デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

6章 学術及ビ其他ノ文化事業
4節 編纂事業
17款 栄一ノ序文・跋文 1. 一般図書ノ部
○本章本節中ノ款項目トシテ収録セル図書又ハパンフレツトニ掲載サレタル栄一ノ序文・題言ハ省略ス。
■綱文

第48巻 p.145-165(DK480051k) ページ画像

明治42年――昭和6年(1909-1931年)

栄一、コノ期間ニ各種ノ著書ニ寄セタル序文・跋文三十余篇ニ及ブ。


■資料

産業政策 加藤政之助著 序・第一―三頁明治四二年九月刊 【序 青淵 渋沢栄一識】(DK480051k-0001)
第48巻 p.145 ページ画像

産業政策 加藤政之助著  序・第一―三頁明治四二年九月刊
    序
我邦生産の事業は、維新以降政府の鼓舞作興と国民の発奮精励とを以て蒸々日騰の勢を為し、新産荐りに起り、旧業亦改良せしもの枚挙に遑あらず、但其間内外の戦役に遭ひ或は経済の情態に因り時に消長ありしといへども、其大勢年に進歩の功を奏し、殊に三十七八年戦役の結果は更に一躍して以て今日の拡張に至れり、然れども其事業の情態固より一ならざるが為めに、駸々益進むものあり、萎靡振はざるものあり、中止倒帳するものあり、是れ苟も憂国の情あるもの坐視傍観するに忍びざる所、宜しく扶掖匡済に努力し其全能を尽さゞるべからず此時に当り加藤政之助君慨然一書を著はし題して産業政策と曰ふ、携へ来りて余に序を請はる、乃ち披て之を看るに、地理・政体・教育・戸口・税法・農業・貧富・生産・貿易・鉄道等十余篇と為し其利害得失を指摘して能く肯綮に当り、而して施設の方策を論述する所摯実にして浮夸ならず、言々句々皆憂国の丹心より吐露せしものにあらざるなし、其要国家主義を以て生産を振興し学理実際の調和を計り、貧富乖離の弊害を防ぎ以て国運隆盛の大計を確立するに在り、余以為く斯書は則為政者に対するの警報にして国民に対するの忠告なり、故に若し能く此警報に鑑みて未雨の綢繆に惰らず、此忠告に拠りて取捨長短其宜しきを得ば庶幾くは国家に裨補する所蓋尠少ならざるべし、因て巻端に弁すると云爾
  明治己酉梅雨初霽日 兜町之書室に於て
                   青淵 渋沢栄一識


愛子教養父の書簡 蘆川忠雄著 序・第一―五頁明治四三年三月刊 【青淵老生識】(DK480051k-0002)
第48巻 p.145-146 ページ画像

愛子教養父の書簡 蘆川忠雄著  序・第一―五頁明治四三年三月刊
古の学問は科目少くして専ら徳育を主とし、且其師の人格を崇尚し苟も其門に学ふ者は師弟の義厳乎として君臣父子と等しく、是を以て師弟の間意気相通して弟子能く師の精神を学ひて以て品性の修養に資け益々進ミて益々堅し、今の学問は科目多くして重きを智育に置き、一弟子数師に学ひ師弟の情自から薄く、其精神修養の如きも之を其師に得やすからさる者あり、此時に当りその闕を補ふへきものは父兄の訓誠の如き家庭の講話の如き、能く学科以外に於て功を奏すへしといへ
 - 第48巻 p.146 -ページ画像 
とも、父兄必しも皆賢良にあらす家庭必しも悉く善範を有せす、之を陶治薫化するの方実に今日の急務なりとす、蘆川忠雄君此に観るありて英国の名士チエスターフヰルド卿が其愛子に与へし数十通の柬牘に基つき、換骨脱体以て一書を作り題して父の書簡と曰ふ、其意蓋し精神修養の誘導に切実にして、能く彼を仮りて我と為し、措辞用語都て我か人情に近からしめ、読者をして殊に感奮せしめむと欲するに在り其用意の深きチエスターフヰルド卿の愛子を教訓するの深きに譲らすして其功更に大なりといふへし、因て余は平生の所感を述へ併せて斯著の刊行を賛すと云爾
  明治庚戌二月 曖依村荘に於て
                  青淵老生識 


(渡米実業団) 紀念写真帖 同団残務整理委員編 明治四三年五月刊 【青淵 渋沢栄一識】(DK480051k-0003)
第48巻 p.146 ページ画像

(渡米実業団) 紀念写真帖 同団残務整理委員編
                      明治四三年五月刊
渡米実業の旅程は合衆国を横断して九旬を径過し、航海の日子を合せ実に四閲月、其間団員一家族の如く能く約束を守り体面を重むし、以て観風察俗の実を全ふするを得たり、玆に解団に当り団員及ひ同行米国委員の小照を蒐集し、石印に付して此帖を作る、是れ啻に今日の記念のみならす、他年剪灯話旧の好下物たらむ乎、因て一言を述へて帖首に弁すと云爾
  明治四十二年十二月           青淵 渋沢栄一識
                           


国富卜農業 ジェームス・ヒル著 一九〇九年刊 【緒言 青淵老生識】(DK480051k-0004)
第48巻 p.146-147 ページ画像

国富ト農業 ジェームス・ヒル著  一九〇九年刊
    緒言
再昨年の夏、井上侯爵其反訳せしめられたる米国大北鉄道会社長《(太)》ジヱームス・ヒル氏著の合衆国の将来と題する一冊子を恵まる、是れ其国家経済に関し大に見るへき価値あるか為めなりし、のち一読を試ミて頗る玩味すへき論旨なるを信し併て其人を懐想せり、而して昨年の秋実業団一行の渡米に当り、料らすセントポール市に於てヒル氏に会ひ夕飧を共にして親しく其談話を聴き、識見の高遠にして言辞の切実なるによりて益々其為人を敬慕せり、去て紐育に至りて同氏より来翰あり、曰く此書状に添へたる演説筆記は頃日市俄古市銀行者の依頼に応して其銀行集会所第卅五回年会に於て演説せしものなりと、因て旅行の途次其概要の訳を一覧し、間日更に之を詳訳せしめて富国と農業と題し仔細にこれを閲するに至り乃ち知る、此の真意は農業を以て経国の大本と為し、近年米国の民情犂鋤を棄てゝ都市に衣食するもの漸く多きを加へ、農業の衰耗年に加はるに徴して甚しく将来を憂慮し、之を挽回して物業の基礎を鞏固ならしめむと欲するに在るを、蓋しヒル氏は青年より身を工業界に起し幾多の閲歴を経て今日の位地に至れるなりと、是を以て其着意の真摯にして考徴の確実なる固より机上の空論と日を同ふして談るへからす、夫れ商工建国を以て自ら居り利器の発明人口の省略弥々出て弥々巧に、採鉱冶金の術精妙にして益々豊富なる物貨販鬻の業利便にして愈々盛大なる北米の中枢に在て超然一見
 - 第48巻 p.147 -ページ画像 
地を抜きて滔々たる大勢に反し、東洋古昔の農政本位を崇尚し、動植の生産力を永遠に保護培養して商工偏重の現状を匡正せむと欲するもの実に空谷跫音の情なくむはあらす、顧ふに我邦は振古農を以て国を立て田制耕法に於ては世界に誇るへきものなしとせす、然るに近年の趨勢に顧れは亦氏の論説に鑑ミ他山の石を以て之を待たさるへからさるものあり、故に余は数千里外此知己を得たるを喜ひ前後の訳書を印刷して之を知友に頒つに当り、聊か来由を叙して以て緒言と為す
  明治四十三年二月 曖依村荘に於て
                   青淵老生識


勤倹の教訓 カーネギー著山崎梅処抄訳 序・第一―八頁明治四三年九月刊(DK480051k-0005)
第48巻 p.147 ページ画像

勤倹の教訓 カーネギー著山崎梅処抄訳  序・第一―八頁明治四三年九月刊
余再遊于北米毎遊与俊傑相会或談論世務或討議事理而見其気象之雄智慮之贍乃知其国力強健文物鬱蒸雄飛世界者由来俊傑輩出各縦其才質也豈不欽羨乎而以不与加氏相見為憾焉耳間者山崎俊彦氏来示其所訳加氏勤倹之教訓乞序於余即喜而一読焉其理想之卓犖論旨之正大縦横数百言悉得余心者可謂未逢之知己矣加氏生于蘇格蘭家道衰落移住北米為紡績工夫又為電信走丁旁刻苦修電信技術抜擢技師転為鉄道会社主簿已而察鉄材之用将興乃開製鉄之業遂致鉅富云而理財治産之道超然与常人異之其意以為我致富也在乎上順天命下尽人事耳冝還施用其財産於国家以全人生大義也是以竭力於精神修養設置博物館図書館于各都市与物質教育相待以貢献国家其志業之深遠可不畏敬哉子貢所謂博施於民能済衆加氏自克済之仁乎聖乎余欲見其功徳益進充塞乎覆載之間也於戯偉哉仍書所感以為序
  明治庚戌八月
                  渋沢栄一撰並書
                       


