デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
9款 維新史料編纂会 付、彰明会
■綱文

第48巻 p.44-62(DK480017k) ページ画像

明治44年5月10日(1911年)

是ヨリ先明治四十三年末、井上馨等発起人トナリ御下賜金一万円ヲ基本トシテ維新史ノ調査ヲ目的トセル彰明会ヲ設立ス。栄一委員ニシテ会計主任タリ。是年、山県有朋・大山巌等、是ヲ政府ノ事業トシ、文部省直轄ノ維新資料編纂会ヲ設立セントス。是日ソノ官制発令セラレ、当会総裁ニ井上馨、顧問ニ山県有朋・大山巌・松方正義外四名仰付ケラレ、栄一外二十一名、総裁ヨリ委員ニ推薦セラル。尚、彰明会ハ当会設立後モ存シ、栄一ソノ委員トシテ当会委員ト共ニ在任歿年ニ及ブ。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK480017k-0001)
第48巻 p.44 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
一月二十二日 晴 寒
○上略 正午食事畢テ後、霞ケ関元工部大学ニ抵リ彰明会ニ出席ス、会スル者二十名許リ、井上侯総裁ノ位地ニ在リテ維新前後ノ歴史調査ノ会合ナリ、種々ノ意見陳述アリシモ、就中木戸氏ノ遺書、維新ノ前年ニ於ケル薩長聯合ニ関スル記事ハ尤モ真摯ニシテ、当時ノ情況察スルニ余リアリ、午後五時散会○下略
   ○中略。
二月十三日 晴 寒
○上略 井上侯爵ヲ麻布邸ニ訪ヒ、彰明会委員会ニ出席ス、種々ノ談話ス○下略
   ○中略。
三月二日 晴 軽寒
○上略 午後二時半彰明会ニ出席シ井上侯ト時事ヲ談ス○下略


竜門雑誌 第二七四号・第七六頁 明治四四年三月 彰明会と青淵先生(DK480017k-0002)
第48巻 p.44 ページ画像

竜門雑誌 第二七四号・第七六頁 明治四四年三月
○彰明会と青淵先生 彰明会は昨年十二月、維新復古の事実を調査する目的を以て組織せられたるものなるが、青淵先生には其委員並に会計主任を受諾せられたりと云ふ


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK480017k-0003)
第48巻 p.44 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
五月一日 晴 軽寒
○上略 二時半彰明会ニ抵リ議事ニ参与ス。○下略


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一五頁 昭和六年一二月(DK480017k-0004)
第48巻 p.44-45 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿)昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第一五頁
              昭和六年一二月刊
    明治年代
 - 第48巻 p.45 -ページ画像 
  年月
四四 三 ―彰明会会員(委員?)、会計主任―昭和六、一一。
○中略
四四 五 ―維新史料編纂会委員―昭和六、一一。


世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第五巻・第三三二―三三七頁 昭和九年九月刊(DK480017k-0005)
第48巻 p.45-47 ページ画像

世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編
                 第五巻・第三三二―三三七頁
                 昭和九年九月刊
 ○第四章 明治天皇崩御の前後
    第四節 彰明会と維新史料編纂会
○上略
 その後四十二年に、公を始め伊藤・山県・大山・松方・土方・田中等が協議のもとに、維新史料編纂の為に彰明会が設置せられるに至つた。同会の設立は公の主張になつたもので、四十四年二月二十日に温知会の席上で公は、「維新史編纂に就いて」と題して、一場の講演をした中に、同会設立の動機に就いて大体左のやうな説明をしてゐる。
  今より三年程以前の事であつたと思ひますが、英国大使のマクドナルド氏(Sir Claude M. MacDonald)が私の所へ訪ねて来て「日本の歴史は無論英文で出来やう筈はないが、『是が精確で完備した維新歴史である。』と云ふものが出来て居る筈である。」といふから「イヤさう云ふ維新歴史はまだ出来て居らぬ。」と云ふと、「英吉利でも独逸でも何所でも、其の国の歴史と云ふものは、余程鄭寧に調べてあるから、日本にも同様調べてなければならぬと思ふ。」と自分に語つた。マクドナルド氏は更に言ふに、「日本の歴史に就いて外国人にどうしても理由の分らぬことがある。即ち三百諸侯が其の領地を皆朝廷に献納して、廃藩置県といふことが容易に出来て居るが、諸侯の土地は其祖先が皆血を流して得たもので、之を統治するにも多くの費用を出してゐて、無論各自の私有財産である。其の財産を無代で残らず朝廷へ差出したと云ふのはどうしても訳が分らぬそれはどう云ふ訳であるか。」と尋ねられましたので、其の説明には私も少く困まりましたが、「さう云ふ疑惑は外国の御方では御尤である。日本の国体は英吉利や仏蘭西などの如き欧羅巴諸国とは根本から違ふ所がある。日本人が万世一系の天子を戴いて居るのは、其の御先祖が日本を闢かれたので、日本全国は天皇陛下の御所有同様と云ふ所から来て居つて、所謂普天の下王臣にあらざるなく、率土の浜王土にあらざるなしと云ふのが日本の国体である。それで諸侯が戦争をしたり多くの金を費して土地を領して居つて、其の土地は矢張り総て天皇陛下の土地であると云ふ感じがあるから版籍奉還廃藩置県と云ふ大改革も容易に実行されたのである。」と答へると「それはさうであらうが、自分の財産を無代で以つて丸で朝廷へ差出すと云ふ道理がない。どうもまだ疑は氷解せぬ。追々日本の歴史が出るならば、英文で書いて貰ひたい。」と申しましたから、「日本全体の綜合したる完全の歴史が出来たなら英文訳もさせやうが、今日さう云ふ運びには往かぬ。」と話したことがありました。
右の事情なども間接の一動機となつて、公は維新史料の編纂の必要を
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痛切に感じたのであつた。公の計画は伊藤・山県・大山・松方・土方・田中等の維新に関係多い人々を会合せしめ、各藩といはず朝廷・佐幕の各派を公平に集めて、無私の統一的な維新史を編纂しようといふのであつた。
 かくて公は同志と共に伊藤博文を訪ね「何としても実際の維新歴史を書いて遺して置かねば、王政復古の由つて以て起つた理由が後世に於て不明となり、又外人に対しても不可解な疑問のまゝに放置されて了ふ。如何なる事情から徳川氏が政権を返上し、如何なる理由で諸侯が版籍奉還したのであるか全く不明となる虞がある。現今政府に薩長の人々が多く政務に参与してゐる関係から藩閥政府の呼び声が高いがその依つて来た事実を正しく世に示す上からも有の儘の歴史を公正に書いて置く必要があるであらう。」と語つた。伊藤もその趣旨には大いに賛成であつたが事柄が頗る複雑して居るとの理由で自ら之を承諾するには至らなかつた。公は更に伊藤が与つて功績のあつた維新以来の憲法その他の法律が由つて来る所の国家の事情を明かにする必要を強調し、その奮起を促すことに努めたが、伊藤は『長州人である我々が関係すると、長州が勝手なことを書くといふ批評も受けて宜しくない。』といふ意見で、どうしても引受けない。山県も亦伊藤と同論であつて、公も之を如何ともすることが出来なかつた。かくて四十二年十月に伊藤が満洲視察の旅に上る前、公は重ねて伊藤に賛意を求めたが、「今即答は出来ぬ。万事哈爾賓から帰つた上で相談しよう。」とのことであつた。公は遂に維新史料編纂のことを明治天皇に内奏したところ、尽く御裁可あらせられた。然るに不幸にして伊藤は満洲の野に非命の死を遂げたので、編纂の事はその儘暫く進展しなかつた。
 併し乍ら公の維新史料編纂計画の熱情は益々熾んなるものがあつた維新回天の大事業に直接関係した人々が日に月に凋落して行く有様を見ては、公は一日も猶予しては居られなかつた。公は同志を糾合し、その編纂事業の具体化を図つた。そこで天皇には公に、「維新の功臣の未だこの世に在る中にその材料を集めて置くことは必要であるからやれ。」との御言葉もあり、その費用として畏くも御手元金一万円御下賜があつたので、公等同志のものが華族会館に集りこゝに彰明会が設立せられるに至つたのである。そして公は同会の総裁に推された。
 彰明会は右の如き趣旨のもとに生れたので、従つて会の事業としては、第一、薩長土その他勤王の旧諸藩の人々は勿論、その他広く同志が集つて、御下賜金一万円を基本として一般に寄附金を募集し、同時に勤王・佐幕の孰を問はず頗る広く材料の蒐集を行ふこと、第二、論題を定めて、公・山県・大山・松方・田中光顕・香川敬三・松平正直・土方久元・東久世通禧・中原邦平等が会合し、その論題に基づいて当時を回想し誤れるは正し、足らざるは補ふといふ方法で談論し、それを速記せしめるといふ手段を執ることといふにあつた。
 かくて二年を経過して四十四年に入つたが、事業は次第に大きく、研究問題が頗る広汎となり、単なる彰明会を以てしては史料蒐集上少からぬ不便があつたので、こゝに同会の事業を官設にすべしといふ議論が現はれるに至つた。而してその議論は更に政府の事業とするか宮
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内省の事業とするかといふ二派に分れた。公・土方・松方・大山等は宮内省論であつたが、山県は之に反し、「元来、かゝる事業は国家の事業であるから、政府の予算に編入し、帝国議会の決議を経て経営すべきものである。而も若し宮内省で維新史料の編纂を行ふこととなれば、薩・長の旧臣等は袞竜の袖に隠れて、我儘な史料を採集するといふやうな非難が起らんも測り難い。かくては天皇に対して畏れ多いからこれは国家の事業として、所属は文部省所管として経営すべきである。」といふ意見であつた。山県の意見は遂に一同の賛意を得た。そして文部省の予算となつて現はれ、五月十日に勅令を以て維新史料編纂会官制《〔註一〕(原註)》が公布せられた。
○下略
   ○右〔註一〕ハ次掲「中外商業新報」記事ニ同ジ。


