公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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大正9年9月13日(1920年)
是年春、経済界ニ恐慌起リ、当会社ノ成立不可能ノ状態トナリタルタメ、資本金三千万円ノ計画ヲ一千万円程度ニ縮小スルコトヽシ、是日栄一、武井守正・益田孝ト連名ノ書翰ヲ以テ、更メテ各方面ニ対シ、当会社ノ株式引受方ヲ依頼ス。
十月七日、如水会館ニ於テ、其創立評議員会開カレ、資本金ヲ七百五十万円トスルコトニ議決セラル。栄一出席ス。十二月二十日、日本工業倶楽部ニ於テ、創立総会開カレ、当会社ノ設立成ル。
中央開墾株式会社書類(DK540053k-0001)
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中央開墾株式会社書類 (渋沢子爵家所蔵)
謹啓 益御清適奉賀候、陳者中央開墾株式会社創立ニ関シテハ、株式公募当時恰モ財界動揺ノ時期ニ際会致候為、案外ノ不結果ニ陥リ、誠ニ遺憾ノ至ニ御座候、尚賛成ノ払込モ同様思フニ任セズ、目下其払込分ニ対シテハ相当督促致居候ヘ共、多クハ猶予申出候有様に付、此際強而会社ノ創立ヲ急クハ頗ル不得策ナルノミナラズ、或ハ株式御引受被成候方々ノ内、御迷惑ノ向モ可有之哉ト被存候間、当分金融ノ成行如何ヲ見ルノ外無之ト被存、其儘ニ差控居候、尤モ事業方面ニ関シテハ、調査設計等着々進行致居候ニ付御安意被成下度、何レ不日機ヲ見テ委員会相開キ御協議可申上候ヘ共、不取敢右得貴意候 拝具
五月十日○大正九年 窪田委員長
中央開墾株式会社書類(DK540053k-0002)
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中央開墾株式会社書類 (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓 残暑之候益御安健奉賀候、偖中央開墾株式会社之創立ハ一時非常之好況ヲ呈シ、不幸ニシテ中途財界ノ変動ニ遭遇シ、暫ク其成行ヲ見送リ来候モ、今日ノ金融状態ヨリ推測スレバ、三千万円会社ノ成立ハ頗ル困難ニ有之、半ハ国家的貢献ヲ目的トシ、政府ノ援助ノ下ニ、全国有力者ヲ網羅シテ発起サレタル会社ガ、財界事情ノタメニ挫折スルハ如何ニモ遺憾ニ存居候折柄、其筋ヨリハ仮令止ムヲ得ズ資本ヲ減少スルモ、会社ハ是非共成立セシメラレ度旨切ニ希望セラレ、実業方面之元老諸氏モ亦極力不成立ヲ否認セラレ候ニ付、種々画策ノ結果、其筋ヨリ非常ニ有利ナル事業地五ケ所ヲ認可セラル事ニ内定相成候ニ付、左記ノ計画ニヨリ会社ヲ創立スル予定ニ有之候
一、国有地ノ年賦払下ヲ受ケ、全国ニ亘リテ広ク開墾ヲ行フコトハ
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当初ノ目的ト何等変更ナキモ、臨機ノ所置トシテ、先ツ以テ目先有利ナル前記五ケ所ヲ第一期事業地トシテ工事ニ着手ス
二、第一期事業地ハ五ケ所、総面積一千四百六十町ニシテ、十三ケ月乃至四十九ケ月ニテ工事ヲ竣功シ、水旱ノ患ナキ良田千二百二十町ヲ得ルモノニシテ、弐百五拾万円ヲ以テ事業ヲ遂行シ得ベク損益計算ハ第二年度以降一割弐歩ノ配当ヲナシ、第六年度ニ繰越スベキ資金現在高ハ約参百参十万円ヲ算シ、尚其後ニ交付ヲ受クベキ補助金約廿四万円ノ収入アル予定ナリ
三、資本金額ヲ約壱千万円トシ、第一回四分ノ一払込金ヲ以テ第一期事業地ノ開墾ヲ遂行シ、事業目論見書等ハ前項ノ計画ニヨリ具体的ニ之ヲ作成ス
四、第二回以後ノ株金払込ハ、他ニ有利ナル事業地ヲ獲得シ、急速ニ工事ヲ遂行スルヲ利益ト認メタル場合ニ於テ、株主総会ニ諮リ其同意ヲ得テ之ヲ行フ
五、減資ノ方法ハ発起人会ニ於テ之ヲ決定ス
之ヲ要スルニ、当社設立当時ニ在テハ、事業地区確定セザルヲ以テ精細ナル予算ヲ編成スルコト難ク、従テ損益計算等モ頗ル杜撰ノ嫌アリシモ、今回ハ第一期事業地ヲ定メタルヲ以テ、凡テノ数字ハ殆ド適確トナリ、又会社設立ト同時ニ事業ヲ開始スルコトヲ得ルニ至リタルハ御同様喜ハ敷次第ニ有之、実ハ先般来右ノ趣旨ニヨリ会社ヲ成立セシムルコトニ御同意ヲ得度、夫々御内談相試候結果、創立委員及東京在住ノ大株主ノ方々ニ於テハ、大ニ其方法ヲ以テ確実安全ナルモノト認メラレ、御説明申上候方々ハ、殆ンド全部当初ノ株数悉皆引受ヲ承諾セラレ候ヘ共、然モ尚弐十万株ヲ集ムルハ中々容易ノ事ニ無之、会社ノ成立ハ頗ル困難ト被存候ニ付、此際無理ナル御願ニハ候ヘ共、曩ニ御申込相成候丈ノ株数ヲ、新計画ニ対シ御引受被下度、若シ強テ減株御希望ノ節ハ可成多数御引受被下度、切望ニ不堪候、尚当方ニ於テハ目下創立ヲ急キ居候次第ニ付、甚恐額ニ候ヘ共折返シ御回答被成下度御願申上候 敬具
中央開墾株式会社創立委員長
窪田四郎
大正九年八月 日
殿
集会日時通知表 大正九年(DK540053k-0003)
第54巻 p.249 ページ画像
集会日時通知表 大正九年 (渋沢子爵家所蔵)
九月二日 木 午前十一時 中央開墾会社ノ件(ホテル)
竜門雑誌 第三八八号・第七〇―七一頁大正九年九月 ○中央開墾会社創立委員会(DK540053k-0004)
第54巻 p.249 ページ画像
竜門雑誌 第三八八号・第七〇―七一頁大正九年九月
