デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
大正期 三八八 竜門雑誌 第四四四号 大正一四年九月

■資料

三八八 竜門雑誌  第四四四号 大正一四年九月  諸々の回顧(四) 【命の親平岡円四郎氏】(DKB80014m)
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三八八 竜門雑誌  第四四四号 大正一四年九月
    諸々の回顧(四)
      命の親平岡円四郎氏
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                      青淵先生
      一
 昔のことを話すと若い人達から「また繰り言か」と云はれる虞れがあるけれども、若い人達も軈ては老人となり、同様のことを繰返すやうになるのであるから、年寄の言ふことだとて徒らに軽侮してはならぬ。老人は種々の変化に遭遇して経験を経て居る。其時代が如何に平和であつても、長い間には色々のことに出合ふものである。況んやそれが騒々しい時代であつたなら、種々の変化に会ひ、多くの経験をするものである。私の場合には青年の時に封建の制度が王政復古となり三百年来の鎖国が一転して開国となつて欧米諸国の仲間入りをするやうになり、それから六十年も経過した。私は今八十六歳であるから、相当に長命で、それだけ色々のことがあつたのである。然し私の一生と云うても八十年か九十年で、天地の悠久から見れば実に短いと云はねばならぬ。が、又短いとは云へ人が其間世の中の変化に遭遇すればその影響を受けずには居られず、また自分の体にも変化は免れなかつたのである。
 二十四歳の時家郷を離れて以来、日本の事態は最も急速に移つて行つたので、その間に私の接した人は決して少数ではない。当初には、援助を受けたり、叱られたり、また訓戒せられた先輩が多かつた。その中にも一ツ橋家の平岡円四郎と云ふ人は、謂はば私の命の恩人であり、且つ無名の一青年であつた私をよく引立ててくれた、私にとつて忘るる能はざる人であるから、今日はその人の話をしよう。
      二
 平岡円四郎氏は岡本近江守、号を華亭と云つた人の息として旗本の家に生れ、平岡家に養子となつた人で、易や老子を読んだ、当時としては変つた学問を好んだ人である。私が江戸で平岡氏に近づきになつたのは、先輩河村恵十郎と云ふ人の紹介で、早くから刺を通じて居た然し一方は立派な武士であるのに、私共は一介の青年であつたから、左程親しい交際は出来ない訳であるが、先方は愛すべき青年だと云ふ態度で接して呉れて居た。屡々云ふ通り私共は攘夷論者であつたのでその方面から外交問題などを大いに論じ、氏から宥められたことも度々あつた。そして又、氏は私達の素姓を聞いたりなどしたが身分の如何に拘らず新しい為すあるの人物を求めて使はうとして居たらしかつた。平岡氏と談ずるに当つて私共は「慶喜公を佐ける貴方の意見はどうだ」とか、「幕政は如何すればよいか」等に付て時々論じ合つたのであるが、文久三年九月頃、一ツ橋家は京都へ御守衛総督として詰めることになつたので、丁度江戸に居た私共は、根岸の御行の松の傍にあつた平岡氏の邸へ暇乞ひに行つたものである。すると平岡氏は種々話の末「江戸でまごまごして居ては駄目だぞ、早く京都へ来たらよからう」と云はれたので、私共は「貴方の御家来にしてくれますか」と云ひ、平岡氏の家来として考へてもよいと云ふ程度の許しを受けた。その時はまた攘夷論に就て議論し、烈公のお思召を実行したらどうかと主張したりしたが、例の暴挙のことは聞かせるべきでないとして語らなかつた。で平岡氏は九月初めであつたが、慶喜公のお伴をして京
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都へ上つて行つた。
 私共はその後多少の計画を進めて居た処が、尾高長七郎が京都の事情を見て、夜を日に次いで帰り、暴挙の行ふべからざることを力説した。従つて尾高惇忠先生も之を聞き、野心や欲心からと誤解されて死んではならぬ、同志の考へは安藤対島守とか井伊掃部頭とかを切ると云ふやうなことでなく、純然たる国家の改革であつて、少しも自己の利益の為めでないのであるから、自利や感情の為めと云はれては残念であるので中止する外はないと、長七郎の説に服従した。そして着込六十枚ばかりと、刀剣其他の道具類は兎に角処分した。が私共はどうしても家に居ることが出来ず、予て親の許しは受けて居たから、伊勢参宮と京都見物を名として、渋沢喜作と二人で上洛することにして郷里を出発し、十一月末に京都に着いたのであつた。此旅行は平岡円四郎氏の家来と称していつたのである。
      三
