デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
1款 埼玉学友会
■綱文

第45巻 p.167-173(DK450053k) ページ画像

大正13年6月8日(1924年)

是日栄一、当会ノ例会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

集会日時通知表 大正一三年(DK450053k-0001)
第45巻 p.167 ページ画像

集会日時通知表  大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
六月八日 日 午後一時 埼玉学友会大会(埼玉学生誘掖会)


学友会報 埼玉学友会編 第三二号―第一―一一頁大正一四年六月 講演 訓辞 渋沢子爵(DK450053k-0002)
第45巻 p.167-173 ページ画像

学友会報 埼玉学友会編  第三二号―第一―一一頁大正一四年六月
  講演
    訓辞
                      渋沢子爵
 学友会の会を重ねますこと斯に三十六回になります。が、昔から知つてる人は私独りではありません。来客中には多く居る様に思はれます。併し皆様は最早老人の一人で、私が考へると、同じ人でも、時代の遭遇が左様にまで違はせ、八十の年輩をとつたわけではないから左様御承知下さい。
 学友会が三十六年の星霜を経て、同じそのものであること、而して斯に学友会ある為に理事会も成立し、学友会の素地が誘掖会を組織せしめる。これらは相俟ちたる有様であります。三十六年の年月、埼玉県の学事を栄える様にし、凡ての方面に発達をなしたと云ふことは、驚く次第であります。世の中の事物の進んでくることから云へば、喜ぶべきことであります。世界に対しても国際的関係を広くし、凡ての事も認められて、凡ての事物は喜びと悲しみ、又は憂とが互に錯綜して来たものであります。名誉と責任が相連れるが如くで凡てが経過して来たものではありません。悲しみは悲しみの儘、憂は憂のまゝで終るものではない。私が今日迄に経過した色々の事に就いて、喜怒哀楽は屡々ある。明治六年役人をやめて実業に入る時、結義として、喜怒哀楽を云ふことを錯綜《(マヽ)》した。凡そ人としても此の様であるが、国としても同様である。而して之を完全にするには如何。憂を如何にせば除かれるか。そこに向上発達と云ふことがある。明治六年のことがこれである。即ち幕府を倒し、政治を布き、廃藩置県を行ひ、階級を打破
 - 第45巻 p.168 -ページ画像 
したのである。吾人は独り富を作るばかりではなく、之に附きては人格の涵養をしなければならぬ。故に喜び来る時は憂の来らぬやうにせねばならぬ。
 今申した憂と喜びとの観念は、其の時代から深く根差して、今日も喜びの時期であるか、憂の時期であるか、今尚同じ感情を以て相対し痛感の心を生ぜざるを得ないのである。学友会の時に訓辞とは云ひながら、熟々世間を察すれば、如何に改良すべきかといふに、老人とは云へ、喜びと憂の有様を論ずるのであります。昨年の震災の時は東京だけは家屋が破壊したが凡て外国に於て左様に憂ふべきものではありません。政治には立派な立憲政治が――然し整然とはしないが――只暴政とは云はずして済むのであります。
 一体商業なり其他のものは如何と云ふに、皆兎に角に進んで居ります。例へば日支・日米関係等に就いて――憂ふべき点なきにしもあらざれ共――相当なる体裁進歩をなして居ります。併し根本に至つては憂を存せざるを得ないのであります。精神は如何かと云ふに、社会上には我が国の堅実がなくなり、質実剛健ならざるべからずと云ふのはおしなべて、若い諸君の中に於ては、巍然たる有様は少ない。固い心を以て、即ちその場合には決然たる心を以て、動かないと云ふ人は少ない。斯の如きは真に憂ふべきことである。但し良い見解を持ち、精神的に我が力、我が心を集中することを主義としたものでなければならぬ。然るに如斯人は甚だ稀れである、否殆どないのである。満場の諸君がさうでないと云はぬが、西洋もおしなべて斯の如きである。これは真に憂ふべきことである。これ程国家の憂でないことはない。どうも此の点に於ても余程覚悟しないと、種々なる方面からよからぬ事がおそうて来る。甚だしきは、自己国民が真似るのである。も少し真面目になつて、これから先は世をたてなほす積りでないと、方々から面倒が来る。三十六回の学友会に、も少し緊張せねばならない事は若い人達に申すのではありません。県下の人々に云ひ度いのである。斯の如く苦心するのは丁度、五十年前、官を辞す時に商人になつて、多少国を富したと云ふ事は、過言ではないと思ふ。虚栄に走り、質実に進むことは、少し今日は学者も来て色々話し居るが、質実剛健に就き強き気力をも持たねばならぬ。
