デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.448-460(DK420092k) ページ画像

大正3年4月3日(1914年)

是ヨリ先、三月十九日、当社評議員会、築地精養軒ニ於テ開カレ、栄一出席ス。次イデ是日、当社
 - 第42巻 p.449 -ページ画像 
第五十一回春季総集会、目黒ノ大日本麦酒株式会社庭園ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三一一号・第七五―七六頁大正三年四月 ○竜門社評議員会(DK420092k-0001)
第42巻 p.449 ページ画像

竜門雑誌  第三一一号・第七五―七六頁大正三年四月
○竜門社評議員会 本社に於ては、三月十九日午後五時より、築地精養軒に於て第十四回評議員会を開きたり。評議員会長阪谷男爵会長席に着き、幹事八十島親徳君、先づ大正二年度の社務及会計の報告を為して承認を得、次に入社希望者諾否の件に移りて、別項記載の如く承認を与へ、次いで第五十一回春季総集会は、四月三日午前九時より、目黒大日本麦酒会社庭園に於て開催の件を可決し、是れにて評議員会の議事を終り、晩餐後、青淵先生の社会道徳に関する痛切なる説話あり、之を話題に種々の談話ありて、散会したるは十一時頃なりき、当夜の出席者は左の如し
 青淵先生
 評議員
  阪谷男爵     石井健吾君
  井上公二君    星野錫君
  堀越喜重郎君   尾高次郎君
  高松豊吉君    田中栄八郎君
  植村澄三郎君   八十島親徳君
  郷隆三郎君    明石照男君
  佐々木勇之助君  佐々木清麿君
  渋沢義一君    諸井恒平君
 前評議員
  服部金太郎君   山口荘吉君
  渋沢元治君    清水釘吉君
  清水一雄君    桃井可雄君
 外に
  増田明六君    矢野由次郎君


竜門雑誌 第三一一号・第七二―七五頁大正三年四月 ○竜門社春季総集会(DK420092k-0002)
第42巻 p.449-453 ページ画像

竜門雑誌  第三一一号・第七二―七五頁大正三年四月
    ○竜門社春季総集会
竜門社第五十一回春季総集会は、四月三日の佳節を卜し、同日午前九時より、目黒大日本麦酒株式会社庭園に於て開かれたり、生憎朔風吹荒みて花寒く、天曇りて鳥の音寂しき日柄なりしに拘らず、来会者約四百名に及べり。軈て総集会を開かれ、評議員会長阪谷男爵の開会の辞に次いで、幹事八十島親徳君登壇、前年度の社務及び会計報告を為して、満場の承認を得、次いで講演会に移り、本社評議員堀越喜重郎君(露国経済事情)外務書記官埴原正直君(墨国視察談)の演説あり最後に青淵先生の講演あり、是れにて会を閉ぢて園遊会に移れり、各種の摸擬店、殊に燗酒露店の賑ひ一方ならず、又此方の余興場には永田錦心の薩摩琵琶、丸井亀次郎一座の太神楽あり、各自歓を尽して午後四時前後皆帰途に就きたり。
  △社務及会計報告(大正二年度)
 - 第42巻 p.450 -ページ画像 
社則第二十一条に依り八十島幹事が報告したる前年度の社務及会計の要領は左の如し。
    社務報告
△会員
 入社  (特別会員 七 通常会員 十七}        合計二十四名
 退社  (特別会員 三 通常会員 十一}        合計十四名
 現在会員(名誉会員 一特別会員 三六五 時常会員四七〇}合計八百三十六名
△現在役員
 評議員会長          一名
 評議員(会長幹事共)    十九名
 幹事             二名
△集会
 総集会            二回
 評議員会           一回
△雑誌発行部数
 毎月一回       約九百五十部
 年計         壱万千四百部
    会計報告
      収支計算
        収入の部
一金弐千八百五拾四円六拾銭      配当金及利息
一金壱千八百拾壱円弐拾銭       会費
一金壱千弐百弐拾五円         寄附金
一金四円八拾銭            雑収入
 合計五千八百九拾五円六拾銭
        支出の部
一金壱千九百弐拾壱円四拾参銭     集会費
一金八百弐拾九円七拾五銭       印刷費
