デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2023.3.3

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

1章 金融
1節 銀行
1款 株式会社第一銀行
■綱文

第50巻 p.174-188(DK500031k) ページ画像

大正6年―昭和6年(1917-1931年)

栄一、当行頭取辞任以後、歿年ニ至ルマデ、相談役トシテ、努メテ当行ノ年賀式及ビ株主総会等ニ出席シテ、演説ヲナス。


■資料

渋沢栄一 日記 大正九年(DK500031k-0001)
第50巻 p.174 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年          (渋沢子爵家所蔵)
一月一日 美晴 風ナクシテ寒気モ強カラス
○上略 十一時第一銀行ニ抵リ、重役及行員一同ト共ニ祝盃ヲ挙ケ、畢テ新年ヲ賀スルト共ニ、行員ノ覚悟ニ付テ訓戒演説ヲ為ス、殊ニ書感ノ一絶ヲ引用シテ現下ノ思想界ニ論及シテ、異端邪説ノ開闢ニ努メサルヘカラサル事ヲ縷述ス○中略
 欲闢異端追古賢。不嫌弁妄与宣伝。事多常憾歳華促。
 八十今朝又一年
  庚申元旦書感              青淵未定稿
  ○中略。
一月二十七日 晴 寒
○上略 午後二時銀行倶楽部ニ抵リ、第一銀行株主総会ニ出席シテ一場ノ訓戒演説ヲ為ス○下略
  ○中略。
二月十八日 曇 寒
○上略 夕方ヨリ、第一銀行株主総会ニ於テ同行ノ歴史ヲ演説シタル筆記ヲ修正ス○下略
  ○栄一、二月十七日ヨリ二十一日マデ大磯明石邸ニ在リ。
二月十九日 曇 軽寒
午前八時起床、入浴シテ朝食ス、畢テ日記ヲ編成ス ○中略 畢テ第一銀行株主総会ニ於ル演説筆記ノ修正ニ努ム ○下略
二月二十日 半晴 寒
○上略 夜ニ入リテ第一銀行株主総会ニ於ケル演説筆記ノ修正ヲ終了ス


竜門雑誌 第三八一号・第五七頁 大正九年二月 ○第一銀行定時株主総会(DK500031k-0002)
第50巻 p.174 ページ画像

竜門雑誌  第三八一号・第五七頁 大正九年二月
○第一銀行定時株主総会 第一銀行にては、一月廿七日午後東京銀行集会所に於て第四十七回定時株主総会を開き、佐々木頭取会長席に着き、大正八年七月一日より同年十二月卅一日に至る同期内決算書類承認及同期間に於ける左記利益金処分案○略ス を附議したるに、満場一致之を可決し、○中略 最後に青淵先生の同行創立当時の懐旧談等ありて散会したる由。

