デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

1章 家庭生活
3節 家庭教育
3款 論語会・孟子会付曙町学寮
■綱文

第57巻 p.166-171(DK570073k) ページ画像

明治44年(1911年)

是年秋ヨリ、栄一、東京帝国大学教授宇野哲人ヲ講師トシテ、毎月一・二回、飛鳥山邸又ハ曙町学寮ニ於テ、論語ノ講読会ヲ開キ、大正六年ニ及ブ。次イデ孟子ノ講読会、兜町渋沢事務所ニ開カレ、大正十二年九月ノ関東大震災以後止ム。


■資料

渋沢栄一翁 白石喜太郎著 第五九三―五九六頁 昭和八年一二月刊(DK570073k-0001)
第57巻 p.166-167 ページ画像

渋沢栄一翁 白石喜太郎著  第五九三―五九六頁 昭和八年一二月刊
 ○第四篇 『初秋』 八 漢学
    その二 論語会
『私が渋沢先生に始めて知遇を辱うしたのは、年月ははつきり覚えてゐないが、明治四十三年に欧洲から帰り、その年の夏、服部先生の代りに国学院大学・東亜協会で講演し、之を東洋哲学大綱、孔子教の名で公にしたものを、穂積重遠君が読み、渋沢先生に推薦して先生が読まれ、その結果、四十四年であつたらうか、穂積君から竜門社で講演をしてくれとの依頼があつて、第一銀行で話をしたが、渋沢先生はじめ門下の人々が聴講された。講演の後で先生から、自分は孫たちに論語の講義をしてゐるが、自分の代りに講義に来てくれとのお話があつた。お引受けして「曖依村荘」に最初に行つたのは四十四年の秋であつた。月に二回の予定であつたが、毎回先生も出席せられるので、先生の御多忙のために予定通りには出来ず、二回又は一回、飛鳥山或は曙町の孫さんたちの塾に行つて講義をした。数年を費して論語が終り孟子は公孫丑まで終つて、震災の為に中止となつた。
 又、第一銀行で服部先生の代りに論語の講義をしたが、第一回の時には先生を始め重役の人々が講堂に二・三百名集つた。震災前までに郷党篇を終つた。その後は講義はしなかつたが、渋沢先生は私に向つて「その後は多忙で講義を聴かれないで」と、先生が九十一歳の時であつたか、その時も尚さう言つて居られた。老いて益々壮と云はねばならない。そして又渋沢先生は常に私を呼んで先生と言つて居られたのも、その為人《ひとゝなり》が偲ばれる。講義の時の出席者は、最初は穂積君、それに穂積老先生も出られ、阪谷男の嫡子希一君、渋沢先生の御夫人・令嬢(明石照男氏夫人)、正雄君も見え、嫡孫の敬三君が中心となりその兄弟の方々が主なる出席者で、その他には先生の外孫の方々、刀江書院主人尾高豊作氏、大川平三郎氏の御子息等も加はられて、大抵十五・六名内外であつた。夕食を共にして、支那料理のことが多かつたが、其後七時頃から講義を始めた。一時間の予定なのであるが、先生の熱心に動かされて、いつも二時間半、三時間になつてしまふ。一章を終る毎に、孫さんたちは極めて自由な質問をした。一例を挙げる
 - 第57巻 p.167 -ページ画像 
と、「子釣すれども網せず」と云ふことを普通に説明すると、成程網は不意を襲つて好くないが、釣は餌を以て誘惑するのだから却つて罪が深くはないかと云ふ質問が出た。すると青淵先生は淳々と説明して私を援助して下さつたことがあつた。講義は青年教育の為にとの事であつたので、私は文義の解釈の後に、出来るだけその方面の話をした。先生は又更に維新当時以来の御自分の体験に基いて之を補はれた。その一例をとると、「三年父の道を改むることなき、孝と謂ふ可し」といふ章で、私は子たる者の心地として、父の住ひ、部屋等を、父の在せる時のまゝにして置くと、その人存するが如くにして哀情切なるものがある。強ひて改めなくてもよいものは改めない、然し道に背くものは一日も早く改めねばならない。三年改めずとは前の場合を指すのであると言ふと、先生は、自分はもと名主の子で藍玉屋であつた。その職業をやめて国事に奔走したのは、父の道を改めたのだが、国家に対する止むに止まれぬ憂から出たのであつて、止むを得なかつた。自分が職業を改めるについては、父が歿する前に、お前の性質上此の職業はお前に向かないと言つて居られたのであるから、自分が職を改めたことについて、孔子様に叱られはしまいと言はれた。青淵先生はよく孔子の教と自分の仕事とを比べては、孔子様に叱られはしまいと言はれたものだが、今でもその言葉が耳に残つてゐる。
 又先生はよく論語を愛誦せられ、矢野さんが作られたダイヤモンド論語を常に身に附けて居られて、すつかりくづれてしまひ、尚一冊矢野さんに貰はれ、それも又くづれてしまつた程だつた。これ実に孔子の所謂「韋編三絶」にも比すべきであらう。かねて「論語と算盤」を唱へられ、論語を以て実業に携はる決心をされ、論語を以てしなかつたならば遥かに富を成したかも知れぬが、それかといつて損もしなかつた、論語を中心とするがよいと始終言つて居られた。
 中洲先生がその説を文章にして居られるが、これは青淵先生の意見を書かれたものである。先生の若い時には国事に奔走されて、数十の会社の社長をして居られた。今の別荘の辺は、陶淵明の所謂「曖々遠人村、依々壚里煙」の趣が昔はあつたのださうだが、私の行く頃には煙突が林立してゐた。その煤煙が別荘の中まで飛んで来たが、先生は此の煙も自分のやつたものと思へば小言も言へないと言つて居られた重病後、多くの会社をやめられてからは、子孫の教育に専心されたがその方々は今では皆社会上優位の地歩を占めて居られる。私の講義がどれだけ効があつたであらうか。当時私は実際教育から尊い体験を得て、夜晩く愉快に家路を辿つたものであつた。』
『私』と云ふのは文学博士宇野哲人氏である。此の記述で総てを尽して居るから、蛇足を加へることを控へるが、何れの会合でも左様であつた如く、子爵が最も熱心に講義を聴いたことを注意して置きたい。


