デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
1節 学術
6款 社団法人温故学会
■綱文

第46巻 p.368-375(DK460108k) ページ画像

大正10年6月12日(1921年)

是年、塙保己一歿後百年ニ相当ス。栄一、塙忠雄・井上通泰・芳賀矢一等ト謀リテ、ソノ百年祭ヲ四谷愛染院ニ於テ挙行ス。栄一参列シテ演説ヲナス。


■資料

竜門雑誌 第三九八号・第六四頁大正一〇年七月 塙検校百年祭(DK460108k-0001)
第46巻 p.368-369 ページ画像

竜門雑誌 第三九八号・第六四頁大正一〇年七月
    ○塙検校百年祭
群書類従の著者として有名なる盲学者塙保己一翁逝いて本年恰も百回忌に相当するより、六月十二日午前八時、四谷愛染院なる同翁の墳墓に於て神式を以て、百年祭を執行し、祭主として塙五郎・温故学会々長塙忠雄両氏祭儀を司る所あり、尚ほ午前十時同寺に於て、仏式を以
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て同寺住職の読経あり、参会者大八州会員百余名、午後二時より更に本堂に於て青淵先生・井上通泰・芳賀矢一三氏以下温故学会々員百余名参会し、古式の奏楽裡に極めて壮厳なる法義を営む所ありたる由。


大八洲 第一―一九頁大正一〇年八月 塙保己一先生百年祭(DK460108k-0002)
第46巻 p.369-375 ページ画像

大八洲 第一―一九頁大正一〇年八月
    ○塙保己一先生百年祭
一世の碩学として、絶代の編著を開板し、長く後生をして、其賜を享けしめし所の、贈正四位塙保己一先生の、物故せられてより、烏兎匆匆、既くも今歳は其百年忌に際会するに至れり、蓋し其学の徳の人を作興して大なる、誰か景慕の情なかるべき、因て子爵渋沢栄一・医学博士井上通泰・文学博士芳賀矢一の三氏は、発起者となり、先生の曾孫塙忠雄君を援助して、正に百年祭を執行すべきに決せり、但し先生の祥月は九月なるも、九月は折からの暑中と云ひ、且つ先生の出生地たる埼玉県下の保木野に於ても、公衆相会して、同日祭式あり、忠雄君も臨席を要すべきよし旁に付、之を繰上げて、当に暑中に先だち、此の六月十二日を以て、祭儀を執行し、追遠の誠を致すべきことゝなり、爰に右三氏及び塙主幹より書を裁して、本会に関係ある朝野の紳士淑女に、賛成を乞ふ
 拝啓
 贈正四位塙検校の遺業復興を主旨とする温故学会は、明治四十二年末創立以来今日に至る十有余年間に於て、木版刷群書類従は百二十六部を刷立、図書館は開設致候等、相当の成績を挙け得たることは直接間接に各位の御援護による所にして、監督者たる自分等に於ても感謝の次第に有之候、就ては本年は検校歿後百年に相当致候に付臨時会員組織にて有意義なる百年祭を執行し、地下の霊を慰め申度自分等発起人として設計致候間、別紙塙主幹の説明及ひ執行手続御熟覧の上、奮て御賛成あらんことを懇請致候 拝具
                 子爵   渋沢栄一
                 医学博士 井上通泰
                 文学博士 芳賀矢一
        ――――――――――
      説明
家祖塙検校保己一の遺業復興を主旨とするところの温故学会は、渋沢子爵・木村(正辞)博士・井上(頼国)博士・井上(通泰)博士・芳賀(矢一)博士の五先生を賛助会員として監督の位置に仰き、明治四十二年末に組織したるものにして、同四十四年贈位の恩典稟告をかね九十年祭を執行し、爾来木村(正辞)博士・井上(頼国)博士の逝去後もひきつゝき一子・二博士の監督のもとに今日に至れる十余年間の成績は実に左の如し
