デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

1部 社会公共事業

9章 其他ノ公共事業
7節 関係団体諸資料
5款 財団法人生活改善同盟会
■綱文

第49巻 p.589-609(DK490196k) ページ画像

大正9年1月25日(1920年)

是日、生活改善同盟会設立セラレ、栄一其評議員トナル。後、金二千円ヲ寄付ス。大正十三年八月十日顧問ニ就任シ、在任歿年ニ及ブ。


■資料

中外商業新報 第一二一四四号大正九年一月一五日 ○生活改善同盟会 伊藤公を筆頭に百余名発起(DK490196k-0001)
第49巻 p.589 ページ画像

中外商業新報  第一二一四四号大正九年一月一五日
    ○生活改善同盟会
      伊藤公を筆頭に百余名発起
欧洲戦後世界が生み出した新熟語の一は実に改造であるが、顧みるに我が国現代の生活程極めて複雑で且無意味なことの多いものは無い
◇衣食住 を始め一般社交上に於て旧来の弊習を刷新する必要があるといふので、伊藤博邦公を筆頭に、園田孝吉男・沢柳文学博士・三輪田元道氏・小橋内務次官・嘉悦孝子女史・安井哲子女史等朝野名士百余名発起となりて、生活改善同盟会なるものを組織し、来る廿五日午後二時からお茶の水女子高等師範に於て盛大なる
◇発会式 を挙げる由である、併して尚之が一般的宣伝としては、都下の各少年団員が当日上野公園から日比谷に向け宣伝行軍を為し、戸別に又通行者に宣伝趣旨書を頒布することゝし、一方同夜神田明治会館に公開演説を開催することになつてゐるが、同会が刻下の急務として生活の改善を要するものは(一)時間を確守すること(二)年末・年始・中元・餞別・祝儀等の
◇形式的 贈答を廃止すること(三)節酒・節煙等他約十五六ケ条、依つて賛同者にして入会希望者は、本郷区御茶之水東京教育博物館内同会事務所に申込めばいゝのである、因に同会の運動と相俟つて文部省でも、全国の市当局者及各府県より一名宛を召集し、廿六日から一週間教育博物館内に於て生活改善講習会を開くことになりてゐると


渋沢栄一 日記 大正九年(DK490196k-0002)
第49巻 p.589 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年          (渋沢子爵家所蔵)
三月九日 晴 寒
○上略 午後四時中央停車場ホテルニ抵リ、生活改善協会ノ委員会ニ出席ス○下略


集会日時通知表 大正九年(DK490196k-0003)
第49巻 p.589 ページ画像

集会日時通知表  大正九年          (渋沢子爵家所蔵)
三月九日(火) 午後四時 生活改善同盟会(ステーシヨンホテル精養軒)


中外商業新報 第一二一九九号大正九年三月一〇日 ○十万円の運動費募集 昨夜の生活改善同盟評議会(DK490196k-0004)
第49巻 p.589-590 ページ画像

中外商業新報  第一二一九九号大正九年三月一〇日
    ○十万円の運動費募集
      昨夜の生活改善同盟評議会
 - 第49巻 p.590 -ページ画像 
曩に発会式を挙げたる生活改善同盟会は其後幾協議を重ねつゝありし処今回大体方針決したるを以て、九日午後四時よりステーシヨンホテルに評議員会開催、会長伊藤公爵を始め渋沢男・早川・古川・山下・久原・浅野の各議員出席、渋沢男司会の下に協議に入りしが、此後の事業進展の為め愈々京浜の実業家其他五十名より十万円を募集し、之を宣伝運動費に充つべきを決し散会せり、而して近く具体的実行方法を発表さるべしと


竜門雑誌 第三八二号・第三九頁大正九年三月 ○生活改善会相談会(DK490196k-0005)
第49巻 p.590 ページ画像

竜門雑誌  第三八二号・第三九頁大正九年三月
○生活改善会相談会 日常生活の虚礼廃止、衣食住の改善等を試むる目的の下に組織せられたる同会は三月九日夜東京ステーシヨンホテルに於て、青淵先生・浅野総一郎・小池国三・山下亀三郎・早川千吉郎・古河虎之助男・久原房之助外十余名の重立たる会員諸氏会合之上、資金及具体的事業に就て相談会を催し一同晩餐を共にして散会せる由。


竜門雑誌 第三八三号・第四八頁大正九年四月 生活改善同盟会(DK490196k-0006)
第49巻 p.590 ページ画像

竜門雑誌  第三八三号・第四八頁大正九年四月
○生活改善同盟会 生活改善同盟会にては三月九日午後四時よりステーシヨンホテルに於て評議員会を開催したり。会長伊藤公爵を始め青淵先生・古河・早川・久原・浅野・山下各議員諸氏出席、青淵先生司会の下に協議に入りしが、今後の事業進展の為め京浜の実業家其他五十名より資金十万円を募集し、之を宣伝費に充当する事に決し散会したる由。


生活改善同盟会設立趣旨及ビ同会規約(DK490196k-0007)
第49巻 p.590-592 ページ画像

生活改善同盟会設立趣旨及ビ同会規約  (財団法人竜門社所蔵)
(印刷物)
    生活改善同盟会設立の趣旨
 我々の家庭や社会に於ける生活には、道徳経済衛生等の点から見て改善を要する事柄が甚だ尠くありませぬ。されば之を根本的に改め、一切の無駄を省き、虚飾を去り、一層合理的となし、益々国民の活動能率を増進し、以て国運の伸展に寄与する事は、実に刻下の一大急務であると思ひます。
 今日我々の生活上改善を要する事柄は、衣食住社交其他に亘つて尠くありませぬが、此等幾多の弊習を打破するといふことは、なかなか困難なことであります。故に之が実行に就ては、先づ着手し易い事柄から始めて、漸次服装や住宅の改良の様な特に慎重なる研究調査を要する事項に及ぼすが適当と存じます。然るに其の改善の必要が痛切に感ぜられて居る事柄でも、少数の者だけで之を断行しやうとすると、色々な障碍が起つて案外容易でありませぬ。そこで此の困難に打ち勝つには、熱心に現代生活の改善を希望して居る成るべく多数の同志を糾合して、一致の行動に出でるのが、最も早道と存じます。
 斯様な考からして、今回生活改善同盟会を組織するに至りました。何卒御同感の方々の御賛同を切に希望致します。
  大正九年二月
    生活改善同盟会規約
 - 第49巻 p.591 -ページ画像 
第一条 本会ハ生活改善同盟会ト称シ、本部ヲ東京ニ、支部ヲ地方ニ置ク
第二条 本会ノ目的ハ会員相互ノ協力ニ依リテ我国民生活ノ改善向上ヲ期スルニアリ
第三条 本会々員ハ前条ノ目的ヲ達成センカタメ、衣食住・社交儀礼等ノ改善ニ心掛クルハ勿論、先ツ以テ着手シ易キ左記事項ノ実行ニ努力スルモノトス
 一、時間ヲ正確ニ守ルコト
 一、訪問・紹介・依頼等ハ相互ノ迷惑ニナラサル様心掛クルコト
 一、親近者ニ対スル外停車場等ノ送迎ヲ廃スルコト
 一、年玉・中元・歳暮・クリスマスプレゼント・餞別・手土産・祝儀・不祝儀等ニ於ケル虚飾ニ亘ル贈答ヲ廃止スルコト
 一、年賀・時候見舞等ノ回礼及書信ノ往復ハ虚礼ニ亘ラサルコト
 一、冠婚葬祭其他ノ儀礼ハ厳粛ヲ旨トシ虚飾ニ流レサルコト
 一、宴会ノ弊習ヲ改ムルコト
 一、酒杯ノ献酬ヲ廃止スルコト
 一、節酒
 一、節煙
 一、衛生上他人ノ迷惑トナル行為ヲ慎ムコト
 一、迷信ニ基ケル弊習ヲ排スルコト
 一、雇傭人ニ対シテハ人格ヲ重ンシ親切ヲ旨トスルコト
 一、冗費ヲ省キ収入ノ幾分ヲ必ス貯蓄スルコト
 一、金品ハ濫ニ貸借セサルコト
 一、水道・電灯・瓦斯等総テ公共的物資ノ浪費ヲ避クルコト
 一、群集ノ場所ニ於テハ特ニ礼儀秩序ヲ重ンシ弱者ヲ扶クル様心掛クルコト
第四条 本会ハ其ノ目的遂行ノ為メ必要ナル調査機関ヲ設ケ、講演会展覧会等ヲ開催シ、雑誌・図書其他ノ印刷物ヲ発行ス
第五条 本会々員タラント欲スル者ハ、住所氏名ヲ本会事務所ニ届出テ会員徽章ヲ受クヘシ、本会々員ハ会員徽章ヲ佩用スルモノトス
第六条 本会ハ毎年一回総会ヲ開キ会務ノ報告、役員ノ選挙等ヲ行フ
第七条 本会ニ左ノ役員ヲ置ク
 会長 一名  幹事 若干名  評議員 若干名  書記 若干名
第八条 会長ハ総会ニ於テ之ヲ推薦シ、評議員ハ其ノ半数ヲ会長ノ指名ニ依リ、他ノ半数ヲ会員ノ選挙ニ依リ、幹事ハ会長ノ指名ニ依リテ之ヲ決シ、任期ヲ各一ケ年トス
第九条 会長ハ会務ヲ統轄シ、幹事ハ会務ヲ掌理ス
第十条 評議員ハ重要ナル会務ニ関シ会長ノ諮問ニ応ス
第十一条 本会ノ維持費ハ会費及有志者ノ寄附金ヲ以テ之ヲ支弁ス
第十二条 本会々員ハ会費トシテ入会ノ際一時金五拾銭ヲ納入スルモノトス
第十三条 本会支部ニ関スル規約ハ別ニ之ヲ定ム
第十四条 本会事務所ハ当分ノ内東京市本郷区御茶ノ水東京教育博物館(電小石川六〇四番)ニ置ク
 - 第49巻 p.592 -ページ画像 
    本会役員(いろは順)
     会長     公爵 伊藤博邦
     幹事
   市川源三  井上秀子   浜幸次郎
   東郷昌武  嘉悦孝子   金谷珠子
   吉岡弥生  棚橋源太郎  玉井清水
   中山半   乗杉嘉寿   野口保興
   野中正   山中見道   藤岡保子
   小柴博   天野藤男   指原乙子
   三輪田元道
     会計監督 井上公二  早川千吉郎
     評議員
○中略
男爵 渋沢栄一
○下略