中外商業新報 第八九八八号 明治四四年五月一一日 維新史料編纂会官制公布(DK480017k-0006)
第48巻 p.47 ページ画像

中外商業新報 第八九八八号 明治四四年五月一一日
    維新史料編纂会官制公布
維新史料編纂会官制は愈々十日官報にて公布さる、全文左の如し
 勅令第百四十五号
    維新史料編纂会官制
 第一条 維新史料編纂会は文部大臣の管理に属し、維新史料の蒐集及編纂を掌る
 第二条 維新史料編纂会は総裁一人、副総裁一人、顧問及委員若干人を以て組織す
 第三条 総裁・副総裁及顧問は勅旨を以て之を命ず
 第四条 委員は総裁の推薦に依り文部大臣之を奏請し、内閣に於て之を命ず
 第五条 総裁は会務を統理す
  副総裁は総裁を補佐し、総裁事故あるときは其の職務を代理す
 第六条 維新史料編纂会の事務を掌理せしむる為、維新史料編纂事務局を置く
 第七条 維新史料編纂事務局に左の職員を置く
  局長 勅任、書記官 専任一人 奏任、書記 専任五人 判任
 第八条 局長は総裁の命を承け局務を掌理す
  書記官は上司の命を承け事務を分掌す
  書記は上司の指揮を承け庶務に従事す
    附則
 本令は公布の日より之を施行す


中外商業新報 第八九八八号 明治四四年五月一一日 史料編纂総裁顧問発表 副総裁は欠員の儘(DK480017k-0007)
第48巻 p.47-48 ページ画像

中外商業新報 第八九八八号 明治四四年五月一一日
    史料編纂総裁顧問発表
        副総裁は欠員の儘
十日官報を以て維新史料編纂会発布の結果、同会総裁及顧問左の如く仰付られたり
            正二位大勲位侯爵 井上馨
 維新史料編纂会官制第三条により勅旨を以て維新史料編纂会総裁被
 - 第48巻 p.48 -ページ画像 
仰付
              正二位大勲位功一級 公爵 山県有朋
              正二位大勲位功一級 公爵 大山巌
           正二位大勲位侯爵 松方正義
           同 勲二等 伯爵 土方久元
           同上 田中光顕
           同上 東久世通禧
           同上 板垣退助
 維新史料編纂会官制第三条により勅旨を以て維新史料編纂会顧問被仰付
又総裁より委員を左の如く推薦したり
 子爵杉孫七郎 子爵金子堅太郎 伯爵香川敬三 男爵牧野伸顕 男爵松平正直 男爵船越衛 子爵渡辺昇 男爵北垣国道 男爵奈良原繁 原保太郎 古沢滋 小牧昌業 中原邦平 武田猛 男爵渋沢栄一 三上参次 侯爵木戸孝正 萩野由之 子爵黒田清綱 子爵花房義質 男爵堤正誼 穂積八束 男爵沖守固
 尚文部省参事官赤司鷹一郎氏事務局長に兼任を命ぜらる


竜門雑誌 第二七六号・第六〇頁 明治四四年五月 維新史料編纂会員の任命(DK480017k-0008)
第48巻 p.48 ページ画像

竜門雑誌 第二七六号・第六〇頁 明治四四年五月
○維新史料編纂会員の任命 維新史料編纂会官制は五月十日の官報を以て公布せられしが、同時に井上侯爵は其の総裁に、山県公爵外六名顧問に、青淵先生外二十一名委員に任命せられたる旨公布せられたり


中外商業新報 第八九八九号 明治四四年五月一二日 維新史料編纂事業(DK480017k-0009)
第48巻 p.48 ページ画像

中外商業新報 第八九八九号 明治四四年五月一二日
    ○維新史料編纂事業
某当局者の談左の如し
△事業 維新史料を蒐集編纂して、後世に完全確実なるものを貽すを目的として、歴史其物を編纂するに非ず、文章・事実の発見等に就き真否疑はしき場合十分の考証を遂げ、然るべき形状に於て保存する事を期す、一つの事実にして観察によりて異なれる方面を有するものは其儘となし置くべし
△委員 は未だ選定中の者もあり増加する筈なれども、其調査終了後場合によりては嘱託となすやも知れず、編纂の方法は其委員会議に於て決定すべし
△嘱託 若干名を置き同会に附属せしむ、之は蒐集材料を編纂するものにて学者・歴史家・達筆家中より推薦する筈、其原案を委員会に附託し、委員会が其可否を決する順序となる、其下に若干名の写字生を置き写字せしむ
△事務局 は宮内省と交渉して虎の門帝室林野管理局の跡の建物を借入れる筈、委員等の意見により材料を集むるに奔走するは事務局本来の職務なりと


