デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2018.12.20

3編 社会公共事業尽瘁並ニ実業界後援時代

3部 身辺

6章 旅行
3節 避暑・避寒・保養旅行
■綱文

第57巻 p.682-702(DK570331k) ページ画像

明治43年―昭和5年(1910-1930年)

是間栄一、毎年、避暑・避寒又ハ病後保養等ノタメ、大磯・湯河原・箱根・伊香保又ハ塩原ニ赴ク。


■資料

渋沢栄一 日記 明治四三年(DK570331k-0001)
第57巻 p.682 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四三年     (渋沢子爵家所蔵)
三月七日 晴 寒
○上略 四時新橋発ノ汽車ニテ再ヒ大磯ニ抵リ、梅浦氏ノ別荘ニ止宿ス
三月八日 晴 寒
午前八時起床入浴シ畢テ朝飧ヲ食ス、後新聞紙ヲ一覧シ、又義公叢書ヲ読ム
此日帰京ノ約アリシモ、大阪ヨリ来会者明日ニ延引ノ事ヲ電話ニテ請求セラレシ由、東京ヨリ来電アリタルニ付、梅浦氏宅ニテ遊戯ニ閑ヲ消ス、夜深テ就寝ス
三月九日 曇 寒
午前八時半起床入浴シ畢テ読書ス、十時朝飧ヲ食ス、十一時過伊藤公爵夫人ヲ滄浪閣ニ訪ヒ、弔詞ヲ述フ、午後大磯ヲ発シ、片瀬ニテ曾禰統監ヲ訪ヒ、種々ノ談話ヲ為ス、四時藤沢発ノ汽車ニテ帰京ス ○下略
   ○栄一日記ハ以後十日ニ「午前七時半起床、入浴シ、畢テ朝飧ヲ食ス、後理髪シ、諸方ヘ電話ヲ以テ要務ヲ申遣ス」トノミアリテ以下ノ事記ヲ欠キ、十七日迄記入ナシ、後掲竜門雑誌ニ十五日帰京トアリ、九日以後ニ於テ再ビ大磯ニ赴キシナラン。


竜門雑誌 第二六二号・第五六頁 明治四三年三月 青淵先生の御帰京(DK570331k-0002)
第57巻 p.682 ページ画像

竜門雑誌  第二六二号・第五六頁 明治四三年三月
    ○青淵先生の御帰京
静岡行の帰途大磯にて降車し、令夫人と共に長生館に在り、保養中なりし青淵先生は三月十五日帰京せられたり。


渋沢栄一 日記 明治四四年(DK570331k-0003)
第57巻 p.682-685 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四四年     (渋沢子爵家所蔵)
六月十五日 雨 暑
○上略 午後三時十五分新橋発ノ汽車ニテ大磯ニ抵リ、六時長生館ニ投宿ス、兼子ハ数日前病ヲ養フテ滞留セリ、夜老公伝記初稿ヲ読ム、又新論語ヲ読マシム
六月十六日 雨 冷
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食シ、後老公伝記初稿ヲ読ム、又新聞紙ヲ一覧ス、十一時頃梅浦夫人来話ス、午飧後梅浦氏ノ別荘ヲ訪ヘ、夜ニ入ルマテ閑話ス、蓋シ氏カ其別荘ニ特ニ一室ヲ新築シタルニヨリ其新居ニ於テ小宴ヲ催セルナリ、兼子ト共ニ款談シテ、夜飧後十時頃長生館ニ帰宿ス、此日終日雨降リテ道路頗ル険悪ナリキ、夜十一時半就寝ス
六月十七日 半晴 暑
 - 第57巻 p.683 -ページ画像 
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後老公伝記初稿ヲ読ム、又新論語・孟子等ノ諸書ヲ読ム、新聞紙ヲ一覧ス、正午兼子ト共ニ午飧シ、畢テ尚読書ス、午後二時過長生館ヲ発シ、徒歩停車場ニ抵リ、二時四十分発ノ汽車ニ搭シテ帰京ス、兼子ハ来ル二十一日ヲ以テ帰京ノ事トス、五時新橋ニ着シ、自働車ニテ事務所ニ抵リ、来書類ヲ検閲シ、事務ヲ処理ス ○下略
   ○中略。
八月六日 曇 暑
午前五時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後旅装ヲ整ヘ、留守居ノ人々ヘ注意ノ事ヲ訓示シ、七時十七分王子発ノ汽車ニ搭ス、兼子・正・秀二男同伴ス、車中天晴風涼ク、旅況快活ナリ、前橋ニテ下車シ、直ニ電車ニ搭シテ渋川ニ抵リ、更ニ電車ヲ乗替ヘテ、午後二時伊香保ニ着ス、木暮祐雄高崎マテ迎ノ為メ来訪セラル、木暮武太夫方ニ投宿ス、午飧後先ツ湯元ノ地ニ抵リ、更ニ市街ヲ散歩ス、帰宿後入浴シテ読書ス、夜飧後軽井沢新渡戸氏ヨリ電報来ル、米国行ノ事ニ関シテナリ、夜秀雄ニ新論語ヲ読マシム
八月七日 半晴 冷
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後新渡戸氏軽井沢ノ別荘ヘ書状ヲ発シテ米国行ノ事ヲ打合ハス、又島田三郎氏ヘモ同様ノ事ニテ一書ヲ発ス、石井次官ヘモ亦同シ、留守宅八十島ヘ桑港電報ノ件、沖商会出資会譲替《(分カ)》ノ件ニ付書状ヲ発ス、朝飧前白石ノ鬼神論ヲ読ム、渋沢市郎今日帰郷ノ由ニテ来話ス、午前ヨリ百話ノ筆記ヲ修正ス、原六郎氏来話ス、河崎覚太郎氏来話ス、晩飧後秀雄ニ益軒全集ヲ読マシム
八月八日 半晴 冷
午前五時半起床、入浴シテ後朝飧ヲ食ス、白石ノ鬼神論ヲ読ミ、又筆記ヲ修正ス、午飧後児等ト共ニ湯本ニ抵リ、帰途市街各所ヲ徘徊ス
成瀬仁蔵氏来リ話ス、西園寺侯訪問ノ為ナリ、明日同行ヲ約ス
大浦農商務大臣ヨリ来書アリテ、明日晩飧会ニ第一銀行ヨリ代人差出方申来リタルニヨリ、直ニ佐々木氏ヘ書通シテ代理出席ノ事ヲ依頼ス晩飧後新論語ヲ読マシム
八月九日 雨 冷
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ食シ、後成瀬氏共ニ西園寺侯ヲ木暮別館ニ訪ヘ、教育ト財政経済トニ関シテ種々ノ談話ヲ為ス、午飧前帰寓東京八十島・堀越・横山氏等ヨリ書状来ル、午飧後児等ト遊戯ス、後日記ヲ編成シ、又読書ス、八十島ヨリ来書アリテ、米国日本会《(人脱)》ヘ返電ノ事ヲ通シ来ル、八十島ヘ書状ヲ発シテ要務ヲ指示ス、夜飧後児輩ト遊戯シ、又読書セシム
八月十日 雨 冷
午前六時起床、入浴シテ後北越行書状七通ヲ認ム、七時過朝飧ヲ食シ後清光院墓誌ノ一文ヲ草ス、畢テ之ヲ清書シテ穂積歌子ニ書状ヲ添ヘテ送致スルモノトス、又穂積陳重・八十島其他ヘノ書状ヲ裁ス、午飧後揮毫ヲ努メ、夕方マテ之ヲ継続ス、又筆記ノ修正ヲ為ス、夜飧後児輩及家人ト遊戯ス
夕方湯本ヘノ散歩ヲ為ス
 - 第57巻 p.684 -ページ画像 
八月十一日 晴 暑
午前六時起床、入浴シテ後読書ス、七時過朝飧ヲ食ス、植村澄三郎氏来訪セラル、馬越氏ノ書状ヲ持参セラレ、且揮毫ノ為絹本十数枚ヲ携帯セラル、依テ揮毫ヲ努ム、午後ニ至ルマテ之ヲ継続ス、十二時前鈴木正寿帰京ニ付八十島ニ書状ヲ遣ス、又昨日来認メタル北越地方ヘノ添書七通ヲ成瀬仁蔵氏ヘ送致ス、静浦ナル穂積夫妻ヘ各通ニ書状ヲ送リ一ハ師弟関係ニ付テノ議論、一ハ清光院ノ墓誌ニ付一文ヲ草シテ送リ遣ス、午後第一銀行佐々木氏・事務所八十島ヨリ書状来ル、又軽井沢新渡戸氏ヨリ来状アリ、依テ佐々木・八十島・馬越氏等ヘノ回答ハ植村氏ノ帰京便ニ托ス、穂積陳重氏ト新渡氏《(戸脱)》トノ返書ハ直ニ之ヲ郵送ニ付ス、夜食後植村氏・戸ケ崎氏等来リテ遊戯ス
八月十二日 晴 暑
午前六時半起床、入浴シテ後筆記ヲ修正ス、七時過朝飧ヲ食シ、又筆記ノ修正ニ勉ム、昨夜一泊セシ戸ケ崎氏帰リ去ル、十時過西園寺侯来話ス、日記ヲ編成シ、揮毫ヲ為ス、正午ニ抵リ尾高次郎氏来訪ス、又渋沢治太郎夫妻来訪ス、午後又揮毫ヲ為ス
午後湯本マテ散歩ス、兼子ト同伴ス
夜飧後尾高次郎来リ義太夫ノ曲ヲ演ス、畢テ種々ノ談話ヲ為ス
八月十三日 晴 暑
午前六時起床、入浴シテ後書類ヲ調査ス、七時朝飧ヲ食ス、畢テ揮毫ニ努ム、正午ニ至リテ止ム、昨夜ヨリ秀雄病アリ、朝来熱気強ク外出スルヲ得ス、依テ正雄・河野等ニ其看護ヲ命シ、兼子及家僕ヲ伴ヒ七重弁天・大滝等ノ各所ヲ見物ス、竹輿ヲ僦フテ行ク、山行往返三里許リナリ、弁天ト大滝トハ稍一覧ノ価値アルヲ覚フ、六時半帰寓ス、秀雄ノ病更ニ進ミテ熱気強キニヨリ、地方医師豊永氏及御用邸ノ侍医長田某ヲ請フテ診察セシム、横山徳次郎氏ヘ書状ヲ発ス、夕方岡崎邦輔氏来リ、東京瓦斯・千代田瓦斯合同ノ事ニ付内話アリ、夜福島氏来リ同様ノ談話アリ、夜児輩ト遊戯ス、増田明六ヘ書状ヲ送ル、其来書ニ答ヘタルナリ
八月十四日 晴 暑
午前六時起床、入浴シテ後読書ス、八時朝飧ヲ食シ、畢リテ揮毫ヲ始ム、福島甲子三氏来話ス、瓦斯会社ノ事ヲ談話ス、尾高次郎・渋沢治太郎夫妻来話ス、午飧後モ尚揮毫ヲ為ス、秀雄ノ病稍快方ニ向ヘシ様ナルモ、大患トナルノ恐アルニヨリ、東京ニ電話ヲ送リテ堀井医師ノ来診ヲ請フ、夜ニ入リテ医師到着シ、直ニ診察セシモ、深ク心配スヘキ病ナラサル旨ヲ明言セラル、夜飧ハ治太郎夫妻来リテ共ニ会食ス、夜読書ス
正雄ノ学友河野氏帰リ去ル
八月十五日 曇 暑
午前六時半起床、入浴シテ後読書シ、又穂積歌子ヘ静浦宛ノ一書ヲ発送ス、清光院ノ墓誌作文ニ関スル往答ナリ
堀井医師及地方医師豊永氏等秀雄ノ病ヲ来診ス、次第ニ快方ニ赴ク旨申居レリ
午飧後湯本マテノ散歩ヲ試ム、帰寓後扇面十数本ノ揮毫ヲ為ス、明日
 - 第57巻 p.685 -ページ画像 
ハ帰京ノ筈ナルニ付、夕方ヨリ書類ヲ整理ス、尾高次郎今朝九時ノ汽ニテ帰京ス、又堀井医師午後ノ汽車ニテ帰京ス
八月十六日 朝雨夕半晴 冷
午前六時起床、入浴シテ読書シ、八時朝飧ヲ食ス、今日帰京ノ筈ナルニ付、旅装ヲ理メテ後新聞紙又ハ雑書ヲ読ム、朝ヨリ雲霧濛々トシテ咫尺ヲ弁セス、時々驟雨疾風来ル、十二時木暮ノ家ヲ発シ、停車場ニテ電車ニ搭ス、木暮祐雄高崎マテ送別ス、車中雨歇ミ、風静カニシテ高崎ニ到レハ天気稍静ナリ、汽車中勉テ雑誌類ヲ読ム、熊谷駅ヨリ島田埼玉県知事同車ス、浦和ニテ分ル、午後五時半王子着、停車場ニハ武之助・明石其他大勢来リ迎フ、家ニ還テ却テ客中ノ苦ヲ覚ヘ、家居ノ安楽ヲ知ルノ想アリ、六時半夜飧後新聞紙類ヲ読マシム


