デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

2部 実業・経済

8章 政府諸会
1節 諮問会議
2款 パナマ太平洋万国博覧会臨時博覧会事務局
■綱文

第56巻 p.526-536(DK560122k) ページ画像

大正3年6月23日(1914年)

是ヨリ先、政府ハ、アメリカ合衆国政府ノ要請ニ応ジ、パナマ太平洋万国博覧会ニ参同スルコトヲ決定シ、是年五月、臨時博覧会事務局ヲ設置ス。是日栄一、同事務局評議員ヲ仰付ケラル。爾後栄一、桑博観覧協会ノ名誉賛助ニ就任スル等、右博覧会ノタメ種々尽力シ、四年十月二十三日、博覧会観覧ヲ兼ネ渡米ノ途ニ就ク。


■資料

巴奈馬太平洋万国博覧会参同事務報告 上 第八五―一二〇頁 刊(DK560122k-0001)
第56巻 p.526-528 ページ画像

巴奈馬太平洋万国博覧会参同事務報告 上
                       第八五―一二〇頁 刊
  第二編
    第一章 本邦政府参同ノ顛末
      第一節 本邦政府参同決定ニ至リタル迄ノ事情
明治四十五年二月六日北米合衆国国務卿フヰランダー・シー・ノツクスハ、巴奈馬太平洋万国博覧会開設ニ関スル大統領宣言書(謄本)ニ左ノ書翰ヲ添ヘテ之ヲ同国駐箚埴原本邦大使代理ニ送リ、該博覧会ニ対スル帝国政府ノ参同ヲ懇請セリ
○中略
是ニ於テ我政府ハ日米両国間ニ於ケル現在及将来ノ国交上並ニ貿易上之ニ参同スルヲ以テ有利ナリト認メ、明治四十五年四月三十日閣議ヲ経、外務大臣ヲ通シテ同年五月一日本邦駐在米国大使ニ対シ参同承諾ノ通告ヲ為セリ
      第二節 参同事業ノ準備
帝国政府ハ前ニ述フルカ如ク巴奈馬太平洋万国博覧会参同ノコト既ニ決定シタルヲ以テ、予メ該参同事業ノ準備ニ要スル費用金二万千五百六円ヲ第二予備金ヨリ支出シ、巴奈馬太平洋万国博覧会事務嘱託員山脇春樹ヲ準備委員長トシ、農商務省参事官片山義勝及京都高等工芸学校教授武田五一ヲ準備委員ト為シ、参同方針及調査事項ヲ訓示シテ、明治四十五年六月米国派遣ヲ命シ、専ラ参同準備ニ関スル調査交渉ノ任ニ当ラシメタリ
○中略
派遣委員ハ予定ノ調査交渉ヲ了シ、大正元年十月帰朝復命スル所アリタリ、而シテ我政府カ率先参同ヲ通告シ且ツ最先ニ委員ヲ派出シタルハ米国官民ニ多大ノ好感ヲ与ヘ、各般ノ調査交渉ニ尠ナカラサル便宜ヲ収メ、為ニ政府館ノ敷地及陳列館ノ出品地区ノ如キモ他国ニ比シテ頗優勝ノ場所ヲ選定スルコトヲ得タリ、次テ委員帰朝ノ後其復命ニ基キ参同出品ニ関スル計画ヲ定メ、大正二年度ヨリ同五年度ニ至ル四ケ
 - 第56巻 p.527 -ページ画像 
年継続費トシテ百二十万ノ経費予算ヲ編成シ、之ヲ第三十回帝国議会ニ提出シテ其ノ協賛ヲ経タリ、而シテ大正三年五月五日勅令第七十六号ヲ以テ、臨時博覧会事務局官制公布セラルルト共ニ各職員ヲ任命シ玆ニ全ク事務局ノ成立ヲ観ルニ至レリ
    第二章 臨時博覧会事務局
臨時博覧会事務局官制ハ大正三年五月五日勅令第七十六号ヲ以テ左ノ通公布セラレタリ
      臨時博覧会事務局官制
 第一条 臨時博覧会事務局ハ農商務大臣ノ管理ニ属シ、大正四年北亜米利加合衆国「カリフオルニヤ」州「サンフランシスコ」市ニ於テ開設スヘキ、巴奈馬太平洋万国博覧会参同ニ関スル一切ノ事務ヲ掌ル
 第二条 臨時博覧会事務局ニ左ノ職員ヲ置ク
  総裁            一人
  副総裁           一人
  事務官長          一人  勅任
  事務官        専任 二人  奏任
  理事官           若干人
  鑑査官           若干人
  書記         専任 十一人 判任
  技手         専任 三人  判任
 第三条 総裁ハ農商務大臣ヲ以テ之ニ充ツ
  総裁ハ其ノ本官ノ待遇ヲ受ク
  副総裁、理事官及鑑査官ハ官吏又ハ学識経験アル者ノ中ヨリ之ヲ命ス
  副総裁ハ勅任官ノ待遇ヲ受ク、但シ親任官若ハ親任官タリシ者又ハ親任官ノ待遇ヲ受ケ若ハ受ケタル者ハ親任官ノ待遇ヲ受ク
  理事官及鑑査官ハ奏任官ノ待遇ヲ受ク、但シ勅任官若ハ勅任官タリシ者又ハ勅任官ノ待遇ヲ受ケ若ハ受ケタル者ハ勅任官ノ待遇ヲ受ク
 第四条 総裁ハ局務ヲ総判シ所部ノ職員ヲ統督シ判任官以下ノ進退ヲ専行ス
  副総裁ハ総裁ノ命ヲ承ケ臨時博覧会ニ関スル一切ノ事務ヲ総理シ総裁事故アルトキハ其ノ職務ヲ代理ス
  事務官長ハ総裁又ハ副総裁ノ命ヲ承ケ事務ヲ掌理ス
  事務官及理事官ハ上官ノ命ヲ承ケ事務ヲ分掌ス
  鑑査官ハ上官ノ命ヲ承ケ出品鑑査ニ関スル事務ヲ分掌ス
  書記ハ上官ノ指揮ヲ承ケ庶務ニ従事ス
  技手ハ上官ノ指揮ヲ承ケ技術ニ従事ス
 第五条 重要ノ事項ヲ審理調査セシムル為学識又ハ経験アル者ヲ選定シ評議員ヲ置クコトヲ得
 第六条 副総裁・理事官・鑑査官及評議員ハ農商務大臣ノ奏請ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ス
 第七条 総裁ハ諸規則ヲ定メ及地方長官ニ指令又ハ訓令スルコトヲ
 - 第56巻 p.528 -ページ画像 

