デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
大正期 三九〇 竜門雑誌 第四四六号 大正一四年一一月

■資料

三九〇 竜門雑誌  第四四六号 大正一四年一一月  伊藤公の政党組織と私 【青淵先生】(DKB80016m)
別巻第8 p.47-51 ページ画像PDM 1.0 DEED

三九〇 竜門雑誌  第四四六号 大正一四年一一月
    伊藤公の政党組織と私
                      青淵先生
      一
 伊藤博邦公から、この程先代博文公の筆に成る覚書やうのものに私が署名した一通の書類を見せられて、之に対する感想を余白に書くやうにと依頼せられたけれども、未だに出来ずに居る。其の博文公の書かれた文章と云ふのは、
 方今国家多難ノ際ニ当リ、済時ノ方策(方策中ニハ経済財上及外交等ノ事ヲ凡テ含蓄スルモノナリ)一ツニシテ足ラス、然レトモ到底其是非ヲ甲乙ノ間ニ左右シテ決セサルニ於テハ、竟ニ其時機ヲ失シ救正スヘカラサルニ陥ラン事ヲ恐ル、故ニ今日ノ急務ハ目前已ニ現出スル所ノ国家維持ノ方策ヲ主唱スル者ノ、各種ニ就テ其一ヲ選定スルノ必要ヲ感シ左ノ決論ニ帰着セリ、乃チ
  渋沢ト伊藤ト所見ヲ闘シタル結果
 渋沢ハ伊藤所執ノ政策ヲ以テ是ナリトス、然レトモ自己ノ境遇自ラ主動ト為リ、或ハ之カ為ニ身ヲ犠牲ニ供スル事ヲ得ス、唯之ヲ是認スル以上ハ内外ニ対シ之ヲ公言スル事ヲ憚ラサルノミナラス、他人ニ向テ之ヲ賛セヨト言フ事ヲ躊躇セス
と云ふのであつて、その終りに私の手で
  明治三十一年六月十八日      渋沢栄一 手記
と署名してあるのである。
 - 別巻第8 p.048 -ページ画像 
 今これを公にするのはどうかと思ふが、さして不都合とも考へられないから、この書面に関連し、事実を事実として伊藤さんと私との親しい関係を此処にお話しよう。
      二
 私は何時も云ふやうに、政治界に志を断ち、其方面では働きもなかつたから、友達の相談に応じて力を借すことなどもなかつたのであるが、伊藤さんとは明治二年頃大蔵省時代から大隈さん等と同様に親しくした。伊藤さんは極く書生肌であつたから、文章や詩を作つて親密にするばかりでなく、他の娯楽のことなども共にしたので親懇の度は一層深かつた。併し後には私が実業界に入つて、境遇が自ら違つて来たから、時々会ふと云ふ程度になつて居た。
 偖て憲法が発布せられ議会が成立してから日本の政治も形式的には立憲政体となつたのであるが、その後の実際は依然として官僚的で、法と一致する処が頗る少なかつたのである。私は政治の智識はないが斯様な官僚式では困る、これはどうしても政党を組織せねばならないと思つた。憲法発布に就て伊藤さんは非常に尽力せられ、遂に議会政治の成立を見るに至つたので、その功は多とせねばならなかつた。然るに内閣の成立なるものを見ると殆どなつて居ないのみならず、何れも袞竜の袖に隠れて事を為さうとする有様であつたから、私は伊藤さんに、速に政党を組織するやうにと勧めた。其後百方考慮して愈々伊藤さんが政友会を起さうと決心し、政党政治の第一歩へ進み入らうとする時、政党組織のことを勧めて居た関係から私にも入党せよと勧説せられたが、私は其の素志からしても政治に携はらないことに固く決心して居るので、「共に仕事はしないが、主意には大賛成で、他人に賛成を求めることに躊躇しない」と云ふ意味の返事をしたと思ふが、之を書面としたものが此書類であると思ふ。書中「多難ノ際」とあるのは伊藤さんや井上さんと常に会談した時、当時の国家の事態を憂へて互に口にして居た言葉である。
      三
 伊藤さんとの交際は一寸前にも述べた様に明治二三年頃からで、年齢は伊藤さんの方が一歳下であつたけれど、私は先輩として尊敬して居たのである。そして書生まる出しの伊藤さんは実に磊落で、私とは意見を遠慮なく話し合ふ間柄であつた。丁度明治三年大蔵省の事務改革と共に、将来の財政経済をどうするかと云ふに就き考慮した末、徒らに国内のみを見て居ては駄目である、外国の事情をも調べなければならない、それには先づ米国を調べる必要がある。特に太政官札を兌換券と為さしめるに就て研究する必要がある。丁度米国では千八百六十年、南北戦争後の財政整理の一つとして、不換紙幣を兌換紙幣に引直したことがあるから、この事務の執り方などを知る要があると伊藤さんが頻りに説き、又私は将来の商工業は会社組織でやらねばならず又一方、金融の組立が出来なくてはならない。換言すれば、会社組織と金融制度とは相俟つて日本を発展せしめるものである、従来の様に相対貸借で資金を調達するやうでは駄目である、同時に公債発行の仕組がないから、どうしたら甘く行くか、此れも考へねばならぬと思う
 - 別巻第8 p.049 -ページ画像 
た。私は形ばかりでもこれを仏国で見たが、詳しくは解らぬので、此れも調査する必要があるとして、それこれをも調査して来るやうに希望を申出でたのである。これは私が主として大蔵省内の改正係として諸種の改正のことに当つて居たので大いに新知識として申出で、大蔵省からこの派遣の進達をしたのであつた。