(八十島親徳) 日録 明治四四年(DK570331k-0004)
第57巻 p.685 ページ画像

(八十島親徳) 日録  明治四四年   (八十島親義氏所蔵)
八月六日 晴 日曜
男爵ハ今朝出発伊香保ヘ避暑セラル ○下略
   ○中略。
八月十七日 快晴
男爵昨夜伊香保ヨリ帰京アリ ○下略


渋沢栄一 日記 明治四五年(DK570331k-0005)
第57巻 p.685 ページ画像

渋沢栄一 日記  明治四五年     (渋沢子爵家所蔵)
四月二日 晴 軽寒
○上略 午後二時頃再ビ事務所ニ抵リ、今日大磯行ニ付留守中ノ用事ヲ増田其他ノ人々ニ命ジテ、二時五十分ノ汽車ニテ兼子ト共ニ大磯ニ抵リ長生館ニ投宿ス、着後青淵百話ノ修正ニ尽力ス、夜飧後モ頻ニ之ヲ勉メ、夜十二時ニ至リテ就寝ス
四月三日 雨 軽寒
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ青淵百話ノ調査修正ニ勉ム、青年時代又ハ浪人経歴・米国歴遊等ノ項目ニ付既往ノ紀念スヘキ各項ニ付頗ル興味ヲ以テ原稿ヲ加除改正シ、終日為メニ寸暇ナカリキ、此日ハ国府津ニ僑居中ナル徳川老公ヲ訪フノ心組ナリシモ、雨強クシテ路次不便ナレハ之ヲ見合ハス、午飧後モ夜飧後モ机ニ倚リテ原稿ヲ調査シ、夜十二時ニ抵リテ就寝ス
四月四日 晴 軽暖
午前六時半起床入浴シテ朝飧ヲ食ス、後御伝記原稿ヲ調査ス、八時三十分大磯発ノ汽車ニテ興津ニ抵リ、井上侯園遊会ニ出席ス ○下略
四月五日 晴 暖
午前七時起床入浴シテ朝飧ヲ食シ、後御伝記原稿ヲ調査ス、午前九時二十五分ノ大磯発汽車ニテ国府津ニ抵リ、徳川老公ノ僑居ヲ訪フ ○下略
四月六日 雨 暖
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、後御伝記ノ原稿ヲ調査ス、尾高次郎氏招仙閣ニ来宿ノ由ニテ電話ヲ通シ来ル


竜門雑誌 第二八七号・第五八頁 明治四五年四月 ○青淵先生の転地静養(DK570331k-0006)
第57巻 p.685-686 ページ画像

竜門雑誌  第二八七号・第五八頁 明治四五年四月
○青淵先生の転地静養 青淵先生には静養の為め四月二日午後三時新
 - 第57巻 p.686 -ページ画像 
橋発列車にて大磯に旅行せられて長生館に逗留し、四日には興津別邸に於て開催せられたる井上侯の喜字祝ひの園遊会に赴かれ、同日旅館長生館に引返して七日まで逗留せられ、同日無事帰京せられたり。


渋沢栄一 日記 大正二年(DK570331k-0007)
第57巻 p.686 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正二年      (渋沢子爵家所蔵)
一月一日 晴 寒
○上略 午後一時二十五分新橋発ノ汽車ニテ大磯ニ抵ル、停車場ニ神田鐳蔵氏夫妻及事務所員其他数名来リテ行ヲ送ル
兼子・武・正・秀三児同行ス、午後四時前大磯着徒歩シテ停車場ヨリ長生館ニ抵ル ○下略
   ○中略。
一月五日 晴 寒
午前六時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、今日ハ東京ニ用務アルニヨリ朝来支度ヲ整ヘ、午前八時二十七分ノ発車ニテ東京ニ抵ル、午前十時五十分頃新橋着 ○下略
一月六日 晴 寒
○上略 二時五十四分新橋発ノ汽車ニテ大磯ニ抵ル、車中三島子同行ス、五時過大磯着 ○下略
   ○中略。
一月十日 晴 寒
○上略 八時二十七分大磯発ノ汽車ニテ東京ニ抵リ、新橋停車場ニテ ○下略
   ○中略。
一月十二日 晴 寒
○上略 十時四十分新橋停車場ニ抵ル ○中略 十一時発車 ○中略 午後一時頃国府津ニ着ス、先ツ老公ヲ訪ヘ種々ノ談話ヲ為ス、後大隈伯ヲ其別邸ニ訪ヒ、更ニ森村翁ヲ其隣邸ニ訪問ス、午後四時五十分国府津発ノ汽車ニテ五時過大磯着、長生館ニ投宿ス ○下略
一月十三日 晴 寒
午前七時前起床、洗面畢テ朝飧ヲ食シ、旅装ヲ理シ、八時二十七分大磯発ノ汽車ニテ帰京ス、十時過新橋着 ○下略


