デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
3節 其他ノ外国
7款 南米拓殖株式会社
■綱文

第55巻 p.641-652(DK550125k) ページ画像

昭和3年3月26日(1928年)

是ヨリ先、ブラジル共和国パラ州政府ヨリ我政府ニ対シ、邦人植民ニヨリ同州有地ノ開拓ヲ慫慂シ来タル。政府ハ、之ヲ民営企業ニヨリ経営セシメントシ、是日、東京・大阪・名古屋等各地実業家ヲ外務大臣官邸ニ招キ、総理大臣兼外務大臣田中義一ヨリ、之ヲ勧説ス。栄一、実業家側ヲ代表シテ挨拶ヲ述ベ、且ツ、右会社設立ニ関スル準備委員トシテ、団琢磨等十二名ヲ指名ス。

四月九日及ビ十九日、日本工業倶楽部ニ於テ、右委員会開カレ、栄一ソレゾレ出席ス。

八月十一日、日本橋倶楽部ニ於テ、当会社創立総会開カル。


■資料

南米拓殖株式会社創立目論見書 第一―五頁昭和二年九月刊(DK550125k-0001)
第55巻 p.641-642 ページ画像

南米拓殖株式会社創立目論見書  第一―五頁昭和二年九月刊
趣意書
熟々我国現状ヲ通観スルニ、国土ハ狭少ニシテ資源ハ乏シク、工業製品ノ販路拡張モ亦容易ナラズ、対外貿易ハ年々輸入超過タリ、然ルニ人口ノ増加ハ歳々七拾万乃至百万人ニ垂ントシ、今後三十年ヲ経ルトキハ一億人ニ達シ、之ニ伴フ生活資料ノ消費ハ愈多ク、国内ノ生産ニ依リ自給スルコト困難ニシテ、現ニ食糧米ノ如キモ年額約四百万石ノ外米ヲ輸入シツヽアリ、サレバ人口壱億人ニ達スルトキハ更ニ現在ノ産米以上五千余万石ヲ増収セザル可カラズ、若シ之ヲ国内ニ生産セザレバ、将来ハ食糧米ノミニテモ数億円ヲ海外ヘ支払フニ至ルベシ、其ノ外雑穀・羊毛・棉花・木材等ノ衣食住ノ資料モ殆ンド之ヲ外国ノ輸入ニ俟ツ有様ニシテ、国民ノ生活ハ窮迫シ、思想ハ悪化シ、労資階級ノ紛争等諸種ノ社会問題ハ頻々トシテ起リ、産業ハ萎微シ経済界ハ不振ニ赴キ、転々憂慮ニ堪ヘザルモノアリ、此ノ現状ヲ打開シテ国運ノ進展ヲ図ランニハ、国民奮起シテ海外ノ富源ヲ獲得シ、之ヲ開発利用シテ国民ノ富力ヲ涵養スルコト急務ナリ、南米ブラジル国ハ領土広大ニシテ其ノ面積我本土ニ二十二倍シ、諸種ノ資源豊富ニシテ珈琲・ココア・護謨・米・棉花・砂糖・煙草及家畜等ノ農産ニ適シ、鉱物ハ幾百億噸ノ鉄鉱アリ、其ノ他銅・ニツケル・満俺・水晶・金等ノ埋蔵多キモ、未ダ僅ニ一少部ヲ採掘セルニ過ギズ、森林ハ千古斧鉞ヲ容レザル原始林ニシテ、良材並ニ染料薬草ニ富メリ、而モ人口ハ稀薄ニシテ全土僅カニ四千万人ヲ出デズ、常ニ外国ノ資本ト労力ノ輸入ヲ歓迎シ国内ノ開発ヲ図ルコトヲ国是トシ、諸外国ノ伯国ニ対スル投資ハ既ニ英国弐億七千万磅、仏国参拾四億法、米国五億弗ヲ超エ、外国人ノ伯
 - 第55巻 p.642 -ページ画像 
国ニ於ケル土地所有面積ハ壱千万町歩ニ達セル盛況ニシテ、次期ノ世界経済戦ハ南米ニ起ルベク、就中ブラジルニ集中シ、将来ブラジルニ投資セル国民ハ繁栄シ、投資セザル国民ハ衰微スベシト称セラルルモ理ナリ。
近年我国モブラジルニ投資スルノ趨勢ニ向ヒタル際、恰モ一昨年ブラジル国パラー州政府ヨリ、同州有地壱百万町歩ヲ提供シテ日本植民地ヲ建設センコトヲ我政府ニ慫慂シ来レリ。
是ニ於テカ政府ハ之ヲ民間ニ於テ経営セシメン為メ、先ヅ各種専門家ヨリ成ル調査団ヲ組織シ、経済・農林・土木・衛生・植民等各専門的ニ実地踏査ヲ為サシメタル結果、アマゾン河流域ハ気候風土共ニ日本人ノ移住ニ適シ、又彼地ニ於テ邦人企業ノ将来甚ダ有望ナルコトノ確信ヲ得タリ、依テ日本国民ノ海外発展ヲ図リ、世界経済戦ノ基礎ヲ確立スル為メ、本会社ノ設立ヲ発起スルニ至リタル所以ナリ。
本社ハブラジル国パラー州内ニ大植民地ヲ建設スル目的ニテ、先ヅパラー州政府ヨリ無償提供ニ係ルアカラ地方ノ土地壱百万町歩ヲ開墾シ邦人拾五万人ヲ移住セシメ、更ニ進ンデ伯国ノ富源ヲ獲得シ、順次事業ヲ拡張スル計画ナリ。
本社ノ事業ハ土地ヲ基礎トシ、植民ヲ移シ、農産ヲ主トシ、更ニ之ヲ加工精製シ、尚有利ナル附帯事業ヲ兼営スルモノニシテ、第一期事業ハ資本金壱千万円ニテ拾年間ニ邦人壱万戸約四万人ヲ移住セシメ、其ノ開拓地ヨリ生産スル農産物ハ本社直営地(分譲地ヲ含マズ)ノミニテモ年額玄米拾万八千石、繰棉弐万弐千四百四拾参俵(各五百封度入)及煙草壱百八万貫、此価額総計八百九拾四万参千七百五拾円ヲ産シ、投資ニ対スル収益ハ目論見書ニ示スガ如ク相当ノ配当ヲ為シ、第拾年度末ニ於ケル繰越金ハ参百五拾六万八千参百拾六円ニシテ、資産ハ払込株金壱千万円ニ対シ壱千八百六拾九万四千参百拾四円ニ達スル予想ナリ。
本社ハ最モ堅実ナル方法ニ依リ事業ヲ経営スルノミナラズ、事業ノ性質亦頗ル安全確実ニシテ、前途ノ発展有望且無限ナルコト他ニ其ノ比ヲ見ザル所ナリ。
希クハ我国ノ前途ヲ洞察シ、国家的見地ヨリ本事業ノ趣旨ニ賛同セラレ、奮ツテ本社ノ成立ニ協力セラレン事ヲ。
  昭和二年九月 日
                        発起人


