デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

6章 対外事業
3節 其他ノ外国
8款 日本移民協会
■綱文

第55巻 p.653-656(DK550126k) ページ画像

大正3年2月11日(1914年)

是日、当協会設立セラレ、栄一其会員トナル。


■資料

青淵先生職任年表(未定稿) 昭和六年十二月調 竜門社編 竜門雑誌第五一九号別刷・第一七頁 昭和六年一二月刊(DK550126k-0001)
第55巻 p.653 ページ画像

青淵先生職任年表(未定稿)昭和六年十二月調 竜門社編
             竜門雑誌第五一九号別刷・第一七頁
             昭和六年一二月刊
    大正年代
  年 月
 三 二 ―社団法人日本移民協会名誉会員―昭和、六、一一。


日本移民協会報告第一(DK550126k-0002)
第55巻 p.653-655 ページ画像

日本移民協会報告第一          (日本移民協会所蔵)
    日本移民協会設立趣旨
日本移民協会設立の趣旨は、本国を離れて他に移住する国民を自然の成行に放任せず、一には移住地に於て安穏に生活するを得せしめ、二には国民の対外思想を喚起し、三には之に依りて通商貿易の発展を期するに在り、我国の人口は年々六十万を増殖すと雖、十四万七千六百六十方里の国土は終に之を生息せしむるに堪へず、我国の人口は一方哩平均三百五十二人にして其稠密なること世界列国の第四位に居る、即ち第一は白耳義の六百五十三人、第二は和蘭の四百五十九人、第三は英国の三百七十六人にして、之に次ぐものは実に我国たり、白耳義・和蘭・英吉利の諸国は鉱業・製造業・商業の隆盛なる為め斯の如く多数の人口を生息せしめ得ると雖、我国は主として農国にして、其農業は極めて薄利なるを以て、此上人口の増殖に接せば、国民の生活益々困難となり、従つて生存競争を激成し、其極危険思想を発生せしむるは免かるべからざるの数たり
或は曰く、工業発達せば生活問題を緩和するに足らむと、而かも工業の発展は纔に百万内外の工夫を生じたるに過ぎず、剰へ綿の如き、鉄の如き、原料は一に之を外国に仰かざるべからざるを以て、之に依りて年々増殖する人口を調節する能はず、然らば則ち生活問題の緩和は海外移住を措て他に之を求むべからざる也、我国は台湾を領有し、朝鮮を併合し、樺太の南部を恢復し、南満洲を勢力範囲と為したりと雖之が為に台湾に約十万、朝鮮に約二十五万、樺太に約五万、南満洲に約八万五千、総計約五十万人を移住せしめたるに過ぎず、之に外国に移住せる約二十余万の人口を加ふるも、纔に七十万人内外に達するのみ、北海道には百六・七十万人を移住せしめたりと雖、之を別にしては開国以来纔に七十万人の在外者、即ち一年に増殖する人口より稍々多き在外者を見るに過ぎず、在外者の状態斯の如くむば我国は終に立錐の地無きに至らむとす
世界中門戸の開放されたる国土は将に殆ど其跡を絶たむとす、若し門戸悉く閉鎖せられ了らば、遂に年々増殖する我人口を如何せむと欲する、今日に在りては未だ全く閉鎖されざる土地無きに非ず、我国は此
 - 第55巻 p.654 -ページ画像 
閉鎖されざる土地に移住すべき途を開き、又百方努力して門戸閉塞を防止するの法を講じ、以て我国民の移住に便ならしめざるべからず
