公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
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大正元年11月9日(1912年)
是日、飛鳥山邸ニ於テ、第十六回昔夢会開カレ、徳川慶喜及ビ栄一出席ス。
昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一三八―一四七頁 大正四年四月刊(DK470138k-0001)
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昔夢会筆記 渋沢栄一編 下巻・第一三八―一四七頁 大正四年四月刊
第十六
大正元年十一月九日飛鳥山邸に於て
興山公 男爵 渋沢栄一 公爵 徳川慶久君 法学博士 阪谷芳郎 子爵 稲葉正縄君 男爵 文学博士 三島毅君 文学博士 三上参次 豊崎信君 文学博士 萩野由之 猪飼正為君 江間政発 柴太一郎君 渡辺轍 井野辺茂雄 藤井甚太郎 高田利吉
御誕生日の事
御誕生の日は、諸書皆天保八年十月二日とこれあり候へども、滝村小太郎編纂の御年譜には九月二十九日とこれあり候、いづれが正しく候や。
内実は九月二十九日なれども、同月は小の月にて所謂九日晦日なり、又晦日は文恭公○家斉公。の御忌日にて、毎月其日は精進して、祝宴などを催さゞる例なれば、十月二日を替日《カヘビ》にしたるなり。
生麦償金支払の事
文久三年五月、小笠原図書頭が独断といふ名義の下に生麦の償金を交付せること、並に図書頭が兵を率ゐて上京せることについては、公には如何なる程度まで御関知遊ばされ候や、前年も相伺ひ候へど
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も、今一応委しく伺ひたく候。
生麦償金の事は、当時朝廷にてもいたく御憂慮あり、表向きては、渡せとも渡すなとも仰せ出されざれども、此事は当方の曲事に相違なければ償金は渡さねばならずとの御趣意にて、いはゞ黙許の姿なりき。予は密に其趣意を含み居たれば、帰府の後中根長十郎・平岡円四郎の二人を横浜に遣はし、二人より以心伝心にて、所謂黙許の意を伝へしめたるにより、遂に小笠原の独断とはなりしなるべし。
右の如き事情なれば、たとひ償金は渡したりとも、唯軽装にて上京せば何の子細もなかりしならんに、兵を率ゐて上京したる故、かたの如き次第となりたるにて、全く小笠原の失策といふべし。是は決して予が関知する所にあらざるなり。
柴氏曰く、初守護職は図書頭の上京を差止むべしとの朝命を蒙りたれども、固より兵力を用ゐるの要を認めざれば、単に使者を以て差止めしめたるに、梅沢孫太郎○亮、後に守義と改む。より、箇条書にしたる風聞書を公の辞表に添へて関白○鷹司輔熙。に呈するに及びて、「こは容易ならざる大事なり、兵を以て差止むべし」との朝命出でたるなり。勿論梅沢は公の意を承けて風聞書を上れるにはあらざるべし。
栗本鯤を御信任ありしといふ事
慶応元年十月十日、二条城にて、公を始め尾張玄同等御列席にて、栗本瀬兵衛鯤、匏庵、また鋤雲と号し、後に安芸守に任ず。に兵庫先期開港引戻の談判を御委任ありたる由、瀬兵衛の自記に相見え候のみならず、其頃公には専ら瀬兵衛を御信任ありて、瀬兵衛が仏国公使館書記官カションと親交あるを幸ひ、仏国公使との交渉は総べて瀬兵衛に御一任あり、瀬兵衛より立会人を請求せしをすら、其身既に目付の職にあれば其儀に及ばずとて、慣例を破り、始終単独にて応接せしめられし由、渡井量蔵の筆記に見え申し候、事実に候や。
又右二条城にて御委任の節、玄同自ら茶盞を取り、座右の洋酒を注ぎて瀬兵衛に遣はされ、若年寄遠山信濃守友詳。傍より函を開き、肴を取りて与へたりと見え申し候。御用部屋にて酒を用ゐらるゝが如きこともこれある儀に候や。
栗本には京都にて一度逢ひたるのみなり、特に任用せしことはなし、引戻談判の事は全く無根なり。
昭徳公京都御滞在中には、或は疲れたらんとか、或は遅くなりたりとかにて、時々御用部屋にても酒を賜ひたることはあれども、是とて予と玄同ぐらゐのものにて、他は唯接伴といふに過ぎず。勿論自ら酒を飲むが如きことなければ、洋酒云々の事も亦無根なりと知るべし。
箱館御出陣の議ありしといふ事
明治元年、榎本釜次郎武揚。等の箱館に拠りし時、公をして之を追討せしめんの朝議あり、乃ち公より出陣を願はせられしも、朝議一変して之を許されざりしことこれあり候由、果してさやうに候や。又其後公より釜次郎等に対して御諭示などあらせられしことこれなく候や
さる朝議のありしことは更に知らず。榎本等には大慈院に謹慎中一たび説諭せしことあれども、箱館に拠れる頃には何等訓諭せしことなし
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静岡御謹慎中車駕御送迎ありしや否やの事