○中央開墾会社創立委員会 青淵先生、益田・武井両男を主唱者とし窪田四郎氏を創立委員長として、政府当局の援助の下に全国の有力企業家を網羅して発起計画せる中央開墾会社は、一般公募の際恰も本年三月財界の変動に遭遇して、会社創立に支障を来したるが、愈々九月七日午前十一時帝国ホテルに於て同社創立委員会を開き、青淵先生を首め其他の諸氏出席の上今後の方針に関し種々協議する所ありたる由
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中央開墾株式会社書類(DK540053k-0005)
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中央開墾株式会社書類 (渋沢子爵家所蔵)
(表紙)
大正九年九月七日
帝国ホテルニ於テ開会シタル
委員会配付書類
(謄写版)
甲 創立委員会協議事項
一報告
(一) 経過概要
(二) 公募ノ成績(府県別応募並証拠金払込賛成株一覧)
(三) 証拠金預入状況(株式申込証拠金預金先一覧)
(四) 創立費及事業費ノ支出(創立費及事業費等支払高一覧)
(五) 事業地関係(確定事業地概要図面収支予算書)(乙ノ一ノ(一)確定事業地ニ添付アリ)
二旧計画廃滅ニ関スル協議
(一) 廃滅通知状案文(設立廃止通知状案)
(二) 創立費及事業費ノ負担
(三) 証拠金利息
(四) 会社廃滅ニ関スル一切ノ事項及証拠金払戻ノ方法ヲ委員長ヘ一任スルコト
府県別応募株並ニ証拠金払込賛成株一覧
府県名 公募株 賛成株 計(証拠金払込済分)
申込高 証拠金払込高
株 人 株 人 株 人 株 人
北海道 四〇〇 九 八〇〇 三 三〇〇 二 七〇〇 一一
東京 三、八九〇 四六 六八、四六〇 一二一 四六、六一〇 八二 五〇、五〇〇 一二八
京都 二二〇 六 二〇〇 一 二〇〇 一 四二〇 七
大阪 一五〇 五 一、八〇〇 六 一、一〇〇 二 一、二五〇 七
神奈川 四九〇 七 二、五〇〇 一 〇 〇 四九〇 七
兵庫 一〇〇 四 五、六〇〇 一三 三、四〇〇 一〇 三、五〇〇 一四
長崎 二〇 一 〇 〇 〇 〇 二〇 一
新潟 五八五 一三 三、〇八〇 一九 九三〇 九 一、五一五 二二
埼玉 九〇 五 五〇〇 一 五〇〇 一 五九〇 六
群馬 五五 四 〇 〇 〇 〇 五五 四
千葉 四三〇 九 二、二〇〇 二 二〇〇 一 六三〇 一〇
茨城 六一五 一二 三、五三〇 二〇 一、九三〇 一四 二、五四五 二六
栃木 五〇 二 二、二〇〇 三 一、〇〇〇 一 一、〇五〇 三
奈良 一〇 一 五三〇 二 五三〇 二 五四〇 三
三重 七〇 五 二〇〇 一 〇 〇 七〇 五
愛知 二一〇 二 八〇〇 三 三〇〇 一 五一〇 三
静岡 八三〇 七 三、三五〇 一五 三、一五〇 一五 三、九八〇 二二
山梨 九〇 二 八〇〇 二 八〇〇 二 八九〇 四
滋賀 一二〇 四 二〇〇 一 〇 〇 一二〇 四
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府県名 公募株 賛成株 計(証拠金払込済分)
申込高 証拠金払込高
株 人 株 人 株 人 株 人
岐阜 五〇 一 一、〇〇〇 一 〇 〇 五〇 一
長野 三〇 三 八九〇 七 八四〇 六 八七〇 九
宮城 四九〇 五 一〇、一二〇 四六 六、六〇〇 二九 七、〇九〇 三四
福島 八〇 四 一〇〇 一 〇 〇 八〇 四
巌手 一五〇 九 四五〇 三 二五〇 二 四〇〇 一一
青森 三〇 二 三〇〇 二 三〇〇 二 三三〇 四
山形 七八〇 五 二、二〇〇 二 二、二〇〇 二 二、九八〇 七
秋田 五〇 二 〇 〇 〇 〇 五〇 二
福井 六〇 三 二〇〇 一 二〇〇 一 二六〇 四
石川 一〇 一 一〇〇 一 一〇〇 一 一一〇 二
富山 八〇 二 二〇〇 一 二〇〇 一 二八〇 三
鳥取 三一〇 三 七〇〇 三 七〇〇 三 一、〇一〇 六
島根 一〇 一 〇 〇 〇 〇 一〇 一
岡山 五〇 三 四、九〇〇 七 九〇〇 三 九五〇 六
広島 五〇 一 四〇〇 二 四〇〇 二 四五〇 三
山口 七〇 二 〇 〇 〇 〇 七〇 二
和歌山 〇 〇 三〇〇 一 三〇〇 一 三〇〇 一
徳島 一〇 一 〇 〇 〇 〇 一〇 一
香川 二〇〇 二 四、〇〇〇 二 四、〇〇〇 二 四、二〇〇 四
愛媛 〇 〇 三〇〇 一 三〇〇 一 三〇〇 一
府県名 公募株 賛成株 計(証拠金払込済分)
申込高 証拠金払込高
株 人 株 人 株 人 株 人
高知 〇 〇 二〇〇 二 二〇〇 二 二〇〇 二
福岡 六〇 三 一、〇五〇 二 一、〇二〇 二 一、〇八〇 五
大分 一〇〇 三 一、二〇〇 四 五〇〇 二 六〇〇 五
佐賀 一一〇 三 二〇〇 一 二〇〇 一 三一〇 四
熊本 二一〇 二 二、七〇〇 六 二、七〇〇 六 二、九一〇 八
宮崎 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇
鹿児島 三〇 二 一、四〇〇 六 一、四〇〇 六 一、四三〇 八
沖縄 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇 〇
台湾 一一〇 五 〇 〇 〇 〇 一一〇 五
朝鮮 五〇 二 〇 〇 〇 〇 五〇 二
支那 三〇 二 〇 〇 〇 〇 三〇 二