一金七百参拾八円七拾六銭       報酬・郵税・雑費
 合計 参千四百八拾九円九拾四銭
  差引残金弐千四百五円六拾六銭   収入超過高
    但積立金に編入す
      貸借対照表
        貸方の部
一金参万六千七百五拾円        基本金
一金壱万七百四拾四円六拾四銭     積立金
一金壱千円              借用金
 合計 四万八千四百九拾四円六拾四銭
        借方の部
一金四万六千弐百八拾八円拾五銭    株券
一金八百九拾七円弐拾五銭       公債
一金弐百八拾八円弐拾壱銭       仮払金
 - 第42巻 p.451 -ページ画像 
一金参拾参円拾銭           什器
一金九百八拾参円六拾銭        銀行預金
一金四円参拾参銭           現金
 合計 金四万八千四百九拾四円六拾四銭
玆に当日会費中へ金品を寄贈せられたる各位の芳名を録して、謹んで厚意を謝す
 一金参百円                      青淵先生
 一金五拾円                      第一銀行
 一金参拾五円                     綱町渋沢家
 一金弐拾五円                     東京印刷株式会社
 一金弐拾円                      穂積陳重君
 一金弐拾円                      男爵阪谷芳郎君
 一金弐拾円                      神田鐳蔵君
 一金拾五円                      東洋生命保険株式会社
 一金拾円                       堀越善重郎君
 一金拾円                       田中栄八郎君
 一金拾円                       郷隆三郎君
 一金拾円                       朝鮮興業株式会社
 一金五円                       星野錫君
 一金五円                       尾高幸五郎君
 一シトロン 八打 タンサン水 八打 ラズベリー弐拾打 植村澄三郎君
 一生ビール百六拾リーター               大日本麦酒株式会社
△来会者氏名
一、名誉会員
 青淵先生
一、来賓
 埴原正直君
一、特別会員
 一森筧清君    伊藤新作君    伊藤祐穀君
 萩原久徴君    萩原源太郎君   原田貞之介君
 原胤昭君     服部金太郎君   二宮行雄君
 西田敬止君    西谷常太郎君   西村道彦君
 堀越善重郎君   堀江伝三郎君   鳥羽幸太郎君
 利倉久吉君    土肥修策君    土岐僙君
 沼間敏朗君    大川平三郎君   岡本銺太郎君
 沖馬吉君     尾高幸五郎君   大倉喜三郎君
 大塚磐五郎君   渡辺嘉一君    脇田勇君
 神谷義雄君    神谷十松君    鹿島精一君
 吉岡新五郎君   横田清兵衛君   横山徳次郎君
 吉野浜吉君    滝沢吉三郎君   田中二郎君
 田中太郎君    田中忠義君    田中楳吉君
 高橋波太郎君   高松録太郎君   多賀義三郎君
 田中元三郎君   田中栄八郎君   曾和嘉一郎君
 早乙女昱太郎君  塘茂太郎君    坪谷善四郎君
 - 第42巻 p.452 -ページ画像 
 成瀬隆蔵君    長滝武司君    仲田慶三郎君
 中沢彦太郎君   南須原巻五郎君  村上豊作君
 村木善太郎君   棟居喜久馬君   内山吉五郎君
 植村澄三郎君   内海三貞君    野口弘毅君
 野口半之助君   野中真君     野口弥三君
 久万俊泰君    八十島親徳君   矢野由次郎君
 山中譲三君    山下亀三郎君   山口荘吉君
 矢木久太郎君   増田明六君    松本常三郎君
 松谷謐三郎君   前田青莎君    松平隼太郎君
 古橋久三君    小橋宗之助君   河野正次郎君
 吉田正彦君    手塚猛昌君    明石照男君
 浅野総一郎君   男爵阪谷芳郎君  佐々木慎思郎君
 佐々木勇之助君  佐々木清麿君   佐藤正美君
 斎藤章達君    斎藤峰三郎君   西条峰三郎君
 木下英太郎君   木村雄次君    三好海三郎君
