デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

5章 交遊
節 [--]
款 [--] 1. 徳川慶喜
■綱文

第57巻 p.396-410(DK570180k) ページ画像

大正2年11月22日(1913年)

是日徳川慶喜逝去ス。栄一、葬儀委員総裁トナル。


■資料

竜門雑誌 第三〇七号・第七四―八一頁 大正二年一二月 ○従一位徳川慶喜公薨去(DK570180k-0001)
第57巻 p.396-397 ページ画像

竜門雑誌  第三〇七号・第七四―八一頁 大正二年一二月
    ○従一位徳川慶喜公薨去
 従一位勲一等徳川慶喜公は優悠閑日月を楽みて亦た世と相関せず、去十一月四日にも家扶を相手に囲碁に余念なかりし折抦、聊か身心に異状を覚えしかども、五日、九男誠氏が男爵を授けられしに依り、其御礼として六日病を押して宮中に伺候し、各宮家其他の廻礼を済まして帰邸し、爾来西郷侍医を主とし青山・高山・高松諸博士の診察を受け治療に余念なかりし効もなく、二十二日午前四時容体俄に革りて、遂に同十分溘然薨去し給ひぬ、享年七十有七、訃報伝はるや朝野驚愕措く所を知らず。特に青淵先生には当日薨去前、電話にて容態急変の報に接し、倉皇同邸に馳せ付けて病床に伺候したる時は、早や縡切れし後にて、千秋の遺恨遣る方なく茫然自失せられたる悲歎の情想ひや
 - 第57巻 p.397 -ページ画像 
られて一入哀悼の感深からざるを得ず。
○中略
△葬儀委員 同日午前八時より親族旧臣会合協議の結果、葬儀委員其他の決定を為せり、即ち左の如し。
△葬儀委員 総裁 青淵先生 委員長 沢造兵総監 委員 宮本錦鶏間祗候 石渡貴族院議員 松本艦政本部長 山内中将 宮田砲兵工廠提理 榎本子爵 大鳥男爵
△接伴員 係長 松平子爵 係員 豊崎家令 平石・王虫両家扶 美濃部家従 武田こう子 大鳥男夫人 沢夫人 石渡夫人 其他八名
○中略
△勅使御差遣 二十九日午後二時三十分騎馬警官を先頭に菊花御紋章附の馬車三輛轣轆として小石川第六天の徳川公邸内に進み入りたるは是れなん畏き辺りの優渥なる思召にて 天皇皇后両陛下並に 皇太后陛下の勅使にして 聖上陛下の勅使なる海江田子爵以下 皇后陛下御名代原皇后宮主事取扱 皇太后陛下御名代岩倉公、所謂御三家御三卿の御出迎へを受け霊柩前に進みて幣帛・神饌・御榊・玉串を賜りたる後、畏くも左の誄詞を宣伝せられたり。
      誄詞
国家の多難に際して閫外の重寄に膺り、時勢を察して政を致し、皇師を迎へて誠を表し、恭順綏撫以て王政の復古に資す、其志洵に嘉すべし、今や溘亡を聞く、曷ぞ痛悼に勝へん、玆に侍臣を遣はし賻を齎らし臨み弔せしむ
徳川家一門何れも聖恩の優渥なるに感泣し、直に四条隆愛侯参内御答礼を申上げたり。
○中略
△埋棺式 葬儀終れば霊柩は渋沢総裁・沢委員長指揮の下に塋域内に送られたるが ○中略 平田斎主の最後の祭詞あり、慶久公・同令夫人実枝子は涙ながら土塊を壙穴中に投じ、宗室之に次ぎて祭式全く終り、一同は夕靄低く塋域を立罩む午後五時二十分、一同永久の訣別を告げて墓畔を去られたり。
因に公の墓誌銘及墓標は大沢正道氏命を受け、斎戒沐浴して揮毫せられたり。


東京日日新聞 第一三二九九号 大正二年一一月二三日 徳川慶喜卿薨ず(DK570180k-0002)
第57巻 p.397-398 ページ画像

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中外商業新報 第九九〇八号 大正二年一一月二三日 徳川慶喜公薨去 落葉散る事繁し第六天の夕 北斗星は隕つ悲雨蕭々の暁(DK570180k-0003)
第57巻 p.398-400 ページ画像

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中外商業新報 第九九〇九号 大正二年一一月二四日 徳川慶喜公薨去彙報(DK570180k-0004)
第57巻 p.400 ページ画像

中外商業新報  第九九〇九号 大正二年一一月二四日
    徳川慶喜公薨去彙報
○上略
      ▽東京市の弔問
東京市は東京に最も因縁深き故徳川慶喜公の薨去を聞き、阪谷市長は二十三日小石川の公爵邸を弔問したり、葬儀当日は市長其他の名誉職一同会葬し、阪谷市長は霊前に弔辞を呈する筈


