デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

7章 行政
1節 自治行政
7款 滝野川町関係
■綱文

第48巻 p.377-380(DK480118k) ページ画像

大正11年11月12日(1922年)

是日栄一、飛鳥山邸ニ於テ催サレタル、滝野川町在住者招待園遊会ニ臨ミ、演説ヲナス。


■資料

(増田明六)日誌 大正一一年(DK480118k-0001)
第48巻 p.377 ページ画像

(増田明六)日誌  大正一一年       (増田正純氏所蔵)
十一月十二日 日 晴
○上略
午前九時半飛鳥山邸ニ赴く、今日は子爵ニ於て同邸を開放して滝野川町民の為ニ園遊会を催ふされたるに付き、其監督の為ニ赴きし次第なり、町民の来会者六百五十人、前十一時一同大天幕内ニ着席、町長榎本初五郎氏の開会の辞に次て渋沢子爵の演説あり、終りて園遊会に移り、午後一時半余興開始、子爵ニハ他ニ約束の場処あり、自動車にて他出セられたり
○下略


竜門雑誌 第四一七号・第三〇―三五頁大正一二年二月 ○滝野川町園遊会に於て 青淵先生(DK480118k-0002)
第48巻 p.377-380 ページ画像

竜門雑誌  第四一七号・第三〇―三五頁大正一二年二月
    ○滝野川町園遊会に於て
                      青淵先生
 満場の淑女・紳士諸君。只今榎本町長より御述のございました通り今日は当滝野川町役場で町内の諸君及他の方面の御関係の方々の御臨場を乞うて、此園遊会が開催されたのであります。而して其場所は私の小園を御用ゐにならうと云ふことでございましたから、誠に喜ばしい事であると御引受を致して、私も半主人の位置に立ちましたのは、寧ろ自分の光栄と思うて居るのでございます。第一に誇としたいのは今日の此好天気でございます。庭園の遊びは雨が降ると殺風景に終るのが常であるのに、天吾々に幸福を与へて――天が与へたのではない斯る好天気を御撰みになつたのは、蓋し榎本君の撰択宜しきを得たのと思ひます。仮令見所の少ない庭園にもせよ、諸君で御散歩下さいますれば、却て幾らか華を添へるの趣を生ずるであらうと喜ばしう存じ
 - 第48巻 p.378 -ページ画像 
ます。設備の事も色々町長より御相談がございましたが、時節柄節約を主としなければならぬとの事で臨場の諸君に相済まぬやうに思ひましたが極めて粗末の設備を自分の方で致しませうから、諸君を御慰めすることの出来ぬのは恐縮であるけれども、時節柄成るべく簡略にして只来会者御一同所謂和気藹々の中に一日の歓を御尽しなさるやうな趣向に致しませうと申上げまして乃ち百事不行届なる準備でございますが、其辺はどうぞ御寛恕を願ひます。
 申上げまする事は是だけで相済んだのでございますが、長い間御当地に住居します私としては、年を逐うて種々の感想を惹起して参りますので、其事を一言申添へたいと思ふのでございます。私が当西ケ原に別荘を構へましたのは明治十一年であります。最早殆ど五十年に近い歳月を経過します。御集りの諸君中には年を取つた御方があらつしやるが多数はそれから二十年三十年後にお生れになつた方々でありますから、私は寄留の身ではありますけれども此滝野川町に対しましては本籍以上の資格あり権利ある者だとも思ふのでございます。それを特に自慢がましく申すのではございませぬが、明治十一年から玆に四十五六年、其間色々の外国人を此処へ御案内しましたから、此西ケ原には名声高き各国の人が来集したと云ふことは、敢て過言ではなからうと思ひます。第一明治十二年には亜米利加の前大統領たりしグラント将軍が参りました。又それから今日は亜米利加に併合されましたが布哇の国王も参りました。或は独逸の皇儲も参りました。さう云ふやうな人々が、算へ尽せぬ程ございますが、これは決して誇とする訳ではないが、兎に角此土地に世界各国の人種が集つたと云ふことは言ひ得るのでございます。