公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
第57巻 p.866-868(DK570372k) ページ画像
昭和15年11月24日(1940年)
是日、長野県南・北佐久郡有志ニヨリ、南佐久郡内山村ノ岩壁ニ鑿立セラレタル、「渋沢青淵先生内山峡之詩」碑ノ除幕式挙行セラル。
竜門雑誌 第六二七号・第二一―二九頁 昭和一五年一二月 青淵先生内山峡之詩巌碑成る(DK570372k-0001)
第57巻 p.866-868 ページ画像
竜門雑誌 第六二七号・第二一―二九頁 昭和一五年一二月
青淵先生内山峡之詩巌碑成る
はしがき
青淵先生十九歳の時、師兄尾高藍香翁と共に家業を以つて信州に入り、「巡信紀詩」一篇を合作せらる。その中に青淵先生の長詩「内山峡」が収められてゐるのは周知のところであるが、今回、信州南・北佐久郡の有志諸氏は相謀つて此の詩の吟詠の地、南佐久郡内山村肬水の巌壁に一大詩碑を鑿立、十一月二十四日その除幕式を盛大に挙行せられた。仍て渋沢敬三子爵は伊藤松宇翁を帯同、二十三日午後上野発同夜小諸町の小山邦太郎氏邸に一泊、翌日この除幕式に臨まれた。
○中略
芳軒先生の生家を訪ふ
○中略
木内家は当時この地方の名主であつて、製藍業とは何等関係はなかつたのだが、青淵先生は佐久へ来る毎に、道を遠しとせずして当家を訪ねられ、芳軒先生等と詩を賦し、或は国事を論じ、時には塾生のために論語の講義をせられたのである。 ○中略
内山峡
○中略 いよいよ内山峡に入つたのである。忽ちにして行手をはばむ数十尺の巨岩が内山峡を鎖すやうにそば立つてゐる。この巨岩こそ、今日除幕式が挙行される巌碑を鑿立した岩であつた。
そこは道路から二間ばかり高くなつてゐて、小公園をなしてゐる。
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白布に覆はれた巌碑は、そこより更に一段高い自然の岩壁に、縦五尺横七尺の仙台石に刻まれてはめ込んである。○中略
除幕式
やがて午後二時、発起人はじめ地方有志・村民・小学校児等百余名設けの席に着く。 ○中略 それより、内山尋常高等小学校長武者八郎氏は開会を宣し、内山村長岩崎寛氏の式辞朗読、建碑主唱者小林義助氏の本年初頭青淵先生内山峡詩に感激し、この地に巌碑鑿立を発願して、本日の除幕式に至るまでの経過報告、彫工岡本作次氏の本工事に当つての苦心談、次に詩碑の揮毫者木内敬篤氏の感激に満ちた挨拶があつた。それより神官の修祓・祭事を終つて、渋沢子爵の手によつて除幕の綱がひかれた。仙台石の詩碑と手引石は折柄の太陽に燦と輝く。
渋沢青淵先生内山峡之詩
襄山蜿蜒如波浪西接信山相送
迎奇険就中内山峡天然崔嵬如
刓成刀陰耕夫青淵子販鬻向信
取路程小春初八好風景蒼松紅
楓草鞋軽三尺腰刀渉桟道一巻
肩書攀崢嶸渉攀益深険弥酷奇
巌怪石磊磊横勢衝青天攘臂躋
気穿白雲唾手征日亭未牌達絶
頂四望風色十分晴遠近細弁濃
与淡幾青幾紅更渺茫始知壮観
存奇険探尽真趣游子行恍惚此
時覚有得慨然拍掌歎一声君不
見遁世清心士吐気呑露求蓬瀛
又不見汲汲名利客朝奔暮走趁
浮栄不識中間存大道徒将一隅
誤終生大道由来随処在天下万
事成於誠父子惟親君臣義友敬
相待弟与兄彼輩著眼不到此可
憐自甘払人情篇成長吟澗谷応
風捲落葉満山鳴
昭和十五年十一月廿四日建之
後学 木内敬篤 謹書
手引石に誌された巌碑の由来は左の通りである。
渋沢青淵先生之巌碑
子爵青淵先生十九歳にして内山峡を過り絶勝を嘆賞して此詩を賦せらる、一誦して九十二歳の終生を一貫せる道徳経済合一の大義が既に胚胎せるを知るべく、再吟して明治・大正・昭和に亘り一世に高かりし功業徳望の由来する所を感得せずんばあらず、因て郷人有志相謀り、玆に巌碑を鑿立して景仰の意を致すと云
皇紀二千六百年十一月廿四日
顧問 東京市 伊藤松宇 小諸町 小山邦太郎
野沢町 並木齢輔 臼田町 井出今朝平
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三岡村 塩川正巳 岸野村 木内政蔵
平賀村 鈴木覚治郎 東京市 三石勝五郎
主唱者 内山村 岩崎寛 肬水代表 中山茂治
平賀村 小林義助 肬水代表 竹花喜三郎
内山尋常高等小学校長 武者八郎
撰文 小林義助
執筆 八十二翁 伊藤松宇
彫工 岡本作次
次いで渋沢子爵をはじめ各代表者諸氏の玉串が捧げられ、終つて伊藤松宇・小山邦太郎・三石勝五郎(別掲「巌碑内山峡に寄す」参照)氏の祝辞があり、これに対して、渋沢子爵は心からなる謝辞を述べられた。
かくて会集一同は小山氏の発声で万歳を三唱し、芽出度く内山峡之詩巌碑除幕式を終了した。
尚、渋沢子爵はこの日帰京の予定を延して、その夜は中込町の一旗亭に宴を設け、関係一同の労をねぎらはれた。(山本勇記)