 白岩竜平君    芝崎確次郎君   清水釘吉君
 清水一雄君    渋沢義一君    渋沢元治君
 清水百太郎君   平岡利三郎君   平田初熊君
 弘岡幸作君    桃井可雄君    諸井恒平君
 関屋祐之助君   鈴木清蔵君    鈴木善助君
一、通常会員
 石井健策君    石井与四郎君   石田豊太郎君
 石田誠一君    井田善之助君   井出轍夫君
 市石桂城君    伊知地剛君    猪飼正雄君
 伊藤美太郎君   板野吉太郎君   林武平君
 原久治君     速水篤太郎君   長谷川謙三君
 秦虎四郎君    馬場録二君    橋爪新八郎君
 早川素彦君    長谷井千代松君  西尾豊君
 西正名君     堀家照躬君    友野茂三郎君
 東郷一気君    富田善作君    千葉重太郎君
 大井幾太郎君   太田資順君    小田島時之助君
 岡原重蔵君    岡本治弥太君   奥川蔵太郎君
 大平宗蔵君    大木竹次君    岡本謙一郎君
 大友幸助君    小原富佐吉君   大野富蔵君
 和田勝太郎君   片岡隆起君    上篠憲三君
 河野通吉君    河野間瀬治君   河崎覚太郎君
 川口一君     金沢弘君     金沢求也君
 笠間広蔵君    神谷新吾君    兼子保蔵君
 加藤雄良君    鹿沼良三君    吉岡鉱太郎君
 吉岡仁助君    横尾芳次郎君   竹島憲君
 武沢与四郎君   竹内一太郎君   田中七五郎君
 田中一造君    高山仲助君    田島昌次君
 田村叙郷君    俵田勝彦君    高橋耕三郎君
 高橋森蔵君    高橋毅君     竹内玄君
 - 第42巻 p.453 -ページ画像 
 武笠政右衛門君  武沢顕次郎君   玉江素義君
 竹下虎之助君   只木進君     田子与作君
 田川季彦君    蔦岡正雄君    塚本孝二郎君
 辻友親君     根岸綱吉君    中村敬三君

 中西万次郎君   滑川庄次郎君   内藤種太郎君
 永田市左衛門君  武藤忠義君    村松秀太郎君
 村田五郎君    生方祐之君    梅田直三君
 鵜沢真利君    梅津信夫君    上田彦次郎君
 内尾直二君    浦田治雄君    梅村正太郎君
 宇野武君     上野政雄君    野村修三郎君
 野村揚君     野村喜一君    久保幾次郎君
 栗田金太郎君   熊沢秀太郎君   桑山与三男君
 山本一郎君    山田仙三君    山口虎之助君
 山村米次郎君   山本鶴松君    山崎栄之助君
 安田久之助君   柳熊吉君     安井千吉君
 八木仙吉君    松村繁太郎君   松岡忠雄君
 松井方利君    松村修一郎君   松田兼吉君
 福島元朗君    福本寛君     福田盛作君
 古田元清君    藤浦富太郎君   藤木男梢君
 福島三郎四郎君  小林森樹君    小林梅太郎君
 小林武彦君    小森豊参君    小林茂一郎君
 小島順三郎君   小島鍵三郎君   近藤良顕君
 小林武之助君   江山章次君    江間万里君
 遠藤正朝君    江口百太郎君   青木直治君
 赤木淳一郎君   青田敏君     相沢才吉君
 綾部喜作君    秋元孝治君    荒川虎雄君
 阿南次郎君    粟生寿一郎君   桜井武夫君
 斎田銓之助君   沢田留三郎君   木村益之助君
 木村弘蔵君    木村金太郎君   北脇友吉君
 岸本良二君    津川益太郎君   三上初太郎君
 箕輪剛君     御崎教一君    宮下恒君
 新庄正男君    東海林吉次君   柴田房吉君
 下条悌三郎君   篠塚宗吉君    塩川誠一郎君
 渋沢武之助君   白石喜太郎君   渋沢長康君
 平岡五郎君    久本順造君    広瀬市太郎君
 森谷松蔵君    森田次郎君    関口児玉之助君
 鈴木房明君    鈴木旭君     鈴木順一君
 鈴木富次郎君   須田武雄君    椙山貞一君
 鈴木勝君     鈴木豊吉君


竜門雑誌 第三一三号・第一一―二〇頁大正三年六月 ○竜門社春季総集会に於て 青淵先生(DK420092k-0003)
第42巻 p.453-460 ページ画像

竜門雑誌  第三一三号・第一一―二〇頁大正三年六月