      附則
 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
次テ同月五日農商務省告示第百三十八号ヲ以テ該事務局ヲ農商務省内ニ置ク旨ヲ告示シ、同月十三日局中ノ事務分掌又ハ事務取扱ノ為左ノ通事務局分課規程並ニ処務規程ヲ定メタリ
○中略
      職員
 事務局職員ノ任免ヲ挙クレハ左ノ如シ
   備考
    一本官ヲ有スル者ノ本官名ハ任命当時ノモノニ依ル
    一解職ノ欄ニ記入ナキ者ハ事務局官制廃止ト共ニ消滅シタルモノトス
      職員
任命年月日 解職年月日   官職名           氏名
             総裁
三、五、四 四、一、七 農商務大臣 正三位勲一等子爵 大浦兼武
四、一、七       農商務大臣      勲三等 河野広中
             副総裁
三、五、五     海軍大将 正三位勲一等功二級男爵 瓜生外吉
             事務官長
三、五、五      台湾総督府専売局長従四位勲四等 山脇春樹
             評議員
三、六、二三              正三位勲一等 大森鐘一
○中略
三、六、二三            従三位勲一等男爵 渋沢栄一
○下略


青淵先生公私履歴台帳(DK560122k-0002)
第56巻 p.528 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳              (渋沢子爵家所蔵)
    任免叙授
同 ○大正三年六月廿三日 臨時博覧会事務局評議員被仰付 内閣


