デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
大正期 三八五 竜門雑誌 第四四〇号 大正一四年五月

■資料

三八五 竜門雑誌  第四四〇号 大正一四年五月  諸々の回顧(一) 【青淵先生】(DKB80011m)
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三八五 竜門雑誌  第四四〇号 大正一四年五月
    諸々の回顧(一)
                      青淵先生
      一
 青年の客気にまかして、幕府を倒し武門武士の専横を制しよう、王政に還すならば武門の制度は打ち破れるのだ、斯様に私は考へて尊王の志を抱き、攘夷の説を立てて只管幕府を崩壊せしめようとの希望に燃えて居た。それは十七歳の時、父の代理で出頭した岡部の代官屋敷での待遇振りに甚だしい不満を感じ、武士と百姓との間に在る階級観念は確かに間違ひだと思つたのである。処が父は「今の社会ではそんな事を考へるより諦めて事業を楽んだ方がよいではないか」と誡め嗜めて居たのである。併し時勢がだんだん移つて来て近頃で云ふデモクラシーの思想が拡がつて行つたから、黙つて生業を続ける方がよいと云ふ説などは漸次人々の耳を傾けさせる力がなくなり、次第に尊王攘夷の議論は天下を風靡して来ると云ふ有様であつた。其処で私も自己に強い方だつたので、親の訓誡など耳にも入らばこそ、どうかして政治家となつて世に立たうとの考へを生じつつあつた。当時私達は「修身斉家治国平天下」を理想としたから、従つて政治に関与して見たいものであるとの観念が強かつたのである。
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 日本の国体を見ると、どうしても尊王でなくてはならぬ。夷は追ひ払はねばならない、と云ふことになる。又徳川氏は幕府を開いて天下の政権を掌握して居るが、それは術数策略を用ひて日本なる国家を大切がるより以上、自分の家の事を重要として政治を為し来り、その権利を子から子へ譲つて行つたもので、それこそ徳川氏が天下を私した処の明かな事実である。私はさういふ説に傾いて居たので、この徳川氏の私して居る政治を破るには、第一に幕政を変更せしめることが順序である。またその実行は百姓にでも出来ないことはない、と考へて天下を動かすことを理想としたのであつた。実際其時分は例の三条さんが所謂天下の国士を集め、旺んに尊王、攘夷、討幕の議論を闘はすのを聞いた頃とて、京都あたりでは有志の説紛々として、実に騒然たる有様であつたから、吾々青年としては、いよいよじつとして居られぬ気持に誘はれ、速かに階級制度を打破する為め、暴挙を実行しようと考へた。但し富を得ようとか権勢を獲ようかとか云ふが如き野心はなく、忠誠なる精神の発露からであつたが、兎に角実行に取りかからうとした。処へ丁度尾高長七郎が京都から帰つて来て止めたので、一時は論争がやかましかつたが結局中止したのであつた。従つて私達は此処に身を転じなければならぬことになり、京都へ上つた。その間に長七郎が捕縛となり、その罪科に渋沢喜作と私とが連類者、いや主謀者の如く見られたが、丁度私達は其時(文久三年)上京して居て、一ツ橋の家臣平岡と云ふ人から身を転ずることの忠告を受けて居た。そこで元治元年の一月か二月のことであつたが、この忠告に従ひ、最初からの考へを転じて一ツ橋の家臣となつた。そしてそれからは過ちを為さぬやうにしよう、栄位が得られるとか地位が進むからと云うて道理に合はぬことをやつてはならぬ、正しい道を進まうと覚悟した。