(芝崎確次郎) 日記 大正二年(DK570331k-0008)
第57巻 p.686 ページ画像

(芝崎確次郎) 日記  大正二年    (芝崎猪根吉氏所蔵)
十二日 ○八月 晴
今朝起抜ケにて両国支店ヘ直行出勤致し ○中略 新橋ヘ出張シテ主公御一行箱根行ヲ送ル、直ニ帰店ス
   ○中略。
二十四日 ○八月 半晴
休日、午前十一時頃綱町ヘ参伺、昼食致シ、夫ヨリ飛鳥山ヘ出張致し今夕君公箱根ヨリ御帰京ニ付出迎ひニ鈴木罷出、小生居残候事、無滞御帰宅、十一時御寐臥ナル、小生一泊ス


竜門雑誌 第三〇三号・第五五頁 大正二年八月 ○青淵先生の避暑旅行(DK570331k-0009)
第57巻 p.686-687 ページ画像

竜門雑誌  第三〇三号・第五五頁 大正二年八月
○青淵先生の避暑旅行 青淵先生には八月十二日午前八時十五分新橋発汽車にて鎌倉に井上侯爵を訪問せられ、尚同地滞在療養中の桂公爵
 - 第57巻 p.687 -ページ画像 
を見舞はれたる後、箱根小湧谷に赴かれ、三河屋ホテルに投宿せられたり、滞在は凡そ二週間の予定なりと云ふ


竜門雑誌 第三〇四号・第七八頁 大正二年九月 青淵先生の帰京(DK570331k-0010)
第57巻 p.687 ページ画像

竜門雑誌  第三〇四号・第七八頁 大正二年九月
○青淵先生の帰京 八月中旬箱根小湧谷に避暑中なりし青淵先生には同月二十三日帰京せられたり。


竜門雑誌 第三一五号・第七六頁 大正三年八月 青淵先生の旅行(DK570331k-0011)
第57巻 p.687 ページ画像

竜門雑誌  第三一五号・第七六頁 大正三年八月
○青淵先生の旅行 青淵先生には例年の通り静養の為め、令夫人と与に八月十一日午前八時半新橋発汽車にて箱根に赴かれ、小涌谷三河屋に投宿せられたり、滞在日数は凡そ一週間の予定なり。


竜門雑誌 第三一六号・第六八頁 大正三年九月 ○青淵先生帰京(DK570331k-0012)
第57巻 p.687 ページ画像

竜門雑誌  第三一六号・第六八頁 大正三年九月
○青淵先生帰京 八月十一日以来箱根小涌谷三河屋に於て静養せられ居たる青淵先生には、九月二日夜無事帰京せられたり。


渋沢栄一 日記 大正四年(DK570331k-0013)
第57巻 p.687-688 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正四年      (渋沢子爵家所蔵)
八月一日 晴
○上略 七時 ○午後帰宿、夜飧ヲ畢リテ、明日函根行ニ付旅装ヲ整フ、読書スヘキモノ、揮毫スヘキモノ、調査スヘキモノヽ各書類ヲ検出ス、後新聞紙ヲ一覧ス
八月二日 雨
午前五時半起床ス、蓋シ本日ハ函根小涌谷ニ避暑スルノ予定ナリシニヨル、先ツ入浴朝飧ヲ畢リ、上山農商務次官・中島久万吉・青柳有美氏等ヘ書状ヲ作ル、畑弥右衛門氏来ル、昨日預リタル書状ヲ返却ス、午前七時半家ヲ発シ、東京停車場ニ抵リ、八時ノ急行列車ニ搭シテ国府津ニ抵ル、兼子ハ一汽車後レテ来着ス、十時前国府津着、汽車中野依秀一氏同行ス、穂積歌子及晴子ハ宮ノ下ニ赴クトテ同行ス、国府津ニテ小憩シ、此間野依氏ト談話ス、国府津ヨリ電気鉄道ニテ湯本ニ抵リ、更ニ自働車ニテ宮ノ下ニ歌子ヲ送リ、十二時過小涌谷三河屋ニ抵ル、午飧後新聞紙雑誌類ヲ読ム、午後ニ至リ兼子モ来着ス、夕方入浴ス、種々ノ来訪客アリテ雑沓ス
 歌子ト八基村鎮守社改築ノ事ニ付談話ス
 高根義人氏来ル、支那人戴伝賢氏来訪ス、孫文氏ト同行セルナリ
   ○中略。
八月十二日 曇
午前六時起床、入浴シテ演説筆記ノ修正ヲ為ス、七時過朝飧ヲ畢リ、直ニ支度シテ、八時前旅寓ヲ発シ、人車ニテ湯本ニ抵リ、電気鉄道ニテ国府津ニ抵リ、十時半発ノ急行列車ニテ十二時過東京ニ達ス ○下略
   ○中略。
八月十五日 曇
午前六時起床、入浴朝飧畢リテ新聞紙類ヲ一覧ス、今日ハ小涌谷ニ赴ク筈ナレハ、八時ニ家ヲ出テ東京停車場ニ抵リ、八時半発ノ急行列車ニテ国府津ニ抵ル、大隈伯一行同車ス、国府津十時過発ノ電車ニテ湯
 - 第57巻 p.688 -ページ画像 
本ニ抵リ、夫ヨリ自働車ニテ十二時過小涌谷ニ達ス、着後午飧ヲ食シテ後日記ヲ編成ス、此日東京ヨリ函根ニ遊フ者多クシテ自働車ノ供給頻繁ナリト湯本ノ茶店ノ言ナリ、午後ハ演説筆記ノ校正ヲ為ス、五時過ヨリ家人ヲ伴フテ散歩シテ強羅道ヲ行クコト数丁ニシテ帰寓ス、夜飧畢テ新聞紙又ハ雑誌類ヲ一覧シ、後家人等ト遊戯ス、十一時過就寝
   ○中略。
八月廿四日 曇 秋涼最人ニ可ナリ
午前七時起床、入浴シテ日記ヲ編成ス、今日ハ午後ヨリ帰京ノ予定ナルニヨリ、朝ヨリ書籍類ノ整理ヲ為ス、八時半朝飧ヲ畢リ、日記ノ編成ヲ為ス、今日ハ帰京ノ筈ナレハ旅装ヲ整ヘ客舎ノ勘定等一切ヲ処理ス、午飧後人車ニテ湯本マテ抵リ、夫ヨリ電車ニテ国府津着、直ニ汽車ニ搭シテ六時東京停車場ニ着ス、同族又ハ事務所員其他来リ迎フ者多シ、七時王子ニ帰宿、夜飧後留守中ノ来状ヲ検閲シ、又雑誌類ノ整理ヲ為ス、小涌谷ヲ発シテヨリ東京着ノ頃ハ稍残暑ノ想アリシモ、夜ニ入リテハ秋冷ヲ覚フ、夜十一時就寝、武之助・美枝子来リテ夜食ヲ共ニス


竜門雑誌 第三二七号・第六五頁 大正四年八月 ○青淵先生の箱根行(DK570331k-0014)
第57巻 p.688 ページ画像

竜門雑誌  第三二七号・第六五頁 大正四年八月
○青淵先生の箱根行 青淵先生には静養の為め、令夫人と共に八月二日午前八時東京駅発汽車にて箱根に赴き、小涌谷三河屋ホテルに投宿せられ、十二日零時五十分一旦帰京せられしが、十五日午前八時東京駅発汽車にて再び同地に赴かれ、約一週間滞在せらるゝ筈なり(八月十五日稿)


中外商業新報 第一〇五四四号 大正四年八月二六日 ○渋沢男帰京(DK570331k-0015)
第57巻 p.688 ページ画像

中外商業新報  第一〇五四四号 大正四年八月二六日
○渋沢男帰京 函根に避暑中の渋沢栄一男は、廿四日午後六時五分東京駅着帰京せられたりと


竜門雑誌 第三四〇号・第一〇七頁 大正五年九月 ○青淵先生の避暑(DK570331k-0016)
第57巻 p.688 ページ画像

竜門雑誌  第三四〇号・第一〇七頁 大正五年九月
○青淵先生の避暑 青淵先生には八月十八日午前十一時三十九分王子発汽車にて、野州塩原に赴かれ、同地温泉明賀屋太古館に投宿せられしが、同月二十五日午後二時二十九分無事帰京せられたり


竜門雑誌 第三四三号・第六八頁 大正五年一二月 ○青淵先生帰京(DK570331k-0017)
第57巻 p.688 ページ画像

竜門雑誌  第三四三号・第六八頁 大正五年一二月
○青淵先生帰京 青淵先生には病後静養の為め、本月十四日午前八時四十五分東京駅発汽車にて相州湯河原に赴かれ、天野屋旅館に滞在せられしが、同月廿四日午後六時無事帰京せられたり。