 殊に学友会の青年に強い記憶を思はせる為に、五十年の昔の事を以て質実剛健を比較し、もう少し実質に進めさせる為に、斯に諸君に告げたのである。
 日米の関係に就いて、これは激昂的でなしに緊張しなければならぬやはり直ぐ怒らず、安々と軽んじてはならぬ。其成功を研究しなければならぬ。我々は比較的県人としては稍々日米関係をしつて居ると思ふ。但し排日案が上下両院を通したことを、順を追ふて叙述します。米国の国交がかゝる風になり、政治家間、学者間、宗教家間の意見はまちまちであらうが、要するに主旨は一つであらう。
 前も申す通り、日本が開国に及びしは維新後ではない。安政五年である。ペリーが来たのは外国が願ひを表したる初めであつた。渡辺華山等の話は歴史的講釈で、又日米関係に就いて話す必要はなく、嘉永
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六年の秋、丁度七十二年目になるが、その翌年安政元年に来て仮条約を約する様になつた。この頃国交を通ずる様になりしは、海外と交を通ぜねばならぬ、思案より出たのである。其の頃にどうしても、海外の事情に就いて、学者的見解を持ちし人があつたが、其の当時の幕府の人々は、左様な見解を持ちし人ではなかつた。自ら開くと云ふことが凡て、斯る風にしたのである。其の時分に来た米公使は頗る賞讚すべき人であります。それは安政五年かと思ふ。総領事が公使に進んでなつたのだが、タウンゼンド・ハリスと云ふ人で、下田より江戸に入り、麻布の善福寺に居た。此の人は日本人にとつては敬服すべき人である。
 私は明治四十二年に、渡米実業団を以て米国へ行きました。其の時墓参しやうとして墓守に寄つて調べると、相当な標があつて、而も紅葉がよく墓の後に紅葉して居た。此の時止つてゐたいといふ詩を作つて手向けたことがある。
 此の人の心は、大和魂乃ち武士道と云ひ度い様な人であつた。此の人は税に就いても公平な考へを持ち、日本人の知らぬことに対しても親切で、昔から外交の世話をして呉れた。斯様な人はあつたが、この様な人は少い。
 外国の関係を田辺大夫・松浦勇蔵等と云ふ人が調べて、税の定め方に就いて尽力した人である。著しく記す可きは暴徒が人り込んで、英人を負傷さした。多分安政六年頃、和蘭人のヒユースケンと云ふ人が赤羽橋で殺された事もあつた。そこで外人が憤り、先ず抗議を申し込み、公使館を引き上げて軍艦に引き上げた。ハリスの自分の通訳が殺された。新しい国に来て斯かる事は不得止ことではあるが、これは国家に対する侮辱と同じことであるから、事件が有つても関係せず、止まつて居たといふことである。此の頃の人々が賞讚して居た。私も賞讚する。
 併し爾来の米国との国交は他の欧洲諸国とのそれよりは厚い様に思つた。元来の貿易の有様は英国との関係深く、仏国との交も厚かつた国際上凡そ、この云向け方が一国の権を重んじ、礼を以てしました。米国とは多少国体も異つて居る。例へば第一に彼の国は国が大きい。又国柄が新しい。国体の相違もある。正義人道に就いては一致する。国交は須らく進んで行くことは重んじ見た所である。之は私のみの観察ではない。政治は良かつたが、貿易は思はしくなかつた。初めて欧洲から米は買つたが、それからは我が国より行つた。米国では我が日本から買つてくれるものは余りなかつた。併しその後綿は買ふ、鉄は買ふといふ時代になつたが、併し貿易の事も真に宜しい。其の他、殊に太平洋沿岸は耕作の土地が多いから、労働者を求めて居る。これで密着の度を加へた。殆ど明治四十年、西歴一九〇五・六年頃迄は欧米に比較すると、米国は皆好都合に進んだと云つて宜しい。明治三年に伊藤公の手で銀行制度を調べて来た。明治六年に私が銀行者になつた第一銀行と云ふものは、此の時代に出来た。蓋し其の後に明治十五年に米国の制度は統一的でなく分立して居た、日本のそれも分立してはいけないと云ふので、松方公が日本銀行、其の時は今の日本銀行では