父の映像 東京日日新聞社大阪毎日新聞社編 第二五八―二六〇頁 昭和一一年六月刊(DK570073k-0002)
第57巻 p.167-168 ページ画像

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渋沢栄一 日記 明治四五年(DK570073k-0003)
第57巻 p.168 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年     (渋沢子爵家所蔵)
四月三十日 晴 暖
○上略 六時敬三等ノ学寮ニ抵リ夜飧シ、後論語ヲ講義ス、穂積重遠来会ス、十一時王子ニ帰宿ス
   ○中略。
五月十八日 曇 暖
○上略 午後六時曙町寄宿舎ニ抵リ夜飧ス、篤二及穂積重遠・渋沢元治二氏来会ス、食後論語ヲ会読ス、朱註ヲ一覧シテ後新論語ニ及ヒ、両者ノ異同ヲ説明シ、加フルニ余ノ見解ヲ以テス、学而篇ヲ終リテ止ム、夜十一時帰宿 ○下略
   ○中略。
六月二十三日 晴 暑
○上略 午後五時曙町学寮ニ抵リ、論語ノ講義ヲ為ス、穂積重遠・同真六郎・渋沢元治・阪谷希一ノ諸氏来会ス、夜飧ヲ共ニシ、夜十時散会ス十時半家ニ還ル


渋沢栄一 日記 大正二年(DK570073k-0004)
第57巻 p.168-169 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十六日 晴 厳寒
○上略 午後五時ヨリ宇野哲人氏来リ、論語ノ講義アリ、来会者十七・八名、夜飧後三時間ノ講演及種々ノ討論アリ、夜十一時散会ス
   ○中略。
二月二十六日 晴 寒
○上略 午後五時帰宿シ、此夕論語会ヲ開キ、宇野哲人氏来ル、会員十数名来訪ス、夜飧後講義ヲ開キ、夜十時過ニ至リテ止ム、十一時散会ス
 - 第57巻 p.169 -ページ画像 
後新聞紙ヲ一覧ス


渋沢栄一 日記 大正三年(DK570073k-0005)
第57巻 p.169 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正三年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十六日 晴
○上略 午後五時曙町学寮ニ抵リ、論語ノ講義会ニ出席ス、夜十時過散会帰宿ス
   ○中略。
二月二十七日 快晴 軽寒
○上略 七時頃曙町学寮ニ抵リ、論語会ニ出席ス、十時散会、十一時帰宿後新聞紙ヲ一覧ス


集会日時通知表 大正三年(DK570073k-0006)
第57巻 p.169 ページ画像

集会日時通知表  大正三年     (渋沢子爵家所蔵)
十月五日   月 午後六時@ 論語会(於曙町寮)
   ○中略。
十月廿八日  水 午後五時半 論語会(飛鳥山)
   ○中略。
十一月九日  月 午後五時半 論語会(曙町寮)
   ○中略。
十二月八日  火 午後五時  論語会(曙町寮)
   ○中略。
十二月廿三日 水 午後五時  論語会(飛鳥山)


集会日時通知表 大正四年(DK570073k-0007)
第57巻 p.169 ページ画像

集会日時通知表  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月廿九日  金 午後五時半 論語会(飛鳥山邸)


渋沢栄一 日記 大正四年(DK570073k-0008)
第57巻 p.169 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月廿九日 晴
○上略 夜食後論語会アリ、宇野哲人氏来リテ講演ス、十時散会後新聞紙類ヲ一読ス


集会日時通知表 大正四年(DK570073k-0009)
第57巻 p.169 ページ画像

集会日時通知表  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
二月廿四日  水 午後六時  論語会(曙町寮)


