デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
大正期 三八〇 竜門雑誌 第四三七号 大正一四年二月

■資料

三八〇 竜門雑誌  第四三七号 大正一四年二月  青淵先生説話集其他 ○中略 故松方公に就て(DKB80006m)
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三八〇 竜門雑誌  第四三七号 大正一四年二月
  青淵先生説話集其他
○中略
    故松方公に就て
 故松方公は明治聖代の内閣に再度迄も首相の位地に立たれた御方であるから、政治界の偉勲も多々ありませうが、私は自己の関係上、古い記憶を呼び起して財政経済の方面に対する公の功績を爰に叙述しようと思ひます。但し遠きは五十余年、近きも三十年を経過した事柄にて、別に調査考証すべき書類もなく心覚の儘を陳述するのでありますから、素より誤謬なき能はず御容赦を願ひます。
 私が公の知遇を得たのは明治初年の事であつて、私は二年の冬静岡藩より徴されて大蔵省に入りて租税正に任じ、翌年は本省に入り少丞となりましたが、松方公が日田県令から大蔵省に栄転されたのは其頃であります。故に其職掌は異りましても、時々相会して意見を交換して親交を厚うするに至りました。
 当時の大蔵省は、故井上馨侯が大蔵次官であつたが専ら省務を主宰せられ、私は其事務官の任務を取りましたが、明治六年五月に至りて井上侯が大蔵省の要務に就て政府の諸公と意見を異にするによりて辞
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職せられて大蔵省の事務は大隈重信侯が引受けられ、松方公は其次官の任に就かれたと記憶します。私も井上侯と共に官を辞して、将来は政治界を断念し、実業界に於て身を立てんと企画して、辞職後直に第一国立銀行の創立に従事しました。其際東京、大阪、横浜等に於て四箇の銀行は出来ましたが、其業務も実際に当りて見ると曾て理論上計画した所と違却する点が多くして、創業匆々経営に尠からぬ困難を感じました。殊に明治八年頃、世界の金銀比価の変動よりして、其銀行の信用如何に拘はらず発行紙幣に兌換の要求が頗る多くして、既設の各銀行は営業も維持し難き有様となりしにより、各銀行協同して大蔵省に向つて銀行紙幣兌換制度の改正を請願し、私は従来の交誼上松方公に此事情を詳細に陳情し、公の尽力によりて銀行者の請願を容れ制度を改正することになりました。
 其後国立銀行も追々に創設し、また明治十年には西南戦争が勃発して財政上に大影響を来し、政府は已むなく各種の紙幣を濫発して一時の急に応じたるにより、其後物価次第に騰貴して、之れが趨勢は戦争終熄後も尚引続きて一時は諸物価の騰上より商業繁盛の有様を現したりしが、明治十三年頃より遂に正貨と紙幣との間に価格の相違を生じ頻りに紙幣が下落するに至つた。而して現に通用の太政官紙幣は発行の際十三ケ年を以て正貨に兌換する旨を布告しあるにも拘はらず其後も種々の名称を以て紙幣を濫発せられ、何時完全なる兌換が出来る見込もなき景状なるに付、政治界にも経済界にも種々の物議沸騰した。其際私抔は消極主義を唱へて銀行同業者申合せて自己の発行せる銀行紙幣の幾分を減却せらるるも、此際政府は英断を以て大に一般の通用紙幣を消却減縮せられたき事を大蔵卿に建議せんとして、大隈侯より叱責せられたこともあつた。
 明治十四年には政府の大官に交迭があつて大隈侯は職を辞され、松方公大蔵卿となられたが、此紙幣処分に付ては公の苦心も想像に余りありと云ふべき程であつたと思はれます。元来大隈侯は積極主義であられたが松方公は其反対であつた。而して一般の輿論は一日も早く兌換制度の完成にあるも、一方目下の商工業の施設に至りては成るべく進歩的指導がなければ事業の発展は望まれぬ故に、大体に於ては素より消極を主張すべきも、或る方面には積極を要する場合も少くない、恰も目下浜口蔵相の苦境と相似た処があつた様に思はれます。
