デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

5章 農・牧・林・水産業
1節 農・牧・林業
3款 耕牧舎
■綱文

第54巻 p.187-202(DK540045k) ページ画像

大正9年8月22日(1920年)

是ヨリ先、当舎ハ、当初ノ目的タリシ牧畜業及ビ之ニ附随ノ牛乳販売等ノ事業ヲ廃シ、僅カニ植林及ビ玉蜀黍等ノ耕作ニヨリ、其土地ヲ維持ス。是日栄一、益田孝ト共ニ、実地検分ヲナス。

昭和三年七月、其土地ヲ以テ仙石原地所株式会社設立セラル。


■資料

竜門雑誌 第二六三号・第一―五頁明治四三年四月 ○予が土地に放資せざる理由(DK540045k-0001)
第54巻 p.187 ページ画像

竜門雑誌  第二六三号・第一―五頁明治四三年四月
    ○予が土地に放資せざる理由
 本欄に掲ぐる所のものは、本誌記者が親しく青淵先生に就きて教を乞ひ、随て聴き随て筆し、特に先生の親閲を煩はしたるものなり、乃ち尋常の説話と其撰を異にせるを知るべきなり
                      記者識
○中略
      ○土地を持ちたる一例(牧畜の為め)
併し深川の屋敷とか、或は三田の屋敷とか、此処の場所(飛鳥山の曖依村荘)はまさかに借地ではありませぬ、我地面である。土地に対しては昔から左様な理論を唱へて居るが、然らば土地に対しては一切金を出さぬかと云ふと、強ちソウ云ふ意味ではない、明治十二・三年頃と思ふ。箱根に一ツの牧場を起したが宜からうと云ふことで、他の組合員と共に荒蕪地を引受けて与に経営して見た。所が其土地が牧畜に適せぬのか或は仕方が宜くないのか、殆ど三十年も遣つて見たがドウも良種の牛馬が繁殖するとは言ひ兼ねたので、従つて利益がない。格別損失もせなんだけれども、到頭其牧畜事業を止めることにして、其土地の半分は村方に寄附し半分は其組合員が持つて居ると云ふ始末。此等は土地を持つた一例であるが、結局効能なしに終つて仕舞つた。
○下略


青淵詩存 渋沢栄一遺著敬三輯 第三十二丁昭和八年刊(DK540045k-0002)
第54巻 p.187-188 ページ画像

青淵詩存  渋沢栄一遺著敬三輯 第三十二丁昭和八年刊
    庚申○大正九年 八月余携家人避暑於函根小涌谷、寓鳳来楼、霪雨連日、四望濛濛、雖脱都門炎熱之苦、而無山光水色慰旅情者居数日、以其二十二日遊仙石原村、蓋践与益田男爵相仙石原野之約也、已至、益田男先在、休憩霎時、共捨自動車、僦竹輿而発、路狭隘、且泥濘、而轎夫健脚如飛、能披草莱渉渓流一時余、達中央農舎、与村長等議原野境界之事、已畢、進竹輿於蘆湖之畔、時薄暮、宿雨纔霽、雲烟半収、而群峰現巓、
 - 第54巻 p.188 -ページ画像 
皆倒蘸影於湖水、加之原草帯雨、色加鮮、而野芳紅紫、点綴其間美亦可愛、余等左顧右眄、以相楽、又呼竹輿登原上小邱時雲霧全収、蓮岳明潔、卓立眼前、而岳麓諸山囲繞之、宛然如群児擁慈母、真可謂奇観、偶得一絶
  原頭正好雨晴時。展望何嫌落照移。蓮岳高臨乱山聳。
  宛看慈母護群児。


竜門雑誌 第五七五号・第一―七頁昭和一一年八月 ○青淵遺芳 青淵先生の『仙石原即事』 白石喜太郎(DK540045k-0003)
第54巻 p.188-192 ページ画像