南米拓殖株式会社創立ニ関スル件(DK550125k-0002)
第55巻 p.642-643 ページ画像

南米拓殖株式会社創立ニ関スル件     (渋沢子爵家所蔵)
   南米拓殖株式会社創立ニ関スル件
一、同会社設立ノ根本目的 年々七十万乃至百万ヲ増加スル我国人口過剰問題及此レニ伴フ食糧問題ヲ解決スルタメ
一、同会社設立ノ大綱 南米ぶらじる国ぱらー州政府ヨリ無償提供ニ係ルあから地方ノ土地壱百万町歩ヲ開墾シ、邦人拾五万人ヲ移住セシメントス
一、会社ノ資本及払込 資本金壱千万円ニシテ、創立ト同時ニ金五百万円ヲ、事業着手後第五年目ニ金弐百五拾万円ヲ、第七年目
 - 第55巻 p.643 -ページ画像 
ニ残高弐百五拾万円ヲ払込ム事
一、事業ノ大要 提供土地百万町ノ内五十万町ヲ開墾利用見込地トナシ、其ノ約三割拾五万町ハ会社直営地トシ、分益法ニヨリ経営シ、約七割参拾五万町ハ分譲地トシテ個人又ハ団体ノ植民ニ分譲ス
   直営地ニ於テハ主トシテ煙草・米・棉花等ヲ栽培ス
一、収支ノ大要 第一年・第二年ハ欠損ナレトモ、第三年ヨリ利益勘定トナリ、第四年ニ六分、第五年ニ八分、第六年ニ一割、第七年以後一割五分ノ配当ヲナシ得ル見込
   (栄一鉛筆)
   三月廿七日午後記載ノ事
   本問題ニ付テハ昭和三年三月廿六日午後三時ヨリ外務大臣官邸ニ於テ、東京・大阪・名古屋・横浜等各地ノ実業家約六十名許リヲ田中兼摂外務大臣ヨリ茶会ニ招集セラレ、席上南米ノ実況ヲ其関係者ヨリ説明セシメ、且来会者ニ於テ充分ノ調査研究ノ後一事業トシテ、組織セラレン事ヲ慫慂シ就テ来会者ノ企望アリテ、余ニ於テ委員設立ノ一案ヲ提出シ、一同ノ賛成アリテ拾二名ノ委員ヲ撰定シ、可成早ク委員会ヲ開キ具体案ヲ調成スヘキ事ニ協議セリ
   ぶらじる国ニ就キテ
一、面積   我国ノ凡ソ二十二倍
一、人口   約四千万
一、産物   珈琲・ココア・護謨・米・棉花・砂糖・煙草・家畜・鉄・銅・ニツケル・水晶等
一、本会社ノ事業地 同国ノ東北ニテあまぞん河ノ流域ニシテ、あから河ノ沿岸
(欄外別筆)
  当日指名セラレタル委員左ノ如シ
  野村徳七   木村久寿弥太  根津嘉一郎
  湯川寛吉   白仁武     門野重九郎
  神野金之助  結城豊太郎   今井五介
  団琢磨    堀啓二郎    橋爪捨三郎
                  以上十二名