    ○群書類従木版刷立
明治四十四年以来前後三回にわたり百廿六名の賛同者を得て、これが刷立に従事し、すでに七十四部は完了し、最後の五十二部は現に刷立中なるも、これ亦四・五ケ月内には完了の予定なり、右百廿六部の内には
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東宮職の御用命をも辱うしたるによりその後の分は光栄記念の名を冠したり
前記百廿六部刷立完成の上は、更に長期刷立(十一年余の日子を要する)の便法により、広く図書館・学校等に普及のため監督者の決議を経て長期刷立設計書を作成せり
    ○図書館開設
不完全ながら温故学会内の一部を縦覧室に充てゝ大正八年四月以来開設したり
    ○群書類従木版
木版一万八千枚余は温故学会構内に倉庫を建設し、検校の墓畔に保管せり
以上は創立以来十余年間に於ける成績なり、忠雄は主幹としてこれに従事し、特に群書類従刷立につきては百年祭までに百部以上を、との祈願も成就したり
これ全く一子・二博士の監督と各位の直接間接の御援護によるところの結果なり
こゝに本年は検校歿後百年相当につき百年祭を執行し、同志各位の参集を請ひ、霊に対し各位に対し成績稟告と援護感謝との意を表せんため、本会監督者たる一子・二博士発起人としてこれか執行手続の発表を辱うするに至りたり
乞ふ大方の諸君、温故学会十余年間の成績を認められ忠雄の微衷を諒せられ、別記手続の臨時会員たることを快諾せられて、検校百年祭をして後来に記念すべく盛大にして且つ意義ある集会たらしめたまはんことを切に懇願す
               温故学会主幹 塙忠雄
        ――――――――――
    塙検校百年祭執行手続
一 塙検校百年祭は賛成の各位を臨時会員として会員組織にて執行す
一 大正十年六月十二日午後一時(日曜)東京市四谷区寺町廿二温故学会に於て執行
  ――温故学会の所在地は検校埋骨地たる愛染院境内――
一 記念出版として検校編集の
  椒庭譜略 原本七冊 皇親譜略 原本八冊 {二種とも写本にて世に伝はれるもの
  を美濃版大 丹表紙の純和装に調製して会員数を限り刊行してこれを頒つ
一 塙家に蔵するところの検校に関する書類・手紙等を分類陳列し、また群書類従木版保管の温故会々庫を開放し、共に一覧に供す
  ――右書類のうち二・三を写真石版に印刷して会員に頒つ――
一 管絃・琴曲の演奏
一 木版手刷、和綴製本の順序実演
        ――――――――――
一 会費金拾円
                      温故学会
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  以上
    追加
 ○会員にして当日参集御差支の方にも記念出版物等はすべて御頒ち可申事
        ――――――――――
期日に先だちて早くも二百余名の協賛を得たることは、先生の遺徳の高きが致す所と謂ふと雖ども、亦紳士淑女が、追懐の誠を以て、進んで此の協賛を辱うせしことゝ、本会の深く感謝する所なり
斯て前日より先生の墓所たる四谷寺町愛染院の後山、英霊長へに鎮まる所の疆域をば灑掃し、碑前の地、数坪の上には天幕を張りて、拝跪に便すべくし、猶ほ墓道の左右は、普く幕を繞らして、儀装を清粛にし、準備全く成りしが、当日は、午前九時より祭場を開らき、先生、平常に信向措かざりし所の平河神社の社掌柴田実穎氏、斎主の職を奉じ、祭官両名を率ゐて式を挙ることゝなれり、而して遺族氏一同、忠雄及門の士女某々等参列、修祓献供、式の如くにて、斎主進んで左の諄辞あり
      諄辞
 贈正四位塙保己一大人乃霊前仁温故学会乃人々仁代里天平河神社々掌柴田実穎斎主奉仕里天恐美敬比母白佐久