    ○竜門社春季総集会に於て
                      青淵先生
 本篇は、四月三日、大日本麦酒会社目黒庭園に於て開会せる本社第
 - 第42巻 p.454 -ページ画像 
五十一回春季総集会講演会に於ける青淵先生の講演速記にして、青淵先生が五月四日、上海航行中地洋丸船室に於て閲覧修正を加へられたるものなり(編者識)
生憎く悪い日和の総会でございまして、諸君の御会合に嘸御困難でございませう、大分時も遷りましたから、例に依て私も一言を述べまするが、極めて簡単にして御免を蒙ります。
前席に堀越君より、露西亜の近況を拝聴致しました、戦争後の露西亜の経済状況が、今堀越君の御述べになつた如き有様であるといふことは、吾々未だ其事実を詳かにせぬので、大に注意を惹起すことゝ思ひます、明治四十年頃に、日露の間に一の経済機関を造つたら宜からうと彼の国人も企望せられ、日本に於ても其説を為す人があつて、貿易会社を組織するといふので、故下村房次郎氏が非常に尽力せられ、私もそれに賛同して、将に成るに垂んとしましたけれども、何分事情を詳にせず組織して見てもどういふ事になるか分りませぬから、遂に資本の募集も出来得ず、到頭成るに至らずして止みました、殊に露国に於ける主唱者のメンコスキーといふ人が、大分有力者のやうに評判されて居りましたが、後日に至つて聞いて見ると、それ程の人でもなかつた、亦日本に於て心配した人も、経済界に十分なる信用を持つとまで行かなかつたから、其組立が出来得なかつたのを今も尚遺憾として居ります、今堀越君が戦争以後国運の衰へたのは西班牙の如き例があるけれども、反対に戦争に負けても国が進んだ露西亜の如きは異つた例であると言はれた、果して然らば実に異つた例であつて、私が明治三十七年の冬、日露戦争の際に於て、公債募集に就て歌舞伎座で政談的演説を為して、頻に当時の公債募集の気勢を加へやうと努めたことがあります、其時には戦争と公債といふことを問題として演説しました、其前に露西亜のグルームといふ人が、戦争と経済といふ問題に依て論じたる一の著書がありました、其著書に依ると、国の進歩が増す程戦争が困難になつて来る、換言すれば文明が増す程戦争に金が余計要る、露西亜は未ださういふ国柄でないから、戦争をするには比較的宜い国だ、英吉利などは戦争の出来ぬ国だ、戦争をすれば国民が大変に困難をするから、国民全体が挙て戦争を嫌がる、農業ばかりの国は戦争に堪へ易い、商工主義の国は反対である、之を動物に譬へれば、或る種類の動物は空気がなくても暫らくの間は其生活を保つが、之に反し少しの間でも空気がなければ生活が止るといふ如くに、戦争に依て早く弱る国と、左まで弱らない国との差別があるといふことを詳論し、又攻勢守勢の差別を説き、攻勢といふものは守勢よりも余程主力を増さねばならぬものである、少くとも三倍以上の力がなければ、攻勢は取れぬといふやうな事が書いてあつたと覚えて居ります、私は其著書を見て、それに付ての駁論ではなかつたけれども、戦争に依て国が衰へ或は進むことのあるのは、戦争後其国民の心の用ゐ方に依ることは勿論だけれども、私の判断は義戦と不義戦とである、若し正理公道に適うた義戦であるならば、其戦争後は必ず国運が隆盛に進むに相違ない、之に反して奪略を事とするとか、詐偽譎許を以て、他の国を侵害しやうとかいふやうなことであるならば、其国は戦争後に頽廃衰
 - 第42巻 p.455 -ページ画像 
微する、日清戦争も日本は義戦であつた、故に其後十年間に我国運は進歩したのであるから、是から先も進歩するに相違ない、現に日露の戦争に当りて、公債を発行するのも同様である、故に此公債を引受けても必ず儲かるに違ひないといふて、頻に公債募集の気勢を加へたことがあります、堀越君の今の御説が事実であるとすれば、私が先年歌舞伎座で論じた事が当らぬやうになります、併し十年以前の過去の事であるから構はぬと、当世風の無責任の言論ならば何でもありませぬけれども、今日露西亜の富が増す、国運が進むといふのは、或は其戦争が義戦であつたかも知れぬ、又義戦で無くても爾後の人民が善良なれば国力が進むのではないか、此辺を篤と攻究したいものと思ふのであります、私は日露戦争の当時に於て、向後十年経つたなら国運が進歩するのであらうと、既往の日清戦争の例を