世界の土地を約五千五百万方哩と見積り、人口を十六億と見積れば、一方哩に三十人を容るゝ割合と為る、此割合に依れば我国の十五万方哩には四百五十万人を容れ得るに過ぎず、又五千二百万の我人口を容るゝには百七十三万方哩、即ち約十一倍の土地を要す、造物者は我国に向つて這般の土地に拡大すべき権利を附与せるなり
我国民は海外に発展するに非らざれば到底生を保つ能はず、北米合衆国は一方哩二十余人に相当する稀薄の人口を有するに過ぎず、加之其二十余人すら、外国の移住者を加ふるに非ざれば之を維持し能はざる也、然るに米人は国内の利源を開発するのみを以て満足せず、広く世界の利源を開発せむと欲して五洲を睥睨し、近年中央亜細亜の開発に焦慮しつゝあるを聞く、苟も世界列国に対して優勝の地位を占めむと欲せば固より当に斯の如くなるべき也
我国は国内に利源の開発すべきもの殆ど是れある無く、既に開発されたるものも亦極めて薄利にして、其薄利は年を逐ふて益す薄利に傾かむとす、然るに辛じて衣食し得るの薄利に甘むじ、世界の最も利益ある方面に発展せむことを期せずむば、結局劣敗者の地位に陥るべきは炳焉として火を睹るが如し
我国民は夙に海外移住の必要を認め、又移住の希望を有すと雖、樺太は勿論台湾・朝鮮・南満洲は何れも未だ必らずしも有望ならず、又北米合衆国に移住せむと欲すれば忽ち排斥せらるゝを見て、移住の前途を悲観するものありと雖、我国民の活路は海外発展を措て他に之を求むべからずとせば、極力凡ゆる困難と障碍とを排除せざるべからず、而して苟も之を排除せむと欲せば、個人に放任して其功を収め得べきに非ず、左りとて国家自身之に当らば、或国家の内部に日本の国家を形造らむと欲すと為して妨害せらるゝを以て、移民協会の如き官民一致の国民的団体を組織し、以て其事に当らざるべからず
或は以為らく、自国の殖民地に非ずむば移殖民の成功を望むべからずと、然れども必ずしも然らず、自国の殖民地と雖移殖民に適せざるあり、伊太利並に支那は殖民地無き殖民国と称せらる、而かも両国共に五百万内外の移殖民を有し、其成績頗る良好にして、伊太利は之が為に人口を調節し、経済を調節し、財政を調節し、現に外国の羨望する所たり、○中略
泰西の学者往々殖民国と非殖民国とを別ちて国家の盛衰隆汚を判別し其将来を予想す、而して従来葡萄牙・西班牙・和蘭・仏蘭西・英吉利の五国を殖民国と認めたりと雖、其後西班牙は忽焉として其跡を絶ち今や漸く北米合衆国と我国との其舞台に現はれたるを認むるに至れり我国にして苟も殖民国として其勢力を発展せむと欲せば、現在の在外国民の権利利益を擁護し、一般国民の対外思想を喚起して益々移民を多からしめ、以て世界に於ける最大利益を獲得するの法を講じ、之と同時に国内の産業を発達せしめ、以て通商貿易を隆盛ならしむるの計画を確立せざるべからず、是れ移民協会設立の必要なる所以なり、英国には王立殖民協会あり、独逸には皇族を戴て総裁と為せる植民協会
 - 第55巻 p.655 -ページ画像 
あり、伊太利にはミラノ移民後援会を始め幾多の移民協会ありて、移民を後援しつゝあり、然るに我国に於て未だ此種の団体の存せざるは殖民国の班に入りたる国家としては確に欠点と認めざるを得ず、故に玆に日本移民協会を設立し、以て海外発展に貢献し、世界の雄国たる実を完うせむと欲す、是れ日本移民協会を設立する趣旨の要点たり、請ふ国家の将来を熟慮し、此挙に賛せられむことを
  大正三年二月十一日        日本移民協会発起人


