デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
2款 東京商科大学 付 社団法人如水会
■綱文

第44巻 p.329-337(DK440074k) ページ画像

昭和6年5月10日(1931年)

是ヨリ先、如水会、故矢野二郎ノ記念事業ヲ計画シ、第一計画トシテ銅像ヲ建設ス。栄一ソノ題字ヲ揮毫ス。是日、其除幕式ヲ当大学校庭ニ於テ挙行ス。栄一老齢ノタメ、石井健吾代理トシテ出席シ、祝辞ヲ代読ス。


■資料

如水会々報 第九一号・第一―一一頁昭和六年六月 矢野二郎先生記念銅像除幕式(DK440074k-0001)
第44巻 p.329-334 ページ画像

如水会々報 第九一号・第一―一一頁昭和六年六月
    矢野二郎先生記念銅像除幕式
 母校初代の校長にして我国商業教育の教祖たる故矢野二郎先生記念計画は、予てより実行委員の熱心なる尽力と全国津々浦々に至る商業及商業教育関係諸団体等の後援とにより着々進捗中であつたが、其第一計画たる記念銅像は新進彫塑家堀進二氏により、又其台座及庭園は文部省技師中根蕃氏により夫々晩秋以来製作中の処、先程愈々完成したるを以て、去る五月十日の吉辰を卜し、国立の母校新学園校庭に於て左記順序により盛大なる除幕式が挙行せられた。
      除幕式順序
 一、開会の挨拶  司会者         成瀬隆蔵
 一、除幕     除幕者         令孫藤野美知子嬢
          附添親族総代      益田孝男爵
 一、除幕式辞   如水会理事長      江口定条君
 一、親族総代挨拶             益田孝男爵
 一、花環捧呈   白耳義大使       アルベール・ド・バツソンピエール男爵
 一、同      東京商科大学長     佐野善作君
 一、同      徹心会代表       七海兵吉君
 一、同      大日本麦酒株式会社々長 馬越恭平君
 一、同      三井合名会社々長    三井八郎右衛門男爵
                   代理 団琢磨男爵
 一、同      三菱合資会社々長    岩崎小弥太男爵
                   代理 三宅川百太郎君
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 一、同      本会理事長       江口定条君
○中略
右終つて後一同兼松講堂に参入し、左記順序により挨拶祝辞等が述べられた。(別項参照)
 一、挨拶及報告  記念計画委員長     藤村義苗君
 一、祝辞     文部大臣        田中隆三君(代)
 一、同      徹心会員        増田義一君
 一、同      全国商業学校長会幹事長 市村芳樹君
 一、同      来賓          馬越恭平君
 一、同      来賓          渋沢栄一子爵代理石井健吾君
 一、同      社団法人一橋会代表   石川精一君
 一、挨拶     東京商科大学長     佐野善作君
 一、在倫敦矢野覇朗君謝電朗読其他祝電被露 堀内明三郎君
 一、閉会の辞   司会者         成瀬隆蔵君
      挨拶及報告
              記念計画委員長 藤村義苗
 閣下及諸君、今回矢野先生記念計画の一部なる同先生銅像建設のこと全く終了し、玆に除幕式を行ふ機会に於て、私は委員の一人として是迄の経過報告、並に皆様方に対して一言御挨拶を申上げようと存じます。