法令全書 明治四四年 内閣官報局編 刊 文部省告示第百八十号(DK480017k-0010)
第48巻 p.48-49 ページ画像

法令全書 明治四四年 内閣官報局編 刊
○文部省告示第百八十号
 - 第48巻 p.49 -ページ画像 
麹町区三年町元帝室林野管理局庁舎跡ニ維新史料編纂会ヲ置キ、昨十七日ヨリ事務ヲ開始セリ
  明治四十四年五月十八日    文部大臣 小松原英太郎


竜門雑誌 第二七七号・第八一頁 明治四四年六月 ○史料編纂会協議(DK480017k-0011)
第48巻 p.49 ページ画像

竜門雑誌 第二七七号・第八一頁 明治四四年六月
○史料編纂会協議 山県・井上・松方の各元老、東久世・土方の両伯、沖・堤の両男、花房・金子の両子及び小牧昌業・中原邦平・穂積八束の諸氏は五月二十二日午後二時より虎之門内彰明会に会合を催ふし、維新史料編纂会組織並に彰明会の善後策に関し種々協議をなし、左の申合をなし六時散会せり。
 一、維新史料編纂会成立と共に彰明会を解散すること
 一、彰明会の顧問・委員・嘱托員は全部史料編纂会に引継ぐ事
 一、彰明会の調査史料は全部編纂会に引継ぐ事
 一、維新史料編纂会は彰明会の精神を踏襲せしむること
 一、維新史料編纂会には総裁・顧問・嘱托員の外、委員長・部長をも挙ぐること、其の場合は前委員長牧野男を委員長に推すこと
 一、史談会の委員にして同会の趣旨に反せざるものは委員・嘱托等に推薦すること
 一、青淵先生の調査に係る幕府史料、編纂会に参考として引継を交渉すること、同家の調査主任なる萩野由之氏を、同会に推薦すること
   ○維新史料編纂会設立ト共ニ彰明会ハ解消シタルニアラズ。単ニソノ事業ヲ譲リ渡シタルノミニシテ、会ハ存続セリ。前掲「青淵先生職任年表」ニヨレバ、栄一、歿年ニ至ルマデ会計主任タリ。


世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編 第五巻・第三三八―三四一頁 昭和九年九月刊(DK480017k-0012)
第48巻 p.49-50 ページ画像

世外井上公伝 井上馨侯伝記編纂会編
                 第五巻・第三三八―三四一頁
                 昭和九年九月刊
 ○第四章 明治天皇崩御の前後
    第四節 彰明会と維新史料編纂会
○上略
 かくて同月○五月十七日に麹町区三年町の旧工部大学黌舎内に編纂事務局が開設せられ、史料蒐集編纂の事業は著々進捗することとなつた官制の発布及び副総裁・委員・顧問の任命に就いて、公は従来の趣旨に基づいて勤王・佐幕の色彩を超越して、頗る公平無私にその選任を行つた。当時の内閣書記官長有松英義が公に送つた次の書翰に、
   拝啓陳ば、維新史料編纂会官制中、副総裁ヲ置クコトニ更ニ修正之件ハ御意見之通ニ修正取計ヒ上奏、御裁可之事相済候間、不日発表可相成ト奉存候。右御承知置被下度候。扨又徳川慶喜公及大隈伯ハ顧問承諾不相成候間、不得已儀ト奉存候。両人ハ相除キ奏請可仕、尤板垣伯ハ承諾有之候。 井上侯爵家文書
とあるに依つて、その選任事情の一斑を窺ふことが出来る。
 編纂会が設立せられても彰明会は元の如く存続してゐるが、その事業は編纂会で継承し益々広範囲に亘つて調査蒐集に従事した。総裁となつてからの公の勤め振りは全く熱誠そのものであつた。「維新史料
 - 第48巻 p.50 -ページ画像 
編纂会の方針が以後ずつと順調に行はれたのは井上侯の御骨折に依るものである。」とは当時同編纂会事務局長であつた赤司鷹一郎の談である。尚赤司の談《〔註二〕(原註)》に公が長い間の編纂会の役員会議には、毎に真先に出掛けて、定刻に晩れたことがなく、実に励精であつたことが説明せられてある。一番長老である公にして斯く時間を厳守してゐたので、副総裁であつた金子などは恐縮してゐたとのことである。
 その後大正二年、山本内閣の時に、奥田文部大臣が提出した維新史料編纂局の予算が、大蔵省で全然削除されたことがあつた。これは大蔵省が同編纂会の設立趣旨に無理解であつた為である。その時に奥田は編纂会委員金子を訪ねて「本局の予算を復活しようとしたけれども大蔵省が承諾しない。依つて閣議で決定することにした。然るに閣議でも大蔵省の通り極まるかも知れぬから、能く総理大臣に会つて説明して呉れ。」といつた。そこで金子は公と協議して、山本首相に会つて本局の予算を否決せられては困るといふ点を詳細と陳述し、且つ明治天皇から井上総裁に勅諚を賜はつた事情を委しく述べて、削除の不当を説明した所が、山本首相は「さういふ御沙汰があるならば無論成立せしめんければならぬ。」といつて文部省の原案に決定した。爾来政府部内では良く諒解して、時には予算に増減はあるが異論の起つたことはなかつた。
 大正三年十一月に、宮内省内に臨時帝室編修局が設けられて、明治天皇の御伝記を編することとなつた。その総裁は土方伯、顧問には公山県・松方・西園寺の諸元勲であつた。然るに公と波多野宮相との間に誤解があつて、それが半年以上も解けなかつた。公は甚だ面白からず思うて遂に本会総裁の辞表を呈出した。その後段々相互の誤解も解け、辞職も御勅許がなかつたので、公は元の如く総裁に留ることになつた。その時公は左の御沙汰書を賜はつた。
  維新史料編纂会総裁辞任ノ意切ナルモ、史料編纂ニ付テハ初メヨリ関係浅カラス、且先帝叡旨ノ在ルアリ、今ヤ事業著々歩ヲ進ムルニ当リ、俄ニ其任ヲ辞スルヲ許サス。宜ク疾ヲ養ヒ力メテ事ヲ視ルヘキ旨御沙汰候事。
公と同会との関係はこの御沙汰書に依つても明かである。かくて公は薨去に至るまで、同会事業に奮励したのである。○下略
   ○〔註二〕略ス。


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK480017k-0013)
第48巻 p.50-51 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年         (渋沢子爵家所蔵)
六月十五日 雨 暑
○上略 午前十時半虎ノ門ナル維新史料編纂会ニ出席シテ、井上侯及金子沖氏等ト彰明会ニ係ル会計ノ事ヲ評決ス○下略
   ○中略。
十一月二十日 晴 寒
○上略 午後二時維新史料編纂会ニ抵リ、徳川民部公子仏国行ニ関スル事歴ヲ談話ス、井上侯・土方・金子其他多数会員来会ス○下略
   ○中略。
十一月二十九日 晴 寒
 - 第48巻 p.51 -ページ画像 
○上略 午後二時半井上侯邸ニ抵リ茶話会ニ出席ス、維新史料編纂ニ関スル諸氏来会ス○下略


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK480017k-0014)
第48巻 p.51 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年         (渋沢子爵家所蔵)
三月十一日 晴 寒
○上略 一時半○午後維新史料編纂会ニ抵リ、北垣氏ノ生野暴動ニ関スル往事談ヲ聴ク○下略