中外商業新報 第九九〇九号 大正二年一一月二四日 愁風満庭 廿三日の徳川邸 納棺の式も終る(DK570180k-0005)
第57巻 p.400 ページ画像

中外商業新報  第九九〇九号 大正二年一一月二四日
    ○愁風満庭
      廿三日の徳川邸
      納棺の式も終る
○上略
△葬儀係総裁 には故老公と縁故深き渋沢男を推し、葬儀委員長には旧幕臣たる沢海軍造兵総監之に当る事となり、沢氏は午後より自動車を駆りて墓地並に斎場の下検分に赴きしが、最初斎場は上野寛永寺を以て之に充つる予定なりしも、今回の葬儀は神道の儀式を以て執行さるゝ事とて、寛永寺も寺院の体面上如何にも面白からず、頗る当惑の様子なりける故遂に
△上野に仮斎場 を設くるに決し、音楽学校北側なる旧天台宗大学跡の空地八百坪許の処を択び、不日工事を始むる筈なりと聞く、尚葬儀に要する調度は、装束師高田茂一手に引受て調製する事となるべく、墓地は既記の通り谷中なる徳川家墓地と定まり、二十三日朝来数多の人夫出張して壙穴掘鑿の準備に取り掛りつゝあり、此処には故夫人其他老公に先立たれし令息方を埋葬しある程にて、寛永寺内に埋葬せらるゝといふは虚伝なり
△葬儀は来る三十日 午後一時第六天の邸を出棺する事となり、二十三日夜を以て悲しき納棺の式は営まれぬ、慶久公夫妻を始め、親族の方々涙乍らにいと厳粛なる此の式に列りて、柩に納めし亡き老公の遺骸を臨終の室より別室に運び、種々の物を棺前に供へて第二日目の通夜をなせり、夜深くして星の光りも寒く、悲風瑟々と庭樹に咽び、英霊今や永へに柩の中に眠る、一門同族の方々の悲痛や想ふべし


中外商業新報 第九九〇九号 大正二年一一月二四日 慶喜公蟄居の跡 寛永寺庫裡の改築 大慈院書院の保存(DK570180k-0006)
第57巻 p.400-401 ページ画像

中外商業新報  第九九〇九号 大正二年一一月二四日
    ○慶喜公蟄居の跡
      寛永寺庫裡の改築
      大慈院書院の保存
 - 第57巻 p.401 -ページ画像 
上野東叡山寛永寺と云へば元上野一山の総称なりしが、維新後輪王寺門跡の許可あると同時に寛永寺一箇寺分立することゝなり、本堂は去る明治十二・三年頃建立されたる極めて新しき寺なるも、庫裡は元五代将軍常憲院霊廟の御守りを為し居たりし、大慈院を以て之に充てられるものにて、同院は維新の当時徳川慶喜公の謹慎蟄居せられし処なるが、今は頽破腐朽して其用に堪へざるを以て今度改築することゝなりたるも、同寺の檀家と云へば唯だ渋沢・大倉及び沼間守一と三家の新檀家あるのみなれば、其費用を得るに困難を感じつゝありしが、幸ひ建築材料として徳川公爵家より霊廟の枯木杉・樅等八十本約五千円渋沢・大倉両家より各五千円宛の寄附ありたるを以て、之を其基金となし三百坪約三万五千円の見込にて目下改築に着手中なり、尚ほ慶喜公蟄居の座敷も取毀されたれど、其材料は一切之を取揃へて同庫裡の一部に建設し、長く紀念とする筈なりと云ふ


中外商業新報 第九九一〇号 大正二年一一月二五日 徳川慶喜公葬儀彙報(DK570180k-0007)
第57巻 p.401 ページ画像

中外商業新報  第九九一〇号 大正二年一一月二五日
    徳川慶喜公葬儀彙報
○上略
△東京市の弔意 東京市長及十五区長は廿四日午後三時より市役所に会合、徳川慶喜卿の葬儀に対し左記申合を為せり
 特に市会を開き哀悼文を議決し之を公爵家霊前に供ふる事△葬儀当日市長及市会議長会葬する事△市会議員各区長其他の会葬に就きては葬儀係議員と打合せの上決定する事△東京市として根付榊一対を送る事△東京市役所及電車は葬儀当日弔旗を掲ぐる事其他各市民は随意とす△葬儀当日は市民互に歌舞音曲を遠慮する事△行列道筋は国葬の例に準じて道路不都合なき様整理し電車運転にも注意する事△市民一般の敬意を表する為警視庁と交渉して「イロハ」四十八組の消防隊を道筋に整列し奉送せしむる事△前日若くは当日小学校に於ては便宜生徒に訓話する事
○下略


中外商業新報 第九九一一号 大正二年一一月二六日 ○臨時東京市会 故慶喜公を哀悼(DK570180k-0008)
第57巻 p.401-402 ページ画像

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中外商業新報 第九九一二号 大正二年一一月二七日 ○東京府会の哀悼(DK570180k-0009)
第57巻 p.402 ページ画像

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東京日日新聞 第一三三〇七号 大正二年一二月一日 慶喜卿の葬儀(DK570180k-0010)
第57巻 p.402-403 ページ画像

