デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

補遺・追補

2章 追補
(既ニ款・項目ヲ定メテ収録セルモノヘノ追加)
節 [--]
款 [--] 4. 海外植民学校
〔第三十八巻所収〕
■綱文

第56巻 p.701-706(DK560161k) ページ画像

大正9年3月7日(1920年)

是日栄一、当校第二回卒業生ヲ飛鳥山邸ニ引見シテ、訓話ヲナス。爾後、屡々当校卒業生等ヲ引見ス。


■資料

集会日時通知表 大正九年(DK560161k-0001)
第56巻 p.701 ページ画像

集会日時通知表  大正九年        (渋沢子爵家所蔵)
三月七日 午前十時 植民学校卒業生来邸(飛鳥山邸)


植民 第五巻第四月号 大正九年四月 植民学園の近況(DK560161k-0002)
第56巻 p.701-702 ページ画像

植民  第五巻第四月号 大正九年四月
    植民学園の近況
□渋沢男訪問 三月七日海外植民学校の教職員及び本年度卒業生は、府下王子飛鳥山の渋沢男爵邸に招待せられたり、午前十時男爵邸に入る。直ちに庭内の晩香廬に招ぜられ、軈て男爵は来会者の前に立ちて例の如き温容を以て凡そ一時間に亘り一場の訓話的挨拶をものせられ
 - 第56巻 p.702 -ページ画像 
たり。之に対し我校の学生及教員を代表して坂本講師は感謝の辞を述べたるところ、男爵は再び起つて満足の意を表せられ、万望この三月七日を記念として身はたとひ海の外にありとも内にありとも、大国民的気象と品性とを養はれよと言はれたり。終つて吉村主事は男爵に向つて一々来会者の氏名生国を紹介せられたり。かくて鄭重なる昼餐をいたゞき午後二時辞去す。


