デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
大正期 三八七 竜門雑誌 第四四三号 大正一四年八月

■資料

三八七 竜門雑誌  第四四三号 大正一四年八月  諸々の回顧(三) 【五十年の親友大隈侯】(DKB80013m)
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三八七 竜門雑誌  第四四三号 大正一四年八月
    諸々の回顧(三)
      五十年の親友大隈侯
                      青淵先生
 明治の初年、私が行政府の一員となつた関係上、維新の元勲諸公に屡々会見する機会があり又種々の問題に付て意見を交換したので、或る時には嫌はれ、また賞められなどしながら、名もない一書生から漸次引立てられたのであつた。従つて西郷、大久保、木戸、伊藤、大隈[、]井上、松方等の人々との交りには、多少親疎の別はあつても、回顧すれば、後進として夫々違つた思ひ出が沢山ある。
 先づ、西郷さんは隔意のない愉快な人で「君のやうな青年を、慶喜
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公は何故に大いに用ひなかつたのだらう」などと言ひ、書生肌で気安く交際が出来たのであるが、あのやうな事件で早く明治政府から去られたのは誠に惜しいことであつた。次に大久保さんとは頗る出合が悪く、大蔵省に居た頃意見の違ひから、その激怒を買つたことがある。木戸さんは、伊藤さん、井上さんなどの先輩で、私は為すあるの人だと思つて、進んでお目にかかつて居たが、私が天神下の粗末な家に住つて居た頃、突然訪ねて来られたことがあつた。当時木戸さんは参議の重職にあつたのに、青年の一属吏である私の処へ、自ら足を運んだので、斯様なことは何とも思はぬ、少しも見識振らぬ人であつた。その用向は、私が世話をして大蔵省の編纂課に入れて置いた那珂通高と云ふ人のことに付てであつて「那珂を如何云ふ関係で世話したか、又那珂を欲しいから自分の方へ譲つてくれぬか」と相談をかけられたのであつた。此相談は引受ることが出来なかつたので、断つたのであるが、この時も腹蔵なく種々の話をして行つた様な有様で、非常に後進を愛する側の人であつた。以上の人々は皆大先輩である。然し伊藤さん、大隈さんなどとは、先輩として交際すると同時に、友人として交はつて来た。殊に大隈さんとはお互に大蔵省で仕事をし、その亡くなられるまで前後五十年の間、親密さを少しも変へず、何かにつけて相談したり相談せられたりして来たのである。
      二
 私が明治政府の大蔵省に引出されたのは、明治二年の十一月初旬であつた。然るに省内には一人の知友もなく、又其職務としても、少しも経験のない事であるから、如何にして宜いか更に様子も分らないので、十二月には早くも辞意を決し、確かその十八日であつたと記憶するが、大蔵大輔であつた大隈さんを築地の邸に訪問し、
 「私は租税正と云ふやうな役を仰せつけられても、租税のことは知らないから仕事が出来ぬ。またその事務に趣味を持たず、且つ何等意見もない」
旨を申述べ、また私の過去の経歴や、商工業に従事したい素志であることを述べた。処が大隈さんはあの口調で、理路整然とまくし立て、私をして一言もなからしめた。
 「知らぬと云ふことは、少くとも今日の場合辞職の理由にはならない。現在大蔵省に居る者で、本当にその事務のことが判り、その方針を樹て得る者があるか。知らないならば、調査研究して、知るに努め、日本の将来の為め尽さねばならぬ。中にも税制は第一に大切であるに拘らず、誰も知らないのであるから、調べた後新しい施設をやればよい。また君はその経歴が、初め階級打破の考へから侍となり、尊王攘夷の思想を持ちながら、事情止むなく徳川の家臣となつた。従つて新政府が成立し、主人の慶喜公が逆臣同様となつて居るので、政治界に志がなく、又、外国の事を学んで居るから、之を基礎として西洋式の商業を開く積りで、商法会社を起した際であるから、それを続けてやりたい、と言はれるけれど、これ等も辞職を決行する理由とはならぬ。慶喜公に対する君の情誼は感服に堪へぬが、僕としては、その政権返上に付て意見がある。薩長の行り方に