竜門雑誌  第五七五号・第一―七頁昭和一一年八月
 ○青淵遺芳
    青淵先生の『仙石原即事』
                    白石喜太郎
  原頭正好雨晴時。展望何嫌落照移。蓮岳高臨乱山聳。宛看慈母護群児。
青淵先生が大正九年に箱根仙石原を最後に訪はれたときの即興詩で、『青淵詩存』に収められてあり、それには次の序が付いて居る。
  ○序、前掲ニツキ略ス。
 大正九年には青淵先生の詩作が極めて少く、年頭書感の作が一首あるのみで、此点からも、この仙石原即事は珍重すべきものであるのみでなく、恐らくこの時が仙石原最後の訪問であつたらうと推察せられる点に於て、意義深きものがある。この二つの観点から、かくも意義あるこの詩が出来た青淵先生のこの行は、何が故であらうか。先生の記された所では、小涌谷へ転地せられたけれども、暑熱堪へがたきものがあつた為、仙石原に暑を避けられたとも解せられる。然し左様に簡単に片付けることは、青淵先生の性質から考へて、適当でないと思はれる。殊に先生の旅行――たとへ特別の用務がないとき、即ち避寒若しくは避暑旅行であつても、一般に諒解せられる様に、仕事から離れるのでなく、何処までも忙がしさがついて廻り、文字通りの転地であつて、唯東京に居られないだけのことで、今は思出のあの信玄袋が象徴する様に、何処へでも仕事がついて廻つた。それ程に為すべき仕事を多く有つて居られた為であるし、又先生の性格にもよると思はれる。その先生が、目的もなしに一日を遊び暮したとは考へられない。何かあつたらうと考へるのが常識であらう。先生は『益田男爵と仙石原野を相するの約を践むなり』と記し、更に『村長等と原野境界の事を議す』と書いて居られる。『相する』と云ふと、唯見ると云ふ意味にもとれるが、先生にしても益田翁にしても、仙石原には明治十年代から関係があり、既に度々見て居られる方々である。その土地を態々打合の上見ると云ふのでは、単に見られたとも考へられない。即ちこの相すると云ふ意味が、後段の『原野境界の事』を議すると云ふのとシノニムであらうと思はれる。このことに付て青淵先生が別の機会に話されたものがある。それはこの年八月下旬、修養団が仙石原で天幕講習会を開いたことに関する談話の中にある。それは
  『この会場を設けた土地は、私と益田孝君の所有で、明治十三年に神奈川県から払ひ下げたものであります。私は商工業を進めねばならぬと主張して来ましたが、それと同時に必要な事は又共に
 - 第54巻 p.189 -ページ画像 
進めねばならぬ、例へば牧畜の如きも出来る丈進めたいと云ふ考から、この仙石原の約七百町歩を牧場として牛馬を飼ひ、明治三十七年迄二十余年間苦心経営したけれども、地味が適せぬ故か、方法が悪かつた為か、遂に不成功に終つた。私の従弟須永伝蔵氏が主任として専らその経営に当つて居たが、不幸中道にして逝き之に代るべき適任者も無かつた為め、牧畜業を中止し、植林を企てゝ見たが、之も地味に適応せぬかして、十分の結果を見て居ない。そんなことで初めに払下げた土地の半分は仙石原村に寄附したが、其残りは何かに利用したいと考へて居ります。二三日中に益田君と実地検分して方法を立てる積りであります。将来は箱根の勝地にも対《(マヽ)》したいと思うて居ります。」
と云ふのであるが、之によると仙石原将来の計を樹てる為であつたことが明かである。それならば担当者故須永氏が逝いて後約十年を経た此年に何故に将来の事を計る必要があつたか、これに付ては記録の徴すべきものはないけれども、恐らく八十島親徳氏の長逝が其原因ではなかつたらうか、と云ふのは須永氏の歿後耕牧舎清算事務を担当したのが八十島氏であつて、青淵先生の談話に結果の見るべきものがないと言つて居られる植林は、氏の指導監督の下に実施せられたのであるが、大正九年は植林開始後三・四年を経過した時の事で、先生は見た儘を率直に言はれ事実又正に其通りであつた。のみならず此年の春は甚しい雪害を受け其補植に多大の費用を要したので、其事を聞かれた先生がかく述懐せられたのは当然である。然し其後幸に順調に発育し現今では、元耕牧舎の後身とも見るべき仙石原地所会社の収入としてこの植林の間伐材の代金を計上し得るに至つたのである。同社の開放地仙石原温泉荘に遊ばるゝ人々が富士の雄姿を仰ぐ時、嫌でも目に入る長尾峠下一体の山林がそれである。嘗てかう記したことがある。
  『……西、湖岸より、東『長尾』に及び、更に『乙女』を経て金時山に続く。長尾までの斜面は長き植林の苦心を物語り、黒きは杉、赤茶けたるは落葉松、長尾隧道下に鬱然たるは、明治十年代よりの無駄の累積として残されたる見事な杉林である。植林地帯を境として拡がる高原は、緬羊に、牧畜に、六十年の無駄を語る『仙石原』である。ただ見る一体の草原、何の興趣もないが、青淵先生多年の配慮を想うては、無心の草も過ぎし昔を雄弁に物語るの感がある。』
 『明治十年代よりの無駄の累積として残された見事な杉林』は須永氏苦心の結晶である。それより西南に続く林、杉は黒く、落葉松の赤茶けて見ゆる斜面は、八十島氏の長き苦心の記念である。この苦心をした八十島氏――元耕牧舎清算人として、須永氏の事業の締め括りに任じ、仙石原一体の管理運用を掌つた八十島氏が、この年三月病を以て逝いたのである。因つて其後を如何に経営しようか、又その後任をどうしようか、それらを相談したり、根本的に将来の方針を樹てたりする為、丁度よい機会であるからと云ふので、打合はせの上、益田翁と共に実地検分をせられたと見ることが適当ではあるまいか。之ならば特に益田翁を誘ひ合はせて、一日を仙石原に送られたことも首肯せ
 - 第54巻 p.190 -ページ画像 
らるゝ気がする。
 動機に付ての穿鑿は此位にして、前の先生の詩の序に移らう。先生の『中央農舎』と記されたのは、旧耕牧舎本社の建物のことで、先生にとつては亡き須永氏を聯想する想出の家であり、当時は勝俣徳次郎氏が住んで居た。須永氏に付ては、嘗て先生がその遺影に題せられた詩がある。
  温容懐昔道相親。耕牧自修三十春。畢竟多能常敗事。
  欽君守一即全真。
