画像

中外商業新報  第九七二七号 大正二年五月二六日
    ○竜門社総集会
二十五日午後一時より、王子飛鳥山なる曖依村荘に於て、竜門社第四十九回総会を開く、劈頭社務及会計に関する報告ありたる後ち、講演会に移り、高橋博士は「北米加州問題」の題下に所謂加州問題の経過を絮説し、進んで本問題の解釈法に論及して、本問題解釈の管鍵は帰化権の獲得に在り、と断定し、更に実例を挙げて、帰化権の獲得は米国法律の改正を須ゐずとも、条約の改締により目的を遂行し得べきを立証し、理論は当に爾あるべけれど、条約改締は樽爼折衝上の実際問題なれば、学究の我等が容喙すべき限りにあらずと結び、暗に当局の外交的手腕を懸念せり、次に田中館博士登壇「飛行機に就て」極めて通俗的に、飛行機に関する概説を演述したる後ち、飛行機の研究は其主力を安定に向て進めざるべからず、飛行機の安定は操縦術によりて蔽はるゝが故に、其の測定最も困難なり、最近の統計の示す所に拠れば、飛行機の危険率は(一)機関構造の不完全に基づく者二十九パー
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セント(二)操縦術の拙劣に基づくもの二十パーセント(三)高空気象測候の不完全に基く者二十六パーセント(四)見物人の妨害に基く者二十五パーセントなり云々と述べ、終つて最後に、会長渋沢男爵はメービー博士の置土産とも云ふべき同博士の日本人観を披露して、会員諸氏の反省を促せり、畢て園遊会に移り、緑蔭を択びて作られたる模擬店は黄昏まで繁昌し、余興細川風谷の講談亦賑へり