中外商業新報 第一〇一二五号 大正三年七月一日 ○桑博評議員会(DK560122k-0003)
第56巻 p.528 ページ画像

中外商業新報  第一〇一二五号 大正三年七月一日
○桑博評議員会 桑博評議員は去る二十三日を以て任命ありたるに付き、本日午前十時より農商務省会議室に第一回評議員会を開き、大浦総裁・瓜生副総裁、山川・渋沢・下岡・河村・松井・福原・浜口・上山・鈴木其他各評議員出席、山脇事務官長よりの桑博賛同に関する報告其他事務打合をなすよし


中外商業新報 第一〇一二六号 大正三年七月二日 ○桑博評議員会(DK560122k-0004)
第56巻 p.528-529 ページ画像

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中外商業新報 第一〇一九六号 大正三年九月一〇日 ○米国観光団組織 渋沢男等の計画(DK560122k-0005)
第56巻 p.529 ページ画像

中外商業新報  第一〇一九六号 大正三年九月一〇日
    ○米国観光団組織
      渋沢男等の計画
九日午前十時渋沢男には中野武営氏と相携へて農商務省に出頭、瓜生桑博事務局副総裁と会見の上何事かを談合十一時退出したるが、其の会談の内容は一私事に関するものとして多く伝へらるゝ所無きも、仄聞する所に拠れば、かの桑港博覧会が世界大動乱の影響を受くることも無く予定通り開会さるゝを機とし、同博見物旁々米国各地歴遊の着実なる大観光団を組織するの計画を樹て、之が打合せに関する者にして、該計画の根本動機とも謂ふべきは、本邦実業家に米国を了解せしむると共に、米国人に本邦実業家を紹介し、以て日米の親交を深からしむるに外ならずと云ふ


竜門雑誌 第三二四号・第六〇頁 大正四年五月 ○桑博観覧協会設立(DK560122k-0006)
第56巻 p.529-530 ページ画像

竜門雑誌  第三二四号・第六〇頁 大正四年五月
○桑博観覧協会設立 青淵先生・中野・添田・池田諸氏を顧問とせる桑博観覧協会は四月下旬設立趣旨を発表したるが、其大意は巴奈馬太平洋万国博覧会は去二月を以て日米通商の関門たる桑港に開かれたるが、巴奈馬地峡開鑿の竣成は世界貿易航海上に一大変化を与ふる偉業に属し、就中我が対米貿易に関し最も密接の関係を有するは勿論にして、列国に先んじて賛同の意を表し、国産美術・文物・風習を紹介するは独り日本貿易の発展に利するのみならず、彼我国交の親善に資し国家将来の進運に貢献するもの少からざるを以て、国民自ら進で之を観覧し、其の長所を採りて本邦産業の振興を促進し、併せて相互の実利的連鎖を固うするは今日の急務なりと信じ、本会を組織し、邦人の桑博観覧、米国視察の便宜を計ると同時に、外人の本邦遊覧を誘導して、我政府参同の本旨に副ひ、聊か日米両国の親交に資せんとすると
 - 第56巻 p.530 -ページ画像 
云ふに在り、而して其の規程及役員は左の如し
 △第一条 本会は桑博観覧協会と称す △第二条 本会は本部を東京市有楽町一ノ一に置き、支部出張所を適当の地に設くることあるべし △第三条 本会の目的は主として桑博観覧米国視察の為め渡航する本邦人の利便を計り、且来朝する外国人の為に便宜を与へ、彼我の接近親交を図るにあり △第四条 本会は前条の目的を達するため、汽船会社・全国各商業会議所・各実業団体等と交渉して諸般の利便を計るものとす △第五条 本会は桑博観覧者滞在中の便益を計るため、臨時博覧会事務局認定日本協賛株式会社内桑博案内協会と聯絡を締結せり
 △役員(名誉賛助)青淵先生・大倉喜八郎・中野武営・添田寿一・池田謙三・大谷嘉兵衛・土居通夫・浜岡光哲△(名誉理事)白石元治郎・今西兼二・白石重太郎・神谷忠雄△(会長)星野錫△(理事長)佐々木久二△(副理事長)青木道嗣△(理事)大塚卯三郎・中根環堂・藤田剣吾・谷口文彦
   ○本資料第三十三巻所収「第三回米国行」参照。尚、同巻所収「日米同志会」大正二年六月四日・「在米日本人会」大正二年一月二十一日並ニ第四十巻所収「日米関係諸資料」大正二年八月三十日ノ各条参照。