東京日日新聞  第一三三〇七号 大正二年一二月一日
    慶喜卿の葬儀
      △天、暗澹として愁然痛むに似たり
        △葬列粛々として十丁に及びぬ
○上略
      △森厳の気流るゝ斎場の儀
上野東叡山寛永寺裏手の空地に設らへし斎場には、正午頃より葬儀委員たる渋沢男を初め江原素六・本多精一等の諸氏詰掛け、正親町伯・板垣伯・後藤男・真田男等先着せる諸員の接待に力めぬ、斎場は正面檜葺間口十間の式場内に紫に白き三ッ葉葵の紋を染抜ける幔幕を張り式場前左右四間に十間の幄舎には黒白の幔幕を張り詰め、右側は親類左側は朝野の会葬者席と定め、別に式場の傍に皇族席を設けたり、午後二時半葬列斎場に入り来り儀仗の軍楽隊「哀の極」を吹奏する処霊柩は村田・榊原・土屋・加藤の陸海軍中将に護られて式場の正面に安置さる、松原少佐以下の勲章捧持者は恭しく霊柩の前面に勲章を配列す、斎主たる神田明神宮司平田盛胤氏は斎官に命じて式場を整理せしめ、楽人が雅楽の吹奏中十名の斎官は木村副斎主指揮の下に神饌を供し終れば、平田斎主霊前に進みて拝礼、斎詞を朗読し終つて式場を退けば、木村副斎主は一つ橋会・葵会以下各団体の弔詞を霊前に捧げぬ
 - 第57巻 p.403 -ページ画像 
此間式場外に整列せる儀仗の軍楽隊より嚠喨たる奏楽起り、勅使清水谷侍従・皇后宮御使原主事事務取扱・皇太后御使岩倉主事は諸員の起立最敬礼中に静々と式場に入らせらる、勅使には尾州義親侯、皇后宮御使には紀州頼倫侯、皇太后御使には水戸圀順侯御先導申上げ皇族御休憩所に入らせられ、順次斎主の捧ぐる玉串を受けてこれを霊前に捧げて御代拝の事あり、勅使・御使が式場より退下すれば、御親族たる伏見若宮博恭王・同妃経子両殿下・華頂宮博忠王殿下を始め奉り、伏見宮貞愛王殿下以下の御使が御代拝をなして玉串を捧げ終るや、喪主慶久公は黒の狩衣に藁靴を穿ちて霊前に進みて玉串を捧げ、続いて実枝子夫人・厚男・同夫人・三令息・家達公・達孝伯・達道伯・池田侯等夫妻以下近親玉串を捧ぐ、家達公は一般会葬者に会葬の謝辞を述べそれより会葬者は玉串を捧げ午後三時半頃式を終り、近親及び葬儀委員の諸氏居残り、霊柩を寛永寺墓地内の壙穴に運びて埋棺の式を済ませ、墨跟鮮かに故従一位勲一等徳川慶喜卿と記されたる墓標の建られたるは日没の頃なりき


中外商業新報 第九九一六号 大正二年一二月一日 ○諸興行の寂寞(DK570180k-0011)
第57巻 p.403 ページ画像

中外商業新報  第九九一六号 大正二年一二月一日
○諸興行の寂寞 既報の如く卅日は幕府最後の将軍たる徳川慶喜公葬儀の当日とて、劇場は帝国劇場を始め開場中のもの及び寄席は全部休業して弔意を表し、日曜を当込の止むを得ざる浅草公園の活動写真館も弔旗を掲げ謹慎しつゝ興行し居たり