 大人波毛小野朝臣篁卿乃後裔斗座坐須母灼久天性仁学乎好美文乎嗜美給比多礼婆夙久盲者登成座世留毛群肝乃心乃眼高久賢久直久潔介久千早振留神代乃古事波言巻毛更奈利安見知之我 天皇乃世継乃史伝及代々乃故実乎始米天敷島乃和歌文囀留也漢詩文、左手波物語日記軍記消息随筆等仁至留万伝広久遠久深久厚久見之明良米見之徹志給比介里一年和学講談所乎開設武斗其敷地乎公儀仁請願波礼津留爾即玆仁六番町仁三百坪乃地乎給比支故其地爾和学講談所乎営作里天専一斗史書律令乎講習世良礼志加婆言続加此聞加比底天下乃学者皆悉仁其門下仁集里来礼留故爾諸書乎訂正志諸誤乎校定留仁毛万便宜之加里之仁也古今爾類例無支功績乎奈母為志給比立天給比爾介留今慈玆仁其功績乃二三乎称閉奉礼婆史料四百五十巻波宇多天皇与里後一条天皇仁至留実録仁志天六国史仁続久者奈利介利又群書類従六百六十五巻波古来乃諸書乃中爾三巻以下乃写本等乎藻塩草書輯米天桜木仁上世天世仁広久薫里満志米給此奴留我故仁此書乎見都々大人賀功績乎偲夫輩真幸乃葛絶由留事無久浜乃真砂子乃限里無支乎思布仁附介天毛己等其学統乎受介其流乎汲武者豈加手乎結備口乎閉知徒爾為須事無久天在経弁支斗去明治乃四十二年此温故学会乎創立之其書乃木版保存乃方法乎図里且波其摺巻乎行比一方仁波文庫乎設介天公開乃方針乎立天等之天年月乎送里迎布留程仁花紅葉咲散留事十余年爾及比天大人乃百年乃追遠弁支年数斗古曾成爾多礼婆学会乃人々仁事議里定米天今日乃生日乃足日仁御祭奉仕里学会乃経過乎母奉告里奉聞里天御慮乎慰米御思乎晴介奉良久止御酒御饌乎始米海山河野乃種種乃美味乎机代爾置足波志充並弁天奉斎里奉拝良久乎平介久安介久慈之愛之斗所聞食受介賜比天自今以往母為之止為須業爾事爾高久堅久厳久尊久英霊乎幸閉給閉登宇豆乃御前仁鹿自物膝折伏世鵜目物頸
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根突貫支天慎美敬比拝比天白須
 辞別介天白左久今日乃御祭乃記念斗為天人々爾頒多武我為仁椒庭譜略斗皇親譜略斗袁印刷之都留乎以天礼代乃幣帛斗共仁御前仁奉供里進置奴礼婆特仁御覧志愛賜比歓賜反斗奈母白須
是より順次に粛々として墓前に進み、玉串を奉献し、祭儀の全く終りたるは、稍十一時過ぎなりき、而して既に祭儀は終りたるも、参拝者に便する為め、当日は祭官一人代る々々墓前に祗候せり
次で愛染院本堂に於て、仏式の法要あり、仏前を荘厳して、先生の霊牌を其前に安んじ、住職金子宥雄氏、導師として十名の衆僧を率ゐ、厳かに供養の法式あり、終りて音吐朗々、左の表白ありたり
      ○塙撿挍一百年遠忌表白
 敬白真言教主大日如来、金剛胎蔵西部界会、殊般若理趣甚深妙典金剛薩埵、慾触愛慢八供四摂之諸大眷属、物尽空法界一切三法境界而言
 今玆於十股山愛染院道場、虔修前総撿挍贈正四位和学院殿心眼智光大居士霊位一百年遠忌法会
 恭惟、和学院殿大居士霊位、誕迹埼玉、天稟聡明、夙志学業、慕古賢躅、経世之雄図、高於須弥、興学之大志、超於三千、小少失明、而不望皷絃之芸事、遂而年甫十三上江戸、広求名師備苦学、出則拝跪平河天満宮、祷学業之大成、入則日誦心経三百巻、資正智之砥励既而蛍雪功不徒爾、盛名遄聴上司、設和学講談所於六番町也、倐忽門生如雲集、日夕咿晤如雷揚、終即編史料四百余巻、明国史之正傍刻類従六百余冊、為学界之羅新、其他一代鴻図、言説難陳、終生事業、筆紙無尽、因之幕末学芸之頽勢頓恢興、太平人心之萎靡忽振粛可謂中興学匠末世洪範矣、生則蒙幕府之籠遇、任惣撿挍、死則忝聖帝之特旨、贈正四位、心眼永明、透観百代、智光赫々、照被万世、於戯鳥匆々如流、往事蒼茫似夢、今也方際会和学院殿大居士霊位一百年之忌辰、乃玆為英霊得阿耨多羅三藐三菩提、整秘密万荼壇場、修般若理趣秘法、是此即身成仏之径路、速得仏果之直道、初中後善文義、遥超衆経、一十七段段利益、普被群生、色声香味三堺界、悉到菩提位地、慾触愛慢之煩悩、還備常住果徳所、以受持読誦之人、永越一切之悪趣修習思惟之輩、速消無量之重罪、功徳至甚深、利益豈唐損、然則和学院大居士霊位、依此大功徳、速顕現本有明了之覚月、鎮優遊阿字不生之霊台、乃至法界、平等普潤
