公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
三七五 中外商業新報 第一三九四八号 大正一四年一月一日 新年の初めに言ひたい事(DKB80001m)
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三七五 中外商業新報 第一三九四八号 大正一四年一月一日
新年の初めに言ひたい事
◇……第一が商業道徳の振興
子爵 渋沢栄一氏
乙丑の年頭に際し、私は例年の如く中外商業新報紙上を通じ、社会に向つて希望を述べ得ることを光栄とする。処がこれまで毎年述べ来つた私の希望は一つとして達せられたことが無いといふ嫌ひがあるので、甚だ心苦しく感じて居るが、達せられなければ更にこの希望を繰返していはずには居られないのである。しかも年内不幸にして病気のため一ケ月以上も殆ど社会へ顔出しをせず、その出来事も伝聞する程度であつたから自然経済界の実情にも迂遠たるを免れない訳である。
◇
さて私の最も憂慮に堪へないのは、信義の心を以て商工業に従事する者の依然少いことである。換言すれば商業道徳が重んぜられないこと、経済と道徳との合一が進歩しないことである。就中海外貿易上この弊害が多いと聞く。例へば印度、南洋等に輸出する商品が粗製濫造で、かつ約束を守ることが堅くない事実である。同地方へは欧洲から戦争のため商品の輸入されなかつた当時、本邦品が頻に需要されたが今日の如く欧洲から漸次供給されるやうになつてからは、輸出が激減したといふ。
◇
その原因は商品の生産費が不廉で勢ひ商品の高価となるに依るであらうが、また一半は必ず道徳上の欠点に責があると思ふ。曾て明治三十五年私が東京商業会議所会頭として日本商業会議所を代表し英国に赴いた時、彼の地の重な商工業者会合の席上で、ある一人から「日本人は約束を固く守らない。またインボイスを二枚書けといふ。これは非常に困ることで、後者の如きは税を避けるための強要であるから、不法の行為である」と非難せられ、漸くサミユル・サミユル商会のミッチェル君から「それは日本人のみではないからお互に注意しよう」と取りなされて、やつと答弁し得た苦しい経験があるが、最近の海外取引には、この種の弊がなほ多いと聞くのは慨歎に堪へない。殊に今日海外貿易の均衡を失してゐる事態に鑑みて、当業者個々はよく自覚しなくてはなるまい。
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右は外国との関係であるが、各種の事業に就ても私はいひ度いことが沢山ある。中に重要産業に眼を放つならば第一には船の問題をどうするか、現在では政府の補助がある定期航路さへ維持難に陥らうとする有様であるから、当業者は大なる覚悟を以て事に当り、政府も国策上今日より以上の保護をなし、監督、指導をおこたつてはなるまい。
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また次に各種の事業は自然の発展に俟つべきものであらうが、船舶と同様国策樹立の緊要なるものに製鉄事業がある。近頃政府でも製鉄調査委員会を設けたと聞くが、著々実現の歩を進めてほしい。
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第三に貿易の不均衡と対外為替相場の下落に就ては学者や識者の研究が旺んである。私は今その対策を具体的にいふを得ないのを遺憾とするが、何とか解決の方法を講ぜねばならぬといふことを力説する。更に日本輸出品中の大宗である生糸に関しては、今の取引上の仕組に改善を要すべき点が多々ある。例へば近く著手されるらしいが、検査方法また売込み方法である。売込み方法は昨年私共も相談に預かつて改善に尽したけれど、まだ行はれるまでに到つて居らぬものである。以上の外主な商工業上の考慮すべき点は尠くない、かの紡績の原綿輸入の方法、あるひは石炭に代る水力電気の真正なる経済的発電施設、引続いては農村救済の第一著手段たる電化に安価な電力を供給することなど、挙げ数へるならば重大事項のみで実に十指を屈するともなほ足らないであらう。
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最後に、目前に横はつて居る帝都復興の問題がある。之は現在東京市で復興建築会社の設立を目論で居るが、速かに適当なる方法を以て之を設立し、真に生れ変つた帝都たらしめねばならない。以上私は改善を要すべき項目を挙げるのみで、具体的方策に就て述べなかつたけれども、具体的方策を案ずるにはまた適当なる有力者が多数ある。私は単に眼に触れた点を愚痴に近く徒らに並べたてたが、之も帝国経済の発展を深く希ふ衷心からの叫びに外ならないのである。