デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
1款 財団法人竜門社
■綱文

第42巻 p.484-497(DK420095k) ページ画像

大正4年5月23日(1915年)

是ヨリ先、是月十七日、当社評議員会、築地精養軒ニ於テ開カレ、栄一出席ス。次イデ是日、当社第五十三回春季総集会、飛鳥山邸ニ於テ開カル。栄一出席シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三二四号・第五七―五八頁 大正四年五月 ○竜門社評議員会(DK420095k-0001)
第42巻 p.484-485 ページ画像

竜門雑誌  第三二四号・第五七―五八頁 大正四年五月
    ○竜門社評議員会
本社に於ては、本月十七日午後五時より、築地精養軒に於て、第十六回評議員会を開きたり。評議員会長阪谷男爵会長席に着きて、開会を宣するや、幹事八十島親徳君は左記議案を順次提出して、承認を求めたり
      議案
 第一号 第五十三回春季総集会開催の件
  (一)時日  大正四年五月二十三日(日曜)午前十時
  (一)場所  飛鳥山渋沢邸
  (一)講演者 青淵先生―工学博士高松豊吉君―農商務省書記官鶴見左吉雄君
  (一)右の外当日の順序及細目は幹事に一任する事
 第二号 入社申込諾否の件
 第三号 大正三年度会計決算報告の件
 第四号 評議員半数改選、外に一名補欠選挙の件
      外に評議員の互選を以て幹事二名を定むる事
第一号・第二号・第三号議案は原案通り可決し、第四号評議員の半数改選、外に一名補欠選挙の件は青淵先生の指名を乞ふ事に決したり。
 - 第42巻 p.485 -ページ画像 
次に現評議員中「明治四十五年に選任せられたる評議員に限り其任期を五ケ年とし、大正六年に改選する事」を附議したるに、是れ又原案通り可決し、最後に八十島君の発議に係る「本社会員臨時集会の件」も亦た満場の賛同を得、是れにて議事を終りて閉会を告げ、直ちに別室に移り、此処には例に依り前評議員諸君をも加へて、晩餐会を催し食後更に談話室に於て農商務技師荘司市太郎氏の印度の商工業視察談ありて、散会したるは十一時過なりき。
当日の出席者諸君左の如し(○印は前評議員)
  青淵先生
  石井健吾君     井上公二君
  堀越善重郎君    植村澄三郎君
  日下義雄君     八十島親徳君
  男爵阪谷芳郎君  ○服部金太郎君
 ○山口荘吉君    ○清水一雄君
 ○清水釘吉君    ○佐々木慎思郎君
    外に
  竹山純平君     野口弘毅君
  増田明六君     白石喜太郎君
  矢野由次郎君
満期退任の評議員諸君左の如し
  石井健吾君     穂積陳重君
  星野錫君      尾高次郎君
  高根義人君     日下義雄君
  八十島親徳君    明石照男君
  佐々木清麿君    諸井恒平君
青淵先生の指名に依り新に評議員に選定せられたる諸君左の如し
  石井健吾君     星野錫君
  大川平三郎君    尾高次郎君
  上原豊吉君     山口荘吉君
  八十島親徳君    西園寺亀次郎君
  清水釘吉君     竹山純平君(補欠)
尚評議員の互選を以て左の二君は幹事に就任せられたり
  石井健吾君     八十島親徳君


渋沢栄一 日記 大正四年(DK420095k-0002)
第42巻 p.485-486 ページ画像

渋沢栄一日記  大正四年         (渋沢子爵家所蔵)
五月十七日 昨夜来降雨頻リナリシモ、朝来曇天多シ
○上略 六時築地精養軒ニ抵リ、竜門社評議員会ニ列ス、夜飧後、印度ノ商工業ニ関スル視察談アリ、農商務省技師実験ノ談話ニシテ、頗ル真摯ナリキ、畢テ雑話ヲ交換シ、夜十時過帰宿○下略
  ○中略。
五月廿三日 雨
○上略 十一時頃ヨリ竜門社総会ヲ開キ、来会者雨中ニ拘ラス続々着席ス鶴見氏ノ支那視察談、高松博士ノ理化学ニ関スル工業ニ付詳細ノ講演アリ、午後一時頃ヨリ余モ一条ノ講演ヲ為ス、国際間ニ行ハルヘキ道
 - 第42巻 p.486 -ページ画像 
徳ニ付テ一ノ疑問ヲ発スルノ意味ナリ、後来会者ト午飧ヲ共ニシ、畢テ余興ヲ一覧シ、四時頃ヨリ少シク悪寒ノ気アルニヨリ、褥中ニ在リテ書類ヲ一覧ス○下略


竜門雑誌 第三二五号・第六一―六四頁 大正四年六月 ○竜門社春季総集会(DK420095k-0003)
第42巻 p.486-489 ページ画像

竜門雑誌 第三二五号・第六一―六四頁 大正四年六月
    ○竜門社春季総集会