集会日時通知表 昭和三年(DK550125k-0003)
第55巻 p.643 ページ画像

集会日時通知表  昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
三月廿六日 月 午後三時 田中外相ヨリ御案内(外相官邸)


報知新聞 第一八三八六号 昭和三年三月二七日 アマゾン河流域の企業計画大綱成る 政治的意義を全然排除し極力経済的に遂行;実現のため準備委員十二名 渋沢子爵から指名;財的援助は与へない方針 田中首相あいさつ(DK550125k-0004)
第55巻 p.643-645 ページ画像

報知新聞  第一八三八六号 昭和三年三月二七日
    アマゾン河流域の企業計画大綱成る
      政治的意義を全然排除し極力経済的に遂行
ブラジル国アマゾン河流域の企業計画に関して開かれた政府・当業者間協議会の内客は大体別項の通りであるが、出席者間の意見交換の結果、企業収益の見込ありとの結論に到達し、能ふ限り速かに本計画の実現を計ることに意見がまとまり、大要左の如き大綱案が成立した
 - 第55巻 p.644 -ページ画像 
 一、事業の永久的発展を策する為め、本企業に政治的意義を加味せず、あくまでも人口食糧調節の経済的意味で終始すること
 一、耕地としてはアカラ地方の六十万町歩を選択すること
 一、企業は棉花の栽培のみに限らず、米、煙草、カヽオ、オイル・パーム等をも兼ねること
 一、事業着手の上は十年間に最大限一万家族の移民を移住せしめること
 一、企業は鐘ケ淵紡績会社より独立せる株式会社組織となし、東西各方面からその資金を募集すること
    実現のため準備委員十二名
      渋沢子爵から指名
ブラジル国アマゾン河流域における企業計画に関し、田中首相は廿六日午後三時より外相官邸に、東京・大阪・名古屋各方面の実業家を招致し
 協議会を開いた、出席者は
 渋沢子・井上準之助・団琢磨・門野重九郎・藤山雷太・末延道成・根津嘉一郎・大橋新太郎・山下亀三郎・野村徳七・野崎広太の諸氏二十九名
政府側よりは田中首相、森・出淵両次官を初め、関係各当局出席し、
 田中首相の あいさつに次いで、田付前ブラジル大使はアマゾン方面の経済的情勢並びに本問題今日までの経過等を詳述し、終つて鐘ケ淵紡績の福原八郎氏はアマゾン地方における産業状況並びに土地・気候・衛生問題等を詳細に述べ、次いで各自の間に意見の交換をなした後、渋沢子の指名により左記十二名を
 準備委員に 推挙し、これが実現に関する具体的研究及び準備を進めることになつた
 (東京方面)団琢磨・木村久寿弥太・結城豊太郎・白仁武・根津嘉一郎・今井五介・門野重九郎・橋爪捨三郎
 (大坂方面)野村徳七・湯川寛吉・堀啓二郎
 (名古屋方面)神野金之助
尚幹事には福原八郎氏が推された
    財的援助は与へない方針
      田中首相あいさつ
二十六日のブラジル開発に関する外相官邸懇談会における、田中兼摂外相のあいさつは次の如し
 大正十四年アマゾン流域の河口地方の一州たるパラ州統領より当時の我在伯田付大使を経て、日本人にして同地方の開こんに当るものがあるならば、同統領はその官有地を無償にて提供すべしとの提議があつたので、我政府においても一応実状踏査の必要を認めたが、その後鐘ケ淵紡績会社の福原八郎君等が調査団を組織して、大正十五年五月パラ州地方に出張し、各方面を
 探索の結果 約六十五万町歩に当る官有地を発見し、同州統領よりは日本資本家において資本と労力とを提供せば、がい土地を無償提供すべしとの好意ある提案を受けて帰朝致したのであります、外務
 - 第55巻 p.645 -ページ画像 
省としては、この種の国際的企業が我民間において企図せられることは、最も歓迎すべきことであり、かつパラ州統領の熱心にして好意ある提案に応ずることは、同国に対する我好意の表章ともなる次第であるから、たゞに同州方面に
 我が移民の 新天地を開拓するといふのみならず、既にブラジル国の他地方に移住して居る我六万の同胞の為めにも好影響を与ふる極めて有意義なる計画と考へ、熱心その計画の進行を希望して居つたのであります、調査団においてもまた既に事業計画の大体の目論見を立てゝ居つたので、その進行に先ち最初調査団派遣当時よりの関係もあるから、私より一応諸君に御紹介して置きたいと考へ、今日ようやく
 その機会を 得たのであります、たゞ外務省としては、前に述べた趣旨により、この計画が若し出来ることならば、規模の大小にかゝはらず、我資本家の手で具体化することを希望し、計画の性質上あくまで民間の企業として成立せしめ、政府より利益保障その他財的に援助するといふやうなことは避けたいと考へて居るから、この点は予め御含み置きを願ひます