 大正期以前の耕牧舎附近と云へば、荒涼たる高原であつた。唯見る白茅果てしなく、草より出でゝ草に入る太陽が、唯一の変化とも云ふべき状態で、『農舎』は文字通り山中の孤屋であつた。そこに三十年に近き歳月を此事業の為めに捧げた氏の忍苦と犠牲的精神に、真に頭が下がるのである。先生の詩は之を称揚したもので、泉下の氏も知己の感を深くしたことであらう。先生が代表的に表示せられたこの感慨は、須永氏の事を知り、又仙石原に関係あるものゝ、期せずして等しく感ずる所であつて、後に設立せられた仙石原地所会社に於て、氏の徳を表彰せんため記念碑を立てたのは其所であらう。その碑文はかう云ふのである。
      須永伝蔵君の碑
              従二位勲一等子爵 渋沢栄一題額
  天下の険の箱根の山も、今は都人遊歩の地なり、山上の高原の町とならんも怪しむに足らねど、繁れる草むら切り払ひて、そが基を開きし人こそ尊けれ。この仙石原は、明治十三年渋沢子爵・益田男爵等相謀りて、牧畜の業を開かんとせし時、須永伝蔵君専ら事に任じて、選び定めたる牧場の地なり。其年君は耕牧舎を設けて、こゝを永住の処と定め、牛馬の飼育と牛乳・牛酪の販売とに力を尽すこと二十五年、その功漸くあらはれて、良き馬をも出しけるが、殊に乳牛飼育の業はいよいよ栄えて、箱根七湯は更なり東京・小田原・沼津、さては甲州の各地にまで、牛乳販売所を出すに至れり。その事業の規模こそ小なれ、その頃既に早く牛乳・牛酪の衛生に必要なることを世人に知らしめたる功は、大なりといひつべし。ただ惜むらくは、此地年と与に牧草乏しくなれるが上に、明治三十七年の夏、君が此地に永眠せられて後、其人無くして其事廃れ、君が心尽しの牧場もまた元の原野にかへり、萱草徒らに生ひ空しく枯れつゝ、二十六年の春秋を過ぎけるが、昭和四年の秋に至り、蘆の湖に近き土地の一部、宮内省御用地としてめされけるにより、仙石原は再び眠より覚め、由縁の人々会社を結びて此地を経営し、このたびは別荘街として、安息養生の境たらしめんとす。そも須永君は渋沢子爵の従弟にて、幕末の頃憂国の志を同じくして、共に郷関を出でたる人なり。其後の境遇其人に酬ゆるに足らざりしかど、天命に安んじ、人知らずして慍らず誠に高士の風ありけり。渋沢子爵・益田男爵常にその長逝を悼まれけるが、此地の再び栄えんとするに当りて、懐旧の情に堪へざるものあり、仙石原村の人々も、須永君がその昔、同村村会議員
 - 第54巻 p.191 -ページ画像 
となり、又村長をもつとめ、且此処の水利に関して其身をも顧みず、いたく力を尽されたりし功労を偲び、感激浅からず、君の旧跡に記念の碑を建て、仙石原開発の君の初志が、形こそ異なれ、こゝに成就することを現はにせんとす。あはれ君が在天の霊、さぞなうれしみて、此地の繁栄と、此処に来り住まん人々の健康とを、長尾峠の坂路行末長く、冠が岳のむら松幾千代かけてぞ守護なし給ふらむ。
    昭和六年七月 渋沢子爵に代りて穂積歌子しるす
 この碑の建てられた昭和六年夏は、青淵先生には健康兎角勝れず、九月には頓に衰弱せられたことなどを思ひ合はせ、稍ともすると感傷的になるのであるが、この除幕式に関聯して、仙石原の将来を、希望に満ちて談話せられたことを想起し、その予言の通り、年々に開け行く現情を考へ、先生がこの様を親しく視られて、『段々と私の言うた通りなるね』と喜ばれる様であつたならなどと、つい愚痴も出るのである。碑は『中央農舎』の西南約一丁を距る稍小高き処に、金時山に面して立つて居る。仙石原地所会社専務取締役佐々田彰夫氏の配慮によつて、樹木の配置も行届き、殊更なる一廓をなして居る。『須永伝蔵氏は神様になつて居る』と誤り伝へらるゝのは此の為である。
 低徊顧望久しきに過ぎた。元へ戻り、また先生の仙石原即事の詩の序を見よう。
  已至。益田男先在。休憩霎時。共捨自動車。僦竹輿而発。路狭隘。且泥濘。而轎夫健脚如飛。能披草莱渉渓流。
 仙石原村の中央に近く、今乗合自動車の待合所のある辺で、益田翁は待つて居られたと云ふことである。此処まではどうにか自動車がきくが、之からは自動車どころでなく、人力車でも怪しかつた。この道は『イタリ新道』と称し、明治十三年耕牧舎開設のときに出来たもので、近年になつて、即ち先に記した須永氏の記念碑除幕式の時、仙石原地所会社の寄附によつて道路の改修を行ひ、碑の処までは自動車が通ずる様になつたが、其以前は草を分け、茨を払ひ、道なき道を辛うじて行く有様であつた。故にこそ『能く草莱を披き渓流を渉る』と先生も感嘆せられたのである。之は見たまゝのスケツチであつて、些かも文飾を加へられたのではない。当時此行に加はつた辻内政次郎氏の追懐によると、生ひ茂れる草を分けて進む為、朝早くては置く露に駕籠をやることが出来ない為、人夫の出て来るのが午前九時頃、自然出発は九時半から十時頃になつたと云ふことである。如何に『草莱を披く』ことが必要であつたか、推察に余りがあるであらう。斯様に人夫が遅出であつた為、『農舎』につかれたのは恐らく正午を過ぎた頃であつたらう。而して休憩をし、村長勝俣市五郎氏などと種々懇談し、又食事を摂りなどして、愈出発せられたのは、午後二時過三時に近い頃ではなかつたらうか。而して早川沿ひの道を、駕籠の上から可憐な秋草の花を愛でつゝ、空模様を気づかひながら、蘆の湖岸に出でられた頃は、夕空美しく晴れ上り、『群峰現巓。皆倒蘸影於湖水。』絵の如き景色を十二分に味ひ、駕籠を捨て、『雨を帯び、色鮮を加へた草と之を点綴する紅紫の野芳』を楽まれたのであつた。而して興高まるま
 - 第54巻 p.192 -ページ画像 
まに、玆に謂ゆる『仙石原即事』の七絶となつたのであらう。今箱根遊船会社専用道路と、そのかみあるかとも見えざりし俚俗『中道』即ち今の県道とに、間断なく往き交ふバス・トラツク・乗用車の警笛と砂塵に、日々に文化の影濃くなり行くを見られたならば、そのかみの草原に、紅・禄・灰、色とりどりの屋根の殖え行き、電灯の光の年毎に数多くなり行くを見られたならば、先生は如何に感ぜられるであらうか。『文化』の『自然』侵害に対し寛大であつた先生は、莞爾として『新仙石原即事』を物せられるのではあるまいか。


