デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
1節 同族・親族
1款 同族
■綱文

第57巻 p.50-58(DK570022k) ページ画像

昭和9年3月1日(1934年)

是日、栄一夫人かね子逝ク。法諡シテ承徳院慈雲謙室大姉ト曰フ。


■資料

渋沢孺人伊藤氏之墓誌銘 (谷中渋沢家墓地所在)(DK570022k-0001)
第57巻 p.50 ページ画像

渋沢孺人伊藤氏之墓誌銘      (谷中渋沢家墓地所在)
(正面)
渋沢孺人伊藤氏之墓
(裏面)
祖妣諱ハ兼子、嘉永五年一月十五日江戸ノ旧家伊藤氏ニ生ル、考諱ハ八兵衛、妣諱ハ今、祖妣ハ其五女ナリ、祖考青淵先生ノ元配尾高氏卒スルノ明年来リテ先生ニ嫁ス、先生志常ニ国家ニ在リ、興業殖産大ニ国利民福ヲ増進スルヲ以テ己カ任ト為ス、是ヲ以テ晨ニ起キ夜ニ帰リ東奔西走内ヲ顧ルニ遑アラス、祖妣能ク先生ノ旨ヲ体シテ倹素中饋ニ任シ、凡ソ衣服飲食ヨリ賓客ノ接遇ニ至ルマテ皆親ラ婢僕ヲ督シテ之ニ膺レリ、子女ヲ教養スルニ寛厳併セ用ヰ、能ク学ヲ嗜ミ業ヲ励マシム、独リ家ニ在リテ此ノ如ク心力ヲ竭スノミニアラス、先生ノ趨ク処大抵其傍ニ侍シ、為ニ足跡殆ト邦内ニ遍シ、先生初メ欧米ヲ巡遊シ後又米国ニ航ス、祖妣皆随従シテ労ヲ厭ハス、常ニ仏ヲ信シ日夕勤行懈ラス、時ニ和歌ヲ詠シテ自ラ娯メリ、又心計ニ精シク、建築ニ趣味ヲ有ス、先生葬スルノ後自ラ設計シ新邸ヲ巣鴨ニ営ミテ遷リ住ミ、静カニ余年ヲ楽メリ、未タ幾ナラス、昭和九年春病ヲ獲三月一日溘逝ス、享年八十三、仏諡シテ承徳院慈雲謙室大姉ト曰フ、越エテ四月先生ノ墓側ニ葬ル、今玆小祥ニ当リ石ヲ墓上ニ樹テ、以テ行実ノ梗概ヲ鐫スト云
  昭和十年歳次乙亥三月        孫渋沢敬三