合計 一一、六三五 二一六 一二九、六六〇 三一六 八四、二六〇 二一八 九五、八九五 四三四
備考
株数 応募株及証拠金払込賛成株数 差引不足株数
公募株 一〇〇、〇〇〇 一一、六三五 八八、三六五
賛成株 一二九、六六〇 八四、二六〇 四五、四〇〇
小計 二二九、六六〇 九五、八九五 一三三、七六五
発起人引受株 三七一、一〇〇
合計 六〇〇、〇〇〇
○其他ノ添附書類略ス。
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- 第54巻 p.253 -ページ画像
中央開墾株式会社書類(DK540053k-0006)
第54巻 p.253 ページ画像
中央開墾株式会社書類 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
(朱書)
一般勧誘
中央開墾株式会社創立ノ件
拝啓 時下俄然秋冷相催候得共益御清適之条奉賀候、然ハ本邦食糧問題ハ最近米価低落ノ声ニヨリテ幾分沈静シタル哉ニ相見エ候得共、人口増加率、耕作地面積等ノ大勢ヨリ観察スレハ、決シテ楽観ヲ許ササルモノ有之、目下一時的ノ現象ハ毫モ根本ノ解決ヲ致スモノニ無之、耕地開発農業改良ノ必須ナルコトハ、国策上今尚ホ曩日ト何等異ナル所無之ト存候、近年工業界ニ長足ノ進歩ヲ見タルハ御同慶ノ至ニ候得共、其結果自然農業ノ労力ヲ移転シテ其生産力ヲ萎縮セシメ、而シテ工業ノ労力ハ財界ノ影響ヲ被ルコト頗ル鋭敏ナレバ、稍モスレハ急激ニ其過不足ヲ来タシ、延ヒテ社会問題ヲ惹起スルノ患ナシトセス、之ヲ調節緩和スルモノハ農業ヲ措テ他ニ求ムルコト無之儀ト存候、故ニ農業界ト将タ商工界トヲ問ハス、苟モ国家社会ノ安寧ヲ企図スル者ハ此等食料問題ニ向ツテ最善ノ努力ヲ致スヲ刻下ノ急務ト思考仕候、曩ニ発表シタル中央開墾株式会社ノ発起モ、其要旨玆ニ在リ、生等老齢既ニ実業ノ社会ヲ退キ、営利ノ事業ニ関与セサル身ニモ係ハラス、熱心ニ其成立ヲ唱導スル所以ノモノモ亦之ニ外ナラス候、当初同社ハ資本金ヲ参千万円トシテ発起セラレ、一時ハ非常ノ好況ヲ呈シタルモ、不幸ニシテ中途財界ノ変動ニ遭遇シ、進歩遅々トシテ此儘ニテハ到底成立ノ見込ナキ有様ト相成リ候ニ付、政府当局ニ於テモ之ヲ遺憾トセラレ、老生等亦此計画ヲ中止スルニ忍ヒス、再三審議画策ノ末、別ニ窪田四郎氏ヨリ得貴意候如キ確実有利ナル土地ノ開発方法ヲ講究シ、之ヲ第一期ノ事業トシテ壱千万円程度ノ会社ヲ成立セシムルノ新案ヲ設立仕候処、未タ其計画ノ発表セラレサルニモ不拘、参千万円会社創立委員、在京実業家、及其ノ他二・三ノ方面ヨリ、引受内諾ヲ得タルモノ既ニ拾弐万株強ニ達シ候、翻テ本事業ノ将来ヲ考究スルニ、此計画ニ拠リテ漸進的ニ工事ヲ遂行致シ候ハハ、必ス予期ノ目的ヲ達スルコトヲ得ヘクシテ、単ニ国家ニ多大ノ貢献ヲ為スノミニ止マラス、会社モ亦相当ノ収益ヲ挙ケ得ルコト確実ト存候、且ツ目下財界ハ不況ノ折柄ニハ候得共、周囲ノ事情ヨリ見ルモ、事業ノ性質上、現在ヲ以テ会社創立ノ好時期タルコトハ御推測可相成儀ト存候間、同社株式可成多数御引受相成、同社ノ成立ヲ御援助被下度、此段特ニ御依頼申上候
敬具
大正九年九月十三日
武井守正
益田孝
渋沢栄一
殿
集会日時通知表 大正九年(DK540053k-0007)
第54巻 p.253 ページ画像
集会日時通知表 大正九年 (渋沢子爵家所蔵)
十月七日 木 午前十時 中央開墾会社創立委員会(如水会館)
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中央開墾株式会社書類(DK540053k-0008)
第54巻 p.254 ページ画像
中央開墾株式会社書類 (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
(新会社)第一回創立評議員会決議録
大正九年十月七日神田一ツ橋如水会館ニ於テ開催
当日出席者左記十二名
渋沢子爵閣下 益田男爵閣下 武井男爵閣下
窪田四郎殿 木下弥八郎殿 小池国三殿
小池張造殿 小倉常吉殿 神田鐳蔵殿
横山章殿 中村円一郎殿 栖原啓蔵殿
新会社ノ創立ニ関シ、協議決議スルコト左ノ如シ
一、設立手続ノ順序及方法
一般発起人提出ノ委任状ニヨリ、担当者ヲ定メ、新計画ノ創立事務ヲ進行スルコト
二、定款ノ作成
(一)資本金額ノ決定
資本金額ヲ七百五拾万円トスルコト
(二)創立費ノ決定
創立費ハ五千円以内トスルコト
(三)新会社ハ大正九年三月十五日株式ノ募集ヲ発表シタル中央開墾株式会社ノ創立中ニ支出シタル一切ノ費用ヲ負担シ、其調査計画シタル事業、及之ニ伴フ総テノ権利義務ヲ継承スルコト
(四)定款
第八条中遅延利息日歩六銭トアルヲ四銭ニ修正ノ上、原案通可決
三、株式申込ニ関スル事項
(一)株式申込ノ時期、証拠金額、第一回払込金額及払込ノ時期
証拠金ヲ一株ニ付金拾弐円五拾銭トスルコト、第一回払込金ハ証拠金ヲ直ニ充当スルコト
株式申込及払込ノ時期等ハ窪田氏ニ一任スルコト
(二)取扱銀行
取扱銀行ハ原案ノ通可決
四、創立事務進行ニ関スル事項
(一)発起人総代ノ名称、員数及選定ニ関スル事項
発起人総代一名及創立相談役、創立評議員ヲ置クコト
窪田四郎ヲ発起人総代トシ、渋沢・益田・武井三閣下ヲ相談役トシ、発起人中旧会社創立委員タリシ者及栖原啓蔵ヲ評議員トスルコト
(二)創立事務委任ノ件
株式申込証ノ作成、株式ノ割当、其他会社創立ニ関スル一切ノ事項ハ、発起人総代ニ一任スルコト