  維時大正十年六月十二日
                 愛染院現董大僧都宥雄敬白
遺族諸氏の焼香、式の如くにて、法要は、粗ぼ午後の一時に終れり
午後は会員参列、影前供養あるべき定めにて、予て愛染院の大客殿を清めて、床上に先生遺像の幅を安んじ、数脚の机案を安排して、影前を修飾し、会員及び忠雄君の社中たる士女より寄附の真榊・生花・菓子等、それそれ其器に納れて処せまきまで献備し、ことに春風会よりの献花は、花菖蒲にして、器は池坊家に伝はるところの不老門と称する銅製ものにて、真態のいけ方は、かゝる式場にふさはしき美観なり斯くて影前の会場は、午後一時より開かれたり、而して当日参列の諸
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氏は、何れも臨時会員として、加入のものなるが、先づ玄関に於て名刺を請取り、左の記念品を贈呈せり
 椒庭略譜・皇親略譜(塙撿挍の遺著、和学所式の丹表紙にて装釘せし美本二冊)、画ハガキ―塙撿挍酷似の画像(森観斎の筆といふ)、名古屋よりの書信、及び撿挍の嗣子忠宝君遭難の時懐中せし自筆の詠草このハガキ説明に十一月とあるは十二月の誤植 以上三枚
 点字富士の根の琴歌(点字は盲人教育の為め、明治の時、始て成りし凸字点式の字票)一通
  右三品を、百年祭に因み群書類従第百巻上卿故実の第一葉をハトロン紙に摺りしものにて包み、外に鳥の子壱折を添ふ
斯て会員の参列定まつて、午後二時少し過る頃より、影前供養あり、金子宥雄僧都、影前に進みて拝礼、直ちに着座、一巻の軸を開いて、般若心経の写経をなす、仏前法要中、或る時間を限りて、写経するを頓写と称し、古に行はれしものと云ふ、而して此れと同時に、影前、横手に座を列ねて管絃楽あり、調は平調にて、左の三楽ありたり
    五常楽
  唐楽の一にして、太宗の作る所と云ふ、仁義礼智信を以て楽の体とす、故に名づく
    陪臚
  聖武帝の天平八年に、南印度の僧菩提、林邑の僧仏哲帰化し、始て其の国の楽を伝へたり、陪臚は其の一なり、源義家が陣に臨む時、此の曲を奏する毎に、必らず克捷を得しと云ふ
    鶏徳
  唐楽なり、鶏に五徳ありと意ふに因りて作ると云ふ、伝来詳ならず
笙は薗広元、篳篥は東儀俊竜、笛は豊時義、琵琶は東儀俊義、何れも楽家として、然も家柄として聞ゆる諸氏、嚠喨として曲を奏したる所は古管絃の図を見るの思あらしめ、俗耳を清うする幾許なるを知らず雅楽闋りて、稍小憩、此の間コーヒー・鮨・菓子等を頒つ、各員打とけて暫時互に談話あり
既にして写経成り、筆力遒勁にして雅趣ある心経一巻は、影前に献備せらる、此に於て献香の式あり、献香者は香道家西山宗居女史、香銘は『軒の橘』と称せらる、昔を偲ぶの意か、次に献茶の式あり、献茶は鈴木宗保宗匠、いづれも作法厳かに、器具は清浄端麗のものにして人の目を聳てしむるものあり、次に影前斜めに琴を列して、今回新に成る所の『富士の根』の曲を奏す
    富士の根
 言の葉の及ばぬ身には、目に見ぬもなかなかよしや世の中にわれも立たむと、旅衣心の眼うちひらき、杖を力に志ざす江戸の空、一樹のかげの雨やどり、なさけをうけて嬉しくも、文の林のその奥に、残る隈なくわけ入りて、拾ひあつめし数のふみ、類に従ひ目をわけかたぎにゑりて、後の世の人のしをりとし給ひし其のみいさをは明らけく治まる御代の四十あまり四位の贈位は、正に是れ道のほまれよ、身のほまれ、そを語りつぎ云ひつぎて、大正十年の今日はしも
