デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

3章 商工業
14節 取引所
1款 東京株式取引所
■綱文

第53巻 p.452-455(DK530081k) ページ画像

大正12年11月15日(1923年)

是年九月一日ノ関東大震火災ニヨリ当取引所全焼シ、爾来休場中ナリシガ、十月十六日、日本興業
 - 第53巻 p.453 -ページ画像 
銀行内ニ於テ国債取引ヲ、同月二十七日、茅場町河岸天幕内ニ於テ実物取引ヲ再開シ、次イデ是日、日本橋区中外商業新報社内ニ於テ清算取引ヲ再開スルニ至ル。之ニ関スル栄一ノ談話、中外商業新報ニ掲載セラル。


■資料

東京株式取引所五十年史 同所編 第五〇―五一頁 昭和三年一〇月刊(DK530081k-0001)
第53巻 p.453 ページ画像

東京株式取引所五十年史 同所編 第五〇―五一頁 昭和三年一〇月刊
 ○第二章 本所の沿革
    第五節 自大正五年 至昭和二年
○上略 然るに九月一日午前十一時五十八分、関東大震災突発して帝都の大半は焦土と化したるのみならず、其の惨害は一府四県に亘りて死傷各約十万人、物的損害は約百億円と註せられ、交通通信杜絶、金融機関破壊、物資欠乏、諸取引の潰滅を来し、人心の恐怖と俟つて財界は空前の混乱に陥りたり、玆に於て政府は支払猶予令・其他、機宜の勅令を発し、物資の供給・金融の援助を図る等、混乱の沈静、罹災の救恤に努力し、国民亦異常の緊張を以て此の災厄に処したるが、反動の創痍尚ほ深きに際し、此の天災に遭ひたる我財界は、一層、悲境に陥るの已むなきに至れり。本所も一日夜、祝融に襲はれて地上建物の全部を焼失し、接続地の各取引員店舗亦た片影をだに留めず。依て四日事務所を丸の内、日本興業銀行内に設け、数日の後一部を日本工業倶楽部に移し、奮励努力復興の事に当り、十月下旬、旧焼跡に市場及び事務所建築の工を起し、昼夜兼行、三旬にして其の竣工を見たり。一方、此の天災に因りて一大難関に逢着したる取組玉の整理も、非常に際せる当業者の協調と金融当局の後援とにより、之を解決することを得たり。即ち幾多の艱難を排して、国債取引は十月十五日、全部の受渡を了し、実物取引に就きては同組合の設置に係る実物善後策委員の研究に基き、十月十二日、組合総会召集の上、総解合を敢行し、清算取引に就きても亦た組合委員数次の会合の結果、同十八日、震災善後策研究委員を設け、其の原案に成る総解合の議を纏めて漸く問題を解決し、進んで取引再開の方法を協議するに至れり。而して解合に要したる整理資金六百万円、及び取引再興に要する復興資金六百八十余万円は本所より融通することゝなし、株主総会の議を経て其の一部を日本興業銀行の融資に仰ぎ、他は資産の内より之を融通して、率先、復興の事業を進めたり。即ち十月十六日、国債市場を丸の内日本興業銀行内の一部に開始したるを始めとし、同二十七日、茅場河岸証券交換所跡、天幕張に実物市場を開始し、超えて翌十一月十五日より北島町中外商業新報社内に清算市場を設けて毎日一回当該取引の立会を行ひ同月末日、前記旧焼跡の工事竣成を待つて何れも之れに移転したり。
当時尚ほ交通の機関備はらず、電信電話の設備亦甚だ乏しくして各種の連絡に多くの困難を伴ひ、売買取引の上に支障を生ずること尠からざりしが、同月十日以降漸く前後場二回の立会を行ふを得るに至れり
○下略


