デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
3節 其他ノ外国
2款 伯剌西爾拓植株式会社
■綱文

第55巻 p.563-571(DK550117k) ページ画像

大正元年11月7日(1912年)

是ヨリ先、当会社設立ノ計画進ミ、是日、東京商業会議所ニ於テ、創立相談会開カル。栄一出席シテ、設立ノ趣旨ヲ述ブ。次イデ二年一月十三日、栄一、当会社ノ設立ニ関シ、外務大臣官邸ニ於テ開カレタル集会ニ出席シ、近藤廉平・中野武営・大橋新太郎等九名ト共ニ、創立準備委員ニ挙ゲラル。


■資料

国民新聞 第七四二四号 大正元年一〇月二九日 伯国移民会社計画(DK550117k-0001)
第55巻 p.563 ページ画像

国民新聞 第七四二四号大正元年一〇月二九日
    伯国移民会社計画
青柳郁太郎氏等の計画に係る伯拉爾拓殖会社は渋沢・近藤両男、中野武営氏等の斡旋にて愈々会社創立の見込立ちたるに依り、各関係者は廿八日商業会議所に会合、資本金一百万円を以て経営する事に決し、来月上旬発起人会を開く筈


中外商業新報 第九五二六号大正元年一一月三日 ○伯国拓殖協議会(DK550117k-0002)
第55巻 p.563 ページ画像

中外商業新報 第九五二六号大正元年一一月三日
○伯国拓殖協議会 伯剌西爾の開墾を目的とする伯剌西爾拓殖会社創立の議は爾来着々進捗し、来る七日東京商業会議所に最後の協議会を開く事となり、創立者の渋沢・近藤両男及び中野武営氏の名を以て、夫々関係者に通牒を発したりと


中外商業新報 第九五三一号大正元年一一月八日 ○伯国拓殖創立相談会(DK550117k-0003)
第55巻 p.563 ページ画像

中外商業新報 第九五三一号大正元年一一月八日
    ○伯国拓殖創立相談会
伯剌西爾拓殖株式会社創立相談会七日開会、大浦前農相は本邦目下の国状に於て海外殖民は急務な旨を述べ、次で青柳郁太郎氏は企業並に収支計算の説明をなし、協議の結果、当日出席大浦子爵、渋沢・近藤両男爵、中野武営・大橋新太郎、根津嘉一郎其他二十余名は大体発起者たることを諾し散会せり


東京朝日新聞 第九四三九号大正元年一一月八日 ○伯国移民計画 ▽会社創立に決す(DK550117k-0004)
第55巻 p.563-564 ページ画像

東京朝日新聞 第九四三九号大正元年一一月八日
    ○伯国移民計画
      ▽会社創立に決す
伯剌西爾拓殖会社の創立発起会は七日商業会議所にて開会、出席者は渋沢・近藤両男、中野武営氏を始め大浦子爵・田健治郎男・伊藤幹一服部金太郎・大橋新太郎・小野金六・各務幸一郎・川田鷹・武井守正浅野総一郎・朝吹英二・根津嘉一郎・松方巌・来栖壮兵衛諸氏並に東京シンヂケートの青柳郁太郎氏等二十余名
にして、渋沢男会長となり開会の旨趣を述べ、曩に東京シンヂケート
 - 第55巻 p.564 -ページ画像 
が南米伯国政府より、有利なる条件を以て殖民地無償獲得の権利を受け、愈々経営を進むべき必要に迫りたるを以て、四・五ケ月前大浦子爵より自分等三名に協議あり、依つて近藤君を煩はし東洋移民会社にも調査を託し、大体方針を立案中なりしが、略出来上りたるを以て、玆に諸君の来会を希ひたる次第にして、要するに事業は随分困難なるに相違なきも、他日其効を奏するに至らば、海外発展の第一着として極めて有望なるべしと説き、次に大浦子爵左の如き演説をなせり
抑々東京シンヂケートの起因は去る四十一年に在り○中略 本年三月八日に至り初めて伯国サンパウロ州政府より五万町歩を無償譲与を獲べき権利を得たるを以て、更に歩を進めて会社設立を計画し、渋沢・近藤中野の三氏に相談して、今日に至りたる次第なり、元来東京シンヂケートは国家発展を目的とし、営利的事業の為め働きしものに非らざれば、会社設立せらるゝ以上は、獲得せし権利は潔よく之に譲与すべく有力なる実業家の後援を得て此の事業の進捗を見るに至らば国家の慶事なるを以て、是非共諸君の賛同を請ふ所以なり云々
次に東京シンヂケート代表者青柳郁太郎氏より事業計画の大体を説明せり○中略
次で○中略 種々協議の末、当日集りし前記諸氏は全部皆発起人となる事に決し、当日不参の各実業家も勧誘して発起人たらしめ、遅くも来年一月迄に会社を成立せしむる見込を以て近日発起人会を開き、創立委員其他を決定するに決して散会す


