デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

5章 農・牧・林・水産業
1節 農・牧・林業
7款 中央開墾株式会社
■綱文

第54巻 p.219-222(DK540049k) ページ画像

大正8年6月4日(1919年)

是ヨリ先栄一等、未墾地ノ開拓ニヨリ食糧増産ニ資スル目的ヲ以テ、帝国開墾株式会社ノ設立ヲ企画シタルモ、不成立ニ終ル。是日栄一、益田孝ノ来訪ヲ受ケ、開墾会社ノ再建ニツキ協議シ、翌五日、益田孝・武井守正ト共ニ総理大臣原敬ヲ官邸ニ訪ヒ、右ニ関スル協議ヲナス。爾後栄一、屡々政府当局ト折衝シ、又、益田孝・武井守正等ト会談ヲ重ヌル等、当会社ノ設立ニ尽力スルトコロ少ナカラズ。


■資料

集会日時通知表 大正八年(DK540049k-0001)
第54巻 p.219 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月四日 水 午前十時 益田孝氏来約(兜町)


渋沢栄一 日記 大正八年(DK540049k-0002)
第54巻 p.219 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月四日 晴 軽暑
○上略 十時事務《(所脱)》ニ抵リ、益田孝氏来訪、開墾会社再建ノ事ヲ協議ス○下略


集会日時通知表 大正八年(DK540049k-0003)
第54巻 p.219 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月五日 木 午後三時 原総理大臣御訪問ノ約(永田町官邸)


渋沢栄一 日記 大正八年(DK540049k-0004)
第54巻 p.219 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月五日 雨 暑
○上略 二時ヨリ原首相官舎ニ抵リ、桜井氏ト理化学研究所寄附金ノ事ヲ首相ニ依頼ス、更ニ武井・益田二氏ト共ニ開墾会社ノ事ヲ首相ト協議ス○下略
  ○中略。
六月十三日 曇 冷気
○上略
益田孝氏来リテ開墾会社創立ノ事ヲ談ス、蓋シ去ル五日ニ於ル会談ヲ継続スルモノナリ
○下略


集会日時通知表 大正八年(DK540049k-0005)
第54巻 p.219 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月十七日 火 午後三半時 高橋書記官長ヲ御訪問(首相官舎)


渋沢栄一 日記 大正八年(DK540049k-0006)
第54巻 p.219-220 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月十七日 曇 冷気、今朝ハ頃日ニ比シテ少ク暑気アルヲ覚フ、但シ天候ハ梅雨濛々トシテ、雨ナラサルモ朗晴ノ時ナシ
 - 第54巻 p.220 -ページ画像 
○上略 午後四時高橋内閣書記官長ヲ訪ヒ、又原首相ニ会見シテ、朝鮮官制ノ事、開墾会社ノ事、理研寄附金ノ事等ヲ談話ス
○下略


集会日時通知表 大正八年(DK540049k-0007)
第54巻 p.220 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月二十日 金 午前八時 益田孝男、久保田四郎氏《(窪田四郎)》、武井男ノ三氏飛鳥山邸ニ来約


渋沢栄一 日記 大正八年(DK540049k-0008)
第54巻 p.220 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月二十日 晴 暑
○上略 益田・武井両男爵及窪田四郎氏来リ、開墾会社設立ノ事ヲ協議ス○下略


集会日時通知表 大正八年(DK540049k-0009)
第54巻 p.220 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月二十五日 水 午前九時 小阪農商務大臣秘書官来約(ホテル)


渋沢栄一 日記 大正八年(DK540049k-0010)
第54巻 p.220 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月二十五日 晴 暑
○上略 小阪農商務大臣秘書官来リ食糧問題ニ付大臣ヨリノ伝語アリ○下略


集会日時通知表 大正八年(DK540049k-0011)
第54巻 p.220 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月三十日 月 午前九時 益田男・武井男・窪田氏三氏来約(兜町)


渋沢栄一 日記 大正八年(DK540049k-0012)
第54巻 p.220 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
六月三十日 晴 暑
○上略 午前九時兜町事務所ニ抵リ、益田孝・武井守正・窪田四郎三氏来リテ、開墾会社設立ノ事ヲ協議ス○下略


集会日時通知表 大正八年(DK540049k-0013)
第54巻 p.220 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
七月三日 木 午前十一時 開墾会社ノ件(華族会館)


渋沢栄一 日記 大正八年(DK540049k-0014)
第54巻 p.220 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
七月三日 曇 暑
○上略 十一時華族会館ニ抵リ、武井・益田・窪田氏等ト共ニ開墾会社設立ノ事ヲ談シ、当初ノ発起人数名ト協議ス○下略


集会日時通知表 大正八年(DK540049k-0015)
第54巻 p.220 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
七月十二日 土 午前十一時 窪田氏・武井男・増田男《(益田)》ト農商務大臣ヲ御訪問(農商務省)


中外商業新報 第一一九六二号大正八年七月一三日 ○渋沢男等農相訪問(DK540049k-0016)
第54巻 p.220-221 ページ画像

中外商業新報  第一一九六二号大正八年七月一三日
○渋沢男等農相訪問 渋沢栄一・武井守正・益田孝の三氏は、十二日午前十一時農商務省に山本農相を訪ひ、大臣室に於て山本農相・犬塚次官・道家局長と会見し、開墾助成法の実行方法に就き協議をなしたる
 - 第54巻 p.221 -ページ画像 
が、第四十一議会に否決せられたる開墾会社を、現行開墾助成法の範囲内に於て復活せしむる下相談なるべしと観測せらる