 - 第50巻 p.175 -ページ画像 

竜門雑誌 第三八八号・第一六―二六頁 大正九年九月 ○第一銀行株主総会に於て 青淵先生(DK500031k-0003)
第50巻 p.175-181 ページ画像

竜門雑誌  第三八八号・第一六―二六頁 大正九年九月
    ○第一銀行株主総会に於て      青淵先生
 本篇は大正九年一月二十七日第一銀行株主総会席上に於ける青淵先生の演説即ち是れなり。(編者識)
 重役各位並に株主諸君、私は特に演説をするといふ考を持て出席したのではございませぬけれども、第一銀行の営業が年を積んで次第に繁昌するのみならず、向後も益々栄え行くべき有様を拝見しますると甚だ烏滸がましうございますけれども、自分の育てた子供が益々健全に発達して行くやうな心地がして、実に心嬉しう思ひます、殊に昨年の臨時総会にて資本を増大し、又当期の営業成績を承りますと、未曾有なる利益額に上つて居ります、斯の如く好運の重複するのは如何にも喜ばしうございますけれども、併し此第一銀行が創立の頃の有様から、今日に至つた径路には如何なる困難があつたかといふことを、或る機会には諸君に御話して、諸君をして昔を御想ひ出して下さることが必要であるかと思ふのでございます、故に私が爰に申述べる事はお芽出度いのに油を注いで更に火力を増すといふ意味でなく、寧ろ此銀行の往時には斯様な困難もありました、斯る悲境に沈んだこともありました、斯く言ふ私が頭取の職に在りつゝ真に如何にしたら宜からうかと、途方に暮れたといふ程の境遇も絶無とは云へなかつたのであります、総じて変遷多き世の中の事柄には、何時も好事のみを以て終始するものではございませぬから、常識ある人は誰でも大抵了解するであらうとは思ひますけれども、此銀行とても幼少の時は脳膜炎を起したとか驚風の虫が差込んで来たとかいふて、或は夭折しはしないかと思うたことが一回にして止らぬのでございます、是等の事を今爰に申上げて何の利益があるかと思召す方があるかも知れませぬけれども、隆盛なる時に往昔の憂患を想ひ回すのは或る場合には反省の効ありて諸君が自然と御自身を顧みるやうになりはしないかと思ふのであります、斯く申すと甚だ失礼ですけれども、現頭取佐々木君も其頃は未だ極く青年でお在でゝあつて其艱難の味も私程には御承知はない、蓋し現頭取は私と同じく銀行創立以来従事なすつたのでありますから昔の事も大概は御心得であるけれども、当初の事は御記憶に存せぬこともあるかと思ひます、況や其他の重役諸君、行員諸氏に於ては全然知らぬ事でありますから、斯く繁昌し斯く拡大した場合に、昔の困苦を爰に申上げるのも強ち無用ではなからうと思ふのでございます。
 明治六年の七月三十一日に創立証書を授与されまして、八月の朔日に株主総会を開いたのが抑々此第一銀行の誕生でありました、当初は第一国立銀行と申しました、亜米利加の「ナシヨナル・バンク」組織に模倣しましたから国立銀行と称したのであります、後に私立となつて第一銀行と改称しましたけれども、二十年の長き歳月を国立の名に依て経営したのでございます、当時銀行創立の目的は二つの要件がありましたので、時の財政当局が銀行を許可するのも此二要件を履行させる為でありました、其一は我国の商工業を繁昌させるには完全なる金融機関がなければならぬといふのであつた、他の一つは明治政府は維新の際に財源を持たぬために、不換紙幣を発行して政費に充てたの
 - 第50巻 p.176 -ページ画像 
であります、其不換紙幣は欧羅巴先進国の有様から見ても、何とかして金貨兌換の制度に引直さねばならぬといふことは、当時の財政を掌る有司の深く企図して居つた事であつた、単に企図するどころではなく殆ど職責と思ふ位でありました、そこで此二要件を遂げさせるために銀行制度を布いて、其銀行に依て紙幣の兌換が出来ると同時に商工業に金融を便利たらしむる、是が国立銀行創立の要諦であつた。
 蓋し此発端は、故伊藤博文公が大蔵少輔時代に亜米利加に旅行されて、一八六〇年に亜米利加に行はれた銀行制度を視て、之に模倣して我が財政経済の整理発達を謀つたのが、銀行制度の濫觴でございます而して公は明治四年の夏其方法を調査して帰朝されましたが、明治三年迄の大蔵省の事務は、大隈・伊藤の両氏が専ら担当されまして、続いて井上侯が大輔となられて、殆ど全権と申して宜い位に任ぜられました、私は是等諸氏の幕僚であつて、長官の指図に従つて奔走して居りました、但し普通の属官ではなくて、多少意見を持つて、大隈・伊藤・井上等の諸先輩の指揮を受け実務を処理したのでありますが、私も大蔵省務の整理と共に、単に貨幣の制度、金融の方法のみならず、将来国家の財政経済を如何にして発展したら宜からうかといふことは粗雑な愚案ではあつたけれども、到底幕府の旧制で満足すべきものではない、是非新案を創設しなければならぬといふことを主張したのであります、故に伊藤公が調査して来られた亜米利加の国立銀行制度は最良の方法と思うて、之れに傚うて日本に銀行を創立するに力を尽しました、乃ち明治五年十一月に発行された国立銀行条例といふものは其全体を殆ど私が独力にて取調べました、英文の和訳は福地源一郎氏が専ら取扱ふたのであります、而して其逐条を或は補足し或は修正するのも、大抵私の手で成りました、それから長官の指揮を受け、政府の許可を請うて、法律となりて発布されたのが、即ち前に述べた国立銀行条例であります。
 次で私が其銀行の創立者の位地に立つて、其事務を担当することに相成つたのであります、叙事の玄関が余りに長過ぎて、問題に入るに暇取れましたけれども、是から申上げぬと、何故に国立銀行が出来たといふことは、四十余年を経過した事でありますから、多数の株主諸君の中に多少は聴いて御座つても、詳細に御腹に入つて居らぬかと思ひまして、第一銀行の創立は斯ういふ事であつたと、其次第の概略を斯る機会に申上げるのは、決して無用の弁でなからうと思ふのでございます、そこで明治六年の八月から営業に取掛るのでありましたが、実に此株式組織の経営、而も銀行業務といふものは、何方に向つて何をして宜しいか、殆ど茫乎として津涯を認めずといふ有様で、有体に申せば、何等手が著けられませなんだ、取敢ず銀行紙幣を発行して成るだけ遠方に使用したら宜からうといふことで、奥羽に向つて流通を試みました、維新の際太政官札で大に懲りたる一般の風習がありましたから、銀行紙幣通用といふことに付ても、多少の疑惑はありましたけれども、斯る確実なる制度で銀行を創立し、其正規に従つて銀行紙幣を発行するのであるといふことを、戸毎に伝へ人毎に諭して之れが流通に努めました、私は未熟ながらも多少欧羅巴の事情に通じて、制
 - 第50巻 p.177 -ページ画像 
度の得失も心得て居る、さうして身其衝に当つて、全責任を持つてやるのだから、真逆さう間違つた事もやるまいと、世間でも幾分信用して、此紙幣が漸次流通を始めたといふ訳でございます。
 更に一面には国庫の出納の取扱といふものを引受けました、是は其頃幕府の出納制度の掛ケ屋といふものと同様の手続を以て、維新匆々の際は完全なる規則が無かつたから、御為替方と称へて、三井・小野・島田といふ富豪の三人が一の組合を作りて、政府即ち国庫金の取扱に従事して居りました、而して此取扱も、或る部分は矢張三井・小野・島田が分担しましたけれども、大部分は第一国立銀行が引継ぎて、大蔵省に対して出納の事務を取扱つたのであります、之を名けて御用方と称へました、そこで一般民間の取引と、政府関係の出納事務と、劃然二様の方式に区別して経営しました、勿論其間官府より指定される事柄もありましたけれども、先づ大体は右に述べた順序によりて其取扱を致したのでございます。
