公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第45巻 p.496-499(DK450181k) ページ画像
昭和4年10月12日(1929年)
是月一日、東京帝国大学文学部内ニ、新聞研究室開設セラル。是日、学士会館ニ於テ右開設記念披露会開催セラレ、栄一出席シテ挨拶ヲ述ブ。
新聞学講座設置ノ件書類(DK450181k-0001)
第45巻 p.496 ページ画像
新聞学講座設置ノ件書類 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓益御清祥奉賀候、予て有志家諸氏の御賛助により、東京帝国大学に寄附致候新聞研究基金にて設置せられたる新聞研究室は、御承知の如く本月一日より開始せられ候、就ては我邦最初の永久施設たる新聞研究室の将来を祝福し、併せて経過の概要をも御報告申上度、来十二日午後十二時半神田区錦町学士会館に於て粗餐呈上致度候につき、御多用中と存候へ共御繰合せ御来会被下度、右御案内申上候 敬具
尚当日は右研究室の開始を祝せんが為め独逸より来朝せられたる、ミユンヘン大学新聞研究所長新聞学講座担当教授デスター博士も御出席の筈に有之候
昭和四年十月三日
東京帝国大学新聞研究基金寄附
発起人総代
子爵 渋沢栄一
男爵 阪谷芳郎
発起人
伊藤正徳
徳富猪一郎
岡田良平
太田正孝
上田万年
簗田𨥆次郎
三土忠造
三上参次
本山彦一
杉村広太郎
(いろは順)
追而御来会の有無別紙郵便葉書にて折返し御返事被下度候
中外商業新報 第一五六八〇号昭和四年一〇月一三日 東大新聞研究室開設記念披露会 寄附者始め七十余名出席 きのふ学士会館で(DK450181k-0002)
第45巻 p.496-498 ページ画像
中外商業新報 第一五六八〇号昭和四年一〇月一三日
東大新聞研究室
開設記念披露会
寄附者始め七十余名出席
きのふ学士会館で
政界・実業界・言論界諸名士の発起による寄付にて、東京帝国大学文
- 第45巻 p.497 -ページ画像
学部内に設置された新聞研究室開設の記念披露会は、十二日午後零時半から神田一ツ橋学士会館に催された、この日
潮内務・関屋宮内・吉田外務・阿部陸軍・山梨海軍・中川文部の各次官以下関係部局長(以上政府側)小野塚総長・滝文学部長・矢作経済学部長・渋沢工学部長の諸氏(以上大学側)団男爵・木村久寿弥太・牧野元次郎・有賀長文・森広蔵・末延道成・岩原謙三・服部金太郎諸氏等(以上実業家側)渋沢子爵・阪谷男爵・三上博士・上田博士・簗田本社々長・杉村広太郎(以上発起人側)
それに目下来朝中のドイツミユンヘン大学教授デスター氏も
列席 して同零時四十分宴を開き、約七十名の来会者が談笑の内にデザート・コースに入るや、先づ司会者として阪谷男のあいさつあり特に
この新聞研究室の開設にあたつて、この計画のそもそもの提議が新聞界側から出たといふことは、最も記憶すべきことである
との意味をのべて、簗田本社々長の経過報告にうつり
本研究室設置の計画が、まづ大正十五年に端を発して以来、去る七月、とりあへず第一回の基金として十二万円の寄付をなすに至つたまでの詳細なる経過
を述べた、次いで発起人総代渋沢子が立ち、老子爵が六十二年前に外遊中、フランスにおいて新聞紙の使命の重大なることを痛感せられたことから、爾来今日まで絶えず新聞事業に留意せられた思ひ出を、あいさつ代りとして語られたのち、この研究室の開設を祝ふ意味を以て一同シャンペンの杯を上げたが、それより、小野塚総長・滝文学部長両氏のあいさつ並に
報告 があつて、別項の如く内務大臣・文部大臣の祝辞があり、最後に遠来の賓客デスター教授が起立、小野研究室嘱託の通訳によつて
新聞の道徳的問題についてある哲学者がいつたことがある、現在の女王は自動車の運転手と新聞である、一方煽動的な悪い点もあるが好い意味の指導者たらしめることも出来る、社会はこの二つによつて引きずりまはされてゐるのである云々
と諧謔味に富んだあいさつを述べられ、主客歓談の内に同二時五十分その記念すべき盛宴を閉ぢた
安達内相祝辞
新聞紙が今日社会に於ける必要不可分機関であることは申すまでもありませぬ、即ち今日の新聞紙の社会における勢力が、昔日の新聞紙の夫れに比較し如何に偉大なものであるかは、新聞紙に就ては全くの素人である私にでも明かに看取することが出来るのでありますかくの如き次第でありますから、その勢力の運用如何によつては、その社会に及ぼす影響もまたまことに恐るべきものがあります、そこで新聞紙の経営及び編輯に関する学問的研究、及び新聞紙の実体に関する学問的研究が、是非必要となつて来ると考へるのでありますが、今回賢明なる諸名士の貴き寄附行為が奇縁となつて、こゝに我国の最高学府たる東京帝国大学に、これ等の事項を研究する為め研究室が新設せらるるに至りましたことは、国家の為め誠に慶賀に