 さうして直ちに平岡氏を訪ね、珠数屋町の或る寺院で御目にかかつた。丁度当時一ツ橋家は本願寺に仮宿して居られたが、後、三条通りの若州屋敷へ移つた。私と喜作とが京都へ行つたのは一ツ橋家へ仕官する望みではなく、唯京都の形勢を視察しようと云ふのであるから、頻りに天下の有志家に交りを求めて居た。即ち頼支峰の門人であつた松本暢とか、石橋とか、また各地から京都に来て居た鈴木(会津)、岩左(桑名)、沖(遠州)、花房(備前)などといふ人達と往来して、大いに時事を談じて居た。また三日目五日目くらゐには平岡氏を訪ねて居る内、一ツ橋の黒川嘉兵衛、猪飼勝三郎、榎本亨造、松浦作十郎などのお役人とも近づきになり、「俺の家へも来い」などと云はれるやうになつた。平岡氏は折もあつたら、私共を何時までもぶらぶらさせて置かず、使はうと考へて居たらしい。処が翌年春二月になつて平岡氏の親切から危うかつた生命を完うするやうなことが出来た。それは二月になつてからの或日、平岡氏の処から「相談があるから来い」との使が来た。折も折、その前夜江戸からの手紙を見た。その手紙は尾高長七郎が牢屋から出したものと、梅田慎之助と云ふ人から、飛んだことが出来たと言つて来たもので、詳しい事情は判らぬが、両方とも長七郎が捕縛になつたことが書かれてある。私共は、暴挙を説得して止めた長七郎がどうして捕縛になつたのか了解が出来なかつたが、その時はひどく胸をうつた。従つて早朝平岡氏の処へ行つて見ると、平常は至つて快活な人であるが、此時はひどく真面目な顔付で、
 「今日両人を御呼立したのは、改まつてお話したいことがある為めであるが、何事によらず打ちあけて腹蔵なく話して貰ひたい」といふので、
 「何事か知りませんが、我々の為め御心配下さるは恐縮に堪へません、少しも隠さずお話し致します」と答へた。すると、
 「先以て聞くが、君達は自分の利慾の為めか又は其以外の理由で、人の物を取るとか、人を殺すとかしたことはないか。今日の時世では志士には往々左様なこともあることだから」と意外なことを訊ねられた。勿論無いことであるから、
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 「決してありません」と明瞭に答へると、
 「では何か企てたとか、さういふことを思つたことはないか」と次いで云ふから、
 「思つたことや考へたことはあります。国家をこのままでは置かれぬから倒行逆施であるが、普通のことでは駄目であるとして、或る計画はしました。思ひはしましたが実行するには至りませんでした」と云ふと、
 「それではそのやうなことで、何か幕府から見られたら悪い書面などを書きはしなかつたか」と畳みかけて問ふので、私共は正直に、
 「それはあります。実は同志の一人が江戸で捕縛されたと云ふので知らせて来ましたが、之とは度々手紙の往復をして居り、その中には徳川幕府を呪ふやうな文面のものもありました」と答へた。すると平岡氏は、
 「それで判つた。君達は危険な立場にある。捕はれた人の罪過は判然せぬけれど、またその計画の直接関係ではないであらうと思はれるが、手紙が挙げられて君達が嫌疑を受けて居る。実は幕府から一ツ橋へかけ合が来て、渋沢等は確かに一ツ橋の家来であるか如何かを取ただす主意と見えるから、一ツ橋として返答する為め、前以て両君にこの事を聞くのである。なほ、今後の身の振り方を如何にするか、私は君達を有為の人として交つて居るから、此様なことから罪人となるのを見るに忍びぬ。今こそ一身上に就てよく考へねばならぬ時期であることを注意する。そして私の今考へて居る処は、浪人であつてはいけない。百姓にも帰れぬだらうと思ふ。それなら寧ろ一ツ橋の家来になつたらどうだ。充分な待遇は他との関係上出来ぬかも知れぬけれども今決心してはどうか、大切な時であるから冷静に考へて見たらよからう。然し繰返して云ふが、一ツ橋へ仕へるなら、他に例もあるから、御領分の百姓から取立てた坂本平馬外一人の例による外はあるまいと思ふ」と親切に忠告してくれたので、私共は熟考の上返答すると云ふことで引下つた。
      四
 二人は帰つてから色々と相談した結果、平岡氏の説に従ふことに意を決した。さりとて意張るではないが、軽い待遇には不満もあつたのである。然し兎に角、
 「御親切に我々の身柄を憐んで下さるのは有難い、私共は百姓から転じたからとて、徒らに一ツ橋の家来になり度いのではない。常に志士を以て任じて居るのであつて、困難は決して意とせぬ。故に其主意さへ通ればよいから、公に御目通りをして私共の意見を申上げることができる様にして頂き度い」と刻下の大勢など大いに論じ、仕官する以上、この主意を汲んで欲しいと申述べた。すると平岡氏は「左様云へば左様なものであるが、八釜敷云うても先例もないので困る」と云ふから
 「先例がないと云へば、他領の百姓である私共を召抱へることも例がないぢやありませんか。召抱へると云ふことで例を作るなら、君公に御面会の例も作れぬことはありますまい」と云つた処、左様六かし