竜門雑誌 第三五二号・第八二―八四頁 大正六年九月 ○青淵先生伊香保軽井沢御避暑日程(DK570331k-0018)
第57巻 p.688-689 ページ画像

竜門雑誌  第三五二号・第八二―八四頁 大正六年九月
    ○青淵先生伊香保軽井沢御避暑日程
 青淵先生七月下旬、上州伊香保及び軽井沢に避暑せらる、日程凡そ左の如し。
 ○七月二十八日(曇)
  午前七時五十三分令夫人と共に王子駅発、同行令孫四人、明石照
 - 第57巻 p.689 -ページ画像 
男君・同令夫人(一汽車後れて同駅出発)外随行男女共七人。十時半高崎駅下車、直に電車に乗換られ、午後二時伊香保へ安着せらる。旅館は木暮旅館なり、予て同館に宿泊せられつゝありし工学博士渋沢元治君・同令夫人及令息等出迎はる。先生一行の部屋は同館の第三別館(一号室より三号室迄)なり。着後、先生終日読書。
○中略
 ○八月八日(晴)
  ○上略 先生本日予ての約束を果さるべく、早刻午餐を認められ、出迎の町田氏外一行四人と共に渋川町に赴かる。午後十二時四十分同町着、渋川銀行に休憩あり、此間、入替り立替る同町の有志に親しく応接せらる。一時半、本日の演説場たる渋川尋常小学校に着、暫時休憩の後、同校講堂に臨席せらる。聴衆約五百名、町田氏開会の辞に次ぎ、先生徐ろに歩を壇上に運ばれ「地方経済の発展に就て」縷々一時間余に亘る演説を試みらる。三時半散会。右終つて同町有志発起の懇親会に臨まる。町長始め二三の謝辞あり先生亦懇ろに答辞せらる。和楽靄然、歓喜嫋々。七時半帰館せらる。
○中略
 ○八月十五日(曇)
  先生本日正午発、軽井沢に開会の帰一協会に出席の為め、出立せらるゝの日なり。 ○中略午前十一時五十五分、先生随員一人と共に伊香保駅を発せらる。 ○中略 午後四時半軽井沢駅に下車せらる。
  ○中略 旅館三笠ホテルに向はる ○下略
○中略
 ○八月十八日(雨)
  先生今朝朝食前、尾崎行雄氏の来訪を請けられ、朝食後、直に本日の帰一協会会合所たる三泉寮に赴かる。先生此日を以て帰京せらるゝ予定也。 ○中略 十二時廿五分、軽井沢発の列車にて帰京の途に就かせらる。 ○中略 午後五時十分、王子駅に着すれば、近親其他の人々出迎はれつゝあり、先生玆に無事帰邸せらる。
○下略


竜門雑誌 第三五二号・第二八―三二頁 大正六年九月 ○渋川町講演会地方経済の発展に就て 青淵先生(DK570331k-0019)
第57巻 p.689-692 ページ画像

竜門雑誌  第三五二号・第二八―三二頁 大正六年九月
    ○渋川町講演会地方経済の発展に就て
                      青淵先生
 本篇は青淵先生が伊香保に避暑中、上州渋川町々長並に渋川銀行頭取諸氏の懇請に依り、八月八日同町小学校講堂に於て講演せられたるものなり(編者識)
 会長及臨場の諸君、今回町長並に渋川銀行頭取が態々私を、伊香保に尋ねられ、何か一場の講話をせよとのことでありましたが、私は隠居の身で、学問上からも政治上からも別に申上ぐる程のことも有りません。唯実業上のことは昨年まで経営したことでもある故、聊か卑見を申上げて見やうと思ふて罷出た次第であります。
 - 第57巻 p.690 -ページ画像 
 抑も日本の今日は何れの地方といへども共に力を戮せて国運の発展を図り、国家の為めに尽すが国民の本分である。自分も明治の初年より実業界に尽力し来れるもの故、暑いからの、老年だからのといふて御断りするのは相済まぬことでもあり、又去る五日には参上すべき御約束せしを、同日少しく所労の為め本日に延期したるは、諸君の御諒恕を乞ふ次第であります。
 元来日本の経済は如何なる有様にて発達したかを回想すれば、明治の初めは一進一退順調ならざりしも、私が明治六年まで大蔵省の役人として上から看たる其頃の有様は、人気が政治にのみ走りて、政治さへ進歩すれば直ちに富を得られるゝといふ意見が強く、一般風を為して政治思想に傾き、真に欧米の富強根柢が何所にあるやを知るもの鮮く、今日に至るも尚ほ当時の余弊は残れるも、私は其時から全くこれと反対に、欧米の今日あるは政治学問の力のみにあらず寧ろ商工業の力にありと確信したのである。日本の商工業は維新前は極めて微々たるものにて、且其経営者も卑下さるゝ人々のみであつたが、維新後貿易は幾分の進歩あるも、形式の上は兎も角実質に於ては直接に英国なり米国なりと貿易し得る者無く、俗にいふ躄貿易であつた。而して商工業者は土百姓素町人なりと世間から卑下され、斯く申す私も実に其一人であつたのである。然るに政治学問のみの進歩ではいかぬ、農に工に商に大に進まなければならぬといふことを切言した結果、明治五六年頃より二十年頃に至り、始めて世人が実業に注意するやうになつたのであるが、而も其考へは尚ほ甚だ薄かつたのである。
 一例を挙ぐれば、今の瓦斯会社が其当時東京府の瓦斯局と申して、私が局長をして居つた時、仏蘭西から技師を頼んであつたのを、将来是非日本人の手で遣りたいと思ふて、大学の工科出身者を物色した。ところが水戸出身の某を適任と認めたにも拘はらず、某は瓦斯局の将来を問ひ、東京府とか政府とか政治権力の下に在りて経営するなれば恩給なり勲章なり貰へるも、将来は会社として民業に移るべきものとすれば、其事は望まれぬ。自分が将来の目的は立派な政治家たるにあるからとて、瓦斯局の技師見習は辞すとのことであつた、頃は明治十四・五年のことである。そこで私は時の大学総理加藤弘之氏に向つて大学卒業生が悉く技師と官吏とのみにならんとするは不都合なり、人民あつて官吏の必要あり、被教者あつて教師の必要あるを知らざるべからずと議論して、其極私は其翌年より大学の講師を勤めねばならぬことになつた。
 当時の有様が総て然りとは断言すること能はざるも、実業思想薄くして横浜・神戸の商人抔の外国人に対する取引も、片貿易とて向ふより来る人々にのみによりて商売する有様が一般の風習であつた。私は明治六・七年頃より合本法の必要を認め、口を極めて会社組織を主張し、明治五年十一月国立銀行条例の発布あるや、六年八月第一国立銀行を成立したが、其制度が時勢に適応せずして兌換法の組立面白からず、依りて兌換制度を政府紙幣として差閊なしと改正するに至り、明治九年より十二年まで百五十二の国立銀行を見るを得た。後に是等の銀行は皆私立銀行となり、私の関係せし第一銀行も明治二十九年に私
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立となりて今日まで二十年余を経過したのである。
 当時政治界と経済界との関係は甚だ疎隔にして、協和するに至らず真に遺憾千万なるより私は頻に親睦すべきことを主張した。尚ほ銀行界と商工業者との間密着ならざりし故に、相互に危険視しつゝありし為め、東京にても堀留とか伝馬町とかいふ商品の取引旺んに行はるゝ場所に銀行業の実際を熟知せしめ、漸次洋服も着、時計も持つといふ西洋式に慣れ欧米化するに至つた。私は又有りとあらゆる各種の会社に関係するは余りに無責任である、斯く四方に手を出しては精力の続くものにあらずとの批評を受けしことありしが、銀行と会社との協和親密を謀るに是非必要の務なれば、紡績事業・織物事業・海陸運送業など会社組織に重役を兼ねたるもの尠からざりしも、大体の進歩を見たれば明治四十二年に於て大部分を辞退し、又た昨年一切を挙げて辞職した。顧みれば私が実業界に入りてより玆に四十三年、事物の進歩は殆んど隔世の感がある。而して又た三年前よりの欧羅巴の戦乱は、一時は日本に対して憂ふ可き現象を示した。英国金融の恐慌は米国に及ぼして俄然日本の糸価を引下げ、百斤千弗のものは七百弗に下がりしも、一昨年より昨年にかけては漸次恢復し、殊に神戸・大阪などには船成金或は鉄に紡績に各種の成金が出来て、総ての景気は旭日昇天の勢を示し、随つて銀行も直接特別の利益なきも、他の商売の繁昌が銀行業に影響し、共に進み来りしことは争ふ可からざる事実である。然りと雖も、今後は如何に成行く可きか、単に喜びのみを以つて迎えることは出来ぬと思ふ。
 上来述べ来りたるは単に渋川町のみに御話したる事にあらず、私は今後の時局に対する注意に就ては三井銀行の早川君其他の人々の発案にて、戦後に必要なる方針十余条を記載して、東京は勿論大阪・神戸九州・北海道其他の地方にも人を派して講演せしめつゝあるが、右の箇条書は今日持参せぬ故、近く町長及び銀行頭取両氏に呈すべければ就て瀏覧あらんことを希むのである。
 抑も国家真成の富貴は地方経済が本である。畢竟都会の隆昌を為し得る所以のものは各地方が順調に発展するからである。地方の都会に対するは、恰も葎の雫、萩の下露が大河をなす如く、小積りに積つてつひに大をばなさしむるのである。
 尚ほ地方の人は特に注意せぬと或は時を看誤ることがある。例へば五十年前までは渋川銀行の如き株式組織は東京にも大阪にも全然無く維新前の工業は手内職、商業は小売商のみであつて、彼の婆さんの手績が木綿の布となり、小娘の坐繰が絹布となりて市場に出すに過ぎざりしものが、今日は味噌を造るにも染物を染るにも学理を応用して、水力も電力も利用する。併し是れが総て都会より始まるから、物の順序によりては地方は頗る遅くなる。故に地方の人は玆に注目して世の進歩と密着するやう常に注意せねばならぬ。
 私は埼玉県下の血洗島といふ小村に生れたもので、二十四歳の時より家を離れたのである。明治の初東京住居となつてから四・五年毎には郷里に赴いて、農工業の事を村民に注意したが、昨年の九月廿七日には村社の拝殿を新造したので故郷に帰り、郷里の人々に種々話をし
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た。血洗島の一小村の事を渋川町に擬するは、失礼に当るやも知れぬが、他方の文明を自己のものとするは誤つた考ではない。新らしき学理を早く模倣して且これを消化することは必要の事と思ふ。渋川の諸君は渋川だけ看て居つたのではいけない、社会の進歩と事局の変化に応ずることが常々緊要である。
 現に私は血洗島に於て、其の地味が良くて藍を作つて居た耕地が、鉱物藍に圧倒されて武州藍は跡を絶つた。寔に幸福は定めなく流れて来るものであるから、受ける方にて注意せざれば其地には止まらぬ。血洗島の農民は藍を作る代りに麦を作るのみにては面白からぬことである。又た養蚕の桑も本場として誇り居るも、常に培養を怠れば次第に悪くなり、仮令根刈桑にても高木桑にても何ケ年を保ち得べきか、桑の改良は必要であるが、樹齢は十五年位といふことであると、是は血洗島にて注意せしことを御参考の為に述たのであるが、渋川町としては工業に就て如何なることを試験し、又は計画せらるゝや、例へば生糸に就ては信州の諏訪に圧倒されて居りはせぬか、諏訪人に頼りて行くといふは面白からぬことである。製糸工場の如き、現在以上に一層大なるものゝ出で来るべき見込は無いであらうか。
 総ての事物は現在よりも尚ほ発展すべき事が多からうと思はれる。交通を便利にするとか、耕作物の或るものを改良するとかいふことは勿論のことである。今日は伊香保より木暮君と同行したが、若し電車が無かつたならば伊香保の客は現在の半分も無いであらう。此は僅な例であるが、渋川の如き近年日に月に発展する素質ある町にして、有志諸君が能く細心調査せば、製糸事業の他にも何か行ふべき事業があるべきことを思ふのである。
 二十年前の六百戸が二千戸となり、四千人の人員が一万人となりし渋川町は、此の小学校の如き宏壮なる建物も出来たこと故、今後に望む所は工業に在る。実に各地方の力が集まつて帝国の富強となる。故に切に諸君の努力を望む次第であります。


