デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
3節 其他ノ外国
1款 株式会社馬来護謨公司
■綱文

第55巻 p.550-562(DK550116k) ページ画像

大正元年10月19日(1912年)

是ヨリ先、栄一後援ノ下ニ、当会社設立ノ計画進ミ、是日、帝国鉄道協会ニ於テ、創立総会開カル。栄一、株主トナリ、爾後当会社ノタメ尽力ス。

大正二年四月、増田明六ヲ現地ニ派遣シテ視察セシム。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四四年(DK550116k-0001)
第55巻 p.550 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四四年       (渋沢子爵家所蔵)
六月十一日 雨 冷
午前六時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食シ、後井上雅二氏ノ来訪ニ接シテ南洋ニ於テ事業経営ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
十一月二十八日 雨 寒
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後○中略 井上雅二氏来リ、南洋ニ於ル起業ノ事ニ付談話アリ○下略


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK550116k-0002)
第55巻 p.550 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
一月廿九日 晴 寒
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ為ス、脇田勇氏来リ南洋旅行ノ事ヲ談ス○下略

竜門雑誌 第二八六号・第六八頁明治四五年三月 脇田勇君の馬来半島視察(DK550116k-0003)
第55巻 p.550 ページ画像

竜門雑誌 第二八六号・第六八頁明治四五年三月
○脇田勇君の馬来半島視察 脇田勇君は帝国護謨会社の用向を以て去二月二十八日東京を発し、三月二日神戸出帆の安芸丸に便乗して、馬来半島護謨地栽培視察の途に上りたり。


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK550116k-0004)
第55巻 p.550 ページ画像

渋沢栄一 日記 明治四五年       (渋沢子爵家所蔵)
五月二十四日 晴 軽寒
○上略 午後二時事務所ニ抵リ書類ヲ整ス○中略 五時脇田勇氏来リ、南洋護謨事業ニ付詳細ノ説明アリ、篤二・阪谷・明石・八十島・尾高ノ諸氏会同、種々ノ質問又ハ意見ヲ交換ス、夜飧後更ニ談話ヲ継続シ、九時過キ散会、王子ニ帰宿ス○下略
   ○中略。
六月十九日 晴 暑
○上略
此日午後一時ヨリ南洋護謨事業ニ付星野・脇田二氏ノ請求ニヨリ、多数来会シテ会社成立ノ協議ヲ為ス
 - 第55巻 p.551 -ページ画像 


中外商業新報 第九四六一号大正元年八月三〇日 ○馬来謨護公司の創立(DK550116k-0005)
第55巻 p.551 ページ画像

中外商業新報 第九四六一号大正元年八月三〇日
    ○馬来謨護公司の創立
星野錫・日下義雄・脇田勇・増田義一・池田藤一・中村房次郎・鎌田久兵衛氏等を発起人とし、渋沢男爵・大隈信常・中野武営・高田早苗渡辺対三・角田真平外約八十名を賛成人とする株式会社馬来護謨公司は、昨年末来右発起人及賛成人等を以て会社創立準備組合を組織し、該事業の調査を行ひつゝありしが、此程愈々馬来聯邦ネクチセンヒラン州に地を撰定し、資本金を五十万円とし、株式は既に右発起人及賛成人側に全部割当済み、本月末迄に其払込を了し、愈々九月中には其の創立を見る運びに至れりと


中外商業新報 第九五一一号大正元年一〇月一九日 ○馬来護謨創立総会(DK550116k-0006)
第55巻 p.551 ページ画像

中外商業新報 第九五一一号大正元年一〇月一九日
○馬来護謨創立総会 馬来護謨公司創立総会は十八日午後二時半より鉄道協会に開会、発起人総代星野錫氏議長席に着き、創立に関する事項報告後、定款改正の件を承認し、次で取締役・監査役の報酬を年額三千円以内と定め、選挙の結果左の七氏を重役に選定せり
 △取締役 星野錫・池田竜一・脇田勇・鎌田久兵衛・増田義一△監査役 中村房次郎・日下義雄


渋沢栄一 日記 大正二年(DK550116k-0007)
第55巻 p.551 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年        (渋沢子爵家所蔵)
一月九日 曇 寒
○上略
夕方中島男爵・諸井恒平・滝沢吉三郎三氏来訪、南洋護謨園ノ事ニ付種々協議アリ、夜飧後深更マテ熟議シ、明日三井物産会社ニ依頼シテ電報スル事ニ決議ス○下略
一月十日 晴 寒
午前七時起床、洗面シテ朝飧ヲ食シ、昨夜来訪セラレシ三氏ト共ニ八時二十七分大磯発ノ汽車ニテ東京ニ抵リ、新橋停車場ニテ馬車ニ乗リ滝沢氏ト共ニ三井物産会社ニ抵リ、山本条太郎氏ニ面会シテ、手形ノ件ニ付テ仲裁ノ件ヲ内話シ、更ニ新嘉埠ニ電報ノ事ヲ滝沢氏ヲ以テ依頼セシム、十二時第一銀行ニ抵リテ午飧シ、後重役会ヲ開キ要件ヲ議決ス○下略
   ○中略。
一月十四日 晴 寒
○上略 三時事務所ニ於テ多数ノ新聞記者ニ面会ス、中島・滝沢・諸井氏等来リ、南洋護謨園ノ事ニ付新嘉埠ヘ発電ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
一月二十五日 曇 寒
○上略 午後二時事務所ニ抵リ、南洋護謨園買収ノ事ニ付協議会ヲ開キ、中島・諸井・本多・滝沢・磯野氏来会ス、価格ヲ定メ電報スル事ニ決ス○下略
   ○中略。
一月二十九日 雨 寒
○上略 午後四時事務所ニ抵リ○中略 井上雅二氏南洋護謨談アリ○下略
 - 第55巻 p.552 -ページ画像 