中外商業新報 第九五三二号大正元年一一月九日 ○伯国移民会社本旨 渋沢男爵の談(DK550117k-0005)
第55巻 p.564-565 ページ画像

中外商業新報 第九五三二号大正元年一一月九日
    ○伯国移民会社本旨
      渋沢男爵の談
今回大浦子・渋沢男・近藤男其他の諸氏発起となり、南米伯剌西爾に移民を為すの目的にて拓殖会社の設立せらるゝは既報の如きが、右に付渋沢男は語つて曰く、我国古来の風習にては、下女下男の雇傭を周旋し其手数料を得るの業は町奴と称へて一般に軽蔑せられしかば、移民事業の如きも此種営業と同視せられ、財産品格共に社会上流に位する人々は斯業に手を下すを好まざりき、従て移民会社は動もすれば移住労働者の頭金を貪るを本色とし、甚敷に至りては、移住民の無智なるに乗して猥りに出稼地を変更し、以て暴利を貪るものさへ少なからず、斯くの如くなれば人格品性の善良なる者は移民に応ずるを拒み、偶々之れあるも悪徳移民会社の為め其品性を傷けらるゝ者多し、即ち移民の多数は遂に其生涯を誤まらるゝのみならず、移住国に向つては我国民の信用を失墜すること少なからず、而かも我国民は繁殖力の速かなれば、徒らに国内に於ける蝸牛角上の争を事とせず、大に海外に向つて発展せざるべからざること多言を要せざるなり、幸ひ南米伯剌西爾は地味気候最も移民に適し、加ふるに契約条件も極めて有利なるを以つて、我労働者の移民上最も適当なれば今回の計画を定めたる所以なり、而して会社の期する所は、徒に移民より手数料を収むるを目的とせず、移民には一定の土地を給付し、相当年間に勤労後は彼等に地主の地位を獲得せしめ、且つ移民地には模範的日本村の成立を見る
 - 第55巻 p.565 -ページ画像 
に至らんことを欲するものにして、単に営利的に移民を奨励するの主旨にあらざるなり
   ○右記事中ノ栄一談ハ「竜門雑誌」第二九四号(大正元年一一月)ニ転載セラレタリ。


竜門雑誌 第二九四号・第七一頁大正元年一一月 伯剌西爾拓殖会社の設立(DK550117k-0006)
第55巻 p.565 ページ画像

竜門雑誌 第二九四号・第七一頁大正元年一一月
 ○伯剌西爾拓殖会社の設立 予て東京シンヂケートと南米伯剌西爾サンパウロ州政庁との間に交渉中なりし移民の件は、本年三月八日両者の間に殖民契約成立し、爾来専ら調査中なりしが、十月に至り其調査も既に完了して、愈々見込み立ちたるを以て、東京シンヂケートの代表者《(マヽ)》たる青淵先生・大浦子・近藤男・中野武営諸氏は十月廿八日午前九時東京商業会議所に参集し、サンパウロ殖民会社設立に関し協議を遂げたる結果、愈々資本金百万円の同会社を設立することに決し、越えて十一月七日、東京商業会議所に於て其創立発起会を開きたり、出席者は青淵先生・大浦子・近藤男・田男・中野武営・松方巌・服部金太郎・朝吹英二・来栖壮兵衛諸氏二十有余名にして、青淵先生会長席に着きて、東京シンヂケートと南米伯剌西爾サンパウロ政庁と交渉の結果を報告し、尚ほ大浦子爵・近藤男等の演説ありて後協議の末、当日の出席者は全部発起人となる事を承諾し、且つ遅くも来年一月迄に会社を成立せしむべしとの協議を遂げて散会したる由。


