デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2021.9.1

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
1節 実業教育
11款 東京高等工業学校手島工業教育資金団
■綱文

第44巻 p.491-493(DK440108k) ページ画像

大正8年1月18日(1919年)

是ヨリ先、大正七年一月二十一日手島精一逝去ス。是日、手島工業教育資金団ノ主催ニ依リ、当校ニ於テ一周忌追悼会挙行セラル。栄一之ニ臨ミ、追悼ノ辞ヲ述ブ。


■資料

竜門雑誌 第三五七号・第八七頁大正七年二月 ○手島精一氏薨去(DK440108k-0001)
第44巻 p.491-492 ページ画像

竜門雑誌 第三五七号・第八七頁大正七年二月
○手島精一氏薨去 前東京高等工業学校長として多年我邦の工業教育に尽瘁せられたる、同校名誉教授従三位勲一等手島精一氏は旧臘下旬より宿痾静養の為め、房州に避寒せられたるが、其帰京後更に加答児性肺炎を併発せられ、一月廿一日夜終に溘焉として薨去せられたり、享年七十歳。
 右に就き同廿三日の報知新聞は、故人生前の功績を追憶せられたる青淵先生の談として、左の如く記載せり。曰く
 惜い人を失つたものである。手島君は真摯な意志の堅固な模範的の教育家であつた。さればこそ君の校長だつた高等工業の教育は常に時流に先んじ、実地工業の方が絶えず之に指導されて行くと云ふ有様であつた。又其渾然たる人格の光は学生達をして着実一点張と云ふ美しい傾向をも生ましめた。君と自分とが現代青年の気風益々軽佻ならんとするを慨して、修養団を組織した時、其団員の殆ど凡てが高等工業の生徒であつたと云ふに徴しても、君の徳風が如何によく学生達を導いたかと云ふ事が想像されやう。教育者は世の先覚者たらざる可からずと云ふ事は、君に依つて実際に証明されたのであつた。尚ほ君の意志が堅固であつたと云ふ証左としては次の様な挿話がある。先年自分が大橋新太郎君等と共力して今日の東京瓦斯株式会社を創立し、相当に事業の発展した際、この事業をして是以上更に発展させるには、是非共工業界の人即ち学者を加へる必要があると云ふので、大橋君と相談の上君に来て頂かうと懇々話したけれども、君は「自分は教育界で終始する決心で居るから、折角ながら御辞退する」と許りに断然断られたのである。即ち君は学問といふ一品の料理以外には何等の御馳走を求むる事なく、終始一貫、真面目に自家の道を固守して聊も顧みる所がなかつた。そして赤裸々の自己を発表して自分と云ふものを聊も売る事なく、又聊も広告する
 - 第44巻 p.492 -ページ画像 
と云ふ所がなかつた。之れ実に凡人の学ぶ能はざる所である云々。


渋沢栄一 日記 大正八年(DK440108k-0002)
第44巻 p.492 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
一月十八日 半晴 寒
○上略 二時工業学校ニ抵リ手島精一氏ノ追悼会ニ列シ、追悼ノ詞ヲ述フ
○下略


集会日時通知表 大正八年(DK440108k-0003)
第44巻 p.492 ページ画像

集会日時通知表 大正八年        (渋沢子爵家所蔵)
一月十八日 土 午後二時 手島工業教育資金団主催故手島氏追悼式
             (東京高等工業学校)
   ○右追悼ノ詞筆記ヲ欠ク。尚、同月二十一日修養団主催ノ一周忌追悼会ニ於ケル栄一ノ追悼ノ辞ヲ左ニ掲グ。



〔参考〕向上 第一三巻第二号・第二九―三一頁大正八年二月 故手島先生の一週忌を迎へて 顧問○修養団 男爵 渋沢栄一(DK440108k-0004)
第44巻 p.492-493 ページ画像