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面白からぬ点もあるが、また慶喜公にも、欠点がなかつたとは言へぬ。然しこれは暫らく問題外として、外国のことを学ぶ必要は私も同様大いにあると思つてゐる。実に君の言葉の通り、東洋流義で、陽気の発する処金石また透るとか、精神一到何事か成らざらんとか云うて見ても、刀で軍艦は切れないのである。故に何かにつけて外国から学ぶ事が沢山ある。また商工業を発展せしめることが君の素志であるが、その基礎は日本の財政、経済の整備にある。其基礎である所の財政が固つてから、商工業に従事しても遅くはない。否寧ろ其方が何かに便宜が多いであらう。今日の有様は、其昔日本建国の当初、八百万神々が集つて諸般の政治の基調を定めたと同様であるから、その積りで是非とも尽してもらはねばならぬ」
と一つ一つ私の言葉を反駁して、友達づくの勧説をせられたので、私もその道理のある説には返す言葉もなく、留任することに決心し、「では、ある時期が来たら御免を蒙りたい」と申添へた。之に対し大隈さんは
 「相当な時が来たら辞任して素志を達せられたらよい。兎に角、此際は政府、殊に大蔵省に於て人材を要する秋であるから、お互に国家の為めに努力しよう」
と言ふので、当分御奉公を続けることになつた。
      三
 大蔵省最初の大きな事務は、沢山の大小名の国替を行ふことであつた。其処で租税司の仕事として、何村の租税高は幾らであるとか、またこの国の従来の有様は如何であつたか等、租税高に依つて国を都合よく移すので、非常に面倒なものであつた。そして斯様にしてやつて居るうち、大宝令そのままの制度ではどうしても駄目であると気づき大隈さんは伊藤さんとも相談したらしく、新たに改正係なるものを置き、その係長に私を奏請したが、之は奏任官であつた。その時の私の抱負は相当大きく、また立派なもので、第一に考へたのは、租税の物納を改めて金納とすること、及び度量衡の制度を改善して、何れもデシマル即ち十進法とすること、その他であつて、新らしい人を入れ大いに仕事をする運びとした。中にも租税制度改正に関聯しては、国立銀行の設立、地価の鑑定、と云ふやうな大問題があつたから、之等に関する長い意見書を出したことがあるが、余りに大抱負を持つて居ると云ふので、伊藤さんから笑はれたこともある。が兎に角、当時の新智識らしい人を改正係へ集めることを大隈さんに相談すると、直ぐに賛成して呉れたから、後に駅逓頭となつた前島密とか、杉浦愛蔵、富田鉄之助、古沢滋、塩田三郎、赤松則良等の人々を各方面から引き入れた。かくして改正係は当時の新智識の集りと認められ、各般の諮問に応じたもので、大蔵省の事務にも、頻りに意見を徴せられたのであつて、其の結果、明治三年の冬、伊藤さんが渡米することになつたのである。その調査事項に関しても意見を出した。即ち(一)紙幣(太政官札)の始末方法の考究、(二)国立銀行制度の研究、(三)公債証書の実施に関する調査、(四)会社組織の調査等であつた。当時、私は、どうしても有価証券の流通を図らねばならぬ、と切実に感じて居
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た。之は私が民部公子のお伴をして仏国に居た時、現金を持つのは危険である為め公債証書と鉄道株とを買つて置いたが、急に帰国することになつたので、急いで売つたなら大方損をすることと思つたところが、損がない。のみならず、鉄道株の如きは可なり値が出て却つて儲かつたから、誠に便利な方法であると考へたことがあるので、此の経験から其時にも特に申出でたのである。これ等は大隈さん首脳のもとにやつたのであるが、伊藤さんの渡米を動機として、改正係は更に大いに認められ、何か事があれば相談を受けるやうになつた。そして或時太政官から電信会社に就て諮問を受け、大いに新智識らしい意見を申達したことなどもある。大隈さんは以前からの関係で、伊藤さんの渡米後大蔵省の事務を見て居たが、四年に参議となつて太政官には入つた。然し大蔵省の方も半分は関係があつたのである。
      四
 当時西洋人から勧められた事業に、鉄道の敷設があつた。然し日本の財政状態ではその実現は困難なので、外国から借金をしてやつたらよからうと云ふことになり、英人レエーと云ふ人から、百万磅の金を借り、彼の京浜間の鉄道を明治四年に完成せしめた。之に関し、世間では、伊藤、大隈の両人が洋癖の極、何か悪事を行つた如く攻撃したが、決して左様ではないので、改正係は大に弁護に努めた。次で鉄道は京阪神地方でも計画するに及び、内地の鉄道熱を刺戟したが、之は両者の功績であつたのである。