中外商業新報 第九五五〇号大正元年一一月二七日 ○伯国拓殖会社進捗(DK550117k-0007)
第55巻 p.565 ページ画像

中外商業新報 第九五五〇号大正元年一一月二七日
○伯国拓殖会社進捗 伯剌西爾拓殖株式会社は目下準備中なるが、株式は発起人・賛成人にて全部引受け、大正二年一月には成立の見込なりと、尚移民は家族的移民を目的として契約移民を避け、全く伯国イグアベに移殖して日本村を建設し、将来独立自営せしむる計画なり、其方法として最初労働者には会社直営農場にて一年間労働せしめ、日当金一円六十銭を給与し、相応資金の蓄積せらるゝに及び、一家族に対し二十五町歩を配当開墾せしめ、一町歩金六円五十銭にて追々譲渡して労働者自己の所有地となさしむるより、会社にては独立的気風に富む移住民を希望し、依頼心を起さしめざる方針にて、直接金は与へざるも仕事と労銀は充分に給与し、且種畜場・農事試験場及農産物の販売機関をも設けて移住民の便宜を計り、植民地発展に努力を有し、先づ三百家族凡そ一千人を撰択募集して来年輸送の計画なりと


渋沢栄一 日記 大正二年(DK550117k-0008)
第55巻 p.565 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年         (渋沢子爵家所蔵)
一月十三日 晴 寒
午前七時前起床、洗面畢テ朝飧ヲ食シ、旅装ヲ理シ、八時二十七分大磯発ノ汽車ニテ帰京ス、十時過新橋着、直ニ外務大臣官舎ニ抵リ、伯剌西爾拓殖会社設立ニ関スル集会ニ列シテ、桂・大浦二大臣ノ挨拶ニ次テ一応ノ説明演説ヲ為ス、後倉地次官《(倉知)》・古在試験所長其他《(場)》ノ種々ノ説明アリ、畢テ午飧ヲ食ス、食後会社創立準備ニ付委員ヲ指名シ、三時事務所ニ抵リ、留守中ノ要務ヲ整理シ、来書ヲ検閲ス○下略

 - 第55巻 p.566 -ページ画像 

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一六頁 昭和六年一二月刊(DK550117k-0009)
第55巻 p.566 ページ画像

青淵先生職任年表 (未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編
               竜門雑誌第五一九号別刷・第一六頁昭和六年一二月刊
    大正年代
  年 月
 元 一〇―伯剌西爾拓殖株式会社発起人―大、二、一、―〃創立準備委員長○下略


国民新聞 第七四九九号 大正二年一月一四日 伯剌西爾移民創立 外相実業家の会合(DK550117k-0010)
第55巻 p.566 ページ画像

国民新聞 第七四九九号大正二年一月一四日
    ○伯剌西爾移民創立
      外相実業家の会合
伯剌西爾移民会社創立に関し桂兼摂外務大臣は、十三日実業家の重なる人々を外相官邸に招待したるが、実業家出席者四十一名、政府側よりは桂兼摂外相・大浦内相・仲小路農相・倉知外務次官・下岡農商務次官・坂田通商局長・道家農務局長・古在農事試験場長・田中移民課長、吉田・阪井両秘書官列席し、劈頭桂公は、移民の必要を述べ同会社創立に対する勧誘的挨拶をなし、実業家の奮発を促し、次て大浦内相は、東京シンヂケートの事業に就いて第二次桂内閣の農相たりし当時より多大の同情を寄せたり、我国の如き一ケ年間に六十万人も増殖する情況に在つては、勢ひ平和的に海外発展を試みざる可らず、植民最も之に適切なる旨を述べ、倉知外務次官より、東京シンヂケートの沿革並に同シンヂケートとサンパウロ州政府との間に締結せられたる契約の内容を報告し、之に対し渋沢・近藤両男爵賛成の辞を述べ、出席者一同直に賛成の記名を為し、更に渋沢栄一男・近藤廉平男・武井守正・田健治郎男・佐竹作太郎・大橋新太郎・川田鷹・中野武営・大谷嘉兵衛・末延道成の十氏を会社創立準備委員に選定し、何れも午餐を共にして午後二時過散会したり
○下略