渡米実業団誌 同団残務整理委員編 付録・第一―二頁明治四三年一〇月刊 【ビツトル代将日本訪問記に題す 青淵老生識】(DK480051k-0006)
第48巻 p.147-148 ページ画像

渡米実業団誌 同団残務整理委員編  付録・第一―二頁明治四三年一〇月刊
    ビツトル代将日本訪問記に題す
我実業団の一行ボストン府に到るの翌日、日曜なるを以て、中野氏、ローマン氏等と共に汽車に搭じ、二時間にて軍港ニユー・ポールトに抵り、故水師提督彼理の墓を奠る。蓋し五十六年前我邦に来り、開国の端緒を啓きたるの功績あるが故なり、是日寒雨蕭々として、懐古の情転た切なり。奠墓畢りて同軍港長官の官舎を訪ふ。長官其夫人と共に喜び迎へて、各室の装具を観せしめ、愛客の意を表す。壁上に古式風帆軍艦図の扁額を掲く。夫人指して云ふ、是れ彼理提督以前に渡日せし軍艦なりと。因て憶ふに、弘化三年米船浦賀に来り、互市を乞ふあり、当時廟議外交を許さゞりしを以て、直に其の請求を斥けたるなり。而して今此軍港に於て、料らず其軍艦の図を見る、今昔の感殊に深し、乃ち此処を辞し、一腔の詩思を載せてボストン府に廻る、翌夜一個の老軍人余が旅宿に来訪して面謁を求む、接待部員余の為めに旅中接客の煩を省かむとして、答ふるに面会を謝絶するを以てす。老軍人沸然として曰く、渋沢団長は昨日彼理の墓を弔ぜしにあらずや。余は彼理より六年前渡日せしものなり。塚中枯骨の彼理を礼し、現在生
 - 第48巻 p.148 -ページ画像 
存の余を見ずして可ならむやと、余之を聴き延て面会す。老軍人名はエス・ビー・ルースと曰ふ。今年齢八十二にして益々健全なりと。其江戸湾に入り、地方の官吏と応接し、企望を達せずして去りし顛末より、我が山紫水明の美を賞し、翻つて今日彼我親交の情況に及び、唔談縷々として罄きずといへども、畢竟当時見習士官たりしものゝ見聞談なるを以て、史蹟を補ふべき重要なる事を認むる能はず。但其志気大に賞すべく、其閲歴殊に観るべきものあるを以て、互に奇遇を喜びて相別れしが越へて数日、当年の日記なりとて此冊子を寄せらる。嗚呼前日は長官々舎の壁上に於て、其軍艦の図を一見し次て其軍艦に坐乗せし一老軍人に逢ひ、今又其日記を見るに至りて、六十年前浦賀港頭の情景、忽ち眼前に髣髴たるを覚ゆるなり。依て之が抄訳を水野氏に托して、団誌の巻末に附すと云爾
  明治四十三年二月          青淵老生識


世界富豪伝 北村台水著 序・第一―二頁明治四四年四月刊 【序 渋沢栄一】(DK480051k-0007)
第48巻 p.148 ページ画像

世界富豪伝 北村台水著  序・第一―二頁明治四四年四月刊
    序
高田慎吾君、其友人北村台水氏の為めに其著世界富豪伝に序するを乞はる。余は其著者に一面の識なく、亦其著書を一見せず。然れども其意旨を聴くに、凡そ富を致すものにして一代の俊傑と尊重せらるゝも匹夫を以て賤視せらるゝも、畢竟心術の如何に在りて、徒手巨富を致したるものは必ず常人に勝れたるの精力あるが故に、其立身談は世の求富者をして感奮興起せしむるに足るべしと云ふに在り。余其着眼の切実にして社会に有効なるべきを信ず。蓋し社会は猶山の如し。夫れ山は一拳石の多きなるも、其広大なるに及びては草木之に生じ、禽獣之に居る。故に凌霄の松柏は以て棟梁と為し、屈曲の樗櫪は以て薪料と為し、牛馬は騎輓に用ひ、豺狼は皮角を取る。物として利用厚生の具ならざるなし。社会の富に於るも其情態同一なるが如し。
果して然らば此書を見るもの、大人は大観し、小人は小観し、各以て為す所あらば、国家の発展を資するに於て、補益なしと謂ふべからず是れ余が辞せすして一言を述る所以なり。
  明治辛亥清明節識於兜巷之書堂
                      渋沢栄一


貯金談 荒木良造著 序・第一―二頁明治四五年二月刊 【序 青淵老人識】(DK480051k-0008)
第48巻 p.148-149 ページ画像

貯金談 荒木良造著  序・第一―二頁明治四五年二月刊
    序
 行旅には糧を裹まざるべからず、生活には金を貯へざるべからず。行旅に糧を欠かば、英雄豪傑も饑ゑざるなし。生活に金を欠かば、碩学高士も窮せざるを得ず。況や生活の崎嶇は、行旅の山川よりも艱難なるを以て、一朝天災に遭ひ、疾病に罹り、親戚朋友の困難に臨むが如き、金力にあらずして、其の急を済ふものなし。而して世人皆之れを知らざるにあらず。知るといへども、其の計を為さゞるは蓋し克己心の足らざる所なり。荒木良造氏此に慨ありて、貯金談を著し序を乞はる。之を一読するに、貯金の性質より、其の方法効力に至るまで数十章に分ち、極めて卑近の言を以て、信切丁寧に高遠の理を絮説す。
 - 第48巻 p.149 -ページ画像 
何人も一読して其意を了すべし、其意を了すれば、則ち実行するを得べし。実行するを得ば、則ち自から効果を収むべし。是に於てや、千里の行旅も饑ゑずして、其の地に到るべく、百年の生計も、安全に経過するを得べし。余甚だ著者の用意を嘉みし、之れを書して以て与ふと云ふ。
  明治辛亥冬日
                   青淵老人識


国民之教養 北原種忠著 序・第一―二頁明治四五年五月刊(DK480051k-0009)
第48巻 p.149 ページ画像

国民之教養 北原種忠著  序・第一―二頁明治四五年五月刊
    序
北原宣明君は憂国の士なり。方今思想界の日々に放縦に流るるを慨して皇道宣伝の今日に急なるを思ひ『国民之教養』と題する一書を著はして、経世の大策を建てんとす。其の主旨とする所は敬神・尊王・愛国を基礎とせる、通俗の教義を定めて、国民を導かんとするに在り、余はいまだ全篇を通読することを得ざれども、其の要を摘み、其の語る所を聴くに、論旨中正にして、理義亦た穏当なるものの如し。抑も敬神・尊王・愛国を以て、国民を教養せんとするは、先哲の既に唱道せる所にして、今世に所謂日本主義なるもの、亦た此れに外ならず。敬神といひ尊王といひ、将た愛国といふ。日本の国民誰か異議を挟むべき。唯能くこれを現代に施して、博く衆を済ふに至りては、其の計画施設に於て、深く思を致すべきことの多きなり。されば此の書に於ても、著者が最も苦心せるは、第六篇なる宣道の各章ならんか。余は著者が述べたる如く、各々其の抱持する所の信念に依りて、以て各種の事業に当らるることは、衷心よりこれを賛成すれども、其の方法に至りては尚ほ大に、熟慮を要すべきものあるを覚ふ。故に余は北原君の、此の挙に同情を表すると共に、併せて本書を世の憂国の志士に推薦して、斯道の為めに共同研究の端を、発かんことを希ふと云爾。
  明治四十五年五月立夏の節
                   男爵渋沢栄一識


済世之本義 ミユンステルベルヒ著樋口秀雄・岡本芳次郎訳 序・第七―九頁大正二年一月刊 【序 青淵老人識】(DK480051k-0010)
第48巻 p.149-150 ページ画像