渋沢栄一 日記 大正四年(DK570073k-0010)
第57巻 p.169 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
二月廿四日 晴
○上略 五時半曙町寄宿寮ニ抵リ、論語会ニ出席ス、宇野講師外会スル者十七・八名、夜十時散会、帰宿後新聞紙ヲ一読ス


集会日時通知表 大正四年(DK570073k-0011)
第57巻 p.169 ページ画像

集会日時通知表  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十一日  火 午後五時半 論語会(飛鳥山)


渋沢栄一 日記 大正四年(DK570073k-0012)
第57巻 p.169 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
五月十一日 雨
○上略 午後五時散会帰宿、夜論語会ヲ開ク、十時散会ス

 - 第57巻 p.170 -ページ画像 

集会日時通知表 大正四年(DK570073k-0013)
第57巻 p.170 ページ画像

集会日時通知表  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
六月十五日 火 午後五時 論語会(曙町寮)


渋沢栄一 日記 大正四年(DK570073k-0014)
第57巻 p.170 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
六月十五日 晴
○上略 曙町学寮ニ抵リ、論語会ヲ開ク、来会者十七・八名、夜十時散会帰宿ス


集会日時通知表 大正五年(DK570073k-0015)
第57巻 p.170 ページ画像

集会日時通知表  大正五年     (渋沢子爵家所蔵)
十一月廿二日 水 午後五時 論語会(兜町)


集会日時通知表 大正六年(DK570073k-0016)
第57巻 p.170 ページ画像

集会日時通知表  大正六年     (渋沢子爵家所蔵)
九月廿二日  土 午後六時 論語会(兜町)
   ○中略。
十二月十五日 土 午後六時 論語会(兜町)


集会日時通知表 大正七年(DK570073k-0017)
第57巻 p.170 ページ画像

集会日時通知表  大正七年     (渋沢子爵家所蔵)
三月廿二日  金 午後五時 孟子会(兜町)
   ○中略。
十二月十八日 水 午後五時 孟子会(兜町)


集会日時通知表 大正一〇年(DK570073k-0018)
第57巻 p.170 ページ画像

集会日時通知表  大正一〇年    (渋沢子爵家所蔵)
六月廿五日  土 午後六時 孟子会(兜町)


集会日時通知表 大正一一年(DK570073k-0019)
第57巻 p.170 ページ画像

集会日時通知表  大正一一年    (渋沢子爵家所蔵)
十二月十六日 土 午後六時 孟子会(兜町)


渋沢栄一 日記 大正一二年(DK570073k-0020)
第57巻 p.170 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一二年    (渋沢子爵家所蔵)
二月二十四日 雪 寒甚
○上略 事務所ニ於テ ○中略 夜食後宇野博士来リテ孟子会ヲ開ク、夜十時散会帰宅 ○下略


集会日時通知表 大正一二年(DK570073k-0021)
第57巻 p.170 ページ画像

集会日時通知表  大正一二年    (渋沢子爵家所蔵)
二月廿四日  土 午後五時 孟子会(兜町)
   ○中略。
参月廿四日  土 午後五時 孟子会(兜町)
   ○中略。
五月廿六日  土 午後五時 第六回孟子会(兜町)



〔参考〕集会日時通知表 大正四年(DK570073k-0022)
第57巻 p.170 ページ画像

集会日時通知表  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
九月三日 金 午后五時 敬三様御送別会(富士見軒)
   ○中略。
九月七日 火 午後九時 渋沢敬三様仙台ヘ御出発(上野停車場)

 - 第57巻 p.171 -ページ画像 


〔参考〕渋沢栄一 日記 大正四年(DK570073k-0023)
第57巻 p.171 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年     (渋沢子爵家所蔵)
九月三日 曇夜ニ入リテ雨降ル
○上略 午後五時富士見軒ニ抵リ、敬三ノ仙台行ニ付送別ノ宴ニ出席シ、一場ノ訓示ヲ為ス ○中略 八時再富士見軒ニ抵リテ送別会ノ継続談ヲ為ス午後十時帰宿 ○下略
   ○中略。
九月七日 時々驟雨来ル
○上略 午後五時三田邸ニ抵リ、敬三ノ帰宅ヲ待テ共ニ夜飧シ、仙台行ニ付修学中ノ注意ヲ詳細ニ訓示シ、且早川氏其他ヘノ伝言ヲ申示シ、八時過ヨリ敬三・信雄・智雄・中山氏等ヲ伴ヒ上野停車場ニ抵リ、送別シテ午後九時半帰宿ス
○下略
   ○中略。
九月十九日 晴
午前六時半起床入浴朝飧ヲ畢リ ○中略 加賀谷真一氏来リ、仙台ニ於テ敬三入学ノ事ヲ報知セラル ○下略



〔参考〕渋沢敬三先生追懐座談会筆記(DK570073k-0024)
第57巻 p.171 ページ画像

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