デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.8.28

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
1款 東京高等商業学校 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.196-276(DK440062k) ページ画像

大正6年6月23日(1917年)

是ヨリ先、栄一、当校校長佐野善作ノ依嘱ニヨリ、当校ニ於テ商業道徳ニ関スル講演ヲ行フコトヲ約シ、是日其第一回講演ヲナス。以後、大正八年一月第九回ニ至ル。


■資料

集会日時通知表 大正六年(DK440062k-0001)
第44巻 p.196 ページ画像

集会日時通知表  大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
六月廿三日 土 午後一時 高等商業学生ノ為ニ御講演ノ約(同校)


竜門雑誌 第三五〇号・第一二五―一二六頁 大正六年七月 ○青淵先生と東京高等商業学校科外講演(DK440062k-0002)
第44巻 p.196-199 ページ画像

竜門雑誌  第三五〇号・第一二五―一二六頁 大正六年七月
    ○青淵先生と東京高等
     商業学校科外講演
 昨年喜寿の賀を限りとして我が実業界より隠退せられたる青淵先生は、爾来「道徳経済の一致」「慈善事業」「資本と労働の調和」「国交親善」等の為め其晩年を尽されたき希望を有せられたるが、今回東京高等商業学校々長の依頼に応じて、実業道徳に関し科外講演を引受けらるゝ事となり、六月二十三日その第一回講演を同校講堂に於て開かれ、上級生を始め一千余名の生徒に対し「経済と道徳」なる題目の下に約二時間に亘る講演を試みられたり。要は青淵先生が常に崇敬し且つ実践せられつゝある孔孟の教を引用し、経済と道徳とは互に相背馳せず倶に相調和し得る所以を総論的に説れたるものにして、次回よりは其各論に亘りて詳細の講演を試みらるゝ筈なりと云ふ。右に就き佐野校長は語つて曰く
  渋沢男は昨年喜の字の祝をされると同時に、実業界を引退され、
 - 第44巻 p.197 -ページ画像 
将来主として実業道徳や実業教育、慈善事業等に力を竭すべき旨を声言せられ、又現に男爵が努力され尚ほ将来力を効さんとせらるゝ事業の中には、前述の外更に資本者と労働者との融和とか他列国との国際関係や其他政治・経済等種々の方面に種々の事業を有せらるるのであらうが、特に男爵は教育に重きを置いてゐられるやうで、今回本校の希望を快く容れられ、先づ第一回の講演として二十三日午後一時から約二時間講義をして頂いた。講演の要旨は男爵が今日に至る迄の径路及び将来の覚悟を語られ、更に経済と道徳との調和に就て、世人が動もすれば金を儲ける事と道徳とが相反する行動のやうに考へてゐるが、之は大なる間違ひであつて、二者は必ず一致すべく又一致させなければならぬものであると云ふことを、孔孟の教へ等を引いて有益なる教訓をされた。一体本校の倫理は最初は他校と同じ様に倫理学の大要などを説いてゐたが、何うも平凡なので生徒の出席も余り思はしくないので、三年前より教授法を更め、筧博士の日本国体論及び欧米諸国の国体論、中島博士の社会学、松本博士の実験心理学に関する講義を初め、各方面の諸名士に請うて特に活きた講話を願ふ様にして居た。そこで渋沢男が忙しい実業界を引退さるゝと同時に、此趣意を陳べて講演を願ふと、男爵も大に歓迎され、却て自分より希望する所であると早速承諾を得た次第である。未だ決定はせぬが、本校では男爵を名誉講師に推薦する考へで其講義の日も定まつては居らぬが、先づ一学年に十数回の予定で、第二回は暑中休暇後の九月とし、今後共講演の日は土曜日の午後と決してゐる。第一回の講演は本科の上級生のみ聴講の筈であつたが愈々講演と聴いて各級の生徒や教授連迄押懸けて、さしもの大講堂も身動きならぬ程であつた。云々(やまと新聞)
 右に就き青淵先生は曰く
 私は高等商業学校とは創立当時から深い縁故がある、今の高商の前身と云ふのは文部大臣であつた森有礼君が米国から帰つた当時に彼地のビジネス・スークールの必要を感じて創設したものだ。其頃私は感ずる処あつて大蔵省の官吏生活を廃めて実業界に身を投じた時で其の創立にも参与した。其後同校は東京府立となり同時に『商法講習所』と改称した、高等商業と云ふ名称になつたのは明治十九年で、現に私は同校の商議員と云ふ関係がある。今度私が同校で実践商業道徳と云ふ題で講義を担当する事となつたのは、御承知の通り私は昨年喜寿を機として実業界を退いた。併し別に終生の心血を濺ぐ可き事業が沢山残つて居る。高商での講義も此事業の一つて、私が野に下つた当時商人――実業家――と云へば随分卑しめられたものだ。今では夫程でもないが、矢張商売人と云へば一般に金を儲ける以外に道徳の観念が薄い、此の道徳心の欠如が社会を害し、一方亦自分の身を破滅に導く事ともなる、私は五十年間実業界で働いた経験から、道徳と経済とは一致すると云ふ確信を持つて居る、此確信に基いて聊かたりとも現今の実業界に欠けて居る道徳心の覚醒を促さうと云ふ企てに外ならぬのである。然し実業界の人々に話したのでは効果も薄いから今後実業界に投じようと云ふ学生諸君に話し
 - 第44巻 p.198 -ページ画像 
た方がよいので、幸ひ佐野校長からも依頼されたので引受ける事となつたのである。一体に経験に乏しい青年が学校生活から実業界に飛出すのは頗る危険なもので、実際社会の誘惑に迷はされて一生を過つたり、道徳観念の欠陥が原因となつて拭ふ可からざる汚名を流すと云ふ運命に遭ふ事は尠くないので、私が実業家の卵たる学生諸君に講義をする所以は実に其処にあるのである。最初佐野校長の話では一週間に一度宛と云ふ話であつたが、何分私も七十八と云ふ老齢ではあるし、此外にも自分の事業として資本家と労働者との調和及び感化救済などの仕事もあるので、一ト月に一度位と云ふ事で約束をしたのである。昨日(二十三日)第一の講義は総論だつたが幸ひ多数の聴集があつて私も愉快だつた。追々暑中休暇も近い事だから、次回は九月になつてから逐次各論に亘つて講義する筈である。云々(東京朝日新聞)
 以上青淵先生の実践商業道徳講演に対し、社会の感果して如何。六月二十六日の世界新聞は其社説に於て左の如く論ぜり、曰く
  実業界の偉人渋沢男爵が、高等商業学校の名誉講師となり、倫理科に於て経済道徳一致論を教授することを諾したるは、我が学界に於ける記録を破り併せて実業界を飾るものとして、吾徒は之れを慶賀せざるべからず、男が実業界の偉人として一世の尊崇を受くる所以のものは、道徳的見地に立ちて実業界の後進を扶掖誘導したるが為めにして、其の専門とも称すべき銀行会社の経営が、一に道徳的基礎の上に建てられたるものなることは、男を知れる者の一般に推称して措かざる所にして、男の智識と経験が、万世の模範となるべきものたることは何人も首肯さるゝ所なりと雖も、老来劇務に堪へざるの故を以て、実業界に於ける一切の関係を絶ちたる程なれば、男を煩はして教壇に立たしむるが如きは、何人も之を遠慮し居たる訳なるに、佐野校長が実業教育の為めに枉げて教壇に立たれんことを懇請したるの勇気と、男が快諾を与へて青年学生の為めに名誉講師たるを肯んじたるの勇気は、其事自体既に実業界及教育界に於ける一種の教材たるを失はず。男が書籍上の知識としては、男自からが言へるが如く、寔に四書と五経とに過ぎざるべきも、支那には論語一巻を以て天下を治めたる大政事家もあれば、四書と五経とは、以て世界を左右する大政治家を出すやも知れず。現に男自身は此の四書五経の修養に依りて、実業界を指導する偉人となりたる人なれば、男の一言は青年学生に取りて、万巻を読破するにも優るものあるは疑を容れざる所、単に教壇に立ちたる丈けにて、既に学生をして感奮せしむべきものある筈なるに、七十年の経験を組織的に叙述し、道徳経済一致論を以て新旧思潮融和を図らんとするは真に一大義挙にして、天下の慶幸之に過ぎたるはなし。学究の口より出でたる理財の講釈は余りに実際に疎くして興味を欠くと共に、成金の道徳観念は嘔吐を催さゞるを得ず。斯点に於て男の道徳経済論は、誠に一世の視聴を蒐むべきものたるは論なく、其の人格に於て、経歴に於いて、百世稀に観るの良講師たらずんばあらず。男が客歳実業界を引退したるの当時、吾徒は如何にして男が其の晩年を送らるべ
 - 第44巻 p.199 -ページ画像 
きかを興味を以て注視したるものなりしが、今や余生を育英の事業に投じ、青年学生の為めに講座を開きて後進扶掖の実を挙げんとせらるゝを見て、男の人格を愈々崇高にして、其志の純潔なるを嘆ぜずんばあらず。世には百二十五歳を累ぬるまで、長寿を保ち満足せんとするものもあれど、十八歳にして刑場の露と消えたる俊傑もありて其の為す所同じからずと雖も、功業一世に冠たるものありて、千載を指導するを最も難しとせざる可らず。我が渋沢男の如き真に稀世の人傑なる哉と。
 又同日の読売新聞も其社説に於て論じて曰く
 去歳実業界より退きたりし渋沢男の、今回高等商業学校に於て倫理を講義するに至りしは一個の興味ある問題なり。男は兎に角我国現代の実業家中に在りては卓越せる人格者なり。而して多年の実業生活は男をして豊富なる実経験の所有者たらしめたり。男にして実践上の商業道徳を説く。一言一句経験の声なり。事実の帰納なり。倫理上の学説を説く人は他にあらん。而も多くあらん。活社会の活事実に依つて裏付けられし実際的商業倫理を説き得る人、男を措いて之れなし。福沢雪池翁は学問は何事にても学問なりと謂へり。然らば男は活学者たりと云ふべきなり。世波幾辛酸の男の講説は、将来商業界に活躍せんとする青年に取りて如何に多くの教訓ぞや、特に深邃の理論なくんば学問なしとせる現代人に、所謂活学の真義を悟らしむるは意味ある事と云ふべく、吾人は男の修身講義に一意義を認めて喜ぶものなり、と。
 以て社会が如何に青淵先生の熱誠に感謝しつゝあるかを推するに足るべし。
  ○昭和十二年十月十八日付当資料編纂所宛佐野善作書翰ニ拠レバ、此ノ講演ハ正科「修身」科ノ時間ニ行ハレタルモノニ付、試験ハ略シタレドモ、科外講演ニハ非ズトノコトナリ。又是日ノ第一回講演ハ緒言トシテ述ベラレタルモノナルタメ、特ニ記録ヲ取ラザリシモノト思フトノ由ナリ。


中外商業新報 第一一二一四号 大正六年六月二五日 ○渋沢男が先生に 高等商業の倫理の講義をする(DK440062k-0003)
第44巻 p.199-200 ページ画像

中外商業新報  第一一二一四号 大正六年六月二五日
  ○渋沢男が先生に
    高等商業の倫理の講義をする
      ▽……男は往訪の記者に語つて曰く
渋沢男は昨年事業界を引退し其後半世を挙げて教育・慈善・救済事業と資本労働の調和の為めに尽さん希望であつた、然るに今回佐野高等商業学校長の懇望に委せ開校以来縁故の最も厚い
  同校の倫理の
一部を担当し、無報酬の名誉講師と為り、月幾時間か自己の経験より来れる実際倫理学の講演を為す事となり、廿三日の土曜日同校上級生六百名を講堂に集め、第一回の講演を行はれたが、右に関し男爵は往訪の記者に語つて曰く「私と高商との縁故は同校の前身たる商法講習所時代からで、其後森氏の時だと記憶して居るが、商議員と云ふ役員に挙られ、微力乍ら各事業家と共々卒業生の就職に尽瘁し、現に
  三井等には同
 - 第44巻 p.200 -ページ画像 
校出身の人が最も多い、斯く因縁の深い処に佐野氏が来られ、事業界も事実既に引退されて居られる、だから此際予て密められたる精神界の方面に関し、普通の講師の如くならずとも差支へ無いから、是非倫理的の講演を行つて貰ひたいとの交渉で、自分も至極同感の処もあるので宜しいと実は引受けた訳である、私は元より之といふ学問無く、只四十幾年踏んで来た経験を唯一の資料とし、将来事業界に乗り出す青年は
  斯かる信念を
持つて押切つて貰ひたいと云ふ事を論述するに止まるのである、それで廿三日の講演といふのは、富を真の目的として進めば其処に屹度不道徳が生じ、現世吾実業界の紳士間に見る如き人義を滅却した行為を敢てして尚ほ平然として居る様な事を微塵も為さざる様、且つ古くから私の提唱しつゝある総ての事業は個人主義を擲ち、必ず共同組織の上に発展しなければならぬ事等、所謂道徳と経済を一致融合すべく説き、尚ほ資本と労働の関係が世の進歩と
  共に益々劇し
くなつて、其の変化から生じて来る結果は実に憂慮すべきものがあるから、大なる注意を以て研究されたいとの意味であつたのだが、学生は非常に熱心に聞いて呉れた様で満足に思つて帰つた、引続き夏休み後続ける決心で居る云々」と、氏は此事業の為には身命を賭して貫徹して見たいと意気込んで居られる


井藤半弥談話筆記(DK440062k-0004)
第44巻 p.200-201 ページ画像

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集会日時通知表 大正六年(DK440062k-0005)
第44巻 p.201 ページ画像

集会日時通知表  大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
九月廿九日 土 午後一時 高等商業学校御講演


竜門雑誌 第三五四号・第一一―一九頁 大正六年一一月 ○人とは何ぞや 青淵先生(DK440062k-0006)
第44巻 p.201-207 ページ画像

竜門雑誌  第三五四号・第一一―一九頁 大正六年一一月
    ○人とは何ぞや
                      青淵先生
 - 第44巻 p.202 -ページ画像 
  本篇は青淵先生が九月廿九日東京高等商業学校に於て、同校生徒に対して講演せられたる第二回実践倫理講話なりとす、但し本篇は未だ青淵先生の校閲を経ず総べて速記に依りしものなれば、念の為め一言す。(編者識)
 道徳と経済を一致させねば為らぬと云ふことに就きまして、継続的に本校に出て愚見をお話して見やうと云ふことを前回に諸君にお知らせ致しまして、且つ其の総論とも申すべき意味で、道徳と経済との関係に就て聊か御披露して置きました、此の程学校に於て印刷して下さつたと云ふことでありますから、多分皆様は御覧下さつたであらうと思ひます。
 此の両者の一致せねばならぬことは、今更私が喋々する迄もなく殆ど定論であるにも拘はらず、兎角に離れたがる傾があつて、甚しきは其の距離が次第に遠ざからうとして居る。なぜ其の距離が遠ざからうとして居るかと云ふ顛末は、前回に稍々詳しく申述べて置いたやうに思ひますが、東洋と西洋とでは其の間に余程の相違がある。其相違の起るのは、要するに教育の根源、道徳の基礎を異にするからであると思ひます。両者間の距離が、彼れに少くして我れに多いと云ふことは主として宗教の関係、道徳の教の説く所が違つて居るが為めであるとしたならば、吾々東洋人として大に其の攻究をせねばならぬ必要があると考へます。
 支那には所謂儒教と云ふものがあるが、是はどうも宗教とは看做し得ない、一向宗教らしい形式を備へて居ない。それから日本に於ける宗教としては、先づ神道も宗教と申して宜いでせうが、最も広く行はれて居るのは仏教でありまして、八宗九宗、甚しきは十一宗に分かれて居る。此の仏教も勿論孝悌忠信等の仁義道徳を説かぬではないけれども、主として我を棄てよとか、本来無であるとか、一切空であるとか云ふやうなことを論じ、所謂俗間と離れた教旨を立てゝ居るのでありますから、どうしても世間日常の事柄とは縁が遠くなつて居る。故に若し此の宗教の発展だけであるならば、精神と物質との結合に甚だ不便である。
 然るに欧米のは之に反して、宗教其のものが日常の生活と常に相連続して居るやうであります。通常の家庭に於ても或は神学に属することを教へ、或は学校にてもそれ等の点に就ては重く見て居るやうであります。素よりさう云ふ方面のことは、私素人にして能くも存じて居りませぬが、縦しや学校として宗教と教育とは一緒にしない。政治なり法律なり若くは工業なり商業なりの教育と宗教とは、混同しない所もあるか知れませぬけれども、それは唯々教育上混同しないと云ふだけで、日常の生活、社会の事務を処するには必ず宗教的観念が加味されて居るのであります。例へば基督教の「己れの欲する善いと思ふことは必ず人に施さなければならぬ」と、斯う云ふ風の教は、商売の上にも、工業の上にも、常に関聯して行はれて居るやうに見えます。左れば道徳と経済の教は、東洋の如くに、説く人と行ふ人とは全く別である。若くは道徳を論ずる人が生産殖利に関係すると卑しくなる。生産殖利を図る人が、道徳を論ずると損が立つと云ふやうな誤解は、西
 - 第44巻 p.203 -ページ画像 
洋には東洋程甚しくはないと申して宜からうと思ひます。
 而して物質的の智識に於ては、何と申しても今日尚我は彼に及ばぬ総て事を欧米に学ばざるを得ませぬ。五十年の今日迄に、或る一部分には自発したものもありますけれども、それは甚だ乏しくて、大部分は模倣である。それから一方の信念に属する方の事柄は、勿論学校でも教へず、家庭に於ても重く見て居ない。尤も中には基督教を信ずる人も段々ありますが、それは単に宗教として信じて居るだけで、欧米の如く宗教と日常の動作とが融合して行はれると云ふまでにはなつて居らないのであります。而して此の仁義道徳は、日常の吾々の生活とは全く隔離して居るものでないと云ふことは、私が強いて言葉を設くるのではなく誰方がお聞きになつても理解されるであらうと思ひます
 道徳と生産殖利とは、是はもう私の論ずる迄もなく離るべきものではないのでありまして、仁義道徳と雖も生産殖利の働きに依らなければ広い仁をなし、広い義を為すことも出来ない。道も徳も極く小さいものとなるのであります。仁義道徳が経済上の発達に依て大になると同時に、経済上の健全なる進歩も之に伴ふのであります。正しい道が行はれなければ富を進めて行くことも出来ない、是は万古不易争ふべからざるの理である。けれども悲しい哉、前に申上げました如く、東洋では利を図る人は義を説き仁を為すと云ふやうなことはせぬでも宜いと云ふ風に今日まで相なつて来て居りました。従つて利を論ずる部分の広くなる程、仁義道徳に対する観念が薄くなる所でなく、殆ど顧られない、極く平たく言ふと、所謂富と云ふ目的の為には道徳とか仁義とか云ふやうな手続は殆ど顧る暇がないと云ふ迄に成り行かぬとは限らぬ。或る方面には随分其処まで極端に至つたと言ひたい位の所があるやうに思はれます。若し此の如き有様で進んで行つたならば、孟子の所謂奪はずんば饜かず、上下交々利を征つて国危しと云ふやうになるのは、決して杞人の憂のみでありませぬ。
 仁義道徳のことを論ずるに甚だ学問が薄く、寧ろ生産殖利の実務に就て経験の多い私が、玆に仁義道徳と生産殖利とを一致させるは此の如くしたら宜からうと云ふことを申すのは、一方から言ふと甚だ方面が違ふ。又学者側からは高尚なる仁義道徳を論ずる柄ではないと云ふ風の非難を受けるかも知れませぬが、併し私から之を弁解して申せば如何に高尚なる道徳と雖も行はれなければ効能がない。如何に結構な献立でも、それが料理となつて現はれなければ食べて味を感ずることが出来ない。所謂絵に書いた牡丹餅では何にもならない。成程私の今説きます所のことは従来攻究し来つた学者其の他人の言ふやうな、極く蘊奥を道ひ破ることは出来ないか知らぬが、斯う申すと甚だ烏滸がましくありますが、自分は実際に行つて居る積りである。縦令小さくとも行つて居る積りである。即ち不味い料理でも諸君に提供して食べ得るだけにはなつて居るのであるから、絵に書いた牡丹餅でないと云ふことだけは玆に申し得るのであります。故に是から世の中に出て実務に就かうと云ふ此の高等商業学校の学生諸君に此の事をお話するのは私の此上もない愉快に存ずる所で、又此上もなく必要なことゝ感ずる、一歩進んで私は現に商工業に従事しつゝある諸君にも知つて戴い
 - 第44巻 p.204 -ページ画像 
て斯かる場合にはどうしたら宜いか、斯う云ふ場には如何にすべきか二者離れないやうにするにはどうしたら宜いかと云ふ御質問に預りたいと思ふ。果してそれを十分に解決し得られるかどうかは知りませぬが、自ら任じて此両者を一致せしむる解決者たることを希望して居る故に、現在実務に当つて居らるゝお人にも申したいと思つて居る。殊に是から先き、此の任務に就く所の諸君に対してお話するのは、私の最も愉快とする所であります。故に今後、斯かる事柄があつた、斯かる場合には斯うしたら宜からう、斯く考へたら宜からうと云ふことを屡々申上ぐる訳には行きませぬが、月に一回づゝ参上致してお話しやうと思ふのでございます。
 今迄申上げたことは、前回に申述べたことを繰返して少し敷衍したに過ぎませぬが、今日私が玆に問題として申して見たいと思ふことは吾々が人として一体どう考へたら宜からうか、斯う云ふことを一の問題として申して見たい。人とは何ぞやと云ふやうな意味に相成ませうと思ひます。
 此の間或る講演会に於て私の前に出たお人が、人とは何ぞやと云ふ解釈に就て大変をかしいことを言つて人を笑はせました。地方から東京に出て来て、政治などの方面に没頭し、碌に学校へ行つて勉強するでもなく、堂々たる議論はするけれども、品行は悪い、下宿屋などに借金を拵へ、借りられるだけは友達を借り尽すと云ふやうなことをして居る連中が寄集つた時、人とは何ぞやと云ふ問題が出た。此の解釈に就て、借金の言訳をするを務とする動物であると云ふ決定をしたと云ふことである。吾々は戯れにもそんなことは嫌やだけれども、事実さう云ふことがあつたと見えて、其の講演者は、自分の若い時に斯う云ふことがあつたと言つて居りました。青年が一歩方面を誤つたらさう云ふことにならぬとは必しも言へないと思ひます。若し之を今一歩進めて言へば、国とは何ぞやと云ふ問題に就て、国とは列強の間に立つて、彼方に可い加減のことを言ひ、此方に可い加減のことを言つて始終借金をして、其の言訳をするものだと云ふことになる。成程さう云ふ国も広い世界には無いと言へないが、さう云ふ国は決して立派な国と云ふことは出来ぬ。又一国の分子たる個人が、万一にも人間は借金の言訳をする動物だと云ふ風に考へて居るならば、是は甚しく悪い考である。私は左様な汚い言葉を以て人を解釈しやうとは思ひませぬ此の人と云ふことに就ては嘗て私が或る人の問に答へて人生観を述べたことがある。それは『青淵百話』の中にも出て居りますが、今読んで見ると、果して是で十分に人たるものゝ解釈が出来て居るとは思ひませぬ。学問の浅い為め、又議論の拙い為に、言葉は甚だ浅薄、議論は甚だ卑近であつたやうでありますが、併し私は人と云ふものはどうしても唯々自己だけに依て生存するものでないと云ふことは、確に考へなければならぬと思ふ。
 広い意味を以て言ふならば、人が集つて社会と云ふものを作り、其の社会を進めて行くものが国家である。其の国家に対して相当なる貢献を為し得る者に於て、初めて人と言ひ得るのであると考へます。之を支那の教に就いて申すと、東洋の哲学では人と云ふものを大変高め
 - 第44巻 p.205 -ページ画像 
て書いてあります。宇宙に於て最も優秀なるものは天地人の三才であると言つて、人と云ふものを非常に高く見て居ります。例へば韓退之の「原人」と云ふ文章の中に「形於上者謂之天。形於下者謂之地。命其両間者謂之人」と云ふことがあります。是は今の天地人三才と云ふ短かい言葉を丁寧に解釈したものであると見ることが出来ます。西洋の学問では、ダーウインの進化論などを見ると、人と豚とは其の初めの有様を見ると、ちつとも変つて居らぬと云ふやうに説いてある。アア云ふ議論から言へば、何も人間がそんなに高尚な、偉いものであるとは言へない。人間がさう自惚れることは出来ないかも知れませぬが私はどうも姑く東洋流の解釈に止めて置きたい。人は万物の霊長だと云ふやうな議論に、果して欧米人が服するかどうか知りませぬけれども、私はどうしても東洋流に考へて置きたい。従つて私は今の借金の言訳をする動物だなとゝは思はないのであります。
 万物の霊長であるとするならば、人は唯々自己だけが満足を得ればそれで人の本分を尽したとは、どうしても私は言ひ得ないのです。それでは決して人たるの本分を発揮したものとは言はれぬ。斯く申すとそれなら自己と云ふものは少しも顧ないで、唯々国家とか社会とか云ふ方にのみ力を尽せば、それでもつて人たるの本分が尽し得られるかと云ふ反問が起るでありませうが、是も決して私は単にさう云ふ意味で申すのではありませぬ。如何に国を愛する人と云ふても、自己を忘れるものではありませぬ。愛国の士は必ず其の郷党を愛する、即愛郷の人である。其の郷党を愛する人は、又其の家を愛する。斯うして小さい所から段々に進んで行くのであるから、自己を少しも顧ないで宜いと云ふ筈はない。唯自己の満足を得れば、それで足るのではないと云ふ意味である。
 所で世の中のことは、万人が皆一様に行けるものではない、人に依り自己以外の事に対して尽すことの多い人もあり、少い人もある。それは誰れに出来て誰れに出来ないと云ふものでない。其の人の地位なり境遇なりに依て、或は智識も大に発展し、又其の働きも大きくなるのである。故に根本は自己を満足の位置に置き、それから先きは、自分を満足せしむると共に、周囲に満足を与へると云ふことは、何人も出来ることゝ思ひます。而して其の結果は社会の進歩と云ふことになる。即ち自己の発展と共に、社会も亦発展して来るのである。若し自己自己と言つて、己れのみを考へて居たならば、極端に言ふと自己も存立し得ないやうになる。人々相交り、相進めて行くと云ふことで、初めて国の富も増し、社会の総てが進歩して来ると云ふことは、是は実に争はれない真理であるやうに思はれます。玆に於て人とは何ぞやと言つたら、自己を進めると共に、国家社会を進ましむる働きを為し遂げ得られた者が即ち人であると、斯う申し得るであらうと思ひます
 そこでどうしても人々が互に相交はると云ふことは甚だ必要である人々相交り、相愛し、相譲ると云ふことが出来れば、其の間に仁義道徳が行はれるのであります。之に就ても、前に申しました韓退之は、「博愛之謂仁。行而宜之之謂義。由是而之焉之謂道。足乎己無待於外之謂徳。」と言はれて居ります。人として世に立つて事を処して行く
 - 第44巻 p.206 -ページ画像 
のに、一国を治めるにも、一郷を導くにも、一の事業を経営するにも或は一家を治めるに就ても、此の心がなくては到底行くものではありませぬ。人は自己のみで此の世の中に生存すべきものではなく、社会国家と共に生存して行くべきものであるから、自分だけを考れば宜いと云ふことは出来ぬ。と申して己れの本分をも顧ず、無暗に人に干渉せよと申すのではありませぬ。社会の為め、国家の為に働くやうにと申せば、事に依ると解釈を誤りまして、無暗に人のことに干渉し、人の事に奔走するのであると云ふやうに思ふ者もありますが、己れの立場をも顧ずして人の為に働けと申すのではありませぬ。此処は明確に区別を願ひたいのであります。
 此の主義から論ずると、人たる者はどうしても仁愛の情、忠恕の行を以て相交るのでなければならぬ。而して各々の人が社会の事、国の事に就て尽す方面は、人に依り千差万別でありまして、必ず此の如くしなければならぬと云ふことを定め得るものでもなく、又定めるにも及ぶまいと思ひます。唯々此の心を以て世に立つて行くことが必要である。併ながら完全に社会国家の為に尽すのには、是は唯々仁義道徳のみでは足らない、即ち総て事を処するに其事を知るの智識がなければならぬ。法律家であれば法理に通じて居なければならず、政治家であれば世界の政治や歴史に明かでなければならず、商売人であれば有無相通ずるには如何にすべきかと云ふ判断に長じて居らねばならず、工業家であれば、機械工業はどう、化学工業はどうと云ふやうに、夫れ夫れの智識を十分に備へて居らなければならない、けれども智識が十分に備はれば、それで宜いと云ふ訳に行かぬ。尚其の上に勉強努力と云ふものがなければならぬ。凡そ事の成功は、之を知るの明よりも之を勤むるの精に如かずと云ふことは、是は決して誤らざる真理であると申して宜からうと思ひます。縦し其の知が完全でなくとも、其の技が十分でなくとも、不断の勉強から其等の不足を補ひ得た所の例は私共の経営した事業の中にも数々あります。故に勉強は総ての事柄に就て極めて重大なことであります。又実際の事業に就て論ずると、左様に事を知り、左様に勤勉であつても、どうしても其の目的通りに効を奏せぬ場合がある。是は其の事がまだ機会を得ぬとか、時に合せぬとか云ふのであるから、さう云ふ場合に於ては、益々強い勇気を奮い起して、何処迄もやり遂げる覚悟が必要である。但し此等は詰り事を処するに就ての道行であつて、其の根源は前に申す通り人たるの本分は如何なるものであるかと云ふことを理解するにある。それの理解が出来なくては、到底冒頭に述べました利と道とを一致せしむることが困難であらうと思ひます。
 此の人たる者は何かと云ふことの解釈を、私が深い智識、巧な弁を以て諸君の御耳に入れることの出来ないのは甚だ遺憾でありますが、概括して申すと、人は自己の為に生きるものでない。自己を全うすることは勿論であるが、同時に国家社会の為にも尽さなければならぬと云ふことの覚悟を十分に持たねばならぬ。即ち心に属する方ではさう云ふ観念を持ち、事業に属する方の側では唯今申述べた通り、智識なり、勉強なり、耐忍なりの覚悟が必要である。それだけの考を以て行
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きましたならば、少くとも私は人の本分を過たぬと云ふことだけは確に出来ると思ひます。毎度自分のことばかり申すやうでございますけれども、私自身が世に立たうと思うたのは、初めは決して今申上げたやうな人の本分はどんなものであるか、人の本分は如何にして発揮し得られるであらうかと云ふやうな考から起つたのではなくして、唯々我一身を処するに、どう云ふ風にしたなら宜からうかと云ふ心を起しただけであつて、其の中に社会が私をば斯う云ふ風にせしめたのであります。最も私が商工業に身を委ねると云ふことに就ては、初めから深く考へたことでありまして、元来が微力ながらも国家に尽さうと思つて家を去つたのであるから、今後錙銖の利を争ふ業体に身を置くとも、最初家を出る時の観念は何処までも抱持しやうと云ふだけの決心は致して居りました。利益を専らとする職業に居るとも、それだけが自己の本分であるとしたのではなく、自己の事業を社会国家の為に貢献するのには如何なる観念を以てしたら宜いであらうか、それが完全に出来れば、小さいながらも人たるの本分が稍々尽せたことになりはせぬか、又それが職業に対する勤めを全うしたものと言ひ得るであらうと斯う考へたのであります。
 斯様な考を持ちまして、私の経営しましたことも、或は高い道徳から見ましたならば、又深い智識のある人が見られましたならば、色々誤つて居る点もありませう、是は如何であると責められる点が必しも無いとは申されぬが、甚だ烏滸がましくはありますが、私自身として疚しい所は少しもないと信じて居ります。又単に道理を説くだけで、実際の仕事は出来なかつたとは言はぬ。文明に対する事業に於て、多少ながら貢献を致したと考へて居ります。故に甚だ小部分ではありますけれども、道徳と経済とは斯くすれば一致しますと云ふことを、私自身は申し得る積りであります。而して小部分ながら私は日本に生れた者の一人として十分に尽し切つたとは申しませぬ、尚此の以上に人たるの本分を完うしたいと思つて居りますが、八十に近い今日迄先づ人の勤めをなし来つた積りであります。見渡す所、諸君は皆私の四分の一位の年配であるらしく、今後の前途は甚だ楽しみ多く実に希望に充ちて居ります。勿論世の中が違ひますから皆渋沢と同じやうな風になさいとは申しませぬ、否私個人の手に属した者でも、私を真似よとは言はない、又真似するとしても同じやうなことをするのが真似ではない。若し私の精神を御採り下さるならば、形は異にしても志は一になるのでございます。今日御集りの諸君は、将来皆同じ業に就かれるのではない、様々の方面に向はれるでありませうが、帰着する所は皆一であらうと思ひまして、今日は人とは何ぞや、人は斯く覚悟しなければならぬものであると云ふことだけを申上げた次第でございます。