 その内慶喜公の命令で民部公子の仏国博覧会に行かるるのに随つて外国へ行くことになつたが、慶喜公も渋沢の外国へ行くことは、親しくその文物に接して来るのだからよからうし、又民部公子は博覧会の御用が済めばナポレオン(三世)の手許に留学するのだから、誰か適当な附き人をとて、私のことを思付かれたらしい。この外国行のことは原市之進から第一に話があつたが、其時は私が承諾すまいと見込を立て、私の意向を聞いて見る位の積りであつたらしい。原の其時の話の大筋は次のやうなことであつた。
 「今年(慶応二年)の冬、旅装をととのへて民部公子には御出発になる筈である。そして使が終ると五年間留学せられるので、慶喜公には御心配になつて居られる。民部公子は水戸の連中を召連れられるが、此人達は変通のない頑固な人々であるから将来の所が覚束ない。此人達をうまく操縦し且外交文書、会計、其他一切のお世話をしなければならないから、強いばかりでは駄目で、何事も程よくする者でなければならぬ。御用が済めば留学せられるから、その後々の世話も頼むので、両方面によい人でなければならぬが、此様な人は中々得難い。山高石見守が御傅役で行くことになつたが、之は役柄で行くので、実際の仕事をする者として思慮あり臨機応変の処置のとれる者として、渋沢がよからうと決つたのであるが、お前は如
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何考へるか。渋沢は強硬な攘夷論者であることをよく知つて居る。此頃多少緩和したとは云ふことであるが、果して引受けて呉れるかどうかを頗る疑問に思つたので、慶喜公も心配して居られるのである。それで私が兎に角説得して見ようと云ふことになり、御呼立したのだ。」
と私に白羽の矢を立てた理由を詳細に説明したので、私は二つ返事で御受けをしたのである。処が先方では少し調子が違ふぞ、といふやうな風で、「確かであらうな。戯談では困る。少くとも五ケ年は外国に居てもらはねばならぬが、確かであるか」と念を押すので、「五年は勿論十年でもよろしい」と答へると、「君は攘夷論者ではないか」と反問するので、「確かに攘夷論者であるけれども、自分は外国の事を知らぬ。知らずして彼是云ふより外国の事を知らねばならぬ。又外国から学ばねばならぬ事も多い筈である。此等のことを考慮されての上の慶喜公の思召には敬服する故に、喜んで御受けをする次第である、お伴をする限りは外国方とお附の人々との間に物議を起させぬやう、臨機の処置を採るに努力する覚悟である」と答へた。私は予て兵制に付て考へ、旧式の弓矢ではいかぬ、外国の制度を研究して見たいと思つて居たので、此命令を真に好都合だと思つた。尤も民部公子とは知合と申す程ではなかつたが、慶喜公との関係が関係なのでお受けしたのである。それで原さんも「成程思慮のある人だ。公も御満足に思召されよう。私も大に安心した」と云つたやうな訳であつた。
 そして仏国博覧会への出席のみは予定の通り済んだが、留学は幕府の政権返上で中止となつた。今から云ふ訳でなく、私としては日本を出発する時から政変のことは気にかからぬでもなかつた。然し旅に出る時、雪が降るかも知れぬと思つても確かに降ると限つたものでもなく、案外好晴になることがある様に、或は存外治まるかも知れぬと思つたのである。而も出発の後当分は更に変化なく経過した処、十月になつて突然政権を返上したと云ふ事実が海外へも伝聞され、色々の評判が伝はるので、外国から学ぶ処あらうとの覚悟は動かさぬが日本がどうなるかを考へると、何等為すなく海外に居るのは無駄であると、とつおいつ歎息した。そして政権返上は誰が考へても無理からぬことである。私は斯くなるのは当然だから、頻りに慶喜公の苟も将軍におなりになるの不可を力説した。併し将軍となられた以上今少し強硬であつて欲しかつたと思つたが、斯うなつた以上は最早運命だと歎息した。そして五年間留学して新智識を持つて帰る方が、今急に混乱の中へ帰るよりはよからう、兎に角相当な者になる為め、身体を大切にしよう、と考へて居た処が、間もなく民部公子が水戸の相続者と定り、御帰国の事になつたので、留学のことも不可能になつた。
