公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
三八六 竜門雑誌 第四四二号 大正一四年七月 諸々の回顧(二) 【勝海舟の事ども】(DKB80012m)
別巻第8 p.29-32 ページ画像PDM 1.0 DEED
三八六 竜門雑誌 第四四二号 大正一四年七月
諸々の回顧(二)
勝海舟の事ども
青淵先生
一
仮初の病気が斯様に長くかかり、医者も色々に心配してくれたのに回復の時日が意外に永びいた。従つて或は大患であつたと云へるであらうが、病気は痼疾の喘息である。私としては老いて益々旺んでなければならぬ身であるのに、反つて衰へ行くやうでは遺憾に堪へない。然し昨今では著しく快方に赴いて居るから、此分で進めば近く快癒するであらう。そして月末頃または月を越したならば、社会へ顔出しが出来ようかと気を引立てて居るのであつて、世間の人々就中竜門社員諸君は意を安じて下さるだらうと思ふ。
- 別巻第8 p.030 -ページ画像
人の生死には或る定つたものがあると私は信じて居る。だから私は強て長生したいとか、又は徒らに死を恐れるとか云ふやうなことはない。青年時代には、死の覚悟をし、死を免れぬと思つた時もあつたので、それに対する修養は相当出来て居る積りである。ただ恬然として敢て関せずといふまでの確信は未だ持たないが、生のある限りは修養を怠らず、国家社会に尽すことを寸時も忘れては居ないのであつて、一に惧るるのは、病気の為め物事に携はるのが懶くなつたり、時に我儘が起つて平然たり得ないことで、これは自分の尚ほ修養の足らぬ点であると、自ら嗤ひ、自ら戒め、自ら恥ぢて居る。然しながら病気中継続的に社会のことに関し、その全部の事柄を顧みなかつたのではなく、病気中ながら、人に会ひ得られる時には何時でも面接して諸種の相談に与つたのであつて、此間も帝都復興建築会社其他に就て多少の説を加へたのである。それ等に関してはまた話す機会があらうから、今日は少しく古いことではあるが、角田竹冷君から依頼せられた勝海舟伯の遺墨に関係して、海舟伯に対する感想を少しく話すことにしよう。
二
維新の大人物勝海舟伯は、角田竹冷宗匠に従つて俳句の教へは受けなかつたまでも、俳句に付ての相談相手にはして居たらしい。私は海舟伯との交りは薄かつたが、竹冷君とは久しく親しい交際を続けて来た。偖て海舟伯が維新の際の慷慨悲憤の心事を詩文として角田君に示したものがある。其処で竹冷君はこれを大切に保存するに就て、何か添へたものが欲しいと言ふので、勝伯が幕府の重臣であつた処から、伯の作つた五言絶句を徳川家達公、慶久公、頼倫侯、達孝伯のお四方に題字の様に書いていただいた。そしてその次へこの海舟伯が江戸城引渡しの時の気持を表現した詩文の直筆を続け、終りに海舟伯が俳句を作つて竹冷君に送り、訂正を乞うた手紙に、竹冷君の朱を入れたものを纏めて一巻として居た。蓋し相当古いものである。この海舟遺墨を竹冷君が私の処へ持参して、
「貴方(渋沢)は徳川家と深い関係がおありでせう、この一巻は海舟遺墨であるが、勝さんも徳川の重臣の一人であつたのであるからこれに何か跋を書いて下さい。殊に巻頭には徳川の公、公、侯、伯お四方のお筆もあるのですから」
と言つて来た。それは数年以前のことであつたが、私は竹冷君とは親しかつたので、これを引受けた。引受けたものの文案に苦しんでそのままになつて居た間に、竹冷君は遂に幽明境を異にする身柄になつてしまつたのであつた。その後催促する人もないままに、私もつい忘れるともなく打ち忘れて居た。其後私が風邪にかかつて引籠つて居つた折、つれづれである処から、古い書類を引出して調べて居ると、この一巻が出て来たので「すまないことをした」と思つた訳である。けれど私は竹冷君の嗣子を知らないので、どうしようかと種々考へた末、その俳友である巌谷小波君に相談して見た。処が小波君は「珍しい記念物である。貴方であればこそさう相談して下さるので実に嬉しい。洵にその一巻が出て来たことは非常に結構な事である。漢文でも和文
- 別巻第8 p.031 -ページ画像
でもよろしいから、ありのままを書いて下さつたら角田家でも深く喜びます」と云ふ話だつたので、私は詩よりも文章を、文章とすれば和文にしよう、和文ならば候文は考へ物であり、と云つて言文一致は好まないので、仮名まじりの文章体で書くことにしたのである。
その文章は次のやうなものであるが、一巻中の海舟伯の詩作と俳句の書かれた長い手紙の一節を中心として、この跋をものしたのであつた。そして依頼せられてから五年も経つたこと、小波君に相談したこと等ありのままを認めた。