竜門社第五十三回春季総集会は、予報の如く五月二十三日午前十時より、飛鳥山曖依村荘に於て開かれたり、軈て定刻に到るや、幹事八十島親徳君登壇、社則第二十二条に依り、左記の如く前年度の社務及会計報告を為して満場の承認を得、次で講演会に移り、農商務省書記官鶴見左吉雄君の「支那視察団」、工学博士高松豊吉君の「時局と化学工業」、最後に青淵先生の講演(追て本誌掲載)ありて総会を終り、園遊会に移れり、当日は例年の通り、後庭に於て園遊会を催す予定にて其の準備を為したるに、夜来天候一変して降雨荐に到り、朝まだき俄に模様替えを為して、会場に隣接せる広庭の一部に天幕を張りて園遊会場に充つることゝなりしが、生麦酒・煮込燗酒・天麩羅・蕎麦・寿司・萩の餅・甘酒の各露店は中々に賑ひて、粛々と青葉に灑ぐ雨声に俗耳を洗ひながら、旧を談じ新を語りて、興の尽くるを知らざるの風情あり、余興として菊地一座の曲芸あり。斯くて三々伍々帰途に就きたるは、午後五時頃なりき。大正三年度社務及会計報告、金品寄贈者及び当日の来会者諸氏は即ち左の如し。
    社務報告(大正三年度)
△会員
 入社  (特別会員 一七 通常会員 四一)         合計五十八名
 退社  (特別会員 九 通常会員 一八)          合計二十七名
 現在会員(名誉会員 一 特別会員 三八〇 通常会員 四九〇)合計八百七十四名
△現在役員
 評議員会長       一名
 評議員(会長・幹事共)十九名
 幹事          二名
△集会
 総集会         二回
 評議員会        二回
△雑誌発行部数
 毎月一回    約九百八十部
 年計      一万一千七百六拾部
    ○会計報告
      △収支計算
        収入ノ部
 一金参千七拾参円六拾四銭     配当金及利息
 一金壱千八百四拾弐円五拾銭    会費収入
 一金壱千九拾五円         寄附金収入
 - 第42巻 p.487 -ページ画像 
 一金四拾円            雑収入
  合計金六千五拾壱円拾四銭
        支出之部
 一金千五百九拾八円五拾銭     集会費
 一金九百四拾五円弐拾銭      印刷費
 一金七百八拾九円参拾八銭     報酬・郵税・雑費
  合計金参千参百参拾参円八銭
   差引
    残金弐千七百拾八円六銭   収入超過金
      但積立金ニ編入ス
       △貸借対照表
        貸方ノ部
 一金参万七千五拾円        基本金
 一金壱万参千四百六拾弐円七拾銭  積立金
  合計五万五百拾弐円七拾銭
        借方之部
 一金四万六千弐百八拾八円拾五銭  株券
 一金八百九拾七円弐拾五銭     公債
 一金弐百八拾八円弐拾壱銭     仮払金
 一金参拾参円拾銭         什器
 一金弐千九百九拾九円五拾四銭   銀行預金
 一金六円四拾五銭         現金
  合計金五万五百拾弐円七拾銭
玆に当日会費中へ金品を寄贈せられたる各位の芳名を録し、謹んで厚意を深謝す
    △金品寄贈者芳名
 一金参百円         青淵先生
 一金五拾円         第一銀行
 一金参拾五円        綱町渋沢家
 一金弐拾五円        東京印刷会社
 一金弐拾円         穂積陳重君
 一金弐拾円       男爵阪谷芳郎君
 一金拾五円         東洋生命保険会社
 一金拾円          田中栄八郎君
 一金拾円          堀越善重郎君
 一金拾円          山下亀三郎君
 一金拾円          神田鐳蔵君
 一金拾円          朝鮮興業会社
 一金五円          尾高幸五郎君
 一金五円          尾高次郎君
 一金五円          星野錫君
 ○ビール七十五リーター   大日本麦酒会社
    △来会者氏名
一名誉会員
 - 第42巻 p.488 -ページ画像 
 青淵先生
一来賓
 鶴見左吉雄君
一特別会員
 石井健吾君    石川範三君    石川道正君
 一森彦楠君    池本純吉君    岩崎寅作君
 萩原源太郎君   林武平君     原胤昭君
 萩原久徴君    西野恵之助君   二宮行雄君
 堀越善重郎君   土肥脩策君    利倉久吉君
 沼崎彦太郎君   大原春次郎君   尾高幸五郎君
 尾高次郎君    織田雄次君    河田大三九君
 川田鉄弥君    神田鐳蔵君    金谷藤次郎君
 横山徳次郎君   吉岡新五郎君   田中栄八郎君
 田村秀光君    田辺淳吉君    滝沢吉三郎君
 高松豊吉君    高松録太郎君   高橋金四郎君
 高橋波太郎君   早乙女昱太郎君  坪谷善四郎君