渋沢栄一 日記 大正七年(DK570331k-0020)
第57巻 p.692-693 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正七年      (渋沢子爵家所蔵)
二月十七日 半晴 寒気ハ少ク減シタレトモ風アリテ戸外ハ凛烈タリ午前七時半起床、風邪気ナレハ入浴セス、洗面シテ直ニ朝飧ス、此日ハ兼子ト共ニ湯河原ナル浴場ニ避寒スルトテ朝来旅装ヲ理ム、留守中ノ要務ヲ記載シテ覚書ヲ作ル、午前九時過キ明石夫妻ト共ニ自働車ニテ中央停車場ニ抵ル、送別ノ人多ク来リ会ス、増田明六ニ覚書ヲ交付シ且要事ヲ口授ス、九時四十五分発車、十二時過国府津ニ抵リ汽車ヲ下リ自働車ニ搭シテ、午後二時前湯河原ナル天野屋ニ投宿ス、園田孝吉氏・野口弘毅氏夫妻同宿ス、着後書類ヲ閲覧ス、五時過羽鳥・中野等ノ従者荷物ヲ護送シ来ル、衣服ヲ更メ入浴シテ後、夜飧ヲ為ス、食後園田・野口二氏来話ス、夜読書又日記ヲ編成ス、夜十一時就寝
(欄外記事)
[新聞紙雑誌類ハ汽車ニテ一覧ス
   ○中略。
二月二十四日 曇 風ナク寒気少クシテ郊外梅花盛開キニ頗《(マヽ)》ル散策ニ
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適スルヲ覚フ
○上略 十二時午飧ヲ食シ直ニ旅装ヲ理シテ、自働車ニテ天野屋ヲ発ス、中野・羽鳥随行ス、午後二時国府津駅ニ達ス、湯河原ヨリ国府津ニ抵ルノ道路ハ自働車開通ノ為メニ改作シタルモノナレトモ、曲形急ニシテ所々悪路アリ、車中ノ動揺多ク頗ル不愉快ナリ、午後二時二十五分発ノ汽車ニテ国府津ヲ発シ、四時半東京駅ニ着ス ○下略


竜門雑誌 第三五八号・第九五頁 大正七年三月 青淵先生湯ケ原に避寒せらる(DK570331k-0021)
第57巻 p.693 ページ画像

竜門雑誌  第三五八号・第九五頁 大正七年三月
○青淵先生湯ケ原に避寒せらる 青淵先生には二月十七日午前八時半令夫人・令孫同伴の上豆州湯ケ原天野屋館に避寒せられたるが、同二十四日無事帰京せられたり。


中外商業新報 第一一六二三号 大正七年八月八日 ○渋沢男の避暑(DK570331k-0022)
第57巻 p.693 ページ画像

中外商業新報  第一一六二三号 大正七年八月八日
○渋沢男の避暑 渋沢男は令夫人・令孫同伴、去る三日伊香保木暮別館に避暑に赴きたるが、十一・二日頃福島に於て開会の東北振興会に次て日光に開かるゝ修養団講演会に臨み講演し、再び伊香保に引返して廿二・三日頃帰京さるべしと


竜門雑誌 第三六四号・第六四頁 大正七年九月 ○青淵先生の避暑(DK570331k-0023)
第57巻 p.693 ページ画像

竜門雑誌  第三六四号・第六四頁 大正七年九月
○青淵先生の避暑 青淵先生には八月三日令夫人同伴にて伊香保温泉に避暑せられたるが、同十一日同地を発し日光に至り、翌日中禅寺湖畔に於ける修養団の天幕講習会に臨席の上一場の講話を試みられたる上、再び伊香保に赴かれたり。然るに越えて十六日、東京市に於ける不穏の状況を憂慮の余り帰京せられ、阪谷男・中野・藤山氏等と共に東京臨時救済会其他の件に付種々協議せらるゝ所あり、斯くて十九日更に伊香保に赴かれ、二十五日無事帰京せられたり。
   ○本資料第三十巻所収「東京臨時救済会」及ビ第四十三巻所収「財団法人修養団」大正七年八月十二日ノ条参照。


渋沢栄一 日記 大正八年(DK570331k-0024)
第57巻 p.693-694 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年      (渋沢子爵家所蔵)
五月一日 曇 軽寒
午前七時半起床、昨夜ヨリ少シク熱気アリテ気分清爽ナラス、朝来発汗多ク、為メニ起床時間遅引シタリ、入浴ヲ止メ洗面シテ朝食ヲ為ス畢リテ旅装ヲ理シ、兼子ト共ニ此日大磯ナル明石ノ別宅ニ転地シテ、病後ノ疲労ヲ医セントスルナリ ○中略 午後一時過兼子王子ヨリ来ル、直ニ同車ニテ中央停車場ニ抵ル、同族多人数来リテ行ヲ送ル、一時五十分発、四時大磯着、余ハ人車ニテ明石ノ家ニ抵ル
明石ノ家ハ小磯ナル山添ノ高地ニ在リテ眺望尤モ佳ナリ、寺内伯ノ家ニ隣接ス、山ヲ負ヒ耕地ニ面シ、南方数十間ニ松林連続ス、汽車麦隴中ヲ経過スル事日夜何十回アルヲ知ラス、幽静中ニ活動ノ気色アルヲ覚フ、読書揮毫ニハ最好適地タリ
   ○中略。
五月十日 晴 暖
○上略 旅装ヲ理シ、一時前寓居ヲ発シ、徒歩ニテ大磯停車場ニ抵リ、一
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時十五分発ノ汽車ニテ帰京ス、車中稲垣氏ノ糧食問題ニ付テノ意見書ヲ一覧ス、三時過東京停車場ニ着ス、家人多ク来リ迎フ ○下略
   ○中略。
五月十七日 曇 軽寒
○上略 午後一時五十分東京発ノ汽車ニテ大磯ナル明石ノ別業ニ抵ル、四時大磯着、後、東京ヨリ持参セル雑誌類ヲ一覧ス、夜十一時就寝
   ○中略。
五月二十五日 曇 暖
○上略 此日ハ帰京ノ筈ナレハ朝来ノ旅装ヲ理ス、八時四十分頃明石ノ家ヲ辞シ、九時六分大磯発ノ汽車ニテ十一時東京ニ着ス ○下略