集会日時通知表 大正六年(DK440062k-0007)
第44巻 p.207 ページ画像

集会日時通知表  大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
拾月廿七日 土 午後二時 高商ニテ御講演


竜門雑誌 第三五五号・第一一―二九頁 大正六年一二月 ○東京高等商業学校に於て(大正六年十月二十七日第三回講演未校閲) 青淵先生(DK440062k-0008)
第44巻 p.207-220 ページ画像

竜門雑誌  第三五五号・第一一―二九頁 大正六年一二月
    ○東京高等商業学校に於て
 - 第44巻 p.208 -ページ画像 
        (大正六年十月二十七日第三回講演未校閲)
                      青淵先生
 会を重ねて此壇に登つてお話をしますと、段々に教師らしいやうになるかも知れませぬが、どうも所謂附焼刃、素養がありませぬから講演と云ふことはどうしても私は拙いのです。それで唯自己の考へる所を所謂断片的に諸君にお話したい。或る場合には私は斯う行ひますと云ふことを申述べたりして、それを煮るなり焼くなり、或は其儘生でお刺身で食べるなり、私の述べた材料を如何に利用するかと云ふことは諸君の脳裡にお任せしますが、拙く食べると食傷なさいますぞ。それは私が材料を提供したのが或る場合過ちになるかも知れぬけれども併し粗製濫造は進めないし、又腐つた物をも提供せぬから、若し食べる方が悪ければ諸君が悪いのだと私は弁解をする積りであります。但し私はどうも先生式にならぬ、学者式にならぬだけは素養の無い私故に、どうぞ御容赦を願ひます。大体此処へ出てお話をする要点は、道徳と経済が必ず一致すべきものだと云ふことであります。之を成程真に近いと云ふことにまで、追々に論究して見たいと思ひます。けれども此道徳と云ふものも広い範囲、経済と云ふものも大きい意味ではございますが、唯狭く或る論理に詰めて云ふたならば、もう一場の談話で済むことは論を俟ちませぬ。さりながら或る場合に事々に論じて行きますと云ふと、随分引延して、所謂之を放てば六合に弥り、之を巻けば退いて密に蔵ると云ふ――朱子の中庸の序にありますが、さう云ふ按排の道徳経済論が、斯う云ふ場合は此処が左様である。斯う云ふ場合は此処が一致する、斯う誤れば此処が不一致になると云ふことが各方面に生じて参らうと思ひまするので、成べく先達も申上げた通り総論は其処であるが、中の各論と申すべきか、仮令話は岐路に這入つても、遂には元に戻るやうな心持を以て、自分の考へた愚説若くば自己が経過した所謂事実談と云ふやうなものに就て、是から先追々に申上げたいと思ふのでございます。
 先達私は人と云ふものゝ本分をどう考へて宜いかと云ふこと、之を議論的に申して見れば、人とは何ぞや、と云ふやうな意味で、或は主観的にも考へられる、或は客観的にも考へられる、併し乍ら人は自己のみに生くるものではないと云ふことは、結局動かすべからざる議論になるであらう、而して此自己のみに生きるものではない、多く広い社会若くは国家の為に生きるに於て、其人の効果が段々広くなる、けれども皆の人が残らずさう効果が広くなると云ふ訳にはいかぬ、故に狭いのもあるけれども、如何に狭くとも、人は自分だけで世に立ち得るものでないと云ふことは、もう根本理として動かすべからざるものであると云ふ趣意に於て申上げて置きましてございます。今日申上げたいのは、其人が段々に本能を尽す場合は広くなつて来る、是は少年から青年になり青年から老年になると云ふ風に、人の年歯が進んで来るに従つて、段々人の関係が広くなる程効果が多い、効果の多い程責任も増して来る、さう云ふ順序に進んで行くものでありますからしてそれ等の辺に就て、人たるものはどうしても初めは斯う云ふ考を以つて、世に進み行くが宜からうと云ふことからお話を申して見たいと思
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ひます。或は諸君が今までの学問上から、どう云ふ順序に私の今申述べんと欲する所を倫理とか修身とか云ふものでお修めになつたか、其程合が学校の内容などは存じませぬから、どう云ふ教を先生方はなさるか分らぬが、私はどうも今日の学問は少し此知識の方にのみ重きを置かれて、精神上倫理的観念に強い力を以て先生方が能く教へて呉れぬではなからうか、さりながら一方に又、全体学問と云ふものは智恵を増す為であるから、学校は知識を増してやればそれで宜しい。或は信仰とか修身とか云ふやうなことは、皆其人々己れ自身に其観念がなくてはならぬ事であるから、それは学校で稽古せぬでも宜いではないかと申し得るかも知れませぬが、併し今日の場合はさう仰せらるゝ人が仮にあつたにせよ、私は人の本分は如何であるか、人はどう云ふことを主義とせねばならぬかと云ふことに就ての教が甚だ乏しくはないかと思ふ。縦令仮に――充分なる教育を我家に於て為し得るとは申されませぬけれども、仮に為し得るとして見ても、段々学校の風習が自然の形を為す為に、家へ帰つてそんな話はもう学校で苛められて来て聴きたくない、と云ふやうな有様になるから、教へる用意も乏しければ、学ばうと云ふ心も其子弟には少ない。随つて教育と云ふと唯知識其他は何も無いと云ふやうになりはしないかと思ひます。是は少しどうも物足らぬのみではない、悪くすると云はゞ心棒の立たぬ唯形だけ具へる人が多くなりはせぬか。精神的人間が甚だ少くなりはせぬかとまで恐れるのであります。智育と徳育の権衡が云々と云ふことを学者社会でも仰しやるが、其分量がどの位を以て適当とするかと云ふことは、どうも私は教育者でないから、甚だ其加減が是が程度であるなどとは申されませぬけれども、大体の上から今日は精神的徳育と概評すべき種類に対して、甚だ其用意の具備したものが無いとまで申上げたい位です。それで私の今申上げることが果してそれに当るかどうか分りませぬが、私は其智育の意味でなくして、精神の修養に属することを申上げて見たいと思ふのであります。
 申すまでもなく我帝国の臣民として、所謂忠君愛国、奉公の念の強くなくてはならぬと云ふことは、もう論を俟たぬ話で、且つそれらの点に就ては願くば或主義を持ちたいやうに思ふのであります。是はどう云ふ方面に其目的を定めて宜いかと云ふことは、自ら宗教的観念にもなりませうから、私が是が宜しいと云ふことを申上げることは一寸六ケ敷うございますが、仮に私自身はどう云ふ感じを以て世に立つかと申すと、極く若い時分には甚だ殺伐の思案で、どうか偉い人になりたい、世の中から成程変つた人間だ、大に世間から注目すべき人であると言はれる位までの人になりたい、と云ふやうな意思が一番先でありましたから、敢て所謂神道とか仏教とか申すやうなる、一歩誤れば迷信に陥るやうなことは薩張り心に感じませなんだ。故に極く俗に申すと信仰の無い人間に育つたと申して宜からうと思ひます。其初めは農業に身を委ねて、郷党の中にて幾らか優れた人となり得たならば満足である。父に優つた人だと世間に讚められるのが我本望と云ふ位の考で、而して我家業を丹誠せねばいかぬ。人に対しては努めて親切を尽さなければいかぬ、所謂仁義などゝ云ふものは、最も人の履み行は
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なければならぬものだ、斯様な覚悟を以て郷党に誉ある人にならうと思ひました。更に進んで海外の関係を少し解してからはさう云ふ意念がとんと変化して、それらの事を以て人間の本分と思ふて居られぬ。どうも日本は外国人に到頭侵略せられはせぬか、今の幕府の処置では所謂宋末の金・元などの国交の有様で城下の盟に陥ることはもう目の前である、而して其幕府の執る方針は全く世の中を欺罔して、甚しきは天子をも欺き奉つて外交を処置する。斯の如きは苟くも国民として生れた以上は黙して居られぬ。之を改革するが人間の本分だと所謂革命を人間の本分だと思ふやうな――今考へると決して讚めた思案ではない。寧ろ左様な考を起さずに他の方面に進んだら、もう少し私が利口な人になり得たらうと思ひますが、此間今の信仰心などゝ云ふものは甚だ乏しかつたのです。唯それを行つたならば、仮令自分が即時に死んでも、それに就て国に対する忠臣たり得る、即ち奉公の念を達する、志士仁人は生を求めて仁を害する無し、身を殺して仁を成す有り論語にあつたと思ひます。之を是非奉じたいと云ふのが其時の覚悟でありました。故に此時分にも神とか仏とか若くは一の本尊の如き意味を以て孔子を奉ずるとか云ふやうな、所謂安心立命とも云ふべきものは未だ無くて、もう事に当つて一死を潔くしたならば、即ちそれが自分の安心立命と云ふやうな考を以て世を送りました。色々に身が変化致しまして一橋の家来になり、政府の役人となり、更に進んで商売人になると云ふ明治六年頃に真に私が思ふたのです、どうも此実業界に這入つて、所謂錙銖の利を争ふと云ふ場合に、一の堅く守る所を持たぬと、大に過つことが無いとは言はれぬ。其守る所は何に依るか、即ち一の信仰でございます。元来聊か国に居る時分に学んだ書物が多くは水戸派に近かつたから、余計に排仏思想が強くて、仏教と云ふものは唯食はず嫌ひに厭であつた。さらばとて神道も別に教ゆる人が無かつた。筧博士の古神道でも稽古したならば、或は私も神道家となつて平田篤胤以上の国学者となつたかも知れんけれども、悲い哉学ばなかつたから知らぬ。そこで先づ浅薄ながら儒教の育ちから、此実業界に出るに就て、其奉ずる所の信念を何処に置かうかと云ふに、即ちそれは孔子の教、論語に依つたが宜からう、斯う云ふことに考を定めた。併し四十三年間我経営したことに就て、孔子様に見られたならば、総て外れて居るかも知れませぬけれども、私の心では決してさうではなくて、それこそ「偃之言是也」、子游と云ふ人が孔子様に会はれて大変に反対理窟を言ひましたら、「偃之言是也」と云ふた言葉があります。「子武城に之きて弦歌の声を聞く、夫子莞爾として笑て曰く、鶏を割くに焉ぞ牛刀を用ひん」子遊が私は斯様に考へると極く四角に答へた、そこで孔子は大層喜んで子遊の行動と覚悟を讚めて「偃之言是也」と言はれたことがあります。私にも孔子が「渋沢之言是也」と言つて下さるかどうか分りませぬけれども、私は先づさう言はれる積りで居るのです。で、其覚悟は私はどうも知識をお進めなさる諸君に、何れかの方面に於て持つやうになされたいと思ふのであります。或は神道も宜からう、仏教も宜からう、耶蘇教も宜からう、儒教も宜からう、其選みは諸君の御随意でありますけれども、詰り其精神を一つ堅
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く、此方面に於て動かすべからざる覚悟を持つと云ふことは、人として甚だ必要なことである。智識と道徳を成べく密着せしめると云ふ観念からは、何か一の拠所を持つと云ふことは、私は甚だ必要のことゝ思ひます。私共の友達で学者が多くございますが、一の会を拵へて、名づけて帰一協会と申します。是は何を帰一するか甚だ漠たる命名で帰一と云ふことは何処へでも用ひられる。小さくも帰一が出来るし、大きくも帰一が出来る。併し其期する所は成べく今云ふ各種の宗教などは遂に一に帰しはせぬかと云ふ、えらい遠大なる希望を持つて、遂には其処に到らせたいと云ふのが、其会員の密に期して居る所であります。然るに、其仲間で教育上信念と云ふものが有るを是とするか、無くても宜いかと云ふ問題が起きて、学校は宗教などを言つてはいけないと云ふ説を強く云ふお方もあり、いけるいけないは第二にして、日本の学校教育に宗教を加へると云ふことは、事実に於て出来ぬと云ふ説を主張する方もありました。さりながら学生が強い信念を持つことが悪いと云ふ説は、到頭何方にも無くて、矢張是は追々にさう云ふ気風も生じて来るであらう、今の所ではどうも智恵を求むるに急であるから、さう云ふことの観念が少し昔よりは薄らいだやうであるけれども、是は遂に必要視されるやうになるであらう、否必要視するやうに、一般の学生の気分を其処へ導くやうにせねばなるまいとまで強く論ずる人もありました。私共は矢張それを希望する方の一人で、帰一協会に於て種々なる討論をしましたことであります。矢張今此処で申述べるのも、どうしても智恵を進める諸君が、一つ之をお守にすると云ふことは持つて欲しい。人とは何ぞやと云ふ其人は、斯様なものがなくてはなりませぬぞと云ふ一の宝を、どうぞ守袋にチヤンとお納めなさるやうにしたいと云ふことを此処に申上げて置くのであります。其信念があるとすると、即ち其信念中には、色々なものがなくてはならぬが、丁度私が小さい範囲のお話ですけれども、埼玉県の学生中に――此処に御集りの諸君は方面が一つで、言はゞ商業を稽古なさるお方であるから、是から先づ十の九、或は十の十まで実業界にお立ちなさるであらうが、埼玉県の寄宿舎に居る者は、さうではなくて軍人になる人もあれば、会社員或は役人になる人もあり、商売人になる人もあれば工業家になる人もある、仮令人数は少くても各様であるが為に知識は各学校で修めるだらうが、此寄宿舎に於て、所謂人たる本分を尽すやうに致したい、即ち埼玉学生の気風を造つて貰ひたい。其気風を造るは斯くの如き一の信念を持つに在り。斯様な考から今尚学生の寄宿舎では、極く単純なる一の要義と云ふものを、必ず其処に這入る以上は持たなくてはならぬ、又守らなければならぬと云ふことにして――それを持たねばならぬとか、守らねばならぬとか云ふのは、所謂人から勧められる話になるが、追々には更に進んで各自自身がさう云ふ風習を造つて、所謂埼玉学生気質と云ふやうにまで進みたいと思ふて居るのです、其箇条は此処へ一寸書いて持つて参りましたが、至て卑近な単純なものでございます。之を以て諸君の守本尊にせよとまで申上げる積りではありませぬけれども、併し之も一の御参考にならうと思ひます。
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      埼玉県学生誘掖会寄宿舎要義
 一教育勅語ノ聖旨ヲ奉戴シ、至誠以テ君国ニ酬ユベシ
 一剛毅以テ志ヲ立テ、自重以テ事ニ処スベシ
 一自ラ修ムルコト厳ニシテ、人ニ対スルコト寛ナルベシ
 一親愛ノ情ヲ篤クシ、共同ノ精神ヲ発揮スベシ
 一勤倹ヲ尚ビ放縦ヲ戒ムベシ
 一規律ヲ重ンジ礼節ヲ正フスベシ
 一体育ニ力メ摂生ニ注意スベシ
 是が即ち埼玉学生誘掖会の埼玉学生気質として人から勧められて余儀なくすると云ふことでなしに、学生自身が動かしても揺ぶつても是だけの事はチヤンと具へると云ふ如き性格たらしめたいと、期して居る点であります、先づ勅語の聖旨を奉戴すると云ふことは、国民として最も必要であつて、即ち「克ク忠ニ克ク孝ニ」又「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ朋友相信ジ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ボシ」是は諸君も皆御暗記なすつて居りませうが、而して大体にそれだけでは済まない、「学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ」それから進んで一朝事があつたならば緩急事に応ずると云ふが如き、是が満足に出来れば、それこそ人たる本分は尽し居ることゝ思ひます。此忠と孝と云ふことは、どうしても大事なことゝ思うて、智を磨きながらも必ず之を能く覚悟の底に収めぬと、遂には智恵の進む程人間が浮薄になり、智恵の進む程人間が狡猾になる。是は丁度金が殖える程人が険悪になり、金の殖える程人格が下落すると云ふことであつたならば、経済と道徳とは全く不一致となると同じやうな有様で、人の身も智恵が増す程性格が下卑て来たならば、之を以て満足とはどうしても思へぬと考へますから、尚是は道徳経済合一と同じやうに、智識の発達と人間の精神の向上は全く一致せねばならぬもの、それを求めるならば、此文字の書方或は箇条の選み方は或は満足でないかも知れませぬけれども、少くも是等の箇条は私は甚だ必要だらうと思うて、埼玉県人に頻に勧めて居るのでございます。但し之を今諸君にお勧する訳ではない。又到て満足とは申されませぬが、此観念が余程彼処に寄宿する人々には強くなり得たと思うて喜んで居るのでございます。故に私の諸君に望む所は、もう一方に智識は斯の如き立派な学校、又斯の如き充分なる学殖ある教員諸君から教を受けて居る。故に其点に就ては私は昔日の商業教育が甚だ微々たりしに思合はして見ると、今日はもう少しも不足を云ふ所はない。さりながら今申上げたる此精神的の拵方は、果して智恵と伴ふ程進んで居るかと云ふことには、私はどうも多少の疑を持つ。私如き者が斯く声を嗄して申上げたからと云うて、諸君の脳裡に命中し得るかどうか分りませぬけれども道徳と経済を一致せしめんとするには、即ち其道徳心が経済を行ふ人人の頭に完全になければ決して一致する訳には行きませぬ。唯道徳と経済と云ふ一の植物が水の上にあつて、雌蕊と雄蕊が風の力に依つて相合する如く具合好く調和することは、どうしても出来ないと思ふ。故に道徳経済を一致させることは、其一致さすべき人其人にそれだけの充分なる覚悟、平素の用心がなければいけないことゝ思ふのでござ
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います。君に忠、父母に孝、兄弟に友、朋友に信――所謂人には五倫がある。五倫を整へて行くのが五常である。此五倫五常を重んずると云ふことに就ては、所謂道徳的学者の一日掛つても二日掛つても説き尽せぬ程話のある所でありますけれども、私はそれ程仕入も無し、又諸君がさう云ふ長い話はお飽きでありませうから、唯我帝国臣民として、忠と云ふ観念は、特に吾々が深い覚悟を以て持たねばならぬと云ふことを能く理解して頂きたい。是はどうも事に依るとお隣の国でも忠の字に就ては吾々と必ず観念を等しくする訳にはいかない。況や他の国に於ては事に依ると大に違ふと言はざるを得ぬかも知れませぬ。其分界を明瞭に説明することは私の浅学では出来ませぬが、唯違ふと云ふだけは私は断言して申上げる。吾々は違ふ観念を以て日本国民たり得たいと思ふ。諸君も必ずさう云ふお考を以て忠と云ふ字に重きを置くことは、必ず私と御同論であらうと思ひます。更に孝と云ふ字が是も支那は孝と云ふ字を大層重くしてある。現に「夫れ孝は百行の本教の繇て生ずる所なり」。甚しきは「三年父の道を改むるなき孝と謂ふべし」。是等は果して其儘奉ずべきものであるかどうか、若し父母が過つて居つたことを子が三年も改めては悪いと云ふのかどうか、余程是等の文字などに対しては再考をせねばなるまいかと思ひますが、併し今日若い方に対して私が老人で孝の字を講釈するとそれこそ我田引水と御理解なさるかも知れませぬが、諸君も亦軈て私の如き位地に立つて、今度は又次の子供に対して同様の感を起されるに相違ない。今は我田引水と思ふか知れませぬが、どうも此孝と云ふ字が余程曇つて居ると云ふことを能く御了解を願ひたい、是は老人ばかりが云ふのではありませぬ、一体智恵を進めるに急なる式の教育が、孝の字の光を余程薄らげたと云ふ嫌は私はあると思ひます。故に此孝と云ふ字に対しては、今の日本の国の忠と云ふ字に対する如き特殊の観念をお持ちなさらんでも宜いか知れませぬが、孝と云ふ字の解釈を余り軽蔑なさらぬやうに致したい。但し二十四孝までは私は主張はしませぬ。其親を救ふ為に郭巨の釜掘をお勧めはせぬのです。又王祥に倣うて寒中に裸になつて氷の上に寝て、鯉が出て来れば宜いけれども、鯉が出ないで風を引いた日には大間違です、左様な行為をお勧めはせぬけれども、其長者に対する観念が、唯父母は父母、我は我だと云ふやうにまで世の中が走つて行つたならば、それこそ五倫五常が滅却致す。或は智識ある階級が、さう云ふ有様に傾きつゝあるかと恐れるのであります。是も大にお考があつて欲しいのであります。故に教育勅語を埼玉県学生会でも先づ第一に謳うてあります、而して「父母ニ孝ニ」と云ふ字が勅語に堅く掲げられてあります。
 もう一つお話をして見たいと思ふことは、思ふことゝ行ふことの差別であります。是も丁度二つの事が一致すべくして、事に依ると不一致になることがある。又不一致になつたら甚だ困つたものである。中には言ふべくして行ふべからずなどゝ云ふ人がありますけれども、さう云ふ意味ではない。心に思ふことは必ず行ふ。即ち志して行ふ。もう一つ解釈して言ふたなら志望と実行とでも申しませうか。己れはさう思ふたけれども、と云ふだけで後で些ともしない。あの人はあゝ気
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の毒だと思つたけれども、些とも構はない。父母に孝行しやうと思ふたけれども、思ふたゞけで、することは止めやう。それは少し諧謔の言葉になりますが、斯の如き場合がないとは言はれぬ、さらば思ふことはどうでも宜いが、行ひさへすれば思はぬでも宜いかと云ふことになると是は又問題です。私はそうでないと思ふ。思ふことが甚だ必要と思ひます。行ふと云ふことは先づ思ふから発するものである。思はざる事を行ふと云ふことは人として出来ない。然らば思ふだけで行はずにしまふことが間々あると同時に、又行ひつゝどうも行つては悪いと思ふことも無いとも云へぬ。余程六ケ敷いことゝ思ふのであります何方が貴いかと云ふ問に対して古人が色々に研究して居るやうです。私が今其文章を覚えて居らず、何処にあつたか取調べませぬで甚だ朧げなお話を此講壇に立つ講師として申すのは、不親切の嫌がありますが、多分孟子の公孫丑篇にでもあつたかと思ふ。志と行と云ふことに就て区別を附けて、何方に重きを置くかと云ふことの問答を、孟子が公孫丑であつたか他の人であつたか――されて、結局孟子が斯う云ふことに論じ詰めた、然らばお前に問ふが、若し思ひさへすれば宜いと云ふならば、何処にか人があつてお前の為に親切を尽す、お前の家に成るべく利益を与へると云ふ思入を以て来た其人が、お前の家の壁を打壊したり、お前の卓上の物を取散したりしたら、それでもお前は其思入に対して矢張満足をして、其人に充分な謝礼をするか。それは出来ませぬ、そんな事があるものですかと斯う答へた。然らば矢張思ふばかりではいけないではないか。行が善くなくては何の値打もない。結局は行ふ方に於て始めて価が生ずるものであると云ふ判断を着ける為に、さう云ふ仮定的の譬喩を以て談話した文章があつたと思ひます是は志と行は孟子の解釈した判断のやうであります。独り孟子ばかりではない、爾来の書物にも段々そんな事はあるでありませう。欧羅巴の書物にも沢山あるやうでありますが、丁度私は最終に少しお話して見たいと思ふのはフリー・メーソンの――何と云ひますか秘密結社とのみ云つて居るのですが、大分古いものださうです。私の此のフリーメーソンのことを知つたのは四十二年に亜米利加で私共の一行を世話して呉れたポートランドのクラークと云ふ人があります。其クラークと云ふ人は材木業をやる、矢張実業家でありますが、其人がフリー・メーソンの社員で、而も大分行の善い人と見えて、相当なる其中の一の階級を持つ人で、小さい徽章を持つて居る。是は何の徽章かと尋ねたら一寸云ひませなんだが懇意になつたものですから、それはフリーメーソン団の徽章である、其フリー・メーソンとはどう云ふものかと云ふ話から一冊の書物を呉れた。それを翻訳したのが此フリー・メーソンリーの主義目的概要と云ふものですが、私は大変面白いものとして、酷く感心して居るのです。此感心して居る意味が今の実行を重んずると云ふこと、それともう一つは欧羅巴の有様に不似合に謙譲の徳を酷く喧しく云うて居ります。元来私は好んで論語を頻に読んで居りますが、それと同時に四福音書・馬太伝・馬可伝・路可伝・約翰伝を一・二度読んで見ましたが、諸君の中には基督教信者もありませう、斯う申しますと己れも読んだと云ふお方もありませう。是等を段々読
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んで見たが、どうも耶蘇の主義は謙遜と云ふ方に就ては少ない。一寸要点を云うて見ると、我受けた好い心地をば必ず人に施せと斯う言つて居る。是は謙遜の少い証拠だ。孔子は己れの欲しない事を人に施してはいかぬと言つて居る。同じ事です。我受けた好い心地のことを人に施せよと云ふことゝ、己れの欲せざることを人に施すなかれ、消極と積極の違はありますが、此間に支那の教の方が私共は寧ろ害が少いと思ふ。或は或点から云ふたら力が弱いと云ふかも知れぬ。故に其優劣を定めることは難いかも知れぬが、どうも此四福音書を見ても、謙譲と云ふことに就て言つて居ることは甚だ少い。人が汝の右の頰を打たば又左の頰をも転じて打たせよと云ふてある。打たせよと云ふのはもう謙譲ではない。フリー・メーソンの主義は大分謙徳を主張して居ります。フリー・メーソンと云ふものがどう云ふ起りであるかと云ふことの、其起源までの鑿穿は私はやりませんでしたが、此間女子大学の成瀬校長が態々起源を鑿穿した所に依つて見ますると、寧ろ紀元前のものだと云ふことであります。今に尚一種の秘密結社として、道学的修身上に段々と其仲間を殖して、其中どう云ふ運びになりますか、優れた人が一番の教祖となつて、彼は何の位、彼は何の位と、何でも十二に階級が別れて、大将から中将・少将とあるが如き有様になつてチヤンと儀式のときなどには服装も定つて居る。而して極く秘密にして居るが、如何なる方法に依つて其級を昇るとか、更に又大に進むとか、何か其仲間同志の定めがあるさうであります。それらの事は、余り丁寧にお話する必要もありませぬし、私も亦余り審かには知らぬ。亜米利加のレーキ・スーペリオルにヅルースと云ふ処があります。其処で四十二年に実業団の旅行のときに午餐を供して呉れたのが即ち此フリー・メーソンの食堂であつた。其ときに今の世話をして呉れたクラークと云ふ人に段々聴きました。聴いたに就て書物を貰つた。其書物を翻訳した。この翻訳の中に大分面白い事があります。今の言行の一致が甚だ行はれない、如何に善い事でも行はぬでは効能が無いと云ふことを寔に切実に書いてあります。是はフリー・メーソンでなしに孔子の教が即ちそれです。もう私共孔子の教で、行が貴いので言葉が貴いのではないと云ふことは充分承知して居りますけれども、西洋の教には四福音書などに余り無いことですが、此フリー・メーソンの主義を大に鼓吹してありますので、今の言論と実行の関係ばかりでなしに此フリー・メーソン主義は矢張一の修身上の教にならうと思ひますから、敢て是にお這りなさいと云ふ趣旨ではありませぬが、甚だ面白いから今日は之を一つお話して見たいと思ひます。
 「フリー・メーソンリーの主義目的概要」と云ふ表題にして翻訳しました。全文はもつと広いものですけれども其中の先づ主要点と思ふ所を、形式に走らず精神に属したるものを翻訳したのであります。是で完備したものでないと云ふことに御承知を願ひたい。朗読をしつゝお話をしますから――若し是が後で幾らか面白いものであるから翻刻でもなさりたいと云ふならば、一向妨げありませぬけれども、併しそれ程重要のものでないかも知れませぬ、是は私が面白いと思ふだけであるかも知れませぬ。此中に十誡があります、仏にも十誡があります
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が、此十誡が仏法の十誡よりは大変に善いと思ふ。
 抑も宇宙間に於ける各種の勢力は之を宜しきに従つて制御誘導せざる時は、徒らに之が消耗徒費を見るのみに止まらず、場合によりては却つて惨害を世に生ずるの虞がある、例へば弾薬を路上に燃焼し若くは蒸汽を空しく空中に放散せしめたりと仮定せよ、此場合に於ては徒らに弾薬の爆発力及び蒸汽の圧力を徒費するのみに止まらず時に或は人畜家屋等を毀傷せずとも限らないのである。
 と云ふのは人間の精力から論じやうと云ふ為に、斯う云ふ仮設の言葉を以て次に言はんと欲する所を云ふやうに見えます。即ち是は比喩の適切なるものであります。
 人間の精力も亦之れと同様であつて、唯だ漠然と其精力を発現せしむる時は、啻に精力の徒費を見るに止まらず、同時に又人類社会に損害を及ぼす場合なしとも限らない。之れ即ち社会上・経済上・道徳上・宗教上各種の法則が古来社会生活の経験上、人間の為めに作られたる所以であつて、要するに人間の精力若くは活力と云ふものは成るべく之を経済的に使用し、且つ其発現を為すに際しては能く知識の命ずる所に従つて一定の規律規範の下に之れを行はなければならぬと云ふことになるのである。
 知識若くば智力なるものは畢竟人間の精力の一種若くは一部に違ひないが、然かも其れが人間に対する関係と云ふものは、恰かも船に於ける羅針盤の関係と同様で、羅針盤其物も矢張船の一部には相違ないが、然かし其微々たる一箇の細針に能く大船巨船の航路を指示するの力があると同様に、目に見えざる智力と云ふものも亦能く人間の為に其活動の方向を指示するの力があるのである。
 斯様な意味を冒頭に掲げて、それから真理と愛と云ふものゝ二つの力が結合して、之に智力を加へて能く修養鍛錬して行かなければならぬと云ふことを説きまして、そこでメーソンには斯う云ふ主義があるからメーソンと云ふ名を附けたと云ふ、メーソン命名の理由が次にあります、之を残らず読みますと声の嗄れた上に尚嗄れます。此十誡だけ一つ読んで見ませう。
 第一誡 神は永久不滅なり、全智全能なり、万代不易の明智なり、至上の霊覚なり、不朽の愛なり。
此処らは耶蘇教の主義と同じです。
 故に汝の神は栄を顕はし、神を尊崇し、神を愛し、且つ諸々の美徳を躬行し神に誉を帰せざるべからず。
えらい霊的の趣意を述べて居ります。
 第二誡 汝の宗教は善を行ふが為めの宗教なり、善を行ふに当りては之を単に義務として行はず、楽として之を行ふべし、汝若し賢き人の友たらんと欲せば其賢き人の教に従はざるべからず、汝の霊魂は不滅なり、決して之を汚辱するが如き行為あるべからず。
至極御尤のやうに思ひます。
 第三誡 罪悪に対しては絶えず戦ふべし、己れが受くるを好まざる行為を他人に加ふべからず、汝の運命を甘受して呟くことなく、常に霊智の光を輝やかすべし。
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どうも大分呟く人が多いやうです。
 第四誡 汝の父母を尊崇せよ、老いたる人には尊敬と懇切とを尽くし、
是は私が講釈した訳ではありませぬ、本文に書いてある。
 若き者には良き教訓を垂れ、幼き者と無辜の民とには保護を与ふべし。
是は救済の意味を含んで居る、私が養育院に従事して居るから之を尊崇するといふ訳ではない。
 第五誡 汝の妻と子とを愛くしみ、汝の国を愛し、国法を遵奉すべし。
此処らに至ると日本主義からは少し軽重の違ひがあるやうに思ひます
 第六誡 朋友は第二の汝自身なりと思ふべし、落ぶれて袖に涙の掛かる時も決して之を棄て去るべからず。
是は本文にあつた訳ではありませぬ、訳者の筆です。落ぶれて袖に涙のかゝるとき人の心の奥ぞ知らるゝと云ふ歌がある。其歌の句を取つたのであります。
 死せる友の為にも彼を愛する記念として彼れの為に世に善事を為すべし。
 第七誡 巧言令色の交りを慎むべし、何事を為すにも決して適度を超ゆべからず。
伯夷は聖の清なるものなり、伊尹は聖の任なる者なり、柳下恵は聖の和なる者なり、孔子は聖の時なる者なりと云うて孟子が讚めて居ります、此適度と云ふ字は所謂この適度です。
 汝の記憶に汚点を印するが如き言行を為す勿れ。
是も却々六ケ敷い、御同様余程汚点を印して居るかも知れない。
 第八誡 喜怒哀楽の情に駆らるゝこと勿れ、慾情に駆られて妄動する他人の振を見て我身の鑑戒となすべし、決して不良の行為に耽けるべからず。
 第九誡 聴くことを多くし、語ることを少くし、行ふ所に力を注ぐべし。
是は君子は言に訥にして行に敏なりと云ふ論語の教と少しも違ひませぬ。
 他人より受けたる害は努めて之を忘れ、寧ろ悪に報ゆるに善を以てすべし。
孔子は直きを以て怨に報ひ、徳を以て徳に報ひんと教へて居ります。
 又汝の長所を決して悪用すべからず。
悪用して居る人が大分あります、貴所方には無いでせう。
 第十誡 人を知るに努めよ、之れ己れを知るの楷梯なり、美徳は絶えず之を追ひ求め、必ず正義の道を守るべし、常に心を警しめて懶惰に陥るを避けよ。
是が十誡であります。此仕舞に言と行との趣意が書いてありますからもう少し読んで見ませう。
 以上は即ち「メーソン」団員の拳々服膺すべき十誡である、而して是れ啻に個人的人格修養の為にする信条たるに止まらず、同時に又
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社会の改良向上を図るが為めの教訓である。
 十誡の条文右の如しと雖も、而かも之を括約すれば「愛」の一語に帰着するのである、基督はモーゼの十誡以外に「新しき誡を汝等に与ふ、汝等互に相愛すべし、人若し光明の中に在りと云ひて、然かも其同胞を憎まば、之れ尚暗黒の中に在るなり」云々と言はれたが「メーソン」団の十誡も亦畢竟「汝等互に相愛すべし」てふ此一語を以て掩ひ尽すことが出来るのである。
 抑も「フリー・メーソン」団に加盟したる人々は以上の十誡に服従し、之を躬行するを以て自己の責任とするのであるが、然し之れには各自の自重心が必要である、人は渺たる蒼海の一粟である。
此処らは支那人の言葉と同じやうなる感想を持つて居る。
 自己一人が責任を尽すも尽さゞるも、大局には何等の影響をも及ぼすものでないなどゝ云つて、自己自身を軽視することは許すべからざる誤謬である。
寔に御尤なる言葉で、私は始終海外へでも出る人に向つて申します。或は内に居る人にも申しますが、我一人位はどんなことをしても大勢の仲間が善くして呉れるから宜いと思ふのは間違である、若し一人一人そう云ふ考を持つたら、皆の為に大変の迷惑になる。故に其人一人其一部が実に大切と思はねばならぬと云ふことを能く海外に行く人などに向つて申しますが、それと同じやうなる意味を説いて居ります。
 古往今来歴史上に現はれたる大事業なるものは、其起源に遡れば孰れも微々たる人生の奮闘に基きて発生したりしものなるを発見するのである、又世俗的眼光より之を見れば埋木の花咲くこともなかりし如く微賤なる人間の生涯中にも、光栄ある幾多の勲績を発見することが出来るのである。
 祖国の安危存亡に際し、一身を捧げて勇戦奮闘に従事し以て社稷を安んじたる武勲赫々の将軍あらば、国民は之を崇拝し景慕して国家の忠臣と称たへ、不朽の名誉を彼に与ふるを吝まざるべしと雖も、而も世には隠れたる幾多の忠臣幾多の功臣が其外に尚沢山あるのであり、又無ければならぬのである、人が奮闘を為し功績を樹つるのは必ずしも攻城野戦の奮闘のみでなく、日常不断の生活に於ても常に其機会があるのである、世の罪悪・貧困・不義・不徳・是等のものは常に人心を窺ひ、正義博愛の美徳を亡ぼさんとして居るのである、而して之を防ぎ守ると云ふことは神に対し又己れに対して尽すべき人間の大切なる責務であつて、其責任を遺憾なく仕遂げたる人間は実に偉大なる功績者である。即ち富貴も淫する能はず、威武も屈する能はざる底の真人物であると云はねばならぬ、而して其人類の幸福及人文の発展の為めに寄与する所は寧ろ赫々たる武将の勲功に優る所あるも決して劣る所はないのである。
 蓋し「メーソン」団員たるものは以上の如き冥々裡の大奮闘を自己の職分と覚悟すべきであつて、常に正義と真理とを宣伝するの任に当ると同時に、身を以て之を守るの責任を有して居るのである、即ち此意味より言へば「メーソン」団の各員は一面説教者たると共に他面に於て兵士であつて、決して悲観喪心の挙措あるを許さない、
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渺たる蒼海の一粟も人類社会の大局に重大なる関係を有するものたることを常に信じつゝあるを要するのである、而して此自信自覚を把持し、如何なる事変を勃発するあるも決して後へに瞠若たらざるの勇気を蓄ふる為には、乃ち神に対する信仰なるものが、玆に始めて必要となつて来るのである。
斯う云ふので覚悟はどうしても一の信仰力に其本を帰するやうであります、先程私が或る種類の信仰が必要と云ふことは是等と稍々暗合するかと思ふのであります。
 詳言すれば神の正義の力と霊智とを信じ、未来世の存在を信ずるの必要が生じて来ると云ふのである。
 斯くて人は敵をも愛するの愛を抱き、冥々裡に在りて尚ほ其理想の為に奮闘するの勇気をも得るのである、而して、之れ実に「メーソン」団員各自が深く其胸中に蔵むる所の信仰であつて、此信仰の力に励まされつゝ自己の鍛錬を努むるのである、又「メーソン」主義と云ふものは道徳であり、且つ哲学である、然し道徳と哲学とは単に人間の行為に対して規範準則を与ふるに過ぎないので、善の善たり悪の悪たること、又は善の慕ふべく悪の避くべきことを人に教ゆるの力はあるが、之れは主として智と情との二方面に対する働きに過ぎないので、準則や規範を如何に人々に教えても唯それだけでは未だ実行の力は出て来ないのである。
此処は志望と行為との差別を丁寧に論じてあります、詰り私が論じた志と行と云ふことを此辺が甚だ活用して居るやうに思ひます。
 換言すれば道徳や哲学は単に是非の判断、黒白の分別を知らしむるに過ぎずして、尚ほ実際に人の行為を左右するの力は欠けて居る、而して之を左右し、人間をして其理想とする所の徳を実践せしめんとするには是非共人間の意思を動かし、決意決断を為さしむる所の勢力が玆に現はれて来なければならぬ、此力は即ち信仰である、全智全能の神に対する信仰より生れ来たる所の力である、尚ほ之れを詳言すれば全智全能にして正義と愛の源泉たる神は常に正しき者に与みして其為す所を助け、其望む所を成就せしめて呉れると云ふ信仰である、此信仰の力と云ふものは倒れたる者を起たしめ、弱き者を強からしめ、意気衰へたる者をして勇気に満たしむるものである身に寸鉄を帯びざる紅顔の少年ダビデをして武勇並ぶものなき巨漢ゴリヤテと戦はしめ、且つ之れを倒すを得さしめたる所以のものは即ち此信仰の力であつた、而して「メーソン」団員は実に此信仰の力に依頼するものであつて、従つて「メーソン」主義は道徳であり哲学であり、而して之れと同時に又一種の宗教である、勿論前にも述べたる如く「メーソン」主義は決して宗教を模倣し、若くは宗教の地位を簒奪せんと欲するものではないが、併し神の正義と愛の力とを信じて之れに全身全霊を委ね、以て自己の理想に奮進するの覚悟を有する点に於ては確かに一種の宗教であると云ふことが出来る
尚ほ此後に頻に、思ふと行ふとの関係に就いて余程丁寧に論じて居ります。
 抑も人間の価値は、其抱く所の思想の正しきや否やに依つて決すべ
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しと云はんよりは、寧ろ其正義なりと信ずる所のものを実行に現はすや否やに依つて決すべきものである、或思想を抱き之れに熱中し且つ之れを鼓吹すると云ふことは、之れを実行に現はすに比すれば遥かに容易な業であつて、従つて又価値も少いのである、世には鼓吹の人多くして実行の人少なし。
親孝行の講釈だけは容易いのです。
今日の日本には最も是が甚しいのです。
 然りと雖も若し思想が実行となりて現はれず、又宗教の信仰が実践的倫理行為となりて現はれざるに於ては、其思想も宗教も結局価値なきものと云はねばならぬ、過去現在を通じて政治界にも宗教界にも人間の主義には由来二箇の領域が存在して居る、即ち一を弁証的領域と称し、他を実行的領域と称す、而して此二箇の領域が遺憾なく調和し合致したるときに於て、其主義が始めて生命ある主義となるので、単に弁証的即ち理論口舌の主義たるに止まつて、実行が之れに伴はざるに於ては其主義は不具であり、無生命の主義である、世には「基督教信徒の無神主義」と云ふ言葉がある、之れは一見甚だ矛盾的の語であるが、然し事実としては沢山に存在して居るのである。
基督教ばかりではない、世には斯う云ふ主義が沢山ある。
 蓋し此語の意味は、所謂基督教信徒たる者の中には理論的に教理や信条を是認しつゝ、然も実行に於ては毫も神を畏れず、基督の教に従はざる所行を為して恬然たる者があるのを指したのであつて、之れが即ち基督信徒の無神主義である、而して斯う云ふ連中は殊勝らしく見えて其処等辺に沢山居るのである。
其処等と云ふのは貴所方を指して云ふのではない。
 口は善知識で、手は外道である、又「メーソン」団にも右の如き連中が存在して居る、即ち理論的「メーソン」であつて同時に実行的「非メーソン」である。
未だ沢山ありますが、余り長くなり声も嗄れましたから、「メーソン」のお話は是だけに止めますが、要するにどうしても私は人たる本分を尽して行かうと云ふには、先づ第一に忠孝の二字を今の有様ではどうも少し読方が少ない、感じ方が乏しいやうである。是は道徳経済を合一せしめやうと云ふ根本義として余程強い観念を以て心に留めるやうにしたい。是と同時にどうも何の主義に依らうとも、一の信仰を保存するやうにありたいと思ひます。而して其事は思ふだけで行はぬではいけないと云ふことは、今の「メーソン」の十誡などを見ましても、其他儒教などにも数々論じてあります、是は最も私は必要と考へます人たる本分を尽して行く其第一初歩として、先づ是だけの事を諸君に御紹介申して置きます。