中外商業新報 第一一九六四号大正八年七月一五日 ○開墾会社再燃 政府側と折衝(DK540049k-0017)
第54巻 p.221 ページ画像

中外商業新報  第一一九六四号大正八年七月一五日
    ○開墾会社再燃
      政府側と折衝
帝国開墾株式会社の設立に就て、十二日渋沢男・益田男並に武井男相携へて農相を訪問する所あり、次官・局長とも懇談を遂げたり、是より先き、三男は原首相と会見し、同じく帝国開墾会社の再燃上熟談する所ありし由なるが、其政府側の意見の果して奈辺にありし乎は知り難きも、要するに食糧問題の解決上積極的に
△生産の増加 を期するの意味に於て、既に前議会に開墾助成法を提案して通過せしめたる精神より観るに、其生産の増殖を図るの目的を有する事業に対して、相当の援助を与ふるに吝ならざる可きは略推測し得べしと雖も、該会社の再燃に就きては、前議会に提案せられたる帝墾会社に対し、政府は設立の日より十五ケ年間、株主配当八分の範囲に於ける補給金交付の問題を多分含有すべしと推せらるゝが故に、貴族院が審議の時日なき理由に体よく
△決議の回避 したる行懸りも是ある事迚、今回は充分の下相談を遂げんとするものゝ如く、随つて急速に進行し難き事情あらんも、米価の騰貴は積極的の施設を等閑視能はざる関係上、其成立に対しては啻に発起者側のみの希望のみに止まらざるものあり、出来得可き丈け速かに其成立を期すと云へり、因に帝墾会社の資本金は前議会提案当時の計画は三千万円とありたり


竜門雑誌 第三七五号・第五四―五五頁大正八年八月 ○混米雑食の必要(DK540049k-0018)
第54巻 p.221 ページ画像

竜門雑誌  第三七五号・第五四―五五頁大正八年八月
○混米雑食の必要 左は去七月十九日「中外商業新報」に掲載せられたる青淵先生の談話にして、同紙が時局に鑑み米価調節方策に関し、各方面有力者の所見を聴取せし際に語られたるものなりと。
○中略
 最後に開墾による
 △米産増量 を期せざる可らず、前議会に於て政府が開墾助成法を立案したるは機宜の施策たるを失はずと信じたるが、相成る可く其精神の達成と事実に於ける産米の増加とを希望して止む能はず、方法と努力の如何によりては、尚ほ未墾地の開墾し得可きもの尠しとせず、開墾事業は急激に僅々二・三年間の短時日に其成績を挙げ難しと雖も、将来の長計は今日より之を樹て置かざる可らず云々。


竜門雑誌 第三七七号・第一一―二一頁大正八年一〇月 ○平和克復後の財界に就て 青淵先生(DK540049k-0019)
第54巻 p.221-222 ページ画像

竜門雑誌  第三七七号・第一一―二一頁大正八年一〇月
    ○平和克復後の財界に就て
                      青淵先生
 本篇は「銀行通信録」八月号に掲載せられたるものなり。(編者識)
○中略
 米価の高いと云ふことは世間一般の声であつて、目前喫緊の問題で
 - 第54巻 p.222 -ページ画像 
ある。私共もどうかして之を安くしたいと思うて苦んで居るが、唯々廉売米の寄附金をする位の事では何にもならぬ。昨年は一時甚だ必要と思うたから、私も多少の微力を尽したけれども、今日の有様は、更に寒心に堪へぬのであるが、能く考へて見ると是は勢ひ斯うなる筈である。前に述べた如く工業が盛になると、是まで地方の農業に従事した者が、段々農を止めて都会に集つて来る。東京・大阪等の大都市ばかりではない、各地ともに農が変つて工になることは、毎日行はれて居る。それが為めに農が減ずる。農が減ずるばかりでなくて米を作る人が減じて、米を食ふ人が殖える。大学に生之者衆。食之者寡。則財恒足矣。と教へてありますが、反対に云へば生之者寡。食之者衆。則財恒不足矣となる、故に米の足らぬのは当然の事である、而して土地はどうなつて居るかと言ふと、政府の地面でも、帝室の地面でも、陸軍の地面でも、開墾をすれば作物の出来る土地が全国に沢山にある。けれども是がさつぱり手が著かない。縦令今直に開墾が出来ても、其開墾の田地から直ぐ米が出来るものではないから、間に合はぬと言はれるとも、目前の事に就ては別に方法を講じて根本から進めて行くのが必要である。私は数年前から会社関係は止めたけれども、此開墾の事だけは武井・益田の両男爵と共に開墾会社の成立に努力して居る、今も窪田四郎君から電話が来たが、是非早くおやりなさいと言つて居る、果してどう云ふものが成立つか分らぬが、是非何とかせねばならぬと思ふ。
○下略


集会日時通知表 大正八年(DK540049k-0020)
第54巻 p.222 ページ画像

集会日時通知表  大正八年       (渋沢子爵家所蔵)
十月二十日 月 午後一時 開墾会社ノ件ニ付、原首相ト御会見ノ約(首相官舎)(益田・武井両男爵モ来会セラルヽ筈)