竜門雑誌 第五四六号・第八一―九〇頁 昭和九年三月 青淵先生令夫人の訃 竜門社(DK570022k-0002)
第57巻 p.50-56 ページ画像

竜門雑誌  第五四六号・第八一―九〇頁 昭和九年三月
    青淵先生令夫人の訃         竜門社
 青淵先生薨去後、静かに余生を過して居られた令夫人には、御自身設計の豊島区西巣鴨の新邸の成れるを機とし、旧臘二十三日引移られたが、新居の朝夕を沁々味はれる間もなき二月上旬、軽微の風邪にかかられ籠居静養中、月の中旬肺炎を併発し、入沢博士を始め、大滝博士・林正道・田中勇・折本勝治諸国手の遺憾なき手当と、近親その他
 - 第57巻 p.51 -ページ画像 
の人々の心からなる看護の効もなく、三月一日午前十一時三十一分極めて静安に八十余年の永き生涯を閉ぢられたのであつた。夫人は嘉永五年一月十五日江戸の豪商伊藤八兵衛氏の五女として生れ、明治十六年青淵先生の室となり、爾来五十年多岐多端なりし先生の内助者として終始せられたことは、人のよく知る所である。夫人の渋沢家の人となつたとき、青淵先生は既に実業界の巨頭として縦横に活動して居られたので、自然夫人は結婚の最初から外部との接触に容易ならぬ苦心を嘗められたのであつた。その後先生の声望益加はり、活動の範囲愈拡まり行くと共に、夫人の配慮と努力とは益加つて行つた。斯くの如く家庭にあつて尽した夫人は、又遠く海外に迄先生に従ひ、先生の為に尽された。明治三十一年の朝鮮訪問を始め、明治三十五年の欧米漫遊、明治四十二年の渡米実業団等にはそれぞれ先生と共に長途の旅行をせられたのであつた。此等の大旅行にも加はつた程の夫人のことなれば、内地に於ける旅行には殆ど常に先生と行を共にし、慰籍の誠を致されたことは、挙げて数ふるに堪へない程である。
 先生がどこまでも活動的であり、進取的であつた為、其配として容易ならぬ努力をせられたことは想像に余りがある。又先生が殊の外多忙な生活をせられた関係から、夫人が常に極めて忙しい月日を送られたことも言ふまでない。この苦心の多い多忙な間に、和歌などに精進せられたこともあつたが、主としては家事を修め、子女を教育し、而もよく青淵先生の勤倹の主義を奉ぜられたことは、逸するを得ないことである。又建築設計には殊に堪能であつて、夫人の考案と趣味によりて造られた好箇の建築は、殆ど十指に充たん許りである。晩年先生家居の日多きを加へてからは、又先生の健康保維と慰藉の為、終始心を配ばられ、先生が最後の病床につかれてからは、夜の目も合はず心労せられ、遂に永訣に遭ひ、いたく力を落されたのであつた。
 然し異常の健康を恵まれた先生の配として、十分に尽し得られた程の体質であつた夫人は、この絶大の打撃に堪へて、尚ほ相当の年月静かな余生を楽まるゝことと、皆人の期待した処であつたが、先生薨去後僅かに二年有余にして其後を追はれたのは、真に名残り惜しい限りである。