青淵先生関係会社調 雨夜譚会編 昭和三年五月八日(DK550126k-0003)
第55巻 p.655-656 ページ画像

青淵先生関係会社調 雨夜譚会編  昭和三年五月八日
                     (渋沢子爵家所蔵)
    日本移民協会
      渋沢子爵と日本移民協会(協会幹事 中村壮太郎氏談)
日本移民協会は大正三年二月十一日に京橋区西紺屋町地学協会で創立総会を挙げました。其頃日米問題が次第に八釜敷なつて、鈴木梅四郎さん・黒板勝美さん、それから商業会議所会頭の中野武営さん等が大正二年頃から其対策を企てになつたのが此会の発端であります。だから日本移民協会の起りと云ふものは、主として北米移民問題が動機となつて居るのです。創立総会の席上其会頭の人選を協議した結果、当時の大隈伯爵に成つて戴く事に決定したので、二月十三日阪元盛徳さんと中村弼(之は私の義兄で中村進午氏の兄でございます)の両氏が早稲田のお邸に推薦状を携へて伯爵を訪れました。そして御承諾を得て会頭に御就任を願つた訳であります。渋沢子爵は大隈伯爵とは大変御懇意の間柄であられましたし、又中野武営さんとも浅からぬ御親交があつたと承つて居ります。加之らず、我国の北米移民問題に就ては深甚の御考慮と熱心な御努力をなさつて居られましたから、協会の事に関しては大変御援助下さいました。子爵は協会の名誉会員と云ふ外形式上の役員にお成りではございませんでしたが、協会の種々な問題がある時は其都度御尽力をお願した次第であります。殊に中野さんと子爵とは協会に対しては異心同体と云つた関係がありまして、中野さんは協会に対して子爵の代理もお勤めになりました。然し中野さんも御多忙の御体であり又可成の御年輩でありましたから、中野さんは添田寿一さんに一切を託して協会の事に当つて貰はれたのであります。そこで添田さんが副会頭として、大隈さんの下で協会万事の取扱をなされる事となつた次第であります。渋沢子爵は大正五年の一月に日米関係委員会を組織なされて、其後は専ら関係委員会の事に専念されましたが、日米問題に対しては、日本移民協会も日米関係委員会も日本の為を図る事に二つあるべき筈がないのでありますから、問題が起つて米国に派遣員を出す時も、両会を代表して行つて戴いた事もございます。大隈会頭が大正十一年一月に歿せられた時、渋沢子爵に会頭になつて戴き度いとお願しましたけれども、子爵はお断りになつて『自分が成らなくとも、添田君が居るから差支はあるまい』との事でございました。そんな事で現在は会頭はございません。子爵が御尽力下さつた事に就ては、大正十一年頃移民問題の解決の為め政府に一つの機関を置いて戴く事が必要だと云ふので、当時加藤友三郎内閣で水野錬
 - 第55巻 p.656 -ページ画像 
太郎さんが内務大臣だつたのですが、其話が協会の総会に於て定まると、直ちに其足で水野さんを訪問されました。それは政府に労働院設置の建言でありましたが、後に内務省社会局が出来ました。尚ほ協会に於て不定期に催した講演会にも四・五度御出席になつて御講演下さいました。(竜門雑誌三三一号三七頁、三三五号三五頁参照)一度は大正十年頃一ツ橋の商科大学講堂に於て講演会を催した時、私は子爵に欧洲大戦の戦債棒引論を申上げて、先づ日本より之を主唱する様に子爵に之が御講演を願ひましたが、斯んな説を子爵の口から為される事は其影響する処が重大であるとの反対意見が出まして、子爵も斯んな事に触れずに御講演なさつた事があります。其時阪谷芳郎男爵・中島信虎さんの御演説もありました。此講演会に於て子爵が演壇に昇られる時、偶然頭が黒板の角にぶつかつて、階段から転び落ちられました。一同大変驚いて、私は直様子爵を抱き起しましたが、其時私は子爵の御体が非常に重かつた事を今でも記憶致して居ります。何でも廿貫かあるとの事でした。
協会の事業の中、主なるもの一として横浜講習所の設立があります。之には相談役の木内重四郎さんが御骨折下さいました。


加藤壮太郎談話筆記(DK550126k-0004)
第55巻 p.656 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。