中央開墾株式会社書類(DK540053k-0009)
第54巻 p.254-255 ページ画像
中央開墾株式会社書類 (渋沢子爵家所蔵)
(謄写版)
拝啓 時下秋冷之候愈御清穆奉賀候、陳ハ十月七日開催致候中央開墾
- 第54巻 p.255 -ページ画像
株式会社創立委員会決議録、別紙供高覧申候、尚新計画会社創立事務担当者ノ件ニ付テハ、当日御協議ノ主旨ニ基キ、原嘉道博士ノ意見ヲ糺シ候処、別紙意見書ノ通ニ有之、発起人中ノ一人ヲ発起人全員ノ代理者トスルヲ最モ便宜ト被存候ニ付、甚儹越ニハ候ヘ共、従来ノ関係上、乍不及不肖右受任者トシテ発起人総代ト為リ、渋沢・益田・武井三閣下ヲ創立相談役ニ、又新会社発起人中旧三千万円会社ノ創立委員タリシ方々及栖原啓蔵君ヲ創立評議員ニ推薦致、本月七日御協議会モ第一回創立評議員会トシテ定款・資本金額其他ヲ決定シタルコトニ致候間、御承認被下度候、資本金額ノ議ハ先日御会合ノ際ハ可成八百万円ニトノ御希望ニ有之候モ、株式引受承諾数乍遺憾不足致候ニ付、七百五拾万円トシテ、来ル廿五日発表ノ予定ニ御座候、右申述候旨趣ニ依ル第一回評議員会決議録モ亦同封供高覧候、御報告旁右得貴意申候
敬具
大正九年十月二十二日
中央開墾株式会社
発起人総代 窪田四郎
殿
○別紙略ス。
中央開墾株式会社書類(DK540053k-0010)
第54巻 p.255-256 ページ画像
中央開墾株式会社書類 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
(朱書)
第四案(賛成人全部払込ノ分)
旧計画会社創立廃止ノ件
謹啓 時下秋冷ノ候益御清穆奉賀候、陳者予テ御賛同ヲ得居候中央開墾株式会社ノ創立ハ、一時非常ノ盛況ヲ以テ株式ノ申込有之候処、不幸ニシテ中途財界ノ変動ニ遭遇シ、公募株式ノ申込ハ意外ニ少ク、為ニ株式総数ノ引受無之候ニ付、資本金参千万円ノ該会社ハ遂ニ設立不能ニ陥リ、自然廃止ニ帰シ候間、左様御承知被下度此段御通知申上候
敬具
中央開墾株式会社創立委員長
窪田四郎
大正九年十月廿五日
殿
新計画ニ依ル会社創立ノ件
拝啓 陳者予テ御賛同ヲ得居候新計画ニ係ル中央開墾株式会社創立ノ義ハ、左記ノ通リ決定致シ候ニ付、別紙定款並株式申込証及印鑑用紙御送付申上候間、同株式申込証ニハ御調印、印鑑用紙ニハ相当御記入御調印ノ上、証拠金 円 拾銭ト共ニ、来ル十一月二十日迄ニ左記取扱所ヘ便宜御払込被下度、此段御通知申上候 敬具
中央開墾株式会社発起人総代
窪田四郎
大正九年十月二十五日
殿
- 第54巻 p.256 -ページ画像
記
一、資本金額 七百五拾万円
曩ニ壱千万円程度ヲ標準トシ引受承諾ヲ得タル株数ニヨリ、資本金額ヲ決定スヘキ旨申上置候処、九月三十日締切ノ結果、右ノ通リ決定シタル次第ニ御座候、尤モ事業ヲ遂行スルニハ、第一回払込(壱株ニ付金拾弐円五拾銭)金百八拾七万五千円ニテ支障無之候
二、定款 別紙ノ通リ
三、株式申込証 別紙ノ通リ
四、株式申込証拠金額 壱株ニ付金拾弐円五拾銭
五、株式申込期日 大正九年十一月二十日迄
六、第一回払込金 壱株ニ付金拾弐円五拾銭
七、第一回払込期日 大正九年十一月二十日迄
但シ申込証拠金ハ直ニ第一回払込金ニ充当スルモノトス
八、旧会社創立中ニ支出シタル費用ノ負担及其ノ調査計画シタル事業ノ継承
新会社ハ、旧会社創立中ニ支出シタル一切ノ費用ヲ引受ケ、其ノ調査計画シタル事業、及之ニ伴フ一切ノ権利義務ヲ継承スルコト
九、創立事務進行ニ関スルコト
十、株式申込株金払込取扱所
東京 第一銀行 東京 村井銀行 新潟 豊国銀行新潟支店
同 第十五銀行 同 東京古河銀行 仙台 安田銀行仙台支店
同 第百銀行 同 豊国銀行 福岡 十七銀行
同 三井銀行 同 小池銀行 熊本 肥後銀行
同 三菱銀行 同 神田銀行 東京 中央開墾株式会社創立事務所
同 安田銀行 京都 住友銀行京都支店
同 川崎銀行 大阪 住友銀行
○別紙略ス。
集会日時通知表 大正九年(DK540053k-0011)
第54巻 p.256 ページ画像
集会日時通知表 大正九年 (渋沢子爵家所蔵)
十二月一日 水 午前十一時 中央開墾会社顧問会(帝国ホテル)
○中略。
十二月十八日 土 午前十時 中央開墾会社創立評議員会(ホテル)
中央開墾株式会社書類(DK540053k-0012)
第54巻 p.256-257 ページ画像
中央開墾株式会社書類 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
拝啓 益御清穆奉賀候、陳者本日中央開墾株式会社創立総会相開キ、予テ発起人総代ヨリ御通知致置候各議案附議致候処、左記ノ通リ承認議決相成候間、此段御通知申上候 敬具
記
一、創立ニ関スル事項報告ノ件
議長ノ報告ヲ承認セリ
- 第54巻 p.257 -ページ画像
二、定款承認ノ件
定款中第二条・第六条・第十九条及第二十条ヲ左ノ通リ修正ノ上之ヲ承認セリ
一第二条中「払下・買入及借入」トアルヲ「譲受渡及貸借」ニ改ム
一第六条中「壱株券・拾株券・五拾株券及百株券ノ四種トス」トアルヲ「壱株券・拾株券及五拾株券ノ三種トス」ニ改ム
一第十九条及第二十条中「専務取締役」ノ下ニ「及常務取締役」ヲ加フ
三、取締役及監査役選任ノ件
取締役七名及監査役三名左ノ通リ当選就任セリ
取締役 安田善之助 佐藤清左衛門 根津嘉一郎
副島道正 小倉常吉 木下弥八郎
窪田四郎