青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第二〇頁 昭和六年一二月刊(DK490196k-0008)
第49巻 p.592 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
              竜門雑誌第五一九号別刷・第二〇頁昭和六年一二月刊
              大正年代
  年 月
 九 三 ―生活改善同盟会評議員―大、一一、四、―財団法人〃〃―大、一三、八、―〃〃顧問―昭和、六、一一。


生活改善 第一号・附録大正一〇年四月刊 寄附者芳名(第一回報告)(申込順)(DK490196k-0009)
第49巻 p.592 ページ画像

生活改善  第一号・附録大正一〇年四月刊
    寄附者芳名(第一回報告) (申込順)
 金弐千円也            早川千吉郎殿
 金壱千円也            小池国三殿
 金弐千円也          子爵渋沢栄一殿
 金壱千円也            井上公二殿
○下略


集会日時通知表 大正一一年(DK490196k-0010)
第49巻 p.592 ページ画像

集会日時通知表  大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
四月廿二日 土 午後一時 生活改善同盟会第三回総会(神田青年会館)


竜門雑誌 第四〇八号・第六二頁大正一一年五月 ○生活改善同盟会(DK490196k-0011)
第49巻 p.592 ページ画像

竜門雑誌  第四〇八号・第六二頁大正一一年五月
○生活改善同盟会 生活改善同盟会にては今般同会の組織を更め財団法人とするに決し、四月廿二日午後一時より神田青年会館に開催の第三回総会に於て満場の賛同を得、夫より講演会に移り、青淵先生の外遊所感、添田博士の華府会議と生活改善、小橋三四子女史の欧米視察談等ありたる由。
  ○栄一講演筆記ヲ欠ク。


竜門雑誌 第四〇九号・第四七―五四頁大正一一年六月 ○渋沢子爵家の結婚披露を先駆とし生活緊縮の新運動(DK490196k-0012)
第49巻 p.592-598 ページ画像