青淵先生公私履歴台帳(DK560122k-0007)
第56巻 p.530 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳           (渋沢子爵家所蔵)
    賞典
大正五年五月廿五日 大正四年臨時博覧会ニ付尽力尠カラス、依テ金杯一箇ヲ賜フ 同 ○賞勲局総裁



〔参考〕内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題 永山定富著 第三〇二―三〇五頁 昭和八年九月刊(DK560122k-0008)
第56巻 p.530-532 ページ画像

内外博覧会総説並に我国に於ける万国博覧会の問題 永山定富著
                     第三〇二―三〇五頁 昭和八年九月刊
 ○第四編 第一章 海外博覧会本邦参同沿革
    二、大正時代
○上略
第四十一回(桑港)第四十一回は大正四年(千九百十五年)米国桑港巴奈馬太平洋万国博覧会である。
 本博覧会は巴奈馬運河の開通祝賀として米国加州桑港市に開設せられた。之に対する我政府の参同は他の列国に先つて決定したが、之れ固より開催地との交通至便なると通商上の大国たる米国を対手方とすると、及び在留邦人問題の存するありて、所謂日米親善の為めにも最も好機たるを看取せるが故である。而して途中欧洲大戦の勃発ありて他の参同諸国にして不参加に終はりしものあるに拘はらず、我政府は予定の計画を遂行して本博覧会の参同事業を完成した。
 政府は明治四十五年四月参同決定と同時に準備委員長山脇春樹を同年六月開催地に派遣し実地調査に当らしめ、其復命によつて大正二年度より同五年度に亘る四ケ年継続費として百二十万円の経費を支出することゝした。次で翌大正三年五月臨時博覧会事務局官制を公布し、各職員を任命して参同事務を開始した。即ち総裁には農商務大臣を充て、副総裁には海軍大将瓜生外吉、事務官長に山脇春樹を任命し、更
 - 第56巻 p.531 -ページ画像 
に事務官八名、理事官二十三名、鑑査官四十名、評議員八十二名を任じて諸般の事務に当らしめた。次て出品準備として大正三年五月地方長官を招集して、副総裁より出品方針其他につき訓示し、又出品規程による細目を一般に公布した。此結果普通出品点数一万五百三十九点自営出品三千七百十六点、合同出品七百十二点、官庁出品三千八百七十九点、準官庁出品九十九点、美術出品百七十九点、古美術品百二十三点等を得て、之を美術館外八館内の陳列面積八万一千二百六十九平方呎内に陳列した。
 陳列箱の製作は先づ懸賞法によりて一般より其意匠設計を需め、当選図案を基礎として実際の製作を命じ、賃貸契約により陳列箱の総間数六百三十七間二六、覗き陳列箱四十四間七六を本邦に於て、準備の上輸送使用することゝした。而して本博覧会の為めの出品貨物往送は総計千六百六十六噸、返送は五百七噸であつて、汽船会社及び鉄道会社の運賃割引、税関の簡易通過、出品貨物の保険等何れも適当に処置せられ、会期二百八十八日間の本邦出品の売約は、金属製品・絹織物陶磁器・刺繍・羽二重等を主として、総計十万三千七百八十一弗に達した。国際審査に当つては本邦より二十二名の審査員を出して之に参加せしめ、其結果大賞四〇、名誉賞一四三、金賞三五〇、銀賞四七三銅賞三七五、褒状一四一、協賛賞一、合計一、五三八の褒賞を受領した。閉会後の残品返送賃は凡て事務局に於て負担することゝしたが、之は博覧会閉会の際に見る処分法の一たる廉売の悪弊を矯めんとせるものであつて、之によつて本邦品の声価を維持し且つ在米邦商の利益擁護を期待したものである。
 主催国陳列館以外に本邦政府は面積約四千坪を場内枢要の地に卜して、日本政府館・特別陳列館を建築し、日本庭園を造営し、且つ日本喫茶店・台湾喫茶店等を建設した。政府館は鹿苑寺金閣に様式を取り装飾彫刻は鎌倉末期より豊臣初期の実例を参酌し、特別陳列館は平安時代の様式に象つたものであつて来観者の嘆賞を博した。又会期中は日本部開場式、上巳の雛祭、各国委員招待、端午節句、大園遊会、ジヤパン・デー、其他の式典等を開催して両国官民の親和輯睦につとめた。尚本博覧会参同事業に関し、事務局は関係者の渡米手続きを簡易にし、単に我が外務省の旅券下附のみならず、米国政府に交渉して米国移民法による厳重なる入国手続きを緩和せしめ、博覧会会期中は勿論其前後に亘つて之を適用せしめた。
 事務局は普通出品其他の出品管理者として大正三年六月博覧会協会を指定し、十二万円の補助金を下附して之に当らしめた。該協会は之によつて臨時出品部を設け、出品部長平山成信、外主幹三名・顧問七名・評議員十名を任じて諸般の会務を処理した。又本博覧会参同の目的を完全に達成し、兼ねて其効果を収むるには在米邦人との連絡を円滑にし、彼等をして我が参同事業に協賛せしむるを必要なりとして、日本協賛株式会社の設立を慫慂し、其成立に際し補給金五万円を交附して其事業の遂行を助けた。該会社は取締役牛島謹爾外七名を重役とし、場内の興行、日本政府の祝祭等に関し常に参加して博覧会の盛況を助くるに勉めた。
 - 第56巻 p.532 -ページ画像 
○下略