  子爵令夫人
    渋沢兼子の方御逝去
  青淵先生御後室兼子の方には今年二月のなかば頃より、揣らずも二豎の犯すところとならせられ、越えて三月一日溘焉として不帰の客とならせられた。
  顧みれば明治十六年青淵先生と華燭の典を挙げさせられて以来、伉儷将に五十年に垂んとする昭和六年十一月、尽きせぬ御名残の裡に先生と幽明境を異にせられ、御追慕の至情尚ほ切々たる去年十一月、先生の三回忌を弔はせられて以来僅に百余日、当日除幕式を挙げられた先生銅像の礎石、鑿痕未だ素色を失はざるに、今や忽然として御跡を追はせられやうとは。諸行無情、噫。
      新邸御移住より御臨終迄
 - 第57巻 p.52 -ページ画像 
 これより先、御後室には青淵先生の三回忌を弔はせられて後は、塵外の清境に風月を友として、只管に先生の御冥福を祈らんものと、予て西巣鴨の高台閑静の一角に敷地を卜し、自ら設計諸調度などに心を用ひられ、蕭洒たる新邸を建築せられて居たのであるが、去年十二月なかばを以て竣工を告げたので、同月二十三日以来この新邸に起居せられ、明けて八十歳の新春を迎へられたのである。然るに以来僅に四旬をも経ざる二月八日、かりそめの御風気にて病床の人とならせられたのが因となつて、爾来多少の発熱をも伴はせられたので、専ら医療に努めさせられたのであるが、然も御容態は予想外にも日を逐ふて重きを加へ、十三日に至つて主治医の診断は、いたはしくも肺炎と宣せられたのである。
 当主子爵を始め一族一門の諸氏が痛心譬ふるに物なく、近侍の諸氏は勿論、先生御夫妻の恩顧に預りたる人々など、伝へ聞くがまゝに憂色に閉されざるはなかつたのであるが、幸にも入沢達吉・大滝潤家両博士・林正道・田中勇・諸葛三雄・折本勝治諸国手が、己を空しうしての診療、近親諸氏が寝食を忘れての看護の甲斐ありて、さしもの御病勢も次第に衰へ、御後室には旬日にして、春光氷雪を解かす迄に快方に向はせられたので、同月下旬の初頃には一同の愁眉も漸く開かるるに至つたのである。
 さりながら何分にも高齢に上らせられたる御後室の御身には、二旬に亘る病魔の虐みは余りにも苛酷であつた。御小康を得られた後も、各国手が不断の警戒と、近親諸氏の弛みなき看護とは、旦夕慎重の上にも慎重を加へられたにも拘らず、御老体の衰弱は日増しに著しきを致し、同月末日の夜には御病状漸く革まりて、遂に危篤の症状に陥られたのである。
 深更にも拘らず急報は八方に飛び、近親諸氏の自動車は相踵いで参集し、新邸の内は咳声をすら忍ぶ慎ましやかの裡にも、慌しき緊張の気分はその極に達し、一同御枕辺を繞つて夜を徹す。斯くて憂愁の裡に明けた翌三月一日、前夜来の御危篤の症状は愈々険しく、十時を過ぎ十一時を迎ふる頃には、肉身の至情も医薬の粋も最早施すに術なく当主子爵を始め親族近侍の諸氏等、唯々息詰まる沈黙の裡に暗涙をのんで、今ぞ永遠の御別を惜まるゝのみ。その間にも刻一刻に御臨終の期は迫つて行つた。
 御病間に充てられた御常用の寝室。硝子越しに見渡す庭上には、早春の陽光淡々として、樹蔭の残霜尚ほ斑々たるあたり、鏘々と響く松韵に和して小雀の囁く声も、一入に哀傷の念を深からしむ。然も無情の寥風は遂に訪れて、午前十一時三十一分と云ふに、御後室には八十歳を一期として眠るが如く永への旅路に出で立たせられたのである。
      発喪から御葬送迄
 痛惜哀悼措く能はざる裡にも、子爵家では即日喪を発すると共に、直に御葬儀万般の準備に着手せられた。悲報に接して馳せ参ずる弔問客の来往織るが如く、大塚駅より新邸に至る数丁の間、『渋沢家』の道標を便りに疾駆する自動車は刻々にその数を増して、沿道一帯は時ならぬ雑踏を呈し、交通整理の為め臨時に出動せる警官、篤志の在郷
 - 第57巻 p.53 -ページ画像 
軍人団員、青年団員をして奔走に疲れしむ。
 この忽忙の裡にも子爵家では、渋沢同族株式会社を始め、第一銀行渋沢倉庫株式会社・東洋生命保険株式会社・石川島飛行機製作所・石川島造船所・竜門社等の各役員社員、その他故旧縁者等に亘つて総動員令一下、渡辺得男・白石喜太郎両氏を主幹とする葬儀本部は、佐々木勇之助・石井健吾の両長老を顧問に推して、直に葬儀委員の編成を了し、総員二百五十名に上る全委員夫々に、接待・儀式・受付・供物会計・記録・通信・連絡・交通・食事・邸内取締・火之元取締・礼状その他の部署に分属して、混雑と繁忙との裡にも、諸準備は整然として着々と進められた。