竜門雑誌  第四〇九号・第四七―五四頁大正一一年六月
 - 第49巻 p.593 -ページ画像 
    ○渋沢子爵家の結婚披露を先駆とし生活緊縮の新運動
 本篇は「実業之日本」六月号所掲に係り、時節柄殊に緊要の評論なるを以て本誌に転載して会員諸君の参考に資す。(編著識)
△渋沢子爵令孫の婚儀(前略)「私共儀渋沢木内両家とは年来別懇の間柄に御座候処、子爵令孫敬三氏は大正十年東京帝国大学経済部を卒業し現に横浜正金銀行に勤務中に有之、又木内氏次女登喜子嬢は大正九年御茶の水高等女学校の卒業生にして、両人の性行を熟知せる私共は至極良縁と相考へ候に付媒妁に相立、昨年夏婚約成立致、本年五月二十三日結婚式を挙げ、同二十八日に披露会を催候事と相成候間御聴置被下、両人の将来に付御愛顧御指導の程奉願候。又両家に於て此度の結婚式等総て質素を旨と致、右披露会に御臨席願上候ても何等取設も無之、真に両人を御紹介申上る迄に止め度趣に候間、此儀御諒承の程願上候、尚両家申合はせ御祝品等の御贈与は平に御遠慮申上度由に有之、私共に於ても至極尤の義と賛成仕候云云」(句読は記者の入れたもの)
 これは媒妁人和田豊治氏・同織衣子の連名で、子爵渋沢栄一氏令孫と木内重四郎氏令嬢との結婚披露の案内に添へられた手紙の一節である。敬三氏は子爵の嫡孫で、大学を卒業するに銀時計に相当するほどの優良の成績を以てした秀才で、卒業後は書記として正金銀行に勤務し、最下級より銀行事務を修養しつゝあり、新婦も亦お茶の水出の才媛である。記者は多年社会の為に奉仕せられた渋沢子爵が好個の後継者を有せられ、而して今其人の為に良縁を得て華燭の大典を挙げらるる幸福を衷心より祝ひ、積善の家に余慶あると云ふ古人の言我を欺かぬと想ふ。
 式は書中にあるが如く二十三日華族会館に於て、両家の伯叔のみの参列で荘重に行はれ、其夜は親戚の間に盛な祝賀宴があつたと云ふ。而して二十八日には日本工業倶楽部で披露会を開いたのである。この披露会は現代社会に於て意義ある出色のもので、記者が個人生活の内情に立入つて紹介せんとするに至つたのも亦之が為である。
△披露のレセプシヨン 二十八日日本工業倶楽部に招待せられた客は直にヱレヴエーターによつて三階の中食堂に案内せられた。新郎・新婦は媒妁者夫妻と共に食堂内の適当な位置に立つて之を迎へ、賀辞を受け紹介の挨拶を交した。普通なれば新郎・新婦の背後には燦として輝ける金屏風を折廻らし、大花瓶に花を飾るべきであるが、そこには装飾らしい何ものもなき簡素なものであつた。
 客は中食堂に入り更に之と隣りした大食堂に導かる。客の中には両家の一方を知り他方を知らぬものもあるので、子爵夫妻、同令息夫妻及び木内氏夫妻はそれぞれに適当な位置にありて、子爵の女婿で第一銀行支配人たる明石照男、木内家と姻戚関係の日本勧業銀行総裁志村源太郎の両氏が夫々に来賓を紹介してゐた。
 食堂には其処彼処に食卓を設けてあつた。客が入り来れば両家の関係者はそれぞれに接待しボーイは飲料としてポンチと紅茶、食品としてサンドウヰツチ・西洋菓子・果物・大阪すしを供し、所謂結婚披露に見るが如き盛餐もなければ美酒もない。極めて簡単で質素なもので
 - 第49巻 p.594 -ページ画像 
あつた。而して各食卓には、一切椅子を用ひない立食であるから、客は知人を見れば快く自由に往来し談笑し、笑声歓語堂に満ちてゐた。
 招待せられた客は広く各方面に渉り其数は頗る多かつたが、定められた午後二時より四時までの時間内で、祝辞を述べ立食し、随意に退散し、極めて清い愉快な披露であつた。尤も客は一時に一ケ所に集まる機会がないので、媒妁人は来客一同に対し新郎・新婦の履歴其他を紹介するを得ない為め、予め前掲の手紙を封入して当日の挨拶に代へたのであらう。
 披露会は書中にあるが如く真に「質素を旨」とせられた高尚な清い会であつた。子爵の如き社会的位地と多くの富を有し、披露の盛宴を張り得る人にして、人生の大事たる結婚の披露にかく質素を旨とした会を開かれたことは、吾人そこに深き意味あるを看取せねばならぬ。
△帰朝後の渋沢子の新生活 渋沢子爵は明治の実業界を建設した偉勲者である。始終実業の発展を目的とし、必らずしも自己の利益のみを念としたる人でない、従つて自己の富のみを目的とした実業家に比すれば子の富は遥に少いであらう。恐らく今の実業界に於て富子爵を凌げる者は屈指するに遑がないであらう。こゝに子爵高潔の心事が表はれてゐる。老子爵が実業其他社会公共の事に奉仕した此精神はやがて身を持するに極めて倹素となつてゐる。些事の如くであるが、子爵の帽子は十余年来の古もので昨年漸く米国で買ひ代へたと云ふ。そのフロツクコートにはつぎがあると云ふ。邸宅こそ内外国の客を引見する必要上堂々たるものであるが、平時の食事の如きは頗る簡素を極めてゐると云ふ。
 社会に奉ずる子爵の精神は従来既に身に奉ずるに薄かつたのであるが、最近渡米して米国上下の状態を視るや、老子爵は更に深き印象を受けたのである。従来は単に身に奉ずるに薄かつたのであるが、今や一歩を進めて対他の関係に於ても亦その態度を一変し、倹素節約を主とするに至つた。
 最近に於ける米国人の倹素に真剣となれることは、米国より帰れる者の均しく口にする所である。彼等は戦時以降の大膨脹を抑制し戦後の整理を全ふせんとすれば、人に物に有らゆる方面を通して無用を省かねばならぬとなし、極度に節約を行つてゐる。我実業団が国賓として大統領の招待を受けた時、卓上には飾り花もなく献立表の印刷したものもなく、その食事もスープ一皿、肉一皿、而して後は珈琲・果物のみであつたといふ。彼等は今や暖衣飽食すべき秋でなきを自覚してゐる。大統領が進んで範を国民に示す覚悟を以て、国賓の招待にすらも斯の如き節約を旨としてゐる。この精心は広き全米に徹底し奕々として躍動してゐる。老子爵が感激を以て之を感得したことは疑ふまでもない。
 現に老子爵は二回までも米国の大統領となつたローズヴエルト氏の未亡人を訪ひたる時、未亡人がベルに応じて出迎へ、故人の書斎に案内し、さながら女中なきかの如く働いてゐたことを語られたことがある。未亡人が全く女中を置かぬのでないが、著しく其数を減じ、且つ大抵の仕事は未亡人が自ら進んで行へるのであつたと云ふ。
 - 第49巻 p.595 -ページ画像 
 此等の事実を見聞した老子爵は帰来社会奉仕の念を一層強ふし、我社会生活の贅沢にして浪費多く、形式に流れて精心を失へるを想ひ、新生活を打開せねばならぬとなし、帰朝の後、知人中には幾多の歓迎会を開く計画があつたが子爵一個に関するものは総て之を辞退し、又子爵主催の宴会は総ての場合を通じ、品質を吟味するも皿数を減じ、無益の手数を省くに努めてゐる。地方講演の如きも、事情だに許せば出演せらるゝも、常に無益の費用と手数とを省くを心懸け、先頃埼玉及び前橋に赴かれた時の如き、一切の出迎を辞つて書生一人を伴ひ、汽車の弁当を使ひ、市民又は商業会議所等の歓迎又は饗応を計画する場合にも絶対に之を辞し、強て之を行はんとすれば出演を辞すと云ひ万一午食する必要ある場合にも、小人数と共にし、多数者の集まり無益に時間と費用を費すを警め、講演にも知人にも常に告ぐるに此事を以てすると云ふ。今や社会は一般に不景気の声日に高きに拘らず、戦時以来養はれた奢侈浪費の風未だ脱せず、世上その要を認めながら之を断行するの勇気を欠ける折柄、吾人は老子爵が真に身を以て国民を率ひ、卒先して生活改善の急先鋒を以て任じ、社会が改善を難しとする結婚披露の大事に、新しき先例を開いた誠意に感激せざるを得ないのである。
△見よこの複雑贅沢な生活 老子爵今回の挙は一に子爵奉公の至誠が滞米の所感に刺戟せられ、改善の実を挙げんとすれば先づ自己及び其周囲より着手せねばならぬを感ぜられた結果であらうが、子爵今回の英断は節約実行の範を示されたものである。生活改善は既に久しい間の問題であつたが、子爵の英断により爰に新しき生命を以て実現せらるゝであらう。