 塘茂太郎君    長滝武司君    村井義寛君
 内海貞三君    内山吉五郎君   植村澄三郎君
 上原豊吉君    上野金太郎君   野口半之助君
 倉沢粂田君    八十島親徳君   八十島樹次郎君
 山中善平君    山下亀三郎君   山本徳尚君
 安田久之助君   矢木久太郎君   矢野由次郎君
 増田明六君    松平隼太郎君   福田祐二君
 古田中正彦君   小池国三君    江藤厚作君
 手塚猛昌君    麻生正蔵君    男爵阪谷芳郎君
 佐藤正美君    桜田助作君    芝崎確次郎君
 清水釘吉君    渋沢武之助君   平岡利三郎君
 肥田英一君    弘岡幸作君    桃井可雄君
 諸井六郎君    持田巽君
一通常会員
 石井健策君    石井与四郎君   石井義臣君
 石田豊太郎君   井出敏夫君    井田善之助君
 市石桂城君    伊藤英夫君    猪飼正雄君
 飯沼儀一君    伊沢鉦太郎君   橋爪新八郎君
 伴五百彦君    馬場録二君    原泰一君
 長谷川政蔵君   堀江伝三郎君   都丸隆君
 豊高春雄君    大河原源五郎君  岡原重蔵君
 御崎教一君    岡田能吉君    小田島時之助君
 脇谷寛君     河崎覚太郎君   笠間広蔵君
 上倉勘太郎君   金古重次郎君   金子四郎君
 吉岡鉱太郎君   横田晴一君    吉岡慎一郎君
 横尾芳次郎君   田沼賢一君    田山宗尭君
 田村叙卿君    田島昌次君    竹島安太郎君
 武沢与四郎君   竹島憲君     高橋毅君
 - 第42巻 p.489 -ページ画像 
 武笠政右衛門君  竹下虎之助君   武沢顕次郎君
 高橋静次郎君   高山金雄君    高山仲亮君
 高橋森蔵君    高田利吉君    塚本孝二郎君
 鶴岡伊作君    中村敬三君    中島徳太郎君
 中西善次郎君   長井喜平君    村井盛次郎君
 梅田直三君    上田彦次郎君   上野政雄君
 梅沢鐘三郎君   野村喜十君    久保幾次郎君
 熊沢秀太郎君   久保田録太郎君  桑山与三男君
 山田仙三君    山口虎之助君   柳熊吉君
 山田直次郎君   増原周次郎君   松園忠雄君
 松村修一郎君   松本幾次郎君   福本寛君
 福岡盛作君    福島三郎四郎君  藤江元享君
 藤浦富太郎君   藤木男梢君    吉田元清君
 小林茂一郎君   小林森樹君    小島順之助君
 小島鍵三郎君   近藤良顕君    河野間瀬治君
 江山章次君    的楽辰吉君    阿部久三郎君
 綾部喜作君    秋元章吉君    赤萩誠君
 荒井円作君    佐野金太郎君   斎田銓之助君
 斎藤亀之丞君   坂井俊二君    木之本又市郎君
 木村弘蔵君    木村金太郎君   北脇友吉君
 木下憲君     芝崎徳之丞君   芝崎猪根吉君
 新庄正男君    白石喜太郎君   塩川薫君
 渋沢正雄君    平塚貞治君    昼間道松君
 森由次郎君    鈴木富次郎君   鈴木勝君
 鈴木正寿君    鈴木旭君     住吉慎次郎君
 周布省三君


竜門雑誌 第三二八号・第一七―二八頁 大正四年九月 ○春季総会に於て 青淵先生(DK420095k-0004)
第42巻 p.489-497 ページ画像

竜門雑誌  第三二八号・第一七―二八頁 大正四年九月
    ○春季総会に於て
                      青淵先生
 本篇は、本年五月二十三日曖依村荘に於て開きたる、本社春季総集会講演会に於ける、青淵先生の講演筆記なり(編者識)
生憎に雨になりまして、折角の竜門社の会合も諸君の興を減じて残念に存じます、時間も大分迫つて居りますから、例に依て私も此処に立ちましたが、極めて簡単なる御話に止めやうと思ひます、殊に両三日来風邪気で咽喉を悪くしましたから、別して演説は困難でございます前席に鶴見君、高松博士の支那に対する貿易上の関係と、理化学の工業を将来大に進めねばならぬといふことに就て、例を引き実を挙げて詳細の御演説を戴いたことを、諸君と共に深く感謝致します。
而して私は両君の御演説を批評と言ふか敷衍と申しますか、一言を添へたいと思ふ。鶴見君は支那貿易に対して、我が同胞者の欠点を細かに御示しなされましたが当業者は殊更に謹聴せねばならぬことゝ思ふのでございます、元来支那に対する我が同胞の観念は余程改良せねばならぬと私は深く思うて居る、今朝も其為めに当所への出席を遅刻し
 - 第42巻 p.490 -ページ画像 