竜門雑誌 第三七二号・第四二頁 大正八年五月 ○青淵先生病床日誌略(DK570331k-0025)
第57巻 p.694 ページ画像

竜門雑誌  第三七二号・第四二頁 大正八年五月
○青淵先生病床日誌略
   ○本文略ス。
附記 先生は去五月一日大磯なる明石氏別邸に赴かれ、静養を試みられつゝありしが、十日一旦帰京せられ、十七日再び大磯に赴かれたるも、二十五日に帰京せられたり。


渋沢栄一 日記 大正八年(DK570331k-0026)
第57巻 p.694 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正八年      (渋沢子爵家所蔵)
八月六日 晴 暑
○上略 午前十時十六分王子発ノ汽車ニ搭ス、家人多ク停車場ニ来リテ行ヲ送ル、車中暑気強キモ清暑ナレハ堪ヘ難キ程ニモナカリキ、汽中小山《(車)》ニ抵ル頃、車中ニテ午飧ス、三時頃西那須ニ着ス、汽車ヲ降テ小憩シ、更ニ自働車ヲ僦フテ那須原野ヲ通過シ、関谷村ヨリ山路ニ入ル、是ヨリ塩原ノ勝景ナリ、自働車塩釜ニ抵リテ橋梁脆弱ノ為メ通スル能ハス、人車ニ依リテ山間ヲ迂廻シ、塩ノ湯ナル明賀屋ニ到着セシハ午後六時前ナリキ ○下略
   ○中略。
八月十三日 晴 暑
午前五時半起床、入浴シテ朝飧ヲ食ス、畢テ旅装ヲ理メ、六時四十分頃客舎ヲ出テ帰京ノ途ニ就ク、高梨孝子及中野・水辺、女中一名ヲ伴フテ人力塩釜ニ抵リテ自働車ト替ヘ、八時頃西那須ニ着ス、川島屋ニテ休憩シ、八時九分発ノ汽車ニテ各駅異状ナク、十二時四十分王子駅ニ達ス ○下略
   ○高梨孝子ハ夫人兼子ノ姪、田中王堂夫人。
   ○中略。
八月十七日 曇 冷
○上略 午前八時半家ヲ発シ上野停車場ニ抵リ ○中略 九時過発車シテ塩原ヘ向フ、西那須ニテ下車シ、午飧ヲ食ス、自働車ニテ塩原ニ抵ル、三時頃塩ノ湯ニ到着シ ○下略


竜門雑誌 第三七六号・第六四頁 大正八年九月 ○青淵先生の避暑(DK570331k-0027)
第57巻 p.694-695 ページ画像

竜門雑誌  第三七六号・第六四頁 大正八年九月
○青淵先生の避暑 青淵先生には令夫人同伴にて八月六日王子駅発、塩原(明賀屋旅館)に避暑せられ、十三日正午協調会準備会其他の為
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めに一旦帰京せられたるが、超えて十七日午前再び塩原に赴かれ、二十一日正午帰京せられたり。


渋沢栄一 日記 大正九年(DK570331k-0028)
第57巻 p.695 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年      (渋沢子爵家所蔵)
一月十六日 晴 厳寒
午前七時起床、洗面シテ朝飧ス、後今日大磯行ニ付旅装ヲ理シ、書類ヲ整頓シテ携帯ノ書籍等ヲ取捨ス、午前十一時半家ヲ発シ、兼子等ト共ニ兜町事務所ニ抵リ、書類ヲ整理ス ○中略 十二時五十五分中央停車場発ノ汽車ニ搭シ、午後三時大磯ナル明石家ノ別居ニ投ス、此日天気朗清少シク風アレトモ、東京ノ寒気ニ比スレバ全ク別天地ノ感アリ、大磯着後読書ト書類ノ整理ニ勉焉ス ○下略
   ○中略。
一月二十一日 晴 軽寒
○上略 本日ハ帰京ノ予定ナレハ書類ヲ整理ス、午前九時過寓居ヲ発シ、徒歩停車場ニ抵リ、九時四十五分発ノ汽車ニ搭ス、車中浅野夫人同伴ス、十二時東京駅ニ着、直ニ兜町事務所ニ抵リ ○下略


竜門雑誌 第三八一号・第五六頁 大正九年二月 ○青淵先生の旅行(DK570331k-0029)
第57巻 p.695 ページ画像

竜門雑誌  第三八一号・第五六頁 大正九年二月
○青淵先生の旅行 青淵先生には静養旁々令夫人同伴にて去月十六日零時五十五分東京駅発の汽車にて大磯に赴かれ、同地山手明石氏別邸に滞在、同月二十一日午前十一時四十五分東京駅着帰京せられたり。


渋沢栄一 日記 大正九年(DK570331k-0030)
第57巻 p.695 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正九年       (渋沢子爵家所蔵)
二月十七日 晴 寒
○上略 午後一時半ノ東京発ノ汽車ニテ大磯ニ抵ル、三時明石ノ家ニ抵リ家人ト共ニ談話ス、夕方ヨリ雑誌類ヲ読ム、夜飧後モ読書ニ耽ル ○下略
   ○中略。
二月二十一日 半晴 寒
午前七時起床、入浴シテ朝食ス、畢リテ書類ヲ整理ス、午前九時四十分大磯発ノ汽車ニテ帰京ス、十一時過東京駅停車場ニ着シ ○下略


竜門雑誌 第三八六号・第四四頁 大正九年七月 ○青淵先生の転地(DK570331k-0031)
第57巻 p.695 ページ画像

竜門雑誌  第三八六号・第四四頁 大正九年七月
○青淵先生の転地 青淵先生には所労の為め五月初旬以来医薬に親まれたるが、本月に至り漸く快方したるに付、病後静養の為め、令夫人同伴にて七月二日零時五十五分東京駅発、大磯に赴かれ、明石照男氏別邸に滞在中なりしが、十二日午前十一時四十五分東京駅着にて一と先づ帰京せられ、十四日午後五時四十分東京駅発にて再び大磯に赴かれたり。


竜門雑誌 第三八七号・第四二頁 大正九年八月 ○青淵先生の転地(DK570331k-0032)
第57巻 p.695-696 ページ画像

竜門雑誌  第三八七号・第四二頁 大正九年八月
○青淵先生の転地 青淵先生には御静養の為め既報の如く七月十四日大磯明石氏別荘に赴かれしが、同十九日午前十一時四十五分帰京せられ、爾後熱心に万般の用務を処理せられつゝありしが、八月十五日午前九時五十分発の汽車にて令夫人と共に東京駅を出発せられ、箱根小
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涌谷三河屋に御避暑中なるが、本月末迄滞留せらるゝ筈なりと云ふ。


竜門雑誌 第三八八号・第七一頁 大正九年九月 ○青淵先生の帰京(DK570331k-0033)
第57巻 p.696 ページ画像

竜門雑誌  第三八八号・第七一頁 大正九年九月
○青淵先生の帰京 青淵先生には令夫人同伴八月十五日午前九時東京駅発、箱根小涌谷(三河屋旅館)に避暑せられし事は既報の如くなるが、爾後同月三十一日迄同地に滞在の上、同日午後六時十分帰京せられたり。


渋沢栄一 日記 大正一〇年(DK570331k-0034)
第57巻 p.696 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一〇年     (渋沢子爵家所蔵)
一月七日 晴 軽寒
○上略 一時三十五分発ノ汽車ニテ大磯ニ抵ル、車中各新聞紙ヲ読ム、午後三時五十分頃大磯着、人車ニテ明石ノ家ニ抵リ、後日記ヲ編成シ又読書ス
大磯ハ東京ニ比シテ少ク温暖ナリ、加フルニ閑静幽雅ナルヲ以テ俄然楽郷ニ遊フノ想アリ
○下略
   ○中略。
一月十二日 快晴 軽寒
○上略 午前九時四十分発ノ汽車ニテ帰京ス ○中略 十一時過東京駅着直ニ事務所ニ抵ル ○下略
一月十三日 曇 寒
○上略 午後二時四十分発ノ汽車ニテ大磯ニ抵リ、車中新聞紙ヲ一覧ス、五時前大磯着
○下略
   ○中略。
一月十六日 晴 寒
○上略 午前九時過大磯ヲ発シ、十一時過東京ニ着ス ○下略


竜門雑誌 第三九二号・第八〇頁 大正一〇年一月 ○青淵先生の避寒(DK570331k-0035)
第57巻 p.696 ページ画像

竜門雑誌  第三九二号・第八〇頁 大正一〇年一月
○青淵先生の避寒 青淵先生には避寒の為め、令夫人同伴一月七日午後一時三十五分東京駅発、大磯なる明石家別荘に赴かれ、十二日用務の為め午前十一時四十五分東京駅着帰京せられたるが、翌十三日午後二時五十五分東京駅発再び大磯に赴かれたり。


竜門雑誌 第四一一号・第五一頁 大正一一年八月 青淵先生の避暑(DK570331k-0036)
第57巻 p.696 ページ画像

竜門雑誌  第四一一号・第五一頁 大正一一年八月
○青淵先生の避暑 青淵先生には八月六日令夫人同伴、王子駅発汽車にて伊香保に赴れ、同所木暮旅館に滞在せられつゝあるが、同二十日頃帰京せらるゝ予定なりと云ふ。