東京株式取引所五十年史 同所編 第四二八―四二九頁 昭和三年一〇月刊(DK530081k-0002)
第53巻 p.453-454 ページ画像

東京株式取引所五十年史 同所編 第四二八―四二九頁 昭和三年一〇月刊
 - 第53巻 p.454 -ページ画像 
 ○第十三章 近年市場重要問題
    第四節 大正十二年の大震火災
○上略
      ○立会開始と市況
○中略
三長期取引
  十一月三日、本所は取引員に対し左の通知を発したり。
  一、清算市場開始
    十一月十五日より日本橋区北島町中外商業新報社に於て立会開始
     立会     当分一日一回とすること
     立会開始時刻 午前十時但し中途に於て一回休憩すること
     銘柄     当分の内左記南満洲鉄道株外六十二種に限り売買取引を行ひ、従来の三部制を一部制とし、左の順序により立会を行ふこと
     (南満洲鉄道株及外六十二種の銘柄並に立会の順序に就きては之を省略して玆に記さず)
  一、清算市場入場者数
    市場狭隘に付、当分の内取引員本人の外、市場代理人及使用人を通し一店に対し五個の入場鑑札を取引所より交付可相成に付、左様御承知被下度候
 次で十一月七日、取引員組合は臨時総会を開催し、左の諸項に就き決議したり。
  一、一般取引員組合規約中改正の件
  一、清算取引を来る十一月十五日より開始の件
  一、取引所仮建築出来の上建株全部の売買取引を開始する場合には、従来の三部制を二部制とすること、但し何時にても三部制となし得る設備をなし置く件
 斯くして大震火災後、実に七十五日を経たる十一月十五日、中外商業新報社楼上に於て、愈々、長期取引の立会を開始するに至れり。場面は復興気分横溢して買気集中、諸株好況を呈し、売買高は六万六千百七十株に達したり。○下略


竜門雑誌 第四二四号・第七二―七三頁 大正一三年一月 ○青淵先生と取引所(DK530081k-0003)
第53巻 p.454-455 ページ画像

竜門雑誌 第四二四号・第七二―七三頁 大正一三年一月
○青淵先生と取引所 左は十一月○大正二年十六日の中外商業新報に青淵先生談として掲載せられたるものなり。
 「株式取引所と余とは深い縁故がある、東京株式取引所が許可せられたのは明治十二年、故大隈侯の大蔵卿当時と記憶するが、余は同所設立を発起したものの一人であつた、取引所の設立については明治初年から故井上侯の賛成を得て余が主張してゐたものであつたが、余の最も親しき友人の一人で、のちに大審院長となつた玉乃世履といふ人が頑強に反対してゐたため容易に実現の運びに至らなかつた。
 一体取引の円滑を期するためにはたゞ通貨のみに依る事は出来ない信用がこれを補つて行くのでなければ充分なる経済界の発達を期する
 - 第53巻 p.455 -ページ画像 
ことが不可能である。処が政府の方は故伊藤公が欧米から帰朝後主張されてゐたので、廃藩置県に際し旧各藩の負債を整理するために、明治五年四月二十三日に発行した新旧公債合計二千四百四万円を始め外債もあり、その後明治十一年には一千万円の起業公債も募つたりしてこれが幾分にても通貨の補ひをつけてゐたが、株式といふものが殆んど無い、どうしても企業を盛んならしめるには従来の個人の資本では到底駄目だから、大いに国民一般から資金を集めて株式組織の企業を起さなければならないが、それには必要な時には何時でもその株式を現金に代へ得る制度が出来ねばならぬ、そこで外国の例を調べることになり、故福地源一郎氏が英国のストツク・エキスチェーンヂのことを織訳してこれを政府において詮議したのであるが、前にいつた玉乃世履氏が、当時司法部内に在つて頑強に反対してゐたので、容易に実現を見ないでゐた、処がたまたまこの人と、当時我が法律顧問として有名だつた仏国人ボアソナード博士と法律上の議論をしてる中に、取引所問題に触れ、ボ氏から大に論破されたので、玉乃氏は正直な人だから、余の事務所に態々来て従来の反対論を撤回したといふやうなこともあつた。
 かう云ふ次第で株式取引所の設立は大変遅れて明治十二年に到りやつと許可になつた、かくの如く余は取引所特に東京株式取引所とは深い関係があるが、余の主張してゐたのは実は会員組翻のもので、現今のごとき株式組織のものでなかつたのであるが、種々の事情で現在のごときものになり、また仕事の実際においても余等が極力主張した所の取引所本来の使命を充分果してゐるかどうか、多少の疑問はある。余は個人としては投機的の事は嫌ひで、これを利用したことはないが兎に角株式取引所は経済界における公の機関で必要なものであるからこれがその清算取引を再開するに至つたことは経済界のため喜ぶべきことである。」