 矢野先生は実に我商業教育の元勲であり……先駆者であり、十八年間一身を此教育の為に投ぜられまして、之に心血を傾注し殆ど自己の半生を其犠牲に供せられたる所の恩人であります。
 先生は斯の如く商業教育に尽瘁せられて商業及我国の通商貿易の恢弘発展に努力せられたるばかりではなく、常に熱烈なる慈愛の心を以て後進青年の栄達に助力せられたるは、先生に親炙したる者の皆斉しく認むる所であります。殊に今日御集り下さいました皆様は既に其事情を凡て御承知下さいます方々でありますから、私は之に就いて諄々しく申上ぐる必要はないと存じます。而して先生の功績を永久に記念し之を後世に伝へようといふことは我々門生及先生から一方ならぬ御世話を受けました人々の極めて痛切なる希望であります。
 然るに先生一世の事業として奮闘せられたる事蹟を物語る所の有形の遺物とも云ふべきものは、只僅かに数年前迄存在して居つた所の神田一ツ橋の商科大学校舎あるのみと云ふ有様でありました。而かも其校舎も大震災の為に烏有に帰し、今回愈々此十八哩を隔てました国立の地に新らしく建設せらるゝと云ふことになりました為に、先生の記念物とも云ふべき記功章は殆ど全く無くなつて了つたのであります。先生の故旧・友人・門人の人々も歳月の経過と共に追々に調落し、近頃では余り先生の名を口にする者すら無く、かくて先生畢生の鴻業も漸く世に忘れられ消えて了ふのであらうといふことは誠に遺憾至極であります。
 先生の為に何か永久に遺るべき記念の計画をしようと云ふことは、同人間の多年の宿題でありました。曾ては其一つとして「矢野二郎伝」と題する先生の伝記を刊行したこともあります。同感の士増田義一君
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……今日もこゝに御列席になつて居られる……増田君等の御後援を受け、先生の心友島田三郎君に托して之を編纂し、世に公にしたのでありますが、此本も今では余り読んで呉れる人もなく、或はそんな書物が出来ていると云ふことさへ既に世人の記憶から去つて了つた様な次第でありまして、誠に心外なことであります。
 我等母校の前身なる商法講習所が木挽町……今の商工省のある所……に建てられ、亜いで農商務省の所管に移つて東京商業学校となり、更に文部省の所管に転じて神田一ツ橋に移り高等商業学校となつても当時世人は此堂々たる官立学校を目して「矢野の学校」と呼び、商業教育のことを「矢野の教育」と云ひならはしたる如く、斯学と先生とは実に離る可らざる深き因縁があつたのが、今や母校は大学に昇格した斯道の最高学府となり、出身者の数は年々増加して行くにも拘らず矢野先生の事蹟は日一日と世に忘れられ、遂に全然世人の記憶から去つて了ふであらうといふことは、世の推移と云ひながら余りに情なき事でありますから、今回母校の移転を機とし是非何か永久に記念になるものを施設しようといふ議が期せずして同人の間に纏り、之を母校出身者の総団体なる如水会の幹部に謀りました所が皆々同然一辞之を賛成し、如水会自ら主催者となり、臨時に矢野先生記念計画委員会を特設して其事業を処理せしむることゝなりまして、始めて其計画の一部なる銅像建設のことを世に発表するに至りましたのは、昨年三月の初であります。