ましたが、或る新聞を発行するとて支那人同道で拙宅を訪問した人がありましたから、其談話中、私の平日主張して居る意見を丁寧に反復申しましたが、今日の日支間の交際は、政事界も実業界も、孔子の教の如く忠恕の心、友愛の情で相交つて居るのではない、実に言ふを欲せざる有様であると思ふ、斯の如き有様では、縦令鶴見君の御注意の如く、商工業間相互の注意は届いても、第一に忠恕の心、友愛の情なき交際は、真の温情の生れて来やう筈がない、此点は第一に我が同胞の深く考慮して、改善を図らねばならぬと思ふのでございますし、何故両国の交情が斯様に推移つたか、其由て来る原因を、能く攻究して見たいものと思ひます、英吉利・独逸・亜米利加・仏蘭西等の国々に対する感情は、有力者も又力の無い人も、智者も愚者も、政事家も実業家も、皆相畏敬する心を以て交際して居るやうですけれども、支那に対しては敬愛といふことが無いやうに見えます、敬愛の無い交際は円満に進んで行かぬといふことは、智者を待たずして知ることで、支那に対する交際に付て、私の今日の憂ふべき点は此処であります、要するに支那人が悪いといふよりは、先づ我が邦人自らが悪いと考へて宜からうと思ふ。
私は昨年支那へ旅行を致しまして、五月の二日に東京を出発し、其月の二十七日に天津着後病に罹りて、それから直に帰国しましたから、僅に一箇月に足らぬ旅行でありました、併し到る処、種々なる階級の人々に面会し、殊に実業界の人に多く接触しまして、談会々日支の交際に及びますと、始終其人々が私に言ふところは、貴老は支那人に対する方針を、孔子教を以て進めて行きたいと望まれるけれども、其主義を以て支那人に臨みては、決して効果は得られぬ、支那人は敬愛を以てすべき種類の人格ではない、必ず後日自身の見解の間違つたことを覚るやうになるであらう、支那に対する交際は、拳固と弗とで充分である、蓋し拳固と弗とは、支那文字の恩と威といふことを直釈したもので、彼等が我命を聴くならば金をやる、若し聴かなければ拳固をやる、此二つで沢山だと主張して居る人がありました、私はこれに答へて、それは道徳的観念から云ふと、何れの国でも、聖賢の君其位に在る場合に於て、恩も威も必要とする、矢張り恩威並び行はれなくてはいかない、孟子に、文王一たび怒つて天下為めに安んずるといふこともある、威といふものは必要な事であるから、スワといふ場合には満身の勇気を以て大に怒るといふことはあるけれども、それは常にあることではない、已むを得ざるに生ずるのである、殊に平日に於て、左様に憤怒とか威嚇とかいふことばかりを以て物事を為すのは、決して温情を生ずるものではない、又恩といふものは甚だ必要なものではあるけれども、唯恩のみなれば必ず馴れるといふことになる、故に恩威共に行ふは、道徳上必要ではあるが、唯恩威ばかりでは決して真正なる友情の生ずるものではない、友情の生ぜぬのに、決して円満なる交際の出来得べきものではない、国として出来ず、個人としても出来ぬ、如何に支那人の道徳が堕落して、孔孟の教は唯一片の御祈祷の貼札同様のものに相成つて居るとも、相交はる情合に於て忠恕・友愛は欠いてはならぬ、意識の乏しい動物すら、唯恩威ばかりでは、真正な
 - 第42巻 p.491 -ページ画像 
る馴れはないものです、仮令道徳は廃れたりとは云ひ、支那の人々に対して恩威のみを主張するは、大なる間違なりといふことを申しましたが、支那旅行中の談話では、誰一人私の愚説に服従した人はなかつた。
斯る事を公言するのは憚り多い事であるが、此席だから差支なからうと思ふ、恰も支那に向て最後通牒を発した夜、即ち本月七日に、総理大臣官邸に銀行者仲間が招かれて、已むを得ず玆に至つたといふことの説明を、総理大臣首め外務大臣から懇々と御示しがあつた、而して事玆に至つたのは実に余儀ない訳である、我豈戦を好まんや、已むことを得ざればなりといふ、孟子の言を藉りて諸公から吾々に御示しになり、宜しく領承して国家の為に尽力して貰ひたい、殊に金融に関係する諸君には第一に相談する、貴衆両院の人々にもお話をしたといふことでありました、其時私は此恩威の二字を両大臣に答へた、其趣旨は、私が昨年支那に旅行して斯様の感を持つて居るから、平生御懇親を蒙つて居る閣下方に特に申上げるのである、政府は定めて支那に対する処置を、現に支那に商業をして居る人々と同じ様にはなされぬであつたらうと思ひます、国際の交誼は所謂忠恕の心、友愛の情をも加へて、充分なる談判を進め、已むを得ずして威を用ゐるであらうと思ひます、私は支那に対する態度を、唯恩威のみを以てするといふお考であつたなら、それは大なる謬見であると思ふ、幸に此談判が無事結了しました暁には、どうぞ愚衷を御採用ありたい、今日重要の御内示を拝承して已むを得ぬことと御同意申上げると同時に、現在にも将来にも、国際上飽迄も忠恕の心、友愛の情を以てこれを処理し、已むを得ざる時のみ威を用ゐるといふに、御考慮あるやうに希望しますと御答しました、もしも恩威のみを以て待遇したならば、彼れは反対に疑惑と侮蔑とを以てする、所謂売言葉に買言葉で、此方で恩威のみで行かうとすれば、彼れは毫も温情なく、益々我れを軽侮して、元は属国のやうな国であつた、文明といふけれども、近頃西洋の長所を模倣して、僅に二・三十年間先きに出たゞけである、人種は素より黄色で、夫程賢い人間でもない、殊に国が小さい、千年以前を顧みよ、常に遣唐使が来て、支那の文物を移して、其国を進めて来た、其恩も忘れて今日は斯様なる不親切な挙動にて、唯威嚇を事とするやうなことばかりする、其国は我れと同じく貧乏だ、而して国内に議論が多くして、動もすると議会は解散する。斯の如き国力を以て、唯我れの弱きを侮慢して、武力で敲き付けやうとするは怪しからぬ事である、と支那人は斯様に思ふであらう、是も彼より云へば、幾分の道理である、想ふに、彼れの感情と我れの感情を融和するには、彼れを直さむとするよりも、先づ我を直すやうにするのが必要だと思ふ、さればと云ふて彼の非理に同意せよといふのではない、道理によつて求める所は飽迄も求めるが宜いが、同時に忠恕の心を以て、彼れの事情をも考察する、例へば今日の交渉問題でも、余り多くを望んで、恰も縁日商ひのやうなることはせぬが宜い、現金懸値なしで行けば、寧ろ事が早く済み、親切も届くであらう、私は今此席で外交談をするのではありませぬが唯鶴見君が、支那に対して実業家に御注意下すつたに就て、それは真
 - 第42巻 p.492 -ページ画像 
に必要だけれども、より以上精神的に、我国民の心を改良すべきものがあると思ひまして、御礼を申すと共に、竜門社の社員に御注意いたすのであります。
高松博士の理化学の事に就て、向後一同に大決心を以て発達を勉めねばならぬといふ、専門的の御講演は、洵に深く感佩致して、私も何とか致さねばならぬと思ひます、博士は此事に就て政府に保護を請願すると仰しやいましたが、勿論請願といふ意味になるかも知れませぬが請願といふては余り官尊民卑になるか、左もなければ謙遜に過ぎはせぬかと思ひます、日本は実業家のみの国家ではない、政府の役人とて矢張国民であつて、共に国家に尽すべき責任があるから、国家の隆盛を図り、国運の進行を勉める上には、斯くしなければならぬと云ふことは、何もお願ひするには及ばぬ、是非やれと命令的に言ふことは出来ますまいが、希望を述べる位で差支ないと思ふ、目下高松博士が頻に御心配になつて居る、理化学研究所の事の如きは、政府当局者に向つて、此時局に際して国家の力を増し、国運の進歩を図るには、理化学を研究して、其工業を発展するを吾々は甚だ必要であると思ふが、当局者は如何お考へなさるか、既に必要とすれば、何故其創設が出来ないかと、遂には当局者に向つて最後の通牒をも発せねばならぬやうな口調になりますが(笑)私はさういふ意味で申すのではありませぬ元来此理化学研究所の事は、一昨年高峰博士が米国から来て居る時分に起つた問題で、而して高松博士が最も御尽力なすつて居る、当初高峰博士から私に御相談がありました、此高峰博士の意見は、日本の工業も年を逐うて進んで来る、洵に四十年来の実業の進歩は著しいものである、併し其事業は多く摸倣的発展である、尤も物質的の進歩は欧米が先進国であるから、勢ひそれに倣はざるを得ぬのは無理ならぬけれども、元来摸倣といふものは自発心を欠くもので、自分で新発明を為すといふことが出来悪いものである、兎角親に倣ふとか師に習ふとかいふと、唯命是れ従ふ有様になる、試みに初めて繁盛なる都会に行つて、能く地理を知つて居る人と始終同行して御覧なさい、復幾回往来した街衢でも、己れ独りで通行する時は必ず其道を間違へてしまふ随行しては三遍も四遍も通つても、明確なる記憶心が無い、即ち自発心が生じない、同行者に附いて行けば宜いといふことになる、是が摸倣の弊害を言現はす比喩にならうと思ひます、斯の如きは決して真正なる発達はむづかしい、真正なる発達はどうしても自発しなければ出来ない、今日は最早摸倣の時代ではない、大正といふ改元に依て、摸倣と自発とを区別する訳には行きませぬとしても、これを形容して言ふときは、明治は摸倣時代であるとしても、今や其時代は去つた、大正は自発時代、独創時代といふことにせねばならぬ、其先駆として高峰博士や高松博士が其叫び声を発したのであります、故に今高松博士の言はれたのは、決して請願でも懇請でもない、斯くしなければ国家将来の発達は覚束ないと、斯ういふ意味であらうと思ひます、唯其主張を大声疾呼して威張れといふ意味ではありませぬが、卑屈にならぬ様にして、決して急にはいかぬ事業で、又小さい仕掛ではいかぬのであります、現に高松博士などの予算では、如何に倹約しても四・五百