監査役 中村円一郎 板谷順助 栖原啓蔵
四、商法第百三十四条ニ依ル調査報告ノ件
検査役ニ前田米蔵及塚越丘二郎ノ二氏選任セラレ、商法第百三十四条ノ規定ニ依リ調査ヲ遂ケ、其ノ結果ヲ報告シ、之ヲ承認セリ
五、会社ノ負担ニ帰スヘキ創立費用承認ノ件
創立費用ハ金四千九百五拾八円九拾壱銭ヲ承認セリ
六、大正九年三月十五日発表シタル中央開墾株式会社ノ事業及権利義務ノ継承ニ関スル件
満場異議ナク之ヲ承認セリ
大正九年十二月二十日
中央開墾株式会社
取締役社長 窪田四郎
株主
殿
追テ同日取締役会ニ於テ互選ノ結果左ノ通リ当選就任相成候
社長 窪田四郎 専務取締役 木下弥八郎
御希望株券種類御回報被成下度候
(中央開墾株式会社)営業報告 第一回大正一〇年一月刊(DK540053k-0013)
第54巻 p.257-258 ページ画像
(中央開墾株式会社)営業報告 第一回大正一〇年一月刊
処務ノ要件
一、大正九年拾弐月弐拾日 東京市麹町区永楽町弐丁目壱番地日本工業倶楽部ニ於テ創立総会ヲ開キ、左記事項ヲ附議承認セリ
一、創立ニ関スル事項報告ノ件
二、定款承認ノ件
定款第弐条、第六条、第拾九条及第弐拾条ヲ左ノ通リ修正ス
一、第弐条中「払下・買入及借入」トアルヲ「譲受渡及貸借」ニ改ム
一、第六条中「壱株券・拾株券・五拾株券及、百株券ノ四種トス」トアルヲ「壱株券・拾株券及五拾株券ノ参種トス」ニ改
- 第54巻 p.258 -ページ画像
ム
一、第拾九条及第弐拾条中「専務取締役」ノ下ニ「及常務取締役」ヲ加フ
三、取締役及監査役選任ノ件
取締役七名及監査役参名左ノ通リ当選就任セリ
取締役 安田善之助
佐藤清右衛門
根津嘉一郎
副島道正
小倉常吉
木下弥八郎
窪田四郎
監査役 中村円一郎
板谷順助
栖原啓蔵
四、商法第百三十四条ニ依ル調査報告ノ件
検査役ニ前田米蔵及塚越丘二郎ノ二氏選任セラレ、商法第百三十四条ノ規定ニ依リ調査ヲ遂ケ、其結果ヲ報告シ、之ヲ承認セリ
五、会社ノ負担ニ帰ス可キ創立費用承認ノ件
創立費用金四千九百五拾八円九拾壱銭ヲ承認セリ
六、大正九年参月拾五日発表シタル中央開墾株式会社ノ事業及権利義務継承ニ関スル件
満場異議ナク之ヲ承認セリ
一、大正九年拾弐月弐拾五日 当会社設立ノ登記ヲ東京区裁判所ニ申請シ登記ヲ了セリ
中央開墾株式会社書類(DK540053k-0014)
第54巻 p.258-259 ページ画像
中央開墾株式会社書類 (渋沢子爵家所蔵)
(印刷物)
中央開墾株式会社定款
第一章 総則
第一条 当会社ハ中央開墾株式会社ト称ス
第二条 当会社ハ左ノ事業ヲ営ムヲ以テ目的トス
一 開墾其ノ他耕地ノ拡張・改良ニ関スル事業及之ニ伴フ土地ノ譲受渡及貸借
二 耕作・牧畜・養魚・植林其ノ他所有地ノ管理
三 第一号ノ事業ヲ目的トスル他ノ会社ノ発起人ト為リ、又ハ之ニ対シ投資ヲ為スコト
四 第一号ノ事業ニ関スル調査・設計・工事及工事監督ノ受託並其ノ請負
五 第一号ノ事業ニ対スル金融
六 農業水利ニ伴フ発電及電力・電灯ノ供給
七 前各号ニ附帯スル事業
第三条 当会社ハ本社ヲ東京市ニ置ク
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当会社ハ取締役会ノ決議ニ依リ、必要ニ応シ出張所ヲ設置ス
第四条 当会社ノ公告ハ本社所在地ノ区裁判所カ登記事項ヲ公告スル新聞紙ニ登載ス
第二章 資本金及株式
第五条 当会社ノ資本金ハ金七百五拾万円トシ、之ヲ拾五万株ニ分チ一株ノ金額ヲ五拾円トス
第六条 株式ハ総テ記名式トシ、株券ノ種類ヲ壱株券・拾株券及五拾券《(株脱)》ノ三種トス
第七条 株式第壱回払込ハ一株ニ付金拾弐円五拾銭トシ、第弐回以後ノ払込時期及金額ハ株主総会ノ決議ヲ以テ之ヲ定ム
○第八条以下略ス。
集会日時通知表 大正九年(DK540053k-0015)
第54巻 p.259 ページ画像
集会日時通知表 大正九年 (渋沢子爵家所蔵)
十二月廿八日 火 午後二時 中央開墾会社重役会(同社)
〔参考〕竜門雑誌 第三八八号・第二六―三二頁大正九年九月 ○農業上の研究事項 青淵先生(DK540053k-0016)
第54巻 p.259-263 ページ画像
竜門雑誌 第三八八号・第二六―三二頁大正九年九月
○農業上の研究事項
青淵先生
本篇は青淵先生の談話として「農業世界」第十五巻第一号に掲載せるものなり。(編者識)
△余もまた農民であつた 余は元来一農民であつた、即ち深谷在の一寒村に産声を挙げた者であるが、爾来身を商業界に投じ――所謂実業家の一人として自任する様になつては居るが、昔に遡つて考へて見れば、何処までも農民であらねばならぬ。故に農業そのものに対してはマルデ素人でもない積り、従つて純専門的の事項でない限りはその大体に就て幾分の意見なり、研究なりがあるのである。依つてその二・三を記述し、以て新年の初頭に於ける諸氏への進物にしたいと思ふ。
元来農業は尊いものである。若し国家に農業が無かつたならば、それこそ大変な騒ぎである。固より商業なり工業なりも、必要であるには相違ない。然し農業の如くに、これに依つて常に国民が生活し、一朝事あるに際しては、国家の安危を其双肩に荷ふものが、果して之れ以外にあるであらうか。これ吾人が農業を以て、最も貴重にして肝要なる職業であると断定する所以である。況んや農家より出でゝ国軍を編成する人々の如き、その数に於て、その質に於て、慥かに優勝の地位を占め居るをや。