 松方公は就任と共に紙幣引換の急務なることを看取され、徒らに声を大にせずして先づ通用紙幣の収縮に勉め、一方には米穀の輸出を奨励して其代価を以て正貨を貯蓄し、殆ど寝食を忘れて之れが実行に努力せられた結果、物価は着々低落して、明治十五、十六年頃には世間は極度の不景気を招来した。そこで伊藤(博文)公や井上侯は痛く之を憂慮され、これでは人心が萎微して世間が衰頽に陥りはしないかと思ふが足下はどう考へるかと私の意見を徴された事さへあつた。その頃外国から帰朝された陸奥(宗光)伯の如きは、これは大変だ何とかして此政策を緩和させなければならぬと叫ばれた。
 斯の如き環境の裡にあつて、松方公は毅然として其所信を枉げず、断々乎としてしかも穏健に其政策を持続された。それがため明治十九
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年には銀紙の価位が対等となりて初めて通用紙幣の価値が回復さるるに至つたのであります。これ偏に松方公の力であつて、公の苦心は如何に大なるものであつたか、私は幾分か此事実を知つて居りますけれども実に想察し得られぬ程でありました。是に於て各銀行業者は公に感謝の意を表する為め、彰徳表と命名して床の置物になる小銀器を作り、私がその撰文並に揮毫して更に代表者となつて之れを公に贈呈いたしたのであります。今も尚公の御邸に保存されてあると思ひます。
 銀行紙幣の事に関して更に一事特筆すべき公の功績がある。即ち我邦の紙幣発行権の統一であります。古来我邦には銀行と云ふものがなかつたから、初めは其の営業方法が全く判らなかつた。将来商工業の発展を企図するには、是非とも確実なる金融機関の必要がある。各自己の有する資本だけでは事業は拡張せぬ、多くの資本を集むる機関としては確実なる銀行の創設に限る。例へば物資の問屋に於るが如くにしなければならぬ。結局物々交換の古態に堕ちて商工業完全の発達は期待せられない。蓋し、貨幣なるものは物資の定量と交換とを便にすると云ふ原則に従つて、一方にはまた余裕の金のやり場に困る人のためその遊金を活用せしむることになる。玆に銀行の生命と活用とがあるのであります。明治三年伊藤公が米国式銀行制度の採用を提唱せられ、又英人について親しく研究して帰つた吉田清成氏は英国式銀行制度を推称し、朝野の間に賛否両論が種々討議されたが、之を判断して実行するのは時の大蔵省の主宰者たる井上侯にして、私は之に参与する位置にあつて審議攻究の末、米国式が即効ありと断案して遂に伊藤公説の米国式を採用した。而して銀行条例を制定することとなつて私が主任となり之を作成し之を発布するに至つた。爾来設立の各銀行には紙幣発行の特権を附与することにしたから、其結果終に第一から第百五十三までの銀行が創設され、之れ等の銀行は何れもその取り得たる特権によつて紙幣を発行したから、之れがまた将来国内の経済界に大に注意を要する問題を生じた。
 松方公が大蔵卿とならるるや、早くもこの点に着眼され、明治十五年には先づ日本銀行を創立し紙幣発行の事を統一せんと企てられたのであります。当時紙幣発行権を有する銀行が百五十三の多きが上に、更に日本銀行に紙幣発行の事を許可するとせば将来実に危険な事であつて、若し一行に不信用の事ありて紙幣の取付けある場合には、全体の銀行紙幣に波及して一般の疑惑を解く事は頗る困難である。依て是非日本銀行創立と共に各国立銀行紙幣制度を改めなければならぬが、之れと同時に各国立銀行に打撃を与えて経済界に混雑を生ぜしむる様な事があつてはならぬ。故に此銀行紙幣制度改正の事も却々困難であつて、公も之には余程心配されたやうであります。是に於て公は私と安田善次郎、山中隣之助二氏とを大蔵省に招致せられて懇々と相談がありましたから、私どもは銀行制度は米国式がよいと思ふけれども、紙幣制度の改正は公の注意が適当にて、既に日本銀行設立の上は尚更の事と思考し其旨を答申し、その代り各銀行の紙幣償還方法に付て寛大なる手続を設けて戴きたいといふ希望を申述べ、是に於て大蔵省から各国立銀行へも其主意を訓示されて、終に日本銀行は委任を受けて