 英米人の日常生活を目睹し、帰来日本の社会に接した者は、何人でもその生活の複雑で、時間と金銭と精力とを無益に浪費しつゝあるを痛感せぬものはない。結婚と葬礼とは人生の大事である。之を行ふに篤敬の行を以てすべきは云ふまでもないが、而も日本の風習は余りに形式に流れ、人生の大事を行ふに多くはその外観の盛なるを望み、之に列する者も亦単なる義理一片を以てする。故に僅に一面識しかない人でも相慶弔し、甚だしきは昨日結婚の披露に列し今日相会すれば恰も路傍の人に対するが如きものすらある、弔意を表せんとして歓笑雑談、殆ど斎場にあるを想はぬものすらある。而して其結果は時と金とを浪費し、徒らに精力を消耗するに終る。ローズヴエルト氏が家族親友のみの送葬を受けて静にオイスターベーに眠り、カーネギーの遺族も亦多数の会葬を強て辞退し、鋼鉄王は静にスリーピーホローに眠つてゐる。その墓守すらその旨を体して墓参するより其業に励めと墓参者に忠告してゐると云ふ。日米人の習慣異る為であるが、日米間の比等問題に対する差は正しく天地の大がある。我国人が一躍して米国式に改め得るか否かは別とするも、我社交が複雑にして浪費多く、正しく大改善を加ふるの要あることは明かである。
 その他宴会に贅沢を極むるも、停車場の送迎に雲霞の如く送迎するも、季節に贈答することも、訪問に手土産を携へ、客に対して酒食を饗することも、定められた時間の精確に守られぬことも、総て外国の
 - 第49巻 p.596 -ページ画像 
社会生活に見られない現象である。見られないのみでなく時間と費用と精力とを浪費することの多い弊風である。常の時にありても宜しく改善すべきことであるが、近時の如く社会が不景気となり収入の減少しつゝある場合に於ては特に改善せねばならぬ。
 此等の弊風改善に就ては従来も屡々論議せられ、外国より帰りたる者は必らず之を説き、内地にある有志者も亦之を論じてゐた。畏けれど戊申詔書も亦之を憂ひさせ給ふた大御心の発露であると信ずる。されば今日を待つまでもなく、早く既に改められねばならなかつたのである。
 近時に至り三井系の事業に従事するものが自匡会を組織し、此等の弊風打破を申合せ、三菱関係の事業従事者も亦同じ規約を協定し、郵船会社でも同じ意味を本支店に訓達したと云ふ。此等の有力な大会社が此等の申合を行ふに至つたのは、積弊日に益々甚だしく、之を成り行に放任することが出来なくなつたことを示すに足る。
△弊風改善は何故行はれぬか 弊風の改善は何人もその必要を痛感してゐる。痛感しながら尚それが実現せられぬのは、一に其人が勇気を欠くからである。結婚、葬礼に新方法を行はんとするも、世間の批評を怖れて敢行することが出来ない。之に列する者も亦主人側の心持を臆測して義理ながらも行くのである。送迎者の年と共に増加するが如きその最も著しいものである。一面識の者にも、送迎せず或は婚祭に赴かなければ何となく対手に敬意を表せざる如く思ひ、又他より思はれはせぬか、而してそれが自己の利害に関しはせぬかを懸念するのである。曾ては稀にかゝる不心得の長上者もなかつたことはないであらう。さればこそ送迎と婚祭とに赴くを仕事とするなど悪評される人々も出来たのである。併し栄達が一に実力本位となれる今日斯の如きことはあり得ない、又斯の如き人は上長者としての資格を欠ける者である。されば長上に立つ者は先づ自己の送迎を辞退し、華美贅沢なる婚葬の式を廃し、時間の励行、奢侈の宴会を撤すべきである。之が実行は主として自主の力に待つ、他人の言説に顧慮せざるにある。従来生活改善を口にし或は団体を設くるものゝ終に実行的に移り得なかつたのは、実行の誠意と勇気がなかつた為である。
 社会も亦この弊風の改善の行はれぬに対して、一分の責任なしとせぬ。折角弊風改善を志し旧慣打破の事を敢行する者あるも、その真意を解せず、徒らに之を非難し去り、改善の萌芽を摘み去つて了ふことが少くない。物議の種子となるよりと思ひ、心ならずも旧慣墨守より蝉脱することが出来ぬのである。
 但し世上には必ずしも之が実行者なしとせぬのである。例へば故安田善次郎氏が昨年浅野総一郎氏と南洋方面に旅行したときの如き、出発も帰国も共にコツソリと行ひ、知人は勿論、安田系の関係者の送迎をも拒み、殆んど人の知らぬ間に往き且つ帰つたのであつた。又郵船社長伊東米治郎氏は英米に在任すること十五六年、流石は彼地の簡単生活を味ひ来つただけに、令息及び二令嬢婚嫁に際し親族及び親近者のみの祝宴を開き、一般知人に対しては手紙による通知に止めたと聞く。此等は極めて稀な例であるが、其人に実行の勇気あれば、無理解
 - 第49巻 p.597 -ページ画像 
の非難を排して能く実行し得ることを明示する事例である。
△生活改善の新運動起る 弊風の改善は勇気ある者が単独に実行し得られぬこともないが、併しその範囲は狭少を免れぬ。自己を清ふするも社会全体に及ぼすことは出来ぬ。是に於て社会の有力者が協定し結束し、心から之が実行を計画せねばならぬ。而して最近に至り愈実行的組織が計画せられつゝある。
 二三ケ月も前であつたらう。欧洲より帰朝した岡実氏を始とし郵船の伊東社長、同社の前副長加藤正義、北海炭礦の磯村豊太郎、山下汽船の山下亀三郎氏等が某所の晩餐に会した時、談、偶生活の改善に及び、各社の有力者間に実行的組織を設け、官民一致して国民生活を緊縮し一大刷新を行はんとするを協定し、爾来各方面に説きて非常な賛成を受け、会の草案も既に成り、遠からず渋沢子爵を会長として発表し、実現に努力する筈であると聞く。
 吾人は未だ会規の内容を知らぬけれども、上文記述の弊風を矯むるにあるを疑はぬ。元来この弊風は、旧来の因襲であることいふまでもないが、之を烈しいものとなし、奢侈的に流れしめたのは、主として所謂実業家にあると云はねばならぬ。彼等が商売上社交上の名義の下に、日々夜々の宴会はもとより、儀礼上の会合に於ても贅沢を極めたことは、延て一般国民の間に弊風を助長する因をなし、最近の如き不景気の折柄にも拘らず、尚且つ花柳の巷に絃歌の湧く所以のものは、彼等及びその弊に習へる社会の大なる弊風の結果であると云はねばならぬ。
 今やこの実業界の有力者中、率先して改善を絶叫し、少くとも自己及び其関係事業方面にこの精神を鼓吹し実現し、延て一般の社会に及ぼさんとすと云ふ。彼等が衷心よりその必要を痛感し、規約を結んで之を履行し、反則者に制裁を加ふる程度にまで進んだならば、弊風の一洗必ずしも行はれぬことではあるまい。
 工業家の集団より成る日本工業クラブは、先頃外遊実業団の帰朝を迎へて盛大な歓迎会を開いた。当日の委員等は計画中にある会の趣旨を体し、時間を励行して午後六時に開会し、二種の余興あるべき予定を変更して三十分の一余興に止め、六時半食堂を開き、一時半にして終り、来賓十八人の卓上演説を乞ひ、二時間にして散会したと云ふ。時間を正六時とした為に後れた者も少くなかつたと云ふが、委員は頓着なく開会し、食事の如き、質を精選して皿数を少くし、出来得る限り新生活の趣旨を実現するに努めた。これ亦時代の流を示す第一の兆であると信ずる。
△今は正に絶好の時季 想ふに複雑な生活を一変して簡素となし、時間・費用及び精力の浪費を防ぐの必要は云ふまでもないが、吾人は今の時に於て緊張生活の特に最も急務であるを叫ばざるを得ない。
 世間は不景気を訴へる声高く、事業会社は損失又は無配当のもの多きに拘らず、物価指数は英米に比して遥に高く、貿易は初四ケ月間に於て既に三億三千万円の輸入超過を告げ、正貨は満一ケ年間に二億六千六百万円を減少した。不景気でありながら物価下落の度遅々として進まねば、輸入超過は免れず、而して之を決済するもの一に正貨の払
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下に由るの外ない。されば現在の正貨を以てするも、大正十四年までに必要な外債利子及び元金を支払へば在外正貨は一空に帰し、若くは内地正貨を輸出せざるを得なくなるであらう。之に対応すべき輸出の促進は一に国内物価の低落、従て生ずる賃銭の下落及び能率の増進に待つの外なしとせば、生活緊縮の要は多言を待たぬであらう。
 複雑生活は淵源由来する所ありとするも、今日の奢侈は戦時の好況時代以来に於て最も著しい。今日の不況に際し之を矯むるは其時既に後れたるの感なきにあらざるも、実現の時としては行ひ易く、同時に複雑生活を一転するを得るとせば、今日までの奢侈も始めて善用せらるゝと云ひたい。想ふに複雑生活は動もすれば奢侈の弊を伴ひ易く、而して多年の習慣は根柢の鞏きものがある。故に之を覆して新生活に入らんとするは、一種の社会生活の革命である。これその行はれ易からざりし所以であるが、今や先覚渋沢子の実業界有力者と手を携へてこの大事に当らんとす。正しく絶好の時である。吾人は子爵以下の大なる努力を望むと共に、社会も亦大に之を助け、共に我日本の新しき生活に入るを望む。