明治十一年より三十四年迄は別荘として私は家族と共に春秋に参り居りましたが其後は此処を常住と致したのでございます。東京の住居が余り雑閙しまするので、こちらの方が宜からうと云うて引越しましてそれからもう二十年の歳月を経たのでございます。左様に長い歳月の間に、己れ自身はいつも元の木阿弥、所謂呉下の阿蒙で居りますけれども、世の中は決して私と同じやうに遅々として進展せずには居らぬ。種々様々に発達して即ち我帝国は遂に昨年の華盛頓会議に於ては、英吉利、亜米利加と共に、世界の三大国と唱へられるやうになつたのは、実に偉大なる進歩と申して宜しいのでございます。世界的の日本になつたと云ふことは、私が此処で喋々を要さぬのであるが、其日本の進運と同時に城北の一町として当滝野川町は如何であるか、一万有余の戸数を持ち、五万以上の人口を算する、若し満場の諸君が三十年五十年の昔を回顧なすつたならば、実に今昔の感に堪へぬであらうと思ひます。是は単に私が老人ゆゑに思ふのでなくして青年又は壮年の人々が考へても蓋し世の中が斯様に変化したと云ふのは或は驚き或は喜ぶことゝ思ふのでございます。併し凡そ事物は喜びばかりに終るものではない、喜びあれば必ず憂が伴ふもの、又其憂の間には喜があるものであります。喜憂交々至ると云ふことが、人事社会の常であります。是に於て総て其時の有志者は其憂に先んじて憂ひ、其喜に後れて楽むのであります。此先憂後楽の名文章は宋の范冲俺と云ふ名宰相が岳陽楼記にある警句でございます。天下の憂に
 - 第48巻 p.379 -ページ画像 
先つて憂ひ、天下の楽に後れて楽む、之が真の大丈夫である、斯う云ふ人があるならば世の中は無事であると斯う書いてあります。此先憂後楽と云ふことが最も必要であつて私も諸君と共に此心を以て世務に処したいと思ふのでございます。前にも言ふた通り社会の進歩は善い方にばかり変化を致さぬもので動もすると悪い変化があると云ふことを覚悟せねばならぬ。此悪い事の来るを避けて、其善い事を追々成長させて行く、斯の如くして初て国運が年と共に進歩発展し且鞏固に進み行くものである。若し其国民が其悪い方の事を何とも思はぬやうにして善い方の事を忘れてしまふならば、其国は追々に衰微してしまふ他国を批評するやうになつては宜くありませぬが、我隣国を御覧になると、必ず思ひ半ばに過ぐるであらうと思ふのでございます、元来国会を開きて政党を設けると同時に国運を進めるには、其国の人民の鞏固なる安定がなくてはならぬ。我が明治大帝はそこに早く御目を著けられて、即ち憲法発布と共に自治制度を布かれたのである。此自治制度は頗る意義あるものであつたが、併し社会の進歩に伴ふ程各地方の自治が発展したかと云ふと、私は少し疑問とせざるを得ぬのでございます。当滝野川町などは帝都にも近し、学者も多し、色々人物が揃うてございますから、幾らか他方に優れ居るであらうが、田舎に参つて見ると、其与へられた権利受けた責任程、それ程満足に整うて居るかと云ふことは、疑問と言ひたい位である。他は暫く措いて、折角進みつゝある当滝野川町が、仮令才学ある人物が居らつしやるにせよ、其人物を統一して、能く世運と相応じて、此自治制度を完全するやうにありたいと希望して已まぬのでございます。私は未だ寄留の身でありますけれども、此事に付ては屡々数代の町長に愚見を陳上致して居るのであります。保坂君にも申しました、越部君にも建議しました。現に榎本君にも有馬君にも毎度衷情を披瀝して、もう少し完全なる自治制度、否制度ばかりでなく自治の精神が、此滝野川町に造られるやうな途を、御講じなさるのが必要ではなからうか、私は当地の住民ではございませぬが、既に二十年以上実際住居して居ります。家を持つてからは五十年に近いのでありますから実に第二の故郷である。殊に斯う云ふ世運の進歩に際して、仮令微力ながらも其間に奔走した身でありますから我住居する所に完全なる制度の成立を希望するは、人情当然の事と思ふ。