竜門雑誌 第三〇七号・第一一―二一頁 大正二年一二月 ○故徳川慶喜公の生涯 青淵先生(DK570180k-0012)
第57巻 p.403-410 ページ画像

竜門雑誌  第三〇七号・第一一―二一頁 大正二年一二月
    ○故徳川慶喜公の生涯
                      青淵先生
 従一位勲一等徳川慶喜公、十一月二十二日溘焉薨去の訃伝はるや、都下の各新聞記者は今更の如く驚愕の感に打たれ、争うて青淵先生を訪ひて其の追懐談を聴きて各紙上に掲載したる中には多少重複する所なきに非ざるも、後日の参照の為め其の全文を掲載することゝせり(編者識)
△時事新報至誠聡明なる公の人格 徳川前将軍の逝去は余りに突然の出来事なので驚きもし、且つ一層哀悼の念に堪へません。将軍は酒も煙草も御用ひにならず、極めて養生家で、適宜の運動も遊ばされて居られたので、私より三つ年上であつたとは云へ、私の方がお先きへ御免蒙ることゝ思つて居たのに、遂に今回の逝去に遇ひ驚愕の外ない次第である。将軍は何等世を憂えず悔まず、万事自然のまゝに任せて置くと云ふ性の方であつた。人事の最善を尽した上は天命を待つと云ふやうな人生観を抱いて居られて、全く安心立命の境地に在られた。私などにも常に天命には逆へぬと云ふ事を語られて、教訓された事が多かつた。何等自ら欲して求むるなく、嬉しい事があつても格別表面に現はされず、悲しみがあつても他に語らず、所謂、大悟徹底の人であると自分は思つた。私が民部様の供をして仏国に遊んで、三年の海外留学中に、明治維新の大事変があつたのであるが、民部様は本国からの召喚に依つて急ぎ帰朝され、私も共に帰つて、当時静岡の宝台院に謹慎
 - 第57巻 p.404 -ページ画像 
中の慶喜公を訪問したのであるが、其時公の居間の如きは極めて粗末に且つ用人の如きも僅かに両三人に過ぎぬと云ふ質素に、私は思はず涙を浮べ、驚く可き此の大変を歎いた。然るに公は私の愚痴を遮つて「渋沢も大分愚痴つぽいな、左様な過去の繰言を言ふよりは、仏国に居つた時の民部の話でも聞かせぬか」との仰せに私は恐縮に堪へなかつた。彼の彰義隊の騒ぎの折も、公は上野の大慈院と云ふ小寺院に籠居されて居つたが、官軍打入りの噂を聞いても将軍は聊かも驚かず、勿論手向ふ心などは無いので、其の時は裃を附けて鉄砲に向ふ考へぢやと仰せられて居つた。将軍家の大切な書類なども其時公自ら焼き棄てられた。之れを後に大変惜しいことの様に私から申し上げたら、公は何も秘密のものは無いが、死ぬ時などは後に何も残らぬが可いと思つたからと微笑されて居つた。
△明治の新政府 に対しても聊かの不平なく、私は公に五十余年間知遇を得たが、此の事に就ては一回もお話しがなかつた。常に沈黙を守られて自ら語らず、他の話に傾聴すると云ふ風であられたが、一度口を開かれると、一言半句にして要領を得られて居た。趣味は極めて多方面で、写真なども二・三度自分で写されたやうに記臆する。写真に就て面白いのは、今から五十年前私が始めて将軍家に御奉公に上つた時の事である。私は将軍家のお居間に写真が掲げてあつたので、将軍家ともあらせらるゝ方が夷狄の発明した写真などを飾つて置くのは実に怪しからん話だと思つた位である。此の一事を以てしても公が私などよりも新しい考へを抱いて居られた事が判明するであらう。碁は初段に四目位で、勝負を争ふと云ふよりは碁を楽しむと云ふ打ち方をされた。其他猟もやり、馬術・弓術なども達者で、且つ油画なども好まれ書も亦極めて立派であつた云々。
△報知新聞恭順謹慎の生涯 慶喜卿は遂に永眠なされました。私共家来の身に取つては真に夢の様である。今日私は既にあの世に旅立せられました卿に面謁して泣いて来た……思ひ一度卿の上に及ぶと、お恥かしいが此の様に涙が出て困る……御歳は七十七であるから早逝とは申されない。然し卿の生涯は長くて短い。短くて長いのである。回顧すれば卿の一生は洵に恭順謹慎の生涯である。安政五年には一年有余の間一室に閉ぢ籠りて謹慎され、慶応年間朝敵の汚名を受けさせられ政権を奉還されてからは、駿河国宝台院と云ふ寺で謹慎され、後同所高野町に移り、又草深といふ所へ転宅されて、近く明治卅年十一月迄はあの片田舎で田夫野人を友として足一度も花の都の東京へは御出でなかつた。私共臣下の身から卿の身の上を考へますと、何とも申上げ難い程の淋しい感じがするのである。併し之れは私共の凡夫の浅ましさから起る思ひ遣りで、此の様な同情は却つて卿の人格を汚すものである維新の年の冬に私は欧洲から帰朝して、取るものも取り敢ず駿州に御謹慎中の卿に面謁しました。その時私は血気盛りの二十九歳で卿は三十二歳でいらせられた。嚮に出発する時には威勢並ぶものなき征夷大将軍であつたのに、帰り来つて拝すれば観るも憐れな此の様に、私は思はず世の変遷を喞ち男泣きに声を立てゝ泣き伏した。そして愚痴の数々を言上すると、卿には言葉優しく「既往の事を愚痴釜敷語るより
 - 第57巻 p.405 -ページ画像 