 次に大隈さんは工業の発達に着眼し、生糸、養蚕の改善を計画せられた。これは、横浜の和蘭八番館の独逸人ガイセン・ハイメルと云ふ人が
 「日本の生糸は改善せねばならぬ。それには従来の二つ取りの機械ではいけない。また煮た繭を澄んだ水に入れねば光沢が出ぬ。今のやうなデニールの不揃では、輸出向として西洋人の希望に副はぬ。従つて之等を適当に改良する為めに、製糸の心得ある者を仏国へ遣はして研究させ、新機械の据付けを行つてはどうか」
と勧めたので大隈さん、伊藤さんなどの間で之に付て相談があつた。そして大隈さんは例の聞き学問を以て、大蔵省で、養蚕に付て滔々と講釈をしたことがある。聞くと間違ひが大分あるので、私が「大隈さん、あなたは、大分蚕に付て講釈をされますが、蚕はどんなものか御存知ですか」と聞いたとろ、大隈さんは「左様言ふ君は知つて居るか」と言はるるので「抑々蚕は……」と百姓をして居た当時の経験により、飼育の状況から其順序、蚕紙のこと、製糸のことなどを詳しく話して聞かせ、「由来聞き学問には誤りが多いものである」と、書生つき合ひの仲とて無遠慮に笑つた処、「君は本当に知つて居る、感心した」と言ひ、此話の続きから、遂に製糸事業改善に関し、試験場建設のことを私に委任したのであつた。其処で、仏人ブルュナーと云ふ人に調査を頼み、一方場所の選定の為め人を信州、福島その他へ遣り取調べさせた結果、富岡へ製糸場を設置するに決した。そして単なる学校の如きでは駄目であるから、実際に繭を買つて製糸をやり、本式の経営をすることにした。これが即ち富岡の製糸場で、我が国最初の
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製糸場である。
 また造幣の事に関し、キンドと云ふ外人技師を大隈さんの計ひで大阪造幣局へ入れたのであつたが、其方の頭は井上さんであつたのと大阪のことで、私は直接関係がなかつたのでよく知らない。兎に角、大隈さんの尽した処は、商工業上には余り多くはないけれど、之等は其重なるもので、私も関係があつただけ、新らしい方面の事業に着手して進取の気象を現はした処など特に深く敬服して居る。
 富岡に製糸場を設置した時分に、蚕紙を外国に輸出することは有望でないかとの議論が出た。これは明治三年に伊太利で蚕が沢山死んだため、その種に窮して、日本のものを高価に買つたが、明治五年にも同様の事があつたのである。其時蚕紙の輸出で古河市兵衛さんなどは一時に巨万の利益を得たやうな訳であつたから、明治六年には古河の浅野幸兵衛と、渋沢喜作が、外国へ蚕紙輸出に関する研究調査に行つた程である。然しその結果、印度洋を無事に越すものが少く、永続的の輸出品となることが出来ない。また、卵で輸出するより製糸したものを輸出する方が利益であることが分つたのである。之も大隈さんの話から起つたことで、今から考へると、何んでもない、寧ろ馬鹿らしいとさへ感ずることのやうであるが、その時には相当大きな問題とされた、思ひつきの言であつたのである。蓋し大隈さんは養蚕のことに限らず、何事も直接事業に自ら携はる側の人ではなかつたが、単に理窟を述べるのみに止まらず、実際的な事業にも注意し、之を勧めた人であつたのである。
      五
 明治四年にはまた、廃藩置県と云ふ大問題があつた。この時大隈さんは大蔵省とは殆ど離れ、当時の大蔵省は井上さんの責任で、伊藤さんが米国から調査して来たものに依つて制度を布いて居た。即ち廃藩置県に基づく土地の整理、租税、公債の発行、紙幣の発行等悉くの大問題が、大蔵省へ集つたので大騒ぎであつた。或は制度を定めねばならず又反面には従来の習慣を破つて行かねばならず、行掛から処分を要するものなど沢山あつて、盆と正月とが一緒に来たやうな有様だつた。が、この事務に就ては大隈さんとの関係は少なかつたのである。
 明治五年の春になつて、井上さんが大蔵大輔となり、私は大蔵少輔事務取扱として、勅任の三等出仕を命ぜられた。斯様に私の地位も一歩進んだ訳であつたが、大隈さんとは所管が違つて居るので、時々公のことを、政府で相談する程度に過ぎなかつた。しかし個人としては相変らず懇親を厚うして居た。
 而して井上さんと私とは、遂に今日の予算案の関係で、軍事の費用に就て大久保其他の人々と意見を異にし、私達の主義である緊縮が出来ない事を知り、明治六年五月三日、辞表を提出した。この予算上の面白からぬ関係は、その年のみでなく、前年も問題になつて井上さんが辞表を出したのであるが、三条さんから切に宥められた為め思止まつて居た。然るに此年もまた同様のことを繰返したので、井上さんは愈々辞表を提出したのである。また私は、予てから民間にあつて商工業に従事したい、銀行業を経営したい、と云ふ意志であつたから、却