△薄弱なる大農組織論 さて我帝国にありては、古来最も長じたるものは農業である。さればこそ、古くから瑞穂の国などとも謂ふ位で、従て農を以て立国の本とされねばならぬと云ふ様に考へられたのである。然るに徳川幕府の末頃から、追々海外各国との交通が開け、殊に維新後は飽く迄彼の長所を取入れると云ふ 明治大帝の大御心に依つて、盛んに欧米先進国の長を学び、農業の外に工業・商業等が盛んに発達して来たのである。而かもこれ等の商業なり、工業なりは、何うしても農と相併立して進まなければならぬものであるのに、理化学や商工業の奨励が、如何にも時機に適した方法であつた為めか、これ等
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の事業はずんずん発達したのであるが、一方農業の方は、何うも進歩の度合が遅々として振はない。即ち他の進歩発達に副はぬ様に思はれた。此点は世の多くの識者が殆んど同様の感を懐いた処であつたが、中には米国や独逸の大農組織を観て来た者もあつて、之れは何うしても日本の農業組織が不完全な為めである。これを改良しない限りは、その発達は到底見る事が出来ないと云ふに一致した。サア皆なの意見がかうなつて来ると、何うしても従来の様な手数のかゝる不経済な組織を改めて、是非とも米・独の様な大農組織にするの必要があると云ふ様な議論が、朝野の間にナカナカ盛んなものであつた。吾輩の如きも慥かにこの議論を傾聴した一人であつたのである。
△大農の本家本元に此異論あり 然るに大農組織の本家本元たる米国に於て、而かも有力なる人の間に、非大農主義を唱道するものがあるから不思議である。これはツイ一昨々年物故された、大北鉄道の主宰者、世に所謂鉄道王と称せられたるゼームス・ヒル氏の主張する処であつて、余は死なれた井上侯爵の手に依つて翻訳されたヒル氏の意見書なるものを読んで見た。その後、明治四十二年と大正四年とに渡米した時分でも、両度乍ら彼れに面接して、その大農組織に反対する理由を聴取した。処がその論ずる処は、意見書と毫末の違ひがなく、専ら大農主義を捨てゝ小農主義に依れと云ふ事であつた。曰く亜米利加では、目下耕作に従事する労役者の不足と、広漠たる際限なき耕地との関係から、専ら大農法を採用して居るのであるが、これは決して適当なる方法とは云ふ事が出来ない、吾人を以て之れを見れば、亜米利加に於ても小農法、所謂集約的の農業を為すの必要がある。今千九百五十年迄の勘定に依ると、その当時八千万であつた亜米利加の人口は将に一億六千万になるのである。されば若し不相変今日の様な大農組織でやつて居たとしたならば、それこそ米国の将来は実に憂ふ可きの限りである。故に宜しく集約的・密集的なる耕作法を採用し、大にその生産数量を増加せねばならぬと論じ、更に日本や白耳義の実例を引証して、これが説明を試みて居るのである。大農組織の本家本元でのこの議論、誠に珍らしい事であると思つて居た。
△大農組織の可否 さり乍ら一歩進んで考へて見ると、元より大農組織はトラクターの様な耕耘の器械を利用する事が多いのであるから、面積の割合に人力を要する事尠く、比較的尠い人力を以て、比較的広い地面を耕す利益は確かにある。さり乍ら之れを生産高の点から見ると、同一の面積から生ずる産量は、大農組織による時には著しく減少する。要するに大農組織は、広い地面を比較的尠い労力を以て耕し、同じ一反歩なり又は一エーカーとしての土地から上る生産量は比較的尠くも、土地全体の面積を広く耕すことに依つて、総括した上の収益を多からしむると云ふのであつて、労力の割合に土地の面積が広大な国に行はるゝ農業組織である。而かもその本家本元たる米国にすら、大なる異論を見るに至つては、大農組織の効果も亦時と場合とに依るものである事を認めなければならぬ。元よりこれに依つて労力の減少を見ん事は、吾人の甚だ喜ぶ処であるが、大農組織は動ともすればその耕作放漫に流れ易く、従て生産物の数量にその最高限度を望むは、
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殆んど不可能の事と云はれて居る。故に日本の如く、割合に面積尠なく而かも狭少なる国柄に在つては、余り好ましき組織でないと思ふ。寧ろ我国としては一粒でも多くこれを産出せしめて、以て国民生活の安定を計らねばならぬと考へる。それには何うしても、集約的小農法に依るの必要があるのである。
△集約的農業の効果 今日我邦では食糧品問題に就て、朝野とも非常に困つて居る。これは我国で産出する米麦を以て、我邦民全部を養ふ事が出来ない為めである。それも平常の場合ならば別段心配するにも当らないが、一朝他と干戈を交へた時に困つて来る。ソコで食糧品の独立と云ふ事が起つて来た。而して食糧品の独立は、時に節食の奨励に依つてこれを得らるゝ場合もあるが、大体に於て米麦の生産高を増す事が、一等の近道であると思ふ、それには何うしても集約的な方法を用ひて、細密に耕作栽培し、以て充分な結実を見なければならぬ。而かもその間に労務の欠乏といふ様な問題も起つて来るが、これは又別途の方法で救済する手段もある。即ち機械力の使用が夫れである。尚ほこれと同時に肥料や選種、灌漑や耕作方法の改善など、並び行はるゝの必要ある事は云ふ迄もない。又これと同時に未だ開墾してない土地があれば、ドンドン開拓して行きたいと思ふ。現に余は旧臘首相官邸の開墾会社設立に関する委員会に出席し、尚ほ自説としての小農法を唱道したのである。