西洋の状勢なりと聴かせて呉れ」と申されまして、一言片句も政治上の事には及ばれませんでした。その時私は大悟徹底されて居る卿の襟度に敬服しました。思ふに慶喜卿は一橋家を出でゝ将軍とならるゝ当時より早く既に政権奉還といふ事を覚悟して居られた事と信じます。私共は当時極力将軍たらるゝ事に反対をした。といふのは今となつて見ると私共の未練でありました。私共の考へは一橋家は朝廷からは尊王のものと認められて居り、諸侯からも甚だしく忌まれた訳ではないから、今大将軍となつて此の混乱の禍中に入つて衆怨を一身に受くるより、寧ろ安穏なる現地位にある方が策の得たるものなりとして盛んに御諌止申上げました。けれども卿には深く御覚悟があつたので、遂に十五代将軍となられ、円満に且つ平穏に政権奉還の大業を完成されたのであります。此の意味に於て卿は王政復古維新の功臣であり、万民塗炭の苦を未発に防いだ天下の慈君であります。世間では公の歌として「君の為め国の為めとてしはし身は、忍ケ岡の墨染の袖」といふのを伝へて居るが、是は誤りで、誰れかの偽作である。和歌は却々お好きで沢山あるが、私は「ふみわけてたづぬる人のあとこそ若菜も雪の下にまつらめ」といふのを記憶して居る。御性格の一端を窺ふに足るものである。
△東京朝日心事甚だ高潔也 予は元治元年二月、御用人平岡円四郎氏の推薦により、初めて、慶喜卿が禁裡守護総督として京都三条通り若狭屋敷跡の一橋屋敷にあらせらるゝ時、同所に赴きて仕へたるより今日に至る満五十年に達するものにして、卿の幼少時代は容貌端麗にして随分負ぬ気の強き方なりき。されど成長せらるゝに随ひ至極円満の方となられたり。卿が政権を奉還せられたるは決して容易の事にあらず、匹儔稀なる英断により遂に大政奉還を断行せられしは、卿の心事の如何に高潔なりしやを想見せしむるに足れり。而して新政に対ては、一言半句も批評的の言を発せられざりしは、更に其の人格の高きを証するものなり。卿は平生至極質素にして、一橋家時代も将軍時代も又今日に至る迄も毫も華美の風なかりき。且卿は謹厳にして寡黙なれど、他を愛せらるゝの至情に至りては常に仕ふるものゝ感謝措く能はざる所なりき。卿は囲碁を嗜み初段に四目位なり。其他写真・乗馬・油絵銃猟を嗜み、凡てに通暁せざるなく、殊に打球は非常の名手なりき。又弓も達者にして、漢書に親しまれ、書は柔かにして熟練せる方なりき。予は曩に卿の詳細なる伝記編纂に着手し、御存命中に之を完成せんと期せしも遂に為し能はざりしは返す返すも遺憾の極なり。
△西洋画には堪能 慶喜卿が幼少の頃より卿の母堂にて有栖川宮家より御降下相成たる登美宮女王殿下に仕へ給ひ、卿が一橋家の養子となるや、転じて公の御近侍となれる安島道子刀自は曰く「公は名君水戸烈公の七男で七郎麿と名乗つてゐられたが、御腹貞芳院殿即ち登美宮女王殿下の出としては卿と卿の実兄鶴千代君のお二方より外はないのです。第十二代将軍刑部卿が病気の際、公の顔を見られると忽ち平癒されたと云ふ程可愛がつてゐられたさうです。烈公の御寵愛も深く外出される時は常に御一緒に同じ御籠へ御乗りなされたと云ふ位です。卿は非常に慈み深い方で、十歳の時小石川の御邸(砲兵工廠)へ御移
 - 第57巻 p.406 -ページ画像 
りになつたが、或日お物見に登られて、前の河岸通りで一人の小僧が過つて川中へ陥りづぶ濡れになつてゐるのを見て、近侍のものに「あれを早く救けてとらせよ」と命じ、其上に「予が着物をやつて、着替へさせよ」と仰有つたことがありました。今なら何でもないことだが其時分は将軍家の御世嗣にもなられると云ふ御身分であるから、近侍の者もその御情深いお心に感泣したほどです。御道楽として謡などをよくせらるゝと云ふことは、誰も知つていることですが、画が非常にお上手であつたと云ふことは、余り多く知られてゐないやうです。殊に以前は西洋画をよくお描きになり、或日美事な夏の富士山の油絵をお描きになつて、御母君登美宮殿下へ献ぜられましたが、其絵は更に私が頂戴いたしました。誠に立派なものです』云々。
△東京日日天命を悟つて慶久公に遺言 ○略ス
△中外商業眠るが如く大往生 ○略ス
△国民新聞死ぬ時は無一物 慶喜公の薨去については唯もう驚駭し且つ痛歎する外はない。老公の御風邪の事は此月始めから聞いては居たものの、元来無病のお方で、豈夫今日の事かあらうとは思はなかつた。尤も三年計前から大分お弱りになつて居られたやうである。老公はお若い頃から何となく大悟徹底したといつた様な気風があつて、私が欧洲から帰朝して駿府の宝台院にお訪ねした時などは、古に変る御様子に思はず胸が迫つて愚痴を申上げると、老公は「マアそんな事よりは、民部の様子や彼地の模様などを話して聞かせよ、過ぎ去つた事は幾ら繰返しても何等の値打ちもないものぢや」と一言の下に私の愚痴を郤けられた、御維新後でも政府の事については一言半句の批判をせられた事もない、近頃は何時も人事はあく迄竭す可きも、人は成る可く自然に逆はぬ様に過たいものだと云つて居られた、今度も自ら臨終を悟られたものと見え、家令の豊崎といふ人を呼んで「今回の病気は何うかと思うが、若しもの事があつても必ず狼狽しない様に心掛けて居らねばならぬぞ」と仰せられた。老公は別に何等の求むる処もなく、寧ろ全然欲望のない方のやうに思はれたが、趣味としては碁がお好きで初段に四目位のやうに承つて居たが、筋合も正しく、さも愉快そうにお打ちになつた。それから馬に乗る、油絵を描く事、打球・弓術・撃剣にも趣味を有せられ、且つ之等の事は自ら遊ばされた。又写真をお撮りになる事は御維新頃からの事で、私が駿府の宝台院の書斎のやうな小さな室でお目にかゝつた時には、楣間に写真が掲げられて居たので、当時は未だ西洋嫌ひであつた私などは、之れが酷く気になつて、旦那様も此分では行末が思ひ遣られるなど一寸思ひ浮べたやうな事もあつた。