竜門雑誌 第四〇九号・第六五―六六頁大正一一年六月 ○中元廃止の気運(DK490196k-0013)
第49巻 p.598-599 ページ画像

竜門雑誌  第四〇九号・第六五―六六頁大正一一年六月
○中元廃止の気運 左は六月十五日の東京朝日新聞に掲載せられたるものなり
 煩はしい贈答品持廻りの季節が来た、徒な家庭の気苦労と冗費が嵩むこの習慣打破の気運は、今年になつて漸く理論から実行に移る
 △曙光が 現はれた、官吏・教育家・自由職業家などに殊に多く中元季節が近づいた最近に其決心を見せた人が尠くない、入沢博士・三輪田元道・宮田脩氏等の外に、女子美術の校長浜幸次郎氏等はその代表的な顔触れであつて、お互に個人的な実行から社会への宣伝にも努める為に、生活改善同盟会で発行の『生活改善要綱』をその知己に配つて居る、その配られた要綱の一項に『贈答品を廃止しましよう』とある箇所へ
 △朱線が 引かれて『今年から廃止断行』の意示表示にしてある、同盟会ではその会長の伊藤博邦公が疾くに実施して居るのに促されて、役員は殆ど全部今年から実行して居る、棚橋源太郎氏もその一人であつて、贈答品を廃止した実験に『主婦の心配がなくなつて雇人を無駄に使はず冗費の節約が出来る、それに家庭訪問に際して手土産がなければ重かつた足も、この決行以来軽くなつて
 △物質を 離れて精神的な交際が続けて行けるやうになつた』と言つて居る、実際広く交際をして居る家庭では歳暮と盆と一季を主婦は忙しさに追はれて居るが、その忙しさは贈答品買集めの配慮の為である、現に渋沢氏の家庭では、年に二回の季節には八畳と十二畳の部屋が一杯贈答品で埋まつて了ふので、その返礼心配だけに使用人の二三人が専任でやらねばならぬ、『今年からは是非廃めたい』子爵も辛い経験から然う言つて、既に『生活改善要綱』の
 △註文を して居る、同盟会が調査した弊害の一ツにも、贈答品の為に却て交際が断たれたやうな実例もある、それは持廻られた贈答
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品が最後の家に届いた時には内容品が腐敗して居つたので『腐つたものを呉れた』話を知己にしたのが贈つた家庭に伝はつたのであつた『弊害の一等多いのはその贈答品交換であるが、殊に中元には時節柄品質に注意しない関係から飛んだ間違が起ることもある』と同盟会でも話し居た