 斯くて悲嘆と混雑とに喪中の第一日は暮れて、涙の中に明けた翌二日には、午後七時三十分より御納棺の儀が行はれた。喪主子爵を始め遺族近親諸氏、御臨終の間に参集して、厳粛裡に御遺骸を霊柩に納め広書院の正面設けの壇上に安置したる後、子爵家の菩提所寛永寺より参向せられた導師輪王寺門跡権大僧正大多喜守忍師は、四名の式僧を従へて修礼、納棺式の回向は厳かに営まれた。
 次いで翌三日、今日ぞ最後の御名残を惜むべき御通夜の儀を修せらるゝの日である。払暁より降り出でた早春の雪に、邸内木々の枝葉時ならぬ粧を凝らして、自ら清浄幽邃の感を深からしむるも、時に取つての相応はしき装飾と観られた。
 この日揣らずも高松宮家に於かせられては、畏くも殿下並に妃殿下の御名代として、吉島事務官をこの新邸に差遣はされ、御供物一基並に御樒一対を霊前に下賜あらせられ、御鄭重なる御代拝を行はせられた。喪主子爵を始め遺族親族一同感激措く所を知らず、謹みて有難き御思召の程を拝戴し、取敢へず御礼執奏方を言上す。御後室としての余栄これに過ぐるものなかるべく、又子爵家一門として無上の光栄たるべきは、想像に余りある所ながら、然も亦宮家に於かせられて、如何に青淵先生御在世中の功績を御心に止めさせ給へるかは、拝察するだに畏き極みである。
 定刻午後七時一同霊柩前に参集、夫々設けの席に着くや、寛永寺より特派せられた寒松院僧正宮部亮紹師外四名の式僧に依つて、引続き十一時に至る迄御通夜の読経は修せられ、その間喪主子爵を始め近親その他参列者一同順次に焼香を献ず。当夜御名残を惜んで参集した旧知縁故者は三百余名に上り、夫々霊前に礼拝、焼香を献じた後、しめやかなる集ひの裡に、御後室御生前の事ども追憶談を交して更くるを覚えず、一同退散したのは十二時を過ぐる頃であつた。
 翌くれば四日、御後室御在世中この新邸に入らせられてより、未だ三月にも足らざる今日、儚くも永劫帰らぬ旅に出で立たせられる日は遂に来た。午前七時と云ふに喪主子爵を始め、遺族並に近親諸氏一同幾たびも霊柩を拝して、涙の中に尽きせぬ名残を惜まれて居る間に、午前八時迎引の使僧津梁院僧正長沢徳元師以下五名に依つて、出棺前祭の読経は営まれ、列座の一同をして正に断腸の思あらしむ。喪主子爵以下焼香を献じて愈々御見送の拝礼を了す。斯くて出棺の儀滞りなく終るや、午前九時三十分霊柩は近親に護られて霊柩車上に移され、
 - 第57巻 p.54 -ページ画像 
一同夫々に所定の順位に従つて乗車し、葬列は左の順序に編成せられ十時諸員の礼拝裡に粛々として新邸を出でた。
      葬列自動車順序
  一、先駆 (交通掛・警察関係掛)
  二、僧侶 (導師)
  三、僧侶 (式僧四人)
  四、香炉 渋沢武之助氏
  五、位牌 喪主子爵渋沢敬三氏
  六、霊柩
  七、遺族 渋沢敦子・同登喜子・同雅英諸氏
  八、同  男爵阪谷芳郎氏
  九、同  渋沢美枝子・渋沢正雄・同鄰子・渋沢昭子諸氏
  十、同  明石照男・同愛子・同武和・同喜久子諸氏
 十一、同  明石景明・同春雄・同正三・同義男・同百子・同君夫諸氏
 十二、同  渋沢博子・同正一・同純子諸氏
 十三、同  渋沢秀雄・同一雄・同栄子・同秀二・同花子諸氏
 十四、同  男爵穂積重遠・同仲子諸氏
 十五、同  渋沢信雄・同敦子・渋沢智雄・同節子諸氏
 十六、親族 高梨英男・山本勇夫・同梅子・田中孝子諸氏
 十七、同  佐々木哲亮・同かね子・久米治平・同郁子・皆川巌諸氏
 十八、同  伊藤栄子・同武雄・伊藤博生諸氏
 十九、同  渋沢元治・渋沢治太郎・同よしえ諸氏
 二十、同  尾高豊作・同豊子・同文子諸氏
二十一、同  田中栄八郎・同寿一諸氏
二十二、医師 大滝潤家・林正道・田中勇・諸葛三雄・折本勝治諸氏
二十三、看護婦五人
       (予備車、内一台本部用、二台儀式委員用)
二十四、血洗島諸氏
二十五、本部員
斯くて本邸を出でた葬列は、沿道両側に堵列せる地元住民の目送裡に粛然として環状線道路に出で右折して市電線路を横断し、飛鳥山前を右折して旧子爵本邸前を通過し、駒込橋を渡つて上富士前を左折し、動坂団子坂を過ぎ逢初橋停留所を左折して、寛永寺葬場へと向つた。
      御葬式から御埋葬式迄
 前日尚ほ雪催ひの空に暮れて、明日の天気を気遣はしめたその御葬式当日は、幸にして快晴に明けたが、早春の余寒は殊の外酷しく、東台の森常磐木の間を点綴せる枯枝は、時ならぬ霧氷の衣を纏ひて陽光に映ゆるも、却つて寂寥の感を催さしむるものがあつた。
