デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

6章 旅行
1節 国内旅行
■綱文

第57巻 p.668-676(DK570314k) ページ画像

大正11年7月2日(1922年)

是日栄一、東京ヲ発シ埼玉県忍町ニ赴キ、同町商工会及ビ信用組合主催ノ講演会ニ於テ、講演ヲナシ、即日帰京ス。


■資料

竜門雑誌 第四一〇号・第五四―五五頁 大正一一年七月 ○青淵先生の忍町講演会(DK570314k-0001)
第57巻 p.668-669 ページ画像

竜門雑誌  第四一〇号・第五四―五五頁 大正一一年七月
○青淵先生の忍町講演会 青淵先生には埼玉県忍町商工会及信用組合の懇望に依り、去る七月二日午前九時十二分増田明六君を随へ王子駅発汽車にて、均しく講演を依頼されたる指田義雄氏及同地より出迎の為め上京したる石島儀助・相田延一の両氏と共に同地に赴かれたり、十時四十四分吹上駅に着、有志者の出迎を受け、自動車に分乗して忍町に到り、先づ東照宮に参拝して、拝殿及社務所に於て、有名なる黒本尊徳川家康公の画像、徳川十六将軍像掛軸等を始め、旧藩主松平子爵家の宝物たる後光明天皇御宸筆、東照宮の掛軸、信長・秀吉・家康の三公着用の鎧、家康公の木像・真翰等拝見の後、若干の幣帛料を神社に寄進し、夫れより実科高等女学校を参観し、又忍高等小学校を観其校庭に於て記念撮影を為し、次で前日落成式を挙行したる公会堂の楼上に於て茶の饗を受け割烹店魚七に到り、有志十数氏と共に談話されつゝ午餐を共にし、餐後数葉の揮毫を試み、午後三時劇場大正座に於ける講演会場に臨まれたり、会場には苟も町内の戸主たる人々は殆ど全部入場したる由にて、其数実に二千に垂々たり、商工会長石島儀助氏の開会の辞に次で、先生は満場割るゝ如き拍手に迎へられて登壇し、青年幕府に仕へ、慶応三年徳川民部公子に随従して海外を視察したる感想より、爾来六十年間我国経済界の変遷を述べて、現下世界に於ける我国の位置に及び、政治界・実業界の可憂現状と思想界混乱の状を指摘して、国民の道徳心より進んで先生の持論たる道徳経済合一論に移りて聴衆を戒告し、滔々一時間半に及び、最後に武蔵武士・埼玉県人物誌、及カーネギー自叙伝(是等の書物は先生の尽力に依りて
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上梓に至れるものなり)を本日小学校及実科女学校に寄附すべければ諸員は清閑の折、之を閲読せられ、鎌倉時代、武蔵一国の力は能く全国に当ると謂はれし如く、武蔵住人たる諸員は大に発奮して古武人に劣らざる人物たるべし、又米国の一活版職工たるカーネギー氏を模範とすべしとて、多大の感動を与へられたり、次に指田義雄は人格の感化と題し、一場の演説を試み、四時半退場、帰路尾崎一馬氏方に至り小憩の後、五時廿一分吹上発列車にて六時十五分上野駅に帰着、無事曖依村荘へ帰館せられたり。


青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本(DK570314k-0002)
第57巻 p.669-676 ページ画像

青淵先生演説速記集(三) 自大正十年四月至大正十三年二月 雨夜譚会本
                     (財団法人竜門社所蔵)
            大正十一年七月二日忍町に於て
    子爵渋沢栄一閣下講演