 - 第42巻 p.493 -ページ画像 
万円の金は要る、而して是は永久的の仕事としなければならぬ、政党政派の変化抔で縮んだり伸びたりしてはならぬと思ふから、気候の変化によりて伸縮を受る様なることなく、先刻鶴見君の塗物の御話の如く、日本と亜米利加と気候の差異で、裂れたり縮たりせぬやうな理化学の研究所を造りたい、或はボール紙で造つたら宜いかも知れない、(笑)理化学研究所の事は今頻に評議中でありますが、果して成立ちますか、実は昨夜総理大臣の官舎に、私にも高松博士と共に来いといふので、其積りでありましたが、先方の御都合で延引となりました、果して此集会が直きに催ふされて、其端緒を開き得るや否や、いまだ分りませぬけれども、兎に角当局者も是は必要であるから、何とかして国家も力を添へ、民間に於ても大に奮つて、現在の農商務省の工業試験所のやうなものではいけない、基礎あり秩序ありて、其仕掛も適当と言ひ得る計画を為したいと云つて居るのであります、向後此話が如何に進んで行くか分りませぬが、幸に高松博士の如き熱心なる方々が居らつしやるために、此叫びが或は事実とならんとしつゝあるのでございます、研究所の事は大要其辺までに進み掛つて居るので、私は此機会に一応諸君に御披露致して置きます。
目下我国の工業が稍々進んで来たと云つても、化学工業が十分に進まねば、真正の国富を増して行くことの出来ぬのは、縷々弁舌を要せぬのでありませう、唯今高松博士の御演説になつた主なる理由は、理化学工業は独逸が最も盛んであつて、それが即ち独逸の富を成した所以である、而して我国は其後に瞠若して、まだ其端緒を開いたとも云へぬ位の有様であるから、此事は是非とも奮励せねばならぬとの御唱導であるが、吾々も成るべく力を尽して其創立を図りたいと思ひます、併し是は謂はゞ縄を綯はうと思ふて、藁を打つのであつて、泥棒を押へてこれを縛るといふのには、まだ前途遼遠である、縦令理化学研究所が出来ても、其研究所に良い学者が出来て、其学者が丹精を重ねて独創の発明が生ずる、それからこれを応用するのでありますから、謂はゞ子孫の繁昌を思うて、婚姻を結ぶといふまでにも行かぬので、随分先きが長いことでありますけれども、先の長いことは尚ほ早く着手せねばならぬ、前途遼遠ならばそれだけ早く経営するが宜しい、或は前途遼遠ならば、気長くしても宜いと思ふかも知れませぬが、私は前途の遼遠なる事柄は、尚更早くやらなければ、追付くことが出来ないと思ひます、之に就ては高松博士も尚続いて、十分に御尽力になるだらうと信じて居ります、私は又実業界の一人として御相談相手になつて、其成功を図らんと欲して居ります。
両君の御演説に対して、敷衍の如き、批評の如き、私の意見は是で止めまして、私が今日御話致したいと思ひます事は、自分すらまだ能くは分らぬのでありますから、分らぬ事を諸君に御話すれば、諸君にも尚お分りにならぬことであらうと思ひますけれども、詰り今般の欧洲戦争に就ての一案でございます、いづれ戦争は早晩終熄して平和となるであらうが、其戦後に於る世界一般の思潮は如何になるであらうか又吾々国民は如何に考慮したら宜からうかといふことであります、戦後に於ける我国民の覚悟と云ふやうな問題になります、けれども是は
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戦後であつても、戦前であつても、又は戦争中であつても一である、何事にも正心誠意に勉強するのみである、又一方には段々知識を磨いて行く、詰り知識と勉強と耐忍と誠実とである、斯の如きは如何なる時代でも必要で、それこそ食前食後差合なしの仕方である、けれども私が今言はむと欲する事は、時局終熄の後に於て吾々同胞はどう考へたら宜からうかといふ事にして、平時に於る思考とは幾分の相違がある、元来私の信拠して居る処は、世に所謂道徳といふものは、個人の間は勿論、一家一郷、社会に至るまで、世の進運に伴ふて進歩もし、拡大もするものであるけれども、国際間となると忽ち衝突して、殆ど道徳といふものが無くなつてしまふ、前にも述べました忠恕の心とか友愛の情とかいふことは、人間に甚だ必要なものであつて、これを仁義道徳とか云ひますが、私も細かに言ひ顕す文字を知りませぬけれども、韓退之は此仁義道徳を註釈して、「博愛之謂仁。行而宜之之謂義。由是而之焉之謂道。