△中央新聞公の有り難き思召 私が初めて卿にお目に懸つたのは元治元年の二月であつた。当時私は尊王の志士と交り、大に攘夷を主唱して居た際であつたが、不幸万策破れて幕吏の追及益々急となつた、其所で以前から懇意であつた一橋家の用人平岡円四郎の推薦で一橋家の家人となつたが、其時慶喜公は禁苑守衛総督であつたので、京都三条通りの若狭屋敷に居られたが、頗る粗末な屋敷で、初めて面謁した座敷は小さい書斎で、西洋の写真が一枚掲げられてあつたばかりである。其
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後二度目にお目に懸つた折、外交問題や当時の天下の大勢等を陳述して大に尊王を主張したが、卿は感心された態度で「尤もだ」と唯だ一言仰つた限りであつた。又私が一橋家の兵制や財政に就て献策したことがあつた。其時卿は用人に対し「渋沢に何か意見がある由だから彼れをして其衝に当らせた方が宜しからう」と仰しやられたので、万事私が仕事を致したが、何事も私の勝手に十分手腕を発揮させる如うにせしめられた為め、大に兵制の改革も財政の整理も思切つて断行することが出来た。
 後年彼の水戸家の養子となられた徳川民部が欧洲に遊学されたる時慶喜公は「渋沢は面白い男だが、余り攘夷々々と云ふから少し西洋の事情を見聞させてやらう」との有難きお考へで、遂に民部様の学友と云ふ名義で、私も仏国へ遊学することゝなつたが、慶応四年の冬明治維新の戦乱で残念ながら帰国して了つた。丁度私が帰朝すると、慶喜卿は江戸城を明け渡されて駿府の宝台院に謹慎されて居た。余り世の急激な変化に私が痛憤すると、慶喜公は静かに「愚痴を云うより寧ろ民部の事や欧洲の事情でも聞かして呉れ」とお仰つたには、私はハラハラと感涙を催した。此恩義の辱さに今でも私は毎月十日に旧幕臣或は旧一橋家の人々と共に慶喜公のお邸で懇親会を催し、互に往事を談じ、以て慶喜公を慰め申して居たが、今月は都合あつて十五日に開会しようと思い、私が十日に参邸すると「少し身体が悪い」とのことであつたから其儘帰宅し、十五日に再び参邸すると、漸く病床に通されたが、公は「心地が快いから二十日頃例の会を開かう」と仰せられたが、これがお名残りと為つて了つた。
△読売新聞大悟徹底の老公 老公の薨去は寔に意外と申す外はない。御老年の事だから今日の御事は止むをえぬが、何しろ突然なので愕き且つ哀悼に堪へぬ事である。此の月の初めから風邪の御気味と承はつたが元来無病息災の御方ではなく、時々感冒や不眠症にお罹りになつたがお弱くはなく、一昨年国津府で御静養後益々御健勝で、御長寿を期待して居たのであつた、毎月二三回は必ず拝謁して居たから、御老衰の御模様も著しくは分らず、予より三歳の御年上で卒然薨去となつたのは感慨に堪へない。今暁御危篤の報に接し、早速参邸したが、御臨終には間に合はなかつた。御近侍の方も斯う急変のあらうとはお思いにならなかつたようである。
△昔夢会の事 昔夢会といつて毎月又は隔月に老公を中心に往事を語る会合を自邸に開く例なので、今月も十五日に開かうと計画し、十日参邸して御沙汰を承はつたが御引籠り中なので拝謁せず、多分当日には出席出来るであらうとの事であつたから、夫々準備を整へたが、十三日に至りまだ御快癒にならないから当日は中止されたい、二十日頃なら出席出来やうとのことであつたが、昨朝に至り突然三十九度九分の御高熱となり、心臓を冒され、一時低熱となられたが、夜に入つて再び心臓を冒され、遂に今朝午前四時薨去になつたのであるが、其の前夕御宗族近親を枕頭に召され、予も今回は六かしいと思ふが、決してあわてぬやうにせよと、それとなく後事を托されたとの事である。
△裃で鉄砲の前 老公は実に生ある処死あり、人事を尽して天命を知
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るといふ観念に大悟徹底して居られた方である。自然に逆らはぬやうにして安心立命を求める処の少ないといふよりは寧ろそれの全く無かつたと謂ふべきで、貪瞋痴の俗情は微塵もあられなかつた、上野三十六房のうち最も小さな大慈院に籠居中の如きも、官軍打入の計画ある由を聞かれ、とても敵はぬ事であるから屑く裃を着て鉄砲の前に立たうと、泰然自若として居られた。其時重要な書類を火中に投じられたが、今日となつてみると寔に遺憾な事で、曾て其の事を申上げたら、イヤ当時は史料編纂などいふ事は思ひも寄らなかつたからとお笑いになつた事を記憶して居る。
△老公の洋癖 予が老公に初めて拝謁してから数えれば本年で正に五十年、元治元年の二月予が用人平岡円四郎氏に推挙されて参邸したのは京都三条の若狭屋敷で、当時老公は一橋侯として禁裡守衛総督といふ要職に在られたに拘はらず、拝謁の場所は小さな御書斎で、老公は徹頭徹尾節倹質素であつた、その時その御部屋に写真の掲げてあるのを見て、攘夷論者たる予は老公の洋癖を苦々しく思つた。その後は折にふれて幕府の維持の六かしい事、天皇の尊ぶべき事、薩長両藩の勢力に就て愚説を申し上げたが、老公は常に無言のまゝ傾聴して居られた。兵制、貢米の収納等に対し、愚見の御採用になつたのも尠くなかつた。
△駿河の貧寺に謹慎 慶応三年一月、民部卿御洋行の際予は選ばれて随員となり欧洲各国を歴遊したが、其の間に幕府は倒れ、留学の一行は翌年十一月の末に帰朝した、老公はこの時駿河の宝台院といふ貧寺に御謹慎中、拝謁して桑田無常の感今更の如く、予は余りの御事と不平を申し上げた処が、老公は莞爾として、過去の愚痴を云つても詮ないこと、それよりは民部の身の上、海外の模様などを語り聞かせよとの仰せに、深く予の一徹を愧じたのであつたが、老公が安心立命大悟徹底して居られたのはこの一事でも明かであらう、今から五十年前御居室に写真を掛け、乗馬には西洋鞍を用ゐられた程であるから、老公が当時から洋癖のあつたのは明かで、御自身油絵も書かれたし、独書英書などは読まれなかつたが、翻訳書に依て世界の大勢を知ることは決して怠られなかつた、写真も御上手であつたし、囲碁は初段に四目位で、論理を考究しながら愉快げに打たれた、乗馬・銃猟・弓なども好まれ、打球は無比の名人であられたとの事である。書も美事なもので、初めは米庵に学ばれ子昂の風を帯びて居られたやうである。