……(大拍手、起る)……。初めて当忍町に出まして皆様に御目にかかる機会を得ましたことを、深く喜ぶものであります。此方の商工会なり、信用組合の御催ふしに就きまして「一場の講演をするやうに」とのことでありましたが、私は政治界にも関係が無く、実業界も数年前から引退して居るものであります。但し、国民たる義務は死なねば止みませぬから、斯の如く老衰しましても、国民の一人として老後の微力を尽して居ります。それ故に迚も諸君に対して、学問的若くば時勢の観察に於て裨益することは出来ませぬけれども、当忍町も県内有数な場所であり、私も同県人のことでありますから、生れました土地場所も異なつて居りますけれども、国を思ふと共に我が県のために図る義務があります。斯様な関係のある処に、商工会・信用組合の有力なる団体の御催ふしがありましたから、老衰はしましたけれども、喜んで参上致しました。右様の次第でありますから、諸君に裨益することの少ないのを御諒承願ひます。私が玆に申し述べやうとすることは前置しましたやうに学術若くば時局のことでは無く、思想界及び経済界のことに就きまして、我が帝国の将来は如何にやらねばならぬか、約言すれば当忍町の諸君は如何にすれば良いか、自分の思ふことを遠慮なく申上げまして、果し御同説であれば共に侶に奮励して、日本の今日を救ふために――救ふことは無いけれども、悪いことは直ほし、善い事は進めるために――愚見を申し述べやうと思ひます。
年を取りますと、昔のことを考へるのが人間の常でありまして、何時も繰り返へして「俺の若い時は斯うであつた」と云へば、世の中の人は「又か」と申しますけれども、未来のタントある人は過去が無く、過去の長かつた人は未来は僅かであります。過去が長く、未来の少いものが、未来の長いものに□□を申し《(欠字)》述べますことは、私どもから云へば旧套の語であります。それで多数の人に会へば「俺の若い時は斯うであつた」と云ひ度くなります。私は当町から四里半を離れた、大里郡の深谷在に生れたものであります。昔は麦や藍を作つたことを、皆様は御知りなさるまい。併し、私は麦を作り、藍を作ることとには相当の経験があります。今は「御前と力を較べやう」と云はるれば負けますけれども、昔は負けなかつた百姓育ちであります。……(笑声
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起る)……。併し私は或る機会から家を出て六十年の歳月を経て居ります。六十年と云へば、随分長い歳月を経て居ります。其間には種々な浮き沈みがあつたこと、年経るまゝに回想されます。私は旧幕当時海外旅行をしまして、慶応三年仏蘭西に行きました。旧幕末に際して行きましたが、当時は仏蘭西の奈破翁三世が未だ時めいて居つた時分で「欧羅巴の文明は斯様なものであるか」と皮相ながら知ることの出来ましたのは、今から六十年前でありました。殊に自分が記憶するのは、今東京に小さい博覧会(平和記念東京博覧会)が開かれて居りますが、仏蘭西で千八百六十七年に開かれた博覧会は世界的のものでありまして、其開会に際して奈破翁三世が述べたる開会の辞は実に「世界を呑吐する人の言葉は、斯くも勇壮であるか」と思つたのであります。其時分の日本は未だ彼方に知られて居らなかつたので「日本は支那の一部であらう」「支那の属国であらう」と屡々問はれまして、私等は憤慨に堪へず「ノー、々々」(否々)と否認したのであります。奈破翁三世の言葉を、記憶の儘に申せば
 凡そ世界の文化を進めるには、種々の点より知見を啓かなければならぬ。之には国の各方面より種々のものを集むれば、古きもあれば新しきもある、緻密なのもあれば、荒つぽいものもある、□□《(欠字)》なのもあれば、清新なものもあると系統的に示すのが、人文発展に資するものである。
とて、仏蘭西で博覧会を開かれました。さうして
 之は古代支那の如きもの、新しい米国の如きものを□□し、人の心をして自然と物を見て考へを惹き起すことが出来る、此点を博覧会を見る人々の注意したいものである、斯るものを見て感奮興起することが出来ぬものは、永久に発展することは出来ぬものである
と警句を尽くして居ります。物を見て「はてな」と疑いを起すのが希望が生ずるものでありまして、それが進歩する所以であります。奈破翁三世は、六十年前に之を云ひ破つて居ります。今も此事を時々申しますが、此間或る人の御寄合に此事を申せば、「それは面白いことである」と云はれました。奈破翁は其四年後、身は捕はれ、仏蘭西の政体は変化しました。私は欧羅巴に於ける変化の甚だしく、人生の変化の甚だしいのに嘆声を禁ぜなかつたのであります。