竜門雑誌 第三八七号・第四二頁大正九年八月 ○青淵先生の転地(DK540045k-0004)
第54巻 p.192 ページ画像

竜門雑誌  第三八七号・第四二頁大正九年八月
○青淵先生の転地 青淵先生には御静養の為め、既報の如く七月十四日大磯明石氏別荘に赴かれしが、同十九日午前十一時四十五分帰京せられ、爾後熱心に万般の用務を処理せられつゝありしが、八月十五日午前九時五十分発の汽車にて令夫人と共に東京駅を出発せられ、箱根小涌谷三河屋に御避暑中なるが、本月末迄滞留せらる筈なりと云ふ。


耕牧舎関係書類(DK540045k-0005)
第54巻 p.192 ページ画像

耕牧舎関係書類            (渋沢子爵家所蔵)
    大正十三年一月十六日    三井物産株式会社
  仙石原地所御共有者        管理者 佐々田彰夫
   渋沢同族株式会社御中 明六
   益田孝殿
   三井物産株式会社御中
    一、震害水田並ニ水路復旧工事施行ノ件
仙石原共有地所ノ内水田六拾余枚ノ内約参拾枚過般ノ震災ニ依リ陥落致シ、又堤防数個所破損シ、又水路手直シヲ要スル部分数拾個所有之候ニ付テハ、約金参百円内外ノ予算ヲ以テ之カ復旧工事施行致度、何卒御承認奉相仰候也
  (備考)地震ニ基ク被害ハ之レ以外ニハ無之候


耕牧舎関係書類(DK540045k-0006)
第54巻 p.192-194 ページ画像

耕牧舎関係書類              (渋沢子爵家所蔵)
    大正十四年四月二十五日
  仙石原地所御共有者      三井物産株式会社
  ○渋沢同族株式会社御中     管理者 佐々田彰夫 (印)
   益田孝殿
   三井物産株式会社御中
    仙石原共有地所大正十三年度事業報告
仙石原共有地所ニ於ケル大正十三年度事業ノ概要ヲ左ニ報告仕候
一、植林事業
 (イ)本共有山林ニ於ケル新植事業ハ既往二回ニ分チタル十個年ノ計画ノ遂行ニ依リ、大正十二年度ヲ以テ略ホ終了シタルモ、猶ホ新植スヘキ部分ナキニアラサリシヲ以テ、次ノ如ク新植ヲ為シタリ
   新植面積約七町歩、樹種檜苗一万四千八百本
   落葉松苗一万五千五百八十本
      此経費 二七五円八八銭
 - 第54巻 p.193 -ページ画像 
 (ロ)補植事業ハ年々特ニ必要トスル部分ヲ見計ヒ之ヲ実行シ、本年度ニ於テハ次ノ如ク施行シタリ
   大正六年度新植地ニ対シ檜苗二千本
   大正七年度 〃    落葉松苗二千五百本、檜苗一千五百本
   大正十二年度 〃   落葉松苗三千九百本、檜苗二千二百五十本
      此経費 一〇九円九〇銭
 (ハ)植林地ニ於ケル下草刈ヲ為シタル部分ハ、大正六年度植林地ノ内約四町歩、大正九年度同上約十町歩、大正十年度同上約十三町歩大正十一年度同上約十三町歩、大正十二年度約十三町歩、大正十三年度同上約七町歩ニシテ
      此経費 八九〇円七四銭
 (ニ)長尾山林枝打事業ハ大正十三年十月十四日ヨリ着手シタルモ、本年内大部分終了セリ、此経費 三三六円四五銭
  尚前年度同山林枝打ニ伴ヒ、間伐ヲ行ヒタル杉丸太ヲ売却シタル代金一九九円五〇銭ヲ得タリ
 (ホ)防火線刈取事業ハ毎年之ヲ実行シ居リテ、本年度ニ於テハ其刈取反別十町二反四畝十歩ニシテ
      此経費 二〇四円八七銭ヲ要シタリ
二、農事部ニ於ケル事業トシテハ
 (イ)桑樹新植ハ桑苗一千百本ヲ購入シ之ヲ植付ケタリ
        此経費 二一二円〇五銭ヲ要シタリ
 (ロ)養蚕ハ大正十三年七月三十日原種三枚ヲ掃立テ飼育シタルモ、前年度ニ於ケルカ如ク飼育者ノ適当ナルモノヲ得ル能ハス、且牧場内ノ蚕室ヲ直チニ使用シ得サリシ為一時借家シタル等ノ事由ニ依リ成績良好ナラサリシモ、尚本繭九貫五百目、玉中三貫二百目ヲ得、之ヲ金九十五円ニ売却シタリ
   養蚕諸経費ハ備品費四十一円四十銭ヲ加ヘ二三一円四一銭ヲ要シタリ
 (ハ)菎蒻玉植付ハ本年度始メテノ試ミニシテ、先ツ群馬県富岡町ヨリ種玉六十二貫九百目ヲ取寄セタルニ、途中汽車内並山路運搬中発芽ノ部分ヲ損傷シ、漸ク完全ナリシハ十貫目内外位ナリシモ、試植ノ結果ハ発育良好ニシテ、収穫セルハ六十三貫四百五十匁ヲ得タルモ、未ダ売却シ得ル丈ケ大粒ナラサルニ付、専門家ノ意見ヲ徴シ、次年度再度植付ノ事ニナシ売却セサリシカ、将来好望ナリト信ス
      此経費 一六二円五八銭ヲ要シタリ
 (ニ)アイコ草ハ山形県ニ於テ盛ニ植付ケ繊維草トシテ一般ニ賞讃ヲ博シ居レリトテ、神奈川県足柄下郡役所当該技手ノ勧メニヨリ取寄セ試植セシモ、全部失敗ニ帰シタリ
      此経費 一九円七〇銭
三、震災ニ基ク水田及ヒ水路修繕工事
  当初六百八十五円ノ予算ヲ以テ着手シタルモ、水路開鑿ノ際岩石兀出シ居リ、之カ切リ開キニ意外ノ費用ヲ要シ、終ニ竣工シタル
 - 第54巻 p.194 -ページ画像 
モ、之カ為メ費額千十円五十七銭ヲ要シタリ
四、其他ノ事項
 (イ)温泉源地借用出願ノ件ハ御料局ニ交渉中ナルモ、其態度未決ニシテ許否不明ナルモ、一面新神奈川県知事ヲモ煩ハシ本願ノ達成ヲ画策中
 (ロ)旧牧場地内ニ於テ埋木無断採掘発見ノ件
  旧牧場地内早川ニ接シタル地点ニ於テ、益田寅吉ナル者埋木ヲ無断採収シ居リタルコトヲ発見シ、取質シタル結果吉川某ノ不正行為ナルコト発見シ、吉川某ハ目下警察署ニテ取調中ナルモ、益田ヨリハ弁償金トシテ金五十円ヲ徴収シタリ
 (ハ)間伐杉丸太盗難ノ事
  大正十二年度ニ於ケル長尾山林間伐杉丸太ノ内、鈴木新蔵ヘ売約済ニ属スルモノヽ内百四十四本(此価格五十八円余)カ大正十二年十一月十四日ヨリ本年二月十七日迄《(○原註 大正十三年)》ノ間ニ何者ニカ窃取セラレタル事実発覚シ、直チニ警察署ニ申告シ目下捜査中ナルモ、今尚犯人ヲ検挙スルヲ得ス、該丸太ノ現存セシコトハ事実相違ナキ処ナルモ、当時他ニモ多数売却済ノ杉丸太存在セシヲ以テ、或ハ其際行違ヲ生シタルニアラスヤトモ察セラレサルニアラス、尚厳重注意中ナリ
 右及御報告候也


耕牧舎関係書類(DK540045k-0007)
第54巻 p.194 ページ画像

耕牧舎関係書類               (渋沢子爵家所蔵)
                  (別筆)
秘                 十月廿四日入手 明六
    大正十四年十月二十三日
  ○渋沢同族株式会社御中     三井物産株式会社
   益田孝殿             佐々田彰夫 (印)
   三井物産株式会社御中
拝啓 陳者本月廿一日帝室林野局本田長官ヨリ内話有之候仙石原御共有地所ノ一部宮内省用地トシテ買収方ノ件ニ付、早速左記ノ通リ同局ヘ答申方ノ御承認ヲ得候ニ付、本日直チニ同局ヘ出頭此旨口頭ヲ以テ答申致置候間左様御承引被成下度
  宮内省ノ御用地トシテ買上ケラルヽニ就テハ、喜ンデ御要望ニ応シ、何レノ地積ニテモ御入用丈ケ差出可申、買上条件ハ宮内省御意嚮ニ任カセ可申、尚ホ残リ地所ノ内住宅地ニ適スル部分ハ開放致度ニ付、温泉源地ハ予々出願通リ貸与願度シ
本件ニ関スル具体的交渉ハ、同局東京支局業務課長東郷技師ニ於テ其局ニ衝ラルヽ事ニ相成候ニ付、何レ具体的条項定マリ次第順次御報告申上ケ御承認相仰ク積リニ候間、是亦御承引置被下度候
右御報告申上候 敬具


耕牧舎関係書類(DK540045k-0008)
第54巻 p.194-195 ページ画像

耕牧舎関係書類             (渋沢子爵家所蔵)
                  (別筆)
秘                十月廿九日入手 明六
    大正十四年十月廿七日
  ○渋沢同族株式会社御中
 - 第54巻 p.195 -ページ画像 
   益田孝殿           三井物産株式会社
   三井物産株式会社御中       佐々田彰夫 (印)
    一、仙石原地所宮内省買上条件ノ事(報告第一)
本日帝室林野局東京支局東郷業務課長ヨリ仙石原地所ノ一部宮内省用地トシテ買上ケラルヽニ付、其具体的条件トシテ内示セラレタルモノハ次ノ通リニ有之候間御承引被成下度候
第一、仙石原共有地所ノ内宮内省買上予定面積ハ約百町内外ナル事
第二、右買上ハ成ルヘク御料地ト交換ノ方法ヲ以テ実行シ度ニ付、御料地ノ内希望ノ個所アラバ選定ノ上場所ノ如何ヲ問ハス申出テラレ度事
第三、予テ借地出願中ノ大涌谷地積姥子寄リ噴蒸地ノ内、温泉引用ニ適スル部分ハ貸地スルニ付、数個所選定ノ上該地点申出テラレ度事、御料局ニ於テモ自ラ調査シ内示スベシ
   但本項一帯ノ地積ハ第一項ノ交換地ニ振当ツルコト異存ナシ
   尤モ右大涌谷頂上ニアル大噴蒸地帯俗ニ大煮《ヲヲニエ》ト称スル茶屋前ノ地点ハ、箱根名勝地保存トシテ、又危険ヲ防止スルノ意味ニ於テ貸地等ハ避ケ度意嚮ナリ 以上
右内示条件ニ対シ、答申ノ都合上左ノ書類ヲ要求シタル処、快諾セラレタリ
   大涌谷姥子寄リ部面地積ノ内湯ノ花採取並ニ用水引用、其他ノ用途トシテ貸与セラレアル地帯、其面積、借主、期限等ヲ地図ノ上ニ明示セラレタルモノ
次ニ拙者ノ問ニ対シ次ノ如ク答ヘラレ候
  (一)従来ノ関係上又競願者(温泉要求者ヲ包ム)トノ紛争ヲ避ケル方法トシテ神奈川県知事ヲ介在セシメ調節ヲ図ルノ意味ヲ以テ一応其ノ意嚮ヲ内々探リ見ル事ハ此際見合ハセラレ度事
  (二)大涌谷姥子寄リノ部面ニハ、箱根土地会社系ノ日本鉱業会社ヨリ硫黄試掘願ヲ東京鉱務署ニ提出シ居ルモ、之レハ多分認可セラレサルヘシ、御料局ハ之ニ反対シ居レリ、其他硫黄試掘並採掘願ヲ提出シ居ル者アルヲ知ラス、又之ヲ認可シアルモノヲ聞カス
以上ノ次第ニ付、本文各項ニ付御考慮置被下度、其内参上御伺可申上候得共、直チニ御垂示可被下事項有之候ヘバ御一報願上候
右御報告申上候也