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各銀行の紙幣償還を代理することとなり、其担保の公債の利息から漸次に償還する事が出来たから、何れの銀行も自己の手から小額の資金を支出するのみにて其償還が済んだ。同時に又政府は各銀行から紙幣発行権を取上げてしまつたのであります。実に恰好なる松方公の御手際で、公が確乎たる意思と名よりも実を重んずる主義であつたが為に此穏和なる功績を収め得られたものと存じます。兎角斯様の問題には種々の紛議又は騒動が勃発するのが多くの例でありますが、かくも無難に国立銀行を継続せしめ、平和な手段によつて紙幣制度の改正を遂げ以て財界調和の大策を完うせられた松方公の顕れざる功績は私の推奨措く能はざる所であります。その他興業銀行、勧業銀行、農工銀行など特種の創立も多くは公の発意によつて出来たと思ふ。或る事柄には私も参与したけれども詳しくは承知致しませぬ。しかし公が政界に居られた間、財界の事に関係されないものはなかつたのであります。
 更に敬服に堪へないのは金貨制度の確立に公の果断が与つて力あつたことであります。維新匆々は我邦は貨幣に制度はなかつたが、明治五年金貨本位制に定めて、其条例も当時私が調査した。爾後二、三十年存続したが、今日のと異つて註釈つきの長々しいものであつた。併し金貨本位と云うても形式の上だけのことで実質が之に伴はない憾がありましたが、日清戦争後支那から償金が入りましたから、年来虚名の金貨制度を慊らずとして居られた松方公は、この機会において金貨制度の実を備へしめたいと決心されたのであります。其頃阪谷(芳郎)男や添田(寿一)博士抔も大蔵省にあつて熱心に公の原案を支持されたものである。殊に大蔵省内に貨幣制度調査会と云ふのが設けられ、委員には田尻次官、添田等の人々、其他田口卯吉、荘田平五郎、園田孝吉、益田孝、金井延の諸氏、私も其一人にて約三十人ばかりの実業者、学者等が集つて盛んに討論した。私抔は今直に之を実施するは或は経済界を混乱する虞ありとして大に懸念しましたけれども、公は断乎として遂に之を実行せられた。明治三十一年 英照皇太后の崩御によつて私が京都に行つた時、伊藤公の意見を問うて見たら伊藤公も亦私と同憂を有つて、特に早く帰京されて松方公と会談されたが、その後私に言はるるには、松方公と種々論議したが特に懸念する事もなからうと思うて自分も同意したとの事で、私も稍々不安が薄らいだ次第である。之れは私の浅薄なる知見の致す所ではあるが、松方公が卓乎として金貨制度の実施に邁進せられた先見と勇気とは現代稀に見る所であります。
 松方公の言語は薩摩弁で分明を欠く点もあつたが、極めて温厚親切な人で、古人の所謂他人に先つて憂へ他人に後れて楽しむと云ふ風があり、臨機応変に巧妙とは云へないが、剛健質実とは誠に適切なる評語であります。而して其の態度も亦実に見上げたもので、幾多の功績を私せず、一に時勢の賚として常に謙譲の心を失はれなかつた。そこに美しい公の人格が窺へるのであります。公が其後首相としての功績又は日田県令時代の令名も偉大でありますが、私の関係外のことでもあり、公の真随はやはり財政経済にあると思ひますから、日田に建立する碑文中にも私はそのことを書き残しました。
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   ○日田養育館碑文略ス。本資料第四九巻第二七〇頁ニ収ム。