竜門雑誌 第三九三号・第四三―四六頁 大正一〇年二月 ○海外飛躍者の覚悟 青淵先生(DK560161k-0003)
第56巻 p.702-704 ページ画像

竜門雑誌  第三九三号・第四三―四六頁 大正一〇年二月
    ○海外飛躍者の覚悟
                      青淵先生
 本篇は青淵先生が、其邸内に海外植民学校第二回卒業生を引見して教訓せられし要領なりとして、雑誌「植民」四月号に掲載せるものなり。(編者識)
 皆様、今日は玆にお招き致して、海外植民学校を卒業なされるお悦を申上げ、また将来海外に発展飛躍せらるゝに就て、私から少しばかり御注意やら希望やらをお話する機会を得られた事は、実に満足でございます。此間崎山さんがお見えになつてさういふお話もあつたので喜んで御承諾して、今日は皆さんをお迎え致した次第でございます。
 今や我国は本当の意味に於て海外植民をしなければならぬ時代となつて参りました。それ故植民学校の卒業生と云ふものゝ責任も亦甚だ大きくなつたのであります。我国は久しく世界に孤立して居りまして御維新前国を開いてから未だ僅かに五・六十年に過ぎない、さう云ふ次第であるから今日も日本内地から海外各地に押し出して行くと云ふ時に、一寸間誤つく――見当がつかぬと云ふやうな事もあるやうな訳で、早い話が風俗習慣、社会制度万般が異つて居る為に非常の困難をすると云ふやうな事も度々あるのでございます。もともと日本は鎖国主義の国ではなかつた。即ちずつと昔の事は扨て措いても、足利の末から徳川の始めに至る間は海外と日本との交通は決して無い訳ではなかつた。イヤ無いどころか彼の和寇などといふものは、当時の日本民族の海外発展の有様を物語るところの材料でありまして、彼等は啻に支那近海を攻め荒して自分の利益を図ると云ふばかりでなく、また善い事も行ふて居ります。侵略ばかしではなかつたやうであります。斯様に致して我が日本民族は昔から決して退嬰自屈の国民ではなかつたのですが軈て徳川幕府になつた。徳川になつてから何故海外との交通を禁めたかと申すと、それは一概に悪くは云へない。丁度其頃基督教――でも殊にローマ旧教の勢力が段々と我国へも及んで参りました。其布教の有様は仲々偉大なるものでございました。これは皆様も歴史で御承知のことでありませうが、元来彼の聖フランシス・ザヴヱがゼスイツト教を宣伝して東洋へ参つた当時から、宗教の伝道事業と国家権力の拡張とが折々ごつちやになり、甚だしきに至つてはスペインの布教に対してオランダの官憲から日本の幕府に注意がありまして、彼等は決して道を伝へる為めのみの目的ではなく、余程その侵略的な分子も交つて居るから気をお付けなさいと言ふて参つたと云ふやうな事実もあり、また、長崎港附近に沈んだ外船の底から驚くべき証拠にな
 - 第56巻 p.703 -ページ画像 
る文書などの発見せられた例もあつたと申すやうな次第で、どうしても徳川が政を執つて国内を統一する為には外教を禁じ、外航を止めなければ他に途がなかつたかのやうにも思はれるので、これは私の一家言なれども、専門の歴史家の先生方でも亦た斯う云ふ見解を下して居なさる向もお有りなさるやうでございます。そこで海外との交通を厳禁した徳川政府は、国民思想を導くために儒仏の二教を以て進んで行かうと云ふ方針を立てられました。此の儒仏教育の感化は今日迄も我が人心を支配して参つたことは、玆に私が申すまでもない。ところで其後国禁を破つて海外に飛び出した者もあれば、また当時邪宗門と目せられて居つた基督教の信仰ばかりは迚も之を棄てることは出来ないと云ふので、夫の天草の乱と云ふやうな事変も起りましたが、大体に於て徳川三百年間日本は鎖国主義を奉じて居りました。これが我国今日の海外発展の遅れた所以で、また今日植民学校と云ふやうなものを必要とする所以でもございますが、兎に角日本は一時外国との交渉を絶つて居つた。それが今日植民者にとつては非常なる困惑の原因をなして居るやうな訳で、これから段々出掛ける皆様がたの特に注意せなければならぬ所かと存じます。
 さて皆様は愈々早きは今月、おそくも来月、更来月頃までには殆ど悉く海外に渡航せらるゝ事でございませうが、其の行く処は仮令どこでもよい、南洋はフイリツピンからボルネオ、スマトラ、セレベスと各地に散在する日本人の根拠地に向はるゝことであらう。私も此の地方のゴム其他の事業に関係した事もあり――関係と申しても人にやらせたのですが、兎に角没交渉ではない。それから北米に行かれる者、こゝが又仲々大変なところであります。また南米、南米は先程吉村先生の仰せには重にブラジル、それからペルーへも行きなさると承つたが、国は何処でもよい。同じこと、要するに海外発展である。皆さんが其の向き向きの処に赴くよりほかに方法はない。ところで困つた事にはです。世界各地日本人の植民をしやうと思ふ所悉く目下色々な問題がある。公然排日を叫んで居るところもあると申すやうな次第で、まことに困つたもの、まだ排日とまでは言はないにしても「日本人すこし困る」くらひの事を大概の箇所で申して居るさうで。これが抑も如何なる原因からかと尋ねて見ると、どうも先方も宜しくないが、こちらは一層よろしくないと云ふやうな場合も、そのたまにはあると云ふやうな次第で、つまり将来は海外に発展する日本人が第一に其国語と礼儀を知り、また品行なども慎んで、決して先方の国の人間よりも劣つた生活をしない、こちらの人格を先方に認めさせ、また自ら恥づる行をせぬと云ふ位の覚悟があつて欲しい。それには、ずつと昔のやうな無智無教育の人達が無暗に海外へ押寄せて行くと云ふやうな事も皆無とならなければなりません。越後から江戸へ米搗きに行くと云つたやうな考ではどうも困る。それから移民の世話をする会社や其他各種の団体なども、昔の人入れ宿のしたやうな悪いことは出来ぬ。移民も会社も進んで参らねばなりません。
 私は本日こゝに皆様をお招きして斯かる話を申上げることを非常に嬉しく思ふ。そこで最後に一つ諸君にお餞の意味を以て私の愛誦する
 - 第56巻 p.704 -ページ画像 
論語の一齣をあげますから、よく記憶して貰ひたい。イヤ之を記憶するのみではいかぬ。実地に行ふて此の言葉の真精神を理解して貰ひたい。それは孔子様の教への中でも最も深いまた広い意味を有して居るところの教訓でございまして、孔子のお弟子の子張と云ふ人が孔子に問ふて、如何にせば道が行はるゝかと尋ねた時に、孔子の答へられた千古の金言でございます。即ち
 言忠信、行篤敬ならば、蛮貊の邦と雖も行はる。
 言忠信ならず、行篤敬ならざれば、州里と雖も行はれんや。
と云ふのでございます。今之を解釈して申すと、言語が忠にして正しく、信にして誠あり、又総ての行為が篤にして手厚く、敬にして恭しいならば、何処の野蛮国、海外の僻地でも敵はない。之と反対に言語動作が粗暴であつて、何等の信用なく、また人に対して敬愛の念を以て向はなかつたときは、州里すなはち自分の生れ故郷に於ても排斥せられて、決して道の行はるゝものではない、と云ふ実に海外植民者の為めに申されたかの如き感ある名句で、まことに分り切つた言葉、何の面倒もない言葉、しかも之れさへ守れば間違はない。所謂言簡にして而も意臻れるものでございます。どうか皆様が此の精神を御体得なされて、旺に海外に出かけらるゝと共に、礼儀を重んじ勤倹怠らず、而して外国人の不法に対しては正義の対抗をするだけの勇気も、必要でございます。併し乍ら常に申すことは海外渡航者は日本を代表して異境の邦に居ると云ふ其の覚悟であります。この覚悟をお持ちになつて、若し自分が過てば外国に於て日本の国が大怪我をする、其反対に自分が善事を行ひ信用と勇気とを以て推し進めば日本の国が大功名を遂げると、何時もさういふ風に考へて行くことであります。米国などでは此覚悟が在米の日本人に乏しかつた為めに、今日でも猶ほ溶けない極めて厄介な政治上外交上の問題が出来上つて居ります。私なども及ばず乍ら過去十年来所謂日米問題の為めには非常に心配をして、聊か努力をして来て居るやうな訳合のもので、まことに此の海外渡航者の心掛は大切肝甚なものであることを呉々にも心得ておいて戴きたいこの理解と決心とがあつてお出掛けになれば皆様の前途は甚だ多望なものであると信じます。本日は何の御馳走もない、言はゞ失礼のやうな訳でもあつたけれども私は大へん満足致しました。以上の話は此の私が呉々にもお願する所でございますから、諸君も篤と胸に畳み込んでおいて戴きたい。必ず何かの時に「こゝだ」と思ひついて之がお役に立つ事もあらうと思はれるのでございます。それでは御悠りと遊んでお居でなされるやうに。


渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK560161k-0004)
第56巻 p.704 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年     (渋沢子爵家所蔵)
三月六日 晴 寒
午前七時半起床入浴朝飧ヲ畢リ ○中略 埼山比佐衛外二氏来話《(崎山比佐衛)》ス ○下略
   ○中略。
三月二十三日 晴 寒
午前七時起床、入浴朝飧ヲ畢リ ○中略 植民学校卒業生埼山比佐衛氏同行多人数来訪、近々海外出発ニ付告別ノ辞ヲ以テ之ヲ訓示ス ○下略
 - 第56巻 p.705 -ページ画像 


集会日時通知表 大正一〇年(DK560161k-0005)
第56巻 p.705 ページ画像

集会日時通知表  大正一〇年       (渋沢子爵家所蔵)
三月廿三日 水 午前十時 海外植民学校卒業者来邸(飛鳥山邸)


海外植民学校賛助者芳名(DK560161k-0006)
第56巻 p.705 ページ画像

海外植民学校賛助者芳名       (海外植民学校所蔵)
海外植民学校設立当初より御賛助下されたる主なる方々の金額、及び御芳名を参考の為め掲ぐれば左の如し(但シ金額弐百円以上第一回)
  金額               芳名
一金五千円也           男爵 森村市左衛門殿
○中略
一金弐千円也           子爵 渋沢栄一殿
○下略
  大正十年九月