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ないが、其の時中央銀行を建てることにした。分裂式米国制度を、統一的な英国制度にしたのは、今日の日本銀行であります。銀行の帳簿や経営の師になつたのは英国人で、之を聘して師としたが、銀行を建てゝ行つたのは米の援助である。故に日米の関係は此の後最も都合良く運んで行つた。向ふには排日論者は無かつたらしい。開国以来三百三・四十年間此の有様で経過した。太平洋岸の加州のロスアンゼルス等に排日の起つて来たのは、余の想像ではあるが、日露戦争が米国に悪感情を与へたのだらう。それは丁度一九〇六年の紳士条約の出来たのも明治四十年の頃である。蓋し人種風俗の異るのも、米国に嫌はるる一つである。殊に行く人の有様が真に移住する覚悟で行つた人はなく、出稼ぎの、一時的観念を持てる頼みなき人々だといふ感を有して居る。傭はれ人は一家をなすに従つて、自ら日本村と云ふ様になる。中には英語を用ふる人も有るが中には俺は俺と云ふ人が有り、困つたものだと云ふ様になる。米国から反対にローズベルトが日露媾和は不利益で、日本人はこれに対し、政治界・経済界に横暴を示す様な態度を示し、日本は我儘な国だと云ふ感情を持つて居る。初めは大人と子供との争と思つて居たのに、思ひの外、日本が勝つて威張るといふことが加州太平洋沿岸に日本に対して悪感を起させた。外務卿小村寿太郎君が、国民の心理に合ふ条約を示さんとして、私に頼む様な態度を示して、米国国家は国民外交に非でなく、又太平洋沿岸は面目《(白カ)》くない国交破綻にもなればいけないと、是非とも如何かしてもらい度いと相談があつた。
 こゝに丁度、向ふの国民的代表にでも立つべき、諸君と話合ひをつける者を日本に聘する相談が出来、引続いて翌年明治四十二年、日本から団体旅行を希望し、実業界の主なる人、其の他打ち揃つて米国へ行きました。之は国民外交を事実上に示さんが為でありました。それも一種の形式で、五十三箇所の都市を巡回し、演説や何やかや情意を通じたから、まんざら無効でなかつたらう。
 殊に加州方面には、特に排日のものがある。今日では少なくなつて以前と同一に論じられぬが、稼労働者が出稼に行つた。外人労働者は日本労働者の敵となる様になる。それは人に対する一種の競争である或る投票事が有るとその人の立功政策に使はうとする。日本人排斥がいゝ材料になり、日本人がいい迷惑になることは屡々ある。先立つての会に、政府の方の人々は、始終、日本に対する排斥の運動をやつてゐる。日本を弁護した人も両派に立別れて、上下両院の諮問に応じて働き、各方面に分れて務めてる様である。
 今の様な理窟は、何か生ずると排日が起る。大正二年に土地法案が制定され、議会に於て移民に対する制度を設けた。併し其の時も、米国に生れた邦人には許された。米国は戸籍法が二重になつてゐる。我が国のは一重になつてゐる。二重国籍とは、日本人が生んだものでも土地の関係から云へば米国人である。それが移民に対して議論となるのである。殊に兵隊に関しては然りであります。兵隊を彼の地に送ることになる。之を大いに嫌ふのである。此の事が排日に大いに関係するのであります。
 - 第45巻 p.171 -ページ画像 
 此の様な理由で、米国に来る人々は真の米人に非ずとして之を排斥した。真に米人たらしむるには、落ち付いたもので成るたけ優良なる種類のものをとるのが良い。同化性質の無いものを入れるのは不本意である。或る点からはそう云はれないと云ふことは無いでもない。日本関係に就いてこう云ふ説もあるとか云ふことであるが、之はお互ひに知り合ふことが必要である。米国の宗教家・実業家等の有力なる人と交ることが肝要であります。
 教育が米国で英語で通じて行くは、日本には困る。二重教育を嫌ふと共に攻撃する。今の二重国籍、若しくは二重教育は主なる理由になる。その主旨を最も主張せるは、反対の有力なる人のサクラメントビジツトを出して居るマクラヒツトと云ふ人が主張して居るが、マクラヒツトのみならず、サンフランシスコに居るシヤレンベルグもである学問があり、又人格もある人である。が此の人は日本人に対し、同化性無き人間だと云ふ。米人に就いての説を云はすれば、元来理窟無きに非ず。元来米国は自国の国民でない。外人の集りが年々百万百万と殖へて来るのである。
 次いで十年にワシントン会議が成立しました。軍備、太平洋、支那関係即ち山東問題が提案されることであつた故、余等は加州問題を解決する為、原内閣に談じた。其の道あれかしと。遂にワシントン会議の様子を知る為、私もこれを何とかしやうと思つて、悪く云へば弥次馬に行つたのが、運良く太平洋・山東は良く行つたのでありました。山東会議は、日支会議にうつすが、大体其の下相談はした。アレキサンダーに行き、高等委員を組織し、五名或は六名の委員を作り、種々なる事柄を評議し、各々斯くしたらよからうと、或る紳士協約にと云ふ様に協議を致しました。