中外商業新報 第一五一二六号 昭和三年三月二七日 ブラジル開発に実業家と懇談 財界巨頭廿七氏を招待して外相官邸の茶話会(DK550125k-0005)
第55巻 p.645-646 ページ画像

中外商業新報  第一五一二六号 昭和三年三月二七日
  ブラジル開発に
    実業家と懇談
      財界巨頭廿七氏を招待して
        外相官邸の茶話会
田中外相は南米ブラジル国アマゾン河流域における
 棉花栽培事業及び移植事業につき、民間実業家に斡旋の労をとるため、廿六日午後三時半から、外相官邸に東西の実業家を招待して茶話会を催した、出席者は
 実業家側=渋沢栄一・団琢磨・木村久寿弥太・井上準之助・白仁武・藤山雷太・大橋新太郎・根津嘉一郎・山下亀三郎・結城豊太郎・今井五介・門野重九郎・野崎広太・竹内悌二郎・鈴木恒三郎・末延道成・持出巽・橋爪捨三郎・野村徳七・竜江義信・湯河寛吉・室田義文・堀啓次郎・神野金之助・鎌田勝太郎・村井保固・加藤晴比古
 政府側=田中外相・出淵外務次官・秋田逓信次官その他関係官卅七氏で、先づ
田中外相より
○中略
と挨拶し、次でこの
 事業計画 に最も早く手を付けた前ブラジル大使田付七太氏より、アマゾン河流域における移殖民事業その他についての紹介があり、更にパラ州へ調査隊長として出張した福原八郎氏は
 今日までアマゾン流域の開墾されなかつた原因は、主として同地方にマラリヤ病が多いと伝へられて居る、これはマゼラマモに鉄道敷設に際し、多数のマラリヤ病による死人を出したことに基因してゐるが、マラリヤ病は場所の選択さへ適当であれば充分に防ぎ得る、
 - 第55巻 p.646 -ページ画像 
次は大森林が多いため伐採焼却等の手数を要し、直ちに開墾が出来なかつたゝめ、平野の多い地方のみが開墾されたのによる、またブラジル国民は怠惰なため、奴隷廃止以来開墾に従事しなかつた、気候の関係、労銀の関係も幾分あるが、気候は土地の選択さへよろしければ、日本人の移住に適せぬことはない
と述べ、これに対し実業家を代表して
 渋沢子爵は
 今日まで政府の実業家招待は、多くは実業家に金を出させる相談であつた、然るに今日はこれと反対に、ブラジルにおける棉花栽培、移殖民事業といふやうな結構な事業紹介に預つたことは喜ばしいことである、この事業は今後相当の研究を要するものと考へるから、私は事業の調査のため、委員を挙げて研究を進め度いと思ふ
と述べ、委員に
○中略
の十二氏を指名し、来会者一同これに賛成して五時半散会した


