公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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大正2年10月25日(1913年)
是日、芝公園内逓信官吏練習所ニ於テ、郵便電信同窓会ノ主催ニヨリ、故下村房次郎追悼会開催セラル。栄一出席シテ追悼演説ヲナス。
竜門雑誌 第三〇六号・第五八頁大正二年一一月 故下村氏追悼会(DK490154k-0001)
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竜門雑誌 第三〇六号・第五八頁大正二年一一月
○故下村氏追悼会 我が邦交通界の先覚者にして日露貿易の主唱者たる故下村房次郎氏の追悼会は、十月廿五日午後一時より郵便電信同窓会の主催にて芝公園内逓信官吏練習所に於て開催されたり、会場たる階下大広間の前方には故人の肖像を掲げ生花及び供物を供へ、向つて左側には下村宏氏外遺族一同、右側には栗野子・青淵先生其他の来賓着席するや、野崎同窓会理事起ちて開会の辞を述べ、且つ学生側を代表して故人が教育家としての功績を頌し、中山同窓会評議員の追悼辞及中橋大阪商船会社長の追悼電文朗読等ありて後、引続いて諸名士の演説或は追懐談あり、矢作法学博士は交通政策と下村自知居士と題して、氏が明治十八年初めて東京に出で何等組織立ちたる学校教育をも受けず、大日本経済協会の懸賞論文に当選して忽ち世に知られ、或は官吏となり教育家となり、野に下つては自ら志士を以て任じ、最後迄我邦交通界の先覚者として尽したる功労及び氏の人格に就て詳論し、青淵先生・栗野子・児玉和歌山県選出代議士・中山逓信協会長等相次で登壇し、故人が円満なる人格と我邦文明の発展に貢献せる勲功を偲び、終つて元田逓相の追悼の辞朗読あり、最後に下村宏氏遺族を代表して一場の挨拶あり、午後六時頃散会せるが、来会者七百余名、尚ほ同日は故人の壮年時代よりの写真及遺墨等数十点を陳列し、一般来会者の縦覧に供したりと云ふ。
自知下村房次郎君追懐録 多田正雄編 第四四八―四五二頁大正四年七月刊 【○第四編 追悼会記事 実業界に於ける居士 男爵渋沢栄一君】(DK490154k-0002)
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自知下村房次郎君追懐録 多田正雄編 第四四八―四五二頁大正四年七月刊
○第四編 追悼会記事
実業界に於ける居士 男爵渋沢栄一君
閣下、諸君。故自知居士の追悼会に於て、私も古い交はりを有つて居りますで、此席に参上いたして一言の感想を述べます事は頗る光栄に存じます。去りながら、私は其の交はりの浅かつた為めに、前席の諸君から、或は其の故郷に於る経歴或は其の事業に就いての苦辛談、又は交通と云ふ雑誌の経営等に就いて詳細に御話がございましたが、私は更に之を加へる程の言葉を有つて居らないのであります。殊に私は唯実業界にあるだけでございまして、縦しや貿易等に就いても、自身に関係いたした事はございませぬから、申上げる事の材料を有つて居りませぬが、唯実業界から見た自知居士として私の関係いたした事柄に就いて、一の感想を玆に申上げて見たいと
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思ひます。
第一に此郵便・電信等の交通に関する事柄です、古き記憶を呼起しますると、私が維新の当時大蔵省に就職しまして、将来の交通は如何なる方法を以て施設するかと云ふ事を当局と云ふ位置から多少考へて見た事がございますが、それ等の事を思ひ起しますると、実に何共申せぬやうであります。明治二・三年頃大蔵省奉職中種々なる改正事務の内に、交通運輸に属する駅伝の如き郵便の如き及び電信・電話等は其時分は総て無かつたのであります。諸種の運送に於ける旧幕府の仕来りは、単に宿継伝馬、及人足を以て間に合せ、又書信は京屋・島屋の飛脚に依つて往復をしたと云ふ有様でありまして、江戸と京大阪の間が六日限り、極く急なもので三日限りと云ふのは容易ならぬ急用であつた。然るに今日の有様は実に意外の発達である。勿論当時其の地位にあつた人々は色々考へて其方法を講じて漸次改良して今日になつたのでございますが、私は爾来他の方面に力を転じましたから、一向其後の事は承知せず只間接に追々進歩して来るのを見て居ただけでございます。故に自知居士が其間に担当経営をされ、而して其方法は西洋の制度に模倣されたと思ひますが、其間の苦辛と云ふものは実に容易ならぬもので、今中谷君から段々と交通に就いての御話を承りまして深く感じましたのでございます。交通と云ふ事は勿論実業界のみに必要であるとは申されませぬ、一般の人文に関係の深いものであるけれども、それと同時に商工業の発達は交通に大関係を有すると云ふ事は多弁を要せぬ事であります。是等に於て居士は我々社会に其力を尽して呉れたと云ふ事は、如何にも恩人として感じなければならぬと思ひます。