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つてこれを幸とし辞表を出したのである。
 此時私は財政緊縮の必要を切論した奏議を、那珂通高君に書かせて出す積りにした居た処、井上さんがそれを知り、自分にも署名させて欲しいと言ふので、また井上さんの意見をも加へ、多少過激にはなつたけれど、数字などを入れて書改め、少し長い嫌ひもあつたが、二人の名で発表した。
 その前私は大隈さんとは従前からの縁故があるから特に会見して、「財政の緊縮が必要であることを、井上さんと申合せて居たのに、私達の意見は通りさうにもない。で、この当の責任者は井上さんで私ではないが、私は以前にもお話したやうに、民間の事業に従事したいと思つて居り、それに大蔵省の方も諸般の制度の基礎が固り、租税金納のことも漸く緒についたから、之を好機会として辞職することにした」
と云ふ意味を伝へ、殊に丁度その時三井と小野組とで銀行を建て、私に経営して呉れと言つて居たので、そのことを話した処
 「大蔵省の首脳者の一人である君に今辞職されては忽ち後は困る訳であるが、私としては最初よりの事情を知つて居るから特に引止めない」
と大隈さんは直ちに了解し、また奏議に就ては
 「長過ぎた憾がある。も少し短かければ申分のない名文であつたのに――大分井上口調があるが、井上が筆を入れたに違ひない、元の方が名文である」
などと賞めて呉れたのである。
      六
 扨て私は大蔵省を辞してから第一銀行を経営して見ると、伊藤さんの計画した通りには行かぬ。多分徒らに米国の形のみを取つて実を取らなかつたと見え、全然底抜けの有様で、出来ると思つた銀行兌換券の運用は到底完全に出来ず、その上金銀の比価が変動し、それにつれて又紙幣の変動が甚だしく、常に不安で、銀行は金の価格が騰れば取付られ、全く金の取次をして居る様なもので、支那の銀本位に対しても日本が金で進むのは、空想としか考へられない事情にあつた。其処で、明治五年に創定した国立銀行条例は到底維持不可能として、明治八年に、銀行を潰すか条例の改正をするか、と云ふ処まで行つた。殊に廃藩置県の結果、華士族に公債証書が渡してあるが、之を売れば値段が忽ち下落するから、銀行で金融することにしたが、それさへ困難な有様を呈した。で、色々の議論があつたに拘らずそれ等を排して、明治九年に条例を改正し、銀行紙幣を政府紙幣に引換へ、金に換へないことにした。これは洵に不徹底の方法ではあるが、背に腹は代へられぬ処から実行したので、大蔵省の首班となつて居た大隈さん、松方さん初め銀行業者としての私共まで、悩まされたものである。今考へると無理なことであつたけれど、後々の結果がよかつたから、この制度は奏効した訳である。
 尚ほ明治十年になつて、大隈さんから、支那に発展することを勧められた。当時日支の関係は漸く進み、軍人で両国間を往来する人もあ
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り、取引も稍々増加の趨向にあつた処、陜西省と甘粛省が凶作で米を買入れねばならぬのに、金が無いので三百万弗程借りたいと申込んで来たが、政府は貸すことが困難であるから、第一銀行で貸さぬか、と云ふことであつた。私は之を聞くと面白さうなので、直ぐ引受けた。その内正金は五十万弗欲しいと云ひ、又他は石炭、米等の買入代金であるから、此は物資で送つて貰うて宜いとのことで、それ等の品物は三井物産の手で引受け、輸送することになつた。従つて三井の益田さんと私と二人が、橋渡しをした福原と云ふ軍人を案内者として渡支した。そして初め長崎に一週間居り、次で上海へ渡つて二週間ばかり居たが、之は約束のみで実行はしなかつた。と云ふのは、当時の支那の政治的事情で、左宗棠と李鴻章との勢力争ひの為めであつたらしく、丁度二人の間は独逸のモルトケとビスマークとの関係に似て居たのである。即ち許厚如が使者として、この約束を破棄して、最初の契約通り罰金六万弗を出したやうな訳であつた。
      七