 偖て慶篤さんの後継を、実子があるのに弟の民部公子がするのは、政治上の関係からであらうが、必ず水戸の騒動の因を為すであらうと私は思つた。併しお附の人々は兎に角之を喜んだやうである。其内には井坂泉太郎、服部潤次郎などと云ふ人達も居た。初め政治家になつて幕府を倒し、政権の中心に進まうとしたのに、後、慶喜公に奉公して見ると思はぬよい殿様であつた。従つて私も専心仕へようとして居
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ると、幕府の跡目を継がれた。やはり聡明でもお殿様で、将軍と云ふやうな美名に憧れて、その地位に立ちたいから成つたのだと思つた。当時はさう感じて居たのである。併しそれは後になつて誤つて居たことを覚つて、私の考へ違ひであつたことを深く相済まないと思つて居る。慶喜公は政権返上を自分の行ふべき仕事として、一ツ橋から入つて将軍職を継いだのである。そして返上の時期を待つて断行したものに外ならない。然らば慶応四年、伏見、鳥羽の戦は何故起つたかと云ふに、それは何分ああした際であつたから、命令が充分に徹底しなかつたからである。公は其後すべてを犠牲としてあくまで謹慎し、人が何と云はうと、日本では天子に服従せねばならないと云ふ意思を表したのである。この事は、後年私は、自分の使命であるとして慶喜公の伝記を編んだが、その為めに漸く判明したことであつたことであつたのだ。
      二
 慶応四年、即ち明治元年私は仏国から帰朝したが、滞仏中は外国奉行の取扱ふ仕事も私の職務として扱うたのであつた。先づ博覧会に関すること、同時に英、伊、瑞、和等を訪問することは、国家の代表者としての事務である。然るに留学は個人のこととは云へ、幕府で取扱ふから、公のものと私のものとが判然としなかつたが、後に幕府が倒れてからは、民部公子個人のことのみになつた。始めは相当永く滞在する予定であつたから、宿屋住居よりはと云ふことで、パリのベルゴレイズ街に借屋をした。その家屋は少しも造作のついて居ないもので室は客室、婦人の客室、主人の寝室、其外に二組位の人の泊れる程な家であつたから、硝子や敷物や、絵や其他の装飾に相当の金をかけてやつたのであつたが、直ぐ帰国せねばならぬことになつたから、総領事の仕事をして居たフロリヘラールドと云ふ人に後の処置を頼んだやうな訳であつた。又、民部公子の費用は五千弗で、それには私達お伴の者の費用もあつた。初めはまだ多かつたのだが、後に五千弗になつたのである。処が公子の費用とこの家屋の費用との区別は出来ないが兎に角室内の装飾を売ることにして委託し、計算書をつけて民部公子の私のものと公のものとを区別した。民部公子に随行したのは七人であつたが、帰国する当時には五人居なくなり、山高と云ふお守役と私と二人になつた。またその間には屡々お附の人同志で喧嘩があつて、仲裁するのに困ると云ふやうな有様だつた。
 また幕府はその時分、仏国へ七人、英国へ九人、其他露西亜等へ留学生を出して居た処、幕府が倒れたので、之等の留学生は去就に迷つて居た。此等の人々を相当にして帰国させねば国家の面目を潰す次第であるから、致し方なく、英、仏に居た之等の留学生を民部公子の手で帰国せしめることにした。
 その時の英国留学生は林董、外山正一、中村正直、川路太郎等であつたが、前述べたやうな有様で帰る旅費がない為め、英国の帆船会社に依頼して荷為替付で帰ると云ふことになつた。それを聞いて私は余りに情無く思つたから、私が民部公子の処から五千円ばかり支出して帰すことにし、英国へも行つて始末をつけて来た。そしてそれ等の留