引いて論じて置いたが、其以後日本の国運は、或る部分は進んだけれども或る部分は進み得ぬで、種々の議論が世間に唱道されて居りますから、自分ながら歌舞伎座で演説した事が、聖人復た起るも吾言を易へずとも言ひ得ぬやうな懸念を起したのであります、結局道理はさうであるけれども、其時の国民の仕方が悪いといふ事も言得られますから、私が曩に演説したことが間違つたのでは無くて、人のやり方が悪いのである、如何に良い道理でも、仕方によりては道理で通らぬこともありますから、其時の私の演説は我れ誤てりとは申さぬ積りであります、今堀越君の御演説に付て昔を思ひ出しましたので、一言申添へて置きます、露西亜に対する商業は、現に横浜の原君が生糸貿易に付て力を尽して居られる、其他直接に事業を経営されるお人も多少あるやうですが、取立てゝ云ふ程の事のないのは洵に残念千万です、必ず国家的といふ程のものでなくても、瑣少にても貿易の途が開けたならば、彼の国情をも詳にし同時に国交上の親善も増す様にならうと思ふので、是非さういふ機会があつたら進めたいことゝ思ふのでありますから、竜門社の諸君は他にさういふ機会が来つたならば、どうぞ其機会を取遁さぬやうにお骨折を願ひたい、蓋し堀越君が露西亜の経済状況を御紹介下されたのは唯単に露西亜が駸々として進むといふことを、無意味にお話になつたのではなからうと存じますから、其心得でお聴取を願ひたい。
第二に埴原君の墨西哥に関する御演説を拝聴致しまして、諸君と共に深く感謝致します、而も私は、今目前に於て其考案を持つて居るのです、諸君も御承知の通り、先日墨西哥からデラバラといふ人が日本への答礼大使として来られた、蓋し墨西哥といふ国は、三百年前支倉六右衛門が西班牙に行かれる時に、彼処に逗留したといふ事しか知らない程で、私が五十年前仏蘭西に滞在した時に、仏帝ナポレオン三世がマキシミリアンを墨西哥の皇帝に推して、墨西哥を治めむとしたといふことは聞いて居りましたが、今埴原君からマキシミリアンといふことを言はれたので、思ひ出した位の古い話であります、それ故に墨西哥といふ国は、世界の何処にあるか、私は地図に暗いが、縦し地図に明るい人でも、それ程には思はなかつたであらう、然るに近頃亜米利加との関係からして、甚しきは政治的に、一体加州の人が日本を嫌ふ其反対に墨西哥人は日本に好意を持つて居るから、墨西哥に行つたな
 - 第42巻 p.456 -ページ画像 
らば、日本人の勢力を彼処に扶植することが出来るであらう、又一方には面憎い、加州の人に是れ見よがしにやつたが宜いといふ説を為す者もあります、私は左様なる面当てとか、一時の感情とかいふ事で、国際関係を処することは宜しくないと考へます、国交上はさういふ狭い思案はせぬがよい、道理が無いならば何処までも譲るが宜し、又正理であるならば如何に向ふが強くても負けてはならぬ、所謂「自反而縮雖千万人吾往矣」といふ勇気が肝要である、己れが善いか悪いかといふことを第一に考へなければならぬ、己れが善いと思ふたならば、何処までも主張を達し得るやうに心掛けたいものであります、故に国際上の事は、政治上でも経済上でも、一時の張合とか、或は先方が斯う出れば此方は斯うするといふ風に、術数的の挙動は努めて避けるが宜いと考へます、私は墨西哥に対する意見は、政治家者流とは全く違ふのですが、唯追々に国運の進むに随つて人口が増す、此増すところの人を何処かに移殖するといふことを努めねばならぬのである、それは加州であらうとも、又は満韓に向はうとも、或は南米にしやうとも何れにても然るべき途を講じなければならぬ、墨西哥は相当な地味でもあり、殊に鉱物には望を嘱すべきものが多いといふことを承知しましたから、それでデラバラ大使が来ましたに付て、日本から人を派遣しては如何であらうかと考へて居るのであります、独り私のみが望んで居るといふ訳ではありませぬ、東京商業会議所の会頭中野武営君と共に、デラバラ氏に相談して見ましたところが、大使は本国に聞合せて見て十分御迎へするであらうといふことでありました、爾来未だ其運びを付けませぬけれど、斯る機会に実地御調べになりました埴原君によりて、農業に工業に鉱山に又は政治上の沿革等を詳しく御話し下さいましたのは、私に於ては別して有難く思ひます、諸君も定めて墨西哥の事情が能く御分りになつたらうと存じます。