集会日時通知表 大正六年(DK440062k-0009)
第44巻 p.220 ページ画像

集会日時通知表  大正六年        (渋沢子爵家所蔵)
拾一月廿四日 土 午後一時 高等商業学校ニテ御講演


竜門雑誌 第三五六号・第一四―二〇頁 大正七年一月 ○東京高等商業学校に於て(大正六年十一月二十四日第四回講演未校閲) 青淵先生(DK440062k-0010)
第44巻 p.220-225 ページ画像

竜門雑誌  第三五六号・第一四―二〇頁 大正七年一月
 - 第44巻 p.221 -ページ画像 
    ○東京高等商業学校に於て
      (大正六年十一月二十四日第四回講演未校閲)
                      青淵先生
 前回には志と行ひと云ふ問題に就て、人たる者の世に立つに、思ふことは必ず行はねばいかぬ。行ひあつて始めて其の志の貴さが分ると云ふことを申述べましてございます。併せて嘗て翻訳して置いたフリー・メーソンの十誡に、殆ど同じ意味のあつたのを見まして、国の相離るゝ甚だ遠く、時の相距る殆ど測り知れぬ程の時代であつても、真理は余り変らぬものであると云ふことを深く感じました為に、其メーソンの十誡若くは之に添ふたる意見を訳しましたのに依つて、或る一部を朗読し、諸君のお聴に入れて置きましたのでございます。要するに人の世に処するには、どうしても第一に志がなければいかぬ。理想が実行に合はねば何にもならぬ。人の世に立つには考を持たねばいかぬけれども、其考が事実に現はれませねば、それは或は空砲とも云ひませうか、又は無駄花とも申しませうか、人の実務を重んずることは論を俟ちませぬでございます。唯だ人の世に処するに自ら長所々々がありますから人々皆一様には行かないが、一様には行かない中にも所謂一定の動かすべからざる道理をば又一つ心得なければならぬ。人の性格又は教育が、誰も彼も同じやうにすることは出来ぬやうでありますけれども、願くば其或る特殊の長所に依つて進むと云ふよりは、欠陥の少い何れに向つても足り得る人になることを心掛けたいと思ふのであります。言を換へて申すと、英雄式才子肌の人たらんよりは、即ち或る部分特に人に優れると云ふよりは、何事に対しても完全なる人になり得ることを心掛けるのが、先づ私は人たるの要点であらうと思ひます。古来の名高い人を吟味しますると、殆ど性格の解せぬ人がある。例へば大きな音に一向頓着をしないとか、或は誰しも涙を零すべきときに平然として居るとか、或は人の惘乎として居る場合に天を仰ぎて号泣するとか、一生の大事を目前に控えて鼾声雷の如く眠るとか或はこれは支那の一の形容かも知れませぬが、例へば唐の張巡が三千の兵を一見して名前を聴いて尽く覚えて居つたとか、斯の如きことは果して人間の能ふことかどうか分りませぬが、記憶の善いと悪いとは大分人に依つて違ひがあるやうである。故に人に依つて必ず其長所と云ふものゝ違のあることは免れぬ。さりながら其長所に依つてのみ発展すると云ふ考と、成たけ其具備した所に依つて進んで行かうと云ふのとは、是は矢張其人の平常の心の用方にあるだらうと思ひます。我好きを人に振舞ふ、是は人間の免れぬことである。斯く申す私自身が他に優れた事の無いためか、平凡な人の成たけ過ち少く、所謂勉強から事を仕遂げると云ふ位地に人は進んで行くが宜からうと思ふのであります。度々例を引いて申しますが、敢て私が孔子に如何に私淑して居るからと云うて、斯の如き大聖人を吾々の企て及ぶべきものではありませぬけれども、併し孔子は常人の勝れた人だと云ふことを皆批評致します。前に申す特殊な才能特殊な性格を持たない、全く尋常人の備へた性格で何も斯も進んで居つた人だ。ですから尋常人のえらいのである。少し言葉が不充分であるが嘗て井上哲次郎博士がさう云ふ評
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語を以て孔子を論じたことがございました。成程孟子の中にも「仲尼不為甚者」と云ふことがあります。又孟子が孔子を褒めた言葉にも「孔子聖之時者也」とあります。其孔子を褒める言葉の前に色々な人の批評がある。伯夷聖之清者也。伊尹聖之任者也。柳下恵聖之和者也。孔子聖之時者也。聖人と云ふ位地からしても、何れの時に当つても、偏せず片寄らずして進んで行く人であつたと云ふ評語のやうでございます。即ち孔子は常人のえらく勝れた人になつたのである。私の諸君に望むのも、必ず諸君の中には或特殊の才能ある人もございませう。併し唯だそれだけを以て長ずると云ふ方に傾かずに、其長所は宜しく擁護なさるが宜しいが、併し普通人として進み得ることを成べくお心懸けなさるやうに致したい。
 私は今日学生と云ふ若いお方ばかりを論ずるではないが、人の世に処するに多く似て非なりと申すか若くは誤り易い例が沢山あります。其辺に就ては各種の実例を以て此事は斯う間違ひ易い、此事は斯う誤り易いと云ふことをお話しやうと思うて丁寧に調べる時間が無かつた為めに、忽卒なる十ばかりの例を此処へ持つて参りました。之に就て少しくお話を進めて見やうと思ひます。
 今申した孔子の教の中に君子素其位而行。不願乎其外。素富貴行乎富貴。素貧賤行乎貧賤。素夷狄行乎夷狄。素患難行乎患難。君子無入而不自得。何れの方面に於ても決して窮することが無いと云ふ意味を例の中庸に挙げてございます。或は朱子の筆であるか孔子の言葉を引いたのか、此中庸を誤ると望むことが一方に偏すると云ふ例が沢山あるやうでございます。其例を玆に挙げて諸君が此過失に陥らないやうになされたいと望むのであります。一方から論ずれば似て非なるもの縦令又善い方に心を用ゐても多く誤り易くなるものであります。是等の注意は青年の頃は勿論、独り青年と謂はず壮年になつても亦私共の如き老人でも始終心懸けねばならぬことゝ思ひます。所謂人たる者の常に注意すべき要点と思ひます。
 第一に人は成べく自由に心を持たねばならぬ。自由と云ふことは政治上からも甚だ必要である。既に自由党などゝ云ふ一の党名にも用ゐられて居る。日本が不自由の国であつたが為めでもありませうが、頻に自由を唱へて、板垣は死んでも自由は死なぬなどゝ云つたことがある。併しあの自由が今申す自由と全く適合するかどうか分りませぬが蓋し人は窮屈に跼蹐させることは宜しくないから、自由と云ふことは是非なくてはならぬ。心を寛に持ち、物に偏せず片寄らず、事に当つて鏘々たる知識を其処へ発揚させるのは自由の心でなければ出来ぬものである。又一身上にも左様で、余り窮屈にしたならば其精神は伸びぬことになつて来る。併し此自由は一歩誤ると放縦になります。自由と放縦甚だ似て非なるもの、又誤り易いもの、勝手次第に学校の規則も守らず、人と約束しても忘れてしまふ、家庭に於ても父母の誡めに従はず、そんな事は己れの自由だ、斯の如き自由は自由にあらずして全く放縦である。甚しきは家庭に於てすら尚信用を欠き厭忌の情を必ず起されるに相違ない。故に自由は貴いが放縦は最も困る。而して是が甚だ近いものである。私は此自由と放縦とは甚だ誤り易いもの、又
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自由は事に依ると放縦に似て居るから、若し之を放縦の方から評論すると似て非なるもの、自由の方から論ずると誤り易いものであるから余程心懸けねばならぬやうに思ひます。
 さらば又反対に謙遜と云ふか、或は律儀と云ふか、斯の如き性質は最も人の尊重すべきものである。成たけ人は謙徳を進めて行かねばならぬ。極く質実律儀にせねばならぬけれども、唯だ単にそれだけの考であると、事に依ると遠慮控え目、甚しきは卑屈と云ふ方になつてしまふ。卑屈なる人は決して其才能を充分に伸すばすことは出来ませぬ我天真を其処へ現はし出すまでに至らぬやうになつてしまふ。斯の如き謙遜は決して褒むべきではない。否褒むべきでないのみならず、大に厭ふべきものである。
 独立自尊と云ふ言葉は福沢諭吉先生が唱へ出したと申して宜い位、此言葉を以て青年の人々を頻に誘導したのは、先生の未だ壮年の頃ほひのやうに思ひます、総ての立論が皆敬服するではないが、実に学問に就て新見識を開いて、唯だ東洋哲学ばかりを主として居る未だ明治草創の時代に、早くも西洋の骨髄を論じ出して人の耳目を驚かしたお人である。又其説が大に発展して行つたのであるから、此独立自尊は一種の意見として尊重すべきものである。又人はどうしても自ら助くる自ら尊ぶと云ふ念がなければいかぬと云ふことは頗る注意すべきことゝ思ひます。併し此自尊は若し一歩誤れば倨傲の人となることを免れない。其人が果して自身の考が優れて、自尊して其説を述べる場合は頗る貴いでありませうけれども、唯だ自己の説の善悪が分らずに己れを尊び己れを重んずると云ふことであつたならば、それは寔に暴戻なる倨傲の言葉になる、是も頗る誤り易いものである。
 総て世の中の事を処するに於ては、物を即断することは宜しくない季文子でしたか三思而後行。子聞之曰。再斯可矣。斯の如きは深思熟慮を要するもの、熟慮深思と云ふものが是が亦余り度を過ぎると、所謂因循姑息に陥る、マア考へて見て、マア考へて見てと、何時まで考へても好い思案が出ない、所謂下手な考へ休むに似たり、丁度碁や将棋に能く出る評語であるが、私共も時に考へて、唯だ考へ放しで因循に陥ることが間々ございます。さらば之を即断して当つた事に何も斯も皆宜しきを得るかと云ふことは、孔子の如き心の欲する所に従て矩を踰えずと云ふ聖人の位地に至つたら知らぬこと、通常人には決してさうは参りませぬ。故に深思熟慮は必要である。必要であるが是亦度を過ぐれば今申す因循姑息に流れると云ふことは、矢張共に考へて行かねばなりませぬ。
 人は飽までも節約を事にせねばならぬ。禹と云ふ人が大変に倹約の人であつたと書いてある。あの通りの経済学者と云つて宜いか土木家と云うて宜いか、支那の水路を三千年前に開いたのは禹と云ふ人であるが、大層な倹約の人で、一枚の紙一寸の糸でも粗末にせなんだと云ふことが何かの書物に書いてあつたと思ひます。論語にもあります。禹吾無間然矣。菲飲食而致孝乎鬼神。悪衣服而致美乎黻冕。卑宮室而尽力乎溝洫。禹吾無間然矣。と孔子が褒めて居る。蓋しさう云ふ人であつたらうと思ふ。それこそ一寸の糸、半片の紙も粗末に使はぬと云
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ふ如き人であつたら、斯の如きは勿論倹徳として甚だ喜ぶべきことであるが、併し此節倹と云ふことが、人に対しての節倹である場合には吝嗇となつて来る。是れ似て非なるもの。或は吝嗇なる人が節倹を口実に無暗に出し惜みをする。天津の水害に寄附を出して呉れと云うてもイヤ節倹だからいけない、却々応じて呉れない。私共から云ふと節倹ではなくて吝嗇だと云ひたい。
 極く質実律儀にすることは、吾々の最も好む所、成べく人もさうありたいと思ひますが、併し自分の判断を余り遠慮し、自分の見識を余り卑うすると、遂に前に云ふ卑屈になり、又或は心に安んずると云ふことになり易いもの。故に此質実とか律儀とか云ふことが、必ずそれのみに止まらずに、浮かりすると自分の見識が伸びぬ、即ち心に安んずると云ふ弊害を必ず伴ふものであります。
 人に対しては私は最も敬意を厚うせねばならぬと云ふことを常に論じて居る一人でございますが、或る場合には此恭敬の念の余りに深いのは、親みを薄うすると云ふ人がある。一寸友達同志が会つても、今日は結構のお天気と云うて長々しい挨拶をする。恭敬の念は強いけれども、どうだい君何処へ行く、ウムさうかと云ふ方が親みが厚いやうに見える。けれども或る場合には殆ど礼節を無視するやうになると云ふことを又考へねばならぬ。恭敬は御互に心懸けねばならぬが、是が又一歩を誤ると所謂諂諛に陥り易い。恭敬変じて諂諛になることは余程注意せねばならぬ。其処に至ると人は至て素朴な所謂直情径行が宜しいと言はねばならぬ。唯だ直情径行が宜しいと云ふことになると甚しきは生硬傲慢の人となる。恭敬礼譲が宜しいと云ふと諂諛の人となる。何方にか走り易いものである。
 又意思は努めて鞏固にせねばならぬ。一旦思立つたことは成たけ遣り遂げる。此信念がなければ人の世に立つに於て殆ど柱なしの家を立てたやうなものである。所謂大車無輗小車無軏。其何以行之哉。人として信なきは大きい車に横木がなく、小さい車に輒と云うて馬を駕する肝心の用具が無いと同じことだと孔子が論語に評してあります。故に意思は実に鞏固堅実なることを貴ぶ、さりながら此鞏固堅実が又一方から云ふと頑固に陥ると云ふことがある。若し其考が全く間違つた思案でありつゝ、唯だ堅実と思うて誤りを固執したならば、之を名けて老人であつたら頑固老爺と云ふかも知らぬけれども、貴所方であつたら頑固青年と云ふかも知れぬ。
 前の節倹と吝嗇の甚だ誤り易いと同様に礼儀作法と云ふものも、人として青年の中は甚だ其場合が少いけれども、一家を斉むる身柄になると最も必要である。併し是が亦悪くすると奢侈の媒介となる。物の行届いた、体裁を宜くしやうと云ふことは、一歩を誤ると甚しきは身分に越えたる奢侈に陥り易い。節倹の吝嗇に陥り易いと丁度反対なる行動を為すものである。
 人は敏活に智恵が廻つて、所謂人の目付で其人の心を察する。落語家の云ふ言葉であるがヱヘンと云ふたら灰吹を持つて行つてやる。気分の悪さうな顔をしたら医者を頼んで来ると云ふ如き、俗に申す目から鼻に抜けると云ふ智恵に富むことは、甚だ人として必要である。此
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智恵と云ふものが目前にも又広い意味にも無くてはならぬことであるが、併し是が悪くすると猾智狡才と云ふ方に陥り易い。故に人の智恵の廻りは甚だ尊重するけれども、其智恵は邪智でなく、極く正しく廻るやうにせぬと一歩を誤れば狡猾に陥る。
 男子、殊に男子と云ふ中にも若いお人は勇壮活溌を好み、成だけ勢好く総ての事物に当るやうにありたいと云ふことは、是は論を俟たぬ訳である。お集りの皆様方などは最も其処に心を用いられたいものである。併し丁度前に自由が放縦と間違ひ易いやうな訳で、此活溌と云ふことが直さま粗暴に変じ易い。是も常に注意せねばならぬと思ひます。されば又従順を心懸くべきか、無暗に従順を推奨すると甚しきは意気の乏しい、軟弱の人に陥つてしまふ。
 斯う云ふ例を論じましたら甚だ多からうと思ひますが、人として世に立つに就て是非完全なる位地に進まふと云ふには、斯かる一歩誤ると是が此処に変る。注意を怠ると斯う思ふたことが斯様に変化すると云ふことは、常に心に留めて置かぬと過ち易いやうに思ひまして、私は斯の如く老境に至るまで、常にさう云ふ考を以て善いことを存して悪い弊に陥らぬやうにと努めましたが、努めたことは果して自己自身で必ずそれに陥らなかつた、と或は申し得られぬかも知れませぬけれども、若し之を心懸けなかつたならば、尚悪くなると云ふことだけは事実であれば是非世に立つに就て、所謂一方から云へば似て非なるものであり、又一方から論ずれば最も間違ひ易いものであるから、斯う云ふことには始終世に処するに就て、今の青年からしてお心懸がありたいと思ふのでございます。
 要するに私は其優れた所謂非凡な人になると云ふことを求めるよりは、尋常人の過失のないと云ふことになるが其人の理想として目的として間違の無いものであらうと思ふ。或は如何なる性格を其躯に備へて居るかと云ふことは、誰も能く分りませぬ。自身すら尚知らぬ位である。其変つた才能を持つ人が其長じた方面に向つて進むことは誰も必要ではあるが、併し修養の側から申すと、さう云ふ或る特色を助長すると云ふよりは、成だけ各種の方面に過失ないやうに、何れの道にも応じ得られると云ふことを主義としてお進みなさるやうに致したい即ち前に中庸の教の富貴に素しては富貴を行ひ、貧賤に素しては貧賤を行ひ、夷狄に素しては夷狄を行ひ、患難に素しては患難を行ふ、君子は入つて而して自得せざるなし、と云ふのは即ち或る部分から一方に偏して誤ることのないと云ふ君子の教を指したのであります。日常世に立つて行くに就ては種々なる変化に出会ひ、又斯う考へねばならぬとか斯う思はねばならぬとか云ふことが、事々物々に諸君の胸を刺戟して来る場合があるに相違ないと思ひます。今お話しましたことは是は之に紛れ易い、是は之に陥り易いと云ふことを、長い経験から私は常に自分にも人にも数多感じました為めに、今日は此事を以て諸君に御注意を乞ひたいと思ふのであります。是でお話を止めるやうに致します。


渋沢栄一 日記 大正七年(DK440062k-0011)
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渋沢栄一 日記  大正七年      (渋沢子爵家所蔵)
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二月八日 晴
○上略 午後三時東京高等商業学校ニ於テ講演ス○下略