南米拓殖株式会社創立ニ関スル件(DK550125k-0006)
第55巻 p.646-647 ページ画像

南米拓殖株式会社創立ニ関スル件      (渋沢子爵家所蔵)
  昭和三年四月二日
                     福原八郎(印)
    渋沢子爵閣下
拝啓
益御清祥之段奉賀候、陳者先般田付大使同伴拝趨ノ節ハ種々御厚情ニ預リ奉拝謝候、来ル四月九日第一回委員会開催ニ就テハ御差図ノ通リ左記委員ニ別紙写ノ通リ通知状発送致置候間、左様御諒承被下度猶出欠ノ葉書ヲ同封致置候ニ付キ、貴事務所ヘ返事有之候事ト存候間出欠総数丈ケ電話ニテ御一報願上候
右御礼旁得貴意候 敬具
(別筆書入レ、太丸・太字ハ朱書)
○印ハ来会者、欠印ハ不来者
 ○団琢麿氏《(団琢磨)》 ○結城豊太郎氏 (別筆書入レ) 六時ニハ先約ノ為メ退席可仕候
 ○木村久寿弥太氏  ○門野重九郎氏
 ○白仁武氏     ○今井五介氏
 ○神野金之助氏   ○堀啓次郎氏 (別筆書入レ) 代村田省蔵氏
 ○湯川寛吉氏    ○野村徳七氏 (別筆書入レ) 八時ニ帰阪ノ予定ニ付中坐失礼可仕候
 ○根津嘉一郎氏   ○橋爪捨三郎氏
追テ○田付大使、欠武富通商局長、○大橋通三課長ニモ案内致置候間御含置被下度候
  (別筆書入レ)
  以上ノ外御主人側トシテ
    ○渋沢子爵  ○福原八郎氏等
  ○右人名表中○欠印其他書入レ等ハ渋沢事務所ニ於テ記入セシモノ。
(別紙)
(朱印)
(写)
拝啓
益御清祥之段奉賀候、陳者先般外務大臣官邸ニ於ケルブラヂル茶話会開催ノ節ハ、大臣ノ御命ニヨリ年長ノ故ヲ以テ小生ヨリ委員指名ノ栄
 - 第55巻 p.647 -ページ画像 
ヲ得候処、今回委員会開催ニ際シ、委員中ヨリ最初委員指名ノ関係ニヨリ小生ノ名ヲ以テ御案内状差上候様御希望ノ向有之候ニ付キ、来ル四月九日午后五時丸ノ内工業倶楽部ニ於テ、第一回委員会ヲ開キ御協議申上度候間、御繁忙中恐縮ニ存候得共万障御繰合セ御出席相願度、此段御通知申上候 敬具
 猶当日ハアマゾンニ関スル調査研究資料ヲ多数用意致シ、一層詳細ニ御説明申上ゲ、各位ヨリノ御諮問ニモ御答スル様準備為致置候間御含置被下度候
  昭和三年四月二日
                      渋沢栄一
          殿
  追テ当日ハ粗餐用意致置候ニ付キ為念申添候


集会日時通知表 昭和三年(DK550125k-0007)
第55巻 p.647 ページ画像

集会日時通知表  昭和三年        (渋沢子爵家所蔵)
四月九日 月 午後五時 アマゾン河流域開拓ノ件(日本工業クラブ)


竜門雑誌 第四七六号・第一〇九頁昭和三年五月 青淵先生動静大要(DK550125k-0008)
第55巻 p.647 ページ画像

竜門雑誌  第四七六号・第一〇九頁昭和三年五月
    青淵先生動静大要
      四月中
九日 アマゾン河流域開拓の件(日本工業倶楽部)


中外商業新報 第一五一四〇号昭和三年四月一〇日 南米拓殖会社の創立準備相談 趣旨には何れも賛成だが 株式引受けの態度を保留(DK550125k-0009)
第55巻 p.647-648 ページ画像

中外商業新報  第一五一四〇号昭和三年四月一〇日
  南米拓殖会社の
    創立準備相談
      趣旨には何れも賛成だが
        株式引受けの態度を保留
南米拓殖会社設立に関し、過般外相官邸において田中首相から
 懇談を受け、その出席者中より準備委員に選ばれた東西有力実業家は、渋沢子爵の主催により九日午後五時丸の内日本工業クラブに会合した、出席者は渋沢子を始め
 団琢磨・木村久寿弥太・湯川寛吉・根津嘉一郎・野村徳七・結城豊太郎・門野重九郎・今井五介・白仁武・村田省蔵・田付七太・神野金之助・橋爪捨三郎・福原八郎・大橋忠一
の諸氏で、渋沢子から簡単に挨拶のあつた後、南米拓殖会社創立計画について専ら調査を進めて来た鐘ケ淵紡績重役福原八郎氏から詳細なる報告があり、過般田中首相から、国家的植民事業の見地から会社創立援助方依頼もあつたのだから、当夜の出席者も、会社創立の趣旨には何れも賛成の意を表明した、しかしその会社設立計画には、当夜初めて
 内容を聴取したものもあつた位だつたので、単に趣旨に賛成したゞけで、その株式引受けその他具体的のことについては何等決定せず、今一応主として鐘紡の福原氏の手許で案を練つた上、改めて第二回準備委員会を招集し、資本金並に株式引受け数その他具体案をきめることに申合せ、同六時半散会した、なほ、さきに福原氏の手許で作成さ
 - 第55巻 p.648 -ページ画像 
れた同社の計画案によると、資本金一千万円(半額払込)、創立後三ケ年間は株主配当を無配当とし、四年目より年六分、五年目年八分、六年目一割、七年目後は一割五分を配当し得る計画となつて居るが、当夜出席者の中には、此三年間無配当といふことと、海外移植事業といふ事業そのものにつき、なほ
 危惧の念を抱けるものが少くなく、進んで株式引受けを躊躇せる模様で、当夜の会合では今一応案を練ることゝしたけれど、これは表面の理由で、その実際はこの計画についてこれまで熱心になつてゐた武藤鐘紡社長が、真にどの程度まで株式を引受けるか、先づ鐘紡側の態度をはつきりきめた上、他の準備委員がこれに応じ株式を引受けやうとのことになつたとのことである。右の関係から鐘紡重役の福原・橋爪両氏の内何れかゞ、直に在阪中の武藤氏を訪ね、当夜の経過を詳細報告し、鐘紡側の意向がきまり次第、渋沢子に意を伝へ、その上で第二回準催委員会を開くことにしたのである、従つて当夜の会合結果では会社側創立について多少の難色があつたともいはれると共に、会社が設立されるにしても、その規模は当初の計画よりも幾分縮小されることゝなるかも知れないと伝へられる