東京日日新聞 第一二九八八号大正二年一月一六日 ○渋沢男の首相訪問(DK550117k-0011)
第55巻 p.566 ページ画像

東京日日新聞 第一二九八八号大正二年一月一六日
    ○渋沢男の首相訪問
渋沢男は十五日午前九時四十分頃官邸に桂首相を訪問し会談する処ありしが、其用向はブラヂル移民会社創立委員長として当日召集の地方官に懇談の打合なりと


竜門雑誌 第二九七号・第六八頁大正二年二月 ○青淵先生と地方長官(DK550117k-0012)
第55巻 p.566 ページ画像

竜門雑誌 第二九七号・第六八頁大正二年二月
○青淵先生と地方長官 伯剌西爾移民会社創立委員長たる青淵先生には、一月十五日午前九時四十分首相官邸に到り、折柄参会中の各地方長官に対し同国移民会社設立に関し応分の助力を与へられたき旨懇談せられたる由


(伯剌西爾拓植株式会社) 事業概況書 大正六年七月(DK550117k-0013)
第55巻 p.566-568 ページ画像

(伯剌西爾拓植株式会社) 事業概況書 大正六年七月
                  (海外興業株式会社所蔵)
    伯剌西爾拓植株式会社事業概況書
      第壱章 会社創立ノ沿革
 - 第55巻 p.567 -ページ画像 
一東京「シンヂケート」ノ植民地特許契約締結
 海外植民事業ハ識者夙ニ之ガ遂行ノ必要ヲ唱導スト雖モ、適当ナル植民地ヲ得ルコト容易ナラザルガ故ニ、今日迄組織的ニ事業ノ実行セラレシモノ在ラズ、偶有志ノ組織ニ係ル東京「シンヂケート」ハ資ヲ投ジテ多年之ガ実行案ヲ求ムルニ腐心シ、遂ニ伯剌西爾国ノ人口稀薄ニシテ土地広大、且ツ土着人民ハ邦人ノ来住ヲ歓迎シ、相携ヘテ其富源ヲ開発セントスル情状ニ着眼シ、明治四十三年七月其代表者青柳郁太郎ヲ伯国ニ派遣シタルニ、同氏ハ先ツ同国中気候中和ニシテ開拓事業ノ比較的進歩セル南部諸州ヲ綿密ニ踏査セシ結果、「サンパウロ」州「イグアペ」郡「リベイラ」河流域一帯ノ地ガ気候風土共ニ邦人ノ定住ニ適シ、中央市場「リオ・デ・ジヤネイロ」トモ水路相通ジ、又陸路同地貫通鉄道ノ近キ将来ニ落成セントスルアリ、同地方一帯ハ産業自ラ勃興シ繁栄ノ到来期シテ待ツ可ク、我植民地ヲ設立スルニ最モ適当ナルベシト認メタリ
 玆ニ於テ東京「シンヂケート」ハ事業遂行上ノ便ヲ得ンガ為メ、同地方ニ於ケル州有未開墾地ノ無償譲与、及ビ植民渡航費ノ全部償還其他種々ノ特典許与ニ関シ「サンパウロ」州政府ト交渉シ、更ニ進ンデ之ヲ州内有力者ニ謀リ、其後援ヲ得テ問題ヲ解決スルニ必要ナル法律ノ制定ヲ州議会ニ請願スルニ及ビ、我主意終ニ貫徹シ、日本植民地設立特許ニ関スル法案ハ、明治四十四年十二月大多数ヲ以テ州議会ヲ通過シ、翌四十五年一月法律トシテ公布セラルヽニ至レリ斯クテ東京「シンヂケート」ノ計劃ハ初メテ実行的トナリ、西暦一九一二年(明治四十五年)三月八日付東京「シンヂケート」対「サンパウロ」州政府植民契約ノ締結ヲ見ルニ至レリ
      (イ)植民地設立特許契約ノ要項
一、東京「シンヂケート」ニ対シ「リベイラ」河ト「パリケラアツスウ」「カナネア」間ニ於ケル官有地五万町歩ヲ無償譲渡スルコト
二、東京「シンヂケート」ハ同地方ニ対シ植民優先権ヲ有スルコト
三、移民ノ海陸渡航費(植民地迄)ヲ償還スルコト
四、植民地中心ヨリ鉄道停車場及海港ニ達スル道路ヲ開築スルコト
五、植民地内ニ種畜所・農事試験所ヲ設立維持スルコト
六、東京「シンヂケート」ニ対シ五ケ年間州税ヲ免除スルコト
七、五十家族ノ一群定住スル毎二十「コントス」ノ償金ヲ給与スルコト
八、東京「シンヂケート」ハ譲渡ヲ受ケタル土地ヲ各二十五「ヱクターレス」ノ地区ニ分劃シ、日本農民二千家族ヲ定住セシムルコト
      (ロ)植民地附近ノ概況
○中略
二会社設立計劃
 明治四十五年五月東京「シンヂケート」代表者青柳郁太郎ガ前述契約ヲ齎シテ帰朝スルヤ、該組合ハ此ノ前例ナキ海外植民事業ヲ大成センガ為メ有力ナル営業機関ヲ組織シ、鋭意事ニ当ルノ要ヲ認メ、広ク有志ノ賛同ヲ得ンコトヲ期セリ
 時恰モ諒闇ニ際シ劃策意ノ如ク進捗シ能ハザリシト雖モ、此間種々
 - 第55巻 p.568 -ページ画像 
研鑽スル所アリ、期漸ク熟シ、渋沢・近藤両男爵、中野武営氏等主トシテ斡旋セラレ、財界知名ノ士ノ賛同ヲ得、時ノ首相兼外相桂公爵ハ特ニ京浜実業家ヲ外相官邸ニ招待シ、本会社ノ成立ニ付慫慂セラレ、其席上左記諸氏ヲ創立準備委員ニ挙ゲラレタルハ実ニ大正二年一月十三日ナリキ
  創立準備委員
   男爵 渋沢栄一  男爵 武井守正
   同  田健治郎  同  近藤廉平
      中野武営     大谷嘉兵衛
      末延道成     佐竹作太郎
      大橋新太郎    川田鷹
○下略