済世之本義 ミユンステルベルヒ著樋口秀雄・岡本芳次郎訳  序・第七―九頁大正二年一月刊
    序
 科学の発達は文明の進歩を促し、文明の進歩は生存の競争を来たし貧富懸隔の極失意者不平者を生し、其生活難と相待つて、怨嗟反目遂に社会の平和を破り、上下の情意を分裂せしめむとす。憂国の士誰か将来に寒心せざらむや。抑も国運の隆盛は、独り其富実にのみ存せずして、上下一致鞏固なる精神の団結に俟たざるべからず。是に於て徳育と智育と並進聯馳して完全の域に達するを望むべきなり。然りと雖も、此の如きは為政者教育家の能く之を調理すべきものにして、余輩民間の業務に従事する者は須らく形而下の方法を以て形而上の修養を裨補し、社会改策に依りて其救治法を講ずるの外に、落伍者・貧困者の予防と救済とに力を致し、以て博愛の大義を尽さゞるべからず。欧米諸国に於ては、夙に老病孤独の救恤より防貧済窮の方法に注意し、国家の法律と公私団体の施設と相待つて其効果著しく挙れりと称する
 - 第48巻 p.150 -ページ画像 
も、猶且つ時に物議なき能はずといふ。我邦古来民風彼と其趣を異にし、救恤の事概ね家族内に於て之を為し、常に敦厚の美風に誇るものありといへども、輓近科学発達の新現象に対しては、宜しく未雨綢謬の計なくむば非ざるなり。曩に 先帝陛下の聖詔に基き済生会の創立せらるゝや、各地斯業の勃興を見るに至りしは、邦家の為めに慶賀すべきことなりと信ず。余は従来東京市養育院の事務を担任して微力を感化救済に致すこと玆に年ありといへども、未だ以て施設の完きと経営の宜きとを得がたきを憾とせしに、頃日樋口秀雄君「済生の本義」と題する一書を訳述せられ、携へ来りて序を乞はる。之を閲するに其引証の該博にして説明の親切なる、救済方法の参考として適当の好書たるを信ずると共に、余が平生見むと欲し聴かむと欲するもの、集めて一書の中に存す。真に座右の一良師を得たるの想あり。因て聊か感を述べ、併せて江湖に推薦すと云爾
  大正壬子臘月下浣
                  曖依村荘に於て
                    青淵老人識


武蔵武士渡辺世祐八代国治編 序大正二年四月刊 【武蔵武士序 青淵老人識】(DK480051k-0011)
第48巻 p.150-151 ページ画像

武蔵武士渡辺世祐八代国治編  序大正二年四月刊
    武蔵武士序
埼玉学生誘掖会は余輩埼玉県出身者相謀り県下の有力者を糺合して創立せしものにして、其目的とする所は都下に在学する青年の為めに寄宿舎を設けて其起臥寝食を共にし、互に志操を堅実にし脩学勉励して以て入徳の工夫に資すると倶に、本県旧時多数の諸侯ありて其領地犬牙交錯し、区々の余弊今猶存するものあるを一掃して大に県情を疏通せしめむとするに在り、爾来十余年を経て事業緒に就くといへとも尚進脩の道を講せさるへからす、是を以て曩に本会理事の協議を以て本県の古史に鑑ミて一書を著作し、其英雄豪傑を挙け学生をして崇尚私淑の念を起さしめ、并て奉公忠誠の心を修養せしめむと欲す
太古は邈たり得て考ふへからす、奈良朝に当り京畿中国の人多く廟堂に顕はれ、爾後藤原氏の権勢歴朝に充満し、其衰ふるに及ひて源平相争ひ、源氏の竜騰に際し本県より出てゝ天下に雄飛せしもの亦乏しからす、其子孫〓衍し基礎を関東に築きて鎌倉開府を見るにいたる、而して北条氏陪臣を以て国命を執るの日に於ても、尚武相を以て武人の冀北となす、所謂六十州の兵を以て武相両国に当るへからすとするもの豈其地理と歴史と相待て然らしむるものにあらすや、其後或は顕はれ或は隠れ、江戸幕府三百年の泰平に由りて復た武を用ゆるの機なく其後裔韜晦して農と為り工商となりて以て今日に至れるなり
本会理事斎藤阿具君嘗て斯書著作の事を担当せられ、文学士渡辺世祐八代国治二君に嘱して古記録を渉猟し、武蔵古武士の系譜伝記を抄録編纂し書成て武蔵武士と題し余に序を乞はる、受けて之を閲するに保元・平治以降武人党伐の沿革より荘園制度の変態に至るまて詳密に叙述して洩す所なく、而して其潜会黙移他日大小名の種族を生するに至るの蹤歴々として掌を指すか如し、其労多謝せさるへからす
夫れ本県の地たる八州の沃野に連り、遠く千仞の富岳を望ミ近く渺漫
 - 第48巻 p.151 -ページ画像 
たる刀根荒川を擁し、形勝雄大全国無比の地勢を占め以て大都の屏護に当る、宜なるかな明治中興江戸を以て東京となし新文明の淵源を開く、本県の人士たるもの空前の光栄に感し七百年前の祖先を慕ひ発奮興起して天恩の万一に報せさるへけむや、学生諸子幸に科学を以て其知能を啓発し斯書に依て其志気を作興し、武魂文才以て中興の新日本に処するを得は、庶幾くは七百年前の祖先に愧つる所なからむ乎
  大正癸丑一月大磯客舎に於て
                    青淵老人識
                       


蚕業経済論 加藤知正著 序・第一―三頁大正二年九月刊 【序 青淵老人識】(DK480051k-0012)
第48巻 p.151 ページ画像

蚕業経済論 加藤知正著  序・第一―三頁大正二年九月刊
    序
蚕業の国家経済に大功あることは敢て多言を要せざる処なり、而して本邦古来斯業を尚とび良蚕を養ひ良糸を製し、錦繍綾羅為めに絢爛の美を極む、明治中興に及び為政者の奨励と有志の努力と相待つて以て其進歩を促がし、個人単独を以て経営するもの、合本共資を以て工場を創設するもの各地に競争し、以て今日の盛大を見るに至れり、余は農家に生れ幼より養蚕に従事し、蚕種製糸の事に於ても聊か経験を有せしが故に、維新の初め官に就くに当り首として蚕業の改良を論じて富岡製糸場の創立に参画し、欧米の新器械を購入して模範工場を形成するを得たり、掛冠の後も銀行の営業上養蚕製糸の為め照斜する処亦少からざるなり、因て謂らく、余の一身は由来蚕業とは離るべからざるの因縁ありと
頃日加藤知正君蚕業経済論を著し余に序を乞はる、余居常繁務に処して余暇なしといへども既に離るべからざるの因縁ありとせば之に対して一言なかるべからず、乃ち之を閲するに其体裁たる章を分ち節を立て主義・性質・歴史より土地・資本・労力・桑葉増殖・飼養法・製糸業等に至るまで次を逐ひて論述し、引証正確、計数明晰、之を蚕業界の羅針盤と謂ふも不可なかるべし、蚕糸業家斯書に拠りて其計算を考量し、其得失を審査し、以て其不足を補へ欠点を改良せば、則ち生産の上に於て更に益する処尠少ならざるべし、余嘗て我邦現下の蚕業に就て二大急務あるを唱道せり、其一は新創の地に於ては多く桑田を開墾し勉めて其費用を節約して良繭を得るに在り、其二は従来の製糸家たるもの宜しく旧慣に安むせず益精工を加へ、無上の良糸を製出して以て海外の需に応ずるに在りと、料らざりき今此著書あるを見る、適ま以て余が意を得るものと謂ふべし、往時余は家眷の為に半世の経歴を説話し題して雨夜譚と曰ふ、而して其事蹟を概活《(括)》すれば農桑より身を起し爾来数変して後に民業に帰するもの、恰も蚕の四眠を了して繭を成すが如し、今此書に対して今昔の感なき能はず、因て之を贅し併せて以て序と為すと云
  大正癸丑清明節曖依村荘に於て
                    青淵老人識


埼玉学生誘掖会十年史 同会編 序大正三年一〇月刊 【序 青淵老人識】(DK480051k-0013)
第48巻 p.151-152 ページ画像

埼玉学生誘掖会十年史 同会編  序大正三年一〇月刊
 - 第48巻 p.152 -ページ画像 
    序 
明治三十四年辛丑三月、吾儕有志数名相謀りて埼玉学生誘掖会の創設を首倡し、其要旨を発表して義捐を勧募せしに、幸に諸同人の賛襄を得て、翌三十五年三月本会を設立せり、爾来着々施設する所ありて漸次効果を収め、玆に十週年の紀念誌を発刊するに至る、是れ本会自から挙くる所の考課状なりと謂ふへし
蓋し、本会の用は寄宿舎に在りといへとも、其精神は要義七条目に存す、而して七条目の主眼は教育勅語の聖旨を躬行するに在り、学生諸氏能く此精神を領知し切磨励行して闔県学生の模範と為り、地方淳朴の美風を鼓吹して本会設立の要旨に副へ、以て十年間の好成績を徴するを得たるは吾儕首倡者の歓喜措く能はさる所なり
夫れ年の義は進なり前なり、易に曰く寒暑相推して歳成焉と、然則年を累ぬるものは其事物に於て必す進前する所ありて、猶四時の功万物を化育するか如くならさるへからす、然らされは空年の責を負ふて天理に背くものと謂ふへし、本会幸に十年の考課を挙けて此紀念誌を発刊す、聊か以て愧る所なきに似たり、冀くは吾儕指導の任にあるものと学生諸氏と相待つて進前の理法に従ひ、本会の精神を一貫して十年を累ぬる毎に紀念誌を発刊すること寒暑相推して歳成焉か如く、新陳代謝終世窮極なからむことを、因て之を書して巻首に弁すと云爾
  大正甲寅十月
                  青淵老人識 