△今回設立されんとする開墾会社 今回余等同志の者が発起して、一つの開墾会社を設立する事にした。一体から云へば、余は既に実業界を退隠したものではあるが、今日食糧品の供給不足に依る国民生活の脅威を坐視するに忍びず、自らその発頭人となつて、同志の面々を勧説し、年利六分にも当る場合は、国家事業として大にやつて見ようではないかと、幸ひ協議も整つたので、昨年十月三十日首相官邸に参集し、略々その大綱を決定したのであつた。今その計画内容を示さば、資本金を一千万円とし、二箇年間に其半額五百万円を払込み、此資金を以て三・四年間に約三万町歩の土地を開墾する筈であつて、会社は自身土地を買収して開墾する以外、委託開墾をもなすべく、目下の計画では右三万町歩の中、半数の一万五千町歩は委託開墾となし、残余の半数一万五千町歩を会社の所有地開墾とするのである。かくの如くにして一方には耕地の面積を増加し、更にこれに向つて集約的農業を行はゞ、こゝ数年にして食糧品問題は、余程緩和せらるゝに至るであらうと思ふ。
△農作物の変化に就ての研究 次に是非共農民諸君の一考を煩はしたいと思ふのは、農作物の変化に就ての研究である。元来余の生れ故郷なる埼玉県の深谷附近には、養蚕の盛んな為めに、桑の栽培が多かつた。それに草藍を作る事も非常に盛んであつて、この二つのものが畑物として主たる農作物であつたのである。処が其後桑樹には別段の影響もなかつたが、草藍の方は印度産のが続々輸入されたので、之れに押されて著しく打撃を蒙る事になつた。然るに其後更に独逸より鉱物から造られた染料が輸入さるゝに至つたので、さなきだに銷沈勝なる草藍の栽培は、全く之に圧倒さるゝに至つたのである。草藍は鉱物性
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の染料に比較して、勿論数等優良なものであつても、其価が高いために、これを使用する上に多大の不利益があるのである。為めに残念乍ら圧倒されて仕舞つた様な訳である。処がこゝに一つの問題が起るのは、然らば藍を止めて、其跡に何を作るかと云ふ事である、元来草藍の栽培は大変有利なものであると同時に、非常に多くの肥料を要するものである。従て其地味は年一年肥えて行くと云ふ事は誰れしも異論のない処であらう。それ故草藍の跡に麦や豆を作つても、第一引合はぬ、その上に、作物は草の出来許り良くて実りが悪い。色々やつては居る様であるが、今日に至るも未だに適当な作物を得んので弱つて居る。之等は輪作等に関する学理の研究が充分に行き届かない結果ではあるまいか。余は毎年帰つては、未だ良い考が付かぬと云ふ事を聞いて、何時も残念で堪らぬのである。
△農作物と肥料との関係 元より草藍作のあとに、麦が出来、葱等も産するけれど、未だ主作物が出来ないのである。これは何うしても研究心の足らぬ為めであつて、今後は是非共地方々々で、学問と商売とを併せ進めて行く様にしたいものだと思ふ。ソレには肥料の用ひ方や運送の良否、乃至は需用の関係など、考慮を要するものがある。兎に角商と工並に農は、何れも不離不隔の関係にあるものに係り、此三者は相伴うて発達させねばならぬものである。かくの如くにして、何うしても学問的農業を進めなければならぬ。ソレには相当なる人造肥料の使用を充分に勧めたいと思ふ。蓋し我邦に於ては従来肥料とし云へば、大豆や(粗末なもの)小糟・油粕・大豆粕位のもので、その金肥と称するものにしても、〆粕や油を抜かない粕そのまゝのもの位であつた。従つて之等の品丈けでは、到底充分なる成分を与ふる訳には行かなかつたが、後窒素やポータス等の成分を用ひた人造肥料が製造され、農産界に一大革命を与へたのである。明治二十年以来高峰博士の説を聞いて、吾々同志が創立した大日本人造肥料会社の如きも、その趨勢に順応して、偉大なる発展を遂ぐるに至つた。かくの如くにして農業そのものゝ変化に要する知識に乏しきも、肥料界の知識はこれに先んじて進歩したのである。直接人造肥料を以て、特にその実効を現したのは、軽い土地に対する施肥の効果である。元来軽い土地には麦も出来ず、漸く蕎麦や稗などをその主要耕作物として居つたのであるが、一度人造肥料の発明ありし以来は、陸米さへも出来る様になつて来た。これ云ふ迄もなく過燐酸肥料の為めである、蓋し窒素質の少ないボクボクした地味には陸米が出来ない。タマタマ延びても実が出来ないのである。而かも過燐酸肥料の使用に依つて、立派にその成績を挙ぐるに至つたなどは、慥かにその進歩として認むる事が出来よう。之れを要するに維新以後我邦の商工業は、盛んに欧米の学理を取入れ之れが応用に成功したのであるが、農業にはその最新の学理を応用する事が尠ないかの憾みがある。尤も或方面仮令ば養蚕とか製糸とか云ふものゝ中には、段々新らしい研究もあり、学理と実際とが密着して進歩して居る点も多いのであるが、米麦・野菜などの固有農作物の上には何うも学理の応用と云ふ事が完全に行はれて居らん憾みがある。同じ野菜若くは果樹の栽培にしても、西洋から伝はつた作物の上には
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相当最新の学理も応用され利用されて居つても、日本固有の農作物の上には、此点が甚しく閑却されて居る傾向がある。積極的に農作物や耕作法の改良と云ふ様な事は行はれんにしても、地質の漸次変化する事や、農作の変化した場合に処す可き消極的の研究さへも、未だ充分に出来て居らんのは遺憾である。