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く云うては困る、何とか考へよう、と云ふことになり、二三日して、平岡氏から「ドウカ都合がつき相だ。両三日中に松ケ崎へ御乗切りがある、その時御見知り置きになるから来い」と云ふことで、内密の御謁見があることに定つた。その時私達は道の四五町も駈け歩いて漸く御見知り置きを願ひ其後一両日たつて内御目見得を仰せ付けられた。これも首尾よく済んで、愈一ツ橋家へ抱へられたのである。其時の役名は奥口番と云ふのであつたが、間もなく、御用談所出役下役として奉公するやうになつた。当時平岡氏の考へは、一ツ橋に人才を集めよう、然るべき者ならば身分を問はず各方面から集めよう、そして兵力をも備へて幕府の押へにしようとして居た様子であつた。また、将来のことも深く考慮して、難局に当つてよく働ける人を集め、慶喜公を輔佐しようと、出来るだけ広い範囲から人物を見つけ出さうとしたのである。
 私は召されると直ちに面倒な仕事を申つけられた。これは其の頃大分問題であつた摂海防禦と云ふことに関して居る。兵庫開港論から京都を守る為めに大阪へ台場を築く必要があると云はれ、摂海防禦砲台築造御用係を薩州の折田要蔵と云ふ人が命ぜられて大阪に居たのである。幕府の待遇も布衣以上で、立派な人物との評判で、その時分としては好評嘖々と云ふ有様であつたから、平岡氏は、若し人物であるならば手なづけたいとの希望もあり旁々親しく探索する為め、私は其処へ内弟子になつて這入り込むことになつた。一ツ橋家からは「築城学御用として一人有志の者を遣はすが、この者は当家の家来であるから掛念なく教授をして呉れ」と云ふ申込みをし、又私自身も折田と懇意な御普役小田井蔵太と云ふ人の手を通じて話し、三月初め頃、私は折田の処へ行き書生となつて摂海防禦事務に就て二月ばかり学んだ。その間私の見た折田と云ふ人物は、それ程望みのある人ではなかつたから、その意味や、また隠密のやうな仕事ではあるが、島津侯の意見とか、西郷、大久保と云ふ人達の勢力などを知つて、これを平岡氏の処へ通告したりなどしたのである。
      五
 大阪には斯しくして二ケ月程居たのであるが、今度は江戸には相当な人物が沢山あるであらう、また私達の友人もあらうから、それを一ツ橋に召抱へる故、人選をすると共に伴れだつて来るやうにと、人選御用の命令を受け、五月末京都へ帰ると直ちに江戸へ向け喜作と二人で下つた。そして江戸及び御領分の有志者の内、撃剣家、文学者を五十人ばかり集めたが、最も多数であつたのは撃剣家で、間中隼太、穂積亮之介、白井慎太郎、また岡野、小川などといふ人々があり、又、真田範之助と云ふ千葉周作の塾に居た者も伴れて行き度かつたけれどこの人ははひらなかつた。私達は斯様な人選御用の仕事をする一方に尾高長七郎を牢から出す運動もしたが、その目的は達せなかつたのである。
 関東に於ける私の人選御用は右の通り同志の者を集め得たが、集めるには相当の費用を使ひ、余程の心配をもしたのに、残念なことには目立つた人は居なかつた。ただ十人ばかりは腕の立つ人とか文学に秀
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でた人があつて、全部五十人程引つれ九月末に京都へ帰つた。処が其前七月末、平岡円四郎氏は亡き人の数に入つたのであつた。実にこれから慶喜公を輔佐して本当に仕事を為さうとして居た時、暴徒の兇刃に仆れたので、本人としては勿論残念であつたらうが、また私共としてもこの人を失つたことは非常な打撃で、惜しみても余りある次第であつた。
 私は常にさう思つて居るのであるが、若しあの人が永く生きて居てその素志の通りを進んで行けば、慶喜公の将軍相続には反対して、事件の成行きに変化があつたであらう。それから平岡氏の後は黒川嘉兵衛氏が一切の政治向のことを執り行つた。しかしこの人は数年で退き原市之進氏が代つて輔佐役に任じた。丁度慶喜公が将軍御相続の時まで、即ち守衛総督から将軍となられるまでの間は、この原氏が政務を執り、御相談相手になつて居たのである。
      六
 扨て平岡氏に私が敬服して居たことは、第一に資性聡明なる大人物であつた点にあるが、また弁舌も相当巧みで、相手を圧迫的に説き伏せて行くと云ふ風であつた。私共は黒川氏になつてからも原氏になつてからも信用せられ、その位置は動かず、却て色々の重要な仕事を命ぜられたが、兎に角平岡氏は有為な人物であつたと深く感じて居る。寔に私共が元治元年の春、一ツ橋に奉公するに到つたのは氏の力で、私共の我を折らして奉公させて呉れたことは、ああした際であつたから謂はば命の恩人であつたと云へる。然るに僅か関東に居る間に、幽明境を異にするに至つたのは返す返すも遺憾の極みであつた。
 平岡氏には二人の息子さんがあつた。曾て一人は信州で裁判官をして居り、今一人は文学者で東京に居たので、一度お呼びしたこともあつたが、今は何処に居らるるか消息を知らないので、どうして居られるだらうかと常に心にかけてゐる。私の知人に平岡と云ふ姓の人は少くないけれど、皆この平岡円四郎氏の縁者ではないのである。(九月五日談話)