で、丁度これは、季札が燕の太子のため剣を頼んだ処が、太子の生前に得られず、剣が出来た時には太子は既に亡き人であつた。季札は致し方なくその剣を太子の墓碑に捧げたといふ故事があるのに似て居るから、これに事よせ一首の腰折を添加した。
海舟遺墨跋
今ははや五年の昔となりぬ、亡友角田竹冷翁、飛鳥山なる余が村荘を訪ひ、携へ来れる勝海舟伯の遺墨を示して、余の跋文を請はる。其一は、慶応の末、幕府の政変に際し、伯が前将軍勤王の意衷を体し単身征討軍の陣営に赴き、旧友西郷隆盛に面して談笑の間に能く国家の大事を解決し、戦乱を未発に防ぎ、未来の帝国首府をして兵燹の災を免かれしめたる回想録にして、之に添ふるに五絶数篇を以てせり。帰趣同じからずといへども、文天祥の衣帯中の賛に比することを得。全く其忠魂義胆、千載の下、人をして粛然襟を正さしむるものあり。他の一は、風流閑雅の往復文にして、伯が平素竹冷翁の俳味に感孚して、其出詠したる数句の批正を請ひ、翁又之に朱字を加へて、玉成したるものなり。之を読む者をして、恰も春和景明朔風凜烈に次ぐの感あらしむ。蓋し伯をして此余韻あらしめたるは翁の俳諧の徳にして、たけき武士の心を慰むるものといふべきか。其巻頭に徳川公侯伯の題字さへ具備したる、真に希世の珍品と称すべし。余は之に適ふべき跋文の腹案に腐心しつつ、之を筐底に蔵め置きしが、後ち事に紛れて数星霜を経過し、去春翁の俄然逝去せられし時も、此巻の事に想ひ到らざりき。頃日病床にありて徒然の余り座右の書類を渉猟し、此巻を見出して、驚悸自己の怠慢を悔いしが、措置を翁の俳友巌谷小波君に諮りたるに、君は先づ此埋れし美玉の世に現はれたるを喜び、且事の由をありのままに記して遺族に完璧せむ事を勧められたり。小波君の言葉に従ひ、今にして此跋文をものするは、彼の季札が故事にも似たらむ歟。
心にはかねてかけしをつるぎ太刀つかの手向となりてけるかな
大磯僑居に於て
大正庚申十二月 青淵渋沢栄一識す
三
それにつけても、私と勝海舟伯との関係を併せて簡単に申述べたいと思ふ。竹冷君が俳人として知名の士であつたことは今更事新しく申すまでもない事で、私は同君と永い間の知友であつたが、勝伯とは余り親しくはして居なかつた。ただ江戸が東京になる当時の勝伯の態度或は江戸城で西郷さんと会見し、それを引渡す時の取扱ひ方等には、
- 別巻第8 p.032 -ページ画像
予て感心した居た[感心して居た]。海軍奉行時代の勝伯の人物も学説も行動も先づ知らなかつたと言つた方がよいが、其後まで疎遠であつたのではなく、私が欧洲から帰国した時、神田小川町の静岡藩の出張所でお目にかかり、親しくその人格なり風采を見知つた。で、その時勝伯は静岡藩の元老であつたから、民部公子のことに就て聞いたり聞かせたりしたのである。即ち公子が渡仏中、締盟国たる仏、英、伊、和、白、瑞の諸国を訪問せられた有様とか、その当時の事情とか、先方の接待の模様などを細々と聞かれ、また民部公子が水戸のお世継になられたことや御一新の事情などに就て、色々のお話があり
「君の留守中に斯様なことになつたが、これも平生の油断からである。要路にある者はよく考へねばならぬことである」
と、当時奉行であつた栗本安芸守などの批評をもしたのであつた。私は之等の話を聞いて、勝伯といふ人は大勢に明かな人である、手腕のある人であると思つた。
また斯様なことを言ふのは好まぬのであるが、我々から見ると、勝伯があの際今少しく親切に緻密に考へてくれたならと希望される点もないではない。けれど兎に角優れた人物で、新政府の西郷に対し旧政府に勝あつてこそ、両者が君子の行動に出でて、日本の帝都をして惨禍から救つた。将に起るべき形勢になつてゐた騒動をして大事に到らしめず、未然に防ぎ得たと云ふ点は、実に大手柄であつて、功績の大なるものを遺した人に違ひないのである。
併し実は日本の大混乱を生ぜしめなかつたのは、勝伯と云ふよりも慶喜公が早く敬順の覚悟をせられたからである。然るに慶喜公の御事は恰も雲に蔽はれた太陽のやうに明かに認められない嫌ひがあつて、そこに現はれたのは他の者であつた。それが私達の物足らなく感ずる処である。或は此処まで評論して行くと、あの時ああもすればよかつた、斯うもすればよかつたらうに、との説が出て来るのであつて、今は何事も言ひたくない。故に交りも余り深くなかつた勝伯に対する批評をこまごまとするのは、私の好まない処であるが、このやうな面白い勝伯の遺墨に跋を書くやうになつた縁故から、いささか維新の大人物勝伯に対する感想を述べた次第で、角田家のこの一巻を見る人々の参考になれば幸であると思ふ。(六月十八日談話)