 それ以来委員等はそれぞれ手分け致しまして、先生の旧友縁故者にして商法講習所の当初以来断へず先生の事業に力を添へられましたる方々……即渋沢老子爵……佐々木第一銀行頭取……又先生の晩年に先生を勧誘して、共に事業を経営せられたる大日本麦酒会社長馬越大人等に御相談申しましたる処、期せずして皆様が殆ど同じ様に
 「矢野君が商業教育に尽されたる勲労は今尚吾人の記憶に大なる印象を遺して居る。先生は熱烈の人で多くの学生・門弟を育てられたのであるから、諸君は既に勿論旧師の為に遺憾なく色々の記念計画を為されたことゝ思つてゐた。然るに今諸君のお話を聞いて実に意外に堪えませぬ。我等は及ばず乍ら御賛成もするし、御手伝もするから、一日も早く其計画を遂行せらるゝがよからう。矢野君の旧友は既に大抵老年である。今健在でも今後其人等の亡くなつた後には誰が逝きし矢野君の為に其功労を認識して之に裏書をする者がありますか。」
言々我輩の肺肝を衝く様な御言薬で熱心なる御奨励を蒙り、賛意を表せられましたことは、実に感謝の外なき次第であります。
 我々は是等先輩の御高示に依つて誠に強き刺激を与へられ、為に大いに意を強うして本計画の遂行に従事し、我々同門の出身者を従来多く聘用せられて居る所の三井・三菱等の巨頭先輩にも賛成を請ひ、更に全国商業学校長其他故先生の知友・縁故者等にも謀り、各方面に渉つて広く同意を求め、幸に其懇諾を得たのであります。
 今や一般的不景気の時にして財界不振の折柄、如斯計画を為すは甚だ不適当な時機でありますから、最初は吾々の計画も極めて狭小なる
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規模の下に行ふ積りでありましたが、幸に大方の熱誠なる賛助を得まして、醵金の額は意外に多きを得、今日迄に醵集しましたる総額は六万五千余円に達し、尚今後も最終までには多少の増加を見るべく、或は七万円位迄には上るのではあるまいかと想像さるゝのであります。
 而して如斯巨額に達しましたことは、全く賛助員及如水会員諸氏の出捐が其基礎を為して居りますことは勿論でありますけれども、全国の商業学徒の多数が熱心に賛助せられたことも特に御報告申上げねばならぬことゝ思ひます。全国に渉り十五団体百五十一校といふ多数の集団が好意的賛成を致されたこと、並に各学校の学生生徒等迄が十銭二十銭といふ零細な醵金を為して此挙に応援せられましたことに就きましては、吾人は実に感激に堪えぬのであります。現に学生々徒なる多数の年若き人々は、矢野先生から見れば孫弟子・彦弟子或は其以上の末の弟子に当る人でもありませう。而して是等の人々の員数は明かに分りませんが、多分其数壱万人以上に上つてゐるのではないかと推算されます。是等多数の可憐なる青少年少女が厚き誠意を披瀝せらるることは、師道の廃頽したる今日に於ては稀に見る所でありまして、如斯麗はしき情景に接して我々は実に案外の喜びを感じたのであります。之れ畢竟矢野先生の遺徳の然らしむる処でありますが、又一方賛助員各位の誠意ある御掩護御声援が大なる基礎をなしていることに思ひ及ぼしまして吾人は深く感謝の念に駆らるゝ次第であります。
 如斯して実際集りましたる六万五千余円の金額の内、殆ど其半額を以て銅像に係る諸経費に充て、外に壱万円を今後百ケ年の信託預金となし、其利分は毎年之を商科大学に寄附して銅像及附属庭園の維持手入等の費用に供することゝし、其手続につき目下現に三井信託会社と交渉中であります。尚銅像及庭園は無論商科大学へ寄附致すのでありまして、其手続も既に運んで居ります。そして其残額は之を以て一ツ橋の如水会の隣地なる商科大学講堂建設予定地内……旧母校の敷地跡……に矢野記念館を建設し、専ら母校及如水会の使用に供し、其他全国商業学校長協会・徹心会(矢野先生の親戚故旧等の会合)等の集会にも利用を提供する積りであります。