渋沢栄一書翰 控 諸井恒平外宛大正一一年七月一九日(DK490196k-0014)
第49巻 p.599 ページ画像

渋沢栄一書翰 控  諸井恒平外宛大正一一年七月一九日  (渋沢子爵家所蔵)
拝啓 炎暑之候弥御清適奉賀候、陳ハ先頃ハ例年之通り御丁寧なる御中元之祝品御恵贈被下御厚情難有御礼申上候、扨輓近之時勢ハ各方面に進展致し、御同様交際往復之範囲も拡大し、諸事煩雑に相成候折柄中元・歳暮等之贈答を従来之如く因襲致候事ハ、時勢に背馳致候様被相考候のみならす、現に生活改善同盟会に於ても種々討究之上、形式的の贈答廃止を高唱せられ居候際にも有之候間、向後ハ相共に右改善之趣旨に遵ひ申度と相考へ、御答礼ハ態と差扣へ申候間宜敷御諒承被下度候、右一書可得貴意如此御坐候 敬具
  大正十一年七月十九日
                     渋沢栄一


渋沢子爵家所蔵文書 【御中元贈答相互廃止家】(DK490196k-0015)
第49巻 p.599-600 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
    御中元贈答相互廃止家
          (鉛筆)
          △中元廃止ノ状差出シタル分
               ◎△ 諸井恒平発

◎印にハ           ◎  桃井可雄発
暮にも相成候ハヽ、他の    ◎ ○石井健吾発
皆様へも御同様申上候考    ◎  土岐僙
に御坐候、御含まて係へ       日下義雄
申上候の添書を為す事      △ 横山一平発
                △ 山本栄男発
                △ 渡辺治右衛門発
                  今村繁三
               ◎  福原有信発
                △ 脇田勇発
                △ 犬丸鉄太郎発
                ○ 渋沢義一
                ○ 古河虎之助
                  諸井恒平
                  〃 華畦
                  石井健吾
                  横山一平
                  山本栄男
                  渡辺治右衛門
                  伊藤半次郎
                  脇田勇
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                  犬丸鉄太郎
                  星野錫
                  古河虎之助


竜門雑誌 第四一四号・第一三―一四頁大正一一年一一月 ○生活改善の内容と外容 青淵先生(DK490196k-0016)
第49巻 p.600-601 ページ画像

竜門雑誌  第四一四号・第一三―一四頁大正一一年一一月
    ○生活改善の内容と外容
                      青淵先生
 本篇は青淵先生の談話として「世界公論」六月号に掲載せるものなり。(編者識)
 時代の推し移ると同時に、世事百般の顕著な変化を見るのは当然の様に思はれるが、一寸考へれば驚かされる感じがないでもない。日本国民のなしつゝある日常生活の様式の変化などは就中著しいものとせねばならぬ。生活の根本たる衣食住の改善については多年叫ばれたのであるが、一例を示せば和洋両様の服装のいはゆる二重生活なども当然改善統一さるべき時代が到るであらうと思ふ。当面の研究事項として日本に於ける懇親者間の宴会に於ける多年の習慣に囚はれた其の弊風を打破したいと思ふのは、何人の頭にもゑがかれてゐるが、其の宴会が果して懇親の意味に於て為されるのか、或は訳けもなく酒を飲み且つ喧騒するための集合に過ぎぬものであるか、判断のつかないのみではなくして、従であるべき筈の余興の方が却て主となるやうな嫌ひのあるのは甚だ意味をなさないのを遺憾とする。これ等は今直ぐにも改めねばならぬ弊風であらう。是れについて昨年米国を訪ふて自から味つた一二の例を示すならば、其の滞米期間が余り短かつたので詳細に亘つた研究は固より為し得なかつたけれども、二三のクラブの宴会などにも席をつらねて見た。米国は禁酒国といふ関係もあらうが、夫れ等の宴会は極めて質素に且つ簡短なもので、日本の夫れに比べれば実に驚く程であつて、殊に某クラブの席上では最初一寸手を付けた位に止まり、また此の上に御馳走が出るものとまちかまへて居ると、其のまゝに散会したので私は腹をすかして帰つたと云ふ滑稽もあつた。斯くの如きは如何に禁酒国とは言ひながら、無駄の経費をつかはないといふことに、衷心窃に感じ入つたのであつた。公会席上に於て斯くの如きものばかりではなく、家庭に於ても之れと同様に、某教育家の紹介で彼の大富豪と叫ばれるカーネギー氏未亡人と会見したこともあつたが、米国に於ての慣習ではあらうけれども、日常の訪問には茶で招待することが多い、夫れも未亡人自から案内役を勤めるか、または娘をして案内役たらしめるといつた有様である。
 先年訪問した関係もあつたので、今度の渡米に際してもまたルーズベルト氏邸をも訪問した。同邸に於ても矢張未亡人自身が出迎ひてくれて、先年訪問した時に案内された懐かしい親みのある思出の室に案内されたといつた次第で、此の邸にあつては碌々お茶も出してくれなかつたやうに記憶して居る。斯くカーネギー、ルーズベルトの如き世界的名家の邸に於てすら、夫人自身が案内役をつとめ、無駄の事に女中などを使役しないといふことは、如何に米国婦人が時代に眼さめた考への下に家庭内に於て活躍して居るかゞ窺はれる。これを我が日本
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に比べたらば如何であらうか。全く驚くより外はないのである。我国にあつては女中の二人三人は申すまでもなく、前にも後にも女中を連れて居るといふ有様で、斯うしたことが我国に於ける上流並に中流一部の風習であるが、是れなどは今直ぐにも改善せねばならぬ風習の甚しい旧態であるとすべきである。斯んな有様では到底世界列国の文化に同伴して行けやうとは思はれない。国家の上から見ても、個人の上から見ても斯うした非文化生治に満足してゐるやうでは、国家の前途殊に寒心にたえないであらう。


生活改善の栞 生活改善同盟会編 第一三九―一四〇頁大正一三年二月刊(DK490196k-0017)
第49巻 p.601 ページ画像

生活改善の栞 生活改善同盟会編  第一三九―一四〇頁大正一三年二月刊
    本会役員(イロハ順)
  会長  公爵 伊藤博邦
  副会長    星野錫     子爵母堂 本野久子
  顧問     井上公二         北条時敬
      子爵 渋沢栄一
  理事○略ス
  監事○略ス
  評議員 子爵 渋沢栄一 ○外一二三名氏名略ス


渋沢翁と生活改善 土肥脩策編 第三〇―五三頁 昭和六年一二月刊 【七 生活改善同盟会と渋沢子爵との関係 棚橋源太郎/八 生活改善者としての渋沢子爵 土肥脩策】(DK490196k-0018)
第49巻 p.601-609 ページ画像