〔参考〕日本と巴博 工業改良協会編 第一編第三九―四一頁・英文第六一―六三頁 大正四年一一月刊 【○第壱編 日米親交と巴博 日本の商工業界と巴博 男爵 渋沢栄一】(DK560122k-0009)
第56巻 p.532-534 ページ画像

日本と巴博 工業改良協会編
           第一編第三九―四一頁・英文第六一―六三頁 大正四年一一月刊
 ○第壱編 日米親交と巴博
    日本の商工業界と巴博
                    男爵 渋沢栄一
 広い範囲に於て私はお話をするので、言はゞ金融者の観たる日本商工業界の現状の梗概であるが、抑日本の商工業は、一帯に国難の為めに幾度か変化を来たして今日に及んで居るのである。国難とは即ち明治二十七・八年の日清戦役、続いては三十七・八年の日露の戦役で、我商工業は是等の種々雑多な荒浪に揉まれては恢復し、恢復しては又打撃を受けて来たのであるが、日露戦争以後の十年間は徐々に恢復せられて順当に発展して来て居るのである。
 又政府の方でも初めからして充分に商工業の発展には力を添へて呉れたのであるが、殆んど十年毎に突発する処の戦争のために、国庫の金の大部分と云ふものは皆軍事費の為めに全然費消されて来たと言つて宜からう。それが大に発展しやうと予期して居た処の商工業に影響を及ぼして、或る意味に於て商工業は非常な圧迫を受けた事になつて充分なる発展を見る事が出来なかつたのである。
 譬へば此度の欧洲の大乱にも亦我国は其通りの影響を受けて居るのである。それは青島征独軍に出陣した我が兵はほんの一小部分で、又短期日であつたから、さのみにも思はぬが、間接の打撃は非常な程度にまで受けて居る。一例を挙げてみると、絹糸の輸出に甚大な影響を来たして居る。兎も角も日本の製産物として最も其の輸出高の多いのは此絹糸であるが、夫れが輸出高は減じ価額は暴落すると云ふ有様である。啻に絹糸のみでなく、銅の如きも夫れである。続いては木綿紡績もさうである、是等の物は悉く日本の製産物として、又外国への輸出の多い重要品であるにも拘はらず、全然その輸出高及価額の暴落を見たと云ふ事は、間接乍らも此戦争から受けた我国の打撃の大なる事を明示するものである。
 殊に紡績業の如きは、英国や米国に比較したならば迚も充分とは言へないが、日本としては兎にも角にも相当な資本を是れに注入して日一日と発展しつゝあつたのである。(尤も其の三十年の間の好い年に比較したならば今日の発展はまだ物足りぬものであるが。……)処が此度の世界の動乱で全然その発展を挫かれて了つたのである。是れだけでも日本の商工業が此度の欧洲戦争の為めに受けた打撃は非常なものであると言ひ得るが、併し更に一歩退いて考へると又さうのみも言へない所はある。
 化学工芸の如きはその薬品材料の大部分は独逸から輸入して居たのであるが、此度の戦争のために全然その輸入が止つて了つたので、今は輸入して居つた物品に代はる物を日本で製作しなければならぬと云ふ結果を産んだので、種々工夫などを凝らしたお蔭で、輸入の力を借りなくとも日本でやつて行けると云ふやうな、化学工芸の上からも、
 - 第56巻 p.533 -ページ画像 
機械工業の上からも、偉大な発明と云つて宜い事の出現を見たなどは尠からず喜ぶ可き事実で、此方は欧洲戦争の打撃を受けた不幸中にも一の幸を得たと云ふ可きである。
 さりながら戦争の産んだ不景気は金融の上に偉大な影響を与へた。平常は十一月・十二月は左のみではないが、一・二・三月頃は真実金融に就いても最も繁忙な時期なのであるが、本年は全然緩慢である。と云ふものゝ起源は何かと云ふに、新らしい会社等の組織されぬと云ふ事に基くのである。新事業の計画されぬと云ふ事はやがて商工業の不振を意味するのである。であるから日本商工業の現状は将に発展せんとして藻掻きつゝ、その時期の到来を待つて居ると云ふ方が適当であらうと思ふ。此の意味に於て此度の桑港博覧会は或る発展を齎らすものと私は期待して居るのである。(文責在記者)
(右英文)
 THE PRESENT CONDITION OF COMMERCE AND
      INDUSTRY IN JAPAN.
         Baron EIICHI SHIBUSAWA.
  What I am going to relate here is a general outline of the commercial and industrial condition of Japan to-day seen, so to speak, by a man of finance. Roughly speaking, commerce and industry in Japan has made more or less progress during these fifty years after going through various changes and difficulties mainly caused by some unhappy obstacles. And the obstacles were the wars, Japan engaged in with China(1894-5)and with Russia(1904-5). These two wars, no doubt, gave a serious blow to the progress of our commerce and industry. During the ten years since the Russo-Japanese war, however, the condition has slowly been improving.
  Although the political world did not purposely wish to hinder the progress of commerce and industry, yet on account of war breaking out in every ten years, the greater portion of financial resource was exhausted by the war expences. This, diretcly and indirectly, threw a great obstacle upon the commercial and industrial world, which then had been planning for further development.
