公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
三八九 東京市養育院月報 第二九一号 大正一四年一〇月 ○世界平和と人類文化 【子爵 渋沢栄一】(DKB80015m)
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三八九 東京市養育院月報 第二九一号 大正一四年一〇月
○世界平和と人類文化
子爵 渋沢栄一
世界人類の福祉を増進する上に於て世界の平和は望ましい。人類文化の向上が果して世界の平和を確立することが出来るか、それを実際問題として観察するときは、頗る遺憾に思ふ点が少なくない。
されど人類文化の向上といふことが、其究極に於て世界の平和を確立する日なきにしもあらずである。否な其日の一日も早く来らんことが吾人の理想ではあるまい乎。
私はこの世界平和と人類文化の向上に就て、其を宗教家的にまた学者的に研究し立論しようとするものではない。ただ私は自己年来の希望として、各人相共に道理にのみ依て争ひ、力によつて凡てを解決しようとするやうな傾向を排したいと思つて居る。
正しき道理に依て多くの人々が結合する処に始めて真の人類文化は
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向上するものであると思ふ。この精神があらゆる社会に及ぼすとき、所謂共存共栄といふことも実現されるであらう。又、経済上の有無相通ずるといふやうな場合も出来て来るであらう。つまり、強者が力によつて弱者を圧迫するといふやうな事柄は自ら消滅すべきであつて、世に謂ふ社会奉仕の精神も玆に其の源を発してゐると思はれる。この精神を押し広めたものは即ちクリストの救であり、孔孟の教に外ならない。古聖賢の訓も亦同じである。
人類が皆それぞれ欲望を有つ事は本能であるけれども、その欲望を満足せんとする時、何等他を顧る遑ないといふやうな有様は即ち争ひを生ずる所以であつて、禽獣の如きものならばいざ知らず、苟も人間である以上、そこに知識があり、従つて礼義を生じなければならぬ筈である。かくして、人類相倶に長短補足し合ふといふ事となれば、玆に人類全般の富を増し文化も向上することは、蓋し当然の帰趨たらざるを得ない訳である。
私は世の中の人々がむづかしい理窟は兎に角としても、先づ第一に己の欲を制すると云ふことから出発して、正しき道理に依て事を処理し又相互に譲り合ふ、つまり互譲の精神があれば世の中の多くの争ひは自然に止むものであり、また或程度にとどまるものと思つて居る。勿論これは自分の平素の考へであり、又これを世界の平和と人類文化の向上とに思ひ及んで、必ずある時期にはかかる時代も来ること、否かくありたいと、云はば自分の空想的な理想を常に抱いてゐたのであつた。
理想と現実とは必ず一致するものではない。この私の理想は既に欧洲大戦乱に依て見事に裏切られたのであつた。丁度その前年即ち大正二年に、米国スタンフォード大学のジョルダン博士が平和運動のことで来朝されたので、自分は平素考へて居る人類文化の向上と世界平和といふ見地から、今日の如く人智が進歩し、所謂文化の向上した時代に単に力を以て其黒白を争ふといふやうな事は到底あり得ないと思ふといふ意味を話した処が博士も同一意見であつたので、其結論として共に欧洲戦争の如きは勃発しないといふ観察であつた。而して相提携して世界平和の確立を希望すると共に、自分は自分の理想に共鳴された知己を得て年来の理想が確められたやうな気がしたのであつた。ところが事実は余りに無残にも我々の理想を打破つて彼の如き世界大戦乱となつてしまつたのであつた、即ち我々の理想は一年の後一片の空想と化してしまつたのであつた。
爾来欧洲大戦は一年二年と引続いて継続され、其間何等平和の曙光さへも認むることが出来なかつたので、自分は再び考へざるを得なかつた。即ち戦争は何日まで続くものであらうか、またどうしたら再び平和の時代が来るやうになるのであるか、当時は少なからず自分の空想的な平和観を後悔せねばならなかつた訳であつたが、偶々大正四年米国に行つたときも、常に世界の平和といふことに就て思ひ悩んでゐた。真の世界平和は何から来たるか、といふやうな事を考へてゐた折柄、ボストン大学のエリオット博士に面会した時、今日の欧洲大戦はどうしたら解決することが出来ようか、其の最早途は何であるかと尋