(増田明六) 日誌 大正一五年(DK540045k-0009)
第54巻 p.195 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一五年      (増田正純氏所蔵)
十二日○一月 火 曇               出勤
後三時、三井物産ニ佐々田彰夫氏訪問、仙石原共有地ニ関する件、岡部五郎小田原耕牧舎対益田男爵牛乳販売ニ関する件、宮内省御料地の件ニ付き談話○下略
  ○岡部五郎ハ須永伝蔵ノ四男、小田原耕牧舎ノ経営ニ当ル。


耕牧舎関係書類(DK540045k-0010)
第54巻 p.195-196 ページ画像

耕牧舎関係書類              (渋沢子爵家所蔵)
(朱書)                 (敬三)
秘                      (印)
 - 第54巻 p.196 -ページ画像 
                  (別筆)
    大正十五年一月十四日     一月十八日入手 明六
  ○渋沢同族株式会社御中      三井物産株式会社
   益田孝殿              佐々田彰夫 (印)
   三井物産株式会社御中
拝啓 陳者昨日帝室林野局東郷技師ヨリ次ノ如キ口達有之候
 大湧谷一帯ニ対スル徳田理学士ノ温泉調査ハ硫黄泉ノミ詳細ニ渉リ居ルモ、右ノ外姥子温泉附近ニ於テ明礬泉ノ湧出スルモノアリ、此温泉引用ノ途ナキニアラサルニ付、一応此温泉ノ有無ヲ調査シ其希望ノ有無ヲモ申出テラレタシ
トノ事ニ有之候、仍テ拙者ハ姥子温泉附近ニハ引用シ得ル丈ケノ温泉アリトノ事ヲ聞知セス、仮令之レアリトスルモ、姥子温泉スラ温度低ク、殊ニ水涸レノ時季アル位ナルニ付、到底共有地迄引用スルニ適シ不申ト相答ヘタルモ、同技師ハ温泉ハ低キモ引用ニ足ルヘキ泉量アルコトヲ認メ得ラルヽニ付、一応調査シテ希望ノ有無ヲ承リ度シトノ事ニ有之候ニ付、無已之ヲ承諾シ、再ヒ該方面ノ温泉ヲ調査スルコトニ致シ候間何卒左様御承引被成下度候
右及御報告候也
 追而同局ニ於テ姥子附近ノ温泉調査ヲ希望セラルル理由ハ、元来大涌谷ノ頂上ニアル「大煮《ヲヲニエ》」ト称スル地点ニ対スル借地出願者ハ従来頗ル多ク、該競願者ハ先年劇烈ナル運動ヲ為シタルコトアリシ際、当時ノ御料局東京支局長ハ、該競願者ニ対シ、該地点ハ何人ニ対シテモ向後権利ヲ附与セサル旨ヲ口達シタルコトアル関係上、当方ニ対シテモ他ニ許スヘキ温泉源地ナキコトヲ実地調査ノ上ヨリ証明セサレバ、右等競願者ニ対スル背約ノ弁明ヲナス資料ナシト思料セラレ居ルモノノ如ク推測セラレ申候、素ヨリ此推測ハ拙者ノ見解ニ過キサル次第ニ候得共、本交換問題ノ起リタル劈頭ニ於テ、拙者ハ右東京支局長ノ声明アリテ該大煮借地出来サルニアラスヤト反問シタルニ、当局ハ之ニ対シテハ他ニ方法ナキニアラスト答ヘラレタル事モ有之位ニ付、多分此推測ハ間違ヒナカルヘシト信シ居候、従テ若シ姥子附近ニ適当ナル温泉源地ナシトスレバ、結局ハ「大煮」ノ地点ヲ貸与スルカ、又ハ譲渡スルニアラスヤト思惟罷在候、左様御含置被下度候
尚同局ニ於テ実地調査ノ結果、共有地ヨリ宮内省用地トシテ入用ナル部分ハ六十余町歩ノ由ニ候、是亦御承引被下度候