竜門雑誌 第三五八号・第一一―二六頁 大正七年三月 ○東京高等商業学校に於て(大正七年二月八日第五回講演未校閲) 青淵先生(DK440062k-0012)
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竜門雑誌  第三五八号・第一一―二六頁 大正七年三月
    ○東京高等商業学校に於て
      (大正七年二月八日第五回講演未校閲)
                      青淵先生
 十二月は諸君の学課の忙しい為め此会を開きませなんだ、先月罷出ます積りであつた所が、是は又私の風を引いた為めに延期せざるを得ませぬで、漸く今日久々で皆様にお目に懸る機会を得ました。
 今日お話したいと思ふことは、公益と私利、此問題に就て私の解釈は斯様であると云ふことをば、申述べて見たいと思ひます。其末段に近頃亜米利加に対する関係が、別に私が何等公務を持つて居る訳でもなし、商売の縁があると云ふ訳ではございませぬけれども、此日米の二大国が若も意見の違でもあつて、衝突するやうな事があられてはならぬと、平常から思つて居ります為めに、始終其間の国交に対しては国民として力を尽して居ります。殊に昨年米国が欧羅巴の戦乱に参加して、独逸に向つて所謂宣戦の布告を致した後は、余程人気が緊張と申すか激昂と申すか、劇しい有様にある如く承ります。前に申すやうな関係もあり、又其近状は種々なる方面から、書状電報或は見て来たお人の言葉伝ひ等で、殆ど毎日それ等の情報に接して居ります。諸君が其事柄を御承知なすつて、それに依つて利益すると云ふ程の事はなからうけれども、亜米利加の国民の事態は斯様であると云ふことの、私の知り得た一班を諸君にお伝へするのは、必ずしも無用ではなからうと思ひます。之を段末にお話しやうと考へます。
 先づ第一に私は今申す公益と私利の区別に就て、自分の平常理解し居る点を玆に稍々研究的に申上げて見たいと思ひます。或る意味から論ずると、公益と私利は全く別のやうになります。又文字の用方に依つて事実別々と言ひ得ることも出来ます。一般に係る利益、即ち国家社会と云ふ意味でなくても、広い範囲に於て益するものを称して公益と云ふ場合がある。一個々々に属する己れの私財を増すとか、或は物質が殖えるとか云ふことは、同じ利することは利する事であつても全く其性質が違ふと云ふことは言ひ得る。更に之を強く論じますると、公益と云ふものには正しい意味を含むし、私利と云ふものには必ず誠とか正義とか云ふやうなる意味に拘らず、唯自己の物を殖し、自分の富を増すだけに止まるやうにも解釈されるのであります。日本全体に於て、或は日本の或地方に於て、或は或る社会に於て、一般の利益の増して来ること、蓋し之を公益と云ふに決して差支なからうと思ふ。而して是等の種類にも私の始終唱へて居る如く其利益が総て皆正義仁道、所謂道徳に一致するものか否かと云ふことは、是は又別問題として研究して見なければなりませぬけれども、併し自己一人に属する利益ではないと云ふことに就ては、自ら先づ道理を含んだ利益と云ふことに解釈し得るやうでございます。故に公益を進める、一般の利益を増すと云ふことに就ては多くは誰が論じても非難の声は無い。併し之
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に反して所謂利己、自分を利すると云ふ、此私に属する利益に就ては利己主義などゝ云ふと、直さま何か其間に罪悪とまでは言はないでも正義とか道徳と云ふものと、既に幾分の背馳を見るやうに聞えます。併し是は余程分別をせぬと、甚だしきは遂に富と云ふことを蔑視するやうにまで行走るのである。さらばと云ふて是と反対に自己の利益を尽く重んぜねばならぬと云ふ方にのみ議論が走りますと、甚だしきは己れさへ富めば宜いと云ふ方になつて、前に言ふ社会、広く言ふたら国家と云ふ方の、公なる利益に殆ど着目せぬどころではない、寧ろ之を妨害しても自己の利益にのみ走ると云ふやうになる。此解釈と及びそれに働き行く所が、人たる者の最も六ケ敷い所であつて、其宜しきを得れば予て私の常に主張して居りまする道徳と経済が全く一致する訳になる。若し之が全く違却しまするならば、道徳と経済が不一致になる。此不一致になるは必ず其人に於て、又其地方に於て、進んでは其国家に於て、仮令富が進んで行つても、或は人格が下るとか、種々なる物議を惹起して、遂に所謂上下交征利而危矣と云ふ孟子の教に帰着してしまふやうにならうと思ひます。此公益と私利が若し前に申す如く、全くの道理を踏誤らぬものに於ての趣意であるならば、決して其所為たるや公益に背馳すべきものではございませぬ。御同様各人が皆自己の完全な勤めを持つて、其勤めから道理正しい自己の利益を図つて行くと云ふことが広く進んで行つて、国家の公益になると云ふことは、少しも疑の余地ないものである。故に其私利と云ふ言葉が、若し道理正しい私利であれば、私利即ち公益である。又其適当なる公益は即ち私利である。結局、私の常に主義として居る経済と道理が相一致する場合は、必ず公益と私利の区別が爰には全く無くなると申して宜い訳である。兎角経済界でも左様であり、或は経済界たらざる――商工業者以外に於ても一般の人情として、自己の利益と云ふよりは成るべく国家の公益に名を藉りて、甚しきは私利に着せるに公益の衣を以てすると云ふ弊害が、今日もありますが以前からある。昔の話で、今は斯様な事を言ふ人は無いかも知れませぬが、未だ私が大蔵省で役人をして居る頃ほひに、一の譬喩話があります。或る地方の確か県知事、其時分は県令と云ふて今のやうに知事とは言はなかつた。其人々か斯様な考を持出したと云ふことを、丁度私が大蔵省の役人をして居る時分に承つた。それは何うぞ此事を許可して欲しい。蓋し此事業は所謂国益である、此希望は個人の利益であるけれども、其事柄は国家の利益であると云ふて、頻に其人が喋々と或る事業の許可を求めるのに国益を標榜して来たことがありました。其頃私が之に向つて駁撃をしたのは、丁度今の公益私利の区別に適合するだらうと思ひます。如何にも其事柄は希望通りに行つて其事が十分に行はるれば、国家の利益になるに相違ないからして、其人の国益だと云ふのも強ち間違つた話ではないけれども、若し左様な論理から云ふならば、試に言はうが東京に米屋が二千何百軒ある。此搗米屋が曰く私が此米を売らなかつたならば、東京の人は皆餓えてしまふであらう。又反対に若し此米屋が地方から米を買つてやらなかつたならば百姓は生産物を捌くことが出来ない。斯の如き仁道を以て米屋をするのであるから、此米屋に対
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しては三拝九拝何も斯も皆許して宜いと若し言ふならば、成程其米屋の働きは其通りに相違ないけれども、併し是は決して誰も其米屋に対して特にそれだけの貢をされるとか賞与を与へるとか云ふ必要は認めない。如何となれば此米屋は矢張其米を買うて売るのを職業として、私の利益を公の方法に依つて収めて居る。更にもう一つ近い例を云ふならば、試に人力引が若し私が客を乗せて引かなかつたならば、貴方は歩いて行かなければならぬ、其間に身体も疲れる、汗も出る、好い思案も出せはしない、さすれば私がお前を引いて上げるのは劇務を助ける上に於て此上ない効用がある、人力引即ち大に国益を務めるものだと、若し言ふたならばどうであるか。それは却々酒代の五銭や七銭では済まなくなつて来る。けれどもそれは尤とは誰も言はぬと同じことで、此事は道理正しい経営である、それは皆私利ではあるが、正しい道理に依つて経営するならば皆公益に属するのである。故に唯自己の為めの事業であると云ふゆゑを以て、之を私利として蔑み若くは軽んずると云ふことは間違つて居るけれども、道理正しい経営ならば、今云ふやうな論理は如何なる事業に於てもあるのだから、特にそれは国家の公益と自ら標榜して、為めに特にそれに向つて特殊の待遇を受くるとか恩恵を貰ふとか云ふことの出来得べきものではない。真の一般の公益と云ふものはさう云ふ性質のものである。或る事業に関して或る人の企が例へば広い範囲からは国家の公益になるからと云ふて、一私の経営に属する事を以て国益を標榜するならば、尚ほ今の米屋・人力引と同じやうに相成るから、それは許されぬ。如何に其事が国の利益になるからと云ふて、一方に定めてある法度に依つて支配する外無いではないか。但し其事が私利だと云ふて賤しむべき訳はない。寔に正しき仕事に相違ないけれども、特に之を以て国家から大に優遇せねばならぬと云ふが如きは、大なる間違である。要するに公益と私利は正しい経営に働いて行く以上は全く一致することになると、左様な事を申して、或る地方の人と語したことがありました。其頃私が今日主張する如く、真に道徳と生産殖利を一致させねば、真正なる富を進めることは出来ぬと云ふまでの見解を私が持つて居つたか、未だ其処までの考は私の胸になかつたか、是は五十年前の昔話ですから、今当時を想ひ回して何とも申上げ兼ますけれども、此公益と私利とは相距る遠きが如くに似て、其実完全なる私の利益は即ち国家の公益と全く一致するものだと云ふことは申上げても差支なからうと思ひます。そこで始めて前の問題即ち仁義道徳と云ふものが生産殖利と全く一致し得ると云ふことに適合する訳になるのです。公益と私利は正しい範囲に於ては少しも逕庭ないものだと云ふことは、道徳経済合一論の十分なる証拠になり得るだらうと思ひます。
 之を又引離して、全く私利と云ふものが、斯う云ふ種類のものはどうであるかと云ふことを、玆に一事例を掲げて見ると、それは私は一致せぬものになると思ふ。人の物を掠めて自己を利すると云ふことに至つては――もう一層極端に云へば人の物を盗んで自分の物を殖やすと云ふことになるから、是は道徳と不一致と云ふことは申さないでも分つた話であるが、左様な不道理でなくても、全くの私利で公益に関
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係をせぬものは幾らもあらうと思ひます。先づ第一に玆に或る景気に依つて一の利益を争ふと云ふことがあります。とばかりでは貴方がたに能く理解し得られぬかも知れぬ。即ち実例を挙げて申せば株式取引所商品取引所の所謂投機商売と云ふものです、英語のスペキユレーシヨンであります。私は此スペキユレーシヨンと云ふ文字の起りは知りませぬが、此投機と云ふものは即ち私を利するの極く簡便な方法である。もう一歩進んで博奕と云ふものが、私を利するの簡便の法である更に言ふたら人の物を取るのが一層早いかも知れませぬが、是は余り露骨過ぎて、誰も同意する人は無いかも知れませぬ、がもう博奕であると、其仲間になれば誤つて自分が取られても、是は怪しからぬと云ふて、腕力を以て争ふ訳にはいかない、況や此株式取引所に於ては、尚更以て――甚しきはそれで儲けたのをアヽえらい人だと云ふて讚めるやうになる。併し是は如何に讚められても、此主義は私は公益と一致せぬと云ふことは明かであると思ふ。何故なれば此株式取引所で儲けた人があつたゞけ、必ず相対した人が損をして居るに相違ない。ですから殖えたでも何でもない。唯此方の物を其方へ吹寄せられたに過ぎないのであつて、殖えもせなければ減りもせぬ。極端に云へば甲の財産が乙に移り、乙の資産が丙に飛んだと云ふに過ぎぬのである。故に是は確かに一方が損するだけ、一方が利益がある。其間に仲買の手数料とか何とか色々消費するものがありますけれども、併し先づ大部分は勝つた方が殖えて、負けた方が減ずる、悪く申せば是が為めに何等其間に利殖する者はない。之に引替えて唯今の米屋の例は、例へば五升なり一升なり百姓が作つた米は、相当なる方法に依つて時の相場を以て売る。売つた為めに百姓は決して損はしない。之を廻米問屋が買ふて、それを東京の搗米屋へ送つて、之が消費者の手に入るまでには二度三度の手を経る。其間に多少の手数は掛るに相違ないが、随てそれだけ価が高くなる、此転輾して来る間に一方の米を買ふ人は其必要があつて米を買ふのであるから、其米を買ふだけ又他の働きに依つて米代を造り出されるのである。田舎の百姓が田を植え草を取り作つた米を、東京の人が買つて食ふまでの間に転輾するが、其転輾の間にそれに従事した人は相当なる利益を取る、而して此結果東京の人が米を買つて、其人が米を食ふた為に貧乏になつた、もう食へないと云ふ人は一人もない。作つた人が損するでもなければ、買つた人がそれで困難するでもない。転輾して行く間に、種々なるものを生じつゝ転輾して行く。是が真正なる商売と云ふものである。之に反して前に例として申した投機の仕事は、其間の一人の富に対して何が殖えたかと云ふに、何も殖えはしない。一人が増すだけ一人が減る。是は全く私は好まざるのみでない、大に悪むべき所為と思う。其他甚だしきは悪い物を善いと云ふて高く売付る。有るものを無いと云ふて価を高めると云ふが如き、この私利中には許すべからざる種々なる弊害が行はれる私利と云ふ言葉が或は利己――己れを利すると云ふだけに就て段々に聞えを悪くし称へを汚くすると云ふことが結局今の悪い種類の者に呼做されたことであらうと思ふ。左様な類を私は前に申す公益に相対する私利とは言ひたくない。自己に属するものを私利と云ひ、広い範囲
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に係かるものを公益と云ふて、もう公益は私利である。私利は即ち公益であると云ふことが完全に実業界――実業界ばかりではありませぬ一般の人に行はれる御工夫があつたならば、是こそ前に申す通り道徳と経済とが全く合一し得た場合になり得るであらう。故に曰く公益私利全く同一である。若し私利にして不同一の場合は無いかと云ふと、必ず無いとは言はれぬ。其例や或は投機商売の如き、若くは博奕の如き、又さう云ふやうな事でなくても、全く自己だけ不道理に利さうと云ふ経営の如き、斯の如きは私利決して公益に伴はぬものである。即ち前の本問題に立戻つて申しますと、道徳に伴はぬ経済に相成る。斯う解釈しますれば私は公益と私利と云ふものを同一視して、私利最も励むべきものだ、道理正しい私の利益が完全に進ませられるに依つて公益が拡大されるのである。此公益の拡大されるに依つて、国の事業が発展して行くのである。国の事業の発展する程国家の富が増すのである。国家の富の増す程国民の力が強くなる。即ち富国強兵爰に於て増すのであると、斯う申上げられるだらうと思ひます。公益と私利と云ふものは、正しい私利即ち公益と差別無いと断言するに憚らぬのでございます。前に一寸申しました亜米利加との関係、亜米利加が決して公益私利に相応する適例が玆にあると申上げるのではございませぬ随分亜米利加は利益には鋭い国民である。併し又公共心の最も強い国民である。或る場合には公益私利の好い適例を其処へ現はし得ることの出来る国風を持つて居るとも言ひ得るかと考へます。が玆に亜米利加の事を申上げると云ふのは、前段の問題に就て果してそれに適例として申述べる積りではございませぬ。未だ学生でござる諸君ではございますけれどももう軈て世の中にお出になる、而も実業界のそれそれの方面に雄飛なさらうと云ふ希望を持つてござる諸君であるから、必ずや社会にお出なさつたら、種々なる方面に眼界を広くなさらなければならぬ。丁度前に申す通り、最も商売の関係の深い亜米利加に対する事柄を、私の知り得た範囲をお話することは、他日のお為めにならうと思ふて、前段のお話は先づ大略御了解を得たゞらうと思ひますから、此亜米利加の関係を申添へて見たいと思ふのであります。
 歴史を約めて申すと、日本が外国との交際を開いたのは、先づ亜米利加が第一番と云ふて宜い、嘉永六年の所謂嘉永癸丑の年、例のコンモドール・ペリーと云ふ人が浦賀に参られて、始めて、日本が外国の関係を惹起した。尤も亜米利加が日本に使節を送つたことは、嘉永六年ばかりではございませぬ。弘化二年にもあつたのです。併し十分に国書を達すると云ふ程に行かずにしまつた。其時分には亜米利加ばかりでなしに、露西亜が北の方から来、英吉利でも尚頻りに本国から船を送ると云ふことをしたやうです。是等の事の細かい外交歴史は、私の今玆に書物に依らずに暗記して申上げる程審かではありませぬ、先づ嘉永癸丑の六月コンモドール・ペリーが浦賀に来たと云ふことは、それこそ今日は嬰児も知つて居ると申しても宜い、続いて其翌年の正月、即ち安政元年の甲寅の年、遂に此国書を受取つて、それから追々に外交問題が生じて来て、安政五年の戊午の年に条約と云ふものが成立つて、遂にそれが追々に国の物議の種になつて、徳川氏は為に倒れ
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て、徳川氏の為めには倒れたことは気の毒であるけれども、幕政は玆に一新されて今日の状態を見るに至つた。日本の国体から論ずると、亜米利加が我辺境を騒がしたと云ふけれども、併し日本の人民を自覚せしめ覚醒せしめたと云ふ系路は、寧ろ亜米利加に依つて国民は自覚したと云ふても宜い位でありますから、玆に至ると却て日本の為めには大に恩恵ある国と言はなければならぬ。殊に其他の国から来た使節以上に、亜米利加人の日本に対する待遇が良かつた。タムセント・ハリスと云ふ人が、多分安政五の戊午の年の条約と云ふものは、此人に依つて結ばれた。故に安政四年頃に来られましたが、其日本に着された年をハツキリ覚えませぬが、税目の約束等も日本が始めて外国との条約を結ぶときから大層注意して日本の為に不利益にならぬやうに親切に心配して呉れた。他の国の公使よりは優れて正しい態度を以て応じて呉れた。時はハツキリ覚えませぬが、此人の通訳にヒユースケンと云ふ和蘭の人が居つた、それを日本人の浪士が殺した。尤も其頃は或は東禅寺へ斬込むとか、種々なる外交関係から殺伐の事が行はれて日本人同士でも頻に人を斬ると云ふことがあつたから、外国人に対してもさう云ふ妨害を加へたのであります。或は私共も其一人であつたかも知れませぬ。併し私は斬りに出たことはありませぬ。此ヒユースケンと云ふ通訳が、麻布の善福寺と云ふ今のタムセント・ハリスと云ふ人の公使館として居つた寺の何でも近所で殺された。其時に他の国国の公使は皆立腹して――それが唯一度ばかりではない、屡々あつたからです。而もそれが随分過激の処置であり惨酷に殺した為めに、大に憤つて江戸に居た各国の公使が、皆横浜へ引上げて、軍艦に居つた水兵を上陸させて自分を防衛すると云ふやうにして全く日本の命令に従はぬ。敵対の挙動を為した。其時今のタムセント・ハリスと云ふ人は、自分の通訳を殺されたにも拘らず、英吉利なり仏蘭西なり露西亜なりの公使が横浜へ引上げたのを、自分は泰然と旅館たる善福寺に留つて居つて、兎角新しい国は斯かる妨害があるものだ。それが厭やなら新開の所へ来て通商条約を求めぬが宜からう、左様な事をするのは日本へ対して侮辱をするものである。私は引上げぬ。儼然、他の国と断つて、さうして独り善福寺に留つて其職掌を尽した。斯かる事柄は過ぎ去つた今日では、余り人の注意せぬことでありますけれども、其当時に於て誰が出来るかと考へますと、却々清く正しいものであると今も尚ほ昔を偲ばれるのであります。或は引続いて来て自分を殺すかも知れぬと思ふたでせう。野蛮極まる暴戻な国民だと思ふたでありませう。併し其国に対して通商条約を進めて行かうとする際には、随分さう云ふ事はあり勝である。それに対して一国の体面を傷けるやうな事をしては、外国の使臣として宜しくない。他の公使は致すとも自分は致さぬと云ふて、泰然と踏留つたと云ふことは、余程気力ある、余程道理を弁へたる人でなければ出来ぬ事と思ひます。私は丁度十年目になりますが、明治四十二年に東京実業団の名に依つて亜米利加に参りましたときに、今のタムセント・ハリスの墓所プルークリンの何と云ふ寺であつたか、寺の名を忘れましたが、其処へ香華を手向けたり詩を作つて帰つたことがございます。是等の事は亜米利加人の中の或
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る一人がしたことで、総ての亜米利加人が皆さうであつたとは言へぬかも知れませぬが、最も是は外交上の一の歴史として、定めし外交関係の人の賞讚する所でありませう、果して他の多くの代々の公使が皆左様な人であつたかどうか分りませぬけれども、先づ至つて亜米利加と日本人との間は、右やうな関係からして、其親みも厚うし、殊に輸出入の貿易関係が各種の物が多いと云ふではないけれども、先づ日本の国産たる生糸若くは絹織物、是等は亜米利加の最も喜んで買ふ物、又彼方からは器械若くは穀類、さう云ふやうな物を丁度十分なる貿易品として商売をして居る。所が丁度十年前――日露戦役の後です。尤も日露戦役の前からして段々今のやうな国交上から、日本は多く亜米利加へ移住民が行つて、現に加州に居る人が七・八万人に達して居る更に布哇を数へたら是も七・八万人に上る。左様に日本から移住民があると同時に、段々労働者の間に物議を惹起して、殊に此多数の人が行つて居るのが、労働的人員が多いものですから、欧羅巴から移入する労働者と一の競争を惹起した。単に人種の相違若くは宗教の違のみならず、自ら経済上の競争を惹起し、況や其間に日露戦争以後、日本の武力の勝れて居ると云ふことから、人に嫌はれると云ふ程ではなかつたけれども、亜米利加の一般の国民は何となく怖いとか憎いとか、初めは可愛いと云ふのが、今度は反対に厭ふべき国民と云ふ感を持つたから、今の経済問題としては多数の行つて居る労働者などには、大分悪感を抱かれて種々なる面倒を惹起した。是は四十一年頃の話。到頭加州に行つて居る我同胞には、初めは喜んで移民させた人々を、或は土地に就ての法を設けるとか、或は職業に就ての差別をして追々に苦める、学童なども同じ学校には入れぬと云ふやうな制度を設けて苦める、遂に或は日米の間に事に寄つたら国交に瑕でも出来はせぬかと云ふやうな有様が生じたのであります。四十一年頃の内閣は多分桂さんであつた。其時の外務大臣は故小村寿太郎侯爵であつた。此移民に対する関係は紳士協約に依つて大勢の人をやらぬと云ふことに極めてさうして此日米の間の国交を直さうと云ふ考は、一方には政治上の懸合をすると同時に、一方には成べく国民の情意を貫通させるやうにと云ふので、日米親善と云ふ声が其時分から段々起つて来たので、殊に其関係の深い加州の商業会議所の人々を、日本の商業会議所の人々が案内して、両国の間の所謂人情の融和と云ふことを努めやうと云ふので、お客として招いだ、それが明治四十一年、丁度五十人ばかりの人が団体旅行で参りました。私は其時分にはもう商業会議所の会頭を止めましたから、渋沢が別に其処に顔を出すべき必要はなかつたけれども、今の関係で向ふも商業会議所、此方も同じ商業会議所の団体旅行と云ふことに致しましたから、丁度其時の商業会議所会頭は中野武営氏で、其以前は私が会頭で長年勤めて居つた縁故がある。是非此事に対して私にも出て力添をして呉れろと云ふので、其前向ふから参つた来会者に対する或は接伴の為め、若くは饗応の為め、屡々是等の人々と相会し相談ずると云ふやうなことを致しました。マア其以前から亜米利加に対して多少の親みを持つて居りましたが、此所謂国民外交と云ふやうな意味で関係を起しましたのは、先づそれが一つの始め。此
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亜米利加から来た人に相当の待遇をして帰しましたに就て、向ふでも段々日を期して折角日本の厄介になつて来たから、今度は日本から商業会議所の人々若くは其他経済界・実業界の人々を成べく多数に招いて、所謂お互の意見の交換をし意思の融和を図ると云ふことを先方も考へて、太平洋沿岸の八つの商業会議所が申合せて、今度は亜米利加の方から日本を客として迎へた。是が四十二年の渡米実業団、丁度五十三人でありました。私が推されて団長となつて彼地へ参りました。詰り一つの国民外交、さう云ふ事々しい名を命ける程の事ではありませぬけれども、さう云ふ意味を以て渡米を致して多くは商業会議所若くは商工業者の人々と会見を致した。丁度四十二年の八月の十九日に出て、其年の十二月十七日に帰つて来た。都合四箇月を費しました。亜米利加の内地を旅行したのが九十日、巡廻した都市が多分五十市ばかりであつたと思ひます。到る所に亜米利加の風習は随分客を好み又苛察に人に――悪く申せば亭主の好きを客に振舞ふ方で、嫌だと思ふても此場所を見せるとか此御馳走を食べろと云ふて、一日に三遍も四遍も御馳走を出して食べさせられる、随分腹も悪くした。それと尤も辛かつたのは大勢の者が毎晩演説をする、亜米利加の人は却々演説が好きですから、一人やると己れもやらなければならぬと云ふので、宴会の後は日本人――殊に私共英語が出来ぬから通訳が附く、随分時が掛かる、一人が倍になる、向ふの人も分らぬから概略は言ふて貰はぬと困ると云ふ。三人が演説すると六人前以上になる。終には居眠をして困ると云ふので、居眠を罰すると云ふ裁判法などが出来たと云ふ可笑しい話がある。五十市ばかりを歩きました。昼夜至る所に実に能う世話をして呉れました。第一にミネソタに乗つて行つて、シヤトルへ上陸して、其処から乗つた汽車がズツト亜米利加の大陸を廻つて、遂に南の方はロスアンゼルス、ザンチエゴ、グランド、キヤニオンなどと云ふ所を段々廻つて、仕舞にサンフランシスコへ来ましたが、皆同じく汽車で通した、鉄道の支配が余程能く届いて居るものと見える。実に敬服しました。あの広い亜米利加に何でも丁度一万二千哩ばかりもありませう、私共の通つた鉄道の道筋が――之を同じ車で荷物車を附けて置いて、皆銘々一部屋づゝ持つて、小さいけれども一軒の家を背負つて歩く、田螺みたやうな塩梅である。グルグルと廻つて甚しきは一の宴会が済んで帰つて来て着物を脱ぐともう車が動いて居る。翌朝になると既に場所が違つて、今度は又次の市で人の饗応を受ける。其手配の行届いたことには実に敬服しました。今も十二月十七日に帰つたものですから、それを一の記念として毎年十二月十七日には旅行者が打寄つて記念会を致します。其当時を想ひ廻して、或は辛かつたこともあり、中には睡かつたこともあり、果してそれらの事が別に大なる国民の外交として、両国の緩和を買ふたと云ふ程のことは申上げられますまいけれども、併し随て重立つた人々との交際は、自然と殖えて参りましたから、それからして十年以来、或は交換教授をやり、若くは公務を帯びて来る人に接し、私は幸に其時に団長と云ふ名で行つた為めに、向ふの人の目標になつた。目標になつたから屡々其以後の通信もございまするし、又此方から添書を出す、向ふからも添書を
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附けると云ふやうなことで、今日も尚ほ亜米利加の人々には――私は英語は解しませぬけれども、至て交りを親しうするやうになり、同時に又、自分の意見も遠慮なく言ふことも出来て、爾来此地へ参つた人は、月に一・二人位は必ず訪ねられます。宅へ来て話すこともあり、或は集会の席等で遠慮なく意見を交換しますと、所謂知識階級の人々は、斯の如き事柄は良くないと云ふことは皆思ふて、日米は是非とも親善でなければならぬと云ふことは、或は下級の人々の中には、事に依つたら戦争が始まるだらうなどゝ云ふことを評する向も無いではありませぬが、稍々立優つた人々には、其様な事をしてなるものかと云ふ感じは、押並べて強いやうであります。又桑港若くは加州に日本から行つて居る人々の待遇を、前の如く学童を苛めるとか、職業を差別するとか或は土地問題を以て苦めるとか云ふやうな事柄は、亜米利加人が悪いと云ふことを――其地方の人々は明かに悪いと云ふことには同意しませぬけれども、他地方即ち東部の方の紐育とか、或はイリノイス州、ペンシルヴアニヤ州とか云ふ地方の人々は大に理解して呉れましたから、亜米利加との国交が自然国民的に工合好くなると云ふことは言ひ得るやうであります。昨年の模様で見ますると、其十年以前の悪い感じは殆ど拭ひ去られたと言ひ得るかと思ふ位、段々此事に就ては、此地でもさう云ふ心配をすると同時に、向ふでもさう云ふ心配をして、今日加州に於ても、矢張亜米利加と日本との間をどうぞ物議を鎮定させたい。若も物議が起つたならば、それを防ぐ為めにと云ふて日米関係に就て委員を造つて、向ふでも其事を始終注意をして居る此地でもさう云ふものが出来て、此両者が始終意見を交換して居ると云ふことは今日の実際であります。是等は著しい国民外交と云ふ一の適例と申しても宜い。既に明日帝国大学で一の講座が開かれて、其初の講演がある筈であります。此程総長から承はると、差向いた所では従来の教授で亜米利加憲法を美濃部達吉さんが持ち、亜米利加の外交史を吉野作造博士が持ち、亜米利加の歴史を新渡戸稲造氏が持つて、日本の帝国大学に於ける亜米利加講座が玆に成立しまして明日初講演があります。是はどう云ふ事からさう云ふことに進んで来たかと云ふと、紐育のチース・ナシヨナル・バンクの頭取をして居るヘボン云ふ資産家、字引の著者にヘボンと云ふ人がありますが、あれと同姓の人であります。丁度昨年の七月頃でありました、私に手紙を寄越して、日米関係は大に良くなつて来たけれども、未だ安心とばかりは言へぬどうしても此両国の間にお互に、而も学問的に能く事情を疏通せしむるが、日米関係を良くせしむるに最も必要であると思ふ。渋沢は長い間其事に尽力されて居ると云ふことを聴いて甚だ喜ぶが、未だ私は完全とは思へぬ。亜米利加の人も日本を知ることは尠いけれども、日本の人も亜米利加を知ることの尠いのは憂ふべきことである。依て私の努めとして、東京帝国大学に亜米利加講座を設けて貰ひたい。それにはどの位金が掛るか、一年に五千円若くは六千円の費用を生ずるだけの元本を、即ち十万円乃至十二万円の公債証書を帝国大学に寄附したい、之に依つて年々生ずる金を以て、永久的に亜米利加講座を帝国大学に設けて貰ひたい。此事を頼む。帝国大学へ直接申込んでも宜いの
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だけれども、併し成べく従来日米の間に深く心を用ゐ力を尽して呉れた人の手を労するが私は適当と思ふて、此希望をお前に言ふてやる、どうかお前が其事を周旋して呉れろ。斯う申して参りました。洵に喜ばしい事であるから、早速山川さんに御相談しました所が、至極結構だ、然らば引受けやうと云ふて、追々に相談して丁度昨年の冬其手続がスツカリ出来まして、玆に愈々講座が成立した。それが今申す明日始めて講演の初回が開かれると云ふ訳で、私にも参るやうにと云ふ御案内を得て居りますが、既に亜米利加にさう云ふお人まで生じて居る位であります。唯一人の企てに依つて講座が起つたと云ふ事のみを以て、日米の関係が満足とは言へませぬけれども、知識階級のさう云ふ有力の人が段々殖えて来ると云ふことは、以て両国の親善を頼むに足ると申しても、決して間違つた言葉ではなからうと思ひます。先般石井大使が行つて、極く都合の好い、日米協力して支那の開発に力めやうと云ふことの、所謂協同宣言書の出たことは、あれは多分昨年の秋でございましたが、諸君も御承知のことであります。斯の如き場合に至つたと云ふことも、勿論当局者が大に力を尽した為めであるけれども、国民の骨折が必ず其間に多少与つて居ると云ふことは、これは斯く申しても宜からうとまで考へるのであります。
 此亜米利加が今日どう云ふ態度であるかと云ふことに就て、私は毎日のやうに各方面から手紙を貰ふのでありますが、此間亜米利加に居る人から寄越された手紙がある、是は今日の戦時状態に於て、亜米利加が斯う云ふ観念を持つて居ると云ふことを知る幾分の御参考にならうと思ふて、勿論之に依つて亜米利加の現況が尽く判るとは申しませぬけれども、何れも一月の初めに彼地を出て此月初に受取つた手紙で少し長うございますけれども、一人は熊本の校長であります、故に是は学問的の人。又一人は英語を話し英書を能く読み、東京に居る時分には東洋汽船会社の書記などを致して私の宅にも始終来て、通訳若くは翻訳等をして呉れた人であります。一方は紐育から、一方はオルバニーから来た手紙であります。亜米利加の状態が稍々判るやうに思ひますから、此来状を一寸読んでお聴に入れませう、少し長うございますから御辛抱下さいまし、読む人は尚ほ辛うございます。
 大正第七年を迎へ謹んで
 皇室の万歳を奉祝し 尊堂の御清福を敬賀仕候
 降て私儀加州にて一ケ月各地の学校参観仕候傍ら旧農家を相尋ねては懇談仕、遂にサルトレーキ、デンバーセントルーホを経て市俄古市に三週間滞留仕候、中に著名なるゲリー組織学校参観仕候処、規模堂々、実に仁人の大業に候、教育の方法には勿論特色有之候得共教育宗教相待ち相輔け彼最近膨脹せる尨雑下級の各種労働民族を教育して、以て時に勤倹の市良心の民人を作成して、以て製綱大業の如き有利事業発達の根底を永久的教育の上に建設して、以て資本家労働者の渾一円熟の発展進歩を計画して、以て小中学を建設したるは目的規模の正大など倶に方法は又他と異るの特色有之候、ニユーヨーク市のものは参観可仕候処、此市の学校も四十幾個校と相成り批難の声も一方高き由に候が、未だ其の要点を得不申候、能く能く
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参観研究可仕候、已に数十の学校参観仕候得共、未だ推考可仕余日を得不申、進んで参観と研究とを相重ね申度候、目下此尨雑なる各民族の集団よりなる民人は国民的自覚心を啓発しつゝ有之候、欧洲大戦局は北米大陸に大国民の大成を促進する機会を提給しつゝ有之候、過春宣戦発表の当時コロネル大学生二〇〇〇人が志願兵として率先仕候も豈に一校の名誉ならんや、既に天下各県の学校は犠牲的精神充溢せりと申すも過言ならざるべく候、寒村僻地の児童の国旗敬礼、国歌合唱も力強く普及しつゝ有之候、鉄道の政府専管も軍事上当に然るべきことに候得共、此民俗としては個人以上国家、国民の大権威、大威力を統一的に自覚しつゝあるものと相感可申候、目下ワシントン政府の下には大学中の硬儒大家にして学科の如何を論ぜず召集されて実務家の人と協力中に候、天下の賢良を挙げて天下の大業を広議し断じて之を社会に行はんとするは此デモクラーシーの一面目かと相考へ申候、娯楽堂の如きに至つても平時と相異り可申候様に候、一皮膚を剥去りて此組織異分子の事頗る面倒に候得共南北角逐後違背感情を放擲去るは勿論、更に進んで国民の理想信念を雄大ならしめて以て此に此国の大段落を文化史上に劃するに至るべきかの感想も有之候、宗教道徳の関係事は複雑にて容易に判定難仕候得共、国民本領の信念を一層拡大して以て世界中心の大国民大指導者たるべき自負心を昂上しつゝ有之候様に候
  ウイルソン対議会宣言も一読仕候処堂々数万言即ち是れ有識国民の声と相考へ申候、深潜の弊毒悪習の存在は世界何れの国民も又た然りと可申候処、此英進敢為の自主自信の力は宿弊矯正に相到り可申、要するに米国は低き意味の個人主義拝金宗なりと盲断し来りし批評家の能く反省すべき時代事相に可有之候、教育の事は複雑にて難申上候得共、時代の精神を以て時代及将来に適応するものは此教育にて頗る特色ありと相感居申候、更にワシントン方面ボストン市及其附近に入り研究仕度候、教会及日曜学校、慈善事業の一斑是非相親み理想の中に入りて其真相の一斑を得申度候、目下スコツトランド老婦人宅に本邦三人と同宿勤倹用を節し事の要を申度傾意仕居申候処、宿瘤ルーマチスに寒気の悪影響は少々迷惑仕居候、青少年が活溌愉快に好適の学校に学び得るに我国の青年が此六・七年試験勉強の為めに衰弱志気不振の兆あるは将来の為大に憂慮に相堪へ不申、青少年の活達なる行動に触れ候折々心中不可言苦痛を相覚申候
                      井芹経平
    呈渋沢閣下
 是等は敢て面白い事でもございませぬけれども、亜米利加の戦争に対する国情は、決して誇張して書いたのではない、有り振れたのだと申して参つた、而もそれが、両人が全く方面違ひの人々でありますから、現況は成程左様でもあらうかと窺はれるやうであります。亜米利加の有様は実に羨しい程専心一意詰り此軍国主義を破らねばならぬ、王道主義に是非引付けねばならぬと云ふことに帰宿すると云ふても宜いやうであります。すると是も深い意味から申して見ると、斯の如き観念は私の主張する経済道徳の一致、即ち亜米利加の是等の主義が、
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矢張私共の希望する所と全く合同し得るものと思ふて宜からうと考へます。但し此発露して居る事柄は、戦争に関係した事でありますから敢て今申した事が経済道徳の一致であると玆に証拠立てることは出来ぬかも知れぬが、若し戦争と云ふものが、其領土侵略主義を何処までも防がなければならぬと云ふことであれば、其根原や私が常に斯の如く声を嗄して諸君に申上げて居る道徳経済の一致と云ふ事と、同一の点に帰宿し得るだらうと思ひます。亜米利加の事態を諸君に御紹介申すことは、国際上からもお考置を願ひ又此主義からしても、成程左様に考へるが相当であらうと諸君も御了解下さるであらうと思ひます。今日斯う云ふ書物を亜米利加費府のワナメーカーと云ふ人から贈られました。此人は宗教家で私に耶蘇教に這入れと云ふて頻に勧められた一人で、而も亜米利加人が日本の書物を贈つて呉れたのは、余程奇態に感じます。是は向ふの原書ではない、日本の方が原書である。それからハイネと云ふ人が一冊の書物を贈つて呉れました。是は日曜学校に就ての書物。是は向ふの原書であります。一方は日本文、一方は英文の書物を今日貰ひましたから、亜米利加関係の序でに皆さんにお目に掛けやうと思つて持つて参りました。今日は是れで御免を蒙ります


集会日時通知表 大正七年(DK440062k-0013)
第44巻 p.237 ページ画像

集会日時通知表  大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
六月二十日 木 午後三時 東京高等商業学校ニテ御講演