剣道 高野佐三郎著 序大正四年三月刊 【序 青淵老人識】(DK480051k-0014)
第48巻 p.152-153 ページ画像

剣道 高野佐三郎著  序大正四年三月刊
    序
明治維新の初廃刀の令出てたるより、世間撃剣を学ふ者一時殆と迹を絶ち剣道大に衰頽せしか、神州尚武の風凛乎として猶存するが故に、爾後剣道再興して柔術と共に更に教育の具となるに至れるは、余の快事とする所なり、古人言あり、文事あるもの必す武備ありと、方今文運隆昌の時に於て武備の振興豈之に伴はすして可ならむや、此時に当り高野佐三郎君剣道秘訣奥義の一書を著述せらるゝは実に津頭の舟筏と謂ふへし、蓋し技術なるものは粗より精に進ミ精より妙に至り妙より神に達す、既に神に達すれは則之を称して神通自在と云ふ、技術の徳亦貴ひ哉、聞くか如きは高野君の剣法は既に精妙の域を超越して神に達するものなりと、而して其子弟を教育する孜々として日夜倦ます尚且斯書を世に公にして秘訣奥義を広く人に示さむとするは、斯道に忠なりと云はさるへからす、余も亦幼より撃剣を好ミ竹木・木剣を以て養気の良友と為し大家の門に学ふことありしか、未た粗を脱するに至らすして郷を出て、褐を釈き簿書堆裏の人と為るを以て其技の精通に入る能はさりしは今尚赧然たらさるを得す、想ふに剣法は胆力を貴ふ故に技術の練習と共に胆力の修養を勉めさるへからす、縦令其技妙に至り神に達するも、奪ふへからさるの胆力なきに於ては其妙を発輝する能はさるへし、然り胆力ありといへとも其熟練の功なき者は、恐くは暴乕馮河に失せさるを得す、是に於て余は企望す、世の剣法を学ふ者宜しく其神に通するの技術を修め、之に加ふるに奪ふへからさる
 - 第48巻 p.153 -ページ画像 
の胆力を養成すへしと、今斯書を読むに当り平生の所感を書るして序と為す
    大正甲寅秋日函嶺小涌谷客舎に於て
                     青淵老人識


日米問題 シドニー・エル・ギューリツク著栗原基訳 序大正四年四月刊 【日米問題序 渋沢栄一識】(DK480051k-0015)
第48巻 p.153 ページ画像

日米問題 シドニー・エル・ギューリツク著栗原基訳  序大正四年四月刊
    日米問題序 
米国神学博士シドニー・ギユーリツク君は余と方外の交深く、殊に数年前一の協会を創立するに当り屡君と会談する所ありしか、其持論公平無私にして至誠一貫、常に不抜の信念あるにより、余は窃に以為く篤学達識の宗教家にして正義人道を重むするものにあらさるよりは、安そ能く此の如くなるを得む乎と、常に益友として君を推重せり
君は一昨年の夏病を以て帰国するに際し日米の国交に関して、深く感する所ありて其解決を以て自個の使命とせられ、爾来米国各地に於て演説に談話に拮据努力至らさる所なく、頃日更に又日米問題と題する一書を著はし世に公にせむと欲す、善ひかな其挙や、因て余は其稿本を一読するに、米国加州に起れる排日論に関する彼我の見解より説き起し、更に米国に於る東洋問題加州に於る日本人問題に論及し、両国民相互の観察に至るまて、或は歴史伝説に渉り或は事実に徴してこれを証明し、要は正義に基き人道を明かにして両国民の感情を融和し、其紛糾せる物議を具体的に解決せむと欲する衷情を披瀝したるものなり、此に至りて余は益す君の公亮平直に敬服せさるを得さるなり
顧ふに我邦は六十余年前米国の誘導に由りて長夜の眠を覚醒して開国通商の国是を定め、爾後両国の親善年と共に増進して以て今日に至りしか、不幸にして数年前より日米問題てふ文字の生するは、所謂白璧の微瑕なるを以て、両国の志士仁人能くこれを琢磨せは其痕跡を留めさるを得へし、蓋し米国と我邦とは建国の新古邦土の大小政体風俗等に至るまて相異するもの多しといへとも、米国人の寛弘にして博愛なる、日本人の質直にして義を好むは、是れ両国民固有の性情にして、共に正義人道を重むするに於ては一契を合するか如きもの、猶君と余と其境遇を殊にし其学問を同ふせさるも憂国の至情に至ては全く一致して相悖らさるか如くなるへし、冀くは君か精神遠く天に達して無声の声と相感応し、以て両国間に横はれる雲翳を払ふて彼の蒼の光明を見むことを、余嘗て聖書を読ミて義人は信仰に由て生くの語あるを記す、蓋し君か為に言ふものゝ如し、玆に所感を述へて序と為す
  大正乙卯三月
                   渋沢栄一識
                      


大正の東京と江戸 青山邦三著 序・第一―二頁大正五年一月刊 【序 男爵渋沢栄一】(DK480051k-0016)
第48巻 p.153-154 ページ画像

大正の東京と江戸 青山邦三著  序・第一―二頁大正五年一月刊
    序
 東京は我が帝国の首府にして方四里の境域を算し、弐百余万の人口を包容し、家屋櫛比一千の街衢を有するの大都たり。
 奠都僅かに五十年、日素より浅しと雖も、開明の機運は膨湃として
 - 第48巻 p.154 -ページ画像 
之れが施設を動かし、交通機関の発達、商工業の進歩、倶に驚くべきの勢を呈せり。而して封建の遺跡は、今尚ほ各所に点在して、光景雅致、掬すべきもの少からず。
 蓋し東京は新都たると同時に、三百年の旧府たり、新文明の生産地たると同時に旧趣味の提供者たり、新旧併せ得て、其の真相を知らんと欲せば、唯だ完全なる案内書に俟たざるべからず。
 想ふに編者の意も亦此の要求を満たすに外ならじ。是を以て余は本書の刊行を賛して一言を序す。
  大正四年十一月
                  男爵渋沢栄一


仏蘭西の銀行及金融 豊崎善之助著 序・第一―三頁大正五年二月刊 【序 青淵老人識】(DK480051k-0017)
第48巻 p.154 ページ画像

仏蘭西の銀行及金融 豊崎善之助著  序・第一―三頁大正五年二月刊
    序
 国家に金融機関あるは猶人身に血液あるが如し、血液の循環宜しきを得れば身体活溌なるべく、身体活溌なれば精神亦強健なるべし、是の如くにして国家の隆盛期して待つべし、金融機関の任務実に重大なりと言ふべし
 豊崎善之介氏仏蘭西《(豊崎善之助)》の銀行及金融と題する一書を著はし余が序を乞はる、余其大略を窺ふに全体を十余章に分ち、各章又数節あり、緒論より起りて各種銀行の特性を叙し、其営業の順序、市場の景況に至るまで条分縷晣、人をして其境に入りて其物に接せしむるの感あらしむ殊に緒論に於て農業を説き、工業を論じ、商業を述べ、風俗習慣を写し、人口増減の統計を表はし、貨殖の手段放資の方法に及び、世界の金融機関として正に第二位に在るの情勢を詳にするに至りては、著者が査覈の緻密編次の明亮を致したるを見るべくして、我が銀行家をして大に鑑みしむべきの好書と謂ふを得べし
 余は五十年前仏都巴里に在りて、其銀行の営業公債発行の方法を目撃し、我国風と大に異なる所あるに驚き、帰朝の後遂に銀行を創立し金融機関を完備して、商工業の繁盛を籌りたるを回想せば、其驚きたる所の事物は皆我に於ても亦聊か観るべきものあるを覚ふ、今斯書を閲して実に昨非今是の歎なき能はざるなり、願くは我が銀行家諸君斯書に依りて彼の金融の淵源を探知し、其長を採りて我が短を補ひ益々進みて国家興富の大機関に任じ、他日豊崎氏によりて更に日本の銀行及金融と題する一書を著はし、欧米の銀行に従事する者をして吾人が今日斯書を見るの感あらしめむことを
  大正丙辰二月
                    青淵老人識


