デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

5章 教育
3節 其他ノ教育関係
11款 慶応義塾
■綱文

第45巻 p.424-426(DK450165k) ページ画像

大正5年8月4日(1916年)

是ヨリ先、当塾ハ医学科・同付属病院及ビ化学科新設ヲ計画シ、七月六日設立趣意書ヲ発表、是日交詢社ニ第二回設立委員会ヲ開ク。栄一出席シテ
 - 第45巻 p.425 -ページ画像 
賛意ヲ表ス。


■資料

竜門雑誌 第三三九号・第一一六頁大正五年八月 慶応義塾の新計画に就て(DK450165k-0001)
第45巻 p.425 ページ画像

竜門雑誌 第三三九号・第一一六頁大正五年八月
○慶応義塾の新計画に就て 慶応義塾に於ける医学科・同附属病院及化学科新設計画は其後具体的に進捗し、青淵先生には同義塾に何等直接の関係なきも大いに其計画を賛成せられ、八月四日午後交詢社に於ける第二回設立委員会に出席せられて「元来学府と政権とは全然分離すべきもの、民間に立派なる私立大学なきは真に国民の恥辱なり、日本に於ける私立学校の数は近年益増加し来れるも、今日真に官立と対抗して信用あり資産あり、且つ歴史ある学校は五指を屈するに足らず義塾の如きは私立の重鎮といふべく、今回の挙は偶予の持論たる年限短縮の理想をも実現するに至るべし」云々と述べ、自ら応分の出資を為すと同時に、資金募集にも尽力せらるべしといふ。
   ○「慶応義塾誌」第二六六頁(第二、慶応義塾の起原及沿革ノ中「医学科並に化学科設立の発表」)ニ右ト同趣ノ記事ヲ掲グ。但、寄付ニ就キテハ記載ナシ。


慶応義塾誌 同誌編纂部編 第二八六―二八七頁大正一一年九月刊(DK450165k-0002)
第45巻 p.425-426 ページ画像

慶応義塾誌 同誌編纂部編 第二八六―二八七頁大正一一年九月刊
 ○第二 慶応義塾の起源及沿革
    □医学部設立紀要
 慶応義塾は嘗て明治六年に医学所を創立し、故松山棟庵氏を所長として医学教育に着手せしが、明治十三年都合上廃校せり。明治二十三年大学部を設立し理財・法律・文学の各科を置き、明治三十年政治科を加設せし以来、更に医科・理工科等を併置し、完全なる綜合大学たらしめんことの希望にて種々調査計画する所ありしも、其の設立には巨額の資金と適当なる人材とを要するを以て、暫く機会の到るを待ちしが、時運の進歩は其の発展を促すと共に、故福沢先生と因縁深き北里柴三郎博士の進んで設立の衝に当らんことを諾するに及んで機運竟に熟し、愈々医学科及化学科を設置するの議決し、大正五年七月六日左の設立趣意書を発表し、資金募集に着手せり。
   ○設立趣意書略ス。
 右の趣意書を発表すると同時に着手されたる資金募集の成績は極めて良好にして、同十月下旬既に予定額の百万円以上に達せしを以て、十二月二十七日医学科設立認可を得、大正六年三月予科一年生を募集し、同年四月十六日開校するに至れり。是れより先義塾大学部に医学科増設の儀天聴に達し、同六年一月十日福沢先生生誕記念日に於て福沢社頭を召され、左の御沙汰書を賜はりたり。
                      慶応義塾
  今般事業拡張ノ計画有之趣被聞食、以思召御補助トシテ金参万円下賜候事
                    宮内省
 医学部建設に要する資金募集の成績は上述の如く、夙に予定額に達せしも、時恰も財界の変動に因る物価騰貴の影響を受けて最初の予算を以て充分なる能はず、勢ひ募集金額の増額を必要とせしが、大方諸賢の同情を以て是れ亦無事目的を達して寄附金累計参百七万円に上り
 - 第45巻 p.426 -ページ画像 
遂に医学部の完成を見、大正九年十一月六日を以て、校舎落成及附属病院開院の式を挙ぐるに至れり。
○下略



〔参考〕集会日時通知表 大正九年(DK450165k-0003)
第45巻 p.426 ページ画像

集会日時通知表 大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
十一月六日 土 午后二時 慶応義塾医科大学校落成式
○御引籠り