集会日時通知表 大正一一年(DK560161k-0007)
第56巻 p.705 ページ画像

集会日時通知表  大正一一年       (渋沢子爵家所蔵)
三月廿五日 土 午前八時半 海外植民学校卒業生来約(アスカ山邸)


(海外植民学校) 校務日誌 至昭和三年一二月三一日(DK560161k-0008)
第56巻 p.705 ページ画像

(海外植民学校) 校務日誌 至昭和三年一二月三一日
                    (海外植民学校所蔵)
大正十一年
三月
二十五日(土) 渋沢子爵ノ請待ニヨリ卒業生及ビ職員同邸ヲ訪フ
   ○原本ハ横書、以下同断。


集会日時通知表 大正一二年(DK560161k-0009)
第56巻 p.705 ページ画像

集会日時通知表  大正一二年       (渋沢子爵家所蔵)
三月廿八日 水 午前十時 海外植民学校卒業生来邸


集会日時通知表 大正一三年(DK560161k-0010)
第56巻 p.705 ページ画像

集会日時通知表  大正一三年       (渋沢子爵家所蔵)
二月廿四日 日 午前九時 殖民学校卒業生来邸三十名(飛鳥山)


(海外植民学校) 校務日誌 至昭和三年一二月三一日(DK560161k-0011)
第56巻 p.705 ページ画像

(海外植民学校) 校務日誌 至昭和三年一二月三一日
                    (海外植民学校所蔵)
大正十三年
四月
廿一日 月 曇 渋沢子爵ヘ大正十二年度処務報告其他提供《(庶)》ス


渋沢栄一 日記 大正一五年(DK560161k-0012)
第56巻 p.705 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一五年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十二日 晴 寒
午前七時起床、入浴朝飧例ノ如クシテ ○中略 崎山比佐衛氏来リ殖民学校ノ近状ヲ談ス ○下略
   ○中略。
一月二十九日 晴 寒
午前七時起床、入浴朝飧畢テ ○中略 崎山比佐衛氏来リ学生ヲ当方ヘ訪問ノ時日ヲ告ク ○下略

 - 第56巻 p.706 -ページ画像 

集会日時通知表 大正一五年(DK560161k-0013)
第56巻 p.706 ページ画像

集会日時通知表  大正一五年       (渋沢子爵家所蔵)
十月廿三日 土 午前八時 殖民学校教員並生徒来邸(飛鳥山邸)


(海外植民学校) 校務日誌 至昭和三年一二月三一日(DK560161k-0014)
第56巻 p.706 ページ画像

(海外植民学校) 校務日誌 至昭和三年一二月三一日
                    (海外植民学校所蔵)
大正十五年
十月二十三日 土 晴 靖国神社大祭ニツキ臨時休業ス
           本日渋沢子爵ノ招待ヲ受ケ、二年生二〇名及職員一同参邸シ有益ナル訓話アリ、茶菓ノ饗応ヲ受ケテ紀念撮影ヲナシ、午前十一時辞去セリ


中央新聞 大正一五年一〇月二五日 海外植民校生 渋沢氏訪問(DK560161k-0015)
第56巻 p.706 ページ画像

中央新聞  大正一五年一〇月二五日
    海外植民校生
      渋沢氏訪問
去る二十三日海外植民学校二年生一同は渋沢子邸を訪問、子爵から
 一、渡航する者は従来の出稼ぎ根性を棄て土着の決心を持つ事
 二、渡航前に目的地の事情を知る事
 三、渡航後は日本帝国の臣民として恥かしからぬ努力奮闘をする事
等懇々諭され鄭重なもてなしをうけた


集会日時通知表 昭和二年(DK560161k-0016)
第56巻 p.706 ページ画像

集会日時通知表  昭和二年       (渋沢子爵家所蔵)
十月五日 水 午前九時 崎山校長引卒の下に海外植民学校卒業生諸氏来談ノ約(飛鳥山邸)