故にどうかそれ等に就てはお力添も致しませう、併しもう斯様に老衰したから、余り大なるお役には立ちますまいけれども今日の私は生産殖利に関係を致さぬ代りに、多少此等の事に就ては尽力をすべき時間も持つて居ります、殊に所謂父母の国なり況や現住の地と云ふものは、別して感情が強いものである、何なりとも相応の努力を致しませうと申上げて居るのも、決して一朝一夕ではありませぬ但し今日の園遊会がさう云ふお勧めをする為めと、若し御解釈なさいましたなら、それは大なる間違でありますが、機もあつたら多数の御方に私の衷情を御披露申し置きたいと思うた故に、玆に一言を添へたのでございます。蓋し此事は榎本君、有馬君其他町内の有力なる方々より或る時機には諸君に御諮りする事もあるであらうと思ふのでございます。私は長い間実業界に居りましても、富を造ることは至つて拙
 - 第48巻 p.380 -ページ画像 
劣で何時までも大なる財産家となることも出来ませぬ。勿論又富を造ると云ふことは自己が富むのと世の中の富むのと其軽重何れにあるか日本の国が全体に富むなら、自分は貧乏でも一向憂としないと云ふやうな観念から、兎角に自家の経営が拙劣で何時も微力で何等為す事もございませぬ。時に或る東京の大富豪が外来の珍客でもなさる場合に美術品例へば金の茶釜とか古代の名画抔を色々列べ立てゝ美を誇る。洵に日本の富を外国に伝へる結構の仕方で、私も羨しうはありますが私はさう云ふ人造美よりも寧ろ天然美を好む、幸に此王子には十二景などの名勝がある、斯う云ふ勝地に居つて、外国の人などの来たときには天然美を示して来客を慰めたい、斯る主義から、他の粗野になるに引替えて、庭園だけは家屋不相応に広く構へて居ります。然るに此庭園もさう誇ることの出来ぬやうになりました今日――此隣庭に晩香廬と云ふ小屋があつて、其処に掲げてある拙作の詩を摺物にして多分諸君の御手許へ差上げたらうと思ひます。
  葉落梧桐影徒長。  纔看楓柏帯微霜。
  不嫌小院秋容淡。  只有菊花晩節香。
 此詩の意味は葉が落ちてしまふと梧桐が唯空に突立つて余り風情もありませぬ、それから楓や櫨が少し紅くなつたけれども、是もお目に掛ける程のものでもない、故に此秋の庭は淡白で誠に物寂しい、只独り菊の花だけは晩節の香あり、後れて節を守るやうな香がすると斯う云ふ趣向であります、蓋し聊の寓意であります。晩節の香ありと云うて決して自惚れる訳ではありませぬけれども、成べく人は春の花の賑かに咲く時よりも、秋の菊の香の奥ゆかしい方が宜からう。殊に人生前半よりも後半が大切で老衰に瀕しても尚相当の努力を社会に尽したいと云ふのが私の最も希望する所であります。此意味からして仮令充分の働は出来ぬでも晩節を清くしたい。晩年に聊かの香を発したいと平素心に思うて居りまするので晩香廬と名づけ、其処に寓意の拙詩を掛けて置くのであります。それを今日諸君に呈したのは前に述べた他人の人造美に対して、天然美を誇る積りでございます。去りながら庭園も庭園外も往時此園を設けた時分には曖々たり遠人の村、依々たり墟里の烟にて、恰も陶淵明の帰田園居といふ題の詠詩の中にありさうなる遠近の田家の景色が工合能く眺め得ました、それ故に此別荘を曖依村荘とも名づけたのであります。然るに今日は相反して曖々たりどころではなく、暗憺たり煙突の煙、轢轆たり汽車の響にて全然昔に変りましたけれども、是も即ち当滝野川町に五万の人の居住するやうになつた為と町内の諸君が喜ぶと共に、私も亦暗憺たる煙突の煙も轢轆たる汽車の響も喜ばなければならぬのでございます。詰り天然美が人工化した為に打毀されたのであります。併し是は世の進みから起る事でありますから、私は少しも愁とせず、寧ろ之を喜ぶは矢張天然美を喜ぶ所以であらうと思ひます。之が私の庭園の沿革でございますから序ながら御紹介申して置くのであります。(拍手)