 此矢野記念館の工事は目下設計中でありますが、建築費の金額に制限がありますから迚も宏壮立派なるものを造ることは出来ませんが、質素堅牢なるものを拵へまして、永く記念の目的に副ふことを専一と致して居ります。
 尤も是等巨細のことに就きましては、今後本計画委員会の事業全部終了の場合に於きまして、いづれ文書を以て更に御報告申上ぐることに致します。
 銅像の製作は美術学校出身の新進彫塑家堀進二君の力作に係りまして、先生の逝去後二十六年を経過したる今日に於ては、只写真と遺族知友等の助言によりまして其大体の基礎を定むるの外なく、似寄りのモデルや其頃流行の洋服の古物を捜して手に入れることなどに就ても色々の苦心談がありました。昨年六月工を起し先月下旬出来致しました。
 又銅像下の石台・階段及庭園は文部技師中根蕃君の設計監督に依る
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ものでありまして、之も地盤の関係及大地震の時各銅像の破損顛覆等の事実を参考せられ、堅牢を主として設計施工せられたるものであります。此部分は銅像と同時に着手して昨年十二月中に竣成致しました
銅像の高さは一丈(銅座共)、石台及階段の高さは一丈八尺、庭園の盛土中央部に於て約二尺、即一般の地平より計三丈の上空に銅像のお頭の頂があるのであります。そして庭園は現に御覧の如く円形にして総坪五百坪であります。
 表面の題字は特に亡友の為に渋沢老子爵が九十二歳の健筆を揮はれたるもので、銘文は先生の旧知にして母校の講師たる杉山令吉君の撰文及揮毫に係るのであります。
 如斯して出来上りましたる銅像を仔細に拝見致しまする処、皆様も現に御覧の如く其御顔附は極めて先生の御在世の時の御風貌に酷似し御姿勢態度は先生が朝夕一ツ橋の校門に出入せられて、吾人を慈訓叱咜せられた時の英姿を其儘拝するが如く、吾人は二十六年目に更生の矢野先生……復活の矢野先生に今目のあたりお目にかゝる様な心持が致しまして感慨実に無量であります。
 本日は母校に於ても先刻新築移転式を挙げられましたが、之は期せずして除幕式と同日挙行せらるゝことになりましたのであります。私共は此奇蹟的なる事実の偶発に省み、矢野先生……元来感激性に富まれた矢野先生……在天の霊が諸君の熱烈なる懇款追思の至情に動かされ、母校移転式の当日に於て再び此地に降つて一橋伝統的の堅実なる学風を永久に維持し、更に斯学の進展向上の為に冥助せらるゝに非ずやとも感ぜられ、景仰、崇敬の念一層深きを覚ゆるのであります。
 此機会に於て私は今回の計画に就き諸賢の従来与へられたる御高庇を拝謝し、且本日も亦多数の閣下及諸君が百忙の一閑を割愛せられて特に参臨の栄を賜り、旧師の銅像に対して壮厳なる光彩を加へられたることを厚く御礼申上げます。
   ○中略。
      祝辞
                    渋沢栄一子爵
 東京商科大学出身者の団体なる如水会同人の建設せる矢野二郎君の銅像成り、玆に其除幕式を行はるゝに至れるは、余の深く欣喜する所なり。
 回顧すれば君は明治八年聘せられて本校の前身たる商法講習所の所長となりしが、資性明敏に泰西の学を修めて一見識を具し、将来身を商業界に投ぜんとするものに特殊の教育を施すの要ある事を唱道せり