耕牧舎関係書類(DK540045k-0011)
第54巻 p.196-198 ページ画像

耕牧舎関係書類             (渋沢子爵家所蔵)
    大正十五年八月十日        明六
  仙石原地所御共有者      三井物産株式会社
  ○渋沢同族株式会社御中     管理者 佐々田彰夫 (印)
   益田孝殿
   三井物産株式会社御中
    仙石原共有地所大正十四年度事業報告
仙石原共有地所大正十四年度ニ於ケル事業ノ概要ヲ左ニ報告仕候
一、植林事業
 - 第54巻 p.197 -ページ画像 
 (イ)新植事業ハ前年報告ノ如ク最早用材ニ適スル苗木新植ノ余地之レナキニ至リシヲ以テ之ヲ中止シ、本年度ヨリハ薪炭材ニ適スル近隣山林ニ繁茂セル「楢」「山カ」「赤シヤ」ノ果実ヲ拾収シテ之ヲ播種シ、他日ノ住宅用薪炭材林ヲ作ル計画ニシテ、目下其準備中ナリ
 (ロ)補植事業ハ大正十一年度植林地ヘ苗圃ニ現在セル落葉松並檜木苗三千本ヲ補植シタリ
      此費額 二二円八〇銭
 (ハ)植林地ニ於ケル下草苅ヲ為シタルハ大正五年度、大正十年乃至十三年度植林地ノ部分ニシテ、大正十四年六月廿四日着手シ、同八月三十日ヲ以テ終了シタリ
      此経費 九七〇円一〇銭
 右ノ外梅林地下草苅ハ大正十四年十月五日ノ稟議案ニヨリ経費予算金五百七十円七十銭ヲ以テ、随時下草刈ヲ行ヒ来リタルモ、該地積ニ対シ宮内省ヨリ換地ノ申込アリタルニ付中途之ヲ中止シタリ
      此経費 九一円四〇銭
 (ニ)長尾山林其他植林地枝打及除伐事ハ大正十三年十月十四日着手シタルモノニシテ、大部分ハ大正十三年度ニ於テ之ヲ終了シ、本年度ハ其残部ノ枝打ヲ為シ、大正十四年三月二十五日ヲ以テ完了シタリ、而シテ右枝打全数量ハ七千九百三十六本ニシテ其総経費ハ参百八十二円十九銭ニ達セリ
      本年ニ於テ支払ヒタル経費 九四円三九銭
  尚右枝打ニ伴ヒ間伐シタル杉小丸太約三百三十本、此時価約二百円ハ時期ヲ見計ヒ売却ノ筈
 (ホ)防火線刈取事業ハ年々之ヲ実行シ来リ、本年度ニ於テハ刈取面積六町四反四畝六歩ナリ
      此経費 一二八円八三銭
二、農事部ニ於ケル事業
 (イ)菎蒻玉耕作ハ大正十三年度ニ於テ初メテ之ヲ試植シタル処、其成績良好ニシテ、種玉取寄中大部分損傷シ居リタルニ不拘、収穫高ハ六十三貫余ニ達シ、本年度ニ於テ再植シ、今一段発育セシメテ売却スル積リヲ以テ冬季之ヲ貯蔵シ居リタル処、貯蔵ノ方法不慣ノ為メト、気候ノ変化劇烈ナリシ為メ、其殆ンド大部分腐敗シテ再植ニ適セサルニ至リ、其残部ヲ本年之カ再植ヲ為シタリ、然ル処其収穫ノ結果三年玉十三貫五百目、二年玉五貫二百目、一年玉三貫七百目、合計二十二貫四百目ヲ得リタリ、而シテ是亦次年度ニ持越シ再植シ、更ニ増育ヲ図ラントスル次第ナリ
  本耕作ハ不慣ノ為メ意外ノ失敗ヲ為シタルモ、次年度ヨリハ此失敗ヲ繰返サヽル様注意スル積リナリ
      此経費 二三円七五銭
 (ロ)玉蜀黍ハ新タニ米国ヨリ種子ヲ取寄セ試作シタル処、地味・気候ノ相違ニヨリタルカ、終ニ完全ニ発芽スルニ至ラサリシヲ以テ、無已該試作面積ニ対シ遽カニ地産種子ヲ播種シ、一石六斗五升ノ収穫アリタルヲ以テ、時期ヲ見計ヒ売却スル予定ナリ
 - 第54巻 p.198 -ページ画像 
      此経費 四七円八一銭
 (ハ)養蚕ハ大正十四年七月二十七日蚕種紙二枚ヲ掃立テ飼育シタル結果、上繭五貫目、中繭一貫四十目、大繭二貫目、計八貫四十目ヲ得、之ヲ金五十五円ニテ売却シタリ、而シテ養蚕諸費用ハ七十七円四十七銭ヲ要シタルニ付差引二十二円余ノ欠損ヲ為シ、外ニ蚕室改修費九十五円ヲ要シタリ
 (ニ)桑園ハ経費六十二円四十銭ヲ以テ之カ耕作手入施肥等ヲ為シタリ
三、宮内省用地トシテ交換ノ件
 大正十四年十月二十三日帝室林野局長官ヨリ本地所ノ内字イタリ芦湖寄リノ地積約六七十町歩ヲ宮内省用地(御用邸附属地多分ゴルフ・リング)トシテ他ノ御料地ト交換シ度希望ヲ有スル旨内達アリタルニ付テハ、目下其交換適地並ニ温泉源地借用方ニ付調査ヲ遂ケツヽ一面接衝中ナリ、若シ此機会ニ於テ温泉源地ヲ得ルノ方法アラハ、多年ノ希望ヲ達成シ本共有地所ノ利用開発スルヲ得ル次第ナリトス
  右及御報告候也


(増田明六) 日誌 昭和二年(DK540045k-0012)
第54巻 p.198 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和二年     (増田正純氏所蔵)
五月十六日 月 晴               出勤
○上略
本日の来訪者
1、佐々田彰夫君 仙石原地所内牧牛舎売却ニ関する件
○下略


耕牧舎関係書類(DK540045k-0013)
第54巻 p.198-201 ページ画像

耕牧舎関係書類             (渋沢子爵家所蔵)
    昭和三年五月二十一日
  仙石原地所御共有者      三井物産株式会社
   渋沢同族株式会社御中      管理者 佐々田彰夫 (印)
   益田孝殿
   三井物産株式会社御中
    一、昭和三年度経費予算ノ事
仙石原御共有地所ニ関スル昭和三年度収支予算ハ別表ノ通リニ有之、約壱千九百余円ノ収入不足ト相成候ニ付、該金額ハ毎年ノ例ニ依リ御出資ヲ仰グヘキ筈ノ処、右支出経費予算ノ内、臨時費目ニ属スル費額ハ、目下宮内省御料地ト仙石原湖畔地所トノ交換問題ノ成行ニ依リテハ、其増減スヘキ程度、時期予想難致、若シ同問題解決セバ、交換地所分ニ依リ少クトモ十数万円ノ収入有之見込ニ付、旁々右解決迄支出ヲ要スベキ必要経費ハ、一時借入金ヲ以テ支弁致置申度ト存候、何卒該予算費額並一時借入金(右予算費額ヲ限度トス)之義御承認被下度此段及稟議候也
 参照
  一、大正十五年度昭和元年度 収支精算書
  一、昭和二年度収支精算書
   右併セテ御供覧申上候也
 - 第54巻 p.199 -ページ画像 
   昭和三年度収支予算