竜門雑誌 第四一二号・第六五頁 大正一一年九月 青淵先生の避暑(DK570331k-0037)
第57巻 p.696-697 ページ画像

竜門雑誌  第四一二号・第六五頁 大正一一年九月
○青淵先生の避暑 青淵先生には八月六日令夫人同伴伊香保に赴かれたる事は既報の如くなるが、超えて十八日午後一時二十六分王子駅着の列車にて一先づ同地より帰京せられ、更に廿五日午前五時四十二分王子駅発にて令夫人と共に再び伊香保に赴かれ、九月四日午後一時廿
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一分王子駅着列車にて無事帰邸せられたり。


渋沢栄一 日記 大正一二年(DK570331k-0038)
第57巻 p.697-698 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一二年     (渋沢子爵家所蔵)
一月十四日 朝晴午後曇 寒
午前六時起床、入浴朝飧例ノ如クシテ後理髪ス ○中略 午前九時家ヲ発シ兼子ト共ニ湯河原ニ向テ出発ス、家人留守中ノ事ヲ指示ス、九時半東京停車場ニ抵ル、家人又ハ事務所員等多ク送別ス ○中略 九時半東京駅発横山徳次郎氏、横浜迄同行シ、小倉製鋼所ノ事ヲ談ス、汽車中ニ牧野元治郎氏同乗シテ種々ノ談話ヲ交換ス、車中雑沓シテ知人多シ、一時頃小田原ニ抵リ、新路湯河原行ノ路ヲ取ル、処々ニ墜道アリ、山路屈曲多キモ敢テ危険ノ惧ナシ、真鶴駅ニテ下車シ、停車場ニテ自動車ニ搭乗ス、湯河原浴場ノ主人来リテ周旋甚タ勉ム、二時前天野屋ニ安着ス、後日記ヲ編成シ、又読書ス、十一時半就寝
   ○中略。
一月十九日 晴 寒
午前七時起床、入浴シテ朝飧ス、畢テ演説筆記ノ修正ニ努ム ○中略 夜飧後東京ヨリ長野護《(永野護)》・岩倉具光二氏来訪シテ帝国商業銀行ノ失態ニ付和田豊治氏其整理ニ助力シアルモ、事、神田鐳蔵氏ニ関係シテ、或ル恐《(ハ)》ル経済界ノ紛議ヲ惹起セント、依テ之ニ付シ善後ノ処置ヲ講セラレン事ヲ乞ハル、右ニ付両氏ヨリ詳細ニ該事件ノ真想《(相)》ヲ聞取リ終、明日帰京シ、之レカ調停ヲ為サン事ニ決ス、長野氏等ハ其夜帰京ス ○下略
一月二十日 晴 寒
午前六時起床、入浴シテ朝飧ヲ了ヘ、仕度ヲ整ヘ、七時過客舎ヲ発シ中野ヲ伴フテ帰京ノ途ニ就ク ○中略 十一時半東京駅ニ着ス ○下略
   ○中略。
一月二十二日 曇 軽暖
○上略
二時五十分汽車東京発、六時頃真鶴着、六時三十分湯河原到着、入浴後夜飧、夜、来状ヲ点検シ、書類ヲ整理ス
○下略
一月二十三日 晴 寒
午前七時半起床、入浴シテ朝飧ス ○中略 羽場順承氏来ル、狛江村建碑ノ事ヲ談シ、又真鶴村ニ関スル依頼アリシカ、船舶ヲ以テ港湾ヲ巡回スルハ寒気ノ候之ヲ謝絶シ、若シ希望アラハ、有志者等客舎ニ来訪スルアラハ談話スヘキ旨ヲ告ケテ帰村セシム ○下略
一月二十四日 曇 寒
○上略 十時頃真鶴村ノ小学校長・同青年会幹事・村会議員等五名、羽場順承氏同伴来訪ス、会見シテ来意ヲ容レ、来月四日ノ日曜ヲ以テ同村青年会ノ為小学校ニ開催スル講演会ニ出席ノ事ヲ承諾ス ○中略 午飧後揮毫ス、十数枚ヲ書シテ、薄暮ニ至リテ止ム ○下略
一月二十五日 雪 寒
昨夜ヨリ雪降リテ朝来猶未タ歇マス、暁色窓ニ映セサレハ晏起シテ午前八時起床直ニ入浴シテ朝食ス、後日記ヲ編成ス、雪ハ益々降続キテ客窓外ノ山野一面ノ銀色トナル、崖ニ添フ屋舎モ新ナル観アリ ○中略 午
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飧後揮毫ヲ為ス、大小ノ絹本二十余枚ヲ染筆ス、夜ニ入リテ歇ム ○下略
一月二十六日 雪 寒
午前八時半起床、昨日来ノ降雪猶未タ歇マス、依テ今日ノ帰京ヲ延引シ、明日ト定メテ其旨ヲ東京ヘ通信ス ○中略 午飧後、又揮毫ニ努力ス、雪中寒威凜然タルモ、勉強薄暮ニ至リテ歇ム、夜飧後、書類ヲ調査シ又読書ス、明日ハ勉メテ帰京ヲ要スルニ付、夜来準備ヲ為ス、但シ兼子ハ猶留リテ入浴スル方ヲ希望スルニ付、明日ハ余一人ニテ帰京ノ事ト定ム、夜十一時就寝
一月二十七日 曇又晴 寒
午前七時起床、入浴朝飧例ノ如クシテ、八時過旅装ヲ理シ、自働車ニテ客舎ヲ発ス、兼子ハ尚客舎ニ止リ、僕婢各一人ヲ従ヒ、九時半真鶴駅ニ抵ル、雪後路上極メテ険悪ナリ、九時五十分過発車、車中雑誌又ハ新聞紙ヲ一覧ス、午後一時前東京駅ニ達ス ○下略
   ○中略。
二月一日 晴 軽寒
○上略 一時、東京停車場ニ抵リ、湯河原行列車ニ搭乗ス、篤二其他数名来リ送ル、此日天気朗晴ニシテ甚タ寒カラス、車中ノ便宜頗ル佳ナリ午後五時前天野屋ニ着シテ家人ト談話ス、着後雑誌ヲ一覧シ、又日誌ヲ編成ス、十一時過就寝 ○下略
   ○中略。
二月四日 快晴 寒
○上略
本月一日此客舎ニ抵リシ以来、家法ノ清書ト小絹本ノ揮毫ニテ毎日寸暇ナク努力ス、然カモ風邪気ハ快方ニ至ラス、日々快然タルヲ得ス此日真鶴地方人ノ依頼ニヨリ、同村ノ学校ニ於テ講演ノ約アリシモ、風邪ニ付、出演ヲ謝絶ス、夜飧後、新聞紙ヲ朗読セシム
   ○中略。
二月九日 晴 寒
午前七時起床、風邪稍快方スルモ入浴セス、腰部浸入ニ止ム、畢テ朝飧シ、午前九時天野屋ヲ発シテ帰京ス、兼子ハ明後十一日ヲ以テ帰京ノ筈ニテ同行セス、九時五十分発ノ真鶴発列車ニテ午後一時頃東京着停車場ニ迎フル者頗ル多シ ○下略
   ○帝国商業銀行ニ就イテハ本資料第五十巻所収「普通銀行」中「株式会社帝国商業銀行」参照。
   尚、羽場順承ニ就イテハ本資料第四十九巻所収「玉川史蹟猶興会」参照。


竜門雑誌 第四一六号・第六三頁 大正一二年一月 ○青淵先生の避寒(DK570331k-0039)
第57巻 p.698 ページ画像

竜門雑誌  第四一六号・第六三頁 大正一二年一月
○青淵先生の避寒 青淵先生には新年と共に元気益旺盛に渡らせらるるは会員一同の深く欣喜に堪えざる所なるが、一月十四日午前九時四十五分東京駅発列車にて令夫人と共に湯ケ原天野屋旅館に赴かれ、暫く静養の上、一月廿七日頃帰京せられ、更に来月一日出発、同月上旬中同地に滞在せらるゝ予定なりと云ふ。


竜門雑誌 第四一七号・第七六頁 大正一二年二月 ○青淵先生の帰京(DK570331k-0040)
第57巻 p.698-699 ページ画像

竜門雑誌  第四一七号・第七六頁 大正一二年二月
 - 第57巻 p.699 -ページ画像 
○青淵先生の帰京 一月十四日令夫人と共に湯ケ原に避寒せられたる青淵先生には、二十七日所用の為め一先づ帰京せられたるが、更に二月一日再び同地に赴かれ、九日帰京せられたり。