 当時一般商家に於ては寧ろ此を以て害ありて益なしとするの状態なりしが、君は確乎として所信を枉げず。斯学を発達せしむるを以て己が任となせり。是故に君は商法講習所の東京商業学校となり、高等商業学校となる後も依然校長の職に留り、同二十六年の辞職に至る迄前後殆ど二十年の長きに亘り、一意専心教務に尽瘁せられたり。されば校運年と共に隆にして幾多の俊材を実業界に送りて国家の進運に多大の貢献をなせり。
 商法講習所は初め森有礼氏の一家塾なりしが、後資金の援助を東京
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府の共有金に仰ぐに及び、余は其共有金を監理せし縁由に依り遂に本校の事務に関与するに至れり。されど余は唯外に在りて之を幇助せしのみ。人材養成の功は固より君に帰せざるを得ず。爾来本校の東京高等商業学校となり、更に陞格して東京商科大学となれるもの亦君の遺図与りて多きに居れりと云ふべし。宜なる哉如水会同人の君の銅像を校庭に建てゝ永く其徳を頌せんとすることや。
 余は今国立原頭に屹立せる此像を仰ぎて、二十五年前幽明境を異にせし故人と再び相見るを喜ぶと共に、如水会同人諸氏が能く先師の旧恩を忘れず、協力して此美挙を敢てせる情誼の厚きに感激するものなり。乃ち聊所懐を述べて祝辞に充つること此の如し。
  昭和六年五月十日[昭和六年五月十日]
                    渋沢栄一
○下略


礼状往復(二)(DK440074k-0002)
第44巻 p.334 ページ画像

礼状往復(二)             (渋沢子爵家所蔵)
拝啓、益御清康奉敬賀候、陳者故矢野二郎先生記念計画に付賛助員として御高援被成下度旨予て拝願仕候処、幸に御懇諾を賜候段御芳情難有奉深謝候、以御蔭本計画も順調に進行致候に付、今般別紙趣意書及計画書を夫々各方面へ発送仕候、尚右計画書中には賛助員として尊名を記載仕候間是亦御諒承賜度奉願候、不取敢此段書中御挨拶申上候
                               敬具
  昭和五年六月廿三日
           社団法人如水会理事長江口定条
           故矢野二郎先生記念計画委員長藤村義苗
           東京商科大学長佐野善作
    子爵渋沢栄一殿
          閣下



〔参考〕如水会々報 第八〇号・第一―一〇頁昭和五年七月 故矢野二郎先生ノ事歴及記念銅像建設ノ趣意(DK440074k-0003)
第44巻 p.334-337 ページ画像

如水会々報 第八〇号・第一―一〇頁昭和五年七月
    故矢野二郎先生ノ事歴及記念銅像建設ノ趣意
 故矢野二郎先生ハ、我国ニ於ケル古参ノ洋学者ナリ。先生齢十六才(万延元年)ノ時長崎ヨリ特ニ幕府ニ聘セラレタル洋学ノ大家森山多吉郎氏ニ就テ英学ヲ学ビ、翌年選バレテ外国方訳官ト為ル。文久三年(十九才)幕府使節池田筑後守等ヲ締盟諸国ニ派遣スルニ際シ、先生等数名一行ノ訳官トシテ随行ヲ命ゼラレ、欧洲各国ヲ巡廻ス。明治五年(二十八才)予テ親交アル当時ノ外務大丞森有礼氏ノ慫慂ニ由リ、外務省ニ入リ二等書記官ニ任ゼラレ、米国公使館勤務ヲ命ゼラル。明治六年代理公使ヲ命ゼラレ、同年森有礼氏特命全権公使トシテ米国ニ来任スルニ及ビテ代理公使ノ任ヲ解カレ、森公使ノ左右ニ在テ其任務ヲ輔翼ス。爾来森氏ト先生トノ間交誼益々厚シ。森氏一日先生ニ語ツテ曰ク「商業教育ヲ開興シテ青年子弟ヲ養成シ、士民ノ実業的精神ヲ鼓舞スルハ本国ニ於ケル今日ノ急務ナリ。予今米国ニ来リテ商業ノ実際ヲ通観シテ其感特ニ深キヲ覚ユ。予ガ任満チテ国ニ帰ルノ日、進ンデ商業学校ノ設立ヲ計画セント欲ス。兄若シ予ト意ヲ同ウセバ幸ニ管