渋沢翁と生活改善 土肥脩策編   第三〇―五三頁昭和六年一二月刊
    七 生活改善同盟会と渋沢子爵との関係
                 生活改善同盟会理事 棚橋源太郎
 生活改善同盟会が生れたのは、大正八年十二月五日であるが、本会が最初生活改善同盟会といふ名前を附けたのは、十二ケ条程の実行条目を挙げて、必ず之を実行する同盟者の団体とするといふ意味であつた。今日現にやつて居る生活改善同盟会は之から見ると余程緩和されたもので、寧ろ生活改善協会とも称すべきもので、昔、西郷従道侯や板垣退助伯等の作つた、風俗矯風会などゝ殆んど同じ意味あひのものである。
 創立当時の生活改善同盟会、即ち実行条目は必ず断行するといふ同盟会は、一旦之に加入したものは是非とも実行条目十二ケ条を断行する、誓つて之を決行するといふことから出発したもので、其実行条目十二ケ条は
 贈答廃止、結婚葬儀の改善、服装の改良、時間励行、禁酒禁煙
等が主なる箇条であつた。今日の改善同盟会の実行条目は、約二百ケ条位に増加してゐるが、創立当時に於ては僅か十二三条に過ぎなかつた、併し入会者は必ず之を実行する義務があつたのである。以上の実行要目を携へて、創立後間もなく(大正九年一、二月頃と思ふ)兜町の渋沢事務所に渋沢子爵を訪問した。子爵は実行条目を熟読されて、趣旨としては大体に於て大賛成であるが、たゞ条目全部を実行せねばならぬことになると、他人は知らず、自分は少々困るとの御言葉であつた。之を見ても当時子爵は如何に真面目で真剣であつたかといふことが解る。大概の人ならば実行の可能不可能などは好い加減にして、結構々々位で一時を糊塗するところを、子爵は実行不可能の点は始め
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から公言された。それで改善同盟会の方でも、始めは十二ケ条全部は必ず実行するといふ意気込であつたが、子爵の意見を聞いて多少緩和修正の意見も出て来たので、調査会を設けて実行の出来る程度に於て一歩一歩改善を促して行かう、多少の除外例はあつても差支へないといふ緩和論が勝を占めて、遂に子爵の賛成を得たのである。
 子爵は一旦賛成されると非常な熱心を以て、此事は甚だ必要な事であるから是非大にやれとの、督励のお言葉があつたので、会の理事等が会議を開いて事業計画及び其経費等に就いて案を立て、殊に資金の事になると、会の評議員は沢山あつたが、此点は是非共子爵に一肌抜いて戴かねばならぬといふことに衆議一決し、資金問題に就いては主として実業家側の評議員に集つて貰つて、特に子爵の御出席を依頼した。然るにあの御多忙のお身体であり、且つ他にも先約の会があつたにも拘らず、会場のステーシヨン・ホテルに必ず参加するといふ、当時の子爵秘書増田明六氏を通じての御回答があつたので、評議員一同も非常に喜び且つ勇んだ。其会の主なる出席者は、渋沢子爵、早川千吉郎、古河の代表井上公二氏外、有力な実業家も出席して合議の結果取り敢えず十万円位の金が欲しいといふ希望であつた。之に対し三井三菱其他主なる実業家の援助を受けるといふことになり、列席の人々と相談の上、数十名の人々より出資を仰ぐといふ予算を立てた。予算を立てゝ見ると総計が十二三万円ばかりになる勘定であつたが、子爵は初筆に二千円を申込まれ、早川氏二千円、古河氏三千円、三井・三菱が各六千円といふ案を立て、斯くして事業資金の募集に着手した。然るに大正九年には世界大戦争後の大恐慌が襲来したため、不幸にして予定の総額十二万円の約半額にしか達しなかつたが、それにも拘らず、改善同盟会が大正九年創立以来満十二ケ年の間、会を維持し来つたのは、偏に子爵が事務御多忙の中より、特に此事業に興味を持たれてわざわざステーシヨン・ホテルに乗出された賜と思つてゐる。
 其後子爵から御約束の二千円を三回に分納されて、評議員会のある毎に必ず出席され、何かとお世話をされたのである。評議員会はお茶の水の博物館、神田の青年会館等で度々開かれたが、子爵は必ず之に出席して、或時などは事務主任が簿記に慣れぬため、世間並のつけ方をしてゐるのを見て、大変子爵に叱られたといふやうに、会に御熱心であつた。
 何時か、会創立当時王子のお屋敷に私が用事があつて伺つて、用が済むと子爵はわざわざ玄関まで見送られ、それから執事を呼んで私を紹介し、「此方は生活改善同盟会の棚橋さんだが、私一家のきりもり交際・儀礼・御祝儀等のやうな問題につき、棚橋さんに御相談して、お指図により冗費を省き、生活の改善を計るやう。」とのお言葉があり、私もひどく恐縮したことがある。之を以つて見ても子爵が真に生活改善事業に共鳴され、先づ之を自分の家庭から実行した事が明かである。其後令孫敬三氏の結婚披露の改正、盆暮の贈答廃止等、着々改善されて行つた。
 伊藤会長(故博邦公)は非常に会務には御熱心ではあつたが、兎角御病気勝であつたので事務に専念することが出来ず、誰れか副会長に
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相当する人、会長を補佐する人が必要になつた。其人選方を子爵に御一任したところ、直ち星野錫氏を推された。星野氏は今日もさうであるが、実業聯合会の会長であつたので、節酒禁煙、贈答廃止、消費節約といふやうな会であつて見れば、考へやうによつては商売上一寸迷惑に感じたこともあつたであらう。そこで実業聯合会々長が、生活改善同盟会に乗込んで、責任の地位に立つことを一寸躊躇された。けれ共星野氏も外ならぬ子爵の御推薦とあれば、一応子爵に御面会の上確答するとのことであつたが、子爵と御相談後遂に承諾された。是れも恐らく子爵のお言葉があつて、たゞ無暗に消費節約、節酒禁煙を強ゆるのではなく、生活全体の改善を計るといふのが目的であるから、別に差支ない筈だとの趣旨で承諾されたことゝ思ふ。其後星野氏は度々辞意を漏されたが、其都度私は子爵の御同意を得た上で辞任されぬやうにと、止めたので其まゝ思止られた。
 生活改善同盟会が特に子爵を顧問に推戴した理由の他の一は、会に総裁を置いて、どなたか宮様を奉戴したいといふ考であつた。子爵に此事を御相談すると大変賛成されて、星野副会長と私とを同道して子爵御自身宮内省に伊藤主馬頭(本会々長公爵)を訪問し、それから牧野宮内大臣に面会し、宮様奉戴の一条を相談し、子爵は熱心に宮内大臣を説かれたが、何分会にはまだ基金も十分ならず、基礎も鞏固とはいひ兼ねたので、今暫く時機を見計らつて、斯る問題に最も御趣味を持たるゝ宮様を考へて置かうといふことになり、且つ当時宗秩寮総裁であつた徳川頼倫侯をも訪問して、同様の希望を述べて退去したことがあつた。斯く生活改善同盟会の発展については、子爵は絶えず念頭を去らなかつたので、あの御多忙のお身体を以つて宮内省にまで行かれたのである。
 最後に渋沢子爵の私生活の一端を述べて、如何に生活改善の実行者であつたかの参考としやう、子爵の(老後)の健康長寿法は、「健康長寿法」の著者スミスの三則であつた。
      健康長寿法
 (一)活動を続くる事
 (二)節制を厳守する事
 (三)心を平和に保ち、懊悩を避ける事
      起居
 朝は六時半起床して洗面、時々坂本氏の屈伸道を行ふ、在宅の時は新聞・雑誌及書物を読ませて聴く、夜は十時頃就寝。
      食事(大体二食)
 朝食 オートミールを普通茶碗に二杯位、パン五六片、鶏卵目玉焼二個、コーヒー、果実。
 夕食 米飯軽く二杯、副食物は日本料理の軽いもの、野菜・魚・挽肉・汁等、特に野菜を好む。
 時に昼食の代りにコーヒー、果実を摂り間食には好んで飴を食す。