世界統御の力 成瀬仁蔵著 第三三頁大正六年一二月刊 【帰一協会有志の意見 男爵渋沢栄一】(DK480051k-0018)
第48巻 p.154-155 ページ画像

世界統御の力 成瀬仁蔵著  第三三頁大正六年一二月刊
    帰一協会員有志の意見
      ○
 国際道徳の振はざるや久し、正義人道は世界的の標語となりて各国の間に尊重せらるゝも、権力威勢を恣にして道徳を圧し、弱肉強食容易に其跡を絶たざるは国際間の通患ならずや。殊に今日の時局に当り
 - 第48巻 p.155 -ページ画像 
て、道徳意志の力弱く権力意志の跋扈するは、世界的大維新を祈るものゝ痛恨に堪へざる所なり。今次世界の大動乱は、各国の人心を動揺し社会の根抵を変革せずんば止まざるの概あり、従つて国際の関係益益錯綜を加ふるに至るべきは必至の情勢なりといふべし、而も窮すれば通ずるの天理は、こゝに旧面目を更めて新たなる生面を将来すべきこと、既に隠約の間に其徴候を認むるところなり。翻つて近時我邦人心の傾向を察するに、未だ世界的大動揺の危機に臨めるを覚らず、徒らに当面の利害に妄執して国家の前途を憂へざるもの多きに似たり、成瀬君深く慨する所あり「世界統御の力」を草し、疾呼して現代人心の弛廃を覚醒せんとす、論ずるところ剴切、慮るところ深遠、能く余等の言はんと欲する所を道破せり、以て世論を喚起し人心を振粛するの一端たるを得ん乎、是れ余の玆に一言を加へ、本書を天下同憂の士に分つ所以なり。
                  男爵渋沢栄一


白国の義戦 町田梓楼著 序・第二七―二九頁大正七年一一月刊 【序 青淵渋沢栄一識】(DK480051k-0019)
第48巻 p.155 ページ画像

白国の義戦 町田梓楼著  序・第二七―二九頁大正七年一一月刊
    序
 既往五年に亘れる西欧の大戦は幾多の生命と物質とを惨害蕩尽し余焔全世界を覆ふに至れるも、其原独帝の侵略主義に因すとせば、東洋古聖の所謂一人貪戻一国作乱の語の我を欺かざるを知るを得べし、開戦以来聯合軍の勇戦奮闘能く敵軍の強暴を禦ぎ、殊に米国の大兵参加してより攻守其勢を転じ、輓近同盟軍力竭きて和を請ふに至れるは実に天定まりて人に勝つものといふべきも、要するに其始め独軍の濶歩白耳義を通過せむとするに当り、白帝断然之を斥け殉義の精英を尽して狂瀾の倒勢を防禦せしが為にして、拒戦三週に過ぎずと雖も其功実に偉大なりと謂はざるべからず、蓋し衆寡敵せず敗戦を予知して尚奮起干戈を執りしは、真に義を重むずる武士道の精華と称すべくして、白帝の軍国議会に於る勅諭の如きは其壮烈鬼神を泣かしむるの概あり是に於て余は白耳義の国情に対して感慨禁ずる能はず、坐ろに旧時を追懐せざるを得ざるなり、五十余年前余は徳川民部公子に随行して白国の首府に遊び先帝に拝謁せし際、帝が公子に対して国家の富強は其国鉄業の進歩に因するの理を諄々として訓示せらるゝを聞きて其説の新奇なるに傾聴し、其言今尚耳底に存して忘るゝ能はざる所なり、宜なる哉白耳義は富国を以て欧洲の一方に拠り、一旦有事に臨み正義に仗りて百難を省みず終始其節を変ぜざるは、誰か其正義の凛然たるを瞻望せざるものあらむや、想ふに名節の人道に於て重きを為す固より其成敗を以て論すべからず、我が楠廷尉の湊川の如き千古日月と其明を同うす、嗚呼白国の行動の如き俯仰天地に愧ぢざるものと謂ふべし頃日『白国の義戦』将に梓に上らむとして序を余に請はる、因て平生の所感を書して之が需に応ず
  大正戊午十一月
                 青淵渋沢栄一識


埼玉県人物誌 加藤三吾著 序大正一〇年一〇月刊 【埼玉県人文志序 青淵渋沢栄一識】(DK480051k-0020)
第48巻 p.155-156 ページ画像

埼玉県人物誌 加藤三吾著  序大正一〇年一〇月刊
 - 第48巻 p.156 -ページ画像 
    埼玉県人物志序
今を距る九年前、我が埼玉学生誘掖会は県下人士の精神修養に資せむが為めに、鎌倉開府前後に於ける武蔵一国に蕃衍せる武門諸党の史伝を編成し、武蔵武士と題して之を刊行せり、是れ敢て祖先の勇武を誇張せむが為にあらず、頼りて以て古武士の其勇敢義烈君父あるを知りて自己あるを知らさるの気象を描出して、以て今の各郡村の小中学校の子弟か動もすれは知育に偏して質実敦厚の風を欠き、軽薄浮夸祖先奉公の遺風を諼れ利己逸楽に流るゝを慨し、聊か以て之か匡正に資せむとするの微衷に外ならさりしなり、武蔵武士発刊の後、本会亦以為く、既に武人の史伝を詳悉したり、更に一歩を進めて武蔵の史乗を調査し其古跡と人物とに論なく、苟も名教文化に資するものは宜しく之を網羅し、其伝記を討覈して摸楷を県郡の子弟に示すべしと、是を以て其編纂を加藤三吾氏に属し、其書を名けて埼玉県人物志といふ、抑も慎終追遠は人の履行すべき善事なり、吾儕先づ其端緒を開き敢て先覚者を自任して天職を尽すに於ては、今後の青年諸氏も亦其蹤を尋ね其志を紹きて年と共に完備するに至らむ、果して然らば質実敦厚の美徳祖先奉公の遺風も期せずして興隆するを得む乎、頃日加藤氏来りて稿成るを告け余の序を求む、乃ち一言を巻首に弁し前に刊行したる武蔵武士と相待つて文化の推移を知悉せしめ、併せて武蔵国民の士気の振作に資せむことを庶幾すと 云爾
  大正九年庚申八月          青淵渋沢栄一識
                        


貧か富か 安達憲忠著 序大正一一年七月刊 【序 青淵渋沢栄一識】(DK480051k-0021)
第48巻 p.156-157 ページ画像

貧か富か 安達憲忠著  序大正一一年七月刊
    序
人生貧富の差別あるは古往今来其情一なるが如しと雖も、輓近経済組織の急変するに従ひ其差別も亦将に甚しきに至らむとす、是れ現今世界の大勢にして社会生活上の一大暗礁なりと謂はさるへからす
是を以て世の識者は挙て貧富の問題を以て之れが源委の討索に勉め、其救済策を講究して縦論横説枚挙に遑あらすといへとも、或は理想に偏して要点を直視せす、或は外縁を主として内因を顧ミさるは余の遺憾とする所なり
頃日安達憲忠君来りて其著「貧か富か」の一書を示して序を乞はる、之を見るに論旨周到にして能く其経綸を述へ、殊に貧困の原因を利己心理に求めて怠惰・飲酒・射倖等の副因に及ひ、社会の悪風、公徳の頽廃、都市集中の弊害等を挙けて之を匡救するの方法を説く、其識見卓然として引証該博能く実際に透徹す、而して憂世の至情字句の上に躍如たり、余乃ち案を拍て曰く、是れあるかな斯人にして斯著ありと蓋し君は明治二十四年余が院長の職にある東京市養育院の幹事となり済貧恤窮の実務に膺り献替するもの玆に廿九年、其間能く貧困の実状を研究して其救治の法を講し、時に或は余と討論審議して深夜に至ることも少なからさりき、去年病を以て閑地に就くといへとも、其深憂猶未た往時に減せす遂に多年の蘊蓄を披瀝して此好著を成す、所謂地に擲ては当に金声を作すものなり、夫れ貧富の権衡は識者の潜心考慮
 - 第48巻 p.157 -ページ画像 
する所にして、世進ミ事繁きに至りて其標的弥々遠隔す、能く其体を群にして用を講せされは、恰も測量せすして航海するか如し、之を危険視せさる者は無知なり、知りて其施為を抛擲するものは不仁なりと謂ふへし、冀くは世人斯著に依りて貧富の真相を明かにし、貧者は自ら勤めて貧を征服し、富者は自ら抑損し博愛以て富の効用に勉め、相共に道徳の生活を尚ひ社会の平和を増進して人生の帰趨を愆らさらむことを、之を序と為す
  大正十一年九月
                 青淵渋沢栄一識
                      