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理ノ任ニ当リ予ガ希望ノ達成ヲ助ケラレヨ」先生答ヘテ曰ク「貴諭高遠恰モ弟ノ意見ト一致ス、敢テ貴需ニ従ヒ微力ヲ致サンコトヲ期ス」ト。他年我国商業教育ノ創始ニ当リ此両氏ガ互ニ協力シテ其事ニ任ジタルモノ、蓋シ此黙契ニ基クモノナランカ。
 森公使帰朝スルヤ其持論ノ実行ヲ期シ、明治八年八月家塾商法講習所ヲ東京銀座ニ起シ、米国ノ教師ヲ聘シ専ラ米国式ノ課程ニ依リ、書生ヲ集メテ商人必須ノ目ヲ教授ス、実ニ我国ニ於ケル商業教育ノ濫觴ナリ。而シテ開校後僅ニ三月ニシテ講習所創立ノ事務未ダ完了セザルノ秋ニ当リ、森氏ハ再ビ命ヲ拝シテ北京駐箚ト為ル、恰モ矢野先生其九月ヲ以テ米国ヨリ帰朝シ翌十月官職ヲ辞ス。森氏乃チ講習所ノ処理ヲ挙ゲテ先生ニ嘱ス。是実ニ斯学恢弘ノ事業ノ為メニ先生ガ自己ノ半生ヲ提供スルニ至リタル端緒ナリ。
 初メ一私塾ニ起リ、尋デ東京会議所ノ管理ニ移リ、或ハ東京府ノ処轄ニ転ジ、或ハ農商務省ノ所管ニ属シ、終ニ文部省ノ所管ニ転ズルニ及ビデ、商業教育ノ基礎漸ク安定シテ、先生等宿昔ノ希望稍其半ヲ達スルコトヲ得タリ。後年高等商業学校ト改称シタルガ、先生ハ明治二十六年四月校長ノ職ヲ辞シ、同三十七年八月貴族院議員ニ勅選セラレ同三十九年六月病ヲ以テ逝カル。而シテ商科大学ニ昇格シタルハ大正九年四月ニシテ、先生辞任ノ後二十八年、永眠ノ後十五年ヲ経過シタル時ニ属ス。
 本校創立ノ当初ニ於テハ、世人斯学ノ必要ト洪利トヲ解セズ、啻ニ其発達ニ力ヲ添ヘザルノミナラズ、熱心ナル先覚者ノ努力ニ対シテ反ツテ冷酷ナル迫害ヲ加ヘ、一度起リタル斯学ハ将ニ倒レントシテ纔ニ回起シタルコト其幾回ナルヲ知ラズ。其所管ノ如キモ流浪転々、波瀾重畳、多大ノ艱難ニ遭遇シタルノ事歴ハ今玆ニ細説スルノ暇無シト雖モ、本校第一次ノ校長矢野二郎先生ガ、在職十八年ノ間幾多ノ悪戦苦闘ニ耐ヘ、剛健熱烈ノ精神ヲ以テ偏ニ斯学ノ発展擁護ニ尽サレ、其努力ニ依ツテ以テ今日ノ盛運ヲ迎フルニ至リタルノ事蹟ハ、吾人常ニ之ヲ回想シテ転タ感激ノ情ニ禁ヘズ。
 左ニ先生ノ心友島田三郎氏ガ著述シタル「矢野二郎伝」ノ一節ヲ抜萃シ、如水会員中先生ニ親炙セザル少壮諸君ノ為メニ、躍如タル先生ノ真面目ヲ提示セントス。
 (前略)材を負ふて功業を立てんとする者と、学を修めて盛名を博せんとする者とは、皆翕然政治の方面に走れり。此間挺身実業の新境を拓き、以て新社会の急要に応じ、以て永年帝国商業の基礎を合理的に立てんとする者甚稀なりき。況んや商業と絶縁せる教育を聯結し、世界に対する商戦を海外に開く可き商界の戦士を養成せんとする遠計を立つる者ある可けんや。明治五・六年間我実業界の形勢は実に此の如くなりき。
 この社会に出でて、国家的観念に駆られ、易きを避けて難きに就き官界栄達の好望を〓ち、富資蓄積の念慮を絶ち、意を決して商業教育に身を投じたる一巨漢あり、其一旦挂冠するや断然青雲の念を絶ち、如何の誘惑に遭ひ、如何の困難に会ふも、嘗て其志を回さず、千百年間絶縁し来りたる教育を商業に聯結し、世界の商戦に勝ゆる