△都新聞卿の政権奉還 卿が政権を奉還せられしは徳川十四代の後を受けたる卿としては、決して容易の事にあらざりしも、当時卿は京都にありて江戸に何等の伺ひもなく、老中板倉伊勢守主として奉還の件に参じ、卿の英断により遂に奉還せられたるは、実に卿の心事の高潔にして然も大悟徹底せる所を示して余あり、然も新政に対しては一言半句も批評批難の声を発せられざるは、更に其の人格の高きを思ふべきなり。卿の性格を一言にして掩はゞ、仏教の所謂貪瞋痴の無き方にして、人事を尽して天命を待つの風あり、贅沢を好まず、万事至極質素にして一橋家時代も、将軍時代も、又今日に至る迄も毫も華美の風なく、高風欽ずべき者ありたり、而して至極報公献身の精神に富ませら
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れ、謹慎力の強大なるには驚く程にして、常に寡言、然も其の臣下を愛憐せらるゝの至情に至りては、常に仕ふるものゝ感激措く能はざる所なりき。
△卿の嗜好 卿は囲碁を嗜み、笊碁中の名手にして、初段に四目位にて常に楽しく愉快に理論を攻究し、又た写真・乗馬・油絵・銃猟等をも嗜み且つ通ぜざるはなく、殊に打球に於ては非常の名手なりき。又弓術に長じ、読書は重に漢書を親まれ、書は至極練熟の域に達したりき、予は曩に卿の詳細なる伝記編纂に着手し、御存命中に之れを完成せんと期したるも遂に其事能はざりしは返す返すも遺憾の極なり云々
△日本新聞昔夢会の中心 私は慶喜公危篤の急報に接しましたから、早速小石川第六天町の邸に伺候すると、既に薨去後に一足後れし為め、御臨終前に拝顔の叶はなかつたは返す返すも残念である。
私の家に毎月若くは隔月に昔夢会と称する会を開く、此会は往事夢の如しと云ふ意味より其名を附け、慶喜公を中心として組織されたので公の伝記を作るが目的であるから、集まる者も旧幕の親近者が多いが公は開会の都度御臨席になる、維新前後の事に就き色々お尋ね申すと世間で伝えるのは間違で、あれは斯々、是れは云々と語られる、談話の間合には碁を囲み或は庭園内を散策さるゝが常である、実は去る十五日に此会を催す筈の処、十三日家令は老公は微恙の様子なれば延期されたし、二十日頃には全快して臨席も出来るならんとの話ありしを以て私も其心得で居りしに、二十一日朝に至り激熱に変じ、病勢次第に革まりて遂に薨去されしを見れば、容体は僅かの間に急変されたのである。
△天命を楽しむ 併し老公は臨終前多年勤続する家令の豊崎氏に対し今度は六づかしからんとて後事を語れしとか、一体老公は自然主義を愛する方で、自然主義と言へば現代のは情愛に属するのが、老公のは天命即ち自然にして此自然に逆らはぬ様にしたいとの説を持つて居つた、哲学上の奥義を究めて此意見を唱ふる訳でも無かつたが、兎に角大悟徹底の人で総て求むる事なく、憂ふる事なく、所謂貪瞋痴と云ふことは老公に於て絶無と称して好い、是まで幾度か死に臨んで平然として怨む色もなく怒る色もない。
△二六新聞寛仁大度の人 慶喜様も終に逝去なされた、余り突然の事で寔に惜しいと思つて居ます。公の伝記を編む参考に当時お側に居た人々達が昔夢会というのを作り、種々其時分の物語をする事になつて居て公も屡御出席になりました、丁度此の十五日に昔夢会を開く筈でしたから、十日の日に御越しを願に参ると、其頃から少し御風気で臥せつて居られ御目に懸る事が出来ませんでしたが、会には出るとの話しであつた。それから十三日に又御伺いすると、二十日頃には出られるだらうと元気よく御話しがあつたのですが、其後二十日の晩から急に発熱され、とうとう御逝去されたのです。其時新公爵の御夫婦やお側の豊崎氏等を枕元に召され、今度はどうも快癒せぬかも知れぬから、其時は余り狼狽せぬ方が好いと仰せになつて、如何にも従容として居られたさうです。公は何時も人間は自然に任すべきものであると仰しやつて、悠々自適、天を楽しむ風でした、仏法に貪瞋痴という言葉があ
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るが、公は全くこんな事の無い方でした。謂はゞ喜怒哀楽を超越した人、大悟徹底して居られたといつても好いでしやう。昔江戸城を明け渡して上野の大慈院に籠居して居れた時分、彰義隊が官軍に反抗するからというので、官軍が愈大慈院に討入るといふ話があつた時、公は決して抵抗するような御心が無く、もしも官軍討入るなら、〓〓を着て鉄砲の筒に向はふと、近侍の者共に公の意のある処を話されたことがあるそうです、丁度此の様な噂のあつたものだから、種々の書類等を焼き棄てられたので、伝記を書く上に寔に残念です、何をお遣りになつても御器用な方で、写真も御遣りになれば、油絵も御書になり、書も御堪能であつた、其外乗馬や、猟や、打球、弓、皆んな御上手であつた、碁なども初段に四目位の処で、よく愉快相に勝負を度外して其の変化や駈引などを楽まれたものです。云々
   ○本資料第二十七巻及ビ第四十七巻所収「徳川慶喜公伝編纂」参照。