宗教と実業 ロージャー・ダブリュー・バブソン著松崎半三郎訳 序・第一―四頁大正一三年一一月刊 【序 渋沢栄一識】(DK480051k-0022)
第48巻 p.157 ページ画像

宗教と実業 ロージャー・ダブリュー・バブソン著松崎半三郎訳
                    序・第一―四頁大正一三年一一月刊
    序
 老生は多年論語を処世訓とし、坐右の銘として今日に至つた。之は論語が実践道徳として最も適当した教訓であるからである。世間には道徳と実業とは全く相反するものゝ様に誤解してゐる人もあるが、決して矛盾するものではなく、却つて道徳を根幹として進まなければ、真の大成は期し得られぬのである。
 辱知松崎半三郎氏は、知行合一を主義とさるゝ実業界の新人にして常に老生の持説に共鳴し、共存共栄を本領として事業を経営して居られるが、其平素の主張と合致する処ありとし、忙中筆を執りてバブソン統計協会々長ロージヤー・バブソン氏の原著「宗教と実業」を邦訳し、今回之を上梓さるゝに当り、老生に示して序を請はる。仍て一読するに、老生平素の主張と共通する点多く、且行文流麗にして、実業家としての松崎氏の半面に、斯の如き文才あるを始めて知り、大に意外に感じた次第である。
 蓋し本書は、宗教と実業との関係を論じ、実業家に宗教観念の大に必要なる事を力説せる論文にして、幾多の例証を挙げて之を詳述しありて、東西国情を異にすと雖も、学ふ可き点が頗る多い。読者にして之を能く味ふに於ては、其の得る処決して尠くあるまい。殊に挙世滔滔として利に趨るの時本書の如きは、最も時期に適したる好著として推称するに足ると信ずる。故に、老生は玆に此書の上梓を欣び、一言以て序と為す。
  大正十三年八月
                 伊香保に於て
                    渋沢栄一識


我が赤裸々記 野依秀一著 序・第一頁大正一四年一月刊 【(序)野依氏に名古屋まで引張り出された 子爵渋沢栄一】(DK480051k-0023)
第48巻 p.157-158 ページ画像

我が赤裸々記 野依秀一著  序・第一頁大正一四年一月刊
    (序)野依氏に名古屋まで引張り出された
                   子爵渋沢栄一
 私は野依氏とは因縁甚だ浅くないのである。氏が二十五歳の時、私は名古屋まで「実業之世界読者大会」に引張り出されたやうな訳である。それ以来今日に至るまで交際してゐるが真実ごまかしをしない誠
 - 第48巻 p.158 -ページ画像 
実な人物であると信ずる。世間の一部で誤解してゐるやうなわるい人間ではない。野依氏は誠実の外に知慧と勇気がある。これはこうなるあれはあゝなるといふ野依氏の意見は殆んど間違ひはなかつたと思つてゐる。そして思ふ事を遠慮なく言ひもすれば実行もする所に長所がある。そして頭が頗る良くて何事に関しても理解力と徹底した判断力を持つて居る。しかも氏が世人の誤解を招致するのは、早口で自己の思ふ所を口をついて喋つて行くものだから、その言語中の強い響きの悪い言葉のみが相手に印象されて誤解をされるのだらうと思ふ。此頃はあの早口が少々なほつたやうだが、氏が今少しく落ち着いて話すやうになつたら、多くの人が野依氏を正解し敬愛するやうになるだらうと思ふ。
  大正十三年十二月


第一銀行五十年小史 同行編 序大正一五年八月刊 【青淵渋沢栄一識】(DK480051k-0024)
第48巻 p.158-159 ページ画像

第一銀行五十年小史 同行編  序大正一五年八月刊
第一銀行五十年小史編纂成るを告げ頭取佐々木勇之助君其稿本を携へ来りて余の題言を請はる、依て之を披閲するに本行創立以来今日に至るまでの経歴を略述し、要を提し玄を鉤し、首尾聯貫して其経営の跡を叙すること恰も一幅の縮図を見るが如し、余は之に対して実に無限の感想を喚起せざるを得ざるなり
抑も明治の維新は独り政態の変革のミならずして、凡そ文武の庶政悉く改正せざるなく、中に就て経済の方面には特に力を竭され、明治五年の冬早く已に貨紙幣流通の制度を設けて、銀行条例を制定頒布したり、是を以て本行の発起人は直に其旨を体して銀行の創立に著手し、翌六年六月に至りて開業免状を得、新たに店舗を設置して営業を開始し、種々の障碍に遭遇したるも、幸に財政の改進と経済の発展とに依り、銀行の業務も亦穏健なる拡張を遂げて枢要なる一金融機関となるを得たる五十余年の径路、歴々小史の紙上に顕如たり、故に創立の当初より細大の業務を担当したる余としては、半世紀の往事を回想して喜悲交々至るを覚ゆるなり
試に一比喩を以て径歴の跡を評せむに、爰に一青年あり、其年少気鋭に駆られて未見の名山大川跋渉の挙を企て、時に生路を履ミ草莱を披き幾多の危険に遭遇して其行を了したる後、其行程の記事を読ミて彼の峻嶺を超へ大川を渉りし畏怖の追憶を存するも、寧ロ浦上月を賦し渓間花に詠するの感興に其情緒を慰籍するものあらむ、況や自己新創の希望を達して併せて社会の公益を増すものあるに於ておや、是れ実に世事進展の径路にして経世家の宜く注意すべきものとす、果して然らば此小史は単に一銀行営業の沿革を叙したるものなるも、亦以て国家の進運に裨補なしと言ふへからざるなり
佐々木頭取は小史の緒言に於て、第一銀行今日の隆昌を以て余の功績なりとせらるゝも、余は決して之を受くる能はさるなり、蓋し当時に於る余の心事は縦令理財上の才学寡しと雖も、一念本邦の経済発展に尽瘁せむとするの宿望を第一銀行に因依して果し得たるものにして、露骨に之を直言すれば他人の力に借りて自己の経験を遂けたるなり
然りと雖も今にして之を観れば、余は本銀行の創業者たるの名誉と責
 - 第48巻 p.159 -ページ画像 
任とを甘諾せざるべからず、凡そ事を創むる固より易からざるも、能く之を承継し時勢に応じて善処するの更に難事たるを思はゞ、余は本銀行の将来に付て深く後進者に嘱望せざるべからざるものあり、然り而して要は其の人の博識宏才にあらずして、一片の忠誠勤勉事に当るにありと言ふを得べし
惟ふに五十年の歳月は天地の悠久なるに比すれば寸陰の経過なりと雖も、翻て銀行創立の当時を回顧すれば国運の発展事物の増進真に驚くべきものありて今昔の感亦禁する能はざるなり、之を序と為す
  大正丙寅六月
                 青淵渋沢栄一識
                     時年八十又七