日本が仏蘭西に見付けられた当時の有様は、何うであつたかと申せば「日本」と云ふても彼方には判らず「支那の一部でなければ、支那の属国であらう」と云ふて居りました。学者ならば格別、普通人にはさう見られて居りました。それが当時、日本の世界に対する有様でありました。私は自分の身の上のことを、取交ぜて御話を致します。斯うして居る中に、翌慶応四年に幕府が倒れて御維新になりましたから、勢ひ帰らなければならぬやうになつて帰国しました。渋沢一個としては、何う考へたかと申すに、百姓であつたものが半ば政治家になりかかりましたが、自分が勤めて居る幕府が倒れたので、帰朝しました。自分は政治家として立つ技量が無く、当時一橋であられました水戸出の徳川慶喜公は、蟄居して情け無い佗び住居をして居られました。そこで、情誼としても其御方に節を尽さねばなりませぬ。況んや欧羅巴
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のやうに物質的の文明を進めなければ、日本国家は立つて行けず、発展することも出来ぬと考へたのであります。斯う申せば私のために日本は発展したやうでありますけれども、――さう云ふことは躊躇しますけれども――私の心は真にさうでありました。本来、武家は国民のためにあるべきものでありますが、武家のために国民がありました。主客、反対して居りました。今日も 上御一人のために吾々があるか吾々のために 上御人があらせらるゝかと云ふことは憚りますけれども、武家の威服を張るために商工業はありましたので、商工業者は如何に侮辱されても、道具と同じやうな境遇でありました。武家の威服を張るために商売も必要であり、工業も必要、農業も必要でありました。それ故に商売は小売であり、工業は手織でありました。左様な有様でありましたので、商工業には進歩の跡が無かつたのであります。偶々技術的には左甚五郎や、後藤祐乗などがありましたけれども、それは物好きでやつて居つたのであります。上古のことは措きまして、保元平治以来武家の天下となり、鎌倉時代より御維新まで、今申したことに間違ひは無かつたのであります。当忍町でも、商売の教育は無かつたのである。当時は実語経と庭訓・商売往来――それに手習草紙位のもので其外には無かつたのであります。実語経に庭訓・商売往来位で知識の得やうはありませぬ。欧羅巴では当時から蒸汽の応用がありまして、それを灯火にも動力にも用ふることになつて居りました。私は是迄は鎖国攘夷で気張つて居りましたけれども、富は事実上の富が無ければ国の発展は出来ませぬから「之は商工業の発展に力を尽くさなければならぬ」と考へました。徳川幕府は倒れ、慶喜公は蟄居の身となられましたから、私は「不慣れな政治のことをするよりも、欧羅巴の実業を移さう」と考へまして、明治四年実業界《(六年)》に身を投じたのであります。
私は其前数年間、大蔵省の役人をして居りました。それは「日本はモ少し財政を立て直さなければならぬ、君は今直ぐ会社法を行へと云ふけれども未だ早いから、四・五年間大蔵省で暮したら良からう」と、大隈(重信)伊藤(博文)井上(馨)の諸先輩より勧められ、明治三四・五年まで這入つて居りましたが、六年に合本会社法を行はんとて――今は辞めて居りますけれども――東京にある第一銀行を設立したのであります。此銀行は御武家サンのために立てたのでは無く、国民全体のための商工業で、学問的に、技術的に経営するためでありました。併しながら新らしい仕事は却々に思ふやうに参りませぬ。やりかけて見れば、彼処此処に閊へるのであります。新らしい道を作らうとすれば山に沮まれ、川に支へられ、当事者も知識が乏しく、社会にも其人が無く、実は会社組織をして銀行業・陸運業・海運業・交通業等各方面に力を尽しましたけれども、自分の考へたやうには進まなかつたのであります。併し進まぬとは申すものゝ今日より顧みますれば、五十年の歳月は徒爾に送つたのではありませぬ。私は明治六年七月三十日会社を創めた当時を回想しますれば、世の中は斯くまでも進んだと自分ながら喜ばざるを得ぬのであります。それと同時に、嘗て仏蘭西に於て「日本と云ふのは何処にあるか」と問はれましたが、昨年の