 而して銀行創立の初は三井・小野・島田共に第一国立銀行を組織する以上は、官民共に公共的事業は都て銀行に集合して、各自の業務を合同しやうといふのが、三家申合の要旨であつたのです、然るに時日の経過と共に各其感を異にして、初めは第一国立銀行を我店の如く感じたけれども、後に新創のものよりは従来の自己の業務を盛にしたいと思ふから、勢ひ三井は三井の店を盛にしたい、小野は小野の店を繁昌させたいと、其極三を一にしやうと企てたのが、終に三が四になつたのであります、斯る変態を惹起して来まして、御用方の取扱も普通の営業も、敢て甚しい競争とは云へぬけれども、自然に相鬩ぐといふ風になつて来た、殊に当初の銀行重役の組織が、三井・小野双方から頭取を一人宛、取締役を二人宛出すといふ事でありましたから、恰も両頭の蛇のやうなもので、一方が左せんとすれば一方が右せんとするそれでは困るといふので、私が総監といふ名を以て其間に在つて、双方の調停を勤めたのであります、以て当時の状態を御推察出来るだらうと思ふのであります。
 斯の如くにして日を経るに従つて、両者共に第一国立銀行との競争よりは、寧ろ三井・小野相互の暗闘が熾烈になつて、其金融上若しくは政府の事務取扱上、又は各県の出納事務引受等に付て常に衝突するといふ有様で、遂に七年の冬に至つて小野組が破産の悲境に陥つた、小野組が自立することが出来ぬ為めに、政府の処分を願ふといふことになつたのが、明治七年の十一月でありました、此小野組は、株金弐百五拾万円で設立したる第一国立銀行の株式を百万円丈け持つて居つた、而して其大株主たる小野組が破綻といふに至るまでの径路は、今日の談話では単にそれだけで済むやうに見えますが、其間に迂余曲折種々なる面倒もあり苦情あり物議もあつて、第一国立銀行としても、勉めて其困難を援助する方法をも講じたけれども、到頭堪へられぬので閉店となつたのであります。
 而して第一国立銀行は前に述べたる如き関係で、小野組とは莫大の金融をして居りました、正確には記憶しませぬが、田所町の本店に九十余万円、それから瀬戸物町の糸店と称する故古河市兵衛氏が担当し
 - 第50巻 p.178 -ページ画像 
たる商店にも、六・七十万円の金融をしてあつたのであります、大株主としての小野組、大取引先としての小野組が、今申すやうに俄の閉鎖と相成りましたから、是がために第一国立銀行は非常な困難を受けて、所謂致命傷となるべきは、誰が御覧なされても御判りであらうと思ひます、其時には私は真に途方にくれて、どうしやうかと思ひました、自分の不明から斯く成り行きましたが、是は到底銀行を閉鎖するより外に方法はなからうかと思ふた、併しながら既に設立した銀行である、例へ三井・小野の資本で組立つたとはいふものゝ、国家の一大金融機関を新造する為めである、又通貨の制度を堅実にしたいといふ精神から起したのでありますから、如何なる困難に遭遇したからとて為めに挫折するものではなからうといふ覚悟から、更に其意を強うして、或る場合には幾分の弥縫策を講じたかも知れませぬが、成るべく根本の解決を主として、小野組の株は銀行の資本額を減少して其差引を為し、即ち株式百万円を減少して百五十万円として維持することに致したのであります、此時の困難を回想しますと、今も尚ほ悚然として膚に粟を生ずる様に思はれます。
 纔に小野組の破綻を整理すると、又続て不祥事が生ずるといふ有様で、第二回の困難が発生しました、それは此第一国立銀行は、最初其株金高二百五十万円であつて、銀行条例の規定により百五十万円の銀行紙幣を発行することが出来るのであつて、明治八年の春頃までに発行した百万円余の銀行紙幣の爾来一向引換のなかつたのが、八年二・三月に至つて俄に引換が多くなりました、どういふ訳であらうか、今日も多額の引替があつた、明日も又引替があつたといふので、一方には金貨の鋳造を進めて之れが準備は致しましたが、素より発行した紙幣の高を悉皆金貨で備へる訳には行かぬ、又当初斯くあるべしとは少しも思ひ設けぬ事であつた、そこで種々攻究して初めて気が付いて見ると、一体此小額の正貨を以て紙幣の兌換が出来ると思ふたのが、抑抑愚昧なる考案であつて、取も直さず一杯の水を以て一車薪の火を消さんとしたのと同様なる暴挙であつた、是は私が其衝に当つたから、愚昧の先鋒者ではあつたけれども、寧ろ其愚は大隈・伊藤抔の諸先輩も分担せねばならぬのである、詰り此兌換制は、底の無い袋へ物を容れるやうなもので、如何に苦心しても、到底其兌換に応じ得られるものではない、殊に銀行条例発布の当時は金銀の比価に変動が無かつたから、半年許り平穏に流通したが、其比価に変化が生ずると金の需用が生じて、直に紙幣の引替が起つたのであります、別に銀行の信用如何に拘はらず、只紙幣にて金貨を引出すのが利益であるからのことである、此等の事実をも知らずに、兌換制度が出来るものだと思つたのが間違であつて、後から考へると、智者たらざるも理解し得る、真に抱腹絶倒の処置でありました、そこで到頭銀行紙幣といふものは、其名が有つて実の無いものになつて、銀行創立の目的の二者の一方は全く失敗に了つたのであります、去りながら若し十分に活動すれば、他の一方は絶望とは言はぬ、即ち金融機関となつて商工業に応ずるといふ事であります、是に於て再三再四調査研究しましたが、其頃大隈侯が大蔵卿の職に在るので、明治八年から九年に掛けて、段々と詮議を
 - 第50巻 p.179 -ページ画像 
尽して事実を陳情し、銀行制度の改正を懇願しましたが、制度の全体は其儘に存して、単に銀行から発行した紙幣の引替を望む者のある時は、政府の紙幣を以て引替へるといふ、朝三暮四の姑息法が出来ました、是が明治九年の銀行条例一部の改正であります、今日のやうに議会でもあつたならば、斯様なる不条理はないと、政府者が大攻撃を受けるであつたらうが、其時分は議会が無かつたからそれで通つたのであります、而して此改正も第一国立銀行としては相当なる困難事であつて、而して一般の営業は何分にも発展せず、要するに新制度によつて創立せる新店にして、官吏揚りの新参店主であるから、割合安く貸せるならば借りてやらうといふ程の借主が、折々に来訪する位であつて、伝馬町や伊勢崎町辺の堅実なる商人は更に寄り付かず、随て預金なども危いといふので取合はぬ、銀行から勧誘したら尚更怖がる、手形・小切手類の取扱も其手続を印刷してお勧めしましたが嫌がられる丁度寄附金の募集か、又は保険勧誘者の如く世間から忌嫌されたのであります、一方には財源に梗塞を来し、他方では営業が進歩せぬ、斯ういふ状態でありましたから、此第一銀行の当初の経営は如何に困難であつたかといふことは、実に想像に余りありと申しても宜からうと思ふのであります。
 明治九年の兌換制度改正に依て紙幣引替の活路を得、又小野組の破産に対しての始末も追々に整理して、貸金の総額が百五・六拾万円であつたけれども、其所有の株式及担保に取置たる諸物件の代価と差引して、其損失高は僅に壱万数千円で結了した、併し其頃の貸金高百五・六十万円は、今日の千五・六百万円、否参千万円にも相当しますから一時は真に憂慮しましたが、幸に之を切り抜けて、銀行閉店の不祥事を見るに至らなかつたのであります。