第十六回顧問委員会紀要 維新史料編纂会編 第四二頁 大正一五年一〇月刊(DK480017k-0015)
第48巻 p.51 ページ画像

第十六回顧問委員会紀要 維新史料編纂会編
                    第四二頁
                    大正一五年一〇月刊
    講演及談話会
○上略
大正六年六月十八日 横浜襲撃一件外三件 子爵 渋沢栄一
○下略
   ○講演筆記其他ノ資料ヲ欠ク。


渋沢栄一 日記 大正一四年(DK480017k-0016)
第48巻 p.51 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正一四年       (渋沢子爵家所蔵)
三月十八日 晴寒
午前八時起床、洗面朝食例ノ如クシテ後、褥中ニ在テ読書ス○中略 金子堅太郎子ヨリ彰明会基金支出ノ来談ニ付同意ノ回答ヲ為ス○下略



〔参考〕都新聞 第八三二二号 明治四四年四月二五日 維新史の怪聞(DK480017k-0017)
第48巻 p.51 ページ画像

都新聞 第八三二二号 明治四四年四月二五日
    ○維新史の怪聞
維新史料編纂局設置の件は、政府当局の熱心なる運動と例の情意投合により漸く帝国議会を通過したるが、新年度の今日に至るも尚ほ其官制及び組織の発表を見ず、蓋し其裏面には最も深き事情あり、元来維新史料の調査蒐集は曾て史談会其任に当りしが、其後史談会は当局の忌諱に触れ文部省を逐はれて以来、薩長元老間には薩長本位の維新史を編纂するため彰明会なるものを組織し、井上侯総裁となり、東久世・土方両伯、金子・末松両子、沖・牧野・堤の各男、其他薩長藩閥に縁故関係あるもの多数を委員若くは顧問・嘱託等となし、既に大体の編纂を結了したるを以て、是非とも之れを公の機関に依り発表するの必要ありとし、遂に本年度予算に維新史料編纂費なる一項を掲げ、彰明会の事業を全部文部省に引継ぐ事に内定して居り、夫等の交渉の為め官制等も未だ決定せざるものゝ由なり、尚聞く処に依れば新設の文部省内維新史料編纂局の調査機関は、全部彰明会の委員・顧問・嘱託等を以て之れに任じ、新人物としては彰明会の趣旨に反対せざる者少数を之れに加ふるに過ぎざる由なり(帝国通信)



〔参考〕大阪毎日新聞 第九九六〇号 明治四四年五月一三日 史料編纂会の正体(DK480017k-0018)
第48巻 p.51-52 ページ画像

大阪毎日新聞 第九九六〇号 明治四四年五月一三日
    ○史料編纂会の正体
日本歴史専門の某大学教授は、維新史料編纂会顧問及び委員等の顔触を見て語つて曰く
 事の起りを知つて居る自分には、大概先づ此位の顔触だらうと思つ
 - 第48巻 p.52 -ページ画像 
て居たから今更驚きもせぬが、元来此の編纂会は先年文部省で小学教科書を編輯する時に、委員等が比較的公平に維新当時の事情を記述した、即ち藩籍奉還の如きも薩・長・土・肥に先だち、姫路藩其他が率先して申出でたやうに記述し、又幕末の事情、井伊大老の事績等をも公平に記述して、薩長の為のみを計らなかつた、ソコで委員の一人たる長州出身の古沢滋氏は之に反対し、荐に兎や角言つたが、委員の多数は夫れに従はなかつたので、古沢氏は、諸君が斯んな事を多数決で定めるなら我輩においても亦諸君の議論を覆へすだけの考へがあると厭味を言つて、直ぐに親分の山県公・井上侯を説付けると、井上侯の如きは「乃公の眼の黒い間にさへそんな事を言ふ様では、我々の死んだ後ではどんな事を言ふやら分らん」と少からず憂慮の体であつた、其結果として現はれたのが例の彰明会で、此彰明会が一転して今回の史料編纂会となつたのだ、事情が斯ふいふ訳だから、畢竟文部省は自分に反対の目的を以て組織された会を今度自分のものとして背負込んだ訳で頗る滑稽である、従つて薩・長・土・肥殊に長州の弁護、長州の主張のために作られた彰明会を事実上の前身とする維新史料編纂会が、果して公平な記述をなし得るや否やは甚だ疑はしき次第である、若し不幸にして我輩の杞憂が事実となつて現はれたならば、必らず世間の物議を喚起し却て薩長を累するに至るであらう、会津藩の如きは、兎に角史料編纂といふことは悪くない事業だから材料を出すと言ふて居るが、彦根藩では出した材料を不採用位で突戻されるのならまだしもだが、事に依つたら其材料を湮滅せられはせまいかと恐れて文書類の提出を拒むらしい様子だ、斯様な事情の下に出来た維新史が到底破綻を現はさずして何日まで存在を保ち得るであらうか、仮令権勢に任せて能く一時を糊塗するとしても長く史家をして之に服従せしめ得ることは出来まい、委員中には旧幕臣たる渋沢栄一男や萩野由之氏の顔も見え学者には三上君なども連つて居るが之は世間体で、背後には古沢氏自身が曩に文部省の委員会で告白した多数決と云ふ強力を持つて居るから、長州系以外の委員は到底此会に重きをなすものでなからう尚渋沢氏は従来徳川慶喜公の伝を編纂しやうと思つて、故福地桜痴居士等とやり掛けたが未だ目鼻のつかぬ間に桜痴が死し、次で萩野氏を編輯長として其事業を継続せる関係から、今度両氏を始め其編輯員全部を、史料編纂会に引受ける事になつたと云ふ事である云々