- 第45巻 p.498 -ページ画像
堪へないのであります(略)
小橋文相祝辞
我国における新聞事業は近来頓に発達し、新聞紙が我国文化の進歩発達に対して負ふ所の責任もまた重大なるものであります、殊に近来思想の動揺、綱紀の弛緩は国民の精神生活に好ましからざる影響を与へ、遂に今回の教化総動員等の運動を必要とするが如き状況となつたのであります、かゝる時代において重大なる使命を有する新聞紙が、未研究のまゝに放置さるる事は極めて遺憾としなければなりません、今回渋沢子爵・阪谷男爵その他政界・学界・新聞界等の名士がこの点に着眼せらるゝ所あつて、自ら発起者となり、巨額の基金を募つてこれを東京帝国大学に寄附し、新聞紙研究・調査の事を提議せられたのは最も時宜に適したる御考案であります、欧米の諸国においては夙にこの種の機関を設けて研究及指導に従ふものも尠くないとの事であります、我国に於ても大学当局が今後鋭意この研究を進められ、学生は申す迄もなく、一般社会をして新聞紙の本質とその重大なる使命とを理解せしめ、延てはこれによつて益々新聞紙の機能を発揮せしめて、大いに我国の文化の健全なる発達に貢献する所あらんことを希望して已まない次第であります(略)
東京朝日新聞 第一五六〇三号 昭和四年一〇月一三日 新聞研究室披露 学士会館で(DK450181k-0003)
第45巻 p.498 ページ画像
東京朝日新聞 第一五六〇三号 昭和四年一〇月一三日
新聞研究室披露
学士会館で
渋沢子・阪谷男を総代とする有志は、時勢の要求に鑑みて東京帝大に新聞研究室を設置すべく、予て有力者の寄付を募りつゝあつたが、本年一月その基金の半額に達したので、まづその全部を当局に寄付してその設置をうながし、いよいよ十月一日より東大文学部の一室に開始する運びとなつた、その将来を祝福し、経過の概要を報告するため、十二日午後零時半、神田の学士会館に朝野の名士約百名を招いて披露した
渋沢子の感想、小野塚東大総長のあいさつ、滝文学部長の報告、内務・文部両大臣の祝辞代読等があり
最後に目下来朝中のミユンヘン大学新聞研究所長デスター博士も出席して、一場の祝辞をのべた
新聞学講座設置ノ件書類(DK450181k-0004)
第45巻 p.498-499 ページ画像
新聞学講座設置ノ件書類 (渋沢子爵家所蔵)
新聞講座ニ関スル招待会出席者 六十八名
(昭和四年十月十二日午後零時半於学士会館)
一、当局
専門学務局長 赤間信義 内務次官 潮恵之輔
警保局長 大塚惟精 図書課長 白松喜久代
警務課長 土屋正三 宮内次官 関屋貞三郎
外務次官 吉田茂 情報部長 斎藤博
陸軍次官 阿部信行 文部次官 中川健蔵
二、大学関係
- 第45巻 p.499 -ページ画像
総長 小野塚喜平治 文学部長 滝精一
経済学部長 矢作栄蔵 南原繁
文学部新聞研究室指導 戸田貞三 河合栄治郎
文学部新聞研究室 小野秀雄 農学部 岩住良治
文学部 藤岡勝二 法学部 加藤正治
工学部長 渋沢元治 文学部 吉田熊次
文学部 春山作樹 〃 青木昌吉
〃 桑田芳蔵 〃 常盤大定
三、新聞社幹部
大阪毎日新聞社 本山彦一 代 中西仙司 報知新聞社 侯 大隈信常 代 中村唯一
国民新聞社 山根真治郎 代 長谷耕作 中外商業新報社 佐藤三郎
万朝報社 長谷川善治 中央新聞社 山口恒太郎 代 岡村良爾
日本新聞社 藤森勇 代 三武錠
四、新聞関係
東京朝日新聞社 緒方竹虎 代 仲田勝之助 国民新聞社 細野繁勝 代 山本保
都新聞社 山本信博 日本電報通信社 上田碩三
ジャパンアドヴァタイザー社 モリス 代 上野田節男 帝大新聞社[帝国大学新聞社] 末松満
春秋会幹事 中屋竜夫 地方新聞支局会理事 山田豊
五、寄附者
男爵 団琢磨 有賀長文
牧野元次郎 森広蔵
末延道成 岩原謙三
六、主ナル実業家
服部金太郎 藤原銀次郎 代 渡辺道太郎
七、特別関係
子爵 渋沢栄一 男爵 阪谷芳郎
渡辺得男 白石喜太郎
井田善之助(但受付) 岡田純夫
佐治祐吉(但受付)
八、発起人
上田万年 三上参次
簗田𨥆次郎 杉村広太郎
伊藤正徳 代 小川節
九、特別臨席者
デスター
十、他に当日臨時に加はりたるもの
新聞之新聞 高橋鷹美 新聞之日本 寺南清一
中央商業新報社より参加 四名
合計六十八名(但内二名会食に加らず)