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の好士官を養成し、内外の商業要地に人材を供給し、以て時代の欠陥を補ひ、以て国家の殷富を助け、子弟門生が其所を得るを以て自家の快楽と感じ、悠然自適其天性を遂げたる者あり。彼は確かに我国商業教育の定礎者なり、斯業の元勲なり。彼は社会の気運に先ちて新疆を此方面に開拓し、其遺響余韻を後代に伝へたり。彼を誰と為す、矢野二郎其人なり。嗚呼気運を追ふものは易く、而して之に先つ者は難し。孤梢一枝清香を霜雪の裏に吐き、人をして陽気先づ南窓に到るを感ぜしむ。盛春三・四月桜桃艶を争ひ、古李妍を競ひ爛漫人目を眩するも、誰か魁位を梅花と争ふを得んや。
 吾等如水会員ノ揺籃タル一橋ノ校舎ハ、我国国会開設ノ当初其建築費ノ支出ニツキ、帝国議会ノ協賛ヲ経タルモノニシテ、我国官立学校中其建築費予算ノ議会ノ協賛ヲ得タルモノハ、本校ヲ以テ嚆矢トス。此問題ニ関シ当時先生ト当局有司トノ間ニ多少ノ葛藤アリタルモノノ如クニシテ幸ニ先生ノ意ノ如ク解決シタリト伝フル一箇ノ記念物ナリ我等ハ一橋ノ学域ト其建造物トヲ見ルコト恰モ先生ノ遺跡ヲ見ルガ如ク、先生ノ記功章トシテ常ニ先生ヲ追憶スルノ資ニ供シタリ。而シテ其建築物ハ大震火災ノ為メニ既ニ潰滅シ、学堂ハ今秋ヲ期シテ全部東京ノ西郊国立ノ新境ニ移ラントス。嗚呼先生逝カレテ既ニ二十有五年世態ノ推移、人情ノ変遷、茫トシテ夢ノ如ク、先生勲功ノ歴史モ亦漸ク世ニ忘レラレントス、洵ニ慨歎ニ勝ヘザルナリ。
 如水会ハ此ニ母校ノ移転ヲ機トシ、本会主催ノ下ニ故矢野二郎先生ノ銅像ヲ国立ノ新学園ニ建設シ、以テ後日此ニ遊学スル者ト共ニ永遠ニ先生ノ偉績ヲ紀念セント欲ス。矢野先生知音ノ大方諸賢並ニ全如水会諸氏、幸ニ此挙ニ賛成シテ援助ヲ与ヘラレンコトヲ懇請ス。
  昭和五年六月
                   社団法人 如水会
    故矢野二郎先生記念計画
(一)帝国美術院審査員堀進二氏ニ依嘱シ、故先生ノ銅像(立像台座共高サ約二丈八尺ノ予定)ヲ製作シ、之ヲ近ク竣成スル東京西郊国立ノ東京商科大学構内ニ建立ス
      予算
一、金二万円 銅像及台座建設費
一、金五千円 地築、周柵、樹木及造庭費(敷地約百五十坪)
一、金一万円 永久保存及清掃費(信託預金)
一、金三千円 除幕式及祭典費
一、金二千円 寄附募集費、集金費、印刷通信費其他諸経費
 計金四万円
(二)醵金額ノ増加ニ従ヒ剰余金アル時ハ伝記編纂其他ノ記念事業費ニ充当ス
(三)右計画実行ニ要スル資金ハ、故先生ノ縁故者並ニ一般ノ篤志者及如水会員ノ醵金ニ依ル
一、申込 東京市神田区一橋通町一番地社団法人如水会宛ノコト
一、払込 昭和五年十一月末日迄ニ同会宛御送金ノコト、御便宜ノ為別紙振替貯金用紙ヲ同封ス(振替東京九三五〇番)
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一、計算 御送金ニ対スル領収証ハ一々之ヲ差出シ且如水会会報ニ掲載シ、決算ハ完了ノ上御報告致スベキコト
          故矢野二郎先生記念計画委員長藤村義苗
    委員○一四三名氏名略ス
    賛助員
一、本計画ノ賛助員タルコトヲ快諾セラレタル各位左ノ如シ
   ○栄一外四八名氏名略ス。
○下略
   ○矢野記念館ハ、矢野二郎記念事業第二次計画トシテ、昭和六年五月以来文部技師中根蕃外数人ノ設計監督ノ許ニ如水会館北側隣接地ニ建築、同七年一月十六日ヲトシテ開館式ヲ挙ゲタリ。(「如水会々報」第九九号ニヨル)