  European War this time, for instance, has also brought no little influence upon our commercial and industrial world. Japan's participation in the war being only of a little part and for a short duration, its direct effect upon our commerce and indsutry does not seem to be so great, but its indirect effect is indeed serious. For example, it has seriously affected the exportation of silk. Silk, as is well known, is the chief product of Japan for exportation. Therefore, the decrease of its exportation, and consequently the sudden fall of its market prices, is, no doubt, a serious blow to our foreign trade. Not only
 - 第56巻 p.534 -ページ画像 
silk, but copper, cotton spinning, etc., are examples of retardation―are these being due to the European War. Compared with the spinning industry of England and America, that of Japan can hardly be regarded their equal. Notwithstanding, to consider her circumstance, Japan has been investing a fair amount of funds for this particular industry and the prospect has been rather bright. All of a sudden, however, the present trouble of the world has come to check the progress of this enterprise. Thus, the influence thrown upon our commercial and industrial world by the European war is by no means small.
  Yet on the other hand, the influence which present war has brought upon Japan has, in a sense, given her the spirit of industrial independence. For instance, most of chemical and medical stuffs were hitherto imported from Germany, which, however has entirely been cut off since the outbreak of the war. Accordingly, we are compelled to manufacture those articles which Germany used to import. "Necessity is the mother of Invention." To-day we have fairly succeeded in the chemical and mechanical industry.
  Nevertheless, the business depression caused by the war has had a tremendous effect upon monetary circulation. To cite an instance, the money market should, as a rule, be very active and busy in January, February, and March in ordinary years, but this year it has been noticeabley slack at this period. This is chiefly due to the fact that neither new enterprises have been undertaken, nor new business organization formed. Consequently, commerce and industry are, on the whole, very dull and inactive.
  It seems to me, therefore, the present state of our commerce and industry is merely struggling for development and progress. It is, as it were, waiting for opportunites to come. In this way I believe that the Panama Exposition of San Francisco will bring us a good opportunity, for the development of our commerce and industry.
                         渋沢栄一
                   (Eiichi, sibusawa.)