日露貿易に関しては、嘗て私も居士と屡々談話を致した事がございます。三十九年頃から四十年の初までに幾回も御相談を致しました。私は実際に貿易に従事する智識もございませぬけれども、是非日露両国の親善に努め、交通を図り、随つて利害関係を進めて行くには貿易会社の組織が必要である、何ぞ好い機会があつたならばと考へて居る折から、自知居士は頻りに日露貿易会社を造りたいと云ふ事で露西亜に行かれて、露都の実業家ミンコフスキーと云ふ人に会はれ、日露の貿易を進めると云ふ事に就いて談話を交換して帰られ、其会社を成立させたいと云ふので、私も御同意して斯くしたら宜からう、斯う云ふ方針に進めて行かうと御相談した事がございます。併ながら機会が十分熟して居らなかつたか其会社は成立に至らなかつた。其内にミンコフスキーと云ふ人は病ひの為めに死なれまして、終に日露貿易に関する会社組織の事は、自知居士の強い希望であられたにも拘はらず成立を見るに到らずに仕舞ひました。其事に就いては私は数回居士と御談話もして、居士が極て公平なる、且つ常に誠実なる考へを以て事を謀りて行かれるを深く感じたのでございます。爾来屡々相接触する事もございませず、其企望の達する場合に立到らないのは深く遺憾と致しまする次第であります。実業界から見ますると居士は前に申す如く交通の事に就いても、若くは他の方面の事に就いても、日露貿易会社の創立に就ても、今日尚其
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昔を偲びて若し居士にして存在であつたならば、更に評議する事もあらうと深き感情を起すのでございます。
要するに自知居士を有体に批評して申上げたならば、極めて理想が高くして事業経営の才に於ては完全に之れに伴なつたかと云ふ事は疑問であつたと思ふのでございます。蓋し人は理想と経営の才とは全く相併行するものではない。理想は高いが事業経営の才が之に伴なはない、事志と相適応せぬと云ふことは往々あるやうにございます。実に居士は理想の高い御方であつたが、事業経営に就いては必ず相一致したと云ふ事は如何であるかと思ひます。但し居士は其理想とする処如何にも忠実であつて、至誠であつた事が今も尚ほ昭昭として見へるやうであります。唯今も遺墨・著書等を二階で拝見しますると髣髴として其巻帙の上に現はれて居る、百事誠と云ふ事に重きを措いて居る。私は左様に親密にお交はりはせぬでも、真に誠実なるお方であつた事を感じて今日も尚偲ばれまする次第でございます。古今集の序に紀貫之が在原業平の歌を、其心余りあつて言葉足らずと評してありますが、私は自知居士を評して業平ほどの思想を有つて、其の思想が言葉に十分実現されたと申せぬのは、思想界に於て頗る遺憾と申さなければならぬと思ふのでございます。
併ながら更に是を考へて見ますると、其の余りある思想即ち誠実なる思想が或は家庭に、或は社会に追々に普及されまして、現に宏君が居士の跡を継て同窓会の会長になられる、又先刻来諸君から御述べになつた如く、学業其他に就いて養成されたる諸士が、自知居士の遺徳に依つて多数の事業に植付けられて居るとして見たならば即ち居士生前の理想はそれ等の人々の力に依つて死後十分に実現せられたといふて宜いと思ふ、果して然らば居士は以て瞑する事が出事るであらう[出来るであらう]と思ふのでございます。私は其関係の薄い為めに申上げる事も極て簡単でございまするが、玆に自知居士に対する感想を述べ追悼の詞と致します。
男爵の言は蓋し肯綮に当つたものであらふ、先生も定めし地下にあつて、知己の言として首肯せられたことであらふと思ふ。渋沢男が繁忙な地位にあつて、而かも老躯を提け臨席せられた厚意は、会員一同の深く感謝の意を表する所である、男が壇を下る時拍手は暫し鳴を止めなかつた。
○下略
○本資料第十四巻所収「日露貿易株式会社」明治三十九年十一月ノ条参照。