南米拓殖株式会社創立ニ関スル件(DK550125k-0010)
第55巻 p.648 ページ画像

南米拓殖株式会社創立ニ関スル件      (渋沢子爵家所蔵)
  昭和三年四月十四日
                    橋爪捨三郎(印)
    渋沢子爵閣下
拝啓
本日ハ御繁忙中種々御配慮ヲ賜リ千万忝ク奉存候、来ル十九日第二回委員会開催ニ就テハ、御差図通リ左記委員諸氏○氏名略ス ニ別紙写ノ通リ通知状発送致置候間御諒承被成下度、猶貴事務所宛回答用葉書ヲ同封致置候ニ付キ、御返事参リ候上ハ、乍御手数出欠ノ総員丈ケ電話ニテ御通知願上候
右御礼旁御依頼申上候 敬具
(別紙)
(朱印)
(写)
拝啓 陳者過日ハ御足労被成下難有奉存候、其節御申合相成候次第ニ基キ、鐘紡側ニ於テハ更ニ協議ヲ遂ゲラレ、其結果ヲ自分迄申出相成候ニ付、此際至急御寄合ヲ願ヒ、拓植会社成立ノ事ニ御協力相願度候ニ就テハ、御多忙中毎々御迷惑ノ御事ト存候得共、来ル十九日(木曜日)午後一時丸之内工業倶楽部ニ於テ、第二回委員会開催ノ事ニ決定致候間、当日ハ万障御差繰リ是非御出席被成下度御願申上候、万一御出席相成難キ場合モ有之候ハヾ、乍御手数御代理ノ方御出席被下候様御配慮被成下度候 敬具
  昭和三年四月十四日
                       渋沢栄一
           殿
  追テ当日ハ午餐ノ用意致置候間十二時迄ニ御来車被成下度、為念申添候

 - 第55巻 p.649 -ページ画像 

集会日時通知表 昭和三年(DK550125k-0011)
第55巻 p.649 ページ画像

集会日時通知表  昭和三年      (渋沢子爵家所蔵)
四月十九日 木 正午 アマゾン河流域開拓問題ノ件(日本工業クラブ)


竜門雑誌 第四七六号・第一〇九頁昭和三年五月 青淵先生動静大要(DK550125k-0012)
第55巻 p.649 ページ画像

竜門雑誌  第四七六号・第一〇九頁昭和三年五月
    青淵先生動静大要
      四月中
十九日 アマゾン河流域開拓の件(日本工業倶楽部)


中外商業新報 第一五一五〇号昭和三年四月二〇日 南米拓殖会社 創立の目鼻つく 資本金千万円四分の一払込とし鐘紡が五万株引受け(DK550125k-0013)
第55巻 p.649 ページ画像

中外商業新報  第一五一五〇号昭和三年四月二〇日
  南米拓殖会社
    創立の目鼻つく
      資本金千万円四分の一払込とし
        鐘紡が五万株引受け
田中首相からの勧説に係る南米拓殖会社創立に関する第二回準備委員会は、十九日正午日本工業クラブで開催、渋沢子外各委員出席、既報の通り第一回会合において主唱者である鐘紡側が、同社株式に対しどの程度の引受けをなすか、鐘紡側の態度を聞いた上できめることゝなつてをり、この程鐘紡側の意向を渋沢子の手許まで報告があつたのでそれに基いて会社資本金、株式引受けその他の
 条件を協議した、その結果、鐘紡側では、同事業が国家的重大使命を有するもので、真の国際的事業であるから、資本金も当初の計画通り一千万円程度としたいとの希望を有し、株式は総株数二十万株の内鐘紡会社自身で五万株、また鐘紡側重役で一千株づゝ一万四千株、都合六万四千株を引受け、残り十三万四千株中、各委員一千株づゝ、また過般外相官邸に招かれた東西実業家も一千株づゝ引受けて貰ふこと並に三井・三菱・安田・大倉・住友・古河の各財閥には特に多く引受け方を依頼することになり、大体
 諒解を得た、それで同社は当初の計画案通り資本金一千万円とするが、その第一回払込は最初の半額五百万円払込みを四分の一の二百五十万円払込みとして、やゝ規模を縮小し、また第二回払込みは事業の成績を見た上、確実性がついたならば徴収することの条件をつけ、また一部公募を行ふことゝした、そして当日のところ総株数二十万株の内、鐘紡側の持株を入れて約十二・三万株は、ほゞ引受け内諾を得たので、会社設立の
 見込みが立つに至つた訳である、なほ鐘紡会社では前記の通り同株式五万株を引受け内諾を与へたので、至急臨時総会を招集し、株主の承諾を求めるはずで、大体来月上旬総会を開く予定であると