 - 第46巻 p.374 -ページ画像 
はや百年のみ祭りの場につどひて、人皆が、更にみいさを語りあひ歌ひあげつゝ、六星の光あまねき大御代の千代万代の末かけて、高くも仰ぐ雪の富士の嶺
    編者云、此の琴歌は、先生の富士山下に於ける有名の作を取りて、上を起こし下を結びて以て一曲とはせり、六星とは今日、盲人の学ぶ点字の一称なり、星六つより成るを以て云ふ
弾奏者、琴は、東京盲学校教諭萩岡松韻、訓導石井松清・池田てふ、三味線は斎藤ハナの四氏ありしが、歌は先生一代の要を尽して、特に趣味あると、萩岡氏の美音、玉を転ばすが如きものありて、悠揚として合奏する所、参列者をして、覚えず賛称の声あらしめぬ、次に琴曲「都の春」の合奏あり、琴は石井松清・関根よし・高西多美、三味線は斎藤ハナの四氏にて、賑はしく弾奏せられたり
午後六時、諸供養全く終るを以て、発起者として渋沢子爵、井上・芳賀の両博士は起立し、而して渋沢子爵より挨拶として、当日、淑女紳士、来会を辱うすることを謝すると共に
撿挍の事は、世既に周知のことにて、今更喋々を要せざるも、匆々此に百年を閲して吾人此日に遭遇することを得たるは、殊に感慨を深する者なり、乃ち撿挍の事の如きは、特り一地方……吾々が、埼玉県下の同郷者たるの誇とするのみならず、恐らく日本国の誇りとすべき者ならん、此の立志の蹟、此の功業の著、何人も宜しく学ぶべきの範を後世に遺せしことの大なる、蓋し言ふべからざる者あり、之より次でながら陳べ置んとて
埼玉県下に於て、撿挍の功業を伝ふべき組織の企あり、大に進捗しつつあることに及び、至つて簡古にして要を得たる、遺徳顕彰談あり、終に又
当日撿挍の遺品と共に、塙忠宝君の詠草類も陳列せり、忠宝君は撿挍の嗣子にして、文久二年十二月二十二日、不慮の災に罹りて逝きしより、こゝに六十年なり、この件は維新前乱たる渦中の出来事にして、過激その事に当りしものは、後の名士誰も知る人、伊藤博文公・山尾庸三子なりしとは、いまより回想すれば、不思議といふの外なし、然るに本日の祭典に、伊藤・山尾両家より玉串料を供せられ、ことに山尾子爵のしたしくこの席に列せられしは、国事に関しては、恩怨共に遺るる聖代に当り、自他共に何等悪感の存するところなきの、実を示したるものにて、塙忠雄君が、忠宝君の孫として、今日撿挍の百年祭にかゝる事ありしは、信に同情の至りといふべし
との、言を添へられし
渋沢子爵の談話終るを待ち、塙忠雄君より、一応の謝辞あり、是時既に薄暮に近かりしを以て、参々五々此に於て相率て散会せられたり、節、折しも梅雨に入り、淫霖数日、人を苦しめしが、是日、会ま前日来の雨も止みて、薫風涼を送り、場の内外共に其の清快を覚えしは、亦喜ばしかりき
又詠献として、題「松風」を、予て江湖に発表し置きしが、其の到着の短冊は、当日、影前に献備せられたり、今之を一括して次号に載す
 - 第46巻 p.375 -ページ画像 
べし
又群書類従の出版は、当時の事情を追懐するに、先生一世の心血を注ぎて成る所のものにて、板数実に一万八千枚の多きに上り、人亦見んと欲する所なるを以て、当日は該板保存の倉庫を開放して、会員の随意閲覧に供し、次に又図書館の一部に席を設けて、群書類従の印行及び製本の実演せしめ、江戸貞吾は印行に、鈴村貞次郎は製本に、各先代以来、類従に職を以て当りしことゝて、時に説明を加へつゝ、熟練の伎を揮つて、斯の如くして後に、多くの日子を閲して、全部六百六十余巻の浩澣は成ることを示せるには、来会者も大なる感動をなしたる様なり
○下略