〔参考〕巴奈馬太平洋万国大博覧会 新世界新聞社編 第一・第二五三―二五五頁 大正二年一月刊 【巴奈馬運河の開通を祝して米国人に望む 男爵 渋沢栄一】(DK560122k-0010)
第56巻 p.534-536 ページ画像

巴奈馬太平洋万国大博覧会 新世界新聞社編
                   第一・第二五三―二五五頁 大正二年一月刊
 ○第四編 第二章 日本名士の寄書
    巴奈馬運河の開通を祝して米国人に望む
                    男爵 渋沢栄一
 世界文明の進歩に伴ひ人智を以て天然の抵抗を征服し、海にも陸にも種々交通の利便を加へて其距離を短縮するは実に驚くに堪へたり、
 - 第56巻 p.535 -ページ画像 
支那に於ては往昔天円地方と称して地を方形のものと思惟し、自国□外殆ど《(以カ)》他国の存在を認めざりき、我国とても当初は斯かる偏狭なる見解に依りて誘導啓発せられしを以て、日本以外の国と云へは直ちに唐天竺を聯想するのみにして、更に世界の何物たるを知らず、五大洲の存在抔に至ては夢想尚且つ及ばざりしなり、現に余の幼時に聞ける童話中、翼長左右三千里の大鵬にして尚且つ世界の果を見る能はざりしを説けるものありき。
 夫れ然り、世界の広大無辺にして人智の容易に之を究むる能はざりしは古来右に述ぶるが如くなりしに、文明の進歩と共に交通機関発達して地球の面積漸次減縮せられ、最近半世紀間に於て殆ど隔世の感なきを得ず、顧れば千八百六十七年那波翁第三世在位の時に当り、仏国巴里に世界大博覧会の開かるゝに際し、我徳川幕府よりは将軍の親弟徳川民部大輔を特命使節として差遣せられ、余は随行員の一人として渡欧せり、当時一行横浜より仏国郵船に乗り、印度洋及紅海を経て蘇西地峡に到りしに、仏国人レセツプ氏の経営に係る同所開鑿の一大工事は既に着手せられしも未だ成らず、為めに一行は船を棄てゝ地峡に上り鉄道に依りて埃及を横断し、カイロを経てアレキサンドリヤに出で、再び乗船して地中海を航し、横浜出帆以来五十六日にして初めて仏国マルセーユに到着せり、斯くて翌年冬期帰途又蘇西地峡を過ぎりしも、尚ほ未だ運河工事の竣成を見ざりき。
 其後(千八百六十九年十一月)該運河開通して諸国艦船の通航を許すや、欧亜の交通に一生面を開き、両者間の貿易に航海に軍事に外交に一大変革を来たせり、之と同時に各国艦船は爾来益々其形体を大にし其速力を加へたるを以て、太西洋は言を竢たず太平洋の面積も亦漸く減縮し、更に進んで西比利亜横断鉄道の竣工するありて欧亜の交通東西の聯絡爰に一新紀元を開き、四海比隣の実漸くにして挙がらんとせり。
 然るに爰に遺憾なりしは米大陸が其半腹に帯の如き一地峡の存するに由り、地勢為に蜿蜒長蛇の如く南北に走りて徒に太西《(大)》・太平両海洋の聯絡を遮断することにありき、而して此の障壁の除却に就てはレセツプ氏以下何れも多大の卒酸《(辛)》を嘗め、不幸にして比々失敗し去りたりしに、思しきや我東隣友邦《(ひ)》の雄大なる経営に依りて遂に巴奈馬地峡開鑿の一大工事竣成し、両洋の水乃ち相通じ東西の半球全く比隣と化し去らんとす、東洋の諺に命長ければ恥多しと云ふも、輓近五十年間に於る世界交通の発達と海陸面積の減縮斯の如く顕著にして、前後殆ど別乾坤の観あると思へば、身、昭代に生じたる余慶として長寿寧ろ幸福なりしを喜ばずんばあらず。