足乎已無待於外之謂徳」といふて、誠に短い言葉を以て仁義道徳を説明してある、是は原道と云ふ文章の冒頭の数句である、其仁義道徳は、一国内であつては、政を為す人も、亦被治者として指図を受ける人も、或は親も子も師も弟子も、総て此主義に従ふでなければならぬと謂つて居る、而して此主義が高まつて行く程、其国家・社会は善良であるといふことは疑のないのであります、故に此仁義道徳といふものは、個人にも社会にも亦国家にも、普遍的に必要なものである、一例としても仮りに商業道徳が欠けるといふたなら、結構だと云ふ人は一人もない、欠けるから困ると云ふのは、善くないと云ふ証拠である、然るに其仁義道徳が世の文明の進みて、神学が発達するに従つて、範囲も広く関係も深くなつて来るのであるが、唯此国際関係になると、全然相違して来る、現に今般の欧羅巴の戦乱は、其の例を此処に現出したものではありませぬか、若しも忠恕の心、友愛の情が交戦国民間に強かつたならば、白耳義の中立地も破壊されはせぬ、又一日に一億の金を費し何万人を殺しつゝあるが如き修羅場が文明を以て誇りとする欧羅巴に、どうして現出されるものであるか、平素は個人間の道徳を重んずる国民に、何故斯る惨澹たる行為が出来るか、斯く考慮して見ると、実に世の中といふものは不可思議千万である、是は天が命ずるのか、神が好むのか、抑も又其間にある人類の心得違ひから起るのであるか、一方から云へば、斯る有様を見るのも長命の御蔭だと云ひ得るけれども、命長ければ悲傷多し、といふが如く早く死去したら斯の如き惨状も見ないのであると、私抔は老人であるから、是迄種々なる世の変遷にも遭遇したが、今日の如き修羅場を見聞しやうとは思はなかつた、我が国内に就ては、事柄が小さいから左までには思はなかつた、維新前後の戦争も見たが、よもや此度の欧洲の戦乱の如き事があらうとは、実に思考しなかつた、然るに去年の八月から軈てもう十ケ月になりますが、全欧洲の戦雲は結んで解けぬ而して是が世界に於て文明を以て誇りとし、所謂血あり涙ある国民の間に起つたことであると云ふに至つては、どう云ふ訳であるか、是位分らぬ事はないと思ふ、是が文明国の所作とは何事でありませう、是に於て老子の説の「聖人不死、大盗不止。剖斗折衡而民不争」といふ
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たを至言と思はざるを得ぬやうになる、畢竟聖人などといふものがあるから、人の国を奪ひ取る様になるのである、斯く考へると、二千年以前の老子の一言は、今日を観破つたのであつて、敬服するの外ないのであります、先年亜米利加のカーネギー氏は、千万弗の金を寄附して、世界の平和を図る為めの攻究の資料として、一財団を作つた、其事に就ては米国大統領は勿論、有名なる政治家も共に力を添へて居るそれは米国ばかりではない、我国にも其事を及ぼして、今日列席の阪谷氏などは、日本に於ける平和会議の世話役をして居られる、又大隈伯は其会長である、又曾て和蘭の海牙に開かれた平和会議も、次第に進んで来るといふて、誠に喜ぶべき時代と思つた、それは一昨年の事である、故によもや斯様なる事は勃発すまいと思つて居つたのに引替へて、前来述べるが如き今日の有様となつたのである、是は、今日の社会はどうしても斯ういふ有様に行かねばならぬものであるか、或は又彼の貪婪飽ことなき人々も終には心得違ひであつたと云ふ悔悟心を生じて、真正なる文明に改まるものであるか、両者いづれに成り行くかと云ふことを、能く観察して見たい、又其悔悟心を発せしむる道はありはせぬかといふことをも充分に攻究して見たいと思ひます、カーネギー氏は、千万弗の金を醵出して、平和の研究資料とした、実に感服の至りであるけれども、千万弗の金ばかりでは、到底駄目である、貪婪なる人の心を改めさせなければ、効能は見へぬ、此心を改めさすといふことが、果して吾々に出来得るか、もし又出来得ぬと云ふなら止めることゝするか、然る時は、世界は何時までも弱の肉は強の食である、強い者の申分は、何時でも良くなる、世の中に是れ位情けない事があらうか、果してこれを改むる道なしとせば、殆ど人として社会に立つ価値もなくなつてしまふと、私は考へるのであります、目前斯の如き修羅の巷では、如何に論じても駄目でせうが、人には良心あるものとすれば、必ず悔悟する時が来るであらう、其悔悟の心を固着せしめて、再び貪慾に陥らしめぬやうにする工夫がないものであらうか其間に何か人心の維持法が立たぬものであらうかと、私は斯う考へて居るのであります、是は、実に広い世界に亘つての企望であつて、耶蘇とか釈迦とかいふものであつたら言ひ得るかも知れぬが、私の如き凡夫の願望としては、滅法界のやうであるけれども、他日世の中にさういふ議論が生ずるであらうと思ひます、想ふに、戦後には追々に学者哲人が、必ず斯ういふことを論ずるに違ひない、私は哲人でも学者でもないけれども、玆に哲人を気取つて、一の予言を為すのであります。