竜門雑誌 第二九七号・第一六―一九頁大正二年二月 ○南米発展の好機関 青淵先生(DK550117k-0014)
第55巻 p.568-570 ページ画像

竜門雑誌 第二九七号・第一六―一九頁大正二年二月
    ○南米発展の好機関
                      青淵先生
 本篇は青淵先生の講話なりとし二月一日発行の雑誌「帝国公論」に掲載せるものなり(編者識)
△東京シンジケートの活動 今回伯剌西爾殖民会社設立に関し、余は推されて創立準備委員と成つたが、移民の海外発展は我国情に鑑みて大に急務とする所であるから、是非共此事業を成功させ度いと思つて居る。抑も同国に於て殖民に関する特権を得たのは、初め東京シンヂケートが、伯国の人口稀薄にして土地広大なるに着眼し、明治四十三年七月代表者を派遣して、気候地味及灌漑の便否等の条件に於て適当なる移民地なるや否やを調査せしめた。そこで代表者は実地踏査の結果サンパウロ州リベイラ流域の地方が温暖にして土地肥沃なるのみならず、一方大市場リオ・デ・ジヤネーロと水路相通ずるの便あるを認め、土地無償譲渡、及び殖民渡航費全部償還等の特権を得んと運動した。其結果日本人殖民地設立特許に関する法案は一昨年十二月州議会に提出せられ、大多数を以て通過し大正元年一月法律として公布せらるゝに至り、乃ち三月八日東京シンジケート対サンパウロ州政府間に殖民契約の成立を見るに至つた次第である。由来州有地を殖民会社に無償譲渡し、又政府の費用を以て私設殖民地に農事試験場等を設立し之に依て外国人の殖民事業を助長するが如き事は伯国に於て嘗て前例の無い事である。加之殖民の渡航費全部償還及び殖民奨励金下附の如きも、現行法規上恩典の極致にして、企業者の為め大に便宜と感ずる次第である。依て本社発起人等は東京シンジケートに交渉し、其獲得せる特許権一切を譲受け、目論見書を作製して愈会社組織を実行するの運びとなり、自分等は中野武営・近藤廉平・大谷嘉兵衛・佐竹作太郎・田健治郎等諸氏と共に創立準備委員に選まれたる次第で、賛成人は全体にて四十名程あれど、吾々のみにて百万円の資本を引受くるや否やは尚未定の問題である。併し如何なる事あるも株の一般募集は遣らないつもりである。
△植民の特権 本社が譲受けたる特権なるものは仲々有望である。試
 - 第55巻 p.569 -ページ画像 
に東京シンジケートがサンパウロ州政府と締結したる契約内容を示せば、リベイラ河とパリケラアツスウ及カナネアの二殖民地間に日本殖民地を設くる為五万エクターレスの土地を無償譲与する事。政府は本契約締結後五箇年間州税を免除する事。殖民地に五十家族の一群定住する毎に十コントスの賞金を給する事。東京シンジケートは本契約調印の日より起算して四箇年内に、日本農民二千家族を前掲地帯に招来定住せしむるの義務ある事。譲与されたる土地にして四箇年内に占有されざるものは、更に州に返還すべき事。東京シンジケートは殖民地に先づ百家族を定住せしめ、其事業の有益なるを表明せる後初めて州の恩典を受く可き権利を生ずるものとす。