東京日日新聞 第一八五五二号昭和三年四月二〇日 南米拓殖会社の株式割当ほゞ決る 第二回創立準備委員会(DK550125k-0014)
第55巻 p.649-650 ページ画像

東京日日新聞  第一八五五二号昭和三年四月二〇日
    南米拓殖会社の
      株式割当ほゞ決る
        第二回創立準備委員会
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南米拓殖会社の第二回創立準備委員会は十九日午後一時より工業クラブで開催、渋沢子はじめ委員全部出席、鐘紡側から練直した案を示し資本金一千万円、株数廿万株の割当てを大体左の如く決定した
 鐘紡にて総株数の四分の一の五万株、鐘紡重役が一千株づゝ合計一万四千株、委員十二名が千株づゝ一万二千株、三井・三菱・安田・住友・古河・大倉等東西有力実業家が相当株
を持つことゝなり、これで総計六百万円、十二万株の引受けは見込みがつき、更にさきの首相官邸における会合に列席した実業家に対しても、渋沢子の手をわづらはして、千株づゝ引受けてもらふこととし、かくて七・八百万円の引受を終つて、残額を一般に公募することゝした、もしこの公募によつても一千万に充たぬ場合は、引受けられたゞけを資本金として事業に着手する筈であると
 なほ第一回の払込みは四分一とし、第二回は三年後に徴収することとし、第三回以後の払込徴収はよほど必要の場合を除いて、既払込五百万円に対し相当の配当あるまで徴収せぬ方針であると、なほまた鐘紡が五万株を引受くるについては、来月上旬臨時株主総会を開きこれが承認を求むることとなつた


大阪時事新報 第八四二九号 昭和三年四月二一日 南米ブラジル拓殖会社 計画説明(DK550125k-0015)
第55巻 p.650 ページ画像

大阪時事新報  第八四二九号 昭和三年四月二一日
    南米ブラジル
        拓殖会社
        計画説明
南米ブラジル拓殖会社創立に関する過般の第一回調査委員会の結果、鐘紡が中心となつて計画を進むることになつて居たので、其後幹事福原八郎・委員橋爪捨三郎両氏が之を武藤社長に諮り、其成案を此計画の顧問官たる渋沢子爵に報告した、仍つて此第二回委員会を十九日午後一時から工業倶楽部に開き、渋沢子を始め木村・湯川・結城・団其他委員全部出席、先づ橋爪・福原両氏等より具体案の説明を為し諒解を求めた結果、大要左の如く決定した
一、資本金は一千万円とし、払込は之を四回に分かち、第一回払込は本年六月一杯に完了し、之を以て直に移民を送り、第二回払込は爾後三年目に行ふが、第三回以後の払込は前二回払込額(五百万円)に依り相当の配当を得るまで行はざること
一、開拓地区はアマゾン河流域パラ州百万町歩に亘り、主として護謨・煙草・棉等の栽培を為し、交通はアマゾン河の舟運をもつてす
一、発起人は今後渋沢子等と協議の上決定す、資本の引受に就ては目下の処鐘紡にて二十五万円《(二百五十)》、鐘紡の重役により七十万円は確定し、鐘紡の引受けに就ては近々臨時総会を開き株主の承認を求むる筈である、尚此外に三井・三菱・住友等の引受額に就ては略内定せる模様であると、各委員も一千株を引受け、当日の会合に於て既に七百万円の出資額が決定した、而して残りの資本金に就ては、渋沢子の斡旋に依り過日首相官邸に招待された実業家に求むる他、公募を為す筈

 - 第55巻 p.651 -ページ画像 

(増田明六)日誌 昭和三年(DK550125k-0016)
第55巻 p.651 ページ画像

(増田明六)日誌  昭和三年       (増田正純氏所蔵)
五月八日 火 晴                 出勤
○上略
福原八郎氏来訪、ブラジル、アマソン流域開墾会社設立状況の報告があつて、子爵に取次を請うとの事であつた
○下略