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軍備縮少会議でも御承知のやうに、英・米・日の三国の協定が成り立てば、世界の軍備を伸ばすことも、縮めることも出来るやうになりました。日本の五十年間の発達の事業に触れた私は、深く感激に打たれたのであります。……(拍手、起る)……。それ故に私が斯様に申しますが、過去五十年間に日本が世界に見付らるゝには各方面に差異がありました。それを御諒解下さらぬでも宜しいけれども、仏蘭西国民の多数が日本を知らなかつたのも事実であり、大正十年十二月華盛頓で日・英・米三国の軍備縮少の協約が整つたのも事実であります。之は日本が進んで来たことを事実が指し示すのでありますから、今申したことを概括的に申せは帝国はさう云ふ位地にありますのを東京の人や、大阪の人にも思はせると共に、行田の人々も此御自認が無ければなりませぬ。而も之を自認するだけで宜しいでありませうか。
凡そ世に立つには、一村一郷でも自から尊敬を受くる名誉に就ても左様でありますが、況んや国家の大、世界の大を見ましても、名誉も大きくなると共に誹謗も多くなります。今申したやうに軍備縮少会議に於ける日・英・米三国の取極めは喜ばしいことでありますけれども、之と共に我が帝国の責任が如何に大であるかと云ふことを合せて考へなければなりませぬ。玆に於て私は現在目の当りに見る処の我が国の思想界のこと経済界のことを憂慮しなければなりませぬ。私は過去五十年の間、微力ながら国の富を増す働らきとしては、第一に合本会社が出来なければならぬ、会社が出来れば完成して働らかなければならぬ、陸運・海運・鉱山等総べての方面に学理と技術を応用して欧洲のそれに較ぶれば国が少さくはあるけれども、似たことをやらねば国の富を増すことは出来ぬと考へて働らいたのであります。然るに此の五十年の歳月は私の努力は僅かであつても、天下を挙げて政治家も、実業家も翕然として進み、富は一□して進歩したと申して差支へありませぬ。併し私が数年前実業界を引いてより苦心しますのは、物質の富は増すにしても精神の富は何うかと憂へらるゝことであります。凡そ富を作るには、此方に得て彼方に失ふことになります。此得失は私と云ふことが先きになり、道理や仁義が後になり、理屈を後にして、自分さへ儲かれば良しと云ふやうになります。蓋しそれは、欧羅巴でも亜米利加でも同じやうな風が吹いて居ります。併し真正の富を永久に進むるにはそれではなりませぬ。富を進めるに就て完全の行いをなしそれに知識・精神の力を加へて行けば、富は中途挫折することはありませぬ。然るに反対に物質の富は進むけれども、精神の富は無いとすれば、彼れの争い、此の軋轢がありまして、甚しきに至つては国家に禍乱を惹起することにまで立ち至らぬとは云へませぬ。実業界のみに力を入れた私が、左様に立派な考へを起したのではありませぬけれども、国家の政治にも一寸手を触れましたから、国家に尽くすのは欧羅巴式・亜米利加式に実業を発展しやうとするには富にこれ走り、自我の奪い合いのみをして居つては今申したやうになつて、富んだ結果は却つて国家が腐敗し、宅が瓦解することになります。それは日本のみならず、外国もさうであります。故に富を拵らへると共に、精神上のことを考へなければなりませぬ。経済の増進に、道徳と経済と云ふも
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のを分けて、相反目してはなりませぬ。私は道徳と経済とは同じ道であつて、経済は道徳に、道徳は経済に、道徳と経済の融和を論じて来ました。今日は経済界を退きましたけれども、経済のことを努めると同時に道徳を進むるやうに、頻りに主張して居るのであります。