竜門雑誌 第三〇〇号・第六〇頁大正二年五月 増田明六君の南洋視察(DK550116k-0008)
第55巻 p.552 ページ画像

竜門雑誌 第三〇〇号・第六〇頁大正二年五月
○増田明六君の南洋視察 青淵先生秘書役増田明六君は南洋に於ける護謨栽培事業視察の為め五月十一日午後七時新橋発汽車《(四)》にて出発し、四月廿八日無事シンガポールに着したり、帰朝は六月中旬の予定なり


竜門雑誌 第三〇一号・第六三頁大正二年六月 ○増田明六君の帰朝(DK550116k-0009)
第55巻 p.552 ページ画像

竜門雑誌 第三〇一号・第六三頁大正二年六月
○増田明六君の帰朝 去四月十日南洋に向け出発したる本社会員増田明六君は同地方に於ける護謨事業の調査を遂げ、五月二十九日新嘉堡発の日本郵船会社汽船加賀丸に搭じ香港より直航にて六月九日神戸入港、同月十一日午前七時二十分新橋着の汽車にて無事帰京せられたり


(株式会社馬来護謨公司)第参期事業報告書 大正弐年下半期 第一―一三頁刊(DK550116k-0010)
第55巻 p.552-553 ページ画像

(株式会社馬来護謨公司)第参期事業報告書 大正弐年下半期
                        第一―一三頁刊
    第参期事業報告書
           東京市京橋区三十間堀壱丁目四番地
                   株式会社馬来護謨公司
大正弐年拾月壱日ヨリ同参年参月参拾壱日ニ至ル半期間業務ノ概況ヲ蒐集シ別紙貸借対照表・財産目録及損益計算書ヲ添テ玆ニ報告ス
○中略
      事業地ノ概況
当会社ニ於テ目下経営セル護謨園ハボンバン園・第一ウルアラ園・第二ウルアラ園・第三ウルアラ園ノ四園ニシテ以下各園ニ就キ其作業ノ概要ヲ記述スベシ
一ボンバン園 本園ハ前期ニ於テ根本的除草ヲ決行シタルヲ以テ大ニ面目ヲ改メ、頗ル秀麗ナル状態ヲ呈スルニ至リシモノナルガ、尚当期ニ入リテモ日給若クハ請負苦力ヲシテ除草ヲ怠ラザリシ為メ護謨樹ノ発育益良好ニシテ、地上弐尺ノ所ニテ既ニ周囲拾参吋以上ヲ算スルモノ多キニ至レリ、其他本期ニ於ケル作業ハ排水溝幅壱尺、深壱尺五寸ノモノ五拾弐鎖ノ開鑿ト護謨樹壱千九百五拾本ヲ補植シタル等其主ナルモノナリ
一第一ウルアラ園 本園ノ今期間ニ於ケル主ナル作業ハ除草ノ外従来沢地トシテ着手セザリシ土地ヲ整理シ、新ニ護謨笛壱千木ヲ植付ケタルト、事務所附近ニ試験的ニ人造肥料ノ施肥ヲナシタルモノ八千本、以テ非施肥護謨樹トノ比較研究ヲ為シタルニアリ、其結果ハ未ダ審カナラザレドモ、概シテ良好ニシテ、普通護謨樹ニ比シ発育ノ迅速ナルヲ認ム、而シテ今ヤ護謨樹ノ太サ地上弐尺ノ所ニテ約六吋ヲ算スルニ至レリ
 尚排水溝深壱尺、幅壱尺ノモノ弐拾七鎖余、深参尺、幅四尺ノモノ壱鎖四拾八呎、深壱尺五寸、幅壱尺五寸ノモノ八鎖拾呎ノ開鑿ト、八尺幅道路弐拾弐鎖及参尺幅道路参拾鎖四拾呎ヲ完成シタリ
一第二ウルアラ園 本園ハ弐百五拾噎ノ内前期末ニ弐百四拾噎ノ焼払ヲ了シタルモノナルガ、今期ニ入リテハ極力焼跡ノ掃除ヲ為シ、拾壱月中旬ヨリ苗木ノ植付ヲ開始シ拾弐月拾壱日ヲ以テ全部植付ヲ終
 - 第55巻 p.553 -ページ画像 
了セリ、此植付総数参万七千九百五本ニシテ、其後ノ成育状態ハ極メテ佳良ナリ、而シテ本年壱月残存森林拾噎ヲ伐切シ参月弐拾七日焼払ヲ為シ、目下焼跡掃除励行中ナリ
 尚前期ヨリ引続キ園内道路ノ新設ニ着手シ、八尺幅九十五鎖余、参尺幅弐百四拾四鎖余、総延長四哩弐拾鎖ヲ完成シ、又排水溝幅参尺深弐尺ノモノ四拾壱鎖拾弐呎、幅弐尺、深壱尺ノモノ四拾五鎖参拾参呎、幅壱尺、深壱尺ノモノ弐拾九鎖参拾四呎、合計約壱哩半ヲ開鑿シタリ
一第三ウルアラ園 本園ハ前期ニ於テ報告シタル如ク、昨年八月拾参万五千弗ヲ以テ買収ノ契約ヲ締結シタルモノニシテ、該契約ニ基キ本年弐月末日附属建物ト共ニ本会社ニ引継ヲ了セリ、本園ハ第一ウルアラ園ノ西境ニ接続シ、面積壱千六拾七噎、内植付済ノモノ六百五拾噎ニシテ、護謨樹ノ発育亦佳良ナレバ、地上弐尺ノ所ニテ太サ拾参、四吋ヲ算スルモノ多数ヲ占ム、尚今期間第一園トノ連絡道路五尺幅弐拾九鎖四拾弐呎ヲ新設セリ
以上述ブルガ如キ状況ニシテ此成績ニ依レバボンバン園並ニ第三ウルアラ園ノ二園ハ共ニ明年下半期初季ヨリ若干護謨液ノ採収ヲ為シ得ベキ予定ナリ
○中略
      利息配当案
金四千壱百拾六円 現在払込株金拾七万五千円(内五万円大正二年十一月五日払込)ニ対スル自大正二年十月一日至同三年三月三十一日日割計算年五分ノ利息配当金、但壱株金四拾壱銭壱厘六毛宛
  内訳
 金八百四拾八円拾六銭             当期収得金
 金参千弐百六拾七円八拾四銭          補足金
右之通ニ候也
  大正三年五月      株式会社馬来護謨公司
                 取締役社長 星野錫
                 専務取締役 脇田勇
                 取締役   池田竜一
                 同     増田義一
                 同     鎌田久兵衛
前記ノ各項ヲ監査シ其適法正確ナルヲ相認候也
                 監査役   日下義雄
                 同     中村房次郎
      株主名簿(大正三年四月三十日現在)
 株数   姓名
○中略
三〇〇  渋沢栄一
○中略
 合計   壱万株
  人員 壱百拾七名