次に申述べて見たいのは、此大戦乱の後に於て、吾々日本国民即ち我同胞は、如何に考へて宜いかといふことである、前にも論ずる如く、国際の事は一歩進まむとすれば、其極端は竟に隣邦と衝突する虞があります、故に、個人の家に於て富といふものは其隣人を害し、同時に其子孫をして驕奢倨傲の人たらしむるものであると同様に、一国の富強を進むるのも、国際の平和を破る基になる虞がある、仮りに独逸の国力が今日の如く進んで来なかつたならば、今回の欧羅巴の大戦争は無かつたらうと思ひます、斯く観察すれば、独逸の先帝及ビスマルク
 - 第42巻 p.496 -ページ画像 
モルトケ、其他の学者・政治家等が、力を戮せて一国の富強を増したによりて、斯の如き欧洲に一大不幸を来したとも云へるのである、恰も或る一家で、親が丹精して沢山に貨殖すると、其子が乱暴で、隣家とは種々なる葛藤を生じ、且非常な贅沢をして遂には其家を紊してしまふと同様なことである、故に吾々の将来は、どう考へたら宜からうかといふことに就ては、実に熟慮を要する、唯自国だけ富みさへすれば宜しい、自国の力さへ伸びれば満足だといふ観念にのみ、帝国の民心が走らぬやうにありたいと思ひます、さればと云つて、自己はどうなりても宜いと云ふ意味ではありませぬけれども、兎角今日の各方面の説が、甚だ極端に走つて居るやうに思はれる、今日に於る日本全体の気風は、斯る有様では困るとか斯ういふ風習は宜しくないとか、或は実業に於て此事が進まぬとか、此業を盛にしたいとかいふやうな企望が、多くは単に自己の満足を図り、自己の慾望を達するといふことのみを主として論ずるの弊が強いやうに思ふのであります、是がもしも此欧洲の大戦乱によりて世界一般の人心に大変化を生じて、前に申述べた忠恕・友愛の事柄が悉く行はれ得ずとも、それが世界の安全なる進歩として希望すべきものだと云ふやうになるならば、帝国の支那に対する国際間の事共も、斯る感情から行き走つたと云ふことを、相共に悟りて、向後温和なる友愛の情と忠恕の心とを以て交はるといふことになるであらうと思ひます、世間の人は口を開くと、此大戦争が済んだならば、我が国民は斯くありたい、斯う望まねばならぬといふて、その事に大小の差違はあるだらうが、種々なる自己にのみ便宜の慾望を唱導されるが、余りに多く之を求むると、幸に其企望が達すると、悪くすると第二の独逸を作り出す事になりはせぬかと、私は懸念するのである。
私も自国が段々進み行くことは固より望みます、戦後に於て、精神上に実業上に、いろいろ改進せねばならぬ事があるから、其進むことを望むのは他人と同様でありますけれども、此際能く注意して、我帝国が終に世界を征するといふやうな、架空の企望は避けるやうにしたいと思ひます、先づ或る軍人の意見として示されるものに依りますと、己れの進むを謀るといふは、同時に他を征服する意味を包含するやうになる、もしも斯る観念を以て進歩を謀ると、其進歩の中に自然と他を圧迫するやうになる恐がある、此他を圧迫するといふ念で、自己の進歩を勉めたならば、前段に申したやうな黄金世界は到底作り出すことは出来ない、他国をば遜譲せしめ、自己だけは我儘気随といふやうな都合の好い事は、世の中に望むべきことではない、さういふ事は一家庭でも出来得べきことでない、況や世界に向つては、実に不可能の事柄である、果して然らば、請ふ隗より始めよの教に基きて、自己より先づ忠恕の心、有愛の情を以て、何処までも国際にも道徳の行はれるやうに致したいと思ふのであります、此戦争の終熄した後、我が国民は如何に考へねばならぬかといふことに就ては、精神上に物質上に将来講究すべき事が数多いことゝ思ひます、近頃大学の諸先生方も、此事に就て一会を開いて居られる、二十八日に集会すると云ふ通知も来て居ります、段々とさういふことに、世間が気が着いて論じて居り
 - 第42巻 p.497 -ページ画像 
ます、其論ずることは皆必要でありますけれども、悪くすると、我が日本を改善するといふことは日本のみが世界に優れたいといふことになり易い、斯くなると、孔子の所謂聖人になるのであつて、取りも直さず大盗になる訳になる、故に大盗たる所の聖人には為らぬやうに心掛けねば、真正なる世界の無事を図ることは出来ないと思ひます、私は竜門社の諸君の、能く此事に注意して貰ひたいといふばかりではない、頗る漠然たる申分ではありますが、一般国民としても、此自己主義は止めたいと思ひます、戦後に就ての国民の心掛は、将来種々の事柄に関して追々に名論卓説も出ることでありませう、又それに就て斯ういふ事を企望せねばならぬ、斯る事に注意せねばならぬといふことも多いでせう、併しながら、大体に於て私は前来縷述したる心掛を、一般国民と共に持ちたいと思ひますから、玆に一言其前提として申上げて置くのであります。(拍手)