而して此が有益なるや否やは農事労働者の家族定住如何及び右家族は其地区に異状無く居住して満足に発達せる耕作物を有するや否やに依て証すべき事。該地方に同種の特許を為す場合ある時は、東京シンジケートの優先権を有する事等は先づ其主要条項であるが、更に細則に至つては、同国政府をして殖民地本部対最近鉄道停車場並にイグアペ港間は車道を開築せしむる事。百家族定住後は種畜場・農事試験場を設立し、且つ葡萄牙語教授の為初等教育学校を設立せしむる事をも含で居る。
△第一着の事業 最初同国政府との間十五万町歩譲与の談もあつたが先づ不取敢五万町歩で着手し、其成績を見た上で更に拡張する計画としたのである。而して創業第一着に行ふ可き仕事は、殖民地附近に五千町歩許を別に買収し、此処に会社直営の農場を設置し、以て新来殖民に労働を教授するの機関たらしむると同時に、一面会社財源をも作る可く、乃ち米作を主作とし玉蜀黍・豆を副作として、将来同国にて模範農場の一たらしめん希望である。又最初輸送す可き殖民資格に就ては其選択を慎重にし、大正二年中本国に於て最労働力ある農家、例へば夫妻以外相当年齢に達したる男子二人以上を有する家族三百、乃ち人員約千人募集して送る見込である。彼等渡航後は先づ会社直営農場で労働せしめ、其余力を以て配当地区を開拓せしめ、彼等が資金を蓄積したる後第二回殖民と交番代させ、然る上独立農業に従事せしむる計画である。斯て大正三年以後五年迄は毎年三百家族宛本国で募集し、残余は「サンパウロ」珈琲園に在留せる日本移民中より募集して殖民地に定住せしめ、其内資力薄きものは前述第一回殖民の如く直営農場で働かす事になつてをる。而して殖民家族に対しては面積二十五町歩の土地一区宛を配当する筈で、大正二年には合計三百区、大正三年には五百区を売渡す積て居る。
△海外発展は急務 大正六年に至れば更に此計画以上に業務を拡張する事となるべく、惟ふに本社は日本人を南米に発展せしむ可き絶好の機関たるを失はぬ。元来日本は連年貿易入超打続き、在外正貨は減少する一方である。加ふるに多額の国債を外国に負ひ、其利払の為め国際貸借関係を不均衡ならしむる。若し此儘にして放任せんか、我中央銀行の兌換券制度は必ずや動揺するに違い無い。故に此際殖民事業を奨励し、多数の大和民族を海外に移殖して富源を開拓せしめ、漸次相当の資産を作らしむるに於ては、彼等が年々本国の物品を購買するのと、一面其送金額の逓増に依りて、幾分にても貿易逆調の大勢を緩和
 - 第55巻 p.570 -ページ画像 
せしめる事が出来るであらう。加之人口過剰の為め米収に不足を訴へ米価騰貴の為め生活難の声高き際、殖民を海外に送りて米作に従事せしめ、依て内地に対する輸入米を増加せしめざるも亦米価調節の一策であるまいか。之を要するに伯剌西爾拓殖事業は単に一会社の仕事たるに止まらず、日本人に取り真に国家的事業である以上、此際朝野一致して南米発展の機関成立に尽力せん事を切望するのである。