集会日時通知表 大正七年(DK550116k-0011)
第55巻 p.553-554 ページ画像

集会日時通知表 大正七年      (渋沢子爵家所蔵)
 - 第55巻 p.554 -ページ画像 
九月十一日 水 正午 馬来護謨公司脇田勇氏ノ為ニ午餐会(兜町邸)



〔参考〕竜門雑誌 第二八九号・第六九―七五頁明治四五年六月 ○南洋視察談 脇田勇君(DK550116k-0012)
第55巻 p.554-557 ページ画像

竜門雑誌 第二八九号・第六九―七五頁明治四五年六月
    ○南洋視察談
                      脇田勇君
△ジヨホール附近の護謨栽培事業 私の此度の旅行は至て短日月の旅行でありますから長く一と処に止つて研究する遑がなかつた。併し事物は百聞一見に若かずで、相応に結果を得たと自ら信じて居ります。新嘉堡へ参つたならば、馬来の護謨採培事業其他産業上の事抔も詳しい話が聞ける事と思つて居りました所が、ドウも日本に於て聞いて居る所と一向変つた事はない。ソコで益々各地を実地視察する必要を感じました。そこで新嘉堡に於ける見聞は一通りにいたしまして、早速近来日本人が最も多く経営して居る所のジヨホール河沿岸の護謨栽培地を視やうと思ひましたが、元来ジヨホール河附近と云ふものは是迄余り開けて居ない処で、交通の便が誠にわるい。尤も近来は護謨栽培其他の事で人が大分入込んで居るから船便が絶無と云ふ訳ではない。けれども便船は甚だ不足で、それを待つて居ると一ケ処の栽培地を見るにも二・三日位を要する。急いで居る旅行ですから特に三井物産に頼んで特別に小蒸汽を借切りにして其小蒸汽に乗つて参りました。
ジヨホール河附近で現にゴム液の採収をして居る処は、彼の有名なる三五公司阿久沢君が経営して居る所のペンガランと云ふ所の栽培地中の三百噎でありまして、之れは一日平均二百六・七十ポンドのゴムを採収して居ります。其他三井家の山であるとか、或は森村組であるとか、又は南洋護謨会社・朝日護謨会社若くは大阪の藤田組、又一個人としては鈴木審三其他、遠藤某・徳丸某・渡辺某・速水某等でありますけれども、是れは総面積中の幾部を漸く栽え附けた許りと云ふやうな有様で、今後数年を経過するに非ずんば採収すること能はざるもので、孰れも未製品でありますから、此処では唯山の地勢、交通の如何を見るに過ぎないので、如何にして護謨液を取るか、如何にして護謨を製するかと云ふ此等の現況を充分知ることが出来なかつた。依て更に新嘉堡に引返して、今度は鉄道に拠つてジヨホールの内部に這入つて行きました。
△マレー聯邦 其途中、嘗て長田秋濤君が調査した処で、現在大倉信二郎君か経営して居るニヨール附近の状況を視察し、尚ほ進んでマレイ聯邦のネグレセンビラン州に這入りました。ネグレセンビラン州の首府はスレンバアンと云ふ処、其処に三・四日居りましたが、其附近は英吉利人が最も盛に護謨栽培事業を経営して居る所でありますから自働車の便を得て其附近の山を視ました。此の附近は盛にゴムを製造して居りまする。尤も何れも英吉利人の経営であります。夫れから尚ほ進でスランゴール州に入りました。此処で一つお話して置きたいことは、マレー聯邦といへばネグレセンビラン、スランゴール、ペラ、パハンの四州で、此の四州が千八百九十五年の条約に依り英吉利の保護国となりまして以来英吉利の支配下に立つて居る。而して政治の中
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心はスランゴール州のコーランポアと云ふ処で、是れは最も大きい都会である。此処には英吉利人も沢山這入つて居りますが、其重なるものは政庁の役人、鉄道の従事員、錫山若くは護謨山のマネージユア等であります。今此都会の状況の一端を述べますれば
△停車場の設備 其設備の意外に整頓せるに驚きました。日本の殖民地の如く法律とか規則とか云ふ事には余り重きを措かぬやうである。然るに公の営造物例へば道路の如き、亦は鉄道であるとか、公園であるとか、或は学校・病院の如き、此れ等の設備に非常に金を使つて居ると云ふことが直に認められる。一例を挙ぐれば、コーランポアのステーシヨンの如きは近頃新築されたもので未だ間もない処であるが、其規摸は大阪の梅田停車場抔に比較すると敢て大きいとは思はぬが、建物の如きは高楼巍然として屹立し、二階或は三階の楼上は総て欧羅巴風のホテルになつて居る。下でも一寸百人も這入れる位の食堂杯がある。夫れから待合室の如き男は男、女は女と明に区別されてあつて非常に清潔である。又此方のプラツトホームから向ふのプラツトホームに行くにも日本の如く橋を渡つて行くのではなくて、総て地下を容易に往来が出来るやうになつて居る。光線を取る工合杯も余程巧に出来て居る。又熱い処であるから、暫く汽車を待合はす間に公衆が湯抔を使へるやうに風呂場の設備も出来て居れば、ステーシヨンの前には自働車や馬車が沢山居ると云ふ有様で、如何にも欧羅巴に行つたやうな工合に感じられる。何処の田舎に行つても自働車の備へあらざるはなく、又その道路は孰れも三間幅以上坦々たること砥の如く、総ての設備は欧羅巴風に誠に能く行届いて居ります。又公園の如きも規摸もなかなか大きくして熱帯の各種の珍らしき植物を取集め、樹木の間に巧に途を設け、山あり、池あり、且つ手入れの行届き居る事驚くの外なく、此れに要する少からざる費用は総て政庁の支出に属すると聞き政府が如何に移住民に慰安の途を与へつゝあるかに感心しました。
△南洋に於ける商業 夫れから其処を立つてタイピン、イツポー等を経てピナンに行つた、ピナンは御承知の通り日本郵船会社の船も寄港する処であるから、市中も可なり殷賑を極めて居る。私はピナンから和蘭船に乗てスマタラのブランワンに着き、ブランワンからデリ州のメダンに行きて、煙草及護謨栽培等の模様を視察して、更にピランに戻り、夫れから新嘉堡に来て帰国したのであります、南洋貿易――南洋貿易と云ふてもジヤワ、ボルネオ等を視察した訳でないから、唯私がマレー半島の内地だけの状況に就て私の感じた事を申しますと、最早日本人が商業の目的を以て行く余地は尠なからうと考へる。殊に小売商の如きは支那人或は印度人が余程熱心にやつて居る。○中略