 其後銀行の営業模様は如何といふと、中々容易に進歩しませぬ、私は従来真の商売人ではありませぬ、而して性来国家観念が強いために奥羽に力を伸して見たいといふのが主たる目的で、明治十一年頃より仙台に、石巻に、盛岡に、秋田に、山形に、福島に追々と支店を置いて、所謂東北振興に力を尽したのであります、同時に又朝鮮にも金融を開く為めに、釜山に支店を置きましたが、初め東京に本店を開業の際、横浜・大阪・西京・神戸の四大都市には、同時に支店を設置しました、而して各地の支店の経営も、本店と休戚を同ふして、容易に発展を見ることは出来ませぬ、況して奥羽の各支店は、東北開発の為めには多少の効果を奏したらうと思ひますけれども、詰り其結果は左まで銀行に大なる仕合を与へたとは思はれませぬ、去りながら今日から回想しましたならば、第一国立銀行が此東北地方に手を著けましたのは、決して労して功なしとは申さぬ積りである、現に宮城には七十七銀行が堅実なる銀行になりました、此七十七銀行も所謂七転八起であつたと言はざるを得ぬ、盛岡銀行は余りに困難なく成長しました、又秋田銀行も第一銀行の援助によりて創立したのであります、是等三、四の地方の金融機関は、第一銀行の誘導幇助で立派なものになつたといふも過言ではなからうと思ひます、今此三銀行が東北に於ける凡ての金融に任ずると申されませぬけれども、地方に於ける重要なる金融
 - 第50巻 p.180 -ページ画像 
機関たるを失はぬのであります。
 東北に於ける当初の金融は実に困難でありまして、石の巻の戸塚、盛岡の瀬川、又は福島の生糸に対する金融は、種々なる面倒がありまして、第一銀行は苦辛もしたり損失も受けたのであります。
 又朝鮮支店に付ては、当初は鶏肋の姿であつたが、日清・日露の戦争から重要の金融関係を生じましたが、其関係も多々ありまして、余り長くなりますから、他日機会を得て叙述する事とします。
 明治十六年に於ける銀行紙幣の兌換制度改正も、国立銀行としては一大厄運に算へねばならぬのであります、何故ならば、国立銀行条例には、二十年の期間で其創立を許可されましたけれども、爾来素より継続の出来る筈で、銀行紙幣の発行は、申さば銀行に付与されたる特権でありますから、二十年の期限後は更に継続すべきが当然である、例へば鉱山法で其採掘権を十五年の期限で許しても、其期限が切れる場合には、何回も許可されると同様であるべき筈なるに、明治十五年に日本銀行創設と共に、政府は国立銀行兌換紙幣は、満期と共に其発行権利を剥奪するといふことに制度を改正された、是は国立銀行からいふと、政府が銀行に一杯喰はせたと云つても差支ない位の改正である、今日でありましたならば当業者も議会も論争甚しいことゝ思ひますが、私は其時に已むを得ぬことゝ覚悟して、第一番に時の大蔵卿たる松方侯に御同意して、速に引替を完了するやうに勉めませうと御答をしました、其理由は、当初亜米利加の制度が宜からうと思うて組立てましたけれども、熟々将来を審案しますと、亜米利加式では金融統一はどうしても出来ない、故に日本銀行を創立した以上は、兌換制度を一にするといふことは、国家の金融機関の統一から見て実に適当なるものと思ひました故に、是は実に已むを得ぬ、明治五年の銀行制度は亜米利加式に依つたので、普通の仕組は宜しいとしても、中央銀行の制度は、英吉利及欧洲大陸の善制に拠るが適当であると思ふたのである、但し其発行した紙幣の償還方法は、成るべく銀行の利益になるやうにといふ意味で、松方大蔵卿に交渉しました、同業者中には余りに政府に盲従し過ぎると言ふ人もありましたが、私は主として是は已むを得ない事である、既に其改正を適当と認めた以上は、自己の不利益を以て反対するのは男らしくないと断言して、成るべく同業者の一致を勉めて、十六年の国立銀行紙幣の償還法を、全然政府に同意致しましたが、是も第一国立銀行の歴史としては、一の厄難と算ふべきものでございます。
 私が明治六年より大正五年まで第一銀行事務を管理しました期間に於て、斯様な困難もあつた、斯ういふ幸福もあつたと、既往の記憶を喚起して陳述しまするならば、今晩中掛つても申上げ尽せませぬが、上来申述べました数回の出来事は、今日回想しても実に脊に汗するやうであります、而して大正五年に喜寿を迎へると同時に、迚も此老体にては堪へ得られぬと考へて辞職しまして、現頭取に代つて戴きました、其頃は既に欧洲戦争が酣にて、世界が騒然たる時代であつた、其際我が金融界にも事業界にも、幾分の活気を生じ来つたやうには察しましたけれども、其後の経過が斯の如く進展するとは、私の凡眼決し
 - 第50巻 p.181 -ページ画像 
て予想し得なかつたのであります、就中銀行業の将来は如何であるか大戦争の結果は意外なる変化を惹起して、想像外の困難でも来りはせぬかと、実は多少の気遣を持つて居りました、終始易きに馴れるを罪悪と思惟する私は、危険々々といふ方に感じ易いので、惧を懐きつゝ世の推移を観て居りましたが、実に著々として好運に進んで、私の在職中には思ひも懸けぬ程に、銀行各方面の事務が増進しまして、預金も未曾有の高となり、支店も追々に増加して二十九の多きに至り、而して当期の如きは、実に未聞の利益高を株主諸君に御報告申上げるやうに相成つたといふことは、毎度私が申す如く、自分が永い間勤めて居つて斯る吉報を諸君に申上げられなかつたのが、退職後に斯様に盛況になつたのは、私の在職中の経営が拙劣であつたと申上げなければなりませぬ、併し又一方から申しますると、前陳の困難を経来つた結果、基礎が固まつたからだと負惜みを言はれぬこともなからうと思ひます、何れにしても冒頭に申述べた創立当初の困難を忘れぬといふことは、智恵ある人の処為である、故に斯る幸運の時に於て、第一銀行の径路は斯様であつたといふことを諸君に開陳したのであります。
 況や今日の世の中は多くは常軌を逸して居りますから、普通の知識を以て想察し能はぬ所があります、私の凡眼でも、往時斯うであつたから、未来も斯くなるであらう、俗に言ふ盆が来たから牡丹餅といふ訳にいかぬと思ふのであります、但し其中に就て一の動かすべからざる真理が存する、それは何であるかといふと、急激に進み行く物は必ず俄然として停まるといふのである、是は実に動かすべからざるもので、所謂天然の道理と思ひます、去れば斯く進んだ所の経済界も、必ず何時か停歩の時期ありて、其景気にも一の蹉躓を来さゞるを得ぬことゝ思ひます、其停まる時期に於て、品に依ると大なる変化を惹起し即ち原動に対する反動が起るやうなことが無いとは言はれぬのである例へば明治二十七・八年の日清の戦後でも、又三十七・八年の日露の戦後でも、種々なる変化があつて、其進んだ勢は終に停まるといふことを意味して居る、而して其停まつた場合には、必ず種々なる難事を惹起したといふ先例が幾つもあります、此先例は今日の場合にも必ず無きを保せぬと私は思ふのであります、果してどの程度に何時来るといふことを、申上げ得る程の知識は持つて居りませぬけれども、唯々大体にさういふ観念を持つのが相当なる注意と思ひます、夫れ故に斯る幸福好都合のみが終始あるべき筈と思惟するは、或は諸君の御不注意になりはせぬかと惧れますので、昔時は斯様な病気もあつたが、追追に治療効を奏して、遂に今日の健康体になりましたけれども、唯々仕合だとのみ喜んでは居られまいと、所謂老婆心を申上げて置くのであります。併し私が殊更に新しい道理を発明して申上げるのではなくして、只余りお芽出度いのみでそれに安んずるのは危険である、昔は斯様のこともあつたといふは、少しく無用の弁でありましたけれども又昔を偲ぶの一助ともなるかと思ひまして、喜を陳べると共に、既往の談を致したのであります、大きに諸君の清聴を煩はしました。