竜門雑誌 第三六二号・第一一―二三頁 大正七年七月 ○東京高等商業学校に於て(大正七年六月二十日第六回講演未校閲) 青淵先生(DK440062k-0014)
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竜門雑誌  第三六二号・第一一―二三頁 大正七年七月
    ○東京高等商業学校に於て
      (大正七年六月二十日第六回講演未校閲)
                      青淵先生
 引続き此壇に立ちまして皆様とお話をする機会を得ませぬでございました。多分二月の初めに此処に参上致したやうに思ひます。或は諸君の学問の御都合と私の彼地此地と旅行する都合やらで、お話をする間を大分隔てましてございます。今日玆に是までお話し来つた続きに就て、一言を申述べて見やうと考へます。
 予てお話する通り私が学者でない所の意見を述べるのだから、何か書物に依つて取調べると云ふ訳に行きませぬで、其時に思ふた事をお話する。其お話の全体としては当初に申上げた通り、実業上の働きが利益を増すのと、其利益を増す行動に於て徳義を取失はぬやうにするのとの、六ケ敷い言葉で云ふと道徳と経済を一致させると云ふ、其大体の範囲に於て色々有りふれた事に就き、若くは嘗て思うて居つた事に就き、又は其時代に於て身に触れた事に就き、所謂座談的に――系統を立てませぬでお話をするのが、私の諸君に申述べやうと云ふ講演の要点でございます。学問的に説を立てぬと云ふことに就ては元来が左様であるので、どうぞ諸君にも御了承を願ひたい。故にどうしても私のお話は所謂座談たらざるを得ぬのでございます。
 今日お話申して見たいと思ふのは、能く唯今の流行言葉に成功者成功者と云ふ、甚しきは成金などゝ云ふのは成功者の第一に数へられる其成功とは如何なるものか、成功と云ふ者があるとすれば、丁度其反
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対に失敗と云ふ者もあるべき筈、又必ずある。是はどう云ふものであるかと云ふ所謂成功と失敗と云ふ事に就て私の平常思うて居ること、又或る類例を玆に添へて、私は斯々に考へると云ふ事を諸君に申述べて見たいと思ひます。此前には公益と私利の関係をお話致したと記憶致します。或はそれと同一ではございませぬけれども、矢張相関聯した私の一の見解である。蓋し此公益と私利なり、若くは成功と失敗なり、嘗て度々申しましたからして私の言ふた事を書物に拵へて書林が出した青淵百話と云ふ書物があります、それには出て居りますので、今申述べる事も重複たらざるを得ませぬ。私の思うて居る考は二た様に立てる訳には参らぬ。けれどもそれは書物に対して言ふた事、是は諸君に向つて私が切実に申上げるのですから、其趣旨は一でございますけれども、申述べる精神には大に厚薄があり、又多少趣を異にするであらうと思ふのでございます。
 本問題をお話する前に、先月と本月自由旅行を彼地此地と私は致しました。旅行談は余り諸君に興味を与へることは出来ませぬが、併し或る事柄は商業学校が如何に各地に発展したかと云ふことは現に諸君が其学業に従つて居るお身柄から、他方面の商業学校の進みつゝある有様はお聴きなすつて決して無益でもなからうと思ふ。是等の事を一二お話致さうと思ひます。又当月遊びました地方は北陸であつて富山・高岡・伏木・金沢・能登の七尾・越前の福井、斯う云ふ地方を廻りました。何れも日本の土地の中では余り進んだ場所ではございませぬ、保守的なる地方である。併し其保守的なる地方が今日の状況は斯様であると云ふことも、お集りの皆様の中に或は北陸のお方があるかも知らぬ、私の見聞には丁度三十年ばかりを経過して旅行しましたから、大分目新しく思うて、それ等の事を一応お話を致して置かうと思ひます。蓋し其間に所謂成功者失敗者が取交つて居ります。其人を指して前に申した本問題の成功失敗を判断は致しませぬけれども、或は政治界にも学問界にも実業界にも、成功失敗は各方面とも甚だ多うございまして、今の北陸地方の旅行に於ても、昔日は斯うであつた、今日は斯うであると云ふ懐旧の情に堪へぬ事も数々ございました。旅行談の一端は第一に先月四日に東京を立つて、五日に名古屋に着きました。名古屋の商業学校のことに就て大に喜ぶべき一の事柄を見ましたのです。それは矢張当高等商業学校の出身者であつて、市村芳樹と云ふ人が殆ど二十五年ですか名古屋に於て商業教育に従事せられ、終始一貫能く校長とし教員として、実に在校の各生徒を親切に世話を致して、学校中には名古屋地方の学生が多かつたから、名古屋人からも大層信頼されて、元来此市村君も出身は和歌山の人で決して名古屋人ではなかつた。学校は丁度此処に油絵にある矢野次郎氏の校長の頃に学んだ生徒で、矢野氏をば今も尚ほ恩師として尊敬致して居つて、其先月一の集会のあつた場合にも、私に対しても一般に対しても、懐旧の談話として先づ第一に矢野氏を想ひ起して、斯様な教導を受けた、斯様な小言を言はれたと云ふ位まで、色々な往事を追懐された話は頗る奥床しうございました。蓋し左様に恩義を重んじ昔を忘れぬ人であると同時に、矢張現在も同く心の届いた情の厚い人故に、学生に接触するこ
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とも其通りであるものと見えまして、在学の生徒の殆ど押並べて之に帰依して居るのみならず、名古屋人の学校を出た所謂校友会とも申すべき同窓会の連中が大層心配されて、遂に此市村氏の為めに一の財団を拵へた。其首動者は名古屋に於ける其学校出身の方々、更に東京其他の人々に其趣旨の檄を伝へて賛同を求め、私なども聊か其お仲間入をして、財団を造る寄附者の一人になつたのです。蓋し私は至て、僅少の寄附者でありましたけれども、其事柄はどうだと云ふと、此市村氏をして、尚ほ引続いてと云ふてもが、果して同じ有様に継続し得るかどうか分らぬ、さらば斯の如き情の厚い、斯の如き親切の多い人を他へ動かすは残念である。故に此学校としては他の校長が出来るにもせよ、名古屋に於ける商業教育の或は顧問役になるか、或は指導役になるか、是から先其学校に学んだ学生等の衆力を集めて、市村氏をして家政に大なる心配をさせぬだけの基金を備へて、それから生ずる利子に依つて同氏をして安全に教育事務を熱心にやり遂げさせたい。それには一種の財団がなければ出来ぬから、此財団を造ると云ふことに就て学生が発起して之を努める。名古屋に其学校出身者が多かつた故でありませう、私は其細かい数字を記憶致しませぬけれども、首唱者としては名古屋の其向の人が企てまして、之に賛同する人が追々に相応じて、遂に十万何千円と云ふ金が出来た。丁度当日には先づ以て余り端数を附けぬと云ふので、十万円を目録として送ると云ふことでありました。其贈呈の式を名古屋に於ける国技館、丁度此間焼けた回向院の国技館のやうな物が名古屋にも出来て居ります、其大きな会堂に於て頗る盛大なる会を開きました。余り御馳走があるとか余興があるとか云ふではございませぬが、而も休日でありました故に地方人なども参会して、殆ど其大会堂に立錐の地も無い程と云ふては些と誇張でありませうけれども、何千の人が集りましたか、大層の人が集つて、玆に其発起者が斯かる企をして斯く集つたと云ふことに就て、其趣旨を書列ねたものを朗読しました。それから或る一人が其目録を贈呈する。或は知事其他の地方官のお人々が祝文を読み或は祝辞の演説がありました。私も商業学校の関係者として最も縁が近い。其市村氏の教師となつた訳ではないけれども、此商業学校の成立つ頃に努力を致しました身ゆゑに、のみならず爾来商業教育に就ては、所謂門外漢ではあるけれどもお力添をして居ると云ふ趣意より、名古屋人からも亦其受くる市村君からも是非渋沢の列席が欲しいと望まれまして、私も当日其席に参列して所謂懐旧の情、殆ど喜びの涙を以て一場の祝辞を述べたのであります。丁度其祝辞を述べますのは、勢ひ其昔の微々たる有様から説起さゞるを得ぬので、商業学校の其初めは商法講習所と云ふ名に依つて成立つて、其以来斯く変じ斯く移つて、斯様に相成つたと云ふ学校の経歴なり、一般の商業教育に対する感想なりを加へて述べて、殊に此地方に於て斯様な組立は未だ余り他に類例を見ない、市村君の熱心なる努力を諸君の力に依つて安心して継続せしむるやうにしたと云ふことは洵に喜ばしい事である。蓋し此教育家と云ふものはどうしても他の実務に就く側よりは物質上得る所が少いと云ふことはそれこそ世界を挙げて同一と云うて宜からうと思ふ。而して其中にも
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日本は甚だ薄い、薄いのみならず此節柄別して薄くなつた。其薄くなつたのは宛行ふ方が薄くしたのではない。其宛行はれたものに依つて得る品物が少くなつた。自分が低くされたのではなくて、他が高くなつた。けれども同じ結果であつて、脇が高くなれば矢張自分が低くなる。物価が高くなつたのは金の価が安くなつたのだ。反対に金の購買力が倍になれば物価は半分に減ずるものだと云ふは当り前の話。さなきだに一体に待遇の薄いのに、此場合さう云ふ時期を受けたからして独り商業教育ばかりではありませぬ、是はもう教育界のお方は余程割の悪い時代に立つて居る。故に此教育に属することは極く悪い言葉を以て言ふと、気の利いた人は皆こんな野暮な事はしないと云ふことに成行く虞がある。斯の如く傾いて行つた其行末はどうなるか、寔に憂ふべきことにならうと思ふ。若し私が後の成功失敗の論を適切に言ふならば、船の才取でもした人は其人格其修養頗る卑い者であるけれども物質上良くされて事に依ると是が成功者、自動車にも乗つて歩く。之に反して商業教育に熱心に努めた人は、何時まで経つても自動車は偖措き手車にも乗れないと云ふ有様で、細君にも子供にも良い着物を着せることも出来ない、別荘も持てなければ避暑旅行も満足に出来ぬ蓋し之を名けて世間では失敗者と云ふ。が其人の世に立つ効能はどれ程であつたか。是等は即ち成功失敗の良い見手本であつて、私は適切なる比較にならうと思ふのでございます。少し話が脱線しまして枝路に這入りましたが、右やうの次第で市村君が地方から深く信望をされて、さうして五月五日に大なる会合があつたのは、私は商業教育の為めには甚だ喜ぶべき挙と思ふ。其市村君は此学校からの出身者である其時の校長は矢野氏であつて、矢野氏の此学校に対してもう必死の力を入れる時分から、私は局には当りませぬけれども、補助者の位地に立つて頻に相談をしたと云ふ関係から考へますと、名古屋と云ふ土地は左様に学問を重んじ、左様に意気の強い所ではない。詰り悪く申せば算盤高い地方だと、こう見ないで私も思うて居つた。其地方に商業教育に対する右やうな事柄の起つたと云ふことは、実に特筆大書すべきと同時に、此学校に於て諸君に斯う云ふ事がありますと云ふことを旅行話としてお話することは、決して無用の弁ではなく、諸君も商業教育が左様に重んぜられたか、喜ばし事だと必ず御納得下さるであろうと思ふのでござまいます。
 名古屋の続きで彼地此地参りましたが、是はもう喋々申述べるに及びませぬ。それから当月第二の旅行は北陸へ参りました。此北陸の旅行も何等別に用事があつたのではありませぬが、嘗て世話をした銀行が本店を新築したと云ふので一度それを見て呉れと云ふ希望で、又三十年を越えて再び旅行をせなんだ地方の発達の模様を仮令今経済界を退いた渋沢にも致せ見せたいものだと云ふ各地の要望から、丁度時候も好しいので漫遊的旅行を致したのでございます。前に申上げた如く七箇所ばかり巡廻致しましたが、私は明治十九年に是等の地方を廻りましたから二度目の旅で、而して其間隔は卅三年目であると云ふ、殆ど始めて旅行したと同じ位な古い曾遊の地であります。一般の事物の発展と共に北陸と雖も矢張等しく大に発展して居る、さりながら之を
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東京・大阪・神戸若くは九州地方などに比較して見ますると、殆ど自動車と人力車の速力を異にするやうに見えます。歩くよりは速いに相違ない。併し自動車の速力には及びもつかぬと云ふ有様で、兎に角人気がシツトリして居ると云ふことは免れない。金沢には有力なお人が而も改進的事業をやつて居る向があつて、是等は大分発展されたやうでございます。横山と云ふ人――独り横山氏ばかりではない其他にも数々あります。又福井の絹織物の進歩は是は実に著しいものであります。元来土地が織物に適応する、蓋し空気の関係でありませう。又之を精練する――精練と云ふのは練りを入れて仕上をして綺麗な織物に拵へる、是は水の関係が甚だ多い。空気と水とは蓋し此地方の特有であるさうで、段々に其近里に居つた者若くは遠方に居つた者が、此処に輻輳されて其仕上をする、之を精練する精練会社が数々ありませうが、私は其中の一つを見ました、却々壮大なものであります。其初めは殆ど成立つか、成立たぬか分らぬと云うやうな有様で、其当時の知事さんは今の知事さんでは無かつたやうだが、其成立に就て助言して呉れろと言はれて、私が多少の力添などをしたのは漸く十数年以前の事である。故に福井に於ける羽二重其他の絹織物の左様に発展したと云ふことは、さう商業学校の年月の如き長いものではありませぬ。が今日は福井の絹織物の事業は、それこそ北陸に於て最も愉快な感を以て見得るやうでございました。或は金沢に陶器があるとか高岡に銅其他の金物の細工があるとか、又伏木と云ふ港が将来大に有利の港にならう、能登の七尾と云ふ港が頗る安全なる港湾ではあるが、甚だ他方へ向つての連絡が悪い、と云ふやうな有様を見ると、斯くありたい、斯うしたいと云ふやうな希望も数々生ずるやうでございます。殊に越中などは最も水力の関係の多い所、此水力を完全に利用したならば、所謂現代の物理化学に関する事業が大分発展せしめ得るだらうと思はれるやうでございます。果してさうなつたなら此港湾も今一層天恵を利用することが出来るであらう。未だどうも何分にも人智の低級な為めに与へられた天恵を――御馳走を一向頂戴せぬと云ふのが北陸の全体であるので、もう少し斯様なお料理を食べるだけの力を持たねばいかぬと云ふことを頻に申して、甚しきは動もすると地方観念を以て他方の人を入れることを好まぬ、或は他方の人のする仕事は己れ達は知らぬと云ふやうな顔をして居る、是はどつちでも悪い、充分他方の力も入れるやうになさい、同時に自己自身も充分に働くやうになさいと云ふことを頻にお勧めして参りましたが、どうも押並べて此三県の状態は至て物静かである。前に申す通りピンと押すと直さま強き反響を来すと云ふことの少いのを惜みます。
 是等旅行談は甚だ諸君を益することはありませぬけれども、五月・六月、丁度一週間若くは十日、七箇所を歩いて見ましたので、殊に今の商業教育の事に就て、市村芳樹君の名古屋に於ける事柄は、縁み多い此場所に諸君にお話するのは決して無用でなからうと思うて此談話を致したのであります。
 附属の談は是に止めて、本問題の成功失敗に就てお話をして見やうと思ひます。功と云ふ字が随分解釈して行くと云ふと面倒な文字であ
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つて、功利とか、功名とか、道徳観念から動もすると間違を惹起す文字である。多分朱子の白鹿洞掲示に、正其誼不謀其利。明其道不計其功。ハカルと云ふ字が計と謀と使つて居つたと思ひます。私は調べて来ぬからヒヨツと違つて居るかも分らぬ。蓋し其功と云ふ利と云ふ、支那人口調では功と云ふ字を酷く悪く云ふた。其誼を正して其利を謀らず、其道を明にして其功を計らず、是は朱文公が書斎に色々の壁書を書かれた、多くは中庸とか論語の辞であるが其一つであります。博学之。審問之。慎思之。明弁之。篤行之。是は人間の修身上に最も必要の事で、博く学んで審に問ふと云ふのは学問をすること、慎で思ひ明に弁ずると云ふのは是非曲直を判断すること。而して篤く行ふ。斯の如くすれば過が無い。是は多分中庸にあつた言葉と思ひます。是も白鹿洞掲示の中に在る言葉である。前に申す利と功とは左様に先づ近づかぬやうにと教へてある。故に此功と云ふ字は道徳的学者の余り言ふを好まぬ文字である、縦し言ふに付けてもそれを主意としてはならぬと云ふことを始終教へてある。即ち其道を明にして其功を計らず。けれども今日は世間押並べて言ふ所の某は成功した、或は成功者であると云ふ言葉は、今の支那の道徳学者の嫌ふ如き意味に言ふのではない。而して其成功と云ふのはどの道にも言ひ得るけれども、先づ多くは事業上に言ふ言葉が多いやうに聞えます。或は一の企てた事業が段段有利に発達して行く、或は開いた店が段々に繁昌する、イヤあれは成功した。唯一時一寸思ふ事が成就しても成功したと、極く成功の範囲を狭く短く言ふやうに今日は聞えて居ります。けれども是は事業に就ても或は学問にも若くは人の立身にも総てあることで、果して其成功と云ふ文字が唯斯う範囲を狭く、一方面にのみ用ゐらるべきものであらうか、丁度朱文公の白鹿洞掲示に其功を計らずと云ふのは、即ち其道を明にして其功を計らず、其功が都合好く届いたのを成功と云ふのであつて、現在の成功と云ふ文字も、世間で使用される意味を深く研究して之を評するのではないけれども、大抵其処に当嵌めて差支はないやうである。すると此成功と云ふことは先づ事業上には利益を得たこと、人の立身上には大分発展して身柄でも良くなつた、或は職にでも就くか段々上級の位地を得、威力、声望其処に帰したと云ふのが成功と云ふものになる。斯う云ふやうに解釈して差支ないやうに見えます。果して然らば此成功は勿論誰も望むべきもの、望まざるを得ぬもの、併し其成功には今多く言ふ種類が、其長い経歴を論ぜずに其結果を先に見ると云ふ方からして、詰り或る事業に就て道理正しく研究して其事が段々に積累の功大に現はれて利益が生じたのと、或は偶然に仕合せを得て、それ程の骨折がなくして富を成したのと、是は大変に懸隔のあるものであるけれども、唯第三者から見て其成功を論ずる場合だと、寧ろ富の多い方に成功の讚辞を余計加へるやうに今日は見える。此処が成功と失敗を大に噛分けて、心ある人は其処に注意を払はなければならぬと思ふ。同支那の言葉に成敗を以て英雄を論ずる勿れ、是は多く政治上に係つた言葉であつて、今の事業上などに対して示した教ではありませぬ。けれども其結果ばかりに依つて目前の善悪を論ずると云ふことは間違つて居る。或は敗れても尚且つ尊い人があ
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り、勝つても卑しいと云ふ場合があるから、それで成敗を以て英雄を論じてはならぬと云ふことを、先づ六ケ敷い言葉で言現はした、是は至極最もの言葉である。併し今日世俗の唱へる所は、結果だけから見るものですから、丁度今の成敗を以て英雄を論じてはいかぬと云ふに反して、唯成敗のみを以て英雄を論ずるやうにし、英雄ではないけれども、其事業の善悪を論ずるやうになる虞がある。是は余程注意せねばならぬと思ふ。成功失敗は此処に大に議論を及ぼすべき場合があると思ふのであります。偶然な事で――例へば従来船に関係して居つた丁度此戦争の起つた場合から、一艘買つて儲かつたからそれで宜からうと思つて八ツ当りに三艘の船を買つた、又儲かつたから尚ほ一層手を拡げた、所謂トントン拍子に遂に数千万の財産が出来た、是は例が幾らもある。是れ成功者と言つて差支ない。併し此成功者が完全な成功者なりとのみ思ふことは出来ない。前に申す其道を明にする成功者とは云へない。之に反して或る事業――未だ世の中に進んで居らぬけれども、どうしても世の中をして今の場合斯うさせなければいかぬと云ふやうな観念から、自身もやり、人にもやらせたいと思うて力を尽した、未だ世間の気運が其場合になつて来ない。其人が如何に苦んでも思ふやうには発展せぬ、結局は稍々進んで来たけれども其労多くして其功は少い。前に申す其結果から云ふたならば、数年の間に船の関係から数千万の財産を造つたと云ふに引換へて、是は三十年五十年掛つても数千万は扨措き数百万の身代も出来ぬ事業で、それこそ大に苦んだと云ふことがあります。其一方は成功者でなくて、唯富んだ方だけが成功者だと、斯う云ふ観察を下すことは、大に成功の見誤りになりはしないか、若しさう云ふ結果だけに依つて成功不成功の類別をするやうになると、其弊や充分物を研究し、充分道理を正してそれに向つて逞しい勤勉を加へると云ふやうなことは殆ど世の中に必要視されぬ、唯偶然な時機をヒヨツと見当てるのが宜いと云ふ訳になる。所謂マルで投機的事業になつてしまふ。必ずさう云ふ事柄が失敗ばかりに帰するものでもない。又さう云ふ事柄が丁度今日は左様であつたけれども、何時でもさう云ふやうに行くもので無いと云ふことは、是は識者を俟つまでもない、どのやうな愚昧の人でも尚ほ然りと思ひ得ることである。況や其一体の人情が左様に行走ると云ふことであつたならば穏健とか質実とか、物の精密とか勉励とか云ふやうな良い事柄は段段失せて、唯何かの目新しい都合の好い事を押ゆれば、それを讚めると云ふことにのみなつて来る。故に此成功と云ふ字に於ての先づ定義と云ふか解釈とか云ふは前に申した通りであらうが、此成功と云ふことを認める人々の観念が余程注意したる目を以て之を認めぬと、大なる間違を惹起す。今の話に譬へると、私などは何か自身が甚だ負惜みを言ふやうに、又一方の仕合せ者を嫉むやうに聞えるのを甚だ好みませぬ。併し渋沢は決して諸君の前のみで申すのではない、不断に言つて居る。自身がえらい富豪にならうと思うて此実業界に立つたでございませぬから、私の今日は寔に満足に思ふ。さまで貧窮の人間でもない、併し分限でもない。先づ世に立つて恥しからぬ、体面を保ち得られるだけの財産を備へて居る、人に対して聊かの助力をもし寄附をす
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るだけの余力もある。故に其事業からして小さくあらうとも矢張其功を奏した積りである。故に私も甚だ力の薄い分量の少い成功者の一人である。而して其年月はどうかと云ふと大変に長い、五十年の歳月を経て漸く今日あるを致した。其努力は随分相当に力を尽したと自ら思うて居る。之に反して大正三年から僅に足懸五年、其間に渋沢の十倍以上の力を増した人があるに相違ない。十倍どころではない、数十倍増した人があるに相違ない。是等は及びも附かない成功者である、甚だ其後へに瞠若たらざるを得ぬが、さて諸君は此大正三年からの成功者に幻惑すると云ふことは、余程お考へなさらぬといけませぬぞと申上げたい。寔に斯う云ふお話をすると、えらい適切な問題になつて、自己を其処へ引合に出した話だから、分ることは分り宜い、其代りに私から申すと甚だ申し悪いけれども、諸君に分り易い為めに、玆に船の成金さんと渋沢を引合に出して、其成功を較べて見るとハツキリ私の前に申した事が事実に於て証明される。故に此成功失敗の鑑別は、唯其物質を増したと云ふ結果だけに於て判断すると云ふことは、私は人々の余程注意すべき点であらうと思ふ。同時に失敗が其通り、未だ幸に私は世に立てぬ程の失敗をしたことはない、其失敗をせぬのを自慢に思ふのではないけれども、或は事業に就ては随分失敗者たらざるを得ざる場合が幾らもあります。例へば未だ年月の其処へ来ぬのに此事業が成立つであらうと思うて、丹精して力を尽した、世の中はそれに応じない、応じない為めに失敗したと云ふことは幾らもある。此間も金沢へ行きまして、金沢出身の人で其名前を云ふも憚りますが、明治の初め燐寸の製造に屈托して、大変に苦んで失敗してしまつた。昨今行つて聴いて見ると其人の住所は幾等捜しても分らぬと云ふ。独り其金沢の人ばかりではない、東京の人でも或は靴の製造に毛皮の製造法に――近頃亜鉛の精錬などに就て、永年苦んで殆ど失敗に終らんとして、丁度大正の欧羅巴戦乱に際して、是が大変に模様が変つて来て一方需要の進んで来たと同時に、又其精錬法も大に都合好く出来るやうになつて、為めに大層な利益を得たと申すやうな、将に失敗に終らんとしたのが成功者になつたと云ふやうな種類も、大阪あたりに幾らもあります。さう云ふやうな新しい発明に属する事の中には少し其例外はありますけれども、或は事業に於て如何に丹精してやつて見ても思ふやうに行かない、其事柄は有益である、社会に対して大に効果はあるに相違ない、唯其時を得ない為めに其人自身は此物質上に一向仕合せを得ずにしまつたと云ふのは、所謂是は失敗者と言はざるを得ぬ訳である。それも自己の力でもあつて、仮令富は増さぬでも先づ其儘で維持して、人に不義理でもせぬ位に止つたならば、甚しい失敗と世間に言はれぬで済むだらうけれども、若し資力でも無い人が一生懸命にそれに力を入れてやつて見たならば、為めに甚しきは債務を果すことも出来ないと云ふ如き悲境に陥ることは是は已むを得ぬ話で、前に申した例と比較して見ると実に情ない訳である。而して其事柄たるや種々なる関係から吟味して見ると、大に其事業に対し社会に対し隠然効果を奏して居ると云ふことは、随分少なからざる事があるけれども其事業に就て仕合せを得られぬ場合、或は利益を失つた場合は矢張失
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敗者たらざるを得ぬのであります。
 此実美界の有様はそれ位でありますが、更にもう一歩進んで政治界に就て成功失敗を判断すると、もう少し能く解る。政治界ばかりではありませぬ、どう云ふ向でも玆に名を出して誰彼れと申す程に私は取調べて参つた訳でありませぬけれども、其労多くして其自身の受くる効果は少い、併し世に範を垂れたと云ふやうな事柄は数へて見たなら実に数々あらうと思ふ、が著しくさう云ふ事の解り易いのは寧ろ政治界であつて、一言云うても成功失敗の判断が諸君に能く御理解になるだらうと思ふ。試に菅原道真と云ふ人と藤原の時平と云ふ人、丁度時を同じうし勢を等しうして、同じ政治界に列び立つた人である。で一方は到頭醍醐帝から退けられ、大宰府に左遷されて其処で死なれた。時平は道真を追退けた後左大臣であつたか太政大臣であつたかになつた。蓋し政治を二人の手に依つて支配して、醍醐帝を輔佐した。形の上で見ると、時平は成功者で道真は失敗者に相違ない。其時の富と云ひ位と云ひ、世間の尊敬と云ひ決して及ぶべくもない。誰が見てもえらい成功者とえらい失敗者である。併ながら此時平は事に依つたら諸君はさう詳かに相知りなさらぬかも知れぬ。私も丁寧に読んで居らない、余り読むべき価値の無い人である。之に反して菅原道真は何人も其経歴を知らぬお方は無い。又其心事、其行動、文字も巧みであるとか、或は詩を能く作つたとか、忠孝の念が厚かつたとか、唯単に天神様として祀られて居るばかりでなく、其心事を今に於て多数の人が敬慕して居る。こゝ等から言ふたなら私は決して失敗者ではない、寧ろ其方が成功者と云つて宜いではないか。蓋し其行動が同じく君を御輔佐すると申しても、一方は自己を本位とし、一方は国家国君を本位とした。それで道真は一時不幸を見た訳であるけれども、国の為めには道真が本当に尽したのである。或は又ズツと後に至つて元弘建武の時に、足利尊氏と楠正成、是も丁度同じやうなる境遇に居つた。北条を滅す時には後醍醐帝の王室再興を主義として、所謂尊王党で起つて、一方は源家の末裔の出、一方は河内の豪族の出たと云ふ差はあるけれども、併し趣は同じであつた。一方は姦雄であつたから、迚も後醍醐帝では天下を回復することは出来ないと思うて、之に背いた方が自己の幸福を増すと考へたに相違ない。正成は之に反して臣たる者は所謂君に忠を尽さなければならぬと云ふことを丹念に思うて、遂に其結果は湊川で討死をした。此有様は何処までも尊氏が成功者で正成が失敗者である。併し今日はどうである。斯様に歴史上から観察して而もそれが政治界の人などに就て観察すると、大分能く解るのであるが、どうも此実業界の成功失敗は左様にまで明瞭に解り兼る。又人も注目して能く見ると云ふことが少い。けれども之を近く言ふたならば、今日二宮尊徳と云ふ人が、其現代に於ては一向多くの富もなさなかつたらう、大層な贅沢もせなんだらう、あの通りの忠実な人、あの通りの遠大な考を持つた人だから、今日は頗る賞讚を受くるが、其当時には或は同じ種類の人で、富を成して贅沢をした人は或は沢山あつたかも知らん、左様に考へて見たならば、今云ふ政権を執るとか戦争に出るとか云ふやうな、武将とか若くは宰相とか云ふ種類の政治に関係の無い
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人にも、私は成功失敗に於て能く歴史を調べて見たならば、大変に差別があるであらうと思ふ。此の如きは少し成功失敗の範囲を広めて、此方面にもある彼方面にもあると申上げたので、今日の此実業界に於ける成功失敗は私の前段に述べた通りで、今次に申した通り必ずしも其軌道を一にする訳には参りませぬが、併し成功失敗の関係は大分其範囲が広いものである。而して此実業界の成功失敗が、余程能く吟味して考へぬと、甚しきは其成功者に対する賞讚が一般の人気をして極く危険に陥らしめ、浮薄に傾かしめ軽卒に流れしむると云ふことになる、而して其仕事に対して忠実なる考、親切な行、勤勉な務と云ふやうな事は段々に失せてしまふやうにならうと思ひます。さうすると此成功失敗と云ふことに対しては、余程其性質を吟味して、成功と云ふものは斯様なものだ、失敗と云ふものは斯う云ふものだと云ふことを能く研究をなさらぬと、世間押並べたる有様の成功失敗を皆憧れるやうになつたならば、蓋し此実業界の慶事ではなくて、甚だ憂ふべき事に成行くだらうと思ひます。
 之を約めて申したならば、それが嵩じて参ると丁度道徳と経済が相背馳するやうになる。成功失敗の観察が私の前段申述べた通りに行けたならば、如何に成功者でも其成功は道理と離れぬものでなければならぬ。若し之に反したならば、其成功や必ず仁義道徳とは全く相矛盾するものになるとまで私は言ひ得るだらうと思ひます。どうぞ此成功失敗には充分に注意あることを諸君に希望致します。


集会日時通知表 大正七年(DK440062k-0015)
第44巻 p.246 ページ画像

集会日時通知表  大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
十月十日 木 午後三時 東京高等商業学校ニ於テ御講演