竜門雑誌 第四二〇号・第六四頁 大正一二年五月 ○青淵先生の静養(DK570331k-0041)
第57巻 p.699 ページ画像

竜門雑誌  第四二〇号・第六四頁 大正一二年五月
○青淵先生の静養 青淵先生には感冒の気味にて、主治医入沢博士の診察を受けられ、十三日以降曖依村荘に於て引籠り静養せられつゝありしが、五月二日午後一時令夫人同伴東京駅発、大磯明石氏別邸に赴かれ、七日午後四時五分一と先づ帰京せられ、翌八日午後五時四十五分再び大磯に向はれ、十二日午後五時二十五分帰京せられたり。


(増田明六) 日誌 大正一二年(DK570331k-0042)
第57巻 p.699 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一二年    (増田正純氏所蔵)
五月二日 水 晴
定刻出勤
渋沢子爵にハ令夫人御同伴正午東京駅を発し、大磯明石氏別邸へ転地療養セらる ○下略
   ○中略。
五月七日 月 雨
定刻出勤
大磯静養中の子爵にハ、午後四時五分東京駅着汽車にて帰郷《(京)》セらる、同駅ニ出迎ヘ ○下略
五月八日 火 雨
定刻出勤
昨午後帰京セられたる子爵は ○中略 午後五時四十五分東京駅発車にて再度大磯ニ赴かれたり
○下略
   ○中略。
五月十二日 土 晴
定刻出勤
午後五時四十五分子爵ニハ令夫人同伴大磯ヨリ帰京セラル
○下略


竜門雑誌 第四三二号・第五〇頁 大正一三年九月 ○青淵先生の避暑(DK570331k-0043)
第57巻 p.699 ページ画像

竜門雑誌  第四三二号・第五〇頁 大正一三年九月
○青淵先生の避暑 青淵先生には令夫人同伴八月三日午前王子駅発列車にて伊香保に赴れ、木暮旅館に滞在せられつゝありしが、六日午後用務の為め一と先帰京せられ、十日午前再び王子駅発列車にて伊香保に赴れ、二十四日午後帰京せられたり。


(増田明六) 日誌 大正一三年(DK570331k-0044)
第57巻 p.699-700 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一三年    (増田正純氏所蔵)
八月三日 日
子爵並令夫人王子駅朝七時五十七分発車ニて伊香保ニ避暑せらる ○下略
   ○中略。
八月六日 水
子爵伊香保より臨時帰京せらる
 - 第57巻 p.700 -ページ画像 
○下略
   ○中略。
八月十日 日
○上略
子爵再度伊香保に赴かれたり
○下略
   ○中略。
八月廿四日 日 晴
○上略
子爵閣下此日伊香保温泉より帰京せらる


竜門雑誌 第四三六号・第五三頁 大正一四年一月 青淵先生動静大要(DK570331k-0045)
第57巻 p.700 ページ画像

竜門雑誌  第四三六号・第五三頁 大正一四年一月
    青淵先生動静大要
      十二月中
青淵先生には去月来感冒に喘息を併発せられ、専ら在邸療養に尽されつゝありしが、漸次快方に赴かれしを以て、二十七日午前十時十分東京駅発、令夫人と共に相州湯河原に転地せられ、同地天野屋旅館に於て越年の上静養せらるゝ事となれり。


渋沢栄一 日記 大正一四年(DK570331k-0046)
第57巻 p.700 ページ画像

渋沢栄一 日記  大正一四年     (渋沢子爵家所蔵)
一月二十五日 晴 寒
○上略 十二時前自働車ニテ天野屋ヲ発シ、湯河原停車場ニ抵リ汽車ニ搭乗ス、行程一区域ニシテ下車シ、腕車ニテ根府川駅ニ抵リ上車ス、夫ヨリ汽車平時ト同シク小田原・国府津等ノ各駅ヲ経テ、午後四時過東京ニ達ス ○下略
   ○中略。
三月二日 半晴 寒
○上略 午前十一時過家ヲ発シ、東京停車場ニ抵ル、親戚故旧来リ送ル者多シ、十二時ノ発車ニテ大磯ニ抵ル、兼子同伴、附添ノ看護婦及婢僕共七名、午後二時大磯着、明石ノ別荘ニ寓居ス ○下略
   ○中略。
三月二十日 曇 寒
○上略 午飧後直ニ旅装ヲ整ヘ、午後一時過発ノ汽車ニ搭ス、車中異状ナク三時過東京駅安着、特ニ駅長ノ厚意ニテエレベーターニテ荷物庫ニ落下シ、直ニ自働車ニテ帰宅ス ○下略


竜門雑誌 第四三九号・第八五頁 大正一四年四月 青淵先生動静大要(DK570331k-0047)
第57巻 p.700 ページ画像

竜門雑誌  第四三九号・第八五頁 大正一四年四月
    青淵先生動静大要
      三月中
二日 病後静養の為め相州大磯明石家別荘に赴かる。
廿日 帰京。
   引続き在邸静養せられつゝあり。


(増田明六) 日誌 大正一五年(DK570331k-0048)
第57巻 p.700-701 ページ画像

(増田明六) 日誌  大正一五年    (増田正純氏所蔵)
 - 第57巻 p.701 -ページ画像 
八月三日 火 晴                 出勤
子爵、同令夫人、中野時之外ニ侍女四、男一を伴ひ、午前七時五十七分王子発汽車ニて伊香保ニ赴かる、同停車場ニ御見送りを為す ○下略
   ○中略。
八月廿五日 水 晴                同地 ○湯ケ島
午前八時半自動車ニて帰京の途ニ就く ○中略
此日渋沢子爵も令夫人御同伴伊香保より無事帰京せられたり


竜門雑誌 第四五六号・第八三頁 大正一五年九月 青淵先生動静大要(DK570331k-0049)
第57巻 p.701 ページ画像

竜門雑誌  第四五六号・第八三頁 大正一五年九月
    青淵先生動静大要
      八月中
三日  令夫人同伴、伊香保木暮旅館に避暑。
廿五日 伊香保より帰京。


(増田明六) 日誌 昭和二年(DK570331k-0050)
第57巻 p.701 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和二年    (増田正純氏所蔵)
八月十四日 日 晴
子爵ニハ斎藤(書生)・荒山(運転手)・藤井(看護婦)外ニ女中一名を連れ、王子午前七時三十九分発汽車ニて伊香保木暮武太夫別館ニ赴かる、先是令夫人(去三日)先発、本日ハ同地ニ於て子爵を迎へられる都合なり
○下略
   ○中略。
八月廿八日 晴 日                在宅
○上略
夕六時子爵ニハ書生及看護婦を伴ひ伊香保より無事帰京せられた王子駅ニ出迎へ、次いて飛鳥山邸ニ出てゝ、御不在中の事務処の事務並三本木農場視察の状況ニ付き大略を御報告を為したのである


竜門雑誌 第四六八号・第八七頁 昭和二年九月 青淵先生動静大要(DK570331k-0051)
第57巻 p.701 ページ画像

竜門雑誌  第四六八号・第八七頁 昭和二年九月
    青淵先生動静大要
      八月中
十四日 避暑の為め伊香保へ出発。
廿八日 同地より帰京。


(増田明六) 日誌 昭和三年(DK570331k-0052)
第57巻 p.701 ページ画像

(増田明六) 日誌  昭和三年     (増田正純氏所蔵)
八月十三日 月 晴                出勤
子爵・同令夫人午前七時五十八分赤羽発列車に搭し、伊香保ニ赴かる看護婦一人、従者一、女中三人附随した、同駅ニ御見送をして無事御元気ニ御出立を祝した
○下略
   ○中略。
八月廿九日 水 雨時々曇             出勤
午後六時二十分子爵伊香保より帰京せらる、赤羽駅ニ出迎へ、続いて飛鳥山邸へ参候した、車中の御疲労も無く極めて元気で居られた ○下略
 - 第57巻 p.702 -ページ画像 


竜門雑誌 第四八〇号・第六七頁 昭和三年九月 青淵先生動静大要(DK570331k-0053)
第57巻 p.702 ページ画像

竜門雑誌  第四八〇号・第六七頁 昭和三年九月
    青淵先生動静大要
      八月中
十三日 避暑の為め令夫人同伴赤羽駅発伊香保に赴かる。
廿九日 帰京。


竜門雑誌 第四九二号・第八七頁 昭和四年九月 青淵先生動静大要(DK570331k-0054)
第57巻 p.702 ページ画像

竜門雑誌  第四九二号・第八七頁 昭和四年九月
    青淵先生動静大要
      八月中
十日  避暑旁静養の為め令夫人同伴、午前七時二十分自働車にて曖依村荘より箱根小涌谷三河屋旅館に赴かる
三十日 午後五時三十八分、東京駅着の汽車にて令夫人と共に帰京せらる


竜門雑誌 第五〇四号・第六九頁 昭和五年九月 青淵先生動静大要(DK570331k-0055)
第57巻 p.702 ページ画像

竜門雑誌  第五〇四号・第六九頁 昭和五年九月
    青淵先生動静大要
      八月中
七日  避暑旁静養の為め令夫人同伴、午前九時東京駅発箱根小涌谷三河屋旅館に赴かる。
廿九日 途中大磯駅へ下車、浅野総一郎氏訪問。午後五時四十九分、東京駅着の汽車にて令夫人と共に帰京せらる。
   ○栄一日記、左記期間記載ヲ欠ク。

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