昨年私は亜米利加に旅行しまして、先刻申上げました華盛頓会議の模様を視、亜米利加の各方面、学者・実業界・労働界の総てとは申しませぬけれども、それ等に就て稍や観察しましたが、彼の国は話に聞くやうに事実進み、富の力も進んで居りますけれども、今申した道徳と経済とは一致して居りませぬ。或る点にては経済は進んで居るけれども、道徳が足らぬ処があります。昨年彼方の力ある人に就きまして、日米関係のみならず、世界のことについて論じますれば、私の会ふた人々は実業界の人が多数でありましたけれども、之は利益主義のみを以て自分さへ良ければ良しと云ふのは少くて、道徳経済の合一論を説くものが多かつたのであります。之は年を取つた、有力な人々でありました。更らに学生、労働者を見渡せば、鎖りが統一的《(マヽ)》に真面目に出来て居るのを羨やましく見て参りました。私は出立前から日本の政治界・実業界に心苦しいことがありましたが、余処の国を見て来まして日本の現状は之で良いものかとの疑惑まで抱いたのであります。それは政治界も、実業界も、真面目な考へが足りませぬ。之を思想界より云へば、整粛なる緊張振りが足らぬのであります。総べての人々が其日さへ良ければ良いと云ふことになつて、小知識に止まり、深い自信が無い。「誰かしてくれるだらう」と苟安姑息、依頼心のみあるやうに思ふのであります。之が思想界に、最も憂ふべきことであります。況んや私は、漢学説によつて仁義道徳、支那の学問を好んで論じて居ります。今日は漢語を使つても、熟語は判らぬ人があるやうになりました。故に徳義とか、慈愛とか、仁義とか云ふことは少くなり、殊に政治界では甚だしく多数を恃みて圧迫して行けば良いと云ふ有様であり、経済界も同様であります。況んや資本家と労働者とより見ますれば、民本主義、デモクラシーを唱へ、甚だしきは共産主義まで進んで来らんとする議論になり、精神的に働らかず、勉強心が衰ろへ、孝悌忠信は措いて問はなくなりました。米国では孝悌忠信の文字はありませぬけれども、大抵の人々が派は違ふても基督教に十分の信念を持ち旧約全書、新訳全書等により「人たるものは斯くなければならぬ」とて知識の普及と共に精神を進めて居りますから、之を比較すれば向ふの人は総べて人に信念を以て交はつて居ります。此方は之に反して、其場合々々に都合良くやりさへすれば良いと云ふ有様であります。之は町家のみならず、田舎でも多くなりました。それは思想界に憂ふべきことでありますから、何んとかしなければなりませぬ。私は亜米利加を旅行しましてから、到る処で以上の老婆心を述べつゝあるのであります。
今日は思想界に就て懸念があると共に、経済の有様が更らに懸念しなければならぬと考へます。之は明治の初め私達が主唱者となりましてからは、学問も、技術も、機械の運用も進み、数々喜ばしいことがありまするも、昔より進んだからとて甘んずることは出来ませぬ。今日
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は華盛頓会議もあつたやうに日・英・米三国の力によつてやれる迄に日本の力は進んで居ります。我が国はそれに相応した力にて進まなければなりませぬ。其日本の経済の力は何うでありますか。日本は戦争のために通貨の数字の進んだのは喜ばしいけれども、之も二十億とか二十五億に過ぎませぬ。而して「社会の地位を進めなければならぬ」「一般国民は向上しなければならぬ」と学者も、実業家も、政治家も申しましたけれども、順当なことをやらずに突飛なことをやり、成金などの唱へもあるやうになりました。「□□つて入れば□つて出づ」ると大学の教へもあつたやうになります。生活の向上は、欧洲戦乱のため一足飛びに進みました。之は統計を調べて来ませぬけれども、百に対して何倍になつたと云ふことを調ぶれば、それは何十倍も進んで居ります。生活も向上し、一般の暮らしも進み、労働界の人々も五十銭・六十銭で良かつたものが、二円にも、三円にも進みました。