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学生が仏国へ集まつたが、船の出るまでは五六日待つ必要があつたので、其間を旅館に居ては金がかかる処から、民部公子の借りて居る家へ入れて、食物など私達と一しよのものを供して居た。然るに林や外山等は学者連中なので、待遇が悪いとか、けちだとか言ひ出した。此時監督の川路や中村は別に帰国することになり、此仲間に居なかつたが、そこに居た七八人は甚だ不平を起し、遂に林董が代表として私の処に掛合ひに来た。その言ひ分は「仏国の飛脚船で帰れるのは結構だが、この学生の冷遇振りは余りに甚だしい、まるで豚である」と云ふのであつて、開き直つて不平を並べた。之を聞いた私は大いに腹が立つた。随分訳の判らぬ事を言ふ、都合によつたら腕づくでもと考へ、片手を刀にかけて、「君達は日本の状態がどうであるかを考へて居るか。徳川幕府は倒れて政府は変つた。何の為めに海外まで出て来たのだ。学問をしては居ないのか。私より多少年は若いやうだが、日本の費用が今出ない位は解るだらう。喜望峯廻りで荷為替で帰る筈の者を此方の計らひで立派な船客として帰国出来るやうになつたのではないか。その費用も皆民部公子のポケットから出るのだ。それも私の心配してやつた事である。それを知つて居りながら、暫時の宿泊位に不平を言つてどう成る。駄々ッ子でも人間なら飯は自分で盛る。まるで花見遊山にでも行つた気で居るのは怪しからん。また何時君達を侮辱した、荷物となるよりは余程よい筈だ。豚のやうな扱ひだと云ふが、荷物を豚にして、次で船客としてやるのだ。気に入らねば今出て行くがよろしい。腕力で来るなら来い、覚悟をして居るから。それが学問をした者とどうして云へる」と手づめで掛合つた。処が案外に弱く「相済みませぬ」と云つて詫びたから、先づ済んだのであつたが、後で林は「あの時程怖しいことはなかつた。穏和な人だと思つて居つたのに」と言つて居た。私も当時のことはよく覚えて居る。
 この時帰国させたのは、仏、英の外、又露にも三人居た。和蘭に居た者は自分で始末した。要するに留学生の事件はこれで解決し、別に物議も起らず都合よく運びがついて帰朝出来たが、この時に例の有名な蘭医伊東玄伯といふ人も一緒に帰つた。
      三
 私は仏国から帰朝したが、新政府に対して不愉快に思はぬではなかつた。併し私の友人の内には新政府に仕へた人もある。中にも中井弘蔵(桜洲山人)と云ふ人の如き、前から攘夷討幕論者で家塾などを開いて居た。多少法螺を吹くが気持の好い男で、新政府では相当な地位の役人になつて居たのである。私の帰朝した折手紙をよこして、会はうと言つて来た。また新政府に仕へた者には松本暢と云ふ人も居た。松本は京都で私を訪ねてくれたことがあり、その時には頼支峯の門人で、書生と同伴で何処へでも行く、文筆も立ち気持もさつぱりした人物で維新後二十年頃まで親しくして居た。丁度私が帰朝した時分、水戸屋敷へ行かうと歩いて居ると、一人の武士が二人ばかり伴を連れて歩いて来る。そして「渋沢さんではないか、片目でよく判らないが、」と云ふ。私もよく見ると松本であるから、「やあ」と答へると、「今役所からの帰りだが、私の処へ泊らぬか」と云ふので、一しよに行くと
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旗本屋敷だつたと云ふ広やかな立派な家で、かなりな生活をして居るらしく、書生も三四人置いて居た。種々と話をし、将来の方針を聞かれたりした。私は新政府に仕へるのは好ましいことだとは思つて居なかつた。当時水戸から使ひ度いと言はれたのであるが、静岡藩で相談して、大久保一翁から慶喜公に私の一身上に就て伺つた処、「民部の為めにも渋沢の為めにも、水戸へ行くのはよくない。何か藩で使ひ道があらう。そのことは本人に言はず、藩で必要なら何かいひつけたらよからう」といふので、私の海外に於ける報告や後始末が終ると同時に、勘定組頭を命ずると云ふことであつた。