〔参考〕大阪毎日新聞 第九九六一号 明治四四年五月一四日 維新史料編纂(DK480017k-0019)
第48巻 p.52-54 ページ画像

大阪毎日新聞 第九九六一号 明治四四年五月一四日
    維新史料編纂
維新史料編纂会官制の発布と共に、総裁・顧問・委員および事務局長の任命ありたるが、コハ如何なる必要より起りしものか、而して如何なる方針を以て其事業を遂行せんとするか、吾輩の解し難きもの甚だ多し
第一 史料編纂については、去三十八年三月勅令第九十五号を以て、大日本史料・大日本古文書及び之に附随する書類の編纂を為さしむるため、東京帝国大学文科大学に、史料編纂官専任五人奏任(内一人を
 - 第48巻 p.53 -ページ画像 
勅任となすことを得)、史料編纂官補専任十人判任、史料編纂書記三人判任、を設置する旨発布せられ、田中博士編纂主任、三上博士事務主任として以下夫々の任命あり、爾後今に至りて何等の変更を見ず、現に其の事に従ひ居る者と信ぜらるゝに、今俄に維新史料の編纂のみを之より分離して、専ら藩閥諸老の手に委ね、一種風変りの者としたるは、如何なる理由によるか、若し大学内の編纂事業にして、経費の足らざるために、若くは人手の足らざる為に、若くは適当なる顧問の如きものなき為に、意の如く進捗せずとならば、今回の新事業に要する費用なり人物なりを、従来のものに附加すれば可なるにあらずや、同じく大日本の史料を編纂するに別種の機関を新置するといふに至つては、史料蒐集の難易以外、取捨編纂の上に他人に委せ難き一種の政略を含むものと見ざるべからず
第二 長州藩閥の井上侯を以て其総裁としたるを初めとして、其顧問として東久世伯を公卿より取りたるの外、山県公を長州より、大山公・松方侯を薩州より、土方・田中・板垣の三伯を土州より取りたるに止め、所謂薩・長・土の三藩において之を独占したるは何故ぞ、他藩人にして交渉を受けたるものあるも大隈伯の如く総て之を辞したるによるか、吾輩は恐る、右の外、顧問として内交渉を受けたるものは肥州を代表すべき大隈伯一人にして、従つて之を辞したるものも亦大隈伯一人なることを、然らば維新史料編纂は初めより薩・長・土・肥等維新の変革において勝者の位置を占めたる者の私史を編まんとせるものにて、要するに自画自讚的計画の実現といふべきか、況んや井上侯の総裁たる、かの故伊藤侯の憲法編纂、帝室制度調査を総裁したるが如く、適材とも認むべからざるにおいてをや、若し此編纂事業が薩・長・土の為に弁護的任務を果すを以て主眼とするにあらんか、単に此事業の史学上排斥すべきことたるのみならず、政治上よりも亦排斥すべきことといふべし
第三 単に顧問を薩・長・土の三州に限りたるのみならず、委員までも、渋沢男一人を除くの外、其多くを此三州より取り、其他亦其同志者、若くは阿附者と思はるる者のみに限りたるは何故ぞ、愈以て此編纂事業は維新における勝者の自画自讚の為にするに外ならずと思はるるにあらずや
以上三者にして吾輩の邪推的杞憂に止まり、事実上此如き結果なかるべしといはゞ、天下の共に満足するところなるべきも、此三個の疑問の解決せざる限りは、恐らく天下をして安心せしむる能はざるべし、偶然自家関係の事について論議起らんか、先づ自己の為に弁じて正善の位置を占めんとし、他人の反対論は理由あるも之を排斥せんとするは人情の弱点なり、況んや初めより此の如き幾多の問題に会すべきを予想して、是等の場合成るべく自家に都合よく取捨せんとすべき人物のみを網羅せる機関を備へて之に臨むにおいてをや、其公正を得ざるべきは察し得べきにあらずや、維新史料編纂会は即ち此の如きものにあらずや、ソレ維新の事業は、日本の歴史において最も重要なる部分を占むべきものにして、薩・長・土・肥四藩の関する所深大なりと雖も、事は挙国の大事件にして、決して勝者の事業にあらず、従つて勝
 - 第48巻 p.54 -ページ画像 
敗の跡のみを以て正邪と順逆とを判すべきにあらざるなり、若し勝者の主張勝者の事業のみを以て、一概に正順とするが如きあらば、蓋し史実を誤る小少にあらざるべし、殊に維新の変は南北朝の正閏について論議を上下すべきが如きことあるにあらず、十二分に事実を闡明し縦横の史筆を揮ふに何等の差支なきことなれば、一派の私栄の為に事実を紛更せらるゝが如きは、吾輩の好まざる所なるのみならず、天下の挙つて反対する所なるべし、故に吾輩は此編纂会の成立せる以上、之に望むに、先づ其史料の蒐集を周到にし、其史料に対しては徒に取捨を加へず、特に反対的史料の保存に注意し以て他年の大成に資せんことを以てすると共に、別に純正学の見地より維新史著述に従事するものゝ出でんことを希ひ、併せて上下一般に史料の保存と提供とに忠実ならんことを切望す



〔参考〕東京日日新聞 第一二三七六号 明治四四年五月一五日 維新史料編纂(DK480017k-0020)
第48巻 p.54-55 ページ画像

東京日日新聞 第一二三七六号 明治四四年五月一五日
    維新史料編纂
維新史料編纂会官制発布せられ、同時に其総裁・顧問及び委員の任命を見たる今日吾輩の冀望する所は、其史料編纂の至正至公、苟も当事者の感情を之に加へざるの一事に外ならず。然れども其総裁・顧問及び委員の顔触を見る時は、吾輩は吾輩の冀望が或は空しきに帰せざるかを憂慮せざる能はず。当初この経費の予算に対して、紛々の議論ありしは、之によりて藩閥擁護史の編纂せらるべき疑なきを得ざりしが為なるにあらずや。史料編纂の事業、帝国大学側に於て取扱はれ居るに関らず、特に維新史料の編纂のみを文部省の事業とすることは、常識を以て之を考へ、何人も首肯する能はざる所。大学の史料編纂事業容易に維新のそれに及ぶ能はず、歳月を経るに従ひて関係者次第に凋落し、随て材料湮滅の虞ありとするもの、即ち特に維新史料編纂の事業を開始するの一理由なりと弁ぜられたりと雖も、これ亦頗る曖昧なる議論たること吾輩既に屡次之を言へり。蓋、大学の史料編纂事業は年代を逐ひて古きより新しきに及びつゝあるも、特殊の必要あらば或る部分を中止して其力を維新史料編纂に専らにせしむること、不可能にあらず。況んや別に経費を投ずとせば、それ丈の事業拡張は容易に之を実行し得べく、事々しく維新編纂会の如きものを起すの要を見ざるの、吾人の言を俟たざるに於ておや。然るに大学を離れて別に維新史料編纂会の設置を必要とす、これ大学側に対する不信用の告白にあらざれば、何等か期する所ありて然りと解するの不条理にあらざるを示すものにあらざる乎。世人の疑へるは実にこゝにあり、総裁・顧問及び委員の顔触を見るに及びて吾輩不幸にして其疑の増大せらるべきを思はずんばあらず。顧問と委員と其人々の立脚地やゝ多方面に亘るに似たるも、詳かに之を察すれば、薩長両閥特に長閥の色彩、著しく目立ち居るを知るに難からず。聞く所によれば、史料編纂の順序として、維新の鴻業に関係ある雄藩の史料蒐集を先きとし、漸次他に及ぶ方針なりと云へり。此方針によりて先づ薩長を先きにせんとし、因て顧問・委員に此の如き顔触を見たりと云はむか、これ明かに其の史料に優先的便利を与ふるものにして、不公平なる断定の基をなすものと
 - 第48巻 p.55 -ページ画像 
云はざるべからず。薩長二藩は維新事業の二大動力たりしには相違なきも、其動力を受け、若しくは之に対峙せしもの、亦等しく一大動力なるが故に、正確なる歴史の材料を編纂せんとせば、同時両者を考究し、対照せざるべからざるや固より論なし。吾輩は該顧問と委員との顔触に見て、此所謂対照の対等的に実行せられざるべきを断言するに躊躇せず。総裁井上侯は、材料の取捨選択に当りて、偏頗の行為を敢てせざるべしと雖も、其自信に馳背するものに対して、之を包容し得る程の雅量ありや否や、又其自信の誤れるを発見し、感情を離れて其主張を採用する程に頑固ならざるを得るや否や。自ら関係せる事蹟と其旧藩との事業につきて、善悪両ながらの史料を編纂し、唯重きを事実に置くこと、果して維新史料編纂会顧問及び委員の能し得る所なるべき乎。人誰れか己れの所見を正しとせざらむ、亦誰か己の美事の発揮せらるゝを喜び欠点の隠蔽せらるゝを欲せざらんや。感情的判断は之より起る、史料の編纂洵に容易ならざるなり。吾輩を以て之を見る井上侯を総裁とし、此の如き顧問と此の如き委員とより編纂せらるゝ維新史料は、二・三旧雄藩に優先的便利を与へ、明治政府の勝利者をして、史実判断上の勝利者たらしむべきに帰着せん。維新史の裏面に順逆正否の人為的に塗抹せらるゝあらば、此曠古の鴻業に顧み、深く之れを惜まざるを得ざるべし。藩閥擁護史編纂を以て謳はるゝ所以、当路の諸公一考を費さゞるべからず。