竜門雑誌 第三八四号・第五九―六〇頁 大正九年五月 ○第一銀行支店長招待会(DK500031k-0004)
第50巻 p.181-182 ページ画像

竜門雑誌  第三八四号・第五九―六〇頁 大正九年五月
 - 第50巻 p.182 -ページ画像 
○第一銀行支店長招待会 青淵先生には第一銀行各地支店長の上京を機とし、四月二十一日午後四時より帝国劇場に同関係者を招待せられ慰労の清宴を催されたる由なるが、当日出席せられたる諸君は左の如しと。
 佐々木勇之助君  徳川公爵    石井健吾君
 野口弥三君    杉田富君
 明石照男君    藤森忠一郎君  広瀬市三郎君
 井上徳治郎君   中沢彦太郎君  玉木泰次郎君
 磯野孝太郎君   横山正吉君   品川瀞君
 内山吉五郎君   原簡亮君    佐々木修二郎君
 長谷川粂蔵君   宇野甚太郎君
 野口弘毅君    西村道彦君   大沢佳郎君
 西条峰三郎君   大塚磐五郎君  竹村利三郎君
 永井啓君     島原鉄三君   片野滋穂君
 浅川真砂君    平岡光三郎君  渡辺得男君
 大橋悌君
 山口荘吉君    中村鎌雄君   石川道正君
 利倉久吉君

