デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

4章 道徳・宗教
5節 修養団体
5款 財団法人修養団後援会
■綱文

第44巻 p.58-60(DK440020k) ページ画像

昭和5年11月13日(1930年)

是日、浅野総一郎ノ葬儀ニ際シ、栄一、当後援会会長トシテ弔辞ヲ贈ル。


■資料

集会日時通知表 昭和五年(DK440020k-0001)
第44巻 p.58 ページ画像

集会日時通知表  昭和五年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月十三日 木 午前十時半 故浅野総一郎氏葬儀(田町同邸)
         午後〇半時 同告別式


向上 第二四巻第一二号・第六二―六三頁 昭和五年一二月 弔辞(DK440020k-0002)
第44巻 p.58-59 ページ画像

向上  第二四巻第一二号・第六二―六三頁 昭和五年一二月
    弔辞
浅野翁は平生極めて健康で壮者も及ばぬほどであつたから、不図病気に罹られたとしても必ず回復されるものと信じてゐたのに、突如病革まり溘焉として長逝されたのは洵に痛惜の至りに堪へません。
 翁は全身是れ国家のための事業家といふほどに数多の大事業を経営され、八十余年の生涯を通じ、寝食を忘れて活動して居られた。関係してゐる大きな事業だけでも二十有余を数へるのであるから、真に精
 - 第44巻 p.59 -ページ画像 
力絶倫な偉大な方でありました。
 翁が天成の大事業家であることは、天下周知のことで私の呶々を要しませぬが、精神的な事業にもなかなか力を尽されたのであります。二十五年前に汗愛主義の修養団が小さい二葉の嫩芽を出した時、此の運動こそ国本確立の礎であり、人生の根本義であると感得せられ、精神の方面からも、物質の方面からも多大な援助を与へられたのであります。
 創立当時には小さな見るかげもなかつた此の運動が、二十五年後の今日は全国津々浦々に支部が設けられ、村にも、町にも、学校にも、会社にも、工場にも、到る処多数の同志が出来て、救霊・救国の原動力となつたのは、翁の助力が与つて多きに居るといはなければなりませぬ。
 百二十五歳までも天寿を完うされるであらうと思つた翁が、急に幽明界を異にして此の世を去られたことは、誠に国家的の大損失でありますが、神のお召しで昇天されたのであらうことから考ふれば、玆に新しき大使命によみがへられることゝ信じます。
 冀くは在天の英霊、永へに皇土を護り、道の国日本の完成のために照鑑を垂れたまはんことを。
  昭和五年十一月十三日 財団法人修養団後援会長
                   子爵渋沢栄一



〔参考〕竜門雑誌 第五〇六号・第五五頁 昭和五年一一月 浅野総一郎翁逝く(DK440020k-0003)
第44巻 p.59-60 ページ画像

竜門雑誌  第五〇六号・第五五頁 昭和五年一一月
    浅野総一郎翁逝く
 欧米漫遊中、ドイツにて食道狭窄症に罹り、本年八月急遽帰朝し、大磯の別邸或は芝高輪の本邸に於て療養中であつた浅野総一郎氏は、十月十日頃より肺炎を併発し、一時小康を得て居たけれども、十一月四・五日より重態となり、三浦・佐藤・南等の諸博士日夜つめきり看護に努めて居た甲斐もなく、遂に九日早朝病革り危篤に陥り、午後零時五十二分眠るが如く逝去された、享年八十三歳であつて本社会員としては青淵先生に次ぐ最高齢者であつた。翁の臨終枕頭には長男の泰治郎氏の外、近親の人達がつめ切り最後の別れを惜んだが、訃報が伝へられると、青淵先生・同夫人・安田善次郎・阪谷男爵・大川平三郎氏等の名士が折柄降しきる秋雨のしめやかなうちに続々と見舞つた。
 而して葬儀は十三日午前十時半から、芝区田町の本邸にて盛大にしかも静粛に執行されたが、定刻総持寺貫首秋野好道師以下廿数名の僧侶の壮厳な読経に次いで、親族並びに関係参列者の焼香が行はれた。そして午後零時半からは告別式に移り、東伏見宮・久邇宮両殿下の御使も畏く、その他浜口首相代理鈴木書記官長・幣原外相・一木宮相・井上蔵相・渡辺法相・田中文相・阿部陸相代理・青淵先生・高橋是清水野錬太郎・岩崎久弥男・串田万蔵・ベルギー大使・オランダ公使・山本悌次郎・永田市長・藤山雷太・大川平三郎・山下亀三郎氏など政界財界の有力者多数参列焼香を行つたが、後葬儀委員長阪谷芳郎男の挨拶があり、終つて午後三時遺族近親の人達は霊柩を守つて、鶴見総持寺に向ひ、同寺にては本堂正面に霊柩を安置の上焼香し、夕方暮色
 - 第44巻 p.60 -ページ画像 
の裡に埋葬した。○下略