 永い親密な交際の間にただ一度、私と大隈さんとの間に誤解から意思の疎通を欠いたことがある。勿論後では直ちに氷解したのである。それは明治十三年、西南戦争で紙幣を濫発したから、一時景気の出た後とて、その不換紙幣の始末が出来ず、物価は騰貴し、且つ銀と紙幣との開きは益々甚だしくなつた。私は之を救ふの道は通貨収縮にあるのみとして居たので、この意見を高調し、銀行業者の決議で建議などした。また井上さんも同意見であり、更に私が後援して居た田口卯吉君の経営に成る経済雑誌で、大蔵省の方針を口を極めて攻撃した。実際大隈さんの方針は今日で云ふ積極主義で、尚ほより以上紙幣を発行しようなどと唱へて居たのである。処が、之を見て私が井上さんと呼応して大隈排斥をやつて居るとの風説さへ高くなつた。その時分、財界で私達の派と三菱派とが対抗の形勢にあつたから、この問題に就て三菱派の或る者が大隈さんに私のことを讒誣したらしく、大隈さんも私の第一銀行に居るのを快く思はなかつた模様で、三井の三野村利助さんに「渋沢を第一銀行に置くのは危険である」などと云つたとか後で聞いた。兎に角、面白く思はなかつたやうである。然るに一方、政府部内でも、大隈さんの積極政策に反対する伊藤さんなどの勢力が強く、遂に明治十四年大隈さんは辞職したのであつた。
 この財界混乱の事態は、後に松方さんの消極政策で明治十九年に回復するを得たが、この前後の事情は、今日の財界とよく似て居る。斯くて大隈さんと私の意見は全然異つて居ても、私自身は個人としての交情に変りはなかつた。従つてその後伊藤さんの心配で今の仏国大使館の処にあつた大隈さんの邸に、伊藤さんなどと一緒に会見し、話合つて見て、誤解であつたことが分り、釈然としたのである。
      八
 大隈さんは、明治十八年再び政府に入つて外務大臣の職に就かれ、また後、内閣を組織などせられたが、私との交情は少しも変らず、その得意の時も失意の時も、同じやうに交際し、財政、外交、事業等に就て相談したから、
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 「渋沢の如く終始一貫して少しも変らず、交情の温かであつた者はない」
と言つて居た。
 大隈さんは人も知るやうに、財政経済などの実際には詳しくなかつたやうであるが、新計画を常に有する人で、また何事にも第一等を重んじ、きばつた事の好きな人であつた。そして人に接してはよく談じたので、「主、客を愛し、履、常に戸外に満つ」と云ふことが如き有様であつた。また困つたと云ふが嫌ひな人で、外務大臣の時あの災難に遭ひ足を一本失つたが、それでも少しも悲観した言説はしないで、悠々自適すると云ふ風であつた。故に私は大手腕家である、大人物であるとして常に敬服して居り、私とは地位も、主義も、性格も相違した点が多いが、書生交際であつたから、お目にかかつては強く意見を駁し合つたものである。実に斯様な人は世の先輩として永く生きて居て欲しかつたのである。
 そして、私の残念に感じて居ることは、大隈さんが大正十年十月、私が米国へ行つて居る留守中に逝かれたことである。丁度その月の二日の日に、病床へお訪ねして種々の話をしたが、その時、
 「僕は君より年齢が二つ上であるから、弱るのも当然とは云へ、君の御帰朝の時には最早お目にかかかれぬかも知れぬ」
とひどく衰弱の容子に見受けられたが、昔話などをして辞して帰り、十二日に再びお訪ねしたが、その時には、かなりお悪いと云ふのでお目にかかる事が出来なかつた。私は其翌日出発渡米の途についたが、この大隈さんの言が讖となつて、二日の会見が最後となつたのは遺憾の極みである。
 それから大隈さんは、早稲田大学のことを非常に心配して居た様子で、大正六年、例の騒動後、大隈さんから呼ばれた、私と、中野、豊川の三人が相寄つて学校の将来を相談した。この時森村男爵も来る筈になつて居た処、病気で来なかつた。其時は病臥中とて、流石の大隈さんもひどく弱つた模様で「どうか頼む」と云はれたので、真にお気の毒に感じ、「万事御引受しますから御安心下さい」とお答へした。この早稲田大学の騒動は、中野さんの尽力で無事に納まり、高田さんを総長にすることになつたが、私は特に頼まれた関係もあるので、今日でも出来るだけ学校の経営には相談に与り、田中穂積さんなどとも親しくして居る。
 要するに、私には大隈さんの如く前後五十年の間、公私の別なく親密にした間柄の人はないと云へるのであつて、朝にあると野にあるとの別なく、意見の相違はあつたにしても、お互に友情が濃やかであつたから、何等憚る処もなく話し合ひ、論じ合つて来た。誠に斯様な事実は愉快に堪へないと沁々思つて居る。(大正十四年八月六日及び八日談話)