前に申述べた私の考は、果して成立するや否や、又それを紹介して見ましたところが、それが一の事業として生れ出るかどうかも予め申上げ得られませぬけれども、是は何も内々で調査して、戦争に際して鉄砲を売り奇利を得やうといふ様なる、火事場泥棒的の行為ではございませぬから、斯る機会に明瞭に御話して置いても差支ないと思ふのであります、埴原・堀越両君の御演説に対しては、別して興味を持つて拝聴しましたから竜門社員諸君と共に厚く謝意を表します、而して両君の御演説は皆物質的の事にて将来追々進歩すべきお話であります、私が玆にお話しやうと思ふのは、左様な物質的の話ではなく、極めて古風の事を申すやうでありますが、所謂形而下でなくして形而上の事に付て、平素の愚考を述べて見やうと思ふのであります、去りながら兎角形而上の話は大変に長くなつて且つ面白くありませぬから、此処では先づ私が斯ういふ話をしやうといふ題目だけを申して置きまして、他日此事に付て聊か攻究して見て自身が申上げますか、又は他人に依て実現せしむるやうにするか、何れかの方法を以て更に詳悉する時機があらうと考へます、又此事は左様に急ぐ事でもありませぬから、どうぞ諸君にも寄書に此問題を御研究あるやうに致したいのです、形而上の話とは、どういふ事かと申しますと、維新以降玆に五十年、単に形而下の事が進
 - 第42巻 p.457 -ページ画像 
んで来た、所謂科学の発達、物質の進歩と智育のみで徳育が足らぬ、技巧の事には智恵が進んで来た、力も増して居るけれども、国民の霊心的観念が甚だ乏しい、西洋啓学は種々あるけれども、古風の武士道とか、大和魂とか、又は孔孟の仁義道徳といふものに至つては、段々薄くなる様である、殊に敦厚質実といふ美風は、地を払ふて各自に信念といふものがないやうである。宗教なども論理が広遠になる程信条を保つといふ観念が薄くなる、是は智恵の進むに随つて誰も彼も言論上の説明は出来るやうであるが如何なる覚悟を以つて居るかと問へば皆無である、総じて己れさへ良ければ宜いと云ふ気風が、日に増して来る、斯の如く進み行くならば、終には親もなければ君もないといふやうにならぬとも限らぬ、是は老人の杞憂でありませうが、孟子の所謂「上下交征利而国危矣」万乗の国其君を弑する者は千乗の家、と結局奪はずんば饜かずといふ事がないと申されない、単に老人の杞憂とのみでなく、現に奪はずんば饜かずといふ的例が或る社会に実現して居る、表面で奪ふといふのも、内々で奪ふのも違ひがない、孟子が梁の恵王に問うて「殺人以挺与刃有以異乎」王対へて曰く「無以異也」然らば「以刃与政有以異乎」「王顧左右而言他」梁の恵王が大にやり込められて、今日は好天気とか何とか言つたのでせう(笑)既に隠微の間に奪はずんば饜かずをやつて居るのが、更に進んで公々然として奪はずんば饜かず、甚しきは埴原君の御演説にある如く、墨西哥のやうに政権を握つた人のみが富も得られるといふ事になる、恰も私の故郷に牛頭天王といふ御輿があつて、大勢出て其御輿を担いで、腕力ある人が勢を張つてこの方で威張つて居る、其次に更に力の強い人が出て、それを引倒して己れが代る、又其次に出て来る腕力家がそれに代る、是は御輿を担ぐのだから宜いが、今日の政治が御輿担のやうな有様になつては、洵に困つたことだと思ひます、暴言のやうに聞えますけれども、事態を憂ふる結果、遂に斯く申さなければならぬやうになる、諸君も同じく左様に感ずるだらうと思ひます、要するに此道理といふ一の信条を、十分締結する工風がなくてはならぬと思ふが、之に対して如何なる方法が必要であるかといふことは、私にも申上げ難いのです。
私は常に仁義道徳を以て信条として居る、此仁義道徳の趣旨を明瞭に訓示して居るのが、孔子教であると思ひます、故に私は孔子教に依て一身を守り、孔子教に依て安心立命を得て居る者であります、然るに此孔子教は信条といふ様なる宗教的形式はないやうである、唯是は善なる故に行ふ、人の践むべきものは道であるといふことになつて居つて、天神に信頼するといふことは少いやうである、之に反して仏教は全く仏に依頼するを以て教旨する様である、但し仏教とても、単に一念弥陀仏即滅無量罪といふのみではあるまい、斯くせねば仏の趣旨に悖る、所謂仏法と王法とを融合して説いてあるやうに見えますれども孔子教とは大分趣を異にして居ります、又近頃私が学びつゝあるところの耶蘇教、即ち「イエス・キリスト」の千九百年前に立てたる教旨も、孔子教とは違ふやうであります、それで私は此三つのものを綿密に研究して見たら、面白い事と思ふのであります、先年福地源一郎即