落語全集 上昭和四年一〇月刊 【落語の用 子爵渋沢栄一】(DK480051k-0025)
第48巻 p.159-160 ページ画像

落語全集  上昭和四年一〇月刊
    落語の用
                   子爵渋沢栄一
      ○
 近頃は社交の様子がすつかり変つて、一体に雑駁になるばかりで、妙趣といふものが無くなつて来たやうに思はれる。客を招ずるにしても、往時は徒らに談論し飲食するといふだけではなく、必らず講談師とか落語家とか、或は清元、義太夫などの芸人をよんで、これに余興を添へなければ、宴席の体をなさず、客に対して真情をつくした礼儀といふことは出来なかつたものである。
      ○
 予は青年時代から頽齢に至るまで、かやうな社交場裡で過ごして来たので何時頃からとはなく落語が好きになつて、随分いろいろのものを聴いてゐるので、主なものは大抵覚えてゐたものである。殊に三遊亭円朝が大の好きで、よく聴いた。円朝といふ人は、文学上の力があつたかどうかは知らないが、塩原太助、安中草三、牡丹灯籠などいふ自作の人情ばなしを演じて、非常に好評を博したものである。その話しぶりも実に上品で、他の落語家のやうに通り一遍のものでなく、自分自身が涙をながして話したくらゐで、従つて感銘も深かつた。
 それに、円朝は人間も出来てゐたし、人情の機微に通ずることも深く、お出入りの家庭の風儀など機敏にこれを視察し、巧みに調子を合はせてよく親しませるといふ風で、何処の家でも気に入られたやうである。
 前に外務大臣をしてゐた陸奥宗光伯も、大の円朝贔屓で、予と二人で上州の富岡の製糸場を視察に行つた時など、円朝を同伴したこともあつた。陸奥伯は至つて気むづかしい方で、随分無理難題をいつたものだが、円朝はよくその呼吸をのみこんで、工合よく機嫌をとつてゐたには、予もひそかに敬服したことであつた。円朝の如きは、落語によつて処世の妙諦に参したものといへるであらう。
 論語には『子は温にして厲し、威あつて猛からず、恭にして安し』とあつて、これは孔子の為人をいうたのである。温和の中にも犯すべからざるところあり、威あつて猛からす、慎しみ深うして而も窮屈で
 - 第48巻 p.160 -ページ画像 
ないといふのであるから、実に聖人の渾然たる人格が窺はれる。
      ○
 人にはいろいろの型があつて、とかく一方に偏しがちのものである中正を得た人物といふものは、まことに少い。人の世に立つて最も注意すべきは、たとひ、いかなる懇親の間にあつても、狎れて犯さないといふことである。まして懇親の仲でない一般の人に対しては、あくまで心身を端正に持して、相互に守るべきを守り、相犯さゞるやう心掛くべきである。
 しかし、人生いかに端正を尚ぶからというて、厳に過ぎて温和を欠く時は、やはり世に処して円滑なる交際を完うすることは出来ない。恩威ならび存し、寛厳よろしきを得て、初めて調和した人物となり、凡べての事業を円満に遂行し得るのである。吾人が聖人の道を学ぶといふのも、一つはこゝに存するのである。
 しかし、一般に聖人の道を学んで人格を修養するといつても、これは容易な業ではない。世には方便といふものがあつて、この方便によつておのづから修養を積むことも出来る。円朝は処世の妙諦を得てゐたというたが、この落語などは面白く聴いてゐながら、人物の修養上頗る効果が多いもので、誠に結構なものであると考へる。
      ○
 一つの話の中に、あらゆる世態人情の機微を穿ち、また奇智頓才の妙をつくしてゐるので、不知不識の間に腹を練り人格を円満にし、以て処世の妙諦を会得せしめると共に、交際の秘訣を理解することも出来る。殊に落語のさげといふものは、一つの話を締め括つて要領を得させ、しかも余韻嫋々として妙味尽るところを知らないものがある。単なる小咄のやうなものでも、味へばそこに尽きざる味ひが存するのである。
 円朝の話した小話の中に親子の聾といふ咄がある。親曰く『今あちらへ行つたのはあれは横町の源兵衛さんぢやないか』子の曰く『いいえ、あれは横町の源兵衛さんですよ』親曰く『さうか、わしは又横町の源兵衛さんだと思つた』たゞこれだけの咄である。親子の間に横町の源兵衛さんを三回繰り返して其発声と態度にてよく味へば、実に限りない妙味があるではないか。
      ○
 余韻のある処世、余情のある交際、これほど人生に於て大切なことはないのである。老生抔は滔々たる懸河の弁を弄するよりも、世人が此の落語に学ぶところ多からんことを希ふ次第である。


実業之世界 第二七巻第一号・第一一四―一一五頁昭和五年一月一日 渋沢子爵序して曰く(野依秀市著「生ける処世術」序文) 子爵渋沢栄一(DK480051k-0026)
第48巻 p.160-161 ページ画像

実業之世界  第二七巻第一号・第一一四―一一五頁昭和五年一月一日
    渋沢子爵序して曰く(野依秀市著「生ける処世術」序文)
                   子爵渋沢栄一
 野依君と私とは二十二三年の交際で、相共に許してゐる仲である。年齢こそ私が君の丁度倍に当り、又表面に現れた行き方に於ては相違する様に見える所があつても、根本の精神に於ては同一と云へよう。若しも私が操觚業者であつたならば、聊か違ふ意味で「野依式」にや
 - 第48巻 p.161 -ページ画像 
りはしなかつたかと思はれる位である。
 野依君の第一の特長は、正直で誠のある事である。世間には君を危険な人物のやうに考へてゐる向もあるとの事であるが、それは君の真骨頂を知らぬもので、あの位常識の発達した人は滅多にない。既に常識があつて正直がある、そこにドウして危険があらうか。
 成程君は、二回の下獄の憂目を見た。けれどもそれは、云はゞ一寸やり過ぎた迄の事で、危険と見るべき点は少しもない。見方に依つては、寧ろ正直の結果であると云へぬ事もなからう。
 然して君は、非常なる勇気の持主である上に正直であるから、嘘を云つた事がない、人の世にあつて嘘を云はぬ人程、危険性のない安心出来る人はあるまい。
 君は論客で、その筆鋒は却々峻烈辛辣である。それでハラハラするやうな所があるかと思ふと、仔細に味はつて見れば、結局は円満なる常識と智慧と明敏なる頭脳から出てゐるもので、その筆は何を論じても、尽く肯綮に当つてゐるのは、寧ろ不思議な位である。
 何様、何等の学歴なく腕一本脛一本で、努力又努力、奮闘を続ける君は、誠にその雅号不屈の名に恥ぢぬ不撓不屈の快男児である。既に快男児と云はるゝからには、そこに多少粗暴らしい所のあるのが普通であるが、君にはさう云ふ点が全然ないと迄は云はれぬかも知れぬが常識の発達と、それに君独特の愛嬌とに依つて打消され、如何にもイイ感じを与へる。苦労に苦労をし抜いて来た人であるが、ネヂケた気分は少しもなく真に天真爛漫であるかわりに、如何にも遣りつ放しのやうに見えて、実は却々緻密である。
 されば、君の処世上に於ける実験の告白などは、正に生き生きとしたもので決して机上の空論ではない。故に本書が如何に世の青年を裨益するかは、今さら言を俟たぬ所である。
 本書は題して「処世術」と云ふが、野依君は「術」を使ふ人間ではなく、正々堂々大手を振つて世に処し、よく今日の地位を築き得た人である。私は、野依君程に奮闘努力して行けば、いつの世にでも処世難、生活難、就職難などはあり得ぬと思つてゐる。
 敢て術の一字に拘泥せずんば、本書は正にその名の示す如く「生ける処世術」の最上なるものでなからうかと思ふ。


アメリカへ行つたお人形の日記 関屋竜吉編 序昭和五年三月刊 【序 渋沢栄一】(DK480051k-0027)
第48巻 p.161-162 ページ画像

アメリカへ行つたお人形の日記 関屋竜吉編  序昭和五年三月刊
    序                 渋沢栄一
 世の中には、何事にも「しめくゝり」と云ふ事が大切である。どんなに立派な事をしても、善い事をしても、この「しめくゝり」を忘れたら決して、その事が本当であつたとは云はれない。皆さんの忘れてならないことは、この本当と云ふことである。云ひかへれば、善いことを、ちやんとしめくゝつて、長く御互の胸にきざみつけることである。
 私はこの度、この可愛らしい「人形」の本が出るについて、これを以て、日本と米国との間に交換された、友情人形の「しめくゝり」と考へて、長く、皆さんと共に、忘れないつもりである。
 - 第48巻 p.162 -ページ画像 
 皆さんは、昭和二年の三月の御節句に、米国から皆様をはるばる訪ねて来た、多くのお人形さんを迎へて、盛大な歓迎会をした事を、覚えておいででせう。又、その年の十一月四日に、今度は、日本から米国へ、答礼として、旅立つた、美しいお人形さんを、お客として盛んな送別会をした事も覚えておいででせう。そして、皆さんの代表者とも云ふべき、そのお人形さんが、関屋のをぢさんにつれられて、米国に渡つてから、あちらの皆さんに、どんなに可愛がられたことか、その次第は、皆さんも、大方新聞雑誌で御承知の事とは思ひますが、まだ、あの日米のお人形さんを取りあつかつた側の私共からは、はつきりそれを、お伝へしてありません。いやこれではいけない。それでは善い事が、結局よい事にならない。早く、その「しめくゝり」をして皆さんと共に、長く心の壁に可愛らしいお人形さんの使命をきざみつけておきたい……と思つたのが、この本の出来た次第であります。幸関屋のをぢさんは、日本のお人形さんと一緒に、米国に渡られて、あちらの状況を、すつかり見ていらしつたので、お人形さんの心の中もよく分つて、おいでの事だらうと存じます。
 この本の中に物語られたお人形さんのお話を読むにつけ、皆さんは末永く、米国のお人形さん達を可愛がり、且つ、こちらから行つた日本のお人形さんの幸を、祈つてやらねばならぬと思ひます。


東京石川島造船所五十年史 新井源水編 序・第一―五頁昭和五年一二月刊 【序 子爵渋沢栄一】(DK480051k-0028)
第48巻 p.162-163 ページ画像