 斯くして、一昨年の正月、私も帰りました。米国規則は米人の為のみであつて余等は日本政府に頼むのであつた。これが成立せば、加州問題が実際に治まる様にしたいと云ふのが考へであつた。併し、只其の来た人に対して、意を交換するのみにては足らず、一つの団体を作り、団体の儘にて交際したいと、大正四年、サンフランシスコに博覧会が開かれた。そこに在る商業会議所に居る人が、斯ふゆふ風に仲を悪くしてゐると段々仲が悪くなると云つた。色々の説が有つたから、サンフランシスコのアレキサンダー等の同志の人々が五・六人力を合せて、日米関係委員会を作らうと、向ふも計画し、此方らも計画して居た。お互ひに団体が出来て、団体で意を通ずる様になりました。大正九年に加州に国民投票があつて、これも日本を排斥し、急激にして冷酷なる制度を布かうと云ふのでありました。此の投票の議決を無効にせんとしたが、これも遂に充分に成功しなかつた。八十万の投票に二十万しか力はなかつた。続いて十年にワシントン会議が成立しました。軍備縮少、太平洋問題、支那の関係即ち山東問題が非難される時であつたから、私共は加州問題を解決しやうとしたが、個人としては我等は行かないのが仕合せでした。大きい会で話をするよりは相対話が良くはないか。其の時の外務大臣はいざ知らんが行くならば、渋沢が良からうと云ふのでした。其の時の新聞が此方では出ないが、サン
 - 第45巻 p.172 -ページ画像 
フランシスコではそうゆう新聞が出ました。内地からの電報に金子か渋沢が来るといふことがある。来ると、時局が面倒になるから、止めることを埴原大使より云つて来た。併し四月十日であつたが、通知して来たと同じく、議会は七十二対三百で通過し、移民案は無事に通過したのであつた。上院は急げきに殊に多数になつたのでありました。私は其の時、□然たらざるを得ませんでした。私共が日本に帰つたのは十一年の一月卅日であつた。今述べた始末を日米関係者に告げた。高等委員組織と云ふものが出来、私達は度々論じました。続いて其の事は米国へ云つてやり、米国でも運動を起し、それも成功せずに二年許り経過しました。土地に就いて加州に居る日本人から訴訟を起したそれは帰化権の無き日本人であるとて不利益なる判決を出た。一方憲法を改正し、米国に生れたものに直ぐ権利を与へない。欧洲人には与へるが日本人には与へないと云ふ二つは、必ずそうなるだらうと私達は想像した。是非此の場合に如何かしなければならないと、米国へ行つてもらう様に金子氏に度々話をした。あの通りに決定するならば、行かない方が良かつたが、個人としては利益が有つた。
 初めは此の事に就いて関係したのは五人許りの大使でした。モリスは大正九年に失敗して、先づ我れに対して同情した。吾等と一致した日本人で云ふと、十三年の秋にきまるから、其の後にしてくれと云つた。其の前に移民法が決しました。それは残念である。一般の世論は兎に角、そうでないだらうから辛抱して待つてくれと云ふことであつた。私達はウッヅがそう云ふばかりでなく、議会の人々の間は氷炭相容れずと云ふ状態であつた。表面の有様は、国会が日本に侮辱を与へた事実だから、充分用心せねばならぬ。
 それで私共は茫然たらざるを得なかつた。もう少し如何かしたら良いではないと思ふ必要なきに至りました。
 此処に於て移民法は、日本の名誉を極めて損する様になつた。米国の措置に非ず。米国の出来そこなつた措置であらうと思ふ。其の措置が甚だ良くない。或ひは軽く見過ぎたのか。或ひは措置が悪かつたのか。殊に実業界ではサンフランシスコに現に居る人々が色々云つてるが、私共は世論はあれ程ではないと思ふ。我れに接触せるものは少し許りのもので、その人達の云ふ所は先き走りである。先づ畢竟、あゝ云ふ議決に至つたのは今述べた様である。
 御話はもとにもどし、学友会の若い者には、日米の関係を話すと同時に、其の事を希望するのであります。但し表面の有様は、例の国会が、日本に対して侮辱を与へたと云ふ事は、軽んずべきことに非ず、軽々しく居られるものではない。私共は職務は無いとは云へ、ぶらぶらしてゐるのは申し訳がない。この上挽回するには、彼等の感を和解するより他に途が無いかもしれません。日本は力の強い、品柄の高いといふことが他の国に知られる様になつた。私は今日の急をして、所謂質朴剛健の気風が完全になれば憂ふるに及ばぬ故に、此の場合には我が国民としては静かにして、質朴剛健であり得る様にする。質朴剛健である為には今の様ではいかぬ。我々は諸君が今よりより一層質朴剛健である様に希望する。(完)
 - 第45巻 p.173 -ページ画像 
                      (責任筆記者にあり)
  ○右栄一講演筆記ハ誤植少ナカラズ、文意明確ヲ欠ク個所アルモ訂正ヲ加エズ。