 青淵先生     渋沢武之助君  渋沢正雄君
 増田明六君    白石喜太郎君  上田彦次郎君


青淵先生演説速記集(二) 自大正七年十月 至大正十年四月 雨夜譚会本(DK500031k-0005)
第50巻 p.182-188 ページ画像

青淵先生演説速記集(二) 自大正七年十月 至大正十年四月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
    大正九年七月二十七日第一銀行株主総会席上に於ける渋沢男爵の演説
 何等良い意見を持つて出た訳ではございませぬが、一月の総会に愚見を陳述致しましたに就て、それを今当局から皆様に御通知のございますやうに、兎に角老人の婆心ではあるけれども、印刷して上げたら宜からうというて、今日印刷にしてお廻し下さつたさうでございます陳述致した愚見が皆様のお手許に廻つてお暇もあつたら見て戴くことは、私として此上もなく悦ばしい事でございます、斯様に老さらぼへましたけれども、此第一銀行の総会には足腰の利く間は出ねばならぬと思つて、今日も株主として参席致したのでございます、右様の都合から申さば幾分か彼の演説中に予言的の言葉があつたから、敢て予言者を以て任ずる訳でもないけれども、それ等の考をモウ一言敷衍して銀行の為に話すやうにといふ当局、及び重役からの御希望がございましたので、玆に此場所に出て一言を申添へるのでございます。
 一月の総会にも申上げました通り、明治六年に第一国立銀行として創立しました其以来、大正五年まで私は此銀行の頭取を継続致しまして、不肖ながら此銀行の為に微力を竭したのでございますが、実に世の中の事実は意外であります、寧ろ私が辞した為に斯の如く銀行が盛大になつたかと思ひますと、或る点からは頗る悦ばしく、或る点からは頗るお恥しいのでございまして、私が継続して頭取をして居つたら斯の如き好い数字の計算は必ず得なかつたかと思ひます、恰度私の辞
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したのが此銀行をして益々盛大に進ましむるのであらうと申しても、決して是は私が強弁するのではございませぬ、さりながら世の中の事といふものは、得て好い事を好いのみに終ると考へるのは宜くない、好い時には必ず悪い時の事を考へるが宜からうと斯う思ひます為に、一月の二十七日の総会に、余り悦ばしうございますから、昔の苦しかつた事を申上げるのは、恰度今日のやうな暑い日に雪が降つて寒かつたと言ふことも、或る点には暑さを引込ませる助けになるだらうと思つて、過去の困難な話を申上げたのでございます、実は彼の一月の計算は、モウ是よりむやみに好い事はなからうと実は思つたから、是から先きは悪うございませうといふやうな、予言の積りで申上げました所が、予言者世に容れられず、大間違ひで、今日の計算を拝見しますといふと又私が間違つたと申さねばならぬので、斯の如き数字が現はれやうとは私は実は些とも思はなかつたので、殊に当時は五十万円の積立金をするといふことすら、吾々大変な力を以てやつたといふやうに、銀行の為に思つたのが、如何でせう、仮令三百幾万円のプレミヤムが入つて居るとはいふものゝ、半期の計算に六百五十万円の積立金といふことは、何だか私共から云うと余り巨大に過ぐるやうにまで思ふのでございますけれども、奈何せん、計算が確実で、凡ての方面に相当なる準備を取られた結果が、斯の如く相成つたのでございますから、洵に此上もなく悦ばしいことで、実に御同様に銀行の為に深く感謝致すのでございます、唯今誰方のお説でしたか、まア是までに進んで来たのは渋沢の勤労与つて力あり、年を取つても能く出て呉れて悦ばしい、成だけこのお爺さんを死なせぬやうにしたいと思つて下さることは、私は此上も無く有難く思ひます、一年も余計生きて居つて銀行の総会には出たうございますが、併し人の寿命は限りがあるものでありますから、来年は出られぬかも知れませぬ、是は決して諸君が私が出ぬからといつて小言を仰しやることはない、年取つた者が先きに死ぬのは当然で、サウ仰しやる諸君も皆段々と新陳代謝して行くのでございます、但し若し此精神と道理が完全に継続して行つたならば、人の肉体は多少変つて行つても、其一つの魂は何時までも持続して、それこそ百年でも二百年でも、更に進んでは五百年でも千年でも持続して行くといふ事が言ひ得られるだらうと思ひます、況んや今日は一の渋沢が仮令死んだとしても、それ以上の渋沢が斯く多数お揃ひになつて居りますから、諸君はどうぞ、今のお言葉は誰方であつたか知らんが、渋沢が死んだら直きに銀行が寂れるといふやうな謬見は、お持ち下さらぬやうに願ひたうございます。
 而して私は当年の一月に申上げました通り、決して物の進みは唯進むのみに安んじてはいかぬと申したのであります、此一月から七月までの有様を見ますと、渋沢の予言は多少第一銀行には外れたやうでございますけれども、世間の経済界に対しては私は外れたとは思はぬのでございます、三月の半頃からあの通りの変化が来やうとは思ひませぬが、必ず物事は変化が生れるに違ひない、其変化に際しては中には事に依ると、預金の取付に遇つて支払が出来ぬといふ銀行も出来るであらう、或は事業不振の為に閉鎖するといふ会社も生ずるであらうと
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窃かに思ひましたから、甚だ此景気の進んで行くのに対して「原動の強いときには反動が強いものでございます」といふ事を人毎に言うたのでございます、此事だけは左様に大なる間違はなかつたと自分は思ふのでございます、今日此七月二十七日に一月にも優る第一銀行の総会の計算が出来ました、併し進むものを何時までも進むとのみ感じて大なる考へ違をするといふ事は人事みな然りでございますから、是だけはどうぞ諸君に於ても、左様に何時も唯先にのみ進むものだといふ御観念はお持ちなさらぬ方が宜からうと、私は深く御忠告を申上げて置かうと思ひます。
 申上げる事は別にございませぬが、玆に一言余談でございますけれども、斯る機会に寧ろ皆様株主諸君ばかりでなしに、頭取を首めとして第一銀行の重役諸君にも序に聴いて戴きたいと思ふのは、他の人と少々問答をした事がございますから、其問答の節を短く申上げて置かうと思ひます。
 或人との談話でございますから、今日の第一銀行の株主総会に殆ど関係もない事で、無用の弁だと或は仰しやるかも知れませぬけれどもヨウ考へて見ますると必ず第一銀行として思半に過ぎる所があらうと思ふのでございます、それは亜米利加の紐育に大正三年から興りました聯合準備銀行といふものがあります、其聯合準備銀行の紐育の銀行総裁ストロングといふ人が近頃日本に来て居ります、丁度五月の初から着されて、此二十九日に立たれて帰りますが、私も五月病気の為に暫く会はずに居りましたが、此間二十三日に訪問して呉れまして色々話をしました、其談話の一片が今申上げる通りに多少の御参考にならうか思ふのでございます。