△仕事に馴れても研究心を捨つるな モ一つ最後に注意したいのは、其仕事に慣れたが為めに、却つて丹誠の心を怠り、研究心を鈍らせると云ふ事である。余の郷里深谷附近では、最近桑の培養が盛んになつて、その植付方や施肥の具合などナカナカ進歩して来た様である。元来桑は肥料に手入れが大切であつて、これが巧拙は、やがて桑樹の発育並に桑葉の良否に多大の関係を持つのである。然るにそれが段々馴れて来ると、何うも手数を省いたり、手入れを後れさしたりする。為めに品物が悪くなつて、充分優良な桑の葉であると云ひ悪くなるのである。而して養蚕に巧みな人々は、只その扱ひを善くし、又は気候の調和を計る事許りを考へず、更に蚕の食物たる桑の葉のよいものを得んと苦心して居る、ツマリ食物が悪くては、到底立派な繭は出来ないに極まつて居るからである。近頃では余の郷里などでも、大部桑の栽培に注意して来た様であるが、これは何うしてもかくある可き事で、馴れたが為めに手を抜くなどと云ふ事は、慥かに農界の禁物であると云はねばならぬ。例へば余り古い木は却つて桑葉が細かくなり、又その生産額も減ずるので、時々刈込むとか、新苗と植換へるなどが夫れである。以上は単に桑樹に就ての一例に過ぎないが、他の一般農業に於ても同様ではないかと思ふ。即ち日本は農業国として古い丈け、それ丈け却つて玄人式に流れ、為めに研究的精神に乏しく学理の応用と云ふ点に於て、遺憾とする処が多くはないかと思ふ。余は商工業に関して学問が実地に応用さるゝが如く、農業に於ても万遺憾なく之を応用し、学問と実際との間に密接なる関係が保たれたいと望んで居る。
〔参考〕竜門雑誌 第三九二号・第二〇―三九頁大正一〇年一月 ○局面転回を要する八大問題 財政=経済=外交=思想=教育=労資協調=富豪=国民生活 青淵先生(DK540053k-0017)
第54巻 p.263-264 ページ画像
竜門雑誌 第三九二号・第二〇―三九頁大正一〇年一月
○局面転回を要する八大問題
財政=経済=外交=思想=教育=労資協調=富豪=国民生活
青淵先生
本篇は青淵先生の談話として雑誌「実業之世界」十一月号に掲載せるものなり。(編者識)
○中略
国民生活問題
△大農法と小作法 国民生活問題に就いては此頃頻りに論ぜられて居るが、私は第一にもう少し食糧を増加せねばならぬ、食糧問題が甚だ必要だと思ふ。最近恁うも工に走つて、農を疎かにする嫌がありはしないか。今少し農業に力を入れる事が必要だと私は思ひます。是に就いて農業法の御話をすると、私は始め日本を大農本位にしたが宜からう、機械耕と云ふので、成る丈け大ざつぱな耕地にして、集約的農業が宜しいと思つて居たが、余り巧く行かなかつたので、大農法の効果
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に多少疑を有つて居つた。
四十二年に亜米利加に行く事になつたのですが、夫より先亜米利加人のゼームス・ヒルと云ふ人が、亜米利加の農業は余り放漫で不可ない、恁うしてももつと小作法にしなければ駄目であるといふ意見書を出して居つたので、亜米利加人の意見書として実に意外なものであると思つてゐた。我々日本人は亜米利加風にしたいと思つて居るのに、反対に亜米利加は日本に学びたいと云ふのであるから不思議に感じたのであります。
そこで亜米利加に参つてから、ゼームス・ヒル氏に会ひました所、却々綿密に其事を研究されて居る。鉄道に携つて居る人であるが農業に就いて種々調査して居つて、亜米利加の土地をもつと緻密な耕作法にしなければならぬ、機械を用ひる必要は勿論ある。例へば或る農業地に自働車を入れるとか、鉄道を入れるとか云ふ事は、働きを成丈け広くするに必要ではあるが、地面を耕すのにバラ蒔にして肥料もろくにやらぬと云ふ耕作法は不可ない。さうすると地力が損耗して了つて広い面積に少し許りしか作物が出来ないやうになるから是非日本風の農業でなければ不可ぬと云ふ意味の説を頻りと云ふて居りました。爾来私共は大に考を改めて大農法を捨てたのであります。即ち北海道の土地の如きも、小作人を入れて一個々々に小さい農業をやつた方が可いやうに思ふ。今度開墾会社が出来たが、大きい部分にはトラクターを入れて地を起し、或は水を入れるには喞筒を用ひる等機械の必要な所には、大いに機械を用ひなければならぬが、併し耕作法は恁うしてもゼームス・ヒル氏の説に従はざるを得ない様に思ひます。
是は国民の生活問題と云ふのではないが、食糧問題から云へば米計りを食はずに、麦を食ふ事も必要である。又豌豆も炊方に依つては美味く食べられると云ふ事である。もう一つは原料を殖やすと云ふ事で是は恁うしても耕作法からやつて来なければならぬ。今日工業界に偉い不景気を来たした為に労働者の手が空いた。是等の人が必ず農に帰ると云ふ事は出来るものではなからうけれども、元来云ふと、農が工に移り変つた、然も急激に変つた為めに自ら食糧の不足を来した事は事実であるから、生活問題と云ふ事も食糧の方から論ずると、恁うも農業を怠つたので、自ら生活問題に一つの影響を与へたものと思ふ。果して然らば、此農業に対して大いに注目すべきものであると思ふのであります。此見地から、老人にも拘らず中央開墾会社の世話をするので、生活問題の或る一部分に御勤めするものであると申しても過言でなからうと思ひます。