若し其通りに日本の経済界が進めば喜ばしいけれども、生活は進めるも、生産は増さないならば、当忍町は良くても、全国がさうならないならば、知らず、識らず□□になります。今日貿易のバランスがさうなつて居るのは今の実証であります。之に就ては猶ほ経済上秩序あることを説けば、猶ほ諸君を裨益するでありませうが、経済界のことは云へませぬけれども、欧羅巴の戦争のため思つたよりも□□く働らき□□は進みましたけれども、反対に実際の働らきは退歩することになりました。今私の申したことに謬りが無ければ戯談事ではない、余程覚悟しなければなりませぬ。私は斯様にして到る処に話して居りますが、今度東京・横浜・大阪等の人々が欧米旅行団を組織し、団琢磨氏が団長となり、二十余人に随行を合せて一行五十人――最初亜米利加より英吉利に渡り、仏蘭西・白耳義等に行く人もありまして此四月より五月になつて帰りました。私は一月末に帰り、二・三ケ月を経て欧米を廻つて来た人と説を戦はすれば、此人々は私等以上に考へて居りますそこで新首相加藤(友三郎)男に対し、私は「思想界のことに就て御注意なくばなりませぬ」と述べ、実業界のことに就ては大橋新太郎君より「現在の有様、将来の希望」等を詳しく述べて居ります。真実に考へますれば、「戦争当時得た資本は全るで無くなりはせぬか」との杞憂は、単に杞憂のみでは無からうと思ひます。
斯様に申せば、今日は思想界も確定しては居りませぬ。一般の多数の人の精神が、極く緊張して居りませぬ。経済界は、逆潮になつて居ります。之は何程潤色してもさうであります。果して事実であるとすれば、今日各方面の人々は考へを十分に入れ変へねばなりませぬ。切めて我れ自から立つて、此頽勢を挽き起さねばなりませぬ。私は初めて当忍町に罷出でゝ多数の人々に会ひ、昔より良くなつたのに之から悪るくなるやうな不祥の言葉をなしましたが、之は不断思ふて居る処であるから、何方にも申すのであります。今日の思想界は緊張を欠いて居ります、真面目を欠いて居りますが、正確なる考へを持ち、強い信念を持つて進まなければなりませぬ。経済界は生産が少なく、消費が多くして能率が上らず、費用のみ多くかゝり、斯様にして財は段々足らなくなります。大学に「之を消費するもの多ければ、用足らず」と
 - 第57巻 p.675 -ページ画像 
云ふてあります。特種の産物のある処では心配は無いでありませうがそれのみを取り除くことは出来ませぬ。諸君は十分之に同情を寄せられ、お互ひに此頽勢を挽回しなければなりませぬ。「経済界は斯うなつて来た」「斯様に進んで変化した」と我が身について申しましたから、稍々御諒解があつたであらうと思ひます。此思想界・経済界の懸念は唯一場の点ではありませぬ。何れの地方も緊張しなければなりませぬ。内輪話を申せば昨日も加藤総理大臣に御目にかゝり、愚見を申しましたが、彼人も「今日は十分力を入れて節約をやらねばならぬ、縦令社会は不景気になるも止むを得ぬ」との考へを持つて居られました。大阪よりは此間今西林三郎氏が来られ、「宣伝的に大阪に来てくれ」との話がありましたけれども、私は何うしても行かれませぬので「それでは字を書いてくれ」とのことでありましたから、此方に来るやうになりましたから、昨日大阪に倹約の説を書いて送りました。以上は今の機運でありますから、遠慮なく諸君に告白致します。
終りに玆に皆様に差上ぐるのでは無いけれども、私の拵らへた書籍二三ありますから、此方の学校に差上げて置きました。其一つは精神的のもので「道徳経済合一説」でありまして、之は「道徳と経済とは合一的にならねばならぬ」と商売人柄云ふたのであります。此説は学者側より云ふたのであります。先刻も小林(□□)さんより三島中洲先生の書かれた詩を見せられました。三島先生は私の先輩で、漢籍は常に漢文のことを話し合ひ、今日は二松学舎は私が舎長をして居ります今日は三島先生の説により、中庸・大学・論語・孟子・語経・詩経・書経・礼記等に就て「道徳と経済が合一すること」の必要を書いて居ります。学校に差出して置きましたから、先生から御聞きになれば、唯今申したことを証拠立つるのであります。