青淵先生演説速記集(一) 自大正六年三月至大正七年十月 雨夜譚会本(DK440062k-0016)
第44巻 p.246-257 ページ画像

青淵先生演説速記集(一) 自大正六年三月至大正七年十月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
    渋沢男爵の講話
                東京高等商業学校に於て
          (大正七年十月十日第七回講演未校閲)
久しく諸君にお目にかゝる機会を得ませぬで、暑中休暇後始めて此処に立つやうになりました。四日に出ます筈に約束しましたけれども、老人の悲しさ時々時候に感じて、少々風邪ゆゑにお断りを申して、代りに今日此壇に立つたのでございます。
韓退之の詩に時秋積雨霽。新涼入郊墟。灯火稍可親。簡編可巻舒。と云ふのがあります。読書城南と云ふ題で勧学の詩でございます。人の人たる所以は充分に書物を読んで腹に理解がなければならぬと云ふことを細かに説き来つて、それで今のやうな好時季には学生は充分な勉強をせねばならぬと云ふことを諫める為めに、所謂美文を以て書いた勧学の辞であります。其終に豈不旦夕念。為爾惜居諸。――作詩勧躊躇。愚図々々して居てはいかぬと云ふ趣意を結文に書いてあつたと思ひます。尽く暗誦はしませんけれども、丁度今日の時季が即ち最も灯火親むべし、簡編巻舒すべし、書物を大に読むべき時季に向つて居りますので定めて諸君は充分御勉励あることゝ思ひます。此壇に立ちま
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してお話をしますることが、予ても申上げます通り所謂断片的であつて、或る学理を研究して参つて、玆に発表すると云ふやうなことも出来ませねば、又学術的の薀奥をお話すると云ふでもございませぬから思ひの生じたことを其時のまにまに諸君の前に申述べるより外、私の講演は為し得られぬので、佐野校長さんへも其事を申上げましたが、それで宜しい、諸君にも其事を伝へて置くと云ふので、毎回出て此壇上を汚します。いつも諸君を裨益するお話の出来ぬことを甚だ残念に思ひますけれども、一方から云ふと寧ろ諸君がお聴きなさるのでなく私が諸君に聴いて戴くのである。貴所方が望んでお願なさるのでなくて、私がお願ひ申して聴いて戴くのであるから、お厭やであつても是から先どうぞお聴き下さることを希望して已まぬのであります。其代り成るべく御用を差措いてとは申しませぬけれども、努めて面白くなくても私も必死にやりますから、御欠席下さらぬやうして戴きたいとまで私は望を申述べて置くのであります。
私が此壇に立つてお話をすると云ふ根本の精神は、我持つて居る薀蓄を諸君の前に披瀝するなどゝ云ふ高尚な学問的の思案はありませぬ。併しより以上に私は深く今日の欠陥であると思ふことに注意して居るのです。学理最も尊むべき訳であるけれども、更に進んでは人の心が所謂極く忠実に真摯に実質的にならねば、此日本の将来は私は思ひやられると思ふです。少し一般の人間が所謂軽薄になりはせぬか。又軽薄者が幸福を得ると云ふやうなる傾がありはせぬか。近頃成金と云ふ言葉が大分世間に伝つて、諸君も動もすれば戯れの意味に成金と云ふことを朋友の間にも御家庭にもお使ひなさることがあるだらうと思ふ私共も稀れにさう云ふ事が無いとは申せませぬ。蓋し俄に僥倖に利益を得た人を指して云ふのであつて、其成金と称する言葉は一面に軽蔑の意味を含んで居ると云ふことは免れぬことである。真実の勉強、充分なる研究、久しきを経た富で名を成し財を得たと云ふ者を、私はどうも成金とは言はぬやうに思ふ。成金とは尊称語であるか軽蔑語であるか、其定義は玆に論じませぬけれども、蓋し其言葉の真意は一分嘲弄的の分子を含んで居ると云ふことは免れぬやうである。而して其成金者が頗る多いです。此成金を造り出したのは誰だと云ふと誰でもない、人ではない時である。蓋し其時も矢張人が造り成したと云ふことも言へるでせう、極く手短かに申したならば、欧羅巴戦乱が日本の成金を造り成した、偶然僥倖者が沢山出来た、試に船持に就て一例を申しませう、今現に運送業に依つて、而も蒸汽船運送に依つて甚しきは飛ぶ鳥も落すと云ふ新成金は、十年以前にどう云ふ境遇であつたか、明治三十八年から九年、四十年に掛けて大抵今の成金者流の連中の船で凡そ二十万噸位にもなりましたか、一纏にせねば斯の如く競争して居つては迚も維持が出来ない、お互に唯所謂蝸牛角上の争ばかりして――之を社外船と称へた、日本郵船会社・大阪商船会社・東洋汽船会社・日清汽船会社、是等は社外船ではない。社内船の方で、政府より相当なる航路補助を得てそれに依つて経営をして居る船会社である。社外船の航路は左様な有利の航路でありませぬ故に、積荷は少なし、運賃は安し、日露戦争の関係から船の噸数は多いし、何処へ行つても
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運賃を充分取ることが出来ない。若し私が時を持つて居つたならば、其時分の例へば百石の米を何処へ運送するに幾らの運賃であつたかと云ふことの、数字を調べて此処へ持つて来ると、尚諸君の諒解がし易いけれども、時の乏しき為めにそれを調べて来ぬのは少し話が漫然たる嫌はありますけれども、殆ど運賃と云つても手間代・水夫其他の費用を償ふに止つて、船価に対しては何等の償却も出来ないと云ふ有様であつた、故にお互競争する、其競争の結果益々運賃を安くする、是は其筈である。其時の人々が大阪では岸本兼太郎、神戸では岡崎藤吉今の山下などは其仲間には這入りませぬ。其頃に今申した岸本などゝ云ふのは即ち今度の船成金の第一番に指を折られる人、是等の人々が集つて、今申す確かの噸数は覚えませぬが、蓋し十数万噸位でありましたらう、之を協同して日本汽船会社と云ふ一会社を組織したい。それを組織するに就ては誰か之を世話して呉れる人がなければならぬ。如何にも困難であるからと云うので、私は船に関係はなかつたけれども、其頃には各種の会社設立に最も中心に立つて力を入れて居りましたから、斉しく私に其事を依頼された。殆ど数月の間之に尽力して、或る逓信省の次官を勤めたお人をして其会社の任務を持たせ、其各人持つて居る船をば公平な法に依つて評価し、さうして一会社に結付けやうと思うて種々相談をしましたのでした。其成立が出来得なかつたと云ふのは何故であるかと云ふと、資本か集まらぬ。船持の方は皆弱り切つて居つたからして、総ての困難に皆服従して、何も斯も犠牲にして唯々諾々船を提供することになつたのである。だから彼等が我儘を云ふが為めに協定が出来ぬのではなくて、寧ろ五百万の会社にしやうとした其金額を募集するのが大変に苦んだ、其中に段々と気勢が悪くなつて諸株暴落と云ふやうな有様になりました。如何に私が世話するとも到底会社を組織することは出来ぬと云ふので、余儀なく其汽船会社の企を中止してしまつたのは四十年の春と記憶します。未だ十一年しか昔ではない。其時の人々は今の船成金の人で、三十の者が四十になり、四十の人が五十になつたから、多少の歳月は加つて居るが、それを云へば私は其時六十以上の者が今七十幾つになつた。年は同じに取つたから、知識が左様に彼等ばかり一日に十も二十も増すと云ふ訳はない。同じく年を取つたのですから、彼等が利口になつたら私も利口になつて居る。けれども併し此先生方は、渋沢などは後へに瞠若どころではない、却々に彼等からは虫目鏡にも見えぬ程の大富豪になつたと云ふことは、実に是は異数の話で、尽く左様でもないか知らぬが、今申す人々は其時に青息吐息で会社成立を希望し、それが出来ないと云ふに就て落胆した人々である。今それこそ大廈高楼に居つて玉を炊ぎ桂を焚くと云ふ昔の人の形容の如く、果して左様な事をするかどうか分らぬが、併し事に依つたら自動車へ乗つて、芸者を連れて中で踊をおどると云ふお仲間になる人がヒヨツと無いとも云へませぬ。斯の如き有様は決して其当人の知識で進んだではなくて、時か与へた偶然の結果だと云ふことは、世故には未だお慣れにならぬ諸君であるけれども、決して私は是は強い意味を以て彼等を謗る訳でないことは御諒解になるだらうと思ふ。即ち時節が然らしむる。私は嘗て此銀行
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業体に就て、銀行が自己の力で繁昌し得られるものではありませぬ。社会の富が銀行を富して呉れる。社会の進歩が銀行の事業を進歩せしむる。尚ほ銀行は鏡のやうなものである。実物が綺麗であつたら其鏡に反映するものも亦綺麗である。実体がみすぼらしければ、矢張鏡にもみすぼらしいものしか映らぬ。粗末の商売人ばかりならば銀行も自然と粗末なる営業者たらざるを得ませぬ。故に銀行を盛にしやうと思へば、先づ第一に取引者を盛にしなければならぬ。故に曰く銀行は其土地の商売を盛ならしめねば銀行自身の繁昌は期し難いものである。声を嗄して其説を主張致しましたが、独り銀行ばかりではありませぬ凡そ商売は協同的で、他の進みが即ち自己を助ける。是はもう掩ふべからざるの真理である。争ふへからざるの事実である。併し今申す斯の如き事業はそれ以上の有様を惹起す。一の適例を申せば、今の船会社が其自分の会社を造らうと云ふので苦心惨憺の人々が、左様に知識が上つたではなく、今日自動車に乗つて世間を狭しと駈り散す諸君がそれ程智恵が進んだではない。社会の変遷に依つて偶然に或は大層賢くも見え、或は大層愚鈍にも見えると云ふことは、どうぞ諸君一歩退いてお考へなさると、何方にも理解し得ることでありますから、是は其方面のみに依つて判断をせぬで、所謂一足退つて静かに物を観ると云ふことが必要である。万物静に観れば皆自得で、嚮日ではございませぬが先月から甚だ世間に面白からぬことが生じました。私共も社会に居る者として、一時の応急策、又将来の根治法、出来得る限り力を尽さなければならぬと思うて、先月は避暑に参りましたけれども、取敢ず帰つて頻に其事に就て苦心経営を致しました。未だ是等の事は完全に其宜しきを得たとは申せぬ。況や私は其職に無いのでございますから――けれども東京府知事若くは東京市長、商業会議所会頭などのお方々に相談して、余り米の高いに就て、一時米を安くすると云ふ応急策、又将来に、細い生活をする向々、一口に申したら一の防貧策と云つても宜いでせう、米の市場の事とか或は簡易食堂の事とか云ふやうなことは、此場合米を安く売ると云ふやうな姑息の手段でなく、仮令それが全般に亘つて完全に届き得るとまでは言はれぬでも、或る一場所とか一辺隅と云はずに、成るべく相当な範囲に公設市場若くは簡易食堂のやうなものを造つて下級の生活をする人に、より好く生活の途を立てるやうにしたら宜からうと云ふ、所謂社会政策に参加して今尚ほ頻に心配を致して居ります。右やうな変化は船持若くは鉄の経営其他時勢に適応する商売の種類に、智識以外に不相当な利益を与へると同時に、反対に又或る部分に対してはえらい難儀を与へると云ふことが是は変化の常であります。斯う云ふ場合が国家に心配を置く人の最も心して宜しきを制するやうにせねばならぬ時代と思ふのです。尚ほ丁度春先や秋口に俄に空気が変動すると颶風が起る、或はある所に低気圧が酷く来ると、大暴風を惹起すと云ふやうな天変地妖と、自ら人為上にも似たやうなる変化を惹起すやうでございます。畢竟一方には左様に俄分限が沢山出来て、富豪の鑑の頁数を二倍にも三倍にも増さにやならぬと云ふ世の中に、直さま昔の食ふに困ると云ふ蓆旗が翻ると云ふは、実に稀有の話。私は存じませぬけれども天保の七年八月
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是は近頃に於ける大凶年、大塩平八郎の大阪で乱を起したのが天保八年、私の生れる丁度三年前、随分古い話です。さう云ふ騒動は決して大変な一方に仕合せがあると云ふ場合に起るものではない。或は米屋が十俵買つて持つて居つたのが大層値が好く売れた、多少の仕合せを得たと云ふ者があるかは知らぬけれども、決して成金簇出と同時に一方には又生活難を訴へる人が出来て遂に暴動が始ると云ふことは誠に稀有な現象である。一方には変化の強い為めに変化に眩惑すると云ふ人気もありますが、のみならずどうも私は少し思想界の緩んだと云ふことが大なる原因ではないかと惧れるのであります。果して今の私の惧れが事実であるとすると、決して其為めに諸君に向つて何か警告的の事を申上げるは失礼で、諸君が左様に緩んでゐないことは確かであるけれども、蓋し諸君と雖もお若い方たるを免れぬ。若し一歩を誤つたならば緩むことが無いとは必ずしも言へぬ。斯く申す私も浮かとすると直に口に出る、至難だとか堪へ難いとか、斯う云ふやうな姑息愉安は人の弱点である。少し人間緩みがあると、直にさう云ふ事が出て来ると云ふことは免れぬ。畢竟私は此米の暴動などに就ては真の困難から起つたのでなくて悪く申せば思想界の不堅実から起つたと云ふことをどうも言はざるを得ぬと思ふ。若し果してそれであるとすれば実に是は由々しき大事で、殊に諸君が充分に覚悟して、斯かる悪風習は己れ達の力に依つて撲滅せしむると云ふ位の勇気を出して下さらなければならぬ次第と私は思ふ。維新以前の学生が粗暴であつて、学問が緻密でなくて素行が修らぬ。酒などを能く飲み不行儀のことが多かつた、押並べては決して今日の諸君と日を同じうしては論じられぬけれども、其多数の中に、或る場合には例へば階級制度はどうしても国の進運を妨げるものである。是は今も尚ほ動かすべからざる道理である又是は大に誤解であつたけれども、此外国は日本を侵略する為めに来たに相違ない、戎敵之を討ち之を懲す、どうしても攘夷をせねばならぬ。此攘夷と云ふことは相手を選まにやならぬのを、唯三百年国を閉して居つたから、外国から来る者は皆敵だ、所謂人を見れば皆泥坊だと云ふ評語に落ちたには相違ないけれども、併し其外国の中には、決して軍国主義・侵略主義、アワ好くば其国を併呑しやうと思ふた国家が無いではなかつた、充分あつたのである。無いのもあつたが、有つたのもある、故に其性質のものに向つては攘夷論者は誠に相当なる考であつた、さなき者に向つては余り偏狭であつたと言はねばならぬが右やうな場合に真に国家の元気を振起すと云うて起つた者は誰である是は其時分の青年即ち今日の諸君である。私共其仲間に数へられる程の人物ではありませぬ。殊に身柄が百姓育ち敢てそこ等のお仲間入りをしやうとは思ひませぬが、所謂元老方或は学者若くは政治家、云ふやうなお人々は大抵其気象を以て世に立つた。或る気風を自己の力に依つて百年でも千年でも万年でも、必ず之を覚醒して見せると云ふ決心を以て立つたればこそ、御一新が出来たと云ふのも決して過言ではありませぬ。若し今申上げるやうなる一体の気勢が緩んで、日本の人間が唯功唯利に所謂成金万歳で若しあるならば此国家と云ふものは実に恐るべき有様になります。斯る場合には丁度其当時の幕府、所謂謂
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はれない開国者に反抗の気象を以て立つたる所の有志者、或は諸藩の志士もありませう。民間の有志もありませう、斯う云ふ人々が遂に声を高め身を殺して、前が死ぬと後が出る、それも死ぬと又出る、幾らあるか知れませぬ。諸君の耳に在るのは僅かであるが、御贈位を下すつた人々でも却々に数多いが、未だ贈位の恩命を受けぬ人に、国の為めに死んだ人は少なからずある。現に私の友人中にもさう云ふ人が指を折ると十人余ある――十人どころではありますまい、調べて見たら却々に多い。斯の如き人々が、皆孝悌忠信仁義礼智――残らず賢人君子とは言ひ兼るであらうが、気象に於ては今申す通り、己れ一人でも全国の気風を改良しやう、緊縮せしめやうと云ふ強き緊張心を以て世に立つたのである。私は是等を大和魂とか武士道とか云ふべきものと思ふのであります。お互に実業――私は今は実業家ではありませぬけれども、諸君と同じやうなる種類の人間であるが、実業家であらうが政治家であらうが、軍人であらうが、軍人は強いが実業家は弱い、そんな馬鹿らしいことはあるまいと思ひます。軍人に弱いのは幾らもある(笑)又政治家の甚だ不道理千万不信義極まる者共が幾らもある。実業界の者毅然たる心を以て世に立つ人が沢山なければならぬと斯う考へますと、今日の頽敗した――頽敗とまで云うては悪いか知らぬが其風潮に対しては、お互に是非共立つて――お互と云ふ言葉は穏当でない。お互にと云うては諸君は甚だ御不承知であらう、イヤ吾々はお互にはならぬと仰しやるかも知れぬ。それは宜しい。どうぞ諸君皆様の間はお互に此悪風潮を改良するに御努力を願ひたい。更に諸君に申上げたい事のあるのは、是は今の維新の例から云ふと譬が余り大であつて望むことが小であると云ふお謗があるか知れませぬが、今日成金の世の中に出来たと同様に、甚だ実業教育の出来たお方の世の中の受が宜しい。所謂羽が生へて飛ぶと云ふ時節であります。或る場合には却々高等商業学校で充分な蛍雪の苦を積んで、世の中へ立たうとしても彼処へ行つても人は沢山である、此方へ来ても何れ詮議しやうと云ふことで、秀才を以て称せられたお方でさへも充分な捌口が無いと云ふ時代も無いではなかつた。私共は最もそれを心配して、成べく此処の卒業のお方をば世にお出し申したいと思うて始終苦心を致した。殊にズツト以前に其事に勤労したのは故矢野二郎と云ふ人である。独り矢野氏たらざるも何時の校長も共にさう云ふ心配をしたけれども、悪くすると或る場合には大に袋の中に残る品物が生じたことが少なからぬのであります。今日は如何ですか、必ず諸君に向つて、どうぞ君卒業したら己の方へ来て呉れと云ふのが、一人に対して三人四人――所謂娘一人に聟八人の世の中であらうと想像する。是は誠に気運の其処に進んだのは、諸君も共にお喜びであらうし私共も此位置に立つて諸君と共に感を同じうするから如何にも喜ふべき訳であるが、私は常に其反対の場合に、斯かる時こそ諸君の奮発を望むのである。凡そ物の売れないときは粗製濫造は出来ぬ。若しも品物の善悪に拘らず、需要者が多いと云ふと、知らず識らず粗製濫造になります。粗製濫造の結果は、彼処から出た人間はどうも面白くないと云ふやうな評判が立つて来る。遂に其店の暖簾に大なる瑕を附けるやうに相成る。斯かる需
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要の少い場合に寧ろ諸君は身を珠にするのであるから厭ふどころではない却てお喜びなさい。斯う云ふ事を幾度も諸君に申したことがあります。それは十五年も二十年も前の話でありますが、併し今日は反対に今のやうな時代であつたら是こそ諸君は余程御注意なさらなければならぬ。前に申す大に一つの警鐘となつて、社会の惰気を警醒しやうと思うて戴きたいと云ふ諸君が、唯時勢に眩惑して甚しきは自分が修むべき勉強まで欠くとなつたら是がどうして社会を警醒することが出来ませう。決して此中にはさう云ふ方は無からうと思ひますけれども若しあつたら転ばぬ先の杖、私の老婆心でありますから斯の如き御忠告は余計なお世話だとは仰しやらぬ方が宜からうと思ひます。是は決して戯談事でありませぬから此場合に別して諸君各自に精励して、売口の好い程自らを大事に思ひなさると云ふことを深く希望するのであります。此世の風紀を引直すと云ふことの気位を持つと共に、先づ第一歩に著手すべきことは自己を強固にすることである。自己を戒めずして人の講釈ばかりすると云ふことは迚も世の中が許しませぬから、此処は深く御注意ありたいと希望して已まぬのであります。
今日お話をしやうと思ふのは、予て自分の主義として、実業上の進歩を図ると共に、其人の精神の修養が完全になつて、所謂徳義と利殖と背馳せぬやうにしたい。言換れば仁義道徳と生産殖利と一致せしめたい、斯の如くすれは個人間の道徳は完全に修るに相違ない。此個人間の道徳が普及し得るやうになれば、一国の安寧は期して待てる、一国の富は道理正しく維持が出来る。是で満足するか、否私はそれで満足は出来ない。世の文明を望むと云ふことは、唯一国だけに望むべきものではない。前に申す自分が社会に対すると云ふ言葉を推拡めれば、一国が世界に向つても同じ意味になる。此世界は一の大会社である、斯く考へますと個人道徳を一国内に普及するだけでは、決して今日の世界の実業を本当に繁昌させやうと云ふには、満足し得られるものではない。即ち国際の道徳を矢張個人道徳の進む如くに進ませねば真正なる仁義道徳生産殖利が鞏固に一致して行くことは出来ない。試に日本だけは個人同志家も経済家も、皆私の希望通りに行はれたとして、此処に一国――仮に独逸であるか何処であるか、所謂弱肉強食の国が果して暴戻の行動をするとしたならばどうする。必ず其処に衝突を惹起して平和を維持して行くことは出来ないに相違ない。丁度それは東京に於て重立つた連中が、お互に道理に合せて利益を図つて行かうと三井も思へば三菱も思ふ、大倉も思へば安田も思ふ。斯う云ふ連中が皆さう考へて、尚ほ之に次ぐ有力な人々が皆さう云ふことで、優勝劣敗こそあれ、弱肉強食はすべきものでないと云ふ道理を以て、世の中の進みを図つて行くとするならば、東京の富はズンズン増す、増すのみならず安寧である。併し若し此処に大阪の者が吾々に反対の仕向けをして来るとしたならば、直さま其間に今の主義が破れる。日本中はそれであつても外国がそれでなければ、又矢張広い範囲に破れると云ふことは一つである。故に果して個人間の商業道徳を完全に進めやうと思ふならば、おほけない望みではあるけれども、もう一歩進んで世界中をして同じやうにせしめたいと云ふことを希望するのが当然であ
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らうと思ひます。玆に於てどうしても国際道徳と云ふことを攻究せねば、真正なる道理と富とが堅固に進んで行くことは出来ない。或場合には丁度あのやうなる騒乱が起つて来る。殊に其以前は世界の有様が或は宗教に依り或は人種に依る戦争が重でありました。私は歴史上の知識が乏しいから能く知りませぬが、先づ聞く所に依ると左様である併し今日の戦争は全く是は経済上の戦争と云うて宜い。是から先起るものは尚更其方面に鋭くなるに相違ない。既に今申す通り一国が如何に私の希望の如く行はれても、他の国々が左様ならなければ、矢張真正なる世界の平和は保ち得られない。斯う考へると云ふと此仁義道徳生産殖利、即ち道徳経済一致論は却々に広大無辺であつて、渋沢如き小さい人物が玆に如何に大きな声を出しても、世の中に声の行渡ることは出来ぬ、殆ど匙を投げるの外ないかとも思ふのであります。若し匙を投げるとするならばどうしたものか、さうすれば全く天理人道壊乱、所謂世界が五里霧中、弱肉強食で此世の中を送つて行かなければならぬ。さうならば寧そ道理などを言ふ者が馬鹿だと斯うなつてしまはなければならぬ。宗教も哲学も勿論必要がない。左様に道理が壊乱して世が進むと言つたら、是は少し平仄の合はぬことである。世の中は決して左様な不道理に終る筈はなからうと思ふのであります。そこで此国際道徳を如何なる方法に依つて進めたら宜からうか、国際道徳を進めんとするならば先づ第一に個人道徳を進めて行く、一方が希望するが如く進まぬ以上は一歩進んだ考は言へぬかも知れませぬけれども、斉しく彼を望み此を望むと云ふならば、どうしても国際間の道徳が今日のやうな有様でなく進まなければいけぬ、斯う私は始終思うて已まぬのであります。或は之を哲学者に問ひ、或は漢学者はどう考へるか、宗教家はどう考へるか、政治家はどう思ふか、各種の方面に色色私だけの範囲で狭い方面からお話して見ますが、どうも余り好い解決を与へて呉れるお方が未だない。此春亜米利加からドクトル・ベリーと云ふ人が来ました。是は明治六年頃来られて、宗教家で有名なお人で、出は東部のマサチューセッツの生れの人だと思ひます。二十年ばかり日本に来て居つたが、私は其頃は親しくしませなんだ、明治六年から同二十六年頃まで、多く監獄の改良、それから看護婦の養成――元とお医者であつて病院の世話、貧民の扱ひと云ふやうな事に大層力を入れて呉れた人。為めに日本政府から勲章などを貰うて大分尊敬された人であります。矢張宗教の用向を帯びて先頃参られましたので私が関係して居る中央慈善協会で此人を歓迎するの宴会を開いて、私が代表者として歓迎演説を述べました。是は唯尋常一様なる謝意を呈したに過ぎませぬが、其翌々日か私の宅へ今のメソヂストの青山学院のビシヨツプをして居るハリスと云ふ人と共にやつて来て呉れまして左様に日本に旧交のある人で且つ何方も日本語が能く出来る。私は英語が出来ぬから、日本の話の出来る人には別して話もしよい。玆に少し疑問を起して大に論鋒を向けて見たのであります。欧羅巴の目下の戦乱は亜米利加の諸君が造りなしたのではない。決して貴所方に向つて苦情を申すと云ふ訳ではないが、併し宗教と云ふものは人の心を成るべく善良に仕向けるものだ。平和に引付けるものであると云ふこと
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は明かに分つて居る。耶蘇の主義は愛にあると云ふ。此愛と戦とはどうしたつて一致するものではない。今日の欧羅巴の有様に愛の字が何処に見えますか、愛と云ふ字は全く字引から取去つてしまつて宜いと云ふ位の有様である。此点から見ると、独り亜米利加の宗教家ばかりを云ふではないけれども、宗教と云ふ力が全くもう滅裂してしまつたのである。すると此知識が進むだけ人間が益々暴戻になる。如何に神が愛の力を注ぎても、此人間に悪魔心が段々強くなつて、知恵と悪魔と益々増長して来た為めに、其愛を打消して、さうして差引悪魔だけが残つた。斯の如き暴戻は宗教の力が無いのか、人間の方が悪いのか何方である。どうも問を発せざるを得ぬやうにあるが更にもう一つ私の一身上の経歴から玆に疑を起して苦情を述べざるを得ぬのである。私が十四の年に亜米利加の船が日本へ来たのである。故に亜米利加と云ふことの観念が私の頭には余程強い。其時は子供であつたから直ぐさまではないが、併し数年の間に段々世間の言葉に依つて私は斯様に感じた。欧羅巴・亜米利加の国々は唯暴利ばかりを重んずる。仁義道徳と云ふことは殆ど知らない国民である。だから利益に依つては親も殺し主にも背く。斯の如き有様であるが故に、人の国に接触すると直に人の国を取ると云ふ考を持つ。斯かる国から誘ひを受けたからと云うて、国を開いて交を結ぶと云ふことは大間違である。故に攘夷はせねばならぬ。斯う云ふ機械も巧みであり軍艦も立派、大砲も精巧、併し心は犬の心である、仁義道徳の何者たるを知らぬものである。斯の如き人々に交はることは出来ぬ、要するに攘夷すべしと云ふ意念が、十四・五年からして段々漢学に対する知恵が進むほど強くなつて、遂に二十四・五年に百姓を止めて浪人になると云ふやうに一身の境遇が変じたのである。所が二十七・八になつては少し考が違つて来て、欧羅巴の或る国は左様であるけれども、或る国は左様ではない。之を皆一蓮托生悪いとばかり思つたのは誤りである。況や此亜米利加、欧羅巴の物質文明を進めると云ふことの知識は、却々今日の東洋はそれこそ足許にも寄れぬやうに進んで居る。故に富は増して居る。此事を知らずに唯前に云ふ通り悪魔である外道であるとのみ思つて、之を排斥するは誤りである。彼の善い所は何処までも学ばねばならぬ。斯う云ふ考を起した。それは殆ど三十に近い頃ほひ――二十七・八からさう云ふ念慮になつたから、今から云へば五十年以前のことであるけれども、私の身の境遇から云ふと世に立つて数年後の事である。申さば宗旨を変じて開国者になつたのであるが、それから欧羅巴に行つて段々様子を見て、是は日本の国は此有様ではいかぬ。今少し富を進めねば迚も国家の隆盛を期する訳にいかぬ。斯う云ふ考が起つたので、そこで帰つて来てから政治家の考を止めて、止めたと云うても元から私は政治家の考は無かつたけれども、先づ日本の物質文明を進めると云ふことに力を入れたのである。即ち欧羅巴の直伝の積りで、良いお弟子になつた覚悟を以て、欧米の有様を移すことに唯力を尽して四十年やつたのである。ところが其本家本元の欧羅巴は今日どうであるかと云へば、道理も構はぬ約束も守らず、人を殺すこと殆ど芥の如くして平気の有様。又内に於て日本の有様を見ると、物質文明は稍々進んで行
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つたけれども、其進みと同時に道義心が次第に衰へて来るやうな虞がある。して見ると其本家本元はまるで悪魔になつてしまつて、其弟子となつた国も、物質の進んだゞけ精神が衰へたとすれば、是は道徳を進める為めに是ぐらい悪いことはないと、斯う云ふ考を起さゞるを得ぬ。不幸にして二十七・八の時から、寧ろ以前の攘夷論者であつたら斯う云ふ迷を起さぬであらうとまで言ひたい程に、私をして苦悶の中に置かしむる訳である。貴所方に苦情を言ふ訳ではないけれども、併し亜米利加・欧羅巴の学者宗教家に向つて私の疑を質して、即ち一の提案として解いて貰はざるを得ぬやうに思ふから、私の経歴から論じて玆に第二の疑問を発すると云うて述べたのであります。少し御馳走の代りにえらい苦言を発したから、先生も酷く弱つたやうであつた。けれどもそれは敢て来た客を虐めやうと云ふやうな精神で申したのではなかつた。もう老人の宗教家で、能く理解して呉れて、如何にも御尤だと思ひます。善い事をお問ひ下さる、流石貴所は色々な事に苦労した為めに、さう云ふお問を下さると云ふことは洵に仕合せに拝承します。さりながら私は之に対して斯の如き暴戻な有様が欧羅巴に起つたから、それで神の力が減じたとは私は判断しませぬ。神の力は矢張以前の通りにあるけれども、人が悪かつたときには神の力が伸びないで、人の力に妨げられると云ふことは何時の世にもあるのだから、即ち今日は悪い時期に際会したのである。今貴所はマルチン・ルーテルの出た独逸が斯の如き暴戻を逞しうすると仰しやるが、それは其通りに違ひない。故に今は神の力が薄くて人の力が重いのであると斯うお答する外はない。然らば未来はどうかと云ふに就て、貴所は物質文明が甚だ間違であるかのやうにお思ひなさるか知らぬが、併し私は決してさうは思はぬ。且つ未来はどうかと云ふと私は此戦争終局と共に、所謂国際道徳を高めると云ふ論議が何れの方面にも起つて来ねばならぬと思ひます。是は宗教家ばかりではない、政治家も共に論じて、詰り善い国と善い国は論理が一致するやうになりはせぬかと思ひます。其方法は如何にするかと云ふことなどは、吾々決して玆に申上げ得られませぬけれども、さう落胆なさらぬでも宜からうと思ふ。貴所のお問も吾々を激励下さる為めの御質問で、決して落胆された訳ではないだらうが、自身等其為めに始終攻究をして居ります。就ては旅行から帰りにもう一遍お訪ねして御討論をしませう。斯う云ふて別れましたもう少し前話もありますが、約めて言ふとさうであります。丁度帰りに又日本へ参りましたが、其時は漸く二日ばかりしか居らぬ。私も時が無し、彼も時が無い為めに其問題に就て第二の討論と云ふものは為し得られませなんだ。何れ是は戦争終局後に起つて来る問題だから、お互に注意しませうと云うて別れたのであります。ところが玆に或は此戦争終局の場合には、自然と此国際道徳の真に設定且つ拡張されるやうな方法が、或は生じはせぬかと云ふ曙光を認めたとは申しませぬが、聊か窺ひ得るやうな感じがある。それは諸君御覧でありませう先月二十七日の多分時事新報であつたと思ふ。亜米利加の大統領ウイルソン氏の戦後の処分に対する意見――此処に持つて参りましたから、朗読致しても宜いが、大分文字が細かくて見えないから、私の老眼で
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は朗読することが叶ひませぬ。後で御覧下さると諸君自ら御了解なさる所があらうと思ひます。米国の行動と云ふ標題で、米国大統領演説戦争の意義を明かにす、米国は独逸を信ぜず、斯う云う大きな字で戦争の真意義、戦争の争点、国際宣明の要あり、解決の基礎如何。人民の戦争なり。正義公道の勝利、斯う云うやうな各項に分けて却々丁寧に評論してあります。其評論の中が既に道理正しい国々の申合せで、完全の力を以て一方は道理、一方は力、即ち道徳と経済とを一にして其力に依つてと云ふことに――若し之を私の流義に論ずればさうなるのであるが、正義公道に依つた所の力、其力の協力に依つて反対の弱肉強食を論ずる者を抑へやう、此抑へる方法が完全に出来れば将来の世界が本当に平和になる。斯う云ふ所が主義となつて居るやうでございます。斯かる事柄は果して真の国際道徳が完全に行はれる程のものになるかならぬか、私共其処まで観察することは出来ませぬが、希望は是非さうなければならぬと思ふ、否ウイルソン大統領一人に頼むのではない、畏多いことでありますが、我大元帥陛下にも望み上げねばならぬ、英吉利皇帝にも仏蘭西大統領にも、皆左様なければいくまいと思ふのであります。若し是等の君主御連中が真に左様として、又国民も真に同意し、完全のものが成立つて行つたならば、私の云ふ――果してそれが全くの大きな世界に及ぼし得るかどうか知らぬが、国際道徳と云ふものが玆に力ある形造りが必ず出来ぬではなからうと思ふのであります。
斯く考へますると、私の個人道徳――其道徳と云ふのは、経済を離れた道徳ではない、経済と共に進む道徳を個人間に盛にすると同時に、国際間にも是非之を及ぼさなければならぬ。未だ今日から申すと洵に雲を掴むやうな申分であるけれども、此世界の混乱、斯の如きは殆ど人の類滅するに至る、丁度韓退之の原道にあります。如古無聖人。人之類滅久矣。蒙昧の人民は何をすることも出来ない。そこで聖人が起つて之が君となり之が師となり、段々国民に色々な智恵を教へたのである。木処顛。土処而病也。然後為之宮室。色々粗末の生活を致してさうして其身に障る故に、斯かる種類のものは生命を養ふものだ、斯かる種類のものは生命を害するものだと云ふ差別が出来て来る。人道の進んで行く有様は左様なものであると云ふことが、原道と云ふ文章に詳しく書いてあります。支那人の一理想、それを以て今日の此大なる問題にまで当嵌め得ることではございませぬけれども、流石に韓退之、矢張さう云ふやうな蒙昧の有様から次第に進んで行く形は斯様だと云ふことを丁寧に説いてあります。未来に対する国際道徳を完全に普及することが、必ず無法の注文であるとは私は言はぬで宜からうと思ふのでございます。未来に対する道徳が左様に望み得られるものとすれば、目前の個人間の道徳を更に盛にしなければならぬ。其個人間の道徳を盛にする第一著として、先刻申上げた通りの現在の風潮が、甚だ道徳に悖戻するものであつたら、此風潮を引直すと云ふことは、其道徳を破ると云ふ人の責任でもあらうが、破る人にのみ責任を負はすと云ふだけではいかぬ、吾々破らぬ仲間が之を矯正匡救して行かねばならぬ。是は論を俟たぬ訳である。斯く考へますると諸君の責任は
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実に大なり。故に諸君は更に是から大に御勉励をなさることを私は希望して已まぬのであります。今日は是で御免を蒙ります。(拍手満堂)