併しその節、私の持参した民部さんの手紙に対する慶喜公のお直書の返事を持つて、水戸へ行き度いと待つて居たのに、静岡藩ではその手続きをしない。其処で私は水戸へお返事を持参せねばならぬがと云ふと、「いや手紙は此方から出す」と言ふ。私は之を聞いて慶喜公と民部公子とは御兄弟であるのに人情が薄い、これも静岡藩の仲に立つ人が任務を尽さぬからだと思ひ、その意味を述べて「私はつくづく世の中が嫌になつた」と思ひきつたことを言つた処、それを聞いた人は大いに腹を立てた。私の悪口も過ぎたのである。そして一翁さんから「静岡藩の取扱ひは悪くはない。宝台院様(慶喜公)が仰せられるのだ。自分にも判らぬが、手紙を持つて行けば結局水戸へ仕へよと云ふことになり、静岡の渋沢が水戸の渋沢になる。さすれば水戸は党派的関係が強いから、民部に近い渋沢は他の人と仲が悪くならう、従つて民部の為めにも渋沢の為めにもならぬから、静岡で何か仕事があればさせたがよからう、との御意思である。其処で勘定組頭にするといふことになつたのだ。或は不人情かも知れぬが不親切ではない」と言つたので、事情も諒解され、私は有難いと思つた。で職務を与へられるのは結構だが、勘定組頭はよして欲しいと申出でた。と云ふのは、幕府が倒れたから幕臣の中には朝臣になるのを希望する者と、静岡藩へ来るのを希望する者とがあつた。中には仕事が無く食ふに困る為め、忠義を口実に所謂無禄移住をする者もあると云ふ有様である。そのやうな時私が異数の抜擢を受けるのは厭であると思つたので「私は意見がある。静岡に居るなら之を採用されたい、然しそれも強て望むのではないが」とて意見を出した。そして平岡準造とか小栗尚三とか云ふ人達と相談した結果、明治二年春であつたが、私の意見通り、特殊の役所「商法会所」なるものを設けた。それは御勘定所の支配で、小栗尚三がその長であつて私が頭取となつて仕事をした。結局、貿易即ち静岡藩と他の都会との商取引を行ふ商社で、京都、大阪、東京に支所を置き、物品の売買、交換を行ひ、また金融や為替の業務も行つた。で大阪と清水港、浜松、東京間と云ふ様に商業の路を開いたが、まだその資金の運転がよくつかぬので、東京へ出て太政官札と正金とを三井で引替へてもらつたり、太政官札を用ひて仕事をしたりしたのであつた。
      四
 前にも述べた通り仏蘭西で借りた家の始末はフロリヘラルドと云ふ総領事に託して来たから、その公の計算が出来ると、余つた金は政府に引渡さねばならぬ。足らねば受取らねばならない筈になつて居た。
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殊に家賃の如き、五年の契約が二年だけ居り後の三年は居ないのであるから、その談判をも総領事に頼んで置いた。それ等の交渉した顛末を外務省へ言つて来た。其処で外務省から静岡藩へその旨通知があり係であつた私が出かけたのであつた。それで公から云へば余つた金は政府へ取上げられるのであるが、留学が主であつたからと云ふ理由を主張した為め、書類がどうのかうのと云つて、三月ばかり東京に居たが、その間他に用事がなかつたから、山陽遺稿を買つて来て読んだ。中に節女阿正の伝があつたのを見て感奮し、私は一文を草したのである。
 即ちその文章を作つた意味は、初め私は天下国家を治めようとし、後、慶喜公に仕へた。従つてその間に君臣の関係が出来た。君臣の観念を重んずるのは日本の最もよい処である。私は、優れた才能を持つて居れば特別であるが、漢学を学んでも支那一国のことも全く知り得ず、仏国へ行つたが留学も出来ず帰つたので西洋の事もよく判らずにしまつた。で今までの処では方針が悪かつたから、将来身を立つべからずと覚悟した。又これから日本をどうするかに就ては、幕府に縁故のある身柄なので余り口や手を出すのも考へものである。実に僅か二年の間に「桑田変じて滄海となる」と云ふ変り方であるから、人を見ても物を見ても満目蕭然として儚ない感じが起つて来る。