デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
3節 碑石
28款 塩原多助碑
■綱文

第49巻 p.281-283(DK490099k) ページ画像

昭和3年4月25日(1928年)

是ヨリ先栄一、塩原多助翁遺蹟保存会発起人総代ノ請ニヨリテ、同記念碑ノ題字ヲ揮毫シ、後、金二百円ノ寄付ヲナス。是日、群馬県利根郡新治村ニ於テ同碑除幕式挙行セラル。栄一嫡孫敬三ヲ代理トシテ同地ニ派遣シ、祝辞ヲ寄ス。


■資料

生方太吉回答(DK490099k-0001)
第49巻 p.281-282 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

竜門雑誌 第四七六号・第一一四頁昭和三年五月 塩原太助翁碑除幕式祝辞(DK490099k-0002)
第49巻 p.282-283 ページ画像

竜門雑誌 第四七六号・第一一四頁昭和三年五月
    塩原太助翁碑除幕式祝辞
 沼田の人生方太吉君等相謀り、塩原太助翁の碑を建て、玆に其除幕式を行はるゝに当り、余も亦一言を寄するを得るは、頗る欣快とする所なり。
 塩原翁の事蹟は、近世落語界の巨匠三遊亭円朝の演ずる所によりて遍く世に知らる。翁はもと島原藩士の家に生れ、故ありて沼田の農家に養はれしが、長ずるに及びて奉養尤も勉め、孜孜として家業を励みしも、義母刻薄、妻不貞にして、危害将に身に及ばんとせしかば、涙を揮つて家を去り、江戸に出でゝ具に難苦を嘗めしが、山口氏の知る所となり、遂に薪炭商を以て家を興すに至れり。
 翁は能く分を知り、約を守り、恩を忘れず、厳に奢侈を禁じ、無用
 - 第49巻 p.283 -ページ画像 
を爵し、秋毫の利といへども其道にあらずんば之を得ず、夙夜に黽勉せしかば、求めずして自ら産を成し、其徳に隣人をも化するに至れりと云ふ。就中翁に服すべきは、嘗て己に刻薄なりし義母の、後年落魄して哀を乞ふや、旧怨を忘れて厚く之を扶養せしの一事にあり。
 円朝の説く所此の如し、固より多少の潤色あるべしといへども、余は実に其人ありしを疑はず。
 嗚呼、翁や学びて此に至れるにあらず、其篤行実に天性に出づるなり。古語に云ふ、剛毅朴訥仁に近しと、翁の如きを謂へるなるべし。
 余は夙に道徳経済併行の説を持し、平生人に向つて説くことを懈らず、然れども近時文化の進展するに随ひ、人心漸く浮華に流れ、利達を是れ事として道義を省みず、翁の如き誠実にして情理兼ね得たる人稀なるは、慨歎に堪へざる所なり。
 今や豊碑巍然として翁を不朽に伝ふ、其世教を裨補すること、蓋し鮮少にあらざるべし、是れ余が嚮に応じ、敢て老筆を駆りて碑に題し今又祝辞を寄する所以なり。
  昭和三年四月二十五日             渋沢栄一
   ○右掲「竜門雑誌」(第四七六号)「青淵先生動静大要」四月中ニ廿一日トシテ「風邪の為め自邸に於て静養、爾後三十日に至る」ト記セリ。即チ四月二十五日ハソノ静養中ニ当ル。


群馬県利根郡新治村役場回答(DK490099k-0003)
第49巻 p.283 ページ画像

群馬県利根郡新治村役場回答      (財団法人竜門社所蔵)
過日照会いたゞきました塩原太助翁記念碑につき、左記の通り回答します
    記
一、現存する、本村大字羽場字下新田、塩原公園内
一、碑面(表) 塩原太助翁之碑
        子爵 渋沢栄一書 とあり
一、裏面 正三位勲一等子爵 渋沢栄一表書 とあり
一、碑文(長文につき省略)
末尾  大正十四年歳在乙丑十一月
         星野士慊 撰文
    七十七翁 多賀谷熊五郎書 中村雲鳳刻  とあり 以上
                      群馬県利根郡
                       新治村役場
   ○右ハ刊行ニ当リ、昭和三十七年十月二十日当刊行会ノ照会ニ対シテ回答セラレタルモノナリ。