集会日時通知表 大正七年(DK440062k-0017)
第44巻 p.257 ページ画像

集会日時通知表  大正七年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月廿八日 木 午後三時 東京高等商業学校ニテ講演


青淵先生演説速記集(二) 自大正七年十月至大正十年四月 雨夜譚会本(DK440062k-0018)
第44巻 p.257-265 ページ画像

青淵先生演説速記集(二) 自大正七年十月至大正十年四月 雨夜譚会本
                      (財団法人竜門社所蔵)
    渋沢男爵講話(第八回)
               (大正七年十一月二十八日)
 今日お話して見たいと思ふことは、欧羅巴の戦乱が色々な方面に教訓を与へたやうに思ひますが、それ等の廉々に就て、私の観察を玆に申述べて、現在諸君が、直さまそれを応用なさると云ふこと迄には行かぬかも知れませぬけれども、予て私共一の宗旨の如く道徳と経済とは一致せねば、決して其経済が完全に維持するものでないと云ふ論は丁度今度の欧羅巴戦乱に於ても、立派に証拠立てられると云ふことにまで、自分の考を申進めて見たいと思ふのでございます。極く結論から申すと、短い言葉で問題が尽きるやうでありますが、併し此欧羅巴の大戦乱は、独り日本ばかりではない、何れの方面にも意外なるアヽさうであつたかと云ふやうな変つた教訓を与へて居りますから、私が今玆に二・三述べますことが、唯単にそれに止るのではない。私の気付は甚だ見聞の狭い為めに一局部に過ぎない。尚他の方面から観察しましたならば、ヨリ以上に斯う云ふ事もあると云ふ見解は数々ありませう。故に自分の玆に申述べることが、それ等を大小網羅して、言尽すことは出来ませぬけれども、第一に私共の経済上の意見が、日本の国の形勢として、所謂四囲環海、殊に東洋に偏在して居る、此日本に於て、実業を発展させると云ふには、是非共に海運に力を尽さなくてはいけない。所謂海に対する設備が満足でなければいけぬと云ふことは、実業界に這入る前から一の希望として持つたのです。大蔵省の役人をして居る頃、廃藩置県の結果から、諸藩の持船を政府に引上げて其引上げた船に依つて蒸汽船会社を組織されたが宜からうと云ふので当時其事に幾らか熟練した実業界の人に、郵便蒸汽船会社と云ふものを組織させた。丁度共頃――今雄大なる会社となつた所の又大富豪となつた所の岩崎家――三菱が矢張同じく此事業に依つて経営を始めた之を九十九会社と云ひました。一方は私共大蔵省に居る頃から、所謂政府の息の掛つた――船も安い割合で貸付たり何かしたから、大に助けを与へた会社である。一方は独立に成立つたから、其頃政府から大なる力を与へると云ふことはせなんだやうであります。故に自ら此二つの会社の競争心が起つて、明治七・八年頃頻りに競争したやうです丁度台湾の初めの征討――二十七・八年の戦乱ではない、其前にあつたことで、軍事上から船の要求があつて、是等に対して其両方の会社が政府の命に従つて運送を試みたが、九十九会社たる岩崎氏の支配するものは、極く機敏に経営したけれども、一方の大蔵省で最初から世話をした方は、其人が極く適当でなかつた為めか充分に応じ得られな
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かつた、そこに自ら優勝劣敗が起つて、到頭海運のことは其二つに別れたが、一つの方は衰へて、一つの方が盛になつた。即ち三菱の方が盛になつて、郵便汽船会社は衰へる。遂に是は多分岩崎の三菱汽船会社に合併――其時分には会社法がありませぬから今日の如き有様ではないけれども、殆ど買収的合併になつたやうに思ひます。丁度其頃であつたか、此三菱の会社は日本内地の海運を亜米利加の船若くは仏蘭西の船が航海して居るのを、所謂沿海航路を海外の人にやらせるのは甚だ不利益であり、又国の体面から恥づべきことであると云うて、是も大に政府が力を入れて、遂に仏蘭西の開いた航路を買収して三菱の手に渡して経営させるやうにした。それ等が三菱の事業経営を大に助けて、それこそ隆々として進んて来た。遂に又今の郵便蒸汽船会社は倒れたけれども、他の方面から唯単に一会社で海運を維持するものでないと云ふからして、即ち之に対する一の競争物が生じた。それは風帆船会社と云ふもので成立つた。丁度明治十二年頃でもありましたらう此風帆船会社は其人が完全でなかつた為めに、又其組織が余り微弱であつたが為めに、三菱と抵抗すると云ふやうな場合には至り得なかつた。更に是が変して共同運輸会社と云ふものになつて、此共同運輸会社は時の農商務省、今云ふと次官、其時は大輔と云ひましたらう、品川弥二郎などゝ云ふ人が、海運業を唯一に帰するものでないと云うて丁度今の共同運輸会社を三菱に対抗し得るやうに補助した。蓋し是は感情的に三菱を嫌ふと云ふ意味もありましたらうが、唯単に左様な感情、依估贔負ばかりでなく、左様な海運業を唯一手専売に委するのは宜しくないと云ふ大体の経済上の意味から観察して、新しく成立つた共同運輸会社を援けたやうに思ひます。其当時私共どちらに力を添へたかと云ふと、今の共同運輸会社の――当局者ではありませなんだけれども、大にそれに力を添へて、遂に三菱の方から云ふと、丁度若し三菱が独逸であれば、聯合軍の方に居つたと云ふやうな訳で、相抵抗すべく尻押をした。是は却々の強い競争で、十五年に起つて十八年まで三年半鎬を削る競争、其競争の弊がお互に運賃を只でも乗せると云ふやうな激しい有様が起つた。為に事業上の競争のみならず、誹謗讒誣至らざるなしと云ふ位で、時々は新聞にも色々な評判が出ると云ふので、私共援助する位置でありながら、随分其衝に当つて、憎まれたり誹られたりした事もあつた位であつた。政府は斯の如き有様は面白くないと云ふので、遂に之を合同せしめたのが、今の日本郵船会社となつたのであります。それが十九年頃からであつたと思ひます。数年の間は其両者が一になつて、先づ三菱の方の慣れたお人が余計這入つて、双方から当路者が出て、協定して経営しまして、余り世の中に異変も無かつたから、海運業の進歩は左迄ではありませぬ。多少はあつたけれども――併し丁度其場合に日清戦役が生じた。此日清戦役に就ては軍艦も満足でなかつたらうが、運送船も甚だ不備であつた。此郵船会社は不備中にしては大に力を尽したやうでした。丁度其頃から――前の競争の時代には、私共は一方の同情者であつたから、即ち片方に偏した身柄であつたが、今の両方統一されたに就て、日本郵船会社より実務を自ら執らぬでも、重役の一人に這入るやうにと云ふ種々
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の勧めを受けて、確か二十六年から私は郵船会社の役人の位置になりまして、丁度今申す日清戦争の時には、業に既に其船関係には時々の評議に参加すると云ふ身柄になつたのであります。其頃直に此船に就て他の国と競争を起したと云ふことは、今も記憶に能く残つて居る事ですが、紡績事業を盛にするには、印度の棉花を入れなくてはならぬ印度の棉花が漸く好い方法に依つて這入り得るやうになると、ピーオーと云ふ英吉利の大会社が、印度から支那・日本即ち東洋の航路に対しては大勢力を以てやつて居る。此棉花の積取の運賃が頗る高い、殆ど折角棉花を多く取らうとしても、運送屋の奉公をするばかりになると云ふ嫌ひから、もつと値を下げて呉れろと云ふと、厭なら積むなと云ふやうな冷酷なる有様。是は残念だ、もつと安く出来るだろうと云ふから、段々聞合せて調べて見ると、其結果何でも印度から横浜までの運賃が十七留比、其留比が日本の一円に対して幾らであつたか、今覚えて居ませぬけれども、十留比に負けて呉れろと云ふのを、怪しからぬ話だと云うて跳付られた。それから遂に印度人と謀つて、今の日本郵船会社と印度人のゼー・イン・ターターと云ふ人と共同して、一の孟買航路と云ふものを組立てた。何でも是は二十六年と覚えて居る此ピーオーと郵船会社の印度航路とは、船が出掛けると直さま強い競争で、遂に前の三菱と共同運輸会社との競争の如く、殆ど只積むとまでなつて十七留比のものを一留比半まで下げた。以て其競争の激甚なることが解る。為にジヨーゼフと云ふ香港に居るピーオー会社の主脳の人が日本へやつて参りまして、私などは其競争の張本人だと云ふことを聞知つたと見えて、今も事務所にして居る兜町の家を訪問して、頻にこんな事をしちやいかぬぢやないかと云うて、英吉利の会社と共同するが宜からうと云ふことを勧告しました。其言はれた言葉の中に余り斯様な事をすると、日本が利益を得るでなくてマルで英吉利と日本との損を支那にだけ利益として与へる、支那人は至て愚昧な自己の為めにも何等の知識を持たない。其愚昧無智な不勉強の者だけが利益を得る訳になる。さうして其与へる利益は英吉利の会社と日本の会社とが損する。此位愚の話は無いではないか。故に共同するが宜からう何故さうなるかと云ふと、日本に来る棉花が安くなる、けれども棉花は洵に少い、而して印度から支那に来る紡績糸が嵩が多い。日本へ来るのを船で送れば、上海へ持つて来るのを上げる訳にいかぬから、矢張等しく積荷の必要上値を下げる。だから利益を受くる者は支那人、安い物を買ふ訳になる。愚鈍の支那人に限りない利益を与へて、其損は英吉利・日本がする。こんな愚な話は無いではないか。斯う云ふ説を述べて協定しやうではないかと云ふやうな話をされた。私は第一協定が悪いとは言はぬけれども、元来英吉利のピーオー会社の仕向が、日本の此航路に対して、もつと割合を安くして呉れることを肯かぬと云ふことが、遂に此航路の新に開けた所以である。今智恵の無い支那に向つて利益を与へるのは愚ではないかと云ふけれども、縦し智恵が有る無いに拘らず、或る働きから其地方に利益を与へると云ふことは矢張其事業の進歩を図る訳になるのだから、此競争から限り無い安い割合で支那に糸を送ると云ふことは、少し不道理ではあらうけれども
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智恵の無い者に唯利益を与へるのが経済の本旨でないと云ふの論理は英吉利人はそれを是とするか知らぬが、私共はさうは思はぬ。智恵のある人が智恵の無い人から掠め取る、或は高い物を売付けると云ふのが果して経済の道理であると云ふならば、其道理は余り間違つて居る私は決してさうは思はぬ。それは第二にして、最初相当の安い割合でピーオー会社が承知せなんだ、そこで余儀なく之に対抗する事業が起つて来たのだ。謂はゞピーオーが其新会社を産んだと云つても宜いやうなもの、モノポリーの結果斯くまでに行走つたのである。故に今玆に共同の協定のと云うても、若し此方の望み通りだつたら出来るか知らぬが、お前方の考通りだつたら、どうしても応ずることは出来ぬ。支那人に利益を与へるのは無駄だと云ふが、若しさう云ふ事を言ふならば、日本人が安い運賃で積んだら、矢張日本に利益を与へるのは無駄だ、野蛮の日本人に利益を与へるのは詰らぬと英吉利人は言ふだらう、左様な心を以て東洋に向はうと云ふのは西洋人の心得違ひだ。故に協定はどうしても出来ないと云ふ答をして、喧嘩別れをしたことがあります。併し其時にはさうであつたが、遂にそれから一年ばかり経つて、日本の会社の基礎が固いと見たものですから――郵船会社の立てた航路が直に破れるとは見えなかつた為めに、ピーオー会社で飽迄も競争するのは不利益と見て、終に結局協定して、お互に左様な強い競争をせぬと云ふことに相成つたのでございます。併し、今は其航路の協定等も無くなつて、自由航路になつて居りますが、殆ど二十数年以前に於ける日本の航路に、さう云ふ一つの競争があつたと云ふことは、海運の歴史をお話するに、私の記憶中最も深い事でありますから余談でありますけれどもお話するのであります。
左様な有様で、日本郵船会社と云ふものは、追々に進歩して参りました。殊に此支那との戦争以後どうしても航路をもう少し延さなければならぬと云ふ必要を会社自身が認めて、丁度支那戦争に対しては、日本郵船会社は相当に働いた為めに利益を得た、其利益を成たけ船に提供して大に拡張するが宜からうと云ふ覚悟を以て、丁度六千噸級の船を六隻か造つたのは、其日清戦争後直さま起した郵船会社の計画であつた。同時に此船に対しては、大に国が力を添へて呉れねばいけぬと云ふことを、先づ主として郵船会社が希望を出して、蓋し商業会社も其他経済界の人も、此航路に対しては大に力を入れやうと云ふことを国に迫るやうになつて来た。多分其頃伊藤さんの内閣であつたと思ひます、其説を是なりとして遂に此航路補助と造船の奨励と云ふことが明治二十七年であつたか二十八年であつたかに確定された。続いて商船会社又暫く過ぎて東洋汽船会社と云ふやうなものが成立致して、追追に此航路に対し海運に対しては、申さば国の実際の力若くは商工業の有様からは、少し拡張されて組立てられて居つた。欧羅巴航路なり支那航路なり亜米利加航路なり、さう云ふ航路を設備したのは、若し左様な補助法、又左様な組織が進んで居なかつたならば、決してそれ程の大仕掛は、日本の他の経済上の比較からは出来なかつたと云つて宜からうと思ふ。併しそれは政治上からも経済上からも前に申す日本の国柄がどうしても海運に力を注がなければ充分に発展を期せられぬ
 - 第44巻 p.261 -ページ画像 
と云ふ希望が、大に其処に力を添へしめたと申しても差支ないやうに思ひます。併し其後三十七・八年の日露戦争の場合には、今申した支那戦後大きい船を造り出したのが、運送船に対して頗る良い効果を現して、勿論日露戦争当時に於ての比較的の話で、今日から云ふたら微微たるものでありませう。其噸数は幾らであると云ふことを玆に調べて参りませぬから、数字を以てお話が出来ませぬが、丁度十年後の日露戦役に対する海運に左までの不都合なく行けたと云ふことは、其日清戦後の船を大きく経営すると云ふ郵船会社などに最も力を入れたのが、大に与つて力ありと云うても宜いやうです。続いて前に申す商船会社・東洋汽船会社等のものが出来て、支那に亜米利加に航路が立つた。其航路は前に定めてある適当なる補助の制度に依つて、其航路をして益々進歩せしむるし、又一方に航路ばかりではなく、船を他へ頼むと云ふことは、日本の為めに経済上不利益である。既に造船所のある以上は、造船奨励金を与へて、其船の建造が内地に出来得るやうにさせたいと云ふのが、丁度二十六年頃の企、此造船奨励が大に効果を奏して、著々日本の造船所で巨大な船が出来るやうになつた。多く色色な事物が、海外に傚つて似たやうなものを造り成す、其中に早く進んだものと、又充分進まぬものと幾らもあります。家屋建築などは能く進んだ方と云うて宜い。今日の建築技師が、学理からはどうか分らぬが、或る巧みな人、或は熟練な人は、さう欧米のそれに下るとは思はぬ程にまで進歩した。造船なども即ちそれであらうと思う。さらば総てがさうであるかと云うと、試に飛行機を比較して見たならば、どうも此方で拵へたものは能く落るやうです。それ等は決して彼に互角とか似たやうとか云ふことは言へぬやうである。併ながら或る種類のものに就ては所謂欧米を凌駕するものもある。又或る種類のものは凌駕するどころではない、未だ裾にも寄付けぬと云ふやうなものも甚だ多いやうである。今申す船及び航路は是は大に進歩して居る。併し其間に又斯う云ふ困難の事もあつた。此前席にも多分申上げたと思ふ、三十七・八年の日露戦役以後の経済の好況から、今日政府の保護を得て居る会社は宜かつたけれども、社外船と称へる船主は、戦後供給過多の為めに大困難に陥つて、此船を如何にしたら宜いかと云ふ問題まで起つて、一の会社に引直さうとして種々心配したことすらあつた。併しそれは到頭成立たずに、矢張政府の保護に依つた三会社――三会社と云ふ外に、もう一つ日清汽船会社、是も一部の保護を受けて居る故に細かく云ふと四会社。其他個人若くは或る組合法のやうな有様で出来て居る船会社と云ふものは、引続いて矢張自家の丹誠で航路を維持して居つたので、是が此欧羅巴戦乱に対して、日本に実に大なる富を与へて呉れたと云うて宜いのです。若し斯う云ふ仕組が充分になかつたならば、日本の今日の欧羅巴戦乱から受けた富と云ふものは、それは何割減じたか知れない。ですから船と云ふ関係は其頃からの個人経営が、丁度玆に花が咲いたと申しても宜い位。是等は敢て欧羅巴の戦乱が与へた教訓とまで言へぬか知れぬが、併し日本がどうしても斯様な海国である、船に対して力を尽さなければならぬと思ふた観念は私一人ではない、其事に従事した人は皆思ふた。又有識者・政治家・
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学者が皆考へて呉れたことを、事実然りとして玆に明瞭に欧羅巴の大戦乱が証拠立てたと云うて宜いのです。斯う考へますと、是からの此海運と云ふものは如何にして宜いかと云ふことの第二の考も生ずるのです。是は大なる経済問題ですから、玆に諸君にお話しても、或は英吉利の噸数が二千万噸ある、亜米利加が五百万噸ある、日本は何百万頓で宜い、それを維持して行くには、如何なる方法が宜からうと申すやうな問題も、追々に海運の大事業を程好く按排して行かうと云ふには、私が玆に立派な案を以て申上げることは出来ぬでも、蓋し此戦後の経営として大に考究すべき問題と思ひます。併しそれは此処で申上げるのは、欧羅巴の戦乱が日本の種々の事業に対して、斯様な影響をした、斯う云ふ教訓を与へたと云ふことのお話とは違ひます。其未来の事は先づ此処で除きますが、船の関係即ち海運業に対する日本の既往はさうであつた。其結果が斯くなつて、玆に斯う云う有様が生じた依て此世の変化に対しては、さう云う設備の大に効あるものであると云ふことは、仮令実際に当らぬ諸君でも充分に御諒解下さるであらうと思う。又斯う云ふ事は能く知つて世の中へ出てお貰ひ申さなくてはならぬと思ひまするが、斯の如き大変化に際して、平生不必要と思ふた事が斯く効果が現はれて来ると云ふことは、経済上の事でも政治上の事でも、学問的の事でも、軍事上でも、何でもある事であるが、船に就て最も有効に其処へ現れて、成程斯うであつたと誰も知り得るだらと思うのであります。
工業に就ても、私は充分申し得られるやうに思ふのです。元来日本は所謂瑞穂国と云ふ位、多く農産物に依つて生産を始終努めて居つたのであります。米生糸などゝ云ふものは多く農産である。一体の物を製造する機械工業と云ふやうなものが、一切無いではございませぬけれども、洵に家内工業であつて、織物でも漆器でも陶器でも、立派な機械的工業が甚だ少い。どうも副業的なる事業のみ成立つて居つたのである。屡々学生のお方々などには申します。日本の昔の商売と云ふと殆と糶呉服体のものであつた。工業と云ふと手内職であつた。是が日本の商工業であつた。ズツと昔は私は知らぬ、先づ幕府時代の有様は概してさうであつたから、どうしても是では欧羅巴・亜米利加に対抗することは出来ない。是は矢張彼等と経営を同じ組織に引直さなければいけぬと云ふことを、自分は深く感じた。故に其方に力を尽した積りである。其趣意だけは度々申して居りますが、今の工業の如く大勢の職工を使ひ来つたる経営はなかつたのです。機械工業と一口に申しますが、工業を大別したならば、或は金属に属するものだとか、或は建築に属するものだとか、或は繊維に属するものだとか、或は化学に属するものだとか、云ふやうに大別して工業をお話することが出来るでせう、専門的に申すならば。――私はさう云ふ事を取調べて見る程の充分な知識もありませぬし、さう云ふ数字をお話することは私の長所でない。左様な学者的のお話は出来ませぬけれども、大別したならば、さう区別し得るであらうが、先づ其中でも私共は成るべく機械工業よりは理化学的工業に、日本の全体から尽したいものだと論じつゝ居る。此欧羅巴の戦乱は丁度それに対して厳しい教訓を与へて居る。
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併し其教訓は、或場合には大に前の船に就て申上げたやうなる仕合せは与へぬけれども、困ると云ふことが援けになつたり、来ぬと云ふことが此方の製造を進める誘引を与へたりして、大分従来出来ぬ物が出来得るやうになつたのでございます。其種類を尽く玆に申し得ませぬ又申す程細かに調べてもない。或は時計のゼンマイの如き、硬い鋼なども其一つでありませう。もう少し大きな仕事では鉄管の如きもの、是等は輸入の少くなると同時に、此方にさう云ふ完全なる設備が成立つて随て其方に向つての需要が多い、需要が多いから利益がある。利益があるから更に之を増大する。さう云ふやうな事から相待つて、段段に進んで参つたと云ふことは、船ほど左様に著しく、又左様に大きくは申されませぬが、各種類を研究して見ますれば、大なる進みを為し得た。成程若し欧羅巴の戦乱が無かつたならば、此処までの進みは為し得ぬであらうと云ふ道理が明かに分つて来た。さう云ふ種類のものが甚だ数多いやうでございます。
各種の商工業に対する戦乱の影響を玆に考察して、斯う云ふものにも斯かる有様を惹起した、斯う云ふものにも斯かる進歩を為したと云ふことは、却々に申し尽せぬで位あらうと思ひますが、それが皆欧羅巴の戦争が、吾々平生斯くありたい、斯うなければならぬと思ふた事を如何にも左様だと証拠立てられたることを深く喜びますが、是は多く物質に就ての有様。併し私は其物質に依らないで、もう一つ強く欧羅巴の戦乱が吾々の平生思ふた所に成程と照応することを、玆に皆様と攻究して見たいと思ふ。利益と道徳は必ず一致せねばならぬものである。之が一致せねば完全に維持出来るものでないと云ふことは、私は多年申し居る事でありますが、現に独逸の富、独逸の利益と云ふものは、之を利益と見、之を富として頗る優れたものであつた。又最もそれが巧妙なものであつたと云ふことは、世界の経済界の許す所であるもう段々の関係を見ても、此独逸の力の伸びない為めに、今のやうなる殊に工業などに就ては、例へば印度に対する貿易が、独逸の力の廃滅した為めに日本の商売が出来ると云ふ程に、或一地方に就ても見える位であるから、如何にさう云ふ事に対して強い力満足な方法が行届いて居つたかと云ふことは知れるのである。さうすると此富を成す方法に於ては実に満足なる独逸であつたと云ふことも言ひ得るのであるが、併し今日其富は果して完全に維持し得られますか、従来の有様が継続的に進んで行けるか。独逸は其富を更に進めやうと云ふことを考へたに過ぎぬのである。今度の戦争を其根抵から考へれば、それが力を以て制し得られると考へて、殆ど世界の富を我支配の下に引付けやうとした。私は常に申しますが秦の始皇が彼の戦国の六国を討平らげてしまふたならば、四百余州は全く一の支配の下に帰するのだ、斯くして始皇より二世・三世・四世・五世と、万世にまで継続し得られるものと思ふたと、丁度同じやうなる世界的野心と云ふて宜いと思ふ。富と云ふ方に就ては、実に力の張つたものに相違ない。又其富を為すべき仕組に於ても、是と競争する所の英吉利なり亜米利加なり又日本なり、明かに彼れに劣つて居る。寧ろ彼れに学ばなければならぬ程の智恵働きを持つて居りましたから、実は此戦争中殆ど五年に亘る間に
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吾々始終此道理を主眼として、縦令如何に彼が強くても道理が悪いのだから、終には不道理なものは破れる、邪は正に勝たず、斯う云ふ観念を以て始終論じ居りましたが、或種類の我同胞には、其道理の方の観察を充分著けぬからして、形の好い方のみが、良くなるだらうと見て、遂に聯合国が失敗に終りはせぬか、否終るに相違ないとまで言ふた人が大分あるやうだ。それは唯仕方だけを見たのだ。礼とか野とか善とか悪とか云ふことは毫も見ずに、其仕方が宜ければ悪でも通ると見たからである。為めにさう云ふ評論を下した向が大分多かつたやうである。併ながら結局邪は正に勝たず、即ち道理は飽までも強くて、不道理は遂に失敗に終つた。曾子固の虞美人草の歌に剛強必死仁義王ということがあります。不道理のものは強くとも必ず倒れる、正しい者は遂に勝を制するものであると云ふことを七つの文字に現はして居る。此道理が勝つと云ふことは、即ち最終に至つて独逸の剛強が遂に内から破れて、未だ休戦条約であるから、全く平和が克復したとは申せぬかも知れませぬけれども、蓋し此休戦は真の平和になり得べきだけの休戦で、再び戦争を繰返されると云ふことは万々無いと、独り我帝国の人々が思ふばかりでなしに、世界がさう思ふまでに至つたのは即ち玆に充分なる止めが刺されたと申して宜いと思ひます。軈て平和の克服が如何なる方法に現はれて来るか、御同様どうぞ一番良い方に其事が帰結を見たいと思ひますが、是は未来に属する望みであるが、左様相成つた此欧羅巴の戦乱の、今の物質上に証拠立てられたよりは精神的に明瞭なる証拠が――申さば反対の独逸贔負の人に向つては、それ御覧なさいと云ふことが、御互立派に言へるように、即ち欧羅巴の戦乱が精神的にも吾々に実に良い教訓を与へたと私は玆に言ひたいのであります。
嚮日東京の商業会議所で、平和克復と云ふよりは、休戦条約の締結を祝賀する為めに、新内閣諸公を御招き申し、各地の商業会議所の人々が集り、東京会議所の多数に依つて祝賀会が開かれました。其時東京会議所の会頭たる藤山氏が会衆を代表して申述べたる祝賀の言葉は、大要を約めると斯う云ふ意味でありました。欧羅巴の五年に亘つた大戦乱、大惨禍が、玆に休戦条約の締結を見るに至つたことは、世界を挙げて喜ばねばならぬことである。而して此休戦は又再び戦乱にならうとは思へぬけれども、其平和の克復と云ふことは、努めて将来に完全なることを望ましいのである。世界に対して左様望むと共に、我帝国の是から先の事業、即ち吾々の本分たる商工業の完全なる進歩を期するには如何にして宜いか。自身自分の勉強は固より必要であるけれども政治と実業所謂官と民と共に力を協せて進まねば、真正なる道に届き得られぬと思ふのである。爰に於て吾々は実に深く憂へて居つた事の、漸く休戦に至つたことを第一に祝賀するばかりでなく、而も此新しく出来たる内閣諸公をお招きして、其喜びを共にし且つ今の政治と経済との一致を以て未来に充分に努めたいと思ふのであるから、吾吾の意中を能く諒されて、政治界からも充分に力を添へて、我帝国の実業の進歩を図るやうに致したいと云ふ趣意の祝賀の辞がありました当然の話。丁度其時に総理大臣が之に答へて言はれまするに、此欧羅
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巴の戦乱に就て、藤山氏の述べられたことは、頗る適当な事であつて全く吾々政治界の者も同意のみならず、充分なる力を以て諸君と相呼応して進めて行かねばならぬと思ふ。而して此戦乱が特に好い御手本を与へたと云ふことは、即ち武力よりも経済力が強かつたと云ふ事である。若し武力をのみ論ずるならば、決して独逸が聯合国に対して劣つたと云へぬ。且つ戦争の間には独逸が常に勝を制したと云ふことも疑ない。けれども経済力はどうしても勝つことは出来なかつた。遂に経済力に負けた為めに、斯の如く急転直下に休戦条約を結ぶに至つたのである。而して此休戦条約は再び戦争の起らぬと云ふことを殆ど確めらるべき条約である。して見ると如何に大砲が大きくても飛行機が盛であつても、或は火薬の発明が強からうが、水雷艇が数多くあらうが、迚も真の経済力に勝つことは出来ぬと云ふことを証拠立てられたのである。斯く考へると此処に集つた経済に力を添へべき本分の商工業者は、最も自ら任じて、是から先を努力して貰ひたい。斯う云ふ趣意のお答でありました。最も総理大臣として完全の御演説として喜んだのです。併し私は之に一言を添へた。武力と経済力の比較に異論はありませぬが、蓋し総理大臣の意嚮を其処にありませうけれども、若し経済力のみに依ると、悪くとも経済力さへあれば、それで勝てると云ふことになる。故に其以上に善か悪かと云ふことが必要である。道義に基いて居るか道義に背いて居るか、即ち正であるか邪であるか、義であるか不義であるか。此見地から判断を先に著けなければならぬ即ち今度の戦争も善者が勝を制して悪が破れたのである。斯う云ふ事が根本原理であらうと思ひます。して見ると武力より経済力が強いが此経済力よりも更に道義の正しいのが強いのであると云ふことの判断を著けるべきものではないか。斯う私は申添へたのであります。決してそれを討論したのではありませぬが、総理大臣の意見も其意味に相違ない。又商業会議所会頭もそれに異議のあらう筈はございませぬ。併し其処まで加へたらどうか、私の心にはそれが宜からうと思ふから一言を添へると申して、商業会議所の祝賀会に、左様な話があつたのです。丁度今申上げます通り、今度の欧羅巴の大戦乱は種々なる方面に教訓を与へたが、善者でなければ、真正の成功は見られぬと云ふことは極めて明かではありませぬか、即ち経済と道徳は一致でなければ其経済を完全に維持することは出来ぬと云ふ是ぐらい好い証拠は無いと思うて居るのであります。欧羅巴の戦乱が吾々に好教訓を与へたと云ふことを申して決して差支なからうと思ひます。今日は是で御免を蒙ります。(拍手満堂)