 巴奈馬運河の開通今や目睫の間にあり、而して開通後之れが世界万国の交通、東西両洋の聯絡に如何なる影響を与ふるやは深く研究するを要すべしと雖も、余は当業者にあらざるを以て今玆に貨物の運輸、旅客の通過に関七て具体的に予想を述ぶる能はず、只此一大水路の開通に由り万国の商業地図に莫大の変革を来すべきを信ずるなり、就中最も痛切に之れが影響を感受すべきは米国を除けが我国《(ば)》を措て他にある可らず、故に邦人の自家将来の経営に就き此際特に綿密なる考慮を
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加ふるを要す。
 顧れば日米両国の輯睦は年と共に益々固く貿易の関係又愈々良好なり、殊に米国は日本貨物の最大顧客なるを以て其の関係の益々拡張するを企望するも、古来片貿易は決して繁栄せず、又永続するものに非らざるを以て、我又米貨の輸入を盛んならしめ以て利益の共通を計らざる可らず、幸にして近年這般の趨勢頗る順潮に進みつゝあるに際し爰に巴奈馬運河の開通せんとするに会す、吾人は此機会に乗じて新たに興すべき貿易の種類を熱心に研究せざるべからず、而して余は必らずや、其人に乏しからざるを期待し、深く当業者の注意を喚起せんと欲す。
 惟ふに日米の国交は堅牢なること磐石の如くなるを以て余は聊も之を憂れざるなり、只窃に遺憾とするは太平洋沿岸に於ける一部労働者の日本人排斥運動なり、数年来の実験に徴すれば此運動たる或は学童放校問題となり若しくは土地所有禁止法案となるも、就て排斥の理由を糺せば外来の日本人が彼地に於て米国の習俗に同化せず、能く其の隣保に親近せざるためなりと称せらる、蓋し文物典章燦爛たる先進国に在りて自由・平等・博愛の国風に誇る人民が、廿世紀の今日尚且つ異人種として他国人を排斥するは余の固より首肯し難き所なるも、然ればとて他人の国に居住して其地の習俗に同化せず、隣保に親和せず同郷同種相集団して別に一敵国を構成するの姿あるも決して善事にあらざるなり。
 故に此等の弊は毎に之を矯め之を除き、以て両者の調和と親善とを計らざる可らず、之れ識者の共に念とすべき所にして、而かも今回巴奈馬運河開通して我対岸の桑港に於て之れが紀念として万国大博覧会の開設せられんとするが如きは、絶好無二の機会たらずんばあらず。
 最後に更に一言すべきは巴奈馬運河通航料問題なり、余は今玆に之を条約又は法律上より論ぜんとするものに非らず、単に英米両国に対して深厚なる同情を表するものとして忌憚なく之を直言すれば、飽迄も米国をして其の有終の美を済さしめんことを企望して已まざるなり顧ふに仏国人は蘇西地峡開鑿の経験と巨万の富とを傾注し刻苦励精尚ほ巴峡開鑿の業を遂ぐる能はざりしも、米国其後を受け無限の資金と精巧なる技術と絶大の精力とを以て能く天工を奪ふて此の難工事を竣はり、広く世界人類の幸福を進めて遠く千秋に其の偉蹟を遺さんとす其鴻業天下何人か感孚推戴せざらんや、然るに其功成るに垂ん垂んとして通航船舶の待遇に於て遽に自他を区別し、内外に差等を設け、以て世界共通万民一致の福利を阻むことあらば、是れ実に九仭の功を一簀に欠くものに非らずして何ぞや、余は米国人の思を玆に致して其大功と美名とを双つながら全うするに至らんことを信ぜんと欲す。