 この日御葬式並に告別式場に充てられた寛永寺では、前日来清掃せられた境内を縦断して、山門傍の通用門より中堂に亘る通路一帯を、鯨幕を以て張廻し、告別式参列者の来往を劃す。通路の両側には旧知縁故者、子爵家一門の関係銀行会社、諸団体などより供進せられたる
 - 第57巻 p.55 -ページ画像 
数十基の生花・造花・花輪を処狭き迄に並列し、堂上堂下一切の準備を整へて、役僧一同先着の葬儀委員と共に夫々の部署に着き、今や遅しと葬列の到着を待つ間程なく、葬列は予定の如く午前十時三十分、役僧並に葬儀委員一同の出迎を受けて到着、霊柩は直に中堂正面の祭壇上に安置せられ、同十一時を以て愈々御葬式は開始せられた。
 式場向つて右側には喪主子爵を始め、遺族親族の諸氏一同粛然として着席し、相対して左側には葬儀委員その他の参列者、立錐の余地なき迄に詰合ひ、満場敬虔の念面に現れて整然と並座す。
 仰げば須弥壇の前面一帯を張廻せる薄茶色の幔幕を背にして、正面の壇上には霊輿に納められたる儘霊柩を安置し、霊輿の上には在すが如き御後室の大額写真を掲ぐ。霊輿の前面に立てられた『承徳院慈雲謙室大姉』の霊位は、縷々として立昇る香煙に掩はれ、前段に配せられた数々の供御は、はためく法灯の影を宿して、一段と無情の感を深からしむ。霊壇を繞る供華の垣は、畏くも高松宮家より御下賜の御樒一対を正位に配し、公爵徳川家達氏夫妻・公爵徳川慶光氏その他より供進せられたる五彩の生花、霊輿を掩ふて宛らに極楽境を現出す。満堂寂として静まり返れる裡に、定刻十一時大導師守忍権大僧正は、津梁院玄徳僧正・寒松院亮紹僧正・等覚院光裕権僧正等十五名の衆僧を従へて恭しく参殿し、御葬式は先づ四智讚四ツ鈸に依つて開始せらる次いで導師登壇し着座讚・法則・錫杖・奠湯奠茶・起合竜鑽合竜・歎徳・下炬・始経の順序を以て進められ、次いで導師焼香を了するや、喪主子爵を始め遺族親族諸氏は向つて右より、又一般参列者は同じく左より出でゝ、夫々霊前に進み焼香を献じ、同十一時五十分を以て御葬式は全く終了を告げた。
 斯くて一同別室に於て少憩の間もなく、午後一時よりは告別式を営まれた。定刻前より参拝する者陸続として織るが如く、財界・学界・教育界その他朝野の名士夫人等、その数実に二千五百名に上り、洵に青淵先生御夫妻の遺徳を偲ばしむるに足るものがあつた。然も斯く参拝者予想以上の多数に上りたるが為、告別式は、遂に予定よりも、三十分を延刻するの余儀なきに至り、終了せられたのは二時三十分であつた。それより霊柩は再び霊柩車上に移され、喪主子爵を始め遺族近親諸氏に護られて、谷中の子爵家墓所に到着し、直に壙穴に納められて、愈御葬儀最後の御埋葬式に入る。
 当日子爵家の墓所は周囲の生垣を繞つて鯨幔を張廻し、天幕張を以て墓所一円を幄舎にしつらへ、地上は玉川砂利を敷詰めて塵一つ止めざる迄に清掃せらる。青淵先生の御墓碑と並んで、向つて左側に穿たれたる壙穴の上には、木の香尚ほ高き総檜造の上屋を設へ、壙穴中は混凝土を以て固め、水密気密の装置その他の諸調度、総べて青淵先生の御墓に準じて完備せらる。
 二時五十五分大導師守忍権大僧正は、役僧四名を従へて参向し、自我偈を誦して埋葬前の回向を勤め、喪主以下順次に焼香を献じて埋葬前祭を終る。斯くて大導師以下退出し、参列者一同幄舎内の休息所に憩ふ間に、壙穴閉鎖作業は静粛の裡にも着々として進捗し、待つこと一時間半にして霊柩密閉装置成る。それより直に土掛の式を営み、次
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いで埋戻し、土饅頭築造、墓標建立、墓前の飾付等順調に運び、四時五十五分全く作業を終了す。墓標を掩へる白布は撤去せられて、尺角地上一丈五尺を抜ける檜造りの墓標には、墨痕鮮かに『子爵夫人渋沢兼子墓』の九字、折柄の落日に映ゆるも傷恨の極みである。
 次いで大導師以下衆僧再び参向、安楽行品を誦して墓前祭を修す。香煙墓標を廻りて土饅頭の彼方に消え、落葉を誘ふ一陣の嵐身に浸む折柄、爪繰る珠数の音冴えて、女人の誰彼が嗚咽の忍音、洵に腸を断つの思あらしむ。喪主子爵以下最後の焼香を献じて、全く御喪儀を了したのは、薄暮漸く迫らんとする五時二十分であつた。
 一同幄舎を出でて尚ほ低佪去るに忍びざるものの如く、顧みれば常磐木に蔽はれたる墓所の中、白木造りの上屋の屋根は樹間に隠見して物寂しく、颯々たる松籟も心ありてか咽ぶが如く、塒へ急ぐ烏の声も裂帛の悲調を帯ぶ。東台の森は漸く色黒みて、入相を告ぐる鐘の音も余音郤に響きて長く又低し。