明治元年、車駕東幸、静岡御通過の際は、御謹慎中ながら公にも御送迎あらせられ候や。
謹慎中なれば、唯御東幸の事を承りたるまでにて、御出迎ひはせざりき。其後明治二年再度御東幸の時は、高松凌雲などより、誠に好機会なれば、此際天機を伺はるべしと申し立てたれど、勝安芳は却て宜しからずとて差止めたれば、家達をして代りて天機を伺はしめたりき。
静岡にて御謹慎の事
宝台院に御謹慎中の御模様を伺ひたく候。
宝台院に謹慎の時は、唯彼処に居たりといふまでにて、安政の時の如き厳重なることはなかりき。
初宝台院を択びたるは、大久保一翁の発議によれり、大久保は前年駿府町奉行たりしことありて、よく静岡の模様を知れるが故なり。
夫人を東京に置き給ひし事
明治二年十月まで、貞粛院夫人を東京に置かせられしは、御謹慎中御遠慮の御趣意に出でたることに候や。
然り、遠慮の為なり、謹慎御免の後静岡に呼び寄せたり。
御別号の事
明治三年二月十七日より一堂の御別号を用ゐさせられしには、何か御趣意これあり候や。
予ても話したる如く、一堂の号は、勝に選ばしめたる幾つかの中より採りしものにて別に拠あるにあらず、唯何の障もなくて宜しき故なりされど之を書幅などに認むるには、位置整ひ難くて、すわりよからねば、余り用ゐたることはなし。
興山の号は烈公の賜ふ所にして、詩経より出でたるやに承知せり。
静岡御謹慎後の御家職及御相談相手の事
静岡御謹慎後の御家職は何と称し候や。又其頃の御相談相手とも申すべきは誰々に候や。
家職はやはり家令・家扶・家従なりしと覚ゆ。
豊崎氏曰く、当時の書類を見るに、令扶従の目あり、総べて千駄ケ谷の宗家より任免せられたるなり。
其任免の書附は、千駄ケ谷より廻し来れるを、予が手より渡したるなり。
相談相手は勝安芳・溝口勝如○もと伊勢守。の二人なれども、主として溝口に相談せり、それが為溝口は毎年春秋に一度づゝ静岡に来るの例なりき。
静岡御残留の事並に東京御移住の事
明治四年廃藩置県により、旧知事家達公は静岡より東京に御移住ありしも、公は尚紺屋町の御邸に留まらせられ、三十年に至りて始めて御出京あらせられ候、是には何か御事情これあり候や。
勝が静岡に留まる方宜しからんといへるによる。勝は此事を西郷隆盛に談じたるに、西郷は「静岡に在すとも差支なかるべし、朝廷の方は某よしなに執成すべく、御出京の時機も追つて某より告げ知らすべければ、それまでは今のまゝにて在すべし」と答へたりとぞ。
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予は初静岡を終焉の地とせんの決心なりしも、同地は良医に乏しければ、追々老境に入るに随ひ、万一の事あらば困難ならん、東京より日返りに医師の来り得る処に移らんこそよけれとて、詮議の末遂に出京することゝなれるなり。其頃は勝も猶生存せり。
公爵以前の御族籍の事
公爵を賜はるまでは、公は宗家の御家族と申す儀に候や。
公爵を賜はるまでは身分といふものなく、唯謹慎し居れるのみなれば宗家の籍に附け置く外なきなり。
御遊猟の時の事
静岡御在住中、甲府近傍御遊猟の事ありしに、時の山梨県知事藤村紫朗早く此事を伝聞し、命を部下の警察官に伝へて、不敬なきやう注意せしめ置きたれど、当日夜に入るも御来著の模様なければ、警察官は若しや見損じたるかと、宿泊届をくまなく取調べたれど、それぞと思しき人名もなかりしが、翌日に至りて前夜佐渡幸といへる旅館に、従者一人のみの姓名を記して宿泊せし二人の客人こそ、即ち公等にて在せしこと判明したれば、直に公等の出で立たせられし方を志して追ひかけたれど、遂に御踪跡を得ざりしことこれあり候由承り居り候、果して事実に候や。又尚此外にも、御遊猟又は御旅行中の御物語など、書き伝へて然るべきことも候はゞ承りたく候。
遊猟の時とても曾て姓名を秘したることなく、殊に甲府には未だ一たびも赴きたることなし、全く無根の話なり。
豊崎氏曰く、いつの頃なりしか、静岡近在にて御遊猟ありしに、如何なるはづみなりけん、公は深田の中に陥り給へり、折から御供の者も傍に居合はさず、やゝ程経て此有様を見て大に驚き、「公にはなどて早く這ひ上り給はざる」と申しければ、公は苦笑し給ひつゝ「此処は殊の外泥深くして、憖に這ひ上らんとすれば、猶更深みに陥るのみならず、上りたりとて著替もなければ、先の程より汝が来り救はんことを待ち居たるなり」と仰せられければ、御供の者は急ぎ公を抱き上げまゐらせ、人を馳せて御召替を取り寄せなどして、辛うじて御帰邸ありしこともありしと聞けり。
小日向邸へ御移徙の年月の事
今の小日向第六天町の御邸に移らせられしは何年に候や。
明治三十四年十二月二十四日なり。
御家憲を御伝記に掲載すべきや否やの事
明治四十三年、御家憲を御制定の上にて御退隠あらせられし由については、其条項を御伝記に掲載致し候ては如何これあるべく候や。
大綱のみを記さば可ならん。