青柳郁太郎談話筆記(DK550117k-0015)
第55巻 p.570 ページ画像

青柳郁太郎談話筆記          (財団法人竜門社所蔵)
                   於渋沢栄一伝記資料編纂室昭和十年七月二十三日
 東京シンヂケートの組織せられたのは明治四十三年春で、それが出来た上で、私がサンパウロへ出立したのです。組合ですが別に登記も何もしてをらない。組合員は堀貞(実は農商務大臣大浦兼武氏の代理者)大沢孝次郎・長谷川芳之助・森田彦季・青柳郁太郎(私)、それにもう少し居りました。
 つまり此シンヂケートでは会社を経営する実力は元より無いので、大浦さんから渋沢子爵・近藤廉平の両氏にお話があり、会社設立の時は之に中野武営さんも加はつて出来たといふ訳です。


青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年九月 【海外興業株式会社 社長 井上雅二氏談】(DK550117k-0016)
第55巻 p.570 ページ画像

青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和二年九月
                     (渋沢子爵家所蔵)
           海外興業株式会社
               社長 井上雅二氏談
○上略
大正の初めに在つては海外移植民の問題は未だ朝野の注意を喚起するに至らなかつたのでありますが、時の農商務大臣大浦(兼武)子爵は総理大臣桂公爵・内務大臣平田(東助)伯爵に図り此企を決行し、之を財界の第一人者たる渋沢子爵に図られたのであります。渋沢子爵は又有力なる実業家を勧誘せられて、玆に成立した伯剌西爾拓殖会社が前述の大使命を帯びた海外興業株式会社の成立と共に之に合併せられたのであります。○下略


渋沢栄一 日記 大正二年(DK550117k-0017)
第55巻 p.570-571 ページ画像

渋沢栄一 日記 大正二年          (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 雨 寒
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス○中略 大橋新太郎氏来リ、銀行事務及伯剌西爾殖民会社ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
一月二十日 曇 寒
○上略 午前十時東洋移民会社ニ抵リ、伯剌西爾殖民会社創立ノ事ヲ協議ス、武井・田・大橋・川田諸氏来会ス○下略
   ○中略。
一月二十三日 晴 寒
○上略 午後六時倉知外務次官々舎ニ抵リ宴会ニ出席ス、大浦子爵、外務省官吏、実業家十数名来会ス、食後大浦氏其他ト伯剌西爾殖民会社ノ事ヲ談ス、夜十時帰宿○下略
 - 第55巻 p.571 -ページ画像 
一月二十四日 晴 寒
○上略 午前十時東洋移民会社ニ抵リ、伯剌西爾殖民ノ事ヲ談ス、委員八名、阪田通商局長来会ス○下略
   ○中略。
一月二十九日 雨 寒
○上略 午前十時事務所ニ抵リ○中略 川田鷹氏来リ、伯剌西爾殖民会社ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
二月一日 晴 寒
○上略
夕方川田鷹氏来リ、伯剌西爾殖民会社ノ事ヲ協議ス
   ○中略。
二月三日 晴 寒
午前七時過起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス○中略 大橋新太郎・山口鉦一郎二氏来リ、伯剌西爾殖民会社ノ事ヲ談ス○下略
二月四日 晴 寒
○上略 午後三時事務所ニ抵リ、神谷氏来リ、伯剌西爾殖民会社ノ事ヲ談ス○下略
   ○中略。
二月八日 晴 寒
午前七時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後山根寛一氏来リ、伯剌西爾殖民会社勤務志願ノ由申出ル○下略
   ○中略。
二月十日 曇 寒
○上略 午前十一時事務所ニ抵リ、庶務ヲ処理シ来人ニ接見ス、東洋移民会社ニ抵リ、伯剌西爾殖民会社設立ノ事ヲ協議ス○下略
   ○中略。
二月十三日 曇 寒
○上略
神谷正雄氏来リ、伯剌西爾殖民会社ノ事ヲ談ス
   ○中略。
二月二十二日 小雨 寒
○上略 午前十時東洋移民会社ニ抵リ、伯剌西爾殖民会社委員会ヲ開キ、要件ヲ議決ス、大浦氏モ来会ス○下略
   ○中略。
三月八日 晴 寒
○上略 午前十時東洋移民会社ニ抵リ、伯剌西爾拓殖会社設立ニ関スル協議会ヲ開キ、委員ト種々ノ打合ヲ為ス○下略
三月九日 晴 寒
○上略 午飧後○中略 新小川町ニ矢作博士ヲ訪ヘ、伯剌西爾拓殖ニ関スル実験談ヲ聴ク○下略