 因にこの御不幸に際して新邸を弔問せられ、又御葬儀や告別式に参拝せられた人々は、全部で三千名の多数に上つたのであるが、高松宮家御使は申すも畏し、民間に於ける主なる諸氏は左の如くで、その中には令夫人帯同の方々も多数に見受けられた。(順序不同)
  入沢達吉氏 ○外九四名氏名略ス


竜門雑誌 第五四七号・第一一一頁 昭和九年四月 承徳院様満中陰御法要(DK570022k-0003)
第57巻 p.56-57 ページ画像

竜門雑誌  第五四七号・第一一一頁 昭和九年四月
    承徳院様満中陰御法要
 梅花尚ほ春寒に傷む三月一日、青淵先生令夫人承徳院様御他界あらせられてより、忽忙夢の間に月は革まりて、散り初むる桜花に春の名残の惜まるゝ四月十八日、早くも中陰は満ち、渋沢子爵家では当日尽七日の法要を営ませられ、更にこれが供養の晩餐会を催された。
 この日午前十時十分、喪主子爵渋沢敬三氏を首め遺族近親の方々の外、青淵先生御夫妻御在世中御恩誼に預りたる諸氏等、式場に充てられた寛永寺中堂に参集す。輪王寺門跡大多喜権大僧正は十四名の式僧を従へて登殿し、厳かなる読経、諸修礼を執行す。須弥壇前に安置せられたる承徳院様の御写真は今尚ほ在すが如く、参列の諸氏が追悼の情更に新たなるものがある。喪主子爵を初め一同順次に恭しく焼香を献じ、同十一時二十分を以て諸儀滞りなく了せらる。
 訖つて一同谷中の子爵家墓所に参詣す。御墓標の木の香未だ去りやらず、供御の生花尚ほ色香失せざるも傷々し。夫々御墓前に額ずきて散会したのは正午を過ぐる頃であつた。
 次いで午後五時半、供養の晩餐会は帝国ホテルの大食堂に於て開催せらる。来賓百七十名に上り、慎しやかの中にも盛大を極む。デザートコースに入るや、喪主子爵は遺族方一同を代表して、承徳院様御在世中に寄せられたる各位の御懇誼を深謝する旨を述べ、御在世中の事共に就き一場の追憶談を試みて挨拶に代へられたるに対し、大橋新太郎氏は来賓一同を代表して謝辞を述べ、青淵先生の偉大なる御功績の蔭に、令夫人の内助の効与つて力ありしを讚嘆せられ、男爵大倉喜七
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郎氏亦承徳院様の淑徳を敬慕して謝辞に代へられ、撤宴後一同更に別室に於て追懐談などを試み、しめやかなる裡に九時半散会した。


竜門雑誌 第五四六号・第九一―九三頁 昭和九年三月 亡き母を偲びて 渋沢秀雄氏談(DK570022k-0004)
第57巻 p.57-58 ページ画像

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