△南洋に於ける農業及鉱業 之れに反して農業又は鉱業は将来余程有望であると思はれる。鉱業としては現在に於ては最も産額の多きものは錫である。錫は殆んど世界の供給地である。又今後金鉱杯は大に有望であると思ふ。農業としても牧畜業の如きも大に有望であると思ふが、未だ余り行はれて居ない、しかし今後必ず行はるゝであらふと思ふ。そこで一般に農業の有望であると云ふのは、要するに気候の関係と土地の豊富なので何を遣つても非常に発育が好い。今盛に行れて居
 - 第55巻 p.556 -ページ画像 
る護謨とか、或は椰子とか、其他砂糖も出来れば、煙草も出来る、夫れから珈琲、陸稲、タピヲカ、パイナツプル、豆、唐辛子、比等の物は頗る適当して居る。熱帯人種の財産と云ふものは樹木より外にはない。即ちマレー人の唯一の財産は椰子樹である。○中略
△生活の程度 さうして生活の程度も亦低い。生活費と云へば衣食住であるが、家と云つた所が熱帯に於ては暴風の虞れはなし、従つて堅牢な家を建てる必要はない。又寒気と云ふものは絶対にないから、寒さを凌ぐ設備をする必要もない。唯雨露を凌ぐ丈けに過ぎないから誠に簡単なもので、屋根は熱帯に生ずる所のアタツプを以て之を覆ひ、柱は山から切つた樹で間に合ひ、畳も何も入らぬ、木と木を連ねて其上に寝台を置く丈けの事であるから、家と云ふものに就ては少しも金が掛らない。誠に粗末なもの。着物は熱い処だから男は裸体同様、唯喰ふ事丈けで、是れ又頗る安い。蘭貢又は南京米、日本の米に比較すれば三割も安い物を喰つて居る。副食物も亦甚だ粗末であるから、先きに述べた通り百本も椰子樹を持つて年に六百円の収入があるとすると一ケ月五十円、楽々生活が出来るから、従つて貯蓄心と云ふものは少しもない。だから親譲りの椰子樹があれば、如何に安い土地があらうとも、更に樹を植ゑて自分の財産を殖さう抔と云ふやうな観念は少しもない。従つて土地は農業に適当して居るにも拘らず、些つとも発達して居ない。さう云ふ訳で手を着けない土地が豊富であるから、日本人抔が行つて労力さへ費せば農事によつて余程利益を得られるだらうと感ずる。
△椰子と護謨 先きに述べた如く肥も施さず労力も要せず、自然に結ぶ所の果実で、而かも一本に付百以上出来るものが五仙も八仙もすると云ふのは不思議のやうであるが、是れが抑も農業の開けない証拠だらうと思ふ。と云ふのは世界の需要が段々増進するにも拘らず、生産が少しも増さない結果だらうと思ふ。ソコで農業は何を遣つても悪くはないと思ふけれども、唯熱い処であつて労力が不足であるから、成べく労力を要しない仕事が一番宜しいので、マア陸稲を植ゑても年に三回も取れるし、日本の小さい豆を持つて行つて蒔いても非常に大きくなる。唐辛子の如きも亦非常に能く出来る。而も支那辺りに能く売れるさうであるが、此等は収穫して仕舞へば復た更に労力を要する仕事であるから、斯う云ふものは彼方では一般に好まない。其点から言ふと護謨の如きは一度労力を費やして植ゑ付けをして仕舞へば、同じ事を繰返す必要はない。マア自分の考へでは椰子の如きものも今後世界の需要は増す一方であらうし、値段も高いから前途有望のものであらうと思ふ。しかし是れは唯だ土地の選定が少し面倒だ。椰子は海岸でなければ行かぬと云ふ。海岸も港附近なれば大変宜いが、然らざれば交通が不便であるから、さうやたらに好い場所がない。加之ならず椰子は植ゑてから八年位経たないと実を結ばないと云ふ話だから、其間の辛抱が六ケしい。護謨は其点に至つては余程早く利益を見ることが出来る。是れは四年で出来るから此方が宜からうと思ふ。
△謨護の前途 所で護謨の将来はドウであるかと云ふことに就ては随分説があるけれども、現在護謨の相場は一封度五志半位である。併し
 - 第55巻 p.557 -ページ画像 
栽培護謨が盛になつたらば、自然価格が安くなるだらうと云ふやうな事を大いに心配して居る者があるけれども、今の処では仮令此値段が半分になつても、私の見る所では日本の諸事業に比較してに遥に有利であると思ふ。
而して今後直段が必ず下るやと云ふに、これも又疑問である。安くなれば必ず需用が増すに違ひない。現に今日の直段でも盛に需用が増しつゝある位であるから、価が安くなればなる程自働車も殖えれば、敷物にも用ひ、其他種々なる用途が見出されるに盛ひない。近頃聞く所によれば造船用にも護謨を使ふと云ふ。かゝる有様ゆゑ直段も余り心配するにも及ばぬかと思ふ。それに護謨の如きものは金を投じたからと云つて、直ぐに利益を得られるものではなし、矢張四年位掛らなければ採収することが出来ぬのだからソンナに心配するに及ばない。英吉利人抔は現在尚ほ新に開墾しつゝある。支那人は金があつても先きの遠い事業には手を着けない。日本人丈けでも七万エーカー許り権利を得て居るのですが、実際に開墾して居る処は其内幾らもない。併し今後南洋に於ける護謨の生産額が増すと云ふことは疑ひもない事実であるけれども、併し世界の護謨の価格に変動を及ぼす程の力ありや否やは疑問である。殊に世界で需用する護謨の供給高の五十パーセントは南米ブラジル産であつて、馬来半島に於ける護謨の生産高は纔にフアイヴ・パーセントに過ぎない。其比例から云つても尚ほ発達の余地がある。況や南米の護謨は天然木から採るので、段々減少しつゝあると云ふ。だから南洋に於ける護謨事業が少し位発達した所が、世界の護謨相場に変動を及ぼすと云ふやうな憂はないかと思はれる。仮しや変動を及ぼすにした所で、内地の事業に比較して決して不利益の事業でないと信ずるので、尚既往に於ける直段の統計又は世界に於ける産額の統計、若くはゴム需要の増進する程度を取調べたる材料を有つて居ますが、是等は又機会を得て述ることとしますが、兎に角ゴム栽培事業は世人が唱ふる如き無計にして危険なるものでは決してなしと断言して憚らぬ。勿論ゴムのみが有望であると云ふのではない。先に述ぶる如く農業は一般に大に有望であると思ふ。(未完)