〔参考〕都新聞 第八三八八号明治四四年六月三〇日 史料提供拒絶(DK480017k-0021)
第48巻 p.55 ページ画像

都新聞 第八三八八号明治四四年六月三〇日
    ○史料提供拒絶
維新史料編纂会は前議会予算委員会の当時、広く各藩より委員を物色して公平を期すべしと声明せるにも関はらず、愈々委員の任命を見るに及んで、二十三名中僅かに四名の薩藩士を加へたるに過ぎずして、其余は全部旧彰明会員を以て之に充て、最も深き関係と旧き歴史を有する史談会(会長大原重明伯にして彰明会・温知会の二分派あり、彰明会は、井上侯牛耳を採り全然長派若くば準長派の人々を以て組織さる)は全く度外され、一長派の史料編纂会たるの観を呈せるより、旧会津・秋田・庄内・仙台其他所謂東北七藩、彦根・桑名の藩士は尠からず憤慨し、先頃来重立たる人士密議の結果、愈該編纂会に対し絶対に自家の資料を提供せざる旨決議せり



〔参考〕第十六回顧問委員会紀要 維新史料編纂会編 付録・第一〇―三四頁 大正一五年一〇月刊 【○第十四回顧問及委員会紀要 金子総裁演説】(DK480017k-0022)
第48巻 p.55-61 ページ画像