 ストロングと云ふ人は亜米利加の経済界に有力な人であつて、紐育に於ける聯合準備銀行の総裁になる位ですから、以て其才能人格は大抵推測られるのでございます、大正四年に私が亜米利加へ参つた時に丁度今申上げた聯合準備銀行が大正三年に出来上つて、私の参つた時分にやつと店開きをした際でございました、元来此日本の国立銀行の制度と云ふものは、一月に詳しく申上げましたが、元の起原は亜米利加から伝来して、亜米利加の千八百六十年の国立銀行の制度を移して矢張国立銀行として日本に創立したのでありますから、銀行の形から云うと其際は亜米利加を模倣したと言つて宜いのでございます、併し明治十四年から今の松方侯爵が大蔵卿になられて、丁度其翌年であつたか段々研究されて、亜米利加式の分権式はどうも金融の為に、事に依ると大なる不調和を来して、金融調節宜しきを得ない虞がある、英吉利制度の統一式の出来るやうに組立てたが宜からう、所謂国立銀行として百いくつの銀行に紙幣発行権を与へて置くといふ事は、将来の金融方法として宜しきを得ぬ事である、斯ういふ所に考を着けられて丁度明治十五年に今の日本銀行が出来たのでございます、此時私は第一銀行の頭取として今の松方さんの主義は、銀行としては大に不利益で、申さば与へられたる特権を剥奪されるやうな訳でありますから、余程議論せねばならぬ位地であつた、其当時の事を御記憶のお方は今でも尚ほお覚えがあらうと思ひますが、現に十五銀行の三輪信次郎さ
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んなどは大層其方法を不道理だと云つて、大いに御議論をなさつた程の事であつた、又其当時ではなかつたが、後に明治二十八・九年頃、銀行の年限満期の頃ほひには、国立銀行の仲間で大いに政府に対して抗議を申込んだ事もあつた位であります、故に其明治十五年の日本銀行の創立の場合にも多少の物議がありまして、私共も折角与へられたる利権を剥奪されるといふやうな感じをしましたけれども、更に方面を変へて国家の金融機関から考へるといふと、どうしても亜米利加の分権式よりは英吉利の統一式の方が宜しいといふ事は論を俟たぬやうでございます、既に国家の経済にそれが良いといふ以上は、自己の銀行に与へられたものであるから、其権利を保持する為に之に抵抗するといふ事は、所謂私の為に公に背く訳になりますから、是はどうしても我慢せねばならないといふので、遂に各国立銀行は松方大蔵卿の意見に同じて、中央銀行の創立に就て、各国立銀行の紙幣発行権を褫奪されることを已むを得ぬと同意したのであります。
 そこで日本は統一式になつたけれども、本家本元の亜米利加は矢張分権式で永く継続して、今申上げました大正四年に私が亜米利加に三遍目に参りました時に、初めて中央式の制度が出来て、即ち聯合準備銀行といふものが紐育を初として大都市に十二出来た、さうして華盛頓に中央聯合準備局といふのが出来て、玆に相当なる基金を備へ、其十二の銀行の中心と致す、斯う云ふ仕組になつたのであります、そこで今日申上げやうと思ひます事は、其際に私が参つて、今お話をしかけたストロングといふ人と会見致しました時の談話に始まるのであります。
 私はストロング氏に会つた時に、甚だ其聯合準備銀行の出来た事を慶びまして、都合好く進むであらうと思ひましたけれども、多少の疑点があつたから其疑点を一つの問題として申出したのです、所が其事は大正四年の会見の時には、未だ氏の方から十分な回答を与へるまで至らずに別れまして、それから後五年を隔てゝ此二十三日に会見したのであります。故にストロング氏は、是非日本へ行つたならば丁度大正四年に問はれた事を、渋沢に向つて回答を与へたいと思つて居つたといふので、私に会ひたい為に主として暫く待たれて、私の病気が癒つたので一遍会つて話をしたといふ、意味ある談話でございます。
 其時の対話の第一として私は、亜米利加が大正六年に参戦して、それから以来の金融の有様と云ふものは、欧羅巴に対して百億以上の貸金をしたとか、又それをするに就ては国で公債の大なる募り方をしたとか、或は地方金融の変化が各所にあつたとかいうやうな、大きいは大きいだけに、金融に対して大層な大変化のあつた亜米利加でございますから、其間に今の聯合準備銀行が能く其事を処理したと思つて、先年お目に懸つた以来数年の後であるけれども、段々爾来の金融の景況を伺ふと甚だ成績其宜しきを得て、大きな仕事を能く徹底せられたお目出たい事ですと申して私が祝辞を述べましたら、之に対してストロング氏は、お褒言葉は辱けないが、それに対してお答したいと思ふ事が二つある、即ち其一つはお前が大正四年に紐育の準備銀行を訪ねた時分の問の一つは、斯う云ふ事であつた、今度十二の頭が出来た、
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分権式より中央式にした方が宜からうと亜米利加も考へついて、今聯合準備銀行を造つたは宜しいけれども、英吉利や日本は全く中央が一つになつて居る、亜米利加は之に反して十二の頭が出来て居る、蛇でも両頭の蛇は困るぢやないか、況んや九頭竜様以上に十二も頭が出来たといふならば、此の頭同志が頭争ひを生ずるといふ事が無いとは言われんぢやないか、果して是で尚ほ能く統一が出来るや否や、遂には事業の経営から頭同志の争ひが生ずるといふ虞は全く無いものであらうか、斯う少し皮肉な問ではありましたけれども、私はストロング氏に質問をしました、其時の氏の答は、どうもやつて見ぬから分らない制度は相当に出来て居るから、此制度に依つて先づ調節は出来る積りだ、十分調停をつける考ではあるけれども、必ず完全に行けるといふ事のお答は今は出来にくいといふことでありました、更にモウ一つの問は、此金融といふのは兎角政治と密着し易い、所謂政治の機関になり易いものである、今までは各銀行区々であるから、今の所では亜米利加の金融界は、地方には多少政治に利用されるといふ事もあらうけれども、概して先づ弊害は無いやうであるが、玆に中央銀行が出来るといふことになると、それが政治に利用されるといふ弊害は生じて来ぬものであらうか、是も一つの疑問であるといふ事を問うたのであります、それに対してもストロング氏は其時に明答を与へませぬでしたが、此二十三日に至つて是の回答を齎されたのであります、即ち氏は今の二つの問は最も銀行として深く考へんならぬ事であると言はれ、且つ私を褒めて言ふには、渋沢は流石に日本の小さい仕事なりとも永年苦しんだ関係から、さういふ所に注意を以て問