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ねた所、博士はそれは米国があの大戦に参加して、同盟側より伊太利を離すことが早途であると語られた、そして自分に対しては、日本へ帰国の上は大隈侯へも其旨を伝へて呉れとの話であつた。
果して其翌年、米国は世界大戦に参加し、伊太利も三国側を離れる事となり、遂に大正七年十一月には愈々休戦条約の締結といふことに迄進んだのであつた。
ウイルソン氏が国際聯盟を提げて世界平和の確立に猛進した事はよし米国がそれに加入しなかつたにしろ、世界平和の確立に一新紀元を画したことは何人も否まれない事実である。そこで自分は思つた、成程戦争は平和の為めの一手段であるかも知れない、又平和の為めの戦争といふやうなものもあるかも知れない、けれども、かの欧洲に於ける昔の宗教戦争のやうなものでない限り、真の平和といふものはどうしても人類文化の向上に俟たなければならない。
これは国際間の問題であつても個人間の場合であつても同じことでお互が凡ての争ひを知識に訴へるといふやうにすると共に、自分の我儘を控へるといふ心掛さへあれば、決して力を以て争はなくても世の中の事は解決出来る筈である。
人類が発生して以後十万年、何程か進化しつつあるものとすれば人智の発達も之に比例して向上するのであるから、真に人類共同の福祉を増進しよう。これには世界平和の確立を先決問題とせねばならぬといふ希望は何人にもある訳であるから、この人類共通の要求に基いて人々が結合し団結して倶に理想に進むやうになれば、其時には必ずや自分等が空想的だとさへ思つてゐた理想が実現される事と信ずる。この意味からして国際聯盟協会の如きも、各人の心と心とに共鳴する其力を団結して以て世界の平和に貢献しようとするのであるから、自分が国際聯盟協会長として大に国際聯盟の後援に微力を尽してゐるものも亦其故に外ならないのである。
近来「世界の終り」といふやうな書物が発行されて自分も其れを読んで見たが、科学的の立場から宇宙を論じ地球の絶滅を説くといふ立場の人々から見れば、或は自分の理想とする世界平和も心もとないものであるかも知れないが、実際問題として我々は、人類が永久に存在し、文化が年と共に進化するといふ出発点から論じて、どうしても将来は人々が知識に依り理性に訴へて凡てを解決しようとする傾向があると認めざるを得ない。是を仮に文化の向上と云ふなれば、将来の世界平和は必ず、人類文化の向上に依つて解決せらるべきものと信ずるのである。この精神は既に二千五百年以前より王者の政と謂はれ、我日本に於ても代々賢明なる 天皇の御聖旨も亦この精神に外ならぬのである。
前以て述べたる事柄は、自分として、世界平和の確立にはどんな考へを有つて居るかと云ふ問に対する手近の一例に過ぎず、又其考へも一個の理想でなく空想であるかも知れない。然しながら之は自分が常に考へてゐる事であり、又其の論理的な方面より少しく述べたに過ぎないのである。
然らば如上の如く国民を導くにはどうしたらよいか、それには現代
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が如何なる点に多くの欠陥があるかといふことになるのである。
一体近頃の社会問題にしても、又国家問題、国際問題にしても、其因つて来る処は多く経済問題である。換言すれば、利害関係である。此の経済関係を外に所謂宗教上の問題であるとか、精神上の問題であるとかいふ事は至つて少ない。
然らばその経済問題に直接関係あるものは何かと云へば、即ち一国の政治であり、経済であるのである。而して自分が既に述べた理想に向ひ人々をして進ましむる最も切実なる問題は、実にこの政治、経済の改革でなくてはならぬ。自分は政治も経済も、それが仁義、道徳と如何なる場合にも一致吻合するものでなければならぬと思つて居る。これは自分が五十年前よりの信念であつて、今日迄それがどういふふうに実現したか、それは別問題としても、兎も角、政治も経済もそれが仁義道徳と一致すべきものと信じてゐる。政治即道徳でなくてはならぬ、経済即道徳でなくてはならぬ。されば道徳的に価値のない政治は政治とは思はない。又道徳にも悖つた経済であれば、それは真の経済ではない。つまり政も富も共に道徳に依つて支配され、それ自身が道徳的に権威あるものでなければならぬ。之れが自分が常に唱道する道徳経済合一論である。
果して然らば、此精神が個人より社会へ、国家より国際へ徹底する程度に文化が向上せば、以て世界の平和は期せずして確立するものと信ずる。日本の皇道、支那の王道、皆此精神に外ならぬと思ふ。