東京石川島造船所五十年史 新井源水編  序・第一―五頁昭和五年一二月刊
    序
 東京石川島造船所五十年史の編纂成り、余に序を徴せらる。回顧すれば余が直接本社の経営に参与せしは、明治二十二年、其株式会社として創立せられたる時よりなれども、其関係は既に明治十三年頃、平野富二君の懇請に因り、本社の前身たる石川島平野造船所に対して、余の主宰せる第一銀行より資金の融通を為したるに始まれり。
 余は海を距ること遠き武州の平野に生れたれば、当時未だ海運業の要務たることを暁らず、随つて造船業に就ても更に関心する所なかりしが、平野君の屡余を訪問して、詳に英蘭諸国の海外発展の実状を語り、造船業の振作は、我日本の如き四面環海の国に於て最も急務なる所以を力説せらるゝに及び、遂に其熱誠に動かされ、進んで之を援助するに至れるなり、然りと雖も、海運業の未だ発達せざる当時の我が造船業は、固より有利の事業といふべからず。第一銀行は主として国家の進運に貢献すべき事業を援助するを方針とすれども、本来営利の会社なれば、欠損をも顧みずして平野君を援助する能はざるや論なき所なり。されば銀行よりの融通も、十分に平野君の希望を満たしむること能はざりき。因りて明治十八年、余は銀行とは別途に、予て親交ありし華族鍋島家及び宇和島伊達家に説きて出資を促し、之に余の出資を合して、平野造船所の事業資金に充てしめたり。是れ即ち余が個人として斯業に関係せし最初なり。然るに同所の事業は、右の資金を以てするも尚未だ潤沢ならず、為めに更に数名の出資者を加へて匿名組合を組織したるが、明治二十一年末に至り、遂に平野君の個人的経営を廃して株式会社となすに決し、其の創立と同時に、余は入りて業
 - 第48巻 p.163 -ページ画像 
務担当の一員となれり。其後明治二十五年平野君の歿するや、梅浦精一君代りて経営の任に当り、余は選ばれて取締役会長の職に就き、爾来経営者は屡更迭したれども、余は十七年の長きに亘りて其関係を継続したれば、東京石川島造船所は、余の董督せし幾多の事業中最も因縁深きものゝ一なりといふを得べし。
 斯くて余は漸次我国に於ける造船・海運事業の緊要なるを痛感し、今にして斯業を振興せしめずんば、皇国将来の進運得て望むべからずされば此事業を発達せしむるは、即ち亦皇国の臣民たる余の使命なりと自覚し、其後は専ら此見地に基きて、益業務に尽瘁し、時勢の推移するに伴ひ、漸を逐ひて造機・鉄工等の方面にも事業を拡張するに至れり。
 明治四十二年余は老齢の故を以て実業界より引退し、本社との関係をも絶ちたれども、幸にして後継者諸君皆能く余の意志を継承せられ殊に輓近に至りては、労資間の争議所在に紛起すれども、本社に於ては役員・職工諸氏能く諧調親睦せられ、益規模を拡張し設備を整頓して、今や都下屈指の工場となり、我工業界に重きを為しつゝありと云ふ。惟ふに古来農業を以て国を立て来れる日本国が、近時工業を以て国を立つるの観を呈するに至れるは、国運の一大進歩といふべし。而して我が東京石川島造船所の如きも、亦実に其工業立国の一要素たるを失はざるなり。豈快ならずとせんや。
 余今年馬齢九十一、五十年或は外に在りて援助し、或は内に在りて親ら董督し来れる本社の、斯の如く隆盛に向へるを見るは、恰も膝を繞る児孫の、日を逐ひて生長発育するが如き感あり、愉悦禁ずる能はず。乃ち辞せずして感懐を述べ、以て序に代ふと云ふ。
  昭和五年十一月
                   子爵渋沢栄一


支那近代の政治経済 日華実業協会編 序昭和六年一二月刊 【序 渋沢栄一識】(DK480051k-0029)
第48巻 p.163 ページ画像

支那近代の政治経済 日華実業協会編  序昭和六年一二月刊
    序 
輓近隣邦中華民国の情勢ハ日に変転して殆ど端倪すべからざるものあり、而して其一波一動は直に我が邦に影響して両国の関係ハ益複雑を加ふ、我が日華実業協会ハ深く此に鑑る所あり、夫の道徳経済合一の旨趣に由りて、夙に両国々交の親善経済的の提携に微力を致し来りしが、今年は本会創立以来十周年に当るを以て、記念の為め特に支那近代の政治経済と題する一書を編纂して聊か大方の参考に資せんとす、冀くは取りて以て往を彰にし来を察するの一助とせられんことを、版成るに及び一言事由を叙して巻首に弁すと云ふ
  昭和六年七月
                    渋沢栄一識
                      時年九十又二
                          



〔参考〕竜門雑誌 第二五四号・第三九頁明治四二年七月 序(DK480051k-0030)
第48巻 p.163-164 ページ画像

竜門雑誌  第二五四号・第三九頁明治四二年七月
    序
 - 第48巻 p.164 -ページ画像 
凡そ発明なるものは独り形而下に於てせす形而上亦固より之ありといへとも、其目撃手触の感を生せさるを以て多くは工芸に於てこれあるを知る、或は云、我邦人は摸仿の才に富みて発明の智に乏しく小発明ありて大発明なしと、余以為らしく、然らす、夫れ人智の発達するや自から順序ありて粗より精に達し簡単より複雑に入る、而して今は既に摸仿時代を過き発明時代に移り徐々として進むを見る、他日其大発明ある刮目して待つへし、豈今日を以て臆度自棄の言を為すへけむや間者勧業の日本主幹伊藤恒蔵君現時発明者の不遇を慨し、其伝記を編輯して之を世に紹介せむと欲し、来つて序を乞はる、余其志を嘉みし聊か所思を書るして之を与ふと云爾
  明治己酉夏至
                    青淵渋沢栄一識
  ○右序文掲載ノ書名未詳。



〔参考〕華瀛宝典 第三編・第七―八頁刊 【清国之前途 第一銀行総董 男爵渋沢栄一】(DK480051k-0031)
第48巻 p.164-165 ページ画像

華瀛宝典  第三編・第七―八頁刊
    清国之前途
             第一銀行総董 男爵渋沢栄一
余未曾遊清国今作清国談或有疑余妄者然談清国固非自余始者余之郷老余之祖先蓋己談盛唐佳話於数十百世以上矣余今所述蓋非対於過去之清国而徒深感慨実対於将来之清国而多所属望也
清国文明淵源深遠其照耀東洋史上者誰不知之我日本雖幸得後来居上之誉然苟詢其文明之何自来即又不得不遠溯之中国也日中両国交通以来千数百年於玆其間中国文明之精華感化啓発我日本者実不鮮如夫大宝令頒布遣唐使簡派等当時崇拝中国文明之気象殆充満全国其後奈良朝之時益融洽中国文明文物燦然達一時之盛鎌倉幕府以来為封建時代中国文学美術宗教等依然為日本進運之基礎至徳川時代則崇奉孔孟之教以武経武士之典型等採其仁義忠孝主義而融合于日本国有之道義寖熾寖昌至於今日文運之隆有由来矣是実同文同種之賜也
余自幼好読論語享其感化実多且大諸種事業得藉是書以底於成昔趙普謂以半部論語治天下信不誣也如夫道千乗之国敬事而信節用而愛人使民以時及其恕乎己所不欲勿施於人等語実余修身奉為圭臬者也夫文明之恵沢在人而文明之光栄在国清国固有文明之若是美且仁也吾為清人幸吾更為清国栄矣我日本維新以来文物制度煥然一新人但知為新文明而不知其頼旧文明之融洽実多且大也清国与欧美交通早於日本而文明輸入反遅遅者蓋雖有旧文明而無新旧文明融洽同化之力也故清国自今而後宜吸取日本文明及欧美文明以研鑽産業教育兵備交通等取人之長補己之短依此而鞏固清国文明之基礎即以発揚日本文明之関係則日清両国之邦交将益親密而通商振興産業増進可得而望矣是豈独両国之幸抑亦東洋和平之慶事也近年清国鑑于世界大勢厳軍備広教育開発産業拡大交通等蓋巳駸々乎幾於強盛之列其進歩必有可驚者然清国地中宝蔵毎棄而不興製造工業亦萎靡不振徒消糜多額輸入品而貽然自若者余不知其居何心也若夫清国朝野人士悟二十世紀文明競争之劇甚即必可奮然有為採世界文明之長所以資于自国啓発而完成其文明的事業矣此我日本已経過之路程也此日清之所以相似而無事相猜者也
 - 第48巻 p.165 -ページ画像 
去年我実業団渡清大蒙清国朝野之歓迎是所謂有友自遠方来亦不楽乎者此等優美之交際実非僅個人交際也其影響於両国国交者多且大也此余之以望日本前途者望清国也