図表を画像で表示昭和三年度収支予算

   収入                      支出                   円 土地賃貸料          五三三・四三   経常費ノ部              円 間伐材及篠竹売却代      二三〇・―    植林地下草刈其他        三五〇・〇〇 雑収入             二〇・〇〇   闊葉樹(薪炭兼用)新植費    二三七・〇〇 現在金(昭和三年一月一日現在)四八四・五三   農事養蚕諸費          一〇〇・〇〇 (朱書) 不足額          一、九〇九・〇四   防火線手入費          一六〇・〇〇                         傭入手当其他報酬        四八〇・〇〇                         租税・郵税・旅費借地料・村雑費 三五〇・〇〇                           経常費小計       一、六七七・〇〇                         臨時費ノ部                         臨時調査諸費及報酬旅費・雑費  七〇〇・〇〇                         測量費・境界石標建設費     八〇〇・〇〇                           臨時費小計       一、五〇〇・〇〇 合計           三、一七七・〇〇   合計            三、一七七・〇〇 



(朱書)
参照
    仙石原共有地大正十五年自一月昭和元年至十二月 収支精算書(決算)

  収入                支出
             円                  円
 前年度繰越金   四二八・一九  下草刈費       六四〇・六五
 土地賃貸料    五三三・四三  植林地間伐費      三〇・九六
 篠竹売却代    一八七・〇〇  蒟蒻玉耕作費      一七・一〇
 間伐松丸太売却代 二〇〇・〇〇  桑園耕作費       五二・八〇
 玉蜀黍売却代    一六・五〇  養蚕飼育費       八〇・九六
 蘭売却代      五一・一八  同備品費        三二・六五
 雑収入       二七・二〇  薪炭材苗圃費      二九・一〇
 出資金    一、六〇〇・〇〇  防火線手入費     一四八・八三
                  温泉源地調査諸費   一六七・六七
                  共有図面調製費     四九・四五
                  借地料         二三・三〇
                  報酬         四八〇・〇〇
                  租税          三五・九九
                  郵税・旅費       一一・六九
                  国道開通祝賀会寄付金 三〇〇・〇〇
                  次年ヘ繰越      九四二・三六
 合計     三、〇四三・五〇  合計       三、〇四三・五〇

(朱書)
参照
    仙石原共有地昭和二年度収支精算書(決算)

   収入               支出
              円              円
 前年度繰越金    九四二・三六  下草刈費   四六九・二〇
 土地賃貸料     五三三・四三  植林地間伐費  五九・九四
 篠竹売却代     一〇七・〇〇  蒟蒻玉耕作費  一〇・八〇
 間伐杉丸太売却代  三二七・八〇  桑園耕作費   七七・四七
 - 第54巻 p.200 -ページ画像 
 繭売却代       一八・五一  薪炭代苗圃費  一六・二〇
 預金利子        二・一五  防火線手入費 一五一・七〇
                   養蚕飼育費   七二・五三
                   借地料     二三・三〇
                   報酬     四八〇・〇〇
                   租税      七七・三三
                   郵税・旅費    八・二五
                   次年ヘ繰越  四八四・五三
 計       一、九三一・二五  計   一、九三一・二五

  (備考)本年度ハ前年度繰越金多カリシト支出経費少ナカリシ為メ、出資ヲ仰カスシテ相済マセ申候
(朱書)
決行
  昭和参年度旧牧場農林事業見積予算書
一、計金四百五拾円也
   内訳
   金参百五拾円也 山林事業費計此使用
           大正八年植拾町歩除伐壱百参拾五人工
           同十三年植七町歩下刈四十人工
           同七年植内約弐丁歩細打二十人工
           同年防火線内掃除六人工
          右山林ヘ使用
  金七拾円也    農事費計此使用
           蒟蒻耕作及雑木苗耕作男二人女四人
           桑園約三反歩三回耕作男九人女十人
           桑園ヘ肥料壱回
  金参拾円也    養蚕費、種紙三枚トス
           飼育中女三十人桑葉アル積リ
           繭売却代金此支払ニ使用不足額也
           人夫賃男女各壱二円一円見積人員計男二百十二人工女四十四人工
 右見積事業臨時雇支出金トシテ予算提出候也
  昭和参年一月廿日       箱根仙石原村一、二九〇地
                    辻内政治郎 
  土地管理者
  三井物産株式会社
    佐々田彰夫殿
(朱書)
決行
  昭和三年度闊葉樹植付費用見積書
一、計金弐百参拾七円也
   此内訳使用
    金七拾五円也  地植面積弐町五反歩人夫参十七人五分手間
    金壱百拾弐円也 植付二万二千五百本一人四百本五十六人手間
    金五拾円也   弐町五反歩下刈弐十五人工、反壱人係リ
 - 第54巻 p.201 -ページ画像 
    使用苗木大正十四年春蒔付自園養成ノ楢及山カ苗
    場所ハ大正九年植続キノ高台ヘ植付ス
 右以上ノ通リ予算見積提出申候也
  昭和三年三月十八日       箱根仙石原村
                   辻内政治郎 
  仙石原牧場
   土地管理者
    佐々田彰夫殿
(朱書)
決定
  養成中ノ雑木苗報告書
一、樹種類楢実九升也   大正十四年十一月蒔付 面積約五畝歩
一、同山カー種弐斗七升也 同十五年春蒔付    面積約八畝歩
    計参斗六升也
 右苗木現在楢数約 四千本
 同現在山カー苗数約 四万本(長サハイズレモ尺ヨリ尺三四寸位)
 該苗木ハ杉檜ト違ヰ植付後下草刈回数少ナキ為昭和四年度山植仕リ度キ見込ミ
一、樹種類コハデ実 大正十五年春蒔付面積約三畝歩
          此苗種ハ本春発生見込
 此外本年春蒔付予定ノ山カーノ実取込ミ約二斗アリ
 右之通相成此段御報告申候也
  昭和三年三月六日         箱根仙石原村
                    辻内政治郎 
  耕牧舎土地管理者
   佐々田彰夫殿



〔参考〕竜門雑誌 第五二七号・第八二―八三頁昭和七年八月 函根の仙石原 大森山人(DK540045k-0014)
第54巻 p.201-202 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕竜門雑誌 第六〇〇号・第四六頁昭和一三年九月 青淵子爵の思出 平田雅彦(DK540045k-0015)
第54巻 p.202 ページ画像

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