更らに埼玉県人として申上げ度いのは、東京牛込砂土原町に埼玉学生誘掖会を作つて居ります。縦令僅かでも寄宿舎を利用せらるれば幾らか便宜を得、思想を共にし、研究を同じくすることが出来ると思ひまして、二ケ月に一度、三ケ月に一度茶話会を催ふして、年寄と学生と説を上下することになつて居ります。少年と老人と討論することは、自づから□□を密着ならしめることになり、学生の勉強にも都合が良いので、二十年近く継続してやつて居ります。此寄宿舎から時々書物を著はすが良からうとて「武蔵武士」の書を十年前作つたのであります。武蔵は古来、武を以つて鳴つた処で「武蔵の兵は全国に冠たり」と称せられ、九州の防人のことは歴史に載つて居る処であります。殊に鎌倉時代は盛んでありました。武蔵武士は左様でありましたが、今日は武人は出来ませぬけれども、武人に負けぬやうやるべく、武人のことを著はし、将来学者、実際家を作らうと思ひまして、拙文ながら私が序を書いて居ります。爾来殆んど七・八年経ちましたから、古くなりましたが、今日調べて見ますれば「風土記位ならぬ、モ少し詳しいものにしやう」とて「埼玉県人物誌」を作りまして、之も砂土原町の寄宿舎の蔵本として保存してあります。之は埼玉県に縁りがありますから、御参考になるでありませふ。
今一つは昨年亜米利加に行きまして「アンドルー・カーネギー」の伝
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記を作りました。此人は鉄の大事業をやり、一昨年八十五歳で死んだのであります。私は会見の機会を得なかつたけれども、実業界では綺麗な、公の人であります。此人は米国人では無く、蘇格蘭人でありました。家は機織屋でありましたが、十三歳の時機械のため家業が衰ろへましたので「方法を変へん」とて亜米利加に来りビッツバーグにて業を初めたのであります。それが十三歳の時でありました。家政は英吉利を立つ時には二十磅(二百円)の借金があつて、年賦証文を書かれた位でありますから、貧しかつたことは明らかであります。初め紡績会社の糸繰り子供に雇はれ更らに石炭焚きになり、労苦に耐へなかつたので鉄道会社の書記になりました。石油事業にかゝり、相当の資産を得て、玆に亜米利加で大なることがやれるかとて鋼鉄事業をやりました。カーネギーは却々の気力家にて、鋼鉄業で米国を風靡し、数十億の富を得ましたが、それは公共のために寄附し、今日は四・五千万円の金を未亡人の隠居料として残して居るのみであります。紐育と蘇格蘭の□□□に別荘があります。此人は和蘭のヘーグ平和館に基金を寄附し、又紐育の学校にも寄附し、コロンビヤ大学にも大分の平和財団が備へられ、何れの土地にもカーネギーの図書館・博物館の無い処は無い位になりました。此人は富を集めもしましたが、又散じもしました。而も、文学上にも、趣味があつたのであります。十三歳の年に丁稚になつた位でありますから、高等学校にも、大学にも這入りませぬけれども、自分の筆で流暢に自叙伝を書き、其中に四書中の論語を数多句を引いてあります。米国人は漢文を其儘には読めますまいが米人が翻訳して居るのがあります。書物好きのカーネギーは、数ケ所に論語を引いて居るのは、如何に学問に趣味があるかゞ判ります。カーネギーは偉人であると考へましたので、昨年彼方に参つた序に未亡人に御目にかゝりまして、「翻訳して青年に示し度い」と云へば「それは故人も喜ぶであらう」と云はれましたから、之を一本として学校にも寄附して置きました。米国人中尊敬すべき人も多いけれども、就中カーネギーは最も尊敬すべき人であります。此本を御目にかければ私の愉快とする処であります。
それでは、之で御免を蒙ります。……(大拍手、暫らく止まず)……
 大正十一年七月二日、埼玉県北埼玉郡忍町大正座に開かれ
 たる「忍商工会」「忍信用組合」主催講演会に於て
                     鍋島秀太郎生速記