第十六回顧問委員会紀要 維新史料編纂会編
                   付録・第一〇―三四頁
                   大正一五年一〇月刊
  ○第十四回顧問及委員会紀要
    金子総裁演説
○上略 維新史料編纂局の出来ました由来に就て、多少私が存じて居ることを主管大臣及主務省の各位に御話することは将来色々の願、伺等に関し御裁決になる大臣閣下の御参考にもなり、又此会の事務を担当して居る方々にも幾分か参考にもならうと思ひます、実は私は今日迄此事は誰にも申しませんでしたが、満十年の記念日なるが故に其の御話をして御清聴を煩したいと思ひます。
 - 第48巻 p.56 -ページ画像 
 抑々維新史料の採集及編纂の事業は、明治四十二年六月の頃井上侯爵が主張されて、伊藤・山県・大山・松方・土方・田中の諸元老と協議の上井上侯が 先帝陛下に拝謁を願はれて其の事を詳細に奏聞せられた時 陛下御嘉納あらせられて優渥なる勅諚を賜はられたに依り、井上侯は更に伊藤・山県・大山・松方・土方・田中の諸元老と華族会館、即ち此処に寄り合つて、彰明会を創設せられて其の由を 先帝陛下に上奏されました処、先帝は深く御嘉納あらせられて、然らば井上に其の総裁になつて其の事業を完成せよとの御沙汰があり、又た彰明会の費用として金一万円を 陛下から御下賜がありました、依て之れを基本として薩長土を始め諸藩の華族及其他有志家の寄附金を以て出来たのが彰明会であります、然るに維新の史料採集の事業は到底彰明会の如き個人共同経営では完全でないから、宜しく国家事業となすべきであると云ふ議論が出た、其の時維新史料編纂会は宮内省中に設けて、宮内大臣直轄の下に置く方が良いと云ふ議論が大分盛んであつた然るに山県公は、元来此事業は国家事業として政府の予算に編入し帝国議会の決議を経て経営すべきものである、加之、若し宮内省で維新史料の編纂をすることになれば、薩長の旧臣等が袞竜の袖に隠れて我儘勝手な史料を採集する事になると云ふやうな攻撃又は非難が起るかも判らぬから、是れは国家事業として公然帝国議会に提出し、其議決を経て経営すべきものである、仍て其の予算は文部省所管の一項に於て編成せよと云ふことを山県公が熱心に主張されました、そこで宮内省に維新史料編纂局を置くことは止めになつて、文部大臣管轄の下に置くことゝして、議会に予算を要求して此編纂会が出来ました、而して初度の総裁は 陛下から井上侯に御内沙汰がありました、其時井上侯が私を呼んで――其時私は已に彰明会員でありました――自分は 陛下から維新史料編纂局の総裁になれとの御沙汰があつたが、自分は年も大分取つたし、又記憶も悪るい、将来此事業の監督をすることは十分出来ないと思ふから、君一つ副総裁になつてやつて呉れぬかと云ふ御依頼がありました、其時私は先輩に尚ほ維新の功臣も居られるから、私はどうか御免を蒙りたいと言つた所が、是非やつて呉れ、君がやつて呉るゝならば自分も進んで御請けをすると迄言はれた程非常に御熱心でありました、依て私は左程までの御決心ならば及ばずながら御加勢申しませうと言つて御請けを致し、編纂の方針及び事務処理の方法は凡て井上総裁の指導を受けました、是れ私が編纂会の副総裁になつた沿革であります。
 井上侯が何の為に是非私に副総裁をやれと言はれるか、私は当時甚だ疑つて居つた、然るに其後井上侯とも話し、土方伯とも話して見ると玆に思ひ当ることが一つある、これを今夜文部大臣及文部省の御方並に委員諸君の御聞に達したい。
 是より先き明治二十二年憲法発布の後、私は第一の帝国議会開設の任務を帯ひて欧米各国の議会の組織を視察し、併せて日本の憲法の英訳を持つて往つて、欧米の政治家・学者等に憲法の批評を請ひ其の意見を持つて帰れと云ふ命を承け、六月十一日出発して欧米に赴きました、其時同行の一人は即ち今日の文部大臣中橋君である、そこで欧米
 - 第48巻 p.57 -ページ画像 
各国を巡回して外国の学者・政治家に日本憲法の批評を請ひました、所が色々の批評又は意見がございました、而して私が帰朝しました所宮内省より私に参内して欧米諸国に於ける議会取調の事を親しく 陛下に上奏せよと云ふ御命令がありました、依て明治二十三年六月十九日午前十時に、山県内閣総理大臣と共に参内致しまして御学問所に於て拝謁を賜はりました、其時徳大寺侍従長、山県総理大臣が侍立して居られた所が 陛下より今日は寛くり聴くから金子に椅子を遣れと仰せられたに依り、侍従長が椅子を持ち来つて私に下され、次で総理大臣、侍従長にも椅子を賜はり、私は御前に於て約四五十分計り欧米に於ける議会の制度及び憲政の実況より、各国の政治家・学者の意見等を親しく奏聞致し、其終りに欧米の学者が日本の憲法は実に良く出来て居る、併し何の為めに日本に於て憲法政治を布くのであるか、其の理由が解らない、憲法の条章は洵に完全であるが、憲法丈けを見ては日本が憲法を布き議会を開くに至つた歴史が少しも判らぬと云ふことを各所で聴きました、而して其人等の意見は憲法と共に維新の歴史を書き、之を欧文に反訳して世界に知らせることが必要である、故に其事を 陛下に上奏し、宮内省に於て先づ維新史より始めて漸次日本の歴史を編纂する一局を御設けになるやうにと各国の学者から勧告がございましたと 陛下に上奏致しました。
 私は 陛下に奏聞したる後、内閣総理大臣及宮内大臣に国史編纂局を設くることを建議するの必要を感じましたから、蕪文ながら意見書を認め山県内閣総理大臣と土方宮内大臣に提出致しました、――甚だ恐入りますがその意見書を朗読致しますから暫時諸君の清聴を涜したいと思ひます。
○中略
 是が当時私が建議したものであります、両大臣に提出致しました後維新に関係ある知人にも配布しました所が、第一に賛成されたのは伊達宗城侯、谷干城子等でありました、伊達侯の如きは一日私を訪問せられて此事は是非とも宮内省にて決行させたいと言はれて、親から徳大寺侍従長を説かれ、尚ほ委細の事は直接私から徳大寺侯に説明せよと云はれましたに依り、私は侍従長に面会して精しく陳述致しました其後伊達侯から手紙が参つて、実は西園寺侯が独逸より帰朝せられたから早速訪ねて、国史編纂局設置の事を徳大寺侯に催促して呉れと言つた所が、西園寺侯は今日歴史を編纂することは考物である、今は維新の史料を蒐集するのみのことならば吾々は同意するが、歴史を書くことは史料を蒐集して後にすべしと云ふ論である、と云ふことを言つて寄越された、又土方宮内大臣も材料蒐集ならば賛成するに付き歴史を編纂することは後日の問題とし、今日は先つ維新の功臣の死亡せさる内に材料を集めて置くことに宮内省の議を定められました。
 当時子爵杉孫七郎君が内蔵頭をして居られたので、土方宮内大臣は杉さんを招んで、偖維新史料の材料蒐集の為め一局を設けるには如何程あれば良いか予算を立てるやうにと言はれた、そこで杉さんは予算を立てゝ宮内大臣に出された、所が宮内大臣言はるゝには、是は是れで良いが先づ宮内省の経済会員たる伊藤・山県・松方の諸元老の意見
 - 第48巻 p.58 -ページ画像 
を聞くの必要があるから、君は之を持つて伊藤公の意見を聞いて呉れと言はれた、依て杉さんは、伊藤公に逢つて其の予算を示し、今般宮内省で内々斯う云ふ事に極めて維新史料の蒐集をすることに致しましたと言はるゝと、伊藤公は其の書類を一目見て「是はいかぬ、今宮内省で維新史料編纂するなどとは以ての外である、一体誰が言ひ出したのか」と問はれた、其時杉さんは「それは金子が欧羅巴から帰つて来て維新史の編纂局を設くるの意見書を宮内大臣に出しました、宮内大臣之れを採用し今日は歴史の編纂には取り掛らず、先づ其の材料の蒐集丈けを先きにやらうと云ふことになりました」と言はれると、「金子は飛でもないことを言つたものだ、俺が金子を招んで話すから」と言ふことになつて、杉さんの予算は却下されました。
 そこで伊藤公が私に来いと言はれたから往きまして、其の居間に這入るや否や伊藤公は、「君は飛んでもないことをするではないか」と突然言はれ、「一体君が維新史料の材料を蒐集するなどと言ひ出すのはどう云ふ考えか」と斯う言はれた、依て私は「それはあなたにも既に申上げた通り、オクスフオード大学の「ダイセー」「アンソン」や又「スペンサー」や維納の「スタイン」も日本の憲法は完全ではあるが其沿革の歴史が欠けて居るのが遺憾である、と申して居ります、それで其の歴史を……」と言ひも訖らず「併し君も能く考へて見るが良い吾輩が永い間内閣に居て苦心したことは君も知つて居るではないか今玆に維新の史料を蒐集するとしたならば、薩長が提携して二十三年の帝国議会と云ふ難関を無事に通過しようと云ふ其の箭先、万一にも薩長の間に少したりとも感情が悪くなつたならば此議会をどうする積りであるか、君も知る如く明治初年以来――遠くは蛤門の戦争以来――薩長は色々衝突して居る、今日維新の史料を集めるとして蛤門の事に及べば、忽ち薩長の衝突のことに及ばねばならぬではないか、それから明治八年の大阪会議に至れば忽ち木戸・大久保の衝突が再開するではないか、吾輩が今日迄薩長の衝突を緩和する為め、其中間に立つて両者の緩衝機《バツフワー》と成り、苦心に苦心を累ねて来た其の微衷は君も能く知つて居るではないか、然るに今斯う云ふ局を作つて維新史料を採集したならば、薩長の間に悪い感情を再燃せしむるに極まつて居る、それが吾輩の、君は飛んでもないことをすると言つた理由である」と言はれた、「能く解りました、私はさう云ふことは考へずに一図に憲法歴史の編纂を主唱したのです」と云ひました、伊藤公は「吾輩は元来君と同感であるが、今は二十三年の議会と云ふ難関があるから暫く待ち給へ、其代りに時機が来らば吾輩が発議するから」と云ふことで、伊藤公の意見で中止になつたのが明治二十三年の秋であります。
 偖明治二十三年より同四十二年まで丁度十九年の歳月を経て伊藤・山県・大山・井上・松方・土方・田中の諸元老が協議して、吾々も段段年は取る故に今の内に維新の材料を集めて置かなければ、此の大事業の記録は残らぬから、相会して史料の編纂を遣らうではないかと云ふ話で、此華族会館に寄り合つて彰明会を立て、次て維新史料編纂会となり 先帝陛下より井上侯に総裁の任に当れと云ふ勅諚が降りました次第である。
 - 第48巻 p.59 -ページ画像 
 曩に申しました通り、本局を文部省の所管と定めて文部大臣に稟請し、明治四十四年の予算に編入して議会に提出した所が、議会では果して薩長の頌徳歴史を編纂すると云ふことが、何処となしに議員の頭に這入つて居つて、なかなか通過しない、或る議員の如きは発議して大学に史料編纂の事があるから、あれに持つて往つたらどうかと云ふ程であつた、然るに文部大臣は曰く、大学の史料編纂は永久のことで日本の開闢以来の史料を集むる事業である――然るに維新史料の編纂は臨時のものにして、維新の史料の散逸せざる間に遣らなければならぬから、大学の史料編纂と同一にすべきものでない、と云ふことを熱心に論ぜられたる為めに、予算は漸やく衆議院を通過し、貴族院に於ては少しの異存もなく維新史料編纂局が成立して、明治四十四年五月十七日に開局になりました、然れども其の後も毎年衆議院では本局の予算を否決しやうとするのを、文部大臣が種々苦心して通過せしめられた。
 又山本内閣の時に、奥田文部大臣が提出した予算中、本局の予算を大蔵省にて棒を引いて刪除したことがあつた、其時に奥田君が私の宅に来て曰く、本局の予算を復活しやうとしたけれども、大蔵省が承諾しない、依て閣議で決定することにした。然るに閣議でも大蔵省の通り極まるかも知れぬから能く総理大臣に逢つて説明して呉れと言はれた、そこで私は井上侯と協議して、山本内閣総理大臣に逢つて本局の予算を否決されては困ると云ふ点を詳細に陳述し、且つ 先帝陛下から井上侯に勅諚を賜はりたる事情を委しく述べて刪除の不当を説明した所が、山本総理はさう云ふ 陛下の御沙汰があるならば無論成立せしめなければならぬと云はれて、文部省の原案に決定せられた、依て私は直ぐにそれを井上侯に報告しました、其以来政府部内では少しも異論の起つた事はない。
 偖開局以来満四年の間に採集したる史料及び其の稿本を、政府部内並に貴族院議員及び衆議院議員の観覧に供して能く説明しなければならぬ必要を認めて、展覧会を虎の門の本局で開きました、内閣大臣、枢密顧問、貴衆両院議員、文部省及大学の職員、新聞記者其他関係ある諸家の人々を招んで有らゆる材料を観せました、所が採集及び編纂の公平なることを発見し、勤王佐幕の材料を少しも修飾加除することなく、有りの儘に稿本が出来て居るのを見て皆感じられました、現に島田三郎君の如きは、私は衆議院では此の事業に反対して居つた、或は薩長の頌徳歴史の編纂ではなきかと思つて居つたが、今日之を見て私の考の非なるを知つたから、今後は私が先鋒になつて衆議院で賛成する、就ては五万円の予算を十万円位に増加して要求したら良からうと言はれた、それで私は御厚意は忝けないが、今は政府にも都合があるから直ちに増加を要求しないけれども、何れ時機を見て文部大臣に要求したいと思ふ、就ては其予算が出るときがあつたら是非君に先鋒を願ふと言つたやうなことであります。
 是より先き大正三年十一月に臨時帝室編修局が設けられて、先帝陛下の御伝記を書くことになりました、其の総裁に土方伯、顧問には山県・井上・松方・西園寺の諸元老がなられた、然るに井上侯と波多野
 - 第48巻 p.60 -ページ画像 
宮内大臣との間に誤解があつてそれが半年以上も解けなかつた、其の原因は些々たる事柄でありましたが誤解がありましたので、どうしても井上侯は本会の総裁を辞すると言はれ、遂に辞表を出された、其後段々井上侯の誤解も解けて、辞表は 今上陛下から御下げになりました、其時の御沙汰書があります、此御沙汰書に依つて井上侯も益々奮発して事業に従事された、此御沙汰書は維新史料編纂会に於て非常に重要なものでありますから玆に朗読致します。
 維新史料編纂会総裁辞任ノ意切ナルモ、史料編纂ニ付テハ初メヨリ関係浅カラス、且 先帝叡旨ノ在ルアリ、今ヤ事業著々歩ヲ進ムルニ当リ俄ニ其任ヲ辞スルヲ許サス、宜ク疾ヲ養ヒ力メテ事ヲ視ルヘキ旨
 御沙汰候事
 玆にある「先帝叡旨ノ在ルアリ」と申すのは曩に彰明会を起し又維新史料編纂会を設けられたときに、井上侯が 先帝陛下に拝謁されて此事業の性質を上奏された際に 陛下より此事は是非井上侯に完成するやうにとの御詞でありましたから、御沙汰書に此文字があるのであります。
 右の如き歴史でございますから、今日此十年の記念会に於て、文部大臣閣下並に文部次官其他各局課長を御招き致し、編纂会の委員及職員と共に此事を御報告申したいと思つて、清聴を涜した次第であります。
 此の如く維新史料編纂会は、実に維新の元勲の意見に基き 先帝陛下の御思召に依て出来たものであります、就ては何卒之を完成致したいと存じて吾々も職員も孜々として努めて居る次第であります、申す迄もないことでありますが、若し維新の歴史が「スペンサー」の言ふ如くに編纂が出来て欧文に翻訳になり、世界に示さるゝに至つたならば、必ずや日本の国威は益々輝くでありませう、なぜなれば維新と云ふものは、我日本帝国の国運が隆盛に向ひ、且つ世界的に日本が発展した一紀元であります、若し王政維新がなかつたならば廃藩置県は出来ない、維新がなかつたならば憲法制定も出来ない、勿論国会開設も出来なければ国民が大政に参与する根源も開かれない、又我帝国が日清・日露の大戦に於て世界に国威を発揚することも覚束ない、我国が昔の儘に三百諸侯に別れて割拠して居つたならば、如何にして挙国一致の戦争が出来るでありませうか、又国民が挙て熱望したる条約改正の如きも無論出来ない、而して今日欧羅巴戦争に於て世界五大強国の一つに日本が入つたのも、王政維新がなければ出来なかつたでありませう、故に先づ維新の史料を蒐集し、追つては之を編纂して維新史を書くことは、実に日本の国家として最も緊要なる事業であると私は確信するのであります、加之我が明治維新の鴻業は、 先帝陛下の御威徳と当時の功臣の輔翼とに成就したのであつて、是は日本の歴史あつて以来未曾有の大事業であります、此大事業たるや独り日本の誉れのみならず、実に世界の光と謂つても私は過言でないと信ずるのであります。
 斯の如き次第でありますから、どうか維新史料蒐集の後は、然るべ
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き方法を以て維新史の編纂に直に著手あらんことを切望するのであります、本夕は幸に文部大臣閣下を首め文部当局の方々の御来臨を辱うし、又委員諸君も打揃ふて御来会でありますから、以上の沿革を御報告申して御参考に供した次第であります。〔拍手起る〕