〔参考〕竜門雑誌 第二九〇号・第四〇―四五頁明治四五年七月 ○南洋視察談(承前) 東京栄銀行専務取締役 脇田勇君(DK550116k-0013)
第55巻 p.557-558 ページ画像

竜門雑誌 第二九〇号・第四〇―四五頁明治四五年七月
    ○南洋視察談(承前)
                 東京栄銀行専務取締役 脇田勇君
△屋内でも九十度以上 既に述べたる如く南洋に於ける農業は甚だ宜いやうに思ふが、日本人の体力が果して其気候に堪えるかドウかと云ふことを研究しなければならぬ。現在私の行つた時でも非常に熱いと思つたから、外で寒暖計で計つた所が百三十度の熱さで、屋内でも九十度以上百度近い事がありました。九十度以上百度といふと屋内でも随分堪えられぬ訳であるが、風がソヨソヨとあつて割合ひに感じない熱いと云ふことを覚悟して居る為めでもありませう。併し汗の出ることは実に驚く、熱い処だからと云つて簿い物を着ると云ふことは一向役に立たない、直ぐ汗が通つて体に着く、だから矢張り毛織のやうなものが宜い。
 - 第55巻 p.558 -ページ画像 
△恐るべき風土にあらず 香港あたりでは虎列拉もあれば黒死病《ペスト》も流行して、恰も伝染病の製造所のやうであるが、新嘉堡やジヨホール辺には虎列拉とか黒死病とか云ふ流行病は余りない、聯邦の内地に於てもさう云ふ流行病があつたと云ふことを聞かない、○中略 故に余は風土としては決して恐るべき処にあらずと信ずるのである。
△象群と汽車の衝突 南洋に行くと猛獣が沢山居るから中々危険であるとか、或は鰐・毒蛇抔も中々多いと云ふ話も内地で聞いたけれどもさう云ふ者も内地で聞いた如く矢鱈に居りはしない。
○中略
△スマタラの護謨事業 スマタラはブラワンに上陸してデリー州のメダンに行き、其処を中心として其附近の護謨の状態並に煙草の栽培状況に就て取調べを試みた。処が護謨はマレー半島の如く盛ではないけれど和蘭人が可なり栽培して居りますが、自分等は仮に今後南洋に行つて護謨栽培経営をする場合に当つて、スマタラの土地を選定すると云ふことは果して其得失は如何であるかと云ふ考へを持つて居た。夫故に夫等の事に就ても調査を致しましたが、元来スマタラは和蘭領であつて、マレー聯邦のやうに他国人を歓迎しない。否な寧ろ東洋人が這入つて仕事をすると云ふことを嫌つて居る如くに思はれる。其一例を挙ぐれば税関の取調の如きは東洋人に向つては頗る厳重であつて、或は写真器械を持つて這入るとか、或は鉄砲を持つて這入ると云ふことに就ては多大の注意を払つて居る。是れが即ち他国人の這入ると云ふことに就て、彼等が如何に神経過敏であるかといふことを証拠立てらるゝ一例であらうと思ふ。又護謨を栽培するに当つても、土地其物を租借すると云ふことは余程面倒で、日本人抔が突然行つたからと云ふて容易に土地の権利を得ることが出来るものでない。少なくとも、永住権を持つて居るものでなければ土地を借ることが出来ない。又永住権を持つて居ても、個人の経営であれば百エーカー以上の土地を租借することは政府が之を許さない。さう云ふ有様である故に、総ての法律なり規則なりが甚だ面倒で仕事をする上に於ては頗る不便である。故に自分等は将来数十年の後はイザ知らず、現在に於てはマレー聯邦に於て土地が無いと云ふ訳ではないから、日本人が護謨栽培の為に特にスマタラを択む必要は聊かも認めない。故に日本人が護謨を栽培すると云ふことは、今日に於てはマレー聯邦に限ると考へた。但しスマタラを然も将来孰れの国人かの手に由つて経営されると云ふことは予め覚悟せんければならぬ。恐らく独逸人の如きは今後大いに手を下すだらうと考へる。
○下略



〔参考〕竜門雑誌 第二九二号・第三〇―三四頁大正元年九月 ○馬来半島の護謨事業(承前) 脇田勇君談(DK550116k-0014)
第55巻 p.558-562 ページ画像

竜門雑誌 第二九二号・第三〇―三四頁大正元年九月
    ○馬来半島の護謨事業(承前)
                     脇田勇君談
△護謨の沿革 曩に護謨事業の有望なることを申述べたに依つて、尚少しく護謨に付いての事項を至極簡短なれどもお話致まする。元来護謨事業の勃興したのは極めて近年の事で、千八百三十九年に亜米利加