中外商業新報 第九九二一号 大正二年一二月六日 ○故徳川公の法要 施主は増上寺(DK570180k-0013)
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中外商業新報  第九九二一号 大正二年一二月六日
    ○故徳川公の法要
      施主は増上寺
芝増上寺に於ては古来より徳川家とは特別の縁故あるを以て、特に五日午後一時半より、東京府下の同本山一門の寺院を招集し、故慶喜卿二七日正当忌追福の為厳なる法会を営みたり、本堂大殿には予め意を罩めたる荘厳飾付をなし、先づ内陣須弥壇中央には檜白木造りの厨子中に「故従一位勲一等徳川慶喜卿 尊儀」と謹書せる位牌を奉安し、其の前机には香華・灯燭・糖菓・茶・珍羞を献供し、故霊を請来す可く充分の用意を整へ、堂の内外幽韵の気に満ち満ちつ、軈て定刻となるや堀尾大僧正は緋衣金襴七条葵紋章の袈裟を掛け脇導師・役僧・伴僧・式衆百余名を随へ大玄関を出で、本堂向拝より儀容粛々として嚠喨たる奏楽の裡に上殿し、正面礼盤に着座せり、此時已に東京府下同門寺院五百余名の清衆は左右両列に連りて青黄色取々の衣あざやかに粛然として時の至るを待てり、而して式は浄門至極の法式たる四智讚に始まり梵唄迦陀の朗諷ありて、施主即ち堀尾大僧正は徐ろに霊前に進み縷々一千余言の頌を捧げ了つて合音に阿弥陀経をあげ、此の中参拝者の焼香ありて念仏一会午後二時半其の式を終りたるが、参拝の主なる人々は有栖川宮・伏見若宮・華頂宮の御代拝、徳川慶久公・同家達公・同圀順侯・同達孝伯等の遺族宗族の方々、阪谷東京市長、渋沢山内両男爵等三十余名