渋沢栄一 日記 大正八年(DK440062k-0019)
第44巻 p.265 ページ画像

渋沢栄一日記  大正八年           (渋沢子爵家所蔵)
一月三十日 降雪 厳寒
○上略 十一時高等商業学校ニ抵リ例ニヨリ講演ヲ為ス○下略


竜門雑誌 第三七〇号・第一一―二一頁大正八年三月 ○東京高等商業学校に於て 青淵先生(DK440062k-0020)
第44巻 p.265-273 ページ画像

竜門雑誌  第三七〇号・第一一―二一頁大正八年三月
    ○東京高等商業学校に於て
                        青淵先生
 - 第44巻 p.266 -ページ画像 
 本篇は、本年一月青淵先生が、東京高等商業学校講堂に於て講演せられたる速記其儘にて、未だ先生の校閲を経ざるものなり。
                         (編者識)
 本日は新年になりましてから、皆様と初めての御会見でございまするので、先づお芽出度うございます。私は当年八十になりました。諸君は八十といふと大変なお爺さんと、八十といふ声だけで思ふでせうが、私はまだ諸君とそんなに違はぬやうな気がする。或は腕押をするならば私の方が強いかも知れぬと思ふ。併し若し競走をやれと仰しやれば、それは私は実に一言も無い。是は八十になつたからいけぬのではなくして、三十頃からいけなかつた。資質極く脚の短いのみならず走るのが甚だ下手でございまして、是は洵にお恥しい訳でありますが腕力はまだ諸君と相競ふ位の考を有して居りますから、どうか其様に老人として侮つて戴きたくない。今日は予て用意をしてお話するといふことは出来ませぬ。どうもお正月は閑であるべきだが、近頃は甚だ種々なる混雑が多くて、彼れにも此れにも引出されて、色々相談を受けたり、意見を述べたり致し来りました為めに実に煩雑を極めて居ります。旁々以て充分な用意はして参りませぬが、爰に二つの喜びを述べたいと思ふのが、今日のお話の要点であります。其一つは内に於て即ち本校に於ての喜びである。併し此喜びは果して如何に進むべきかといふ、確乎たる事を私が申上げる訳にはいかぬのである。今一つは外に在る即ち世界的の大きなお話である。是は高等商業学校の内ではなくして、もう些つと広い舞台、即ち仏蘭西のヴエルサイユに開かれる所の将来が何うなるかといふ大なる世界的の会議に付てのお話で、是と比較すれば至つて小さい、我が商業教育が如何に進展するかといふ二つの喜び、又或点から云へば希望に付て私の思うた事を爰に申述べて見やうと思ふのでございます。
 先づ其小なるものからお話しませうが、本学校をして単科大学たらしめたいといふことが、既に業に現政府部内に評決されてある趣に承り及んで居りまする。而して其事は随分年久しい問題でありまして、最早二十年以上に亘つて居りませう。記録を調べて見ましたら何年の何月といふ事が判然と分りませうが、私が丁度六十一の年で俗に申す本卦回り、彼の同じ十干十二支の替つて来る時を本卦回りと称へますそれが丁度明治三十三年であつた。其時に此お場処であつたか、何れの場処であつたか能う覚えませぬが、此高等商業学校の諸君から芽出度いというて祝宴をお開き下さつてお招きに与つたことがあります。其時に私は是非此学校は高等商業学校といふ専門的の教育も必要であらうけれども、大学たらしめねば、いけぬといふ説を頻に主張致しまして、此事に就てはお互に大に力を尽さうではありますまいかといふことを申述べた。蓋し当時お招き下すつたのは生徒の諸君ではなくして、教職員のお方から御案内を受けたのではなかつたかと思ひます。是等の事実は過ぎ去つた事でありまして能く記憶致しませぬけれども其意見を申出したのもモウ少し前からの淵源があるので、皆さん御承知の通り同窓会といふものがあります。諸君も軈て御卒業なさると、多くは同窓会の会員になられるであらうと思ひます。其の同窓会のお
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人々に荐に爾ういふ説があつて、私共も御同意して居つた。殊に私はそれに付て唯単に此学校の昇格といふ方の単純なる意味ではなく、又此教育の程度を高めて能く教はるといふことが、学生の皆様の学問の階級が進むといふ方よりは、一体此帝国大学が法科とか工科とか文科とかいふのがあつて、商といふ方に対しては、一科目を備へぬのが何うもお可訝いではないか、其の時分の説には、学問といふものは所謂学術であるから、商などにはそれ程な学術的研究は要らぬ。それで近く大学に進めることはせぬで宜しいといふやうな説を為す人もあつたやうです。けれども私共は又此大体の世間の趨勢から観て、其考は多少間違つて居る。工は最も学問的か知らぬが、商業も矢張一の学問でないと言はれぬではないか。況や他の国々でも、商をして大学階級に引上げて居る例が沢山あるやうである。日本の其当時の教育の仕方が先づ初に政治家を造らうといふが教育の目的で、欧羅巴に倣うた政治を施すには、欧羅巴の学問を先づ移さねばいかぬといふのが幕府頃からの習慣で、御維新になつてから開成所を大学に引直すといふやうな其因習からして、多く当時の政治も外国の例に依つたので、畢竟工学も外国に其例があつたから工学を加へたので、其時分に外国に商といふものが一の立派な科目になつて居らなかつた為めに、日本に商科といふものが設けられなかつたのであらう。さうすると詰り模倣である併し商の重いといふことは申すまでもなく事実甚だ必要である。商科といふものが日本に立てられぬといふ筈はないだらう。況や他の国にも悉くではないか知らぬが、現に亜米利加などは爾うなつて居る筈だといふので、同窓会の人々も度々話す、私共もそれは大に然りと思ひ且つ帝国の教育家が商業に甚だ重きを置かぬといふことは、政治上の全体から面白からぬといふので、私共は少し政略的に考へた。丁度今お話しましたやうに、本卦回りといふお祝を受けた其の集会の席でお集りの諸君に、随分前途のお仕事が中々多うございますといふことを警告的に若くは奨励的にお話を申したのを記憶して居ります。其後今の問題から色々論ずる人がありましたけれども、中々遽に進み行かないで、専攻部といふものゝ成立したのは、それから後であつたと思ひます。
 然るに其間にも校長の問題等に付て、学校に多少小波瀾の起つたことは屡々でございましたが其後――今のは明治三十三年から三十五年頃の事でございますが、更に七・八年を隔てゝ明治四十二年と記憶します。此四十二年に当局即ち文部大臣が、専攻部廃止といふことを此学校に向つて命令して来たのです。而して丁度其時に同時に帝国大学に商科を置くといふことになつた。ですから取も直さず此学校を大学にして貰ひたいといふことが永年の輿望で、教職員も亦之を賛同し吾吾共も常に其事を論じ、生徒一同も爾ういふ望を有つて来た所に、俄に当局文部大臣が其反対に、寧ろ本科を卒つた後に入つて、殆ど先づ大学に近い教育を受くべき専攻部を廃めて、大学に移してしまうといふことであるから、其様な事では科目が足らぬから、もつと殖して呉れといふ要求に対して、或は然らんといふ詮議をするこそ至当であるべきに、猝に却て或る品物を与へぬと云つて取つてしまつたやうな、
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まるで反対の行動に出てしまつた。是に於て其当時の本科のみならず全部押均べて大変に不平を抱いて種々な面倒が生じました。時は判然覚えませぬが確か五月頃でありましたか、結局総ての学生が残らず退学するといふことになつて、何んでも此校門の前で告別の唱歌か、何か歌うて、大勢のお方が悉く退いてしまはれたといふ珍事を演出したのであります。其時に私は未だ其程の騒動にはなるまいと思うて、丁度房州に参つて居りました。予て色々の物議がありましたから、成たけ静に為すつたら宜からうと、教職員のお方なり其他関係の向々に忠告して、鎮静に努めて居つたのでありますが、竟に左様な有様で殆ど全校に亘つた所の大騒動と相成つた為めに、急に電報が参つて取急いで房州から帰つたのが、多分五月の十八・九日頃であつたと思ひます月日は判然と記憶しませぬ。詰り昇校させたいといふ希望を当局に押へられたといふので、斯んな学校は勉強する望が無いと、学生のお方方が挙つて学校を見捨るといふ有様になつたのです。校長なり教職員のお方々も大変に心配なすつたけれども、中々其説得に応ずる訳に行かず、遂に私共も商議員として各方面のお人達とも協議をし、又幾らか知つた生徒の人々などに種々注意をし段々お話をして、是非とも復校せしめたいと思うて及ばずながら努めたのです。けれども甚しきは文部省の方では、残らず退学を命ずるといふ勢であつたので、命ずるなら命じろといふ総ての御意嚮で、所謂相互の感情の意気張が激しくなつて参つた。熟々自分が考へて見るのに、或は其時の生徒の意嚮が自分等の考から云へば御尤千万で、若し私をして生徒たらしめば、必ず退校をするに相違ないと思つた位です。併ながら是は退校をすれば又此学校に実に情ない汚点を貽す訳になる、暫くの間此学校が殆ど廃校になる有様である。爾うなれば当時商業教育が必要だといふ千人以上の入学生が皆退校してしまつて、チリチリバラバラに他の学校に入校するといふことになるでせう。何れ学問に従事しやうと思うた諸君であるから、全然学問を廃してしまはぬであらうが、もう高等商業学校といふ一定したる学校に居る訳にいかなくなる。而して其諸君が教育を受けることが出来るにした所が、此学校は全く暫くの間鎖さねばならぬことになるのは、一ツ橋の学校に何の罪がある。人にこそ罪あれ此一ツ橋の学校には何の罪もない。此は大に考へて見なければならぬといふので、そこで私は真に涙を揮つて生徒のお方々に、決して訓諭でもなければ理解でもなく、唯私に免じて一つ此所を虫を堪へてお貰ひしたい。況して諸君の行動は暴戻の行為とも思はぬ、道理ある事と思ふ。若し地位を変へたならば私も爾ういふ行動を執るかも知らぬ私は遠慮なく申せば、文部大臣の行動が全く間違つて居ると申す外論断のしやうがない。さうすれば間違つた事には服従することが出来ないといふのは尤だから、諸君の憤慨したのは真に義憤である。併ながら此所で再考しなければならぬのは、縦令此学校に居るといふ人が無くても、此場処に対して何ういふ感情をお持ちなさるか、一ツ橋の学校が文部大臣の措置が悪るかつた為めに、全く明店になつたといふことは、其所に悪い人が在つたから拠ろないといふことになるかは知らぬが、併しそれは諸君が挙つて退校なさるが為めであるから、そこを
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我慢して戴きたい。此処は物質であるから精神が無いと云へば爾うだが、兎に角一ツ橋の学校に左様な不祥事の記録を貽すのは諸君忍びぬではないか。私共は力を極めて回復を図つて見やう。是は唯空に言葉を飾つて諸君をお宥めするのではない。併し何うしても仮すに相当の時日を与へて下さらぬでは困る、其時日をお与へ下さるならば、私共誓つて出来得るだけの努力をするから、是非此場合復校をしてお貰ひ申したい、若し然らずして諸君が飽迄も学校に出ないといふならば、当局が退校を命ずるぞと言はれた、是は法規上からいふと退校を命ずるのは当然の事で、理を持つて非に降る訳になるから是は考へものだ其代り私共は力を極めて尽力をするからと斯う言つて、其時分私と中野君、父兄の代表者として島田三郎君、其他二人ばかりありましたが切実に復校を懇請したのが三人でありました。神田の青年会館に大勢寄つて戴いた時に、私は真に肚に涙を零しつゝ其話をしました。其言葉に幾らか感動したものと見えて諸君がどうも彼れ程に言はれるのだからマア已むを得ず服従しやうと言うて、私共の忠告に応じて下すつて其日であつたか其翌日であつたか総て復校して、此学校が全校閉鎖といふ有様に至らずに済んだことがありました。是は多分明治四十二年の五月の末であつたと記憶致します。
 それから続いて政府の局に当るお方々に、何故に専攻部を廃めるといふのか、此高等商業学校に対して斯様な希望であるに、何うしてそれに反対して爾ういふ行動をお執りなさるかといふことを段々お引合した上に、少し姑息の手段でありましたけれども結局専攻部廃止といふことは六年間延期といふことに相成つた。といふのは何でも最初其積りで入学した人が、俄に其方面を変へる為めに、最初の目的を破るのが宜しくないといふ論理で、専攻部廃止を六年間延期するといふことに相成つたと承知致して居ります。それから後に其六年にならぬ三年かそこら経つてから、専攻部廃止といふことの文部大臣の達は取消といふことに相成つた。是に於て先づ元に復した。それから後に唯そればかりでは満足せぬ。今お話した最初明治三十二・三年頃に、皆の希望した事に更に進んで行かねばならぬといふことが復た屡々問題になつて、私は現教育調査会には出ませぬけれども、其の前の調査会には会員として出まして頻に爾ういふ議論を主張し、且つ会員中でも色色お話をして愈々大学令が改正される場合には、此学校を第一に単科たりとも大学たらしむるといふことが、殆んど学界の輿論の如く進んで参るやうに相成つて居つたのです。爾後私は教育調査会を御免を蒙りましたから、今日の教育調査会の進行工合及其顛末は委しく知りませぬが、追々に其意味が進んで参つて、初にお話した通り局に当る文部大臣が、遂に愈々大学令の改正をされるといふのでありますから、是が定ると共に取運ばれるといふことに承つて居ります。今の事実は何ういふ方面から進んで参るか、所謂寸善尺魔で、其間に色々面倒を生ぬとは必ず断言は出来兼ねますが、右様な沿革を有して今日に来つた当学校が、大学たり得るといふ順序になつたのでありますから、仮令少々の障碍が其間に挟まるとも、縦もや今の当局は其趣意がいけないとして、既に文部省の省議が定まり内閣でも定つた事を変更するや
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うなことは万々あるまいと信じて居ります。故に殆ど二十年以上の希望が玆に愈々貫徹する時機が到来するやうに思ひますので、頃日其事を承知して大に欣び居りましたから、爰に一の喜びを述べるのでございます。
 此一学校の教育の順序が、進んで来るといふことも、決して尋常一様ではございませぬから、諸君は爰に初めて斯ういふ事をお聴きなさるでありませうが、数代の学生のお方々が随分種々の頭を悩まし心を労して今日に至つたといふことは能く御承知ありたい。且又今お話した明治四十二年に居られた当時の学生が、此校門の前で愈々告別の唱歌か何か唄つて去られる折には、中には声を放つて泣いた方もあつた実に母校を懐ふ情の厚いこと、どうぞ吾々国民は斯うもありたいといふことを切に感じまして、今お話した青年会館の集会に於て、私は真に暗涙を催して誠心からお話をしたことを記憶して居るのであります諸君は御自身に聴かないのだから感触は少いでありませうが、乃ち母校にあつた事でありますから能く御記憶を願ひたい。而して今日は段段其事が進んで来たのでありますから、爰に其沿革をお話するのであります。是は本校に属する一の喜びでありますが併しまだ充分にお祝をする訳にはいかぬ。といふのは凡そ物事には妨が生じ易い。今迄も至つて安全と思つて居つた事に対して、種々の妨害物が起つたことがありますから、或は今後大なる暗礁ではないか知らぬが、小なる暗礁が横はらぬとも限らぬ。是等は更に校長も心配するのであらうし、私共も出来得る限り力を尽す積りでありますが、先づ其所迄漕付けて来たでありますから、仮令小暗礁は在つても、此船が必ず彼岸に達するであらうと思ひます。
 前にお話した大きい喜びといふことは、玆に此欧羅巴戦乱が先づ殆ど全く終熄して、是から先に世界の平和が如何に持続して行くかといふ、講和会議が開かれる。此の会議が何ういふ風に取運ばれて行くかといふことであります。私は前回に昨年の十一月であつたか出まして此の戦乱は吾商業界の一の沿革として、別に論ずる事柄ではないやうですけれども、私が常に論じて居る経済と道徳とが一致しなければ決して堅固に永続するものではない。若し道徳が欠けたならば、如何に経済上の発展があつても必ず争が生ずる。其争の結果経済を壊る。又単に道徳とばかり云つて、物質の進まぬ富の力の無い只の道徳であると、志は甚だ嘉すべくあつても力が足らぬ。世を済け民を救ふといふことの出来るものではない。故に此両者が一致せねばいけぬのは、国としても左様であり人としても爾うである。而して其証拠は現に独逸が今日の有様に至つたので、貪慾とか暴戻とかいふものは、必ず道徳に負けるのであるといふ例証を明に示したのである。個人々々の貪慾暴戻の者も、斯の如く争へば必ず負けるといふことは、力を以て制し合ふから判然と分ります。個人々々の善悪正邪は、或る事柄に就て法律の上で行けば格別、左もないと理非曲直が判明しませぬから分らぬやうではあるけれども、それは同じ訳で必ず右様に判断されるから、斯ういふ事実に依ると、道徳と経済の合一といふことは、私は自分の説が誤まらぬといふことを、先づ世人に紹介が出来る。諸君にソレ御
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覧なさいといふ例証を示して申上げることが出来る。
 此間も申上げましたが、真正なる世界の平和といふのが、何ういふ有様に評決されるか、而して此日本が其間に立つて、どれ位の位地を保ち得るかといふことは、私共には能く想像も出来兼るし、希望は有るが果して其希望通りに達し得るものかといふことは、多少疑はざるを得ぬ。政治界に渉つたお話になるから、諸君が余り意を留めて御承知にならぬでありませうが、マア日本が物質上の進歩は欧羅巴のそれに倣うて、五十年の歳月の間に大に進んだ国だといふことは、英吉利も仏蘭西も亜米利加も、我が帝国を認めて居るに相違ない。而して東洋の一角に在つて日本が其仲間中で一番力も有り、物事も進んで居る国柄だといふことは、認められて居るに相違ない。けれども一方から言ふと、今迄の或る行動は何れかといふと独逸式で、英米式でないといふことも感触されて居ると思ふ。是亦事実と言はなければならぬ。それだから第二の独逸と云はれるやうにならぬかといふ声が、時々に聞えるのであります。殊に事実に依てお話をすると、例へば西伯利へ兵を出したといふやうな事に付ても、亜米利加なり英吉利なり其他の聯合軍の側からは、何んだか日本は兎角に武力にのみ傾き易いといふ感触を持たれて居るのであります。此講和に対する会議は、色々の方面に議論は進んで行くでありませうから、私共其実体を知らぬ者には如何に成行くか能く分りませぬけれども、詰り将来の世界の平和を維持するには、如何にしたら宜からうかといふことが、必ず大なる問題として現れるであらうと思ふ。乃ち亜米利加の大統領のウイルソン氏が国聯際盟といふ事を問題として提出したのは、其内容悉くは私共には能く分りませぬが、新聞で見てもどうも何んだか靴を隔てゝ痒きを掻くやうに、明瞭に能く理解致しませぬから、斯ういふ有様であるといふことを事細かに説明するまでには為し能はぬ。諸君も恐く爾ういふ感触を持たれるでありませう。併ながら此大勢を論ずれば、国際間に是から先き健全なる平和を保つて行きたい。斯ういふ事を一つ規定しやうといふのが国の間の聯盟で、それを保つて行かうといふ趣意であらうと思ひます。私は此事に就て此間も亜米利加の大使に会見しました。大使は頃日浦汐斯徳科から西伯利、哈爾賓方面に往かれましたが、何んでも其一・二日前でありました。自分は政治に関係無いものであるけれども、商売と道徳とを是非一致させなければいけぬ。商売上は道徳で経営して行かなければいけぬといふことを、今実務を廃めて老人の一の主義として主張して居る者でございます。此欧羅巴に斯の如き戦乱の起つたといふことは、詰り功利心を強めた結果斯うなつた。私は一方に実業の発展は甚だ悦ぶけれども、其実業の発展が竟に斯の如き有様になるといふことは所謂利を争ふの極である。宗教を盛んにし哲学を攻究する欧米人が、何故斯の如くまで暴戻残虐な事をせねばならぬやうに成行くかといふことを、私は欧米から帰つて来る宗教家などとは、始終議論をして居つたのであります。玆に此講和会議が開かれる。愈々国の間の盟約を以て、未来の平和の基礎とするといふことに付ては何ういふ事柄になるか知らぬが、私惟ふのに、個人間の徳義を重んずると同様に、国際間の道徳が充分に高まらなければ、
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蓋し如何に聯盟が堅固に規定されても、又其間に直ぐに壊れるといふことは免れぬと思ひます。近い一例は現に白耳義が中立地帯に約束されてあつたではないか。然るに国家に必要の場合には、斯の如きものは反古同然と独逸が言つたではないか。それだから如何に聯盟があつて見た所が、復た是から先き第二第三の独逸があつたならば、其聯盟の契約は直ちに反古たらしむることが出来る道理である。されば何う致しても個人々々の徳義が重じられ人格が進み、それと同時に国際間に他を侵す、他国の不利益な事は此方から進んでやる、他国の利益となる事は之を妨げると申すやうなことが、国と国との間に熄むやうにならねば真正なる平和を見ることが出来ない。之を私は平日論じて居る。個人道徳を真に国際間に行ふことが出来たならば、玆に初めて真正なる世界の平和を見ることが出来やうと思ふ。自分の意見は左様であると申して亜米利加の大使にお話をしました。果して如何にも然りと思うたか何うか分りませぬが、大体に於ては同意したやうに見えました。
 此仏蘭西に於て開かれる講和会議に、政治上からは大分立派なお方がお出でになり、尚ほ実業界からもそれぞれのお人が往かれたことは諸君も御承知の通りであるが、私共の見る所では、私が今申すだけの単純なる理窟だけではいけますまいが、思想上の道徳的観念を以て欧米の人と能く論究し、意見を交換するといふお人が余りまだ日本から派遣されて居りませぬ。頃日来此宗教家で日本に居られるビシヨツプハレーといふ人が出掛けます。又近日に組合教会のお人ですが、海老名弾正さんも彼方に出掛けます。又別に実業界に相当な経歴を持ち且つ新聞若くは学問界に充分な経歴を持つて居る報知新聞の社長をして居られる添田博士が、私共段々お勧めを致したに付て近日講和会議の模様を視る為め或は日本の国民が斯様な考を持つて居るといふ事をも或る場合には披露もし又他の国々の或は道徳説若くは哲学に就き政治に就き経済に就て段々人の説を聴きもし自己の意見を述べもする為めに多分来月七日の船で出掛けることになるでありませう。更に今一人は帝国大学の文科の教授をして御座る姉崎博士が、是は未だ確定しませぬが矢張今度の講和会議に敢て参列するのではありませぬけれども彼方に参つて成べく今の道徳説を鼓吹しやうといふ主義を以て出張するやうに相成るかも知れませぬ。添田氏若くは海老名氏などゝいふ宗教家、哲学者が――果して哲学者と言ひ得るか何うか分りませぬが斯ういふやうなお人々が彼方に往つて、哲学の理窟なり宗教上の観念なりを充分に述べて是非左様に為さいませと言ふことは私共大に希望する所でありますが、併し欧米の人がハイ畏りましたと言つて呉れるか何うか分らぬ。けれども斯の如き場合に日本からは唯々政治経済だけで思想の意見が一つも無かつたといふことは、それは矢張人文の開けぬ国柄だと疎んじ得られる訳になるだらうと思ひます。故に斯ういふ人々が出て哲学上の理窟なり宗教上の観念なりを説いて国際間の観念が斯ういふ風に高められなければいけぬといふことを事に当つて討論する場合がありましたならば、日本の国民は此位の感じを持つて居るといふことが欧米の人に充分貫徹するであらうと思ふのであります。
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是は前に申した内にしての事柄とは違つて、遠方の事又吾々の手の届かぬ事柄でありますから、悦んで見た所が果して其喜びが充分に酬ひするや否や分りませぬけれども、兎に角幸に唯政治観念、経済観念ばかりでなしに、思想的――宗教とか道徳とかといふことを意味して、段々爾ういふ二・三の有為なお人が、近日に彼方に往かれるやうに相成つたのは、私の希望からいふと、必ず此講和会議の上に良い効果を齎して来るであらうと、心嬉しく思ふのであります。是は直接に諸君に向つて、道徳経済の一致といふ論を表はす事柄ではありませぬけれども、諸君も共に注目して御座る此仏蘭西に開かれる講和会議が、何ういふやうに進むか、其間に帝国は何ういふやうに仕向けて行くかといふことは、矢張均しく広く論ずれば、自ら経営すべき問題の範囲の拡つたものとして、今日吾々が斯様な心懸をして居るといふことをお話するのも、決して無用の弁ではないと思ひます。況や前回に、私は独逸の愈々降を乞うて来た有様から、遂に斯うあるべきものであるといふことを申上げて置いたのでありますから、其引続きとして前に申述べた喜びを前祝ひに諸君にお話して置くのであります。今日は是だけにして措きます。(拍手)



〔参考〕竜門雑誌 第四八一号・第一六七―一七一頁昭和三年一〇月 商業教育と青淵先生 佐野善作(DK440062k-0021)
第44巻 p.273-276 ページ画像

竜門雑誌  第四八一号・第一六七―一七一頁昭和三年一〇月
    商業教育と青淵先生
                      佐野善作
 近世に於ける商業教育史上極めて重大なる運動が二つある、一つは往時の丁稚見習教育に代ふるに学校教育を以てせんとするの運動、今一つは商業教育を倫理化せんとするの運動即ち是れである。此二者は実に近世商業教育史の主たる内容を成すもので、世界何れの国の商業教育史も此の二つの運動に関するものゝ外他に重要なる資料は無いと謂ふも大過はない。
 商業教育の起源は頗る古く商業の生成と同時に起つたと謂ひ得るであらう、然し其方法は初めは所謂丁稚見習で、店鋪に於ける実地教養の外他に仕方は無かつたのである。学校に於ける商業教育は比較的新しいことで、史家の言ふ所に拠ると、十八世紀と十九世紀との交、露西亜又は澳地利に起りたるものを嚆矢とし、漸次欧洲大陸諸国、就中独逸・仏蘭西・和蘭陀・白耳義の諸国に行はれ、英国の如きは十九世紀の終頃始めて其必要を認むるに至つたと云ふことである。
 斯く学校商業教育は極めて近代に起つたものであるが、創始以来久しい間何れの国に於ても容易に輿論の支持を受けることを得なかつたのみならず、商人間にも之に共鳴する者が至つて少なく却つて之を非難するの声が高かつた為めに、大に其発達を阻礙せられた、今日でも尚学校は商業を教へることは出来ない、商業と云ふ職業は机の上や書物などで授け得べからざるものであると云ふが如き説が中々有力である。素より学校教育と云ふも、学校に於ける教授だけで商業教育の全部を成就し得べしと云ふのではない、学校に於ては専ら基礎教育を施し、其基礎の上に実地に就き実務上の知識と経験とを得せしめんとするもので、学校教育は店舗教育の予備であり店舗教育と相須つて始め
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て商人を造ることを得るものなりと主張するのであるが、反対論者は其基礎教育をも否定し去らんとするのである。斯くて今日まで学校教育を主張し実際に其衝に当つて来た教育者其他の人士は四面楚歌の声の中に右の如き俗論と闘つて敢然其所信を実行し来つたつたのであるが、兎も角も其努力は酬ゐられて今日の成功を贏ち得た次第である。
 商業教育の倫理化運動と云ふのは、商業が営利事業である関係上、其実地教育なると学校教育なるとを問はず、之を受くる者が、兎角本末を顛倒して利己主義に流れ社会的使命を顧みない弊に陥り易い、換言すれば利害打算的に奔り是非善悪を度外視するの傾があるのを矯正するを目的としたる運動であつて、産業の倫理観から出発したものである。
 学校教育の教科は、世の進運に伴れて漸次多岐に亘り、其程度も当初は低いものゝみであつたが、次第に高尚なるものを加へ、今日では世界先進国は何れも商業の為めに大学を設くる程度にまで進み、学校によりては其教科中に特に修身とか倫理とか云ふものを付課し、店舗教育に比すれば遥に精神の修養人格の陶冶に力を用ふることが多いが事実上何れの程度の学校に於ても智育に偏し徳育を軽視するの傾向あるを免れないで、尚未だ商人の社会的使命を基調としたる教育が徹底的に行はれて居らない、随つて識者は其教育の倫理化を叫びつゝあるのである。
 要するに近世商業教育史は往時の店舗又は事務所に於ける実地見習教育に対する学校教育の興起及び此二者の調和並行と並に教育方針の倫理化と二つの運動の跡を叙するものに外ならない、即ち一国の商業教育の発達の程度は此二つの運動の成績如何によりて卜せらるゝと云ふも大過ないのである。
 我国に於ける学校商業教育の沿革を述ぶるは本文の目的ではないが其起りは明治八年故森有礼子によりて東京木挽町に設立せられたる商法講習所であつて、其れが幾多の変遷を経て今の東京商科大学に発展し、又其れを模範とし若くは其流れを汲んで全国各地に於ける各程度の商業学校が出来、我国商業教育現今の盛況を見るに至つたのであるが、講習所が今の商科大学となるまでの紆余透迤に始終一貫甚大の尽力を致されたるは子爵青淵先生其人である、素より商科大学の今日あるは、商法講習所の創立者を始め歴代の校長教職員及文政当局等多数人の協戮と努力との成果ではあるが、前記講習所開設以来今日に至るまで五十有余年始終渝らず絶えず同校の為めに熱心に力を致されたるは青淵先生の外には一人も無い。今其効績の顕著なるもの二・三を摘挙すれば、商法講習所が創立以後数月を出ずして東京会議所の管理に委ねらるゝや之を引受け哺育せられたるは青淵先生である、尋て翌九年東京府立となり十四年始めて規則を制定せしが青淵先生は同委員の一人として主として其事に当られた、当時世人未だ学校商業教育の必要を悟らず、東京府会の如きは之を無用なりとし、十二年春大に講習所の経費を削減し更に十四年七月全然之が支出を拒み、講習所は閉鎖せらるゝの悲運に際会したが青淵先生は奮然として起ち、同志を叫合して百方之が継続に尽瘁し、或は有志の醵金を募り、或は農商務省に
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稟申して補助を乞ひ、又宮内省に恩賜金を仰ぎなどして、纔に其命脈を繋いた、其後同所は東京商業学校と改称し農商務省直轄となり更に文部省に移管せられ、商議委員を置きしが、青淵先生は其一人として就任せられ大正九年同校が大学に昇格すると共に商議委員の制廃せらるゝに至るまで、始終最も熱心に尽瘁せられたのみならず、同校に於て卒業式を挙行する毎に先生は必ず臨席せられて卒業生の為めに訓話を為さるゝを例とし、先生の訓話は同校卒業式に欠くべからざる行事の一と看做されて居つた、又先生は夙に時勢の進運に鑑み商業教育にも高き程度のものを要することを認められ、三十二年に率先商業大学必要論を唱へられた、是れ実に我国に於ける商科大学論の嚆矢であつて、抑同校の昇格運動は之より始まつたのである、而して之が軈て我国に於ける単科大学論の権輿を為して居る、降て四十二年に文部省俄かに同校専攻部を廃止し其昇格運動に一大打撃を加ふるや、学生奮起して総退学を決行せしに克く之を鎮撫して復校せしめしは亦主として先生の力である、其他同校昇格問題に関聯して屡々起りたる校長排斥其他の紛擾には必ず青淵先生の出馬と尽力とを見た。
 斯の如く青淵先生の商法講習所乃至東京商科大学の為めに絶えず非常の尽力を為された、東京商科大学が我国商業教育の淵源であり其総本山である以上、其尽力は即ち延て我国商業教育全体の発達の為めになつて居ることは言ふまでもない。
 商業教育の倫理化運動に就ては、青淵先生は実に我国に於ける最先覚者であり其第一人者であると云ふを憚らない。経済と道徳との合致は先生の宿論であつて、而かも先生の為された幾多の経世的主張中最も力を入れた所のものゝ一つである。前に述べた一橋の学校の卒業式に毎年必ず臨席せらて為された訓話も、時により話題こそ異なれ、其趣旨は必ず経済と道徳との合致論で、此二者は決して相背馳せざるのみならず、之が融合一致を見るに於て始めて個人としても成効し、国としても発達し真の国利民福を招徠するものであると云ふことを力説せられ、又大正六年より同校昇格の時に至るまで同校の講師として、進んで倫理の講座を担当せられ、経済と道徳と云ふ題下に講壇より大に所信を披瀝せられ蘊蓄を傾けられたことは、此運動に対する先生の熱誠と努力とを語るもので特筆すべき事実である。人或は先生が斯る運動を起し斯る鼓吹を敢てせられたるは、比年我国の商業道徳が外国人から非難せられつゝあるを遺憾とし、之に刺戟せられた結果であるなどゝ言へども、其は皮相の憶説で能く先生を識る者の言ではない、先生は必しも斯る時論に駆られて場当りの軽挙を為すが如き人ではない、経済と道徳との合致論は其初め先生自ら義利一致主義と呼ばれたもので、実に先生の幼時より奉ぜらるゝ孔子教に根基した牢固抜くべからざる信念から来たものであつて、決して上滑りの政策論ではない先生の「論語と算盤」「新商道」「実験論語処世談」等を一読すれば、之に関する先生の所信の一端を窺ふことが出来る。
 現今我商業教育には間然すべき点が未だ甚だ多い、就中各種学校何れも智育を偏重し、徳育を忽諸に付するの傾向あるは其一大欠陥である。蓋し教育の倫理化を徹底せしむるは現下の一大急務と謂はねばな
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らぬ吾人は青淵先生の夙に此点に着眼せられたるを偉とし、我商業教育の先覚者として又其最も有力なるリーダーとして敬意を払ふと同時に、此点に関する先生の主唱の尚未だ十分に実現せられざるを憾みとし、同志と共に先生の驥尾に附して之を徹底せしむるに努力したい、是れ蓋し吾人商業教育の任に膺る者の当然の責務であると信ずる。
 之を要するに青淵渋沢先生は商業教育の先覚者であり、其恩人であり、而かも常に親しく其第一線に立ちて健闘せられたる勇敢なるリーダーである。我商業教育史の内容を成す二大運動は、先生によりて扶起せられ指導せられ鼓舞せられて今日に及んだ、吾人は一橋の学校を始め全国各種の商業学校が今日の盛況を致し、我商業教育が兎も角も見るに足るものあるに至りたるは、先生に負ふ所最も大なるを認識する。昨歳先生米寿を迎へられ尚矍鑠として壮者を凌ぐの概あるは、独り先生並に先生御一門の為めに慶賀するのみではない。