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ち桜痴居士が、孔夫子といふ小冊子を著作し、孔子を分析したと云つて一場の講義をしたことがあります、蓋し福地は完全な経学者ではなかつたけれども、其親が十分に経書を修めた人でありますから、氏も相当に漢籍に通じて居つた、所謂四書五経の九経であるとか、又は十三経であるとか一当り読み了つた人であつた、殊に欧羅巴の学問も修めて居られ仏教も俗に謂ふ噛つた位であつたと見えまして、孔夫子といふ問題に釈迦を加へ、即ち孔子と釈迦とを比較して一の意見を発表しました、其書冊が何処にありますか分りませぬが、私は当時其講演を聴いたので覚えて居るだけであります、依りて私は更に此基督を加へて、三方を十分に攻究して見たいと思ふのであります、自分は論語が好きで読んで居ります、近頃児孫を十数人集めて、月に二回づゝ宇野哲人君にお願ひして、論語の講義を聴いて居ります、唯月に二回位では、折角新しい解釈を聴くと、其前の事は忘れてしまつて完全に覚えて居らぬといふ嫌はありますけれども、唯今第十一の先進篇まで進んで居ります、論語は諸君御承知の通り廿篇に分れて居ります、又一方に新約全書も研究する為め、四福音書を読んで居ります、馬可伝・馬太伝・路加伝・約翰伝・使徒行伝・達羅馬人書・達哥林多人前書・後書等も一通りは読んで見ました、故に耶蘇教の趣味も孔子教の趣味も少々づゝは理解して居るやうでありますが、一は聖人と云ひ、一は聖書と云つて、文字から云へば似て居るけれども、私が翫味した所では、大同にして大差ありと云つても宜い様に考へます。
孔子と耶蘇とを比較して見ますと、孔子は尋常人の偉大になつたのである、此席に居る諸君も孔子になることは出来る、夫程易いことではありませぬが、必しもなれぬことはない、孔子も若い時分には多少の過失はあつたに相違ない、段々修養して彼処に進んで行つたのだと云つて宜い、然らば孔子は一切物質的に解釈して居たかと云へば、決してさうでない、大に霊的観念を持つて居た、論語に天を説いて居るのは其証拠である、併し尋常人の偉くなつたのであるといふは、玆に史記の世家に依て見ても、何等の奇蹟もない「孔子名丘。字仲尼。其先宋人。父叔梁紇。母顔氏。以魯襄公二十二年庚戌之歳十一月庚子生孔子於魯昌平郷陬邑。為児嬉戯常陳爼豆設礼容。及長為委吏料量平。」誠に平凡の人であります、唯魯の景公に仕へて「十二年癸卯使仲由為季民宰堕三都収其甲兵。孟氏不肯堕成囲之不克。十四年乙巳孔子年五十六摂行相事。誅少正卯。与聞国政三月魯国大治。斉人帰女楽以沮之季桓子受之。郊又不致膰爼於大夫孔子行。」孔子が魯の政を執つて魯国が大に治つた、然るに季桓子といふ人が大夫で勢力があつて政を専にし、孔子の言を聴かなかつたから、孔子が政を十分に行ふことが出来なかつたのである、福地氏の解釈も、孔子は六十七までは政治上に活動して、自分の理想とする仁義道徳を以て周の天下を回復をさせたいと思つた、其間に少正卯を誅するとか、魯侯と斉侯と夾谷に会はるるとかいふやうなことがあつて、聊か理想実現の場合があつたけれども、時の魯国の勢家が少し調子が良くなると、驕慢して十分に孔子を用ゐない、遂に魯国の政事が萎微振はぬといふことに成り、孔子も又自説の用ゐられざるを知つて罷めてしまつて、六十八歳の時から政治
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に望を絶つて、退いて詩書礼楽を修め、春秋を作るといふ様に、教育専門にしたのが、僅に五年で七十三歳で死なれた、勿論其前にも教育に勉強せられたから、教育上の遺蹟も少くない、故に孔子には私人公人といふ差別はないけれども、先づ六十七歳までは己れの為に働いたと云つて宜い、六十八から七十三までは伝道教育を以て人を導くことに努めたといふ、福地氏の解釈は間違つて居らぬかと思ひます、耶蘇は大に孔子と違つて居ります、聖書に依れば、但し此聖書のことはどうも敬服し難い節が多い、既に一昨夜も此事に就て海老名先生が私に説明して呉れて