    八 生活改善者としての渋沢子爵
               生活改善同盟会理事長 土肥脩策
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      生活の合理化
 生活の改善、生活の合理化といふ事は、私共生活改善同盟会に関係する者ばかりでなく、実際上一般の人々も痛切に感じてゐることである。たゞ因襲の久しき、世間一般が広くやつてゐる事に心ならずも随従して、お互に迷惑するといふやうな場合が多いのである。例へば婚礼葬儀、年末年始等の贈答、其他の場合に際し、真に心から祝ひ又は弔しての物品の贈答ならば、必ずしも悪いとはいはない、或場合には人情の自然でもあり、美挙であらうが、単に世間一般の習はしとか見えとか義理とかに囚はれての贈答では、送る方ではいろいろと心配もし、受ける方でも貰つて却つて迷惑した上、更に返礼に心配するといふやうに、物質的にも精神的にも二重の損害である。斯うした事は心ある人は誰れでも痛感してゐる事であるが、たゞ世間一般の慣習に引きづられて、敢然之を廃止し得兼ねてゐるといふまでの事である。斯る時に渋沢子爵のやうな社会の高い地位に居られる方が、生活合理化の精神から虚礼廃止を断行されたといふことは、吾々生活改善に志す者は勿論のこと、世間一般の人々も真に心から感謝し、同時に之に習はなければならない事と思ふ。虚礼廃止に就き私が親しく子爵に学び得た二三の例を挙げて見やう。
      年末中元の贈答廃止
 第一は盆暮等の贈答の廃止である。元来渋沢家は非常に丁寧な、義理固い、また礼儀の正しい家風であつて、不断でもさうであつたが、年末とか年始とか中元とかの場合には、私共から品物を送れば必ず之に返礼をされることは勿論、当方より送らんでもいろいろと御心配されて、懇親の者や同門の者一同に送つて下さつたものである。それで私共は驚いて後ればせながら、御返礼をするといふやうな事も度々あつた。然るに子爵もだんだん世の虚礼の弊を痛感され、其煩に堪えなくなられると、直ちに之れを廃止されやうとして、数年前私共懇親の者一同に対し、御丁寧な斯ういふやうな意味のお手紙を下された。其意味は、私共お互は従来世間一般の習慣に従つて、いろいろむだな贈答をして来たが、それが近来は夥しい範囲と数になつて到底其煩に堪えない。殊に世の中が益々複雑になつて、何時までも斯る虚礼を踏襲することは出来ない。夫故私は断然今後虚礼の贈答廃止を決行するから、諸君もまた廃して貰ひたい、万一諸君が送つて呉れても、当方からは一切之に返礼しないから左様お含みを願ひたい、といふことであつた。此事は私共一同に取つては非常に難有い思召であつたと同時に子爵家の従来の家風からしても、また子爵のやうな位置の方としても余程の決心がなければ出来ない事であると思ふ。且つ又た子爵の生活改善に対する勇断に敬服せざるを得ないのである。
      婚礼の虚礼廃止
 次は子爵の令孫敬三氏の婚礼の際の虚礼廃止断行である。先にも述べたやうに、従来渋沢家の家風は非常に丁寧な、義理固い、礼儀の正しい、寧ろ豪奢を極めたものであつて、其令息・令嬢方の婚礼の際の如き、其規模といひ、趣向といひ、真に善美を尽くして一世を驚かしたものであつた。長男篤二、二男武之助、三男正男、四男秀雄氏等令
 - 第49巻 p.605 -ページ画像 
息方の結婚式はいふに及ばず、令嬢明石照男氏夫人婚礼の際もさうであつた。婚礼は大抵王子飛鳥山のお屋敷で行はれたが、其善美は実に目を驚かすばかりであつた。一例を挙げると、此等令息方の婚礼には新橋・柳橋・吉原等の一流どころの名妓を総揚げして客の応接に当て先づあの広いお庭で園遊会の催しがある。是れがまた非常な大がゝりのもので、催し物や食事や摸擬店に至るまで、到底一般の園遊会の比ではないのに、これが済むと更に正式のデナーが始まるが、其膳部の豪奢は当時の富豪者をして三嘆せしめたものである。然るに子爵が一旦世の虚礼の弊を痛感され、生活改善の必要を悟られたので、令孫敬三氏の結婚式には、前記令息方の時とは天地雲泥の相違の質素なものであつた。敬三氏の婚礼は工業クラブに於て行はれたが、質素なお茶の披露式であつた。時刻になると新郎新婦は入口に立並んで型の如く来客に挨拶し、直ちに設けの食堂に入るのだが、其食卓にはサンドイツチ・菓子・寿司・フルーツカクテール・和洋酒といつた、お茶の会の名に負かざる簡単な御馳走で、豪奢を誇る渋沢家の結婚式としては徹底した、破天荒の虚礼廃止であつて、来客一同は流石渋沢子爵だと其勇断に感嘆措かなかつた。
      宴会の改善
 以上は盆暮又は婚礼の虚礼廃止の一例に過ぎないが、斯うした儀礼張つた場合以外にも、昔の渋沢家では王子のお屋敷には年に一・二回多数の客を招待して盛大な宴会の催しがあつた。斯る場合には料理は必ずお出入りの料亭浜町の常盤家、俗に有名な大常盤から這入つたもので、金に飽かして山海の珍味を出したものである。此場合にも新柳二橋の美人総揚げの上、帝劇の男女俳優を呼んで来て正式に芝居の催しなどもあつた。王子のお屋敷には立派な舞台があつて、斯うした催しに備へてあつた。此事は勿論渋沢家の豪奢な家風にも依るが、一は子爵は我国実業界の第一人者たると共に、世界的大人物であつた関係上、多くの外人を招待する必要から来たことゝ思ふ。然るに子爵が一度生活改善に目覚めて以来といふものは、斯る不合理な生活は一切廃止して、大がゝりの宴会は一回も開かれず、殊に震災後はあの有名な舞台も何時の間にか物置きに代用さるゝに至つた。
      米寿祝賀の返礼
 次に全国実業家発起の子爵米寿祝賀会の事を述べる。同祝賀会は昭和三年十月一日三井・三菱を始め全国の大実業家六十五名の発起にかかるもので、陪賓其他の出席者は時の首相田中義一男以下各大臣、枢密顧問官、重臣、大官、貴衆両院議員、実業家、駐在各国大公使を始め、其他各方面の代表的人物実に九百三十五名といふ多数の人々を網羅した、真に空前の大宴会であつて、子爵に取つては最後の華々しい舞台面であつた。しかも此の空前の大祝賀会は勿論子爵の発起ではなく、子爵の国家世界に対する偉大なる貢献と、稀なる長寿とを謝し且つ祝する、国民の真情の表顕の一端に過ぎなかつた。此の真情をこめた祝賀に対しては、子爵が如何に感激されたかといふことは、其席上首相田中義一男並に団琢磨氏の祝辞に対し、「感極つて申上げる言葉を殆んど失ひまする有様でございます」と冒頭した有名な答辞、単な
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る答辞といふよりも子爵の自叙伝又は偽らざる告白記を一読しても明かである。この前代未聞の大祝賀に対し、昔の子爵ならば定めしまた之に劣らざる返礼の大宴会を催されたことを疑はない。しかし一度生活改善に志した子爵は斯る形式的虚礼を一排して、極めて意義のあるまた真情を込めた新しい返礼法を取られた。それは子爵が当日の出席者に対し送られた、左の自筆の礼状を一読すれば思ひ半に過ぎるものがあらう。
 拝啓 追日向暑の候と相成候得共、愈御清適候条奉賀候、然者拙老一昨年を以つて米寿を迎へ候に付、御鄭重なる祝賀に預り御懇情謝する所を知らず候、深く感銘仕候、就いては小宴にても相催し親敷拝謝の微意を表し度候へ共、頽齢兎角所労多く、其意に任せず候に付、聊御礼の験までに左記の粗品進呈仕候間、御受納被下度候はゞ本懐の至に不堪候 草々不宣
  昭和四年五月
                      渋沢栄一
 一、拙書大学並前赤壁賦    一部
 一、銀製文鎮         一箇
としてある。返礼の宴会を廃止したのは、所謂「頽齢兎角所労多く其意に任せ」ない為めではない、之れは畢竟辞令に過ぎないので、子爵は斯る事を虚礼として郤けたのであらう。
 而して贈呈の文鎮には左の句が彫刻してある。
        文鎮句
  義利何時能両全   毎逢佳節思悠然
  回頭愧我少成事   流水開花九十年
   己巳元旦書感      青淵逸人
尚ほ右の手紙の外に副書として、左のやうな真情をこめられた手紙を添へてあつた。
 副啓 今回座右に進呈致候拙筆大学及前赤壁賦は、老生居常趙子昂の書風を喜み、暇あれば之を臨挙致候に付、今又右の二書を手書し且つ青年以来拙作詩文を旧稿中より抄録致し三種を合して「妄憂余楽」と題する一部の冊子となし、以て各位の一粲を煩し申すべき積りに候処、春来兎角二豎の犯す所となりて詩文の抄録を果すを得ず不取敢二書のみ呈上致候事と相成申候。併しながら幸に病気も逐日快方に趣き候に付、其中別に右詩文抄を一冊として劉覧に供し候存意に御座候間、御諒承被下度此段添へて申上置候 敬具
  昭和四年五月
                      渋沢栄一
とあつたが、しかし子爵は右の手紙に約束された自作の詩文抄は、其後病気其他の事故のため遂に約束を果し得ずして逝去されたのは返す返すも残念である。
      葬儀の一大革命
 最後の子爵の虚礼廃止は、子爵の葬儀の際遺志に依り一切の生造花は勿論、其他の供物を辞退されたことである。子爵の病気は十一月一日以来幾度か危篤を伝へられたが、十一月十一日即ち子爵が最も重き
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を置いた世界平和記念日、毎年ラヂオ放送をして記念した思出で多い十一月十一日に九十二歳といふ高齢を以つて大往生を遂げられた。国宝とまで謳はれた偉人渋沢子爵の葬儀であるから、普通ならば各方面からの生造花・供物は山をなしたことはいふまでもない。しかも名実共に生活改善の実行者でもあり、主唱者でもあつた子爵は、臨終の際までも社会風教の大事を忘れず、世俗の弊風に反対して遺言を以つて固く虚礼を戒め、生造花・供物一切を拒絶されたのである。それがため子爵邸に於ける霊前には天皇、皇后、皇太后三陛下より恩賜の生花三対と、親戚一同より送られた生花一対と都合四対のみで、極度に質素な葬儀であつた。青山斎場の霊前もまた同様で、各宮殿下御下賜の榊、各国大公使よりの花環が極く少数供へられたに過ぎなかつた。
 子爵のこの遺志は将来世道人心に一大センセーシヨンを喚起するに相違あるまい。また私共生活改善同盟会に直接関係する者は、此機を逸せず子爵のこの難有い遺志を遵奉して世の虚礼廃止に全力を傾倒したいものである。我生活改善同盟会は夙に葬儀に関する虚礼廃止を高唱し来つた。或る有名な公爵の葬儀のあつた際などは、式後生造花の取片付けに三千五百円を要し、其経費の捻出に困つたといふ話も聞いてゐる。斯る虚礼は送る方の人々も物質的にも精神的にも迷惑し、受けた方の人も迷惑した上、其返礼の心配までしなければならないのである。斯うした事は社会的地位の高い人、金満家であればある程実際迷惑もし其弊に悩まされるので、内心は其廃止を望んでゐるのであるが、何分因襲の久しき、幾ら新聞の死亡広告などには、「故人の遺志に依り生花・造花・香典等は一切御辞退申上候」などゝ、型の如く出してあつても、未だ嘗つて実行されなかつたのである。然るに今回子爵の葬儀には子爵の平素の虚礼廃止の趣旨と其遺志とを励行して、生前其最も関係深い第一銀行及同門下の組織にかゝる竜門社、親戚よりの供物さへ辞退されたのであるから、一般よりの供物・生造花は既に持込んだものさへ、門前の葬儀係は礼を厚くして之を拒絶したことは真に徹底した生活改善であり、且つ死後に至るまで世人の儀表となられたことは敬服に堪えない。斯る場合には仮令新聞の広告は出しても折角満腔の厚意を以つて贈られたものを辞退することは、先方に対して相済まぬといふ因襲的習慣に打負けて、已を得ず受取るのが原因となつて、何時まで経つても此虚礼が廃止されないのである。故に私は生活改善同盟会機関紙「生活」八月号に主張したやうに、「万一御贈り下され候共御返却可致候」と明記して、断乎として虚礼を拒絶しても、先方に対して失礼にはなるまいと思つてゐる。兎に角渋沢家の今回のことは世間一般の葬儀に関する一種の革命とも称すべく、旧来の弊風を排脱する好模範ともならう。今後は此新例にならひ、葬儀の際贈物の贈答廃止が富豪間に行はるゝやうになるべく、又た富豪ならざる一般の人々の間にも、渋沢家のやうな大家でさへ虚礼廃止を実行したのであるから、吾々は何も痩我慢までして見えを張るにも及ぶまいと、次第に葬儀の改善が行はるゝやうになるであらう。
      改善同盟会長問題と子爵
 生活改善同盟会では会長伊藤公爵逝去後、いろいろ其後任の方につ
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き物色もし心配もした。私は此事を理事会に相談する前、渋沢子爵と御面会の好機に御意見を伺つたことがあるが、其際子爵は「改善同盟会が伊藤公のやうな名会長を失つたことは誠に残念である。其後任についても今突然の話で之といふお方の心当りもないが、若しどなたか君の方で考でもあるならば共にお勧めする労は厭はない」とのお言葉であつた。私は之に対して、「私も只今では別に心当りの方も持つて居ませんが、若し理事会の方で適当と思ふ人を見出さなかつたやうな場合は、甚だ御迷惑とは存じますが、当分の間子爵に会長となつて戴けますまいか。子爵は我会の顧問であらるる関係上、甚だ無理なお願とは存じますが、予じめお願ひ申します」といふと、兎も角自分も考へて置きはするが、成るべく速に適任者を見出して欲しいといふお話で其のまゝ別れた事がある。
 其後理事会が開かれ協議の結果、或る侯爵の方に交渉することになり、此旨を子爵に御報告してお尽力を願はふと思つてゐたところ、不幸にして子爵は七月の始めから御病気のため御引籠りになつたので、つい其運に至り兼ねたので、止むなく吾々から直接其候補者の方に交渉を試みはしたが、尚ほ其結果が心もとなく思はれたので、私から取敢へず其翌七月二十四日王子のお屋敷の方へ電話でもつて、其後の経過を御報告し且つ子爵のお口添を願つた。すると二三時間程経つて、依頼の件は早速電話で先方へ話をして置いた。先方でもわざわざ老子爵のお声がかりで恐縮に堪へないが、暫く熟考させて貰ひたいとの返事であつたとのことであつた。子爵の御病中いろいろ御配慮に預つて恐縮至極と思つたので、私は翌二十五日の朝、お礼のため王子のお屋敷に伺つたところ、意外にも御面会下さるとのことで応接室に通り、子爵に御面会の上、尚ほも親しく候補者との交渉顛末を御報告し、且つ此上の御援助を願つたところ、子爵はいろいろと会の内容や現状を質問された上、自分が丈夫なら直接先方に面会してお願してやるが、まだ外出が許されてゐない。早速電話を以つて先方へお話をすると快諾されて、約三十分ばかりお話をして引取つた。今から思へば是が子爵との最後のお別れとなつたので、其後遂にお目に懸る機会を得なかつた。
 其午後子爵から早速電話があつて、今朝お話の件は委細先方の執事に申述べたところ、執事の申すには、再三のお電話で重ね重ね恐縮する、余り長からぬ間に何分の御返事をするとのことであつた、との子爵の御返事であつた。然るに其後侯爵家からは何の返事もないので、翌八月六日重ねて電話を以つて子爵にお尋ねしたところ、其返事に、当方へもまだ何の沙汰もない、電話で照会するも失礼と思ふから、明朝秘書をやつて返事を促すことにするとの御返事であつた。
 翌朝私は子爵のお屋敷にお礼に出やうとしてゐると、子爵から電話があつて、今朝秘書を先方にやる筈であつたが、それでは十分意志が届き兼ねる慮があるから、自分で四五日中先方へ出向くことにする。若し侯爵が不在ならば玄関ででも挨拶をして帰りたい。万一会長の指揮を仰がねばならぬやうな重大な事柄があるならば、自分は余り会の事には精通してゐないに依つて、何なりと申して呉れとの電話であつ
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た。如何にも御丁寧な御取計らひで、子爵ならでは出来ぬことゝつくづく敬服したのである。此話は子爵の非常の御配慮があつたにも拘らず、遂に不調となつたが、生活改善同盟会に対する老子爵の御配慮は斯くまで一方ならぬものがあつた。


生活改善中央会回答(DK490196k-0019)
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生活改善中央会回答            (財団法人竜門社所蔵)
一故子爵本会評議員就任は創立以来。顧問就任は大正十三年八月十日。
一本会は大正九年一月廿五日創立。
  昭和八年十一月生活改善同盟会を生活改善中央会と改む。
  ○右ハ当資料編纂所ノ問合セニ対シテ昭和十二年四月二日付回答セラレタルモノナリ。