はれたのであるから之に対して大いに吾々も心して経営せねばならぬと自ら覚つて、此二点に対しては十分なる考慮を以て今日まで事業に当つた積りである、如何にもお前の言ふ通り欧羅巴の戦乱が、遂に亜米利加が十分力を入れねばならぬやうになつて、随て経済界は金融に全く大なる力を注がねばならぬ訳になつたから、其間の金融調節といふものは実に骨折であつた、迚も此聯合準備銀行の規則だけではうまく行かなかつたかも知れん、唯規則だけに拠つたならば、十二が各々頭を争ふといふ事は必ずあつたかも知れぬ、併し幸に吾々銀行者は、此中央準備銀行は飽までもお互に協力してやらうといふ銘々の観念から、私を捨てゝ公に殉ずるといふ主義に依つて経営した為に、多少の物議はあつたかも知れんが、自ら信ずる所では幸にお前の質問に対して、大いに困つて多頭政治になつてどつちも動く事が出来ないといふやうな場合はなかつた、第一問に対しては先づ纏めをつけた積りである、而して金融界に於ても左までの弊害は無かつたと私は思ふ、其事はお国にも自ら聞えたであらうと思ふ、是がお前の第一問に対しての解答である、更に第二問の政治にどう云ふ関係を持つかといふ事に就ては、甚だ注意せねばならぬ事で何れの国にもあり易い事である、併しそれは憚り多いやうであるが亜米利加に於ては、政治界よりは金融界の人々が敢て知識は優つたとは言へぬであらうが、一致の力が強かつたが為に、政治界から利用されるといふ事は全く無かつたといふことが言ひ得られる、此問に対しても其当時に、果して切抜けて行けるや否やと云ふ事は明
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答は出来なかつたけれども、今日其事を初めてお答することが出来るから、どうぞ左様了解して呉れと云つて、此二つの私の疑問に対して実際行うたと云ふ事実を、今私が申上げる以上に、斯う云ふ事柄もあつた、斯様な取扱もしたと云ふ多少の例を挙げて、明瞭に答をして呉れました。洵に私は流石に此ストロングと云ふ人は、自分の職務に忠実なものだと敬服したのであります、大正四年に私が問うた時には、それ程に詰問的に言うた所存ではなかつたのですけれども、今申す二つの問を深く心に留め置いて、其実施後五年の今日、先づ一人の友人として日本に来て委しく左様な説明をして呉れたといふことは、それが第一銀行に何等関係もございませぬけれども、銀行者として甚だ忠実な事だと思つて、深く悦んで其事を承つたのでございます。
 更に続いてストロング氏は、日本に対しての一・二の意見を申しました、是も今諸君に申上げて余り御参考になる事ではないやうですが外国の人の日本を見る観察が左様であるといふことは、或は一種の御参考にならうかと思つて、尚ほ申添へるのでございます、此人は勿論相当な身柄の人のやうでありまして、今ステイシヨン・ホテルに泊つて居るさうですが、来朝以来地方を大分遊歴して、多くは日本の宿に泊つて、言葉は能く分らぬでも成べく日本人に近づいて、総ての人と接触したやうでございます、それも一つは身体の悪い為に其療治旁々やつたやうに聞えますが、而して日本の全体に対する氏の観察として私に向つて申されたことは、自分は大分詳しく日本の殊に若いお方々と而も余り高等な学校を出ないやうな人々、或は労働者若くは店の人といふやうな種類の人に段々接触して見たが、洵に心持よい国民であるといふ事を申上げ得られる、第一に希望の多い人である、進歩的の人である、始終活動観念が失せない、而して至つて親切である、或点には時々腹など立てることもあるけれども、其親切と云ふ情に於ては洵に美しい、先づ中等以下の総ての人にお目に懸つた所では、誠に悦ばしい心持良い国民であるが、唯之に対して、一言申上げたいのは、此ウブな国民全体に対して今施して居る政治の率ゐ方が、果して適当に此国民を能く向上せしめ得るや否やといふ事が一つである、いま一つは此国民に対して教育上如何なる精神を以て修養を為し得るかといふ事が二点である、勿論自分は此事に就て日本の仕方が悪いと申上げるやうな、そんな失礼は言ふのではないけれども、併し斯の如き良い性質に生れた国民に対して、政治が果して道理正しく統一して居るか、一方には精神的修養が完全に統一して居るとまで言い得るか否や、自分の見る所では渋沢などは兎に角老人で先覚者の位地に居る、お前等は何等の主義を以て此国民に対して指導誘掖する積りであるか、斯う申すと甚だ失礼であるけれども、斯かるウブな良い性質の国民に、どうぞ尚ほ進んで立派な指導誘掖があつたならば、更に虎に翼を添へるものではなからうかと甚だ深く希望する、更にいま一つ申上げたい事は貧富の関係である、まア亜米利加は今日押なべてとは申さぬけれども、富む人が努めて一般の国の安寧、社会の秩序の進歩を図る為に、自分の財産の減ずることを厭はずに、富む人が大いに国に尽すと云ふことに、今日は押なべてさうせねばならぬといふ気風を吾々共は切に
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勧めて居る、日本も左様ではあらうけれども或は恐る、日本のお方が富む人の方が自己に都合の好いやうに図つて、社会全般に対して力を添へるといふ観念が、若し亜米利加と比較して少いことであつたならば、それは私共から言うたら決して日本の慶事とは申したくない、斯ういふ事を申されたのであります、是は丁度目今の所得税関係などに就て議会の評論を詳かに知らぬ為めでありますが、多少金持の方に都合の好いやうに修正する事は、ストロング氏の今の希望とは少し背馳するといふ意味を以て、敢て攻撃といふではないが、将来日本に於て富む人が一般に対する公益に成だけ平等に力を添へるやうにして行きたいといふ事が、世界の人文の進歩、平和の堅実を期する所以であらう、斯ういふやうな忠告をして居りました、此事は敢て問答をしたのではない、ストロング氏が日本を観た希望に就ての談話で、之に就ては嘗て、亜米利加人と私も色々討論をしたこともありましたからそれ等を答へ、又自分の意見として多少説明を与へましたけれども、其説明までは詳しく申上げる必要はございませぬから略して置きます。
 兎に角此ストロングといふ人は、五年前私が銀行の事に就て、それ程念を入れた質問でもなかつたけれども質問をした、それを向ふでは深く記憶して居つて、五年を過ぎた今日特に参つて今の二点を丁寧に説明して呉れたといふことは甚だ志深い銀行者だと思ひます、さうして其銀行は丁度此第一銀行の前身第一国立銀行が亜米利加の国立銀行に倣つて成立した其縁故もございますので、甚だ余談ではございましたけれども、此ストロングといふ人と斯ういふ談話をしたといふ事を一言申添へた次第でございます、今日は是で御免を蒙ります。(拍手)
  ○右総会ハ第四十八期定時株主総会ナリ。