南米拓殖株式会社創立総会報告書 第三―四頁 昭和三年八月刊(DK550125k-0017)
第55巻 p.651 ページ画像

南米拓殖株式会社創立総会報告書  第三―四頁 昭和三年八月刊
    当会社創立由来
伯国パラー州統領デイオニジオ・ベンデス氏ハ州内未墾ノ官有地ヲ日本人ノ手ニ依リ開拓セントノ希望アリ、遂ニ去ル大正十四年五月二十八日同国駐在日本帝国大使田付七太氏迄書簡ヲ以テ、日本人ニ於テ開墾事業ヲ企ツルモノアラバ、州有地百万町歩マデヲ無償提供スベキコトヲ申出テラレ、斡旋方ヲ依頼セラレタルニ依リ、田付大使ハ直チニ之ヲ幣原外務大臣ヘ移牒セラレタリ、然ルニ政府当局ニ於テハ、右提案ハ我国ノ現状ヨリ観ルモ、亦国家経済ノ上ヨリ考フルモ、実ニ天来ノ福音ニシテ忽諸ニ附スベカラザルモノナリト雖モ、其提供地ハ果シテ日本人ノ移住ニ適スルヤ否ヤ、又開拓条件ニ欠クル処ナキヤ否ヤ等ハ、充分之レヲ調査シタル上ニ非ザレバ容易ニ決シ難ク、軽々敷応諾シ能ハザル問題ナルヲ以テ、調査団ヲ送ラントセルモ、其費用全額支出ニ苦ミ、鐘淵紡績株式会社ノ援助ヲ求メラレタルニ依リ、株主総会ノ承認ヲ得テ伯国提供地調査費不足金八万円也ヲ支出シ、調査団ヲ送ル事トナリ、政府ニ於テハ医学・土木・山林・農業等ノ各専門家七名ヲ選定セラレ、政府ノ依頼ニ依リ鐘淵紡績株式会社取締役福原八郎氏団長トシテ之ニ加ハリ、一行八名ハ大正十五年三月二十日横浜出帆ノ大洋丸ニ便乗シ、同年五月十九日伯国パラー州首府ベレン市ニ到着シ滞在約半歳、各方面ニ渉リ実地踏査ノ結果ハ、風土・気候等日本人ノ移住ニ適シ、土壌肥沃資源豊富ニシテ、真ニ理想ニ近キ植民建設地ナリトノ確信ヲ得タルニヨリ、福原団長ハ帰来直チニ其旨ヲ政府ニ報告シ、政府当局ニ於テ右調査ノ結果ヲ広ク国内有力者ニ開示シ、新事業会社ノ成立ヲ慫慂セラレンコトヲ屡々進言セシモ、当時府県会議員ノ選挙ニ次イデ衆議院ノ解散アリ、其選挙等ノ為メ機会ヲ失シ、漸ク本年三月二十六日ヲ以テ、東西ノ有力者六十余名ヲ外務大臣官邸ニ招待シ、田中首相ヨリ懇談セラレタル結果、渋沢子爵ヨリ十二名ノ進行委員ヲ推薦セラルルコトトナリ、其委員会ヲ催スコト前後二回、遂ニ本事業ハ、当初ヨリ関係浅カラズ、而カモ充分研究ヲ遂ケラレタル鐘淵紡績株式会社ノ人々ガ其創立ニ当ラレ、各委員ハ之ヲ賛成スルコトトセバ本事業ノ計画進捗上最モ得策ナルベシトノ事ニ決定シタルニ付、鐘淵紡績会社側ニ於テ発起人ヲ定メ、本会社ヲ創立スルニ至リタルモノナリ


鐘紡東京本店史 第七八三―七八七頁(DK550125k-0018)
第55巻 p.651-652 ページ画像

鐘紡東京本店史  第七八三―七八七頁
             (鐘淵紡績株式会社東京工場所蔵)
 ○第五編 緊縮時代
 - 第55巻 p.652 -ページ画像 
    第参章 南米拓殖会社の創立と武藤氏勇退
      一 南米拓殖会社創立
○中略
是に於て発起人一同は四月十九日○昭和三年を以て定款を作成し、資本の総額を壱千万円、壱株の金額を金五拾円とし、株式の総数を弐拾万株に分ち、発起人等は其弐万株を引受け、残余の拾七万株に対し縁故募集を試むる傍ら一般募集に着手し、更に残余の壱万株を公募したり、然るに此事業は一面国家的性質を帯ぶると共に、永年の投資物として頗る有利なるを以て意外に世上の共鳴を博し、応募の状況甚だ旺盛にして、六月十二日募集公告を発表したる以来僅かに両日にして弐拾八倍の申込を見るに至れるを以つて、六月十四日限りこれが募集を締切りたり。
○中略
 依て七月十一日新会社創立総会開催の通知書を発し、昭和三年八月十一日午前十時より、日本橋区浜町日本橋倶楽部に於て創立総会を開催し、玆に南米拓殖株式会社の誕生を見るに至れり、爾来同社の本社はこれを当店の構内に置きたり、役員氏名左の如し。
    取締役社長 福原八郎氏
    取締役 有馬頼寧氏    高津久右衛門氏
        鈴木三郎助氏   堀朋近氏
        野崎広太氏    前山久吉氏
        中上川三郎治氏  千葉三郎氏
    監査役 神野金之助氏   染谷寛治氏
        室田義文氏    八木幸吉氏
○下略