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人のグード・イヤー氏が硫化法を発明してから俄に護謨需用の大発展を来たしたとのことである。抑も同氏の硫化法と云ふのは粉末にしたる硫黄を護謨に混ぜて其れを高温度に熱するので、斯くて出来た所の護謨は低温度に於ても又高温度に於ても弾力性を失はぬのみならず化学的変化を見ることが極めて少ない事を発見したのである。即ち此発明から各方面に護謨の利用が一時に広まつたのである。又其れ以来護謨工業に就て種々なる改良と発明が続々起つて来て、竟に今日の如き実に驚くべき進歩を来たしたので、今や護謨樹の栽培と云ふことは熱帯に於ける各国の殖民政策上、重要なる産業となつたのである。
△天然護謨と其産地 元来護謨液を分泌する植物は其数が頗る多い。聞く処によれば大抵の樹には幾分か護謨質を含で居ると云ふ。之れは勿論素人の私が確言は出来ぬが、さう云ふ訳であるから世界に於ける護謨の発生する処は其範囲が甚だ広い訳であるけれども、実際現今に於て天然護謨を産出して居る処は南亜米利加、中央亜米利加、阿弗利加の西海岸、スマトラ、ジヤワ、ボルネオ、西印度諸島の一部に過ぎない。而して現在に於て市場に現はるゝ所の護謨の過半は南亜米利加から出る天然護謨である。天然護謨は其採取及凝固方法は無智蒙昧の土人に依つて行はるゝから、将来供給上に余程憂ふべき事があるさうです。それはドウ云ふ訳かと云ふと、採収の取締の困難なる事と、又天然護謨の生ずる所は多くは熱帯の瘴煙蛮地に非ざれば、交通最も不便にして人の往くことの稀なる土地であつて、然かも護謨樹の林を成すものがなくて各地に点在して居るから、中々監督が行届かない。従つて濫伐が行はれ、次第に護謨採集に困難を感じ、殊に近時栽培護謨が勃興したので、愈々之れと競争すると云ふことは殆ど不可能であると云ふ状況になつて来たと云ふ事です。
△栽培護謨 天然護謨の不足を補はんか為めに始めて人工的に護謨を植栽したのは、今から五十年前の事であると云ふけれども、此事業の重要視せらるゝに至つたのは千八百七十二年以後の事で、当時瑞士の植物学者が政府の命を受けて、南米の護謨が果して印度に栽培し得るや否やと云ふことに就て調査をしたのが始めで、其翌年南米から携へ来たつた所のパラ護謨の苗木をカルカツタに送つた。是れがパラ護謨の東亜に伝播したる嚆矢である。其後千八百七十六年に二千本の苗木を錫崙に移植して非常に好成績を得た。目下錫崙には既に三十五・六年も経過した老木が大分あるさうである。従つて実を結ぶものが年々増加したので、現今に於ては最早挿木法に拠るものは殆ど無くして、孰れも種子を蒔く方法を取つて居る。夫れから海峡殖民地に苗木を伝播したのは千八百七十七年に始まつて、千八百九十一年にはボルネオ及東亜弗利加の一部、千九十一年《(マヽ)》にはスマタラに及で其後数年ならずして濠洲辺まで拡がつた訳である。
△護謨生産費の比較 天然護謨と栽培護謨との比較上、ブラジル地方に於ける野生護謨の産出は年々多少の増加をして居つたけれども、其集散地たるアマゾン河沿岸に於ては、今や段々野生護謨が欠乏して来るさうである。それは近来同地方に於て護謨を採収するには深く内地の方に踏み込まなければならぬ。為めに運搬上非常に困難を感ずるや
 - 第55巻 p.560 -ページ画像 
うになつて来たのみならず、さう云ふ未開の土地であるから、折角採つた護謨を海賊等の盗難に罹る危険が事実随分あると云ふ。現に野生護謨採収の生産費は益々増加して来て採収費・運賃及税金を加算すると、普通一封度三志を要するといふ。殊に其上等の野生パラ(upriver, Hard Cure)は総てアマゾン河を溯りたる深林中に産するを以て之を採取するには容易ならぬ困難がある。又パラ港附近に於けるアマゾン河中の島嶼に産する(Island Soft-Cure)と称するは比較的採収上の困難は少ないけれども、其代り不純物の混合するものがある為めに到底曩に言ふた所のパラ護謨のやうな訳には行かぬと云ふ。然るに栽培護謨の生産費と云ふものは如何に高く見積るも二志以内で、殊に今マレー半島に於ける主なる栽培会社の生産費を掲ぐれば左の如くである。