大に解りましたけれども、聖書には斯う書いてあります、アブラハムよりダビテに至るまで十四代、ヨセラとマリアの間にキリストが生れた、此生れたのは普通の有様で生れたのではない「ヨセフよ爾妻マリアを娶ることを懼るゝ勿れ、その孕める所の者は聖霊に由るなり、かれ子を生まん、其名をイエスと名くべし、蓋しその民の罪より救はんとすれば也」民の罪を救ふために、神がマリアの腹にイエスを胎らせたといふので、ヨセフの血に依て生れたものではないとしてある、さうするとアブラハムといふ先祖の血統でないから、アブラハムを玆に引合に出す必要がなくなる、全く天から落ちて来た様に見える、イエスが天から落ちて来た其前が千八百年もある、聖書を読む人が一方を信ずると一方は要らなくなつて来る、若し血統を論じて行くと、其血統たるヨセフとマリアとの間にイエスが出来たとして差支がなからうではないか、奇蹟を云ひたいために、斯ういふことにしたと外私には見えぬ、斯う疑ふと、此席の中に聖書を読み洗礼を受けた方がおゐでになつて、貴下が宗教を知らないで、左様なる邪推をしてはいかぬと言はれるかも知れませぬが、私は奇怪な事が嫌ひでありまして、一つの麺麭で五千人の饑を医したとか、手が触ると病が癒つたとかいふことは、信仰といふものが迷信になつてしまふ、迷信になると柳の木を拝んでも宜いといふことになる、是は今日の世の中ではいかぬことと思ふ。
然らば此神霊の事を全く取除けてしまつて、科学的に何もかも解決が出来るかと云へば、これは決して出来ない、既に孔子も「天之未喪斯文也匡人其如予何」といふてある、是は科学でも窮理学でも解決することは出来ぬ、空気を水にすることは出来るけれども、天といふものはどういふものだと精細に形に現はすことは出来ない、是は霊的観念であつて、孔子も棄てはせぬと思ふ、唯どの位の程度であつたかといふことになりますと、明瞭に論じ尽せぬやうに思ふ、想ふに、孔子の立てた教と其行つた事柄と、イエスや釈迦の伝道とを極く公平な眼を以て、鄭寧に比較研究して、斯く相違するといふ事を攻覈したならば大分面白くはないかと思ひます、曩に福地氏が孔夫子に対して、釈迦を加へて講演したことがありましたが、私は、更に耶蘇教の本体と耶蘇の性格と耶蘇の時代の思想を比較して、綿密に研究したいものと思ひます。
頃日海老名先生が耶蘇に就て斯ういふことを言つて居ります、私人としての耶蘇と公人としての耶蘇――私人としての耶蘇は誕生から三十年までの生涯である、それからバプテスマのヨハネから洗礼を受けて
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から、十字架の死にかゝるまでが、公人たる耶蘇の生涯である、さうすると耶蘇は三十三で死なれたから、前の三十年が私人で、後の三年が公人であつた、若し之を福地氏の、孔子は六十七までが己れが学んだ事を実地に行つて見やうと思つた人である、それから六十八から七十三の五年が布教的に人に教へたのである、と論じたものと対記すると、孔子と耶蘇と似て居る点があります、唯霊といふものに対する感じは、孔子と耶蘇と殆ど違ふやうに思ひます、孔子は天があるといふことは勿論了解して居りましたけれども、人格的には見て居らぬやうである、耶蘇は反対に神といふものが自己れの親だとして居るやうであります、是に至ると何分一致して居らぬやうであります、是等の差違を鄭寧に攻覈して見ましたならば、自然と帰一する事が出来るか、若し帰一せぬにしても世俗的に解り得るだけの説明が出来得られはせぬかと思ひます、私は此事を是非他日十分に研究して見て、諸君に向つて斯くまでに理解する所が出来たといふことを、お知せしたいと思ひます、蓋し此研究は如何なる必要ありやと云へば、之が明瞭になつたならば、自然と帰一して其処に大なる信仰が生ずるであろう、若し幸に其信仰が生じたならば、今日の奪はずんば饜かずの弊風を、此竜門社員だけにても矯正することが出来るだらうと思ふ、竜門社員だけが必ず此信条が守り得られたならば、世間に向つて之を拡張して世間の気風を改善することが出来るだらうと思ふのでございます、私は此希望を持つて居りますから、他日此事が幾分にても緒に就きましたらば、此処までに調べが付いたといふことをお話したいと、楽で居ります、今日は序開きに是だけ申述べて置きます。(拍手)