斯様な時も時、阿正の伝を読み、実に人情に厚い行為であるから、私は丁度宝台院様(慶喜公)にお目にかかつた時のことを思ひ、あの方に義理をせねばならぬと考へて、左の文章を書いたのである。そしてこの文章を子供の時からの師である尾高藍香に見せた処、感心して文章がよいと批評してくれた。又杉浦愛蔵と云ふ親友で一しよに明神下に住つたことのある人の親で、前に甲府の徽典館の儒官であつた杉浦蘐水と云ふ人が文章の出来る方なので、之を見せて批評してもらつた。その二人の批評で拙い乍ら私の文章も、その意味を強めたやうな訳である。この二人の評は次の様なものであつた。
    読節女阿正伝
 明治己巳之季夏。余以公事来東京。寓本石第四街。時多雨連旬。頑雲聚散。殆無晴日。雖炎威未甚爀。其滞陰鬱蒸之気。又可厭也。会公務稍閑就一書肆。購山陽遺稿読之。閲到節女阿正伝。翫読再四。悲愴憐惜不自禁。欽慕其持操全節。殺身成仁之行。不能輒措間。謄写一篇。以寄同志。将以使世之未知阿正之名者。相伝称而蓋明其名節矣。夫勁節高義。模範於後世者。果有窮厄多故。困於当時。故能以其不忍之情。大忍于死生之際。一死既能忍之。況何有於僅僅一朝之浮栄哉。饒使阿正嫁村長之男。錦繍肥甘全其富貴。終偕老之楽。固義父母命之也。親戚勧之也。村長媒之也。而利害得失判然者也。未必為不義之女。而邑人之称以為其智識忍小節保栄耀。而施及於義父母也矣。阿正豈不弁之乎。弁而不改其節。脱然自尽。能遂其志。是所以其名馥於遠邇。伝於今日也歟。嗚乎阿正僻邑之一少女耳。今也因其伝詳其事。如是其明矣。使読者想像当日苦節之景況。而膚毛悚焉。心肝慄焉。頼氏之筆亦偉也哉。抑澆季之世。滄桑之際。未可必無類于阿正之節之士。雖然非頼氏記之。何以伝其幽光於後世乎。
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嗟頼氏已逝矣。今之類于阿正之節之士。可尤悲矣哉。
  妻妾於良人。士臣於君主。流離覆敗之日。可見為其夫妻君臣也。平生言語礼譲。狎客倡妓。尚知不可欠焉。然則烈士節婦之所以烈士節婦。其唯困厄生死之際乎在歟。
      己巳六月廿四日雨窓下      藍香逸人題
  文章之不可已也逾久。而頼氏為此伝顕于世。今亦渋子感之。繇文以示諸友焉。人一閲之。則凜乎砭其肝胆。凡今之人。閲之而不愧者蓋鮮矣。人生豈無羞悪之心。而有感慨之情哉。然而今天下朝虎暮鼠之士。厚顔閲之。何能得与人藉口称之。乃是黜富貴利達者。陟忠孝節義人。而勧懲挙措。於此一女子之言行也。断然自明。足以徴栄辱於今日。垂名教於千載矣。此文章所以不可已也。烏虖今世之人。閲之而不異此一女子者。亦多乎。余亦感焉。以蕪辞誌。節義所存依那伸。惟知固執致其身。当年柔婉寄郎語。感動堂々天下人。
      己巳孟秋朔東京寓        蘐水老漁
 要するに此文章は私の一時の感情を吐露したに過ぎぬもので、世の中を諷刺しようとしたのではないが、人の情は斯うなくてはならぬ、阿正が身を殺して仁を為した、この心掛けが最も大切であると考へたのであつた。丁度此時は静岡藩の商法会所をやつて居たが、後大隈さん達にすすめられて、兎に角大蔵省の役人になつた。勿論信頼せられて居たから、此方も忠実には働いたけれど、間もなく再び野に下ることになつた。それが元来私の素志なのであつて、私は謙遜でもなく怨みでもなく、官途を去つたことを少しも残念だとは思はない。そして明治初年頃の書き物を見て、今の変らぬ心を喜んで居る。
 然るに今日の世の中は今日政友会であつたものが、明日本党に走ると云ふやうな有様である。或は智識の進む関係から、時に已むを得ぬ場合もあるのか知らぬが、山陽も論じて居るやうに、一方に味方となり次で敵方となるやうな世の習であるから、質実剛健の重んずべき感をいよいよ深くして、阿正の伝に就ては世に知らせ度いものであると切に思ふのである。(四月二十八日談話)