  会社名         生産費
              志  片
 Bukit-Rajah       1・―・1/3
 Damausara        1・3・1/2
 Golden Hope       0・10・―
 Anglo-Malay       0・10・3/5
 Consolidated Malay    0・11・1/4
 Cicely          1・―
 Federated Selangon    1・2・1/2
 Golconde         0・11・1/4
 Perak          1・――
 Linggi          0・9・3/4
 Harpenden        ―・11・―
 Highland, Lowlanl    0・11・1/4

尚ほ年々樹木の成長するに従つて護謨の採収量が増加するが故に、生産費は反対に減つて行く訳である。故に栽培護謨の天然護謨に比して頗る有利の地位に在ると云ふことは之を以て実に明なる訳である。
△世界の護謨産額 天然護謨と栽培護謨との比較を挙ぐれば左の如くである。

  年度      総産額     此内人工栽培
              噸        噸
 一九〇六    六五、〇〇〇      五三〇
 一九〇七    六九、〇〇〇    一、一八〇
 一九〇八    六五、〇〇〇    二、一〇〇
 一九〇九    六九、〇〇〇    四、〇〇〇

△護謨生産高の産地別 は左の如くである。

  産地     一九〇五年  一九〇六年  一九〇七年  一九〇八年  一九〇九年
              噸      噸      噸      噸      噸
 馬来          七五    三五〇    七八〇  一、四五〇  三、〇〇〇
 印度及錫蘭       七〇    一六〇    二三〇    三五〇    六〇〇
 阿弗利加西海岸 一七、五〇〇 一七、二〇〇 一七、〇〇〇 一四、〇〇〇 一五、五〇〇
 伯剌西爾    三四、四二〇 三四、五二〇 三七、五二〇 三八、一六〇 三九、〇五〇
 其他諸国     九、九三五 一二、七七〇 一三、四七〇  二、〇四〇 一〇、八五〇
  合計     六二、〇〇〇 六五、〇〇〇 六九、〇〇〇 六五、〇〇〇 六九、〇〇〇

本表によれば栽培ゴムの生産地たる馬来半島並に印度諸島に於ては年
 - 第55巻 p.561 -ページ画像 
年産額増加しつゝあるも、他の天然ゴムの産地に於ては却て減少しつつあるを知る。
△パラ護謨最近五ケ年間の価格比例
 
                           (最低時代)              (最高時代)
    種類  一九〇六年     一九〇七年     一九〇八年     一九〇九年     一九一〇年
       志
    栽培 六、一 一/二   五、七 一/四   三、七 一/二   五、四 三/八   八、三 三/八
 一月
    野生 五、四 一/四   五、二 五/八   三、五 一/二   五、二 七/八   七、八 三/四
    同  六、二 一/二   五、七 三/四   三、六 一/二   五、五      一〇、五 一/二
 三月
    同  五、四 一/八   五、〇       三、二 一/四   五、二 七/八  一〇、〇 三/四
    同  六、一 一/二   五、三       三、二 一/二   五、九 一/八  一二、一
 五月
    同  五、二 三/四   四、九 一/八   五、七 一/三  一〇、三 三/四  一一、二 一/二
    同  五、九       五、五 一/四   四、一 一/八   七、三       九、二 三/四
 七月
    同  五、一 三/八   四、九 一/八   四、〇       七、二       八、五 三/四
    同  六、〇 一/八   五、一 三/四   四、三 五/八   九、〇 一/八   六、九 三/四
 九月
    同  五、一 一/二   四、七 一/二   四、一 三/四   八、七 一/二   七、八
    同  五、七       四、一 七/八   五、六 三/四   六、一 三/四   六、四 一/二
 十一月
    同  五、一 五/八   三、九 一/八   四、二 五/八   八、八 一/二   六、一 一/四