向上 第一三巻第二号・第二九―三一頁大正八年二月
    故手島先生の一週忌を迎へて
               顧問○修養団 男爵 渋沢栄一
      故先生と私
 私は個人としても、故先生の御生前に親い交はりを致しましたし、又修養団としては特に其の創立時代から、一方ならぬ御助力を受けまして今日に至りました。かれ此れを回想致しますと、洵に感慨無量でありますが、玆に一週忌の追悼会を催すに当つて、往時を追憶し一言を述べたいと存じます。
 私と故先生とは境遇が異つてゐましたので、従つて屡々往来して交はりを厚ふする事は出来ませんでした、乍併、我が帝国の事物の進歩即ち物質的文明を進まする上に、途こそ異れ、同じ理想の下に同じ努力を致したのであります。
 先生は其の始め学を終り、社会に起つや、帝国の進運を図らんと欲せば須く工業の進歩を図らざるべからず、而して科学教育の普及せざる現時に於ては、特に此の方面に努力すべしとなし、之に全力を捧げられたのであつた。先生が所謂、工業の学理的に進まず、之を慨嘆された頃ほひには、私も同様帝国の商業の学問の低い事を歎いたのであります。如斯、提携は致しませぬが、私は先生と同一軌の途を進んだといふ事は断言して憚らない所であります。
      主義一貫の人
 而して先生は主義一貫の人で、工業教育に総てを捧げられて、之を貫徹された事は深く感嘆する所であります。殊に私が先生に対して実に常人の及ばない所であると深く敬慕する一事があります。今日は御遺族其他諸氏の御列席の前で、此の事実を申上ると云ふのは満足の至りであります。
 今も現存している東京瓦斯会社は、其初め東京市で経営して居たのでありました。当時、市の発達を図るには先づ瓦斯電灯事業を拡張し之を普遍的に市民に供給せしめねばならぬと劃策致しまして、之を市営から、自由に事業の出来る会社経営に移すことに致しました。時は多分明治十七年で、之を遂行したのは私であります。
 - 第44巻 p.493 -ページ画像 
 軈て之を株式会社とした当時は種々の人々も入つて来て、多分明治三十年か、現に関係の大橋新太郎氏が専務取締役の位置を辞したいと申出をしたとき、私どもは其適当なる後任者を選定したのであります種々穿索致しましたが、それは手島先生より外差当つて人物がないといふので、私は先生に此の位置をお薦めして会社の為めに起つ事を懇望した時、先生が之を郤けた一言は、御人格を証明するに最も適当と思ふのであります。先生は特に王子の私の家に見えて其意を述べられた。曰く『予て交渉を受けたが、私を其職に堪え得る事と認めて呉れたのは実に渋沢で、そして有力の事業である上に渋沢・大橋氏等が関係されて居る。それ故資力の応援もあらうと存じます。誠に忝い次第で顧みて又自分に相応しからぬとは思はぬが、之に応ぜられない事は私の明治の工業界に貢献せんとしたのは学理的の方面で、実務の方面ではない。而して日本の現状は未だ工業教育が普及してゐるとは思はれない。尤も実務的方面の発達を企てる事も善いとは思ふが、私は学理の普及を図る為め之を断然断るより外はない。』そこで自分を薦めてくれた渋沢を知己とし、大橋さんを友人としたいと云はれました。
 私は先生の崇高なる決心牢乎として動かすべからざるを悟つて、最早や多言を要しないと感じ、且つ何といふ美事な覚悟かと思ひ、それに先生が全力を注がれる事を頗る善いと感じました。そこでお互に諒解して別れたのは既に十五・六年前の事であります。洵に先生は其後終始一途、工業教育の為め身心を捧げられたのであります。或意味から云へば其為めに斃れられたとも云へぬでもない。先生は私から見れば年輩も下で本来ならば私が黄泉の先途をすべきであつた所、――悼まれる老の身が反つて後に残り、之をお悼みするといふ事は痛恨に堪えぬ次第であります。
      故先生の偉業
 併乍、先生在つて此の工業教育が進歩したのであります。然らば帝国の工業界は先生あつて進歩したのである。今日は世界戦争も愈々終熄を告げて、所謂天定まつて人に勝つの時になりました。而して帝国の工業界は更に進歩をなす際である。此時に於て私どもは先生を偲ぶ事更に痛切なるものがあります。
 いまや高等工業学校は、先生の意を体して愈々繁盛の途にある。又先生の生前特に御助力下さつた所の修養団も、先生の御精神を継承して益々発展の途に在りて、国家社会に幾分の微力を致して居ることは全く先生の遺志の実現であつて地下の先生の大に意を安んずる所であらうと存じます。
 今日此の所に於て、先生の遺功を偲び、御霊前に於て御遺族、又生前の知己諸氏及び青年学生と共に斯くの如く追悼会を催し得た事は我等の本懐とする所であります。
 本篇は手島先生一週忌追悼会に於ける追悼の辞なり。