〔参考〕諸挨拶状綴(二) 【御蔭を以て無事独・英・蘭の仕事を一旦済し、来る廿六日サウザンプトン発渡米致します…】(DK480017k-0023)
第48巻 p.61-62 ページ画像

諸挨拶状綴(二)            (渋沢子爵家所蔵)
御蔭を以て無事独・英・蘭の仕事を一旦済し、来る廿六日サウザンプトン発渡米致します、子爵閣下の御無事を祈り上ます(新年の賀電誠ニ難有存上候)
  二月十九日          和蘭海牙にて
                      藤井甚太郎
    渋沢事務所御中
                     (ゴム印)
                     昭和六年三月拾日
   ○右ハ絵葉書ニ認メラレタルモノニテ、SRAVENHAGA-STATION H.S.M. 20 Ⅱ 21, 1931ノ消印アリ。
謹啓 本日夕当地出発桑港に向ふべく、欧米在留終了仕り候につきては、在外中の御厚情に対し乍寸楮御挨拶申上候
  三月二十三日
                      藤井甚太郎
    事務所各位御中
   ○右ハ渋沢事務所白石喜太郎宛絵葉書ニ認メラレタルノモノニテBOSTON MASS B MAR 23, 1931ノ消印アリ。
昭和六年四月七日入手之電報
   東京丸ノ内
    渋沢子爵
御機嫌如何○無事
                    秩父丸ニテ
                       藤井
(別筆)
    返電案
貴電拝謝変りなし、御無事の御航海をいのる
                       渋沢
   秩父丸船客
    藤井甚太郎殿
  昭和六年四月七日右案ノ通リ返電済
註、秩父丸去三月廿五日桑港発、四月十六日横浜入港ノ予定

(印刷物)
謹啓 時下益々御清穆奉賀候、陳者私儀昨年二月神戸解纜明治維新史料蒐集の為め英・独・蘭及米国に在留罷在候処、今日横浜着帰朝仕り候、在外中は万事欠礼仕り候段偏に御寛恕願上候
 在外明治維新史料は其重要なるもののみにても予期以上多数有之、
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諸国官府並諸学者の好意を受け候も、私の微力と一歳に満たざる在留にては到底その半をも収録する能はざりし事遺憾の極に御座候間他日再航を期し居申候 敬具
              横浜埠頭秩父丸にて
  昭和六年四月十六日          藤井甚太郎
                      本郷区東片町三〇
   ○月日ノ数字手書。