△護謨液の採収並に護謨の製造 護謨の採収並に護謨製造は頗る簡単なものであつて、大抵マレー人並に印度人の男女が日出前孰れも護謨園に出て普通一人が百本以上、熟練したものになると二百本位の樹木を担当して護謨液の採収に従事して居る。其採収方法は普通地上四五尺位の辺までナイフを以て垂下線的に傷づけて、而して其左右をば魚骨形に傷ける。例へば人間の皮膚に傷を付ければ血液が滲み出るやうな訳合ひになつて、其れが段々溜つて下の方に落ちる。丁度液汁の落ちて来る下にコツピーを当てゝ其れを受けると云ふ仕掛けで、大抵九時若くは十時頃迄に其コツピーに溜つたのを集めて、而して之を牛車又は自働車に由つて各工場に運搬して行くのです。何故日出前に遣るかと云ふと、日が中るやうになると、樹の皮に傷を付けたのが固まつて液汁が滲み出ないから、早朝から採収に従事するので、九時か十時頃止めて、又翌日其通り繰返へすと云ふ遣方です。扨て其集めて来た液汁を大きな丼の様なものに入れて、其中に醋酸を混合する。さうすると最初採つた護謨に含で居つた所の水分が全く分離して、忽ち凝結するのです。丁度水を張つた丼の中に搗き立ての餅を投げ込だやうな状態になる。其固まつた護謨を適当の大きさに切つて其れをロールに掛けると、ロールの廻転に由つて宜い塩梅に広がつて行く。其広がつたのを十分に乾燥するので、其乾燥方法としては煙を通す方法もあり又自然に乾燥せしむる方法もあるが、兎に角十分に乾燥した所を規則正しく縁を裁つて、さうして相当の箱に入れて之を欧羅巴の市場に輸出するのです。斯くの如く其作業は頗る簡単であつて、夫等の作業は多くはマレー人が従事して居る。作業は極めて簡単であるが、一層智識の発達したる日本人に此等の作業を遣らしたならば一層生産を迅速にすることも出来るだらうし、利益も亦頗る多いだらうと考へる。尤も日本人は熱帯の暑気に堪ゆる上に於てはマレー人、若くは印度人・支那人に劣るでもあろふが、採収及製造の点に於ては将来日本人の労働者は非常に有望なる地位に在ると自分は認めたのです。
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△土地の租借 に就てはマレー半島でもジヨホール州と聯邦諸州とは多少手続に於て相違する所があるけれども、大体に於て同様である。故に今玆には聯邦に於ける租借手続を簡単に述べて結末を告げやうと思ふ。聯邦に於ては最初自分の欲する所の土地を選定して其土地の租借を出願する。さうすると政庁に於て其願書を受付くると同時に其申し出た土地の測量に着手する。其測量費は予め出願人に於て納めなければならぬ。扨て愈々測量が出来上り、且つ其土地が出願人の目的とする護謨栽培に適当して居る土地と政庁に於て認めた上は、出願の年度に於ける所の税金の上納を命ずる。其税金を納めると、始めて政庁が土地使用権を許可して、玆に永代借地権を得る訳になる。其税金は上等の土地が普通一エーカーに対して年一弗。夫れから六年目から四倍になる。と云ふのは六年目にもなれば立派に収益が上がるやうになるからである。兎に角少額之補償で以て宏大なる土地を取得することが出来るので、而かも其土地が立派なる収益を上げ得るのであれば、時機を失せず日本人が斯かる土地に対し永久の権利を獲得すると云ふことは、軍事上とか政治上とか、さる六ケ敷ことは我々門外漢の云々する処にあらざるべきも、新日本の国力増進上頗る重要視すべきことではあるまいか。(完)



〔参考〕竜門雑誌 第五〇四号・第六五頁昭和五年九月 雑録 八月から九月へ 【脇田勇氏訃報】(DK550116k-0015)
第55巻 p.562 ページ画像

竜門雑誌 第五〇四号・第六五頁昭和五年九月
  雑録
    八月から九月へ
○上略
脇田勇氏 予て病気静養中の氏は九月十八日遂に逝去された、氏はマレーゴム会社々長で脇田洋行を経営して居られた、青淵先生との関係は宮城屋貯蓄銀行の破産による清算を先生の委嘱により引受られてからである、まだ五十五歳、前途のある人であつたのに惜むべきである。



〔参考〕竜門雑誌 第五二一号・第一〇五―一〇六頁昭和七年二月 故渋沢子爵を追憶す 小此木為二(DK550116k-0016)
第55巻 p.562 ページ画像

竜門雑誌 第五二一号・第一〇五―一〇六頁昭和七年二月
    故渋沢子爵を追憶す
                       小此木為二
○上略 次は明治四十四年自分が米国から帰朝して、当時護謨栽培事業熱漸く盛ならんとしたので、竜門社同人の方々が主として成る護謨栽培会社を創立して、自分も其主事として南洋に渡航することになり、英領又は英国の勢力範囲にあるジヨホール王国へ向ふ関係上、ジヨホール国王への紹介状を東京の英国大使に書いてもらはうと思つて、子爵に自分を紹介する大使宛の紹介状を頂いて、早速英国大使館へ出掛けたのであるが、大使が妙に皮肉るので、少壮の自分も些か言ひ過ぎて終ひ、折角の紹介状を台なしにして了つた、この旨を当時の渋沢家理事増田氏に御話して、子爵に欠礼を御詫びしたところ、御叱りはなく反つて御慰めの御言葉を頂き、別な方面で結局英大使紹介状を得る目的を達した事がある○中略(同上○如水会々報十二月号所載)