 其処で公債制度、銀行制度、会社組織などの調査をもすることになり、渡米する伊藤さんもその用意をした。そして随員には外国語の出来る人とか、筆のたつ人を選び、芳川、福地、吉田などの人々が行つたのであつたが、福地、吉田の両君は私の関係で随行することになつたのである。その出発は明治三年の秋冬の頃であつたと思ふ。帰朝は翌四年の四五月頃であつて、調査して来た事項は、
 一、大蔵省制度の改革(並に事務の仕組)
 一、銀行制度(所謂ナショナル バンク システムと云ふので千八百六十三年南北戦争中設立された国立銀行制度)
 一、貨幣制度(即ち金本位制)
 一、会社組織
 一、出納の方法(並に帳簿の改正)
などで、日本にとつては悉く新制度のみであつた。
 然るに伊藤さんが帰朝後、余りにアメリカ風を吹かせ高襟主義であつたから、薩州人に嫌はれた。中にも大久保利通さんなども生意気であるとて好意を寄せなくなり、大蔵少輔から大阪造幣局へ左遷せられたりした。当時は井上さんが大蔵省での働き手で、大蔵卿は伊達宗城さんであつたが、大久保さんが大蔵卿になつてから井上さんは大輔となつて幅を利かせたのに反して、伊藤さんの方は米国の諸事情を調査して帰朝したが却て勢力を墜したやうな訳であつた。その時伊藤さんも残念に思つたらしく「井上も渋沢も少しも私には同情してくれぬ、友達甲斐のない者だ」と云ふ愚痴の手紙を寄越したりした。後年伊藤さんが政治界の第一人者となつてから、私は「貴方は余り偉さうな事は云へぬ。此前このやうな手紙を寄越したことであるではないか」などと云つて心安い間柄だけに笑つたこともある。それは後の話であるが、兎に角斯様な手紙の往復をする程懇親の間柄であつたのである。
      四
 私が大蔵省を退いた時には伊藤さんは再び枢要な地位に復して居り岩倉さんが外国使節となつて行つた際の如き、大久保さんと共に副使として行くやうになつて居た。そしてそれより先き伊藤さんが調べた財政経済の制度は井上さんの裁断の下に私の手で着々実施せられた。伊藤さんは「渋沢は本末を明にしてよく仕事を間違へずにやつてくれる」と云つていよいよ深く私との交りを続けて来たのである。その後は別に変つた事もなく伊藤さんは政府にあり、私は銀行業者として野にあつたが、明治十三四年の頃、西南戦争後金融界が大変動を起し、紙幣は下落した。当時の大蔵当局者は大隈さんで、大いに積極政策を執つて居たのである。之れに対し松方さんは消極論で、紙幣の減縮を図つて進まなければこの難局を切り抜けることは出来ないと唱へた。恰かも今日の政友会の積極説に対する浜口蔵相の消極策が対立せる如
 - 別巻第8 p.050 -ページ画像 
き有様で、ただ地位があべこべであつたのみである。他方伊藤さんは主として政治方面に活動して経済とは縁が少く、松方さんのやうにこまかに立入つて論議することはなかつた。また私達銀行家はこの紙幣下落の対策に就て大蔵省のやり方を放慢であるとし、松方さんと同様紙幣減縮必要論で大隈さんの政策を攻撃した。従つて大隈さんは「渋沢は俺の行ることに反対する」とて大いに憤り、遂には私を嫌ふ様になった。これを伊藤さんが聞いて、大隈さんの憤るのが悪い、これは誤解を解かねばなるまいと云ふので、私をつれて大隈さんの処へ行つて「君が面と向つて議論をしないから、蔭で反対するやうに思はれ、誤解を生んだのである」とて、両者の間の調停をしてくれる程であつた。然し伊藤さんは前にも云ふ通り経済的方面の関係が薄かつたからその後は井上さんの様に繁く往来することはなかつた。
 又憲法制定の準備の為めに海外へ行かれる時にも、その悉くの事項に渉つては相談せられなかつたが、一通り意見をも聞かれた。そして長い間には色々の変化もあつたけれども、伊藤さんが首相として国家を一身に坦うた時には、よく往来して意見を述べ合つたのであつた。
      五
 明治廿七年日清戦争の始つた当時、国民の意見を政府と一致せしめねばならぬと云ふので、新聞社側では福沢、実業家側では私などが打寄り主唱して、支那に向つた軍人の後援を国民が挙つてすると云ふ意味で軍人の慰安を目論み、その費用を百万円ばかり募り、軍人慰安の方法を講じようとした。処がその時総理大臣であつた伊藤さんはこれを聞いて、「そのやうな事に百万円の金を募集するのは困難なことである。実は国債を募集したいと考へてゐるが、此方ならば少しは利息をも払ふので、只寄附するよりはよいからそれに尽力してくれぬか」と云ふことであつた。国債の総額は五千万円で、利子は確か六分であつたが、利廻りは七分何厘かに当つたと思うて居る。其処で私達は銀行其他に運動して東京で約半額、大阪で一千万円位、其他地方で約千五百万円を募集し、意外の好成績を得られたのであつた。
 扨て伊藤さんなどの力で憲法も布かれ、議会も聞かれたけれど[開かれたけれど]、うまく其の運用が出来ず、二十四五年から三十年頃までは依然官僚味たつぷりであつたので、一方には自由民権熱が高くなり議論が中々喧しかつた。私は之を見て、官僚的であることは最も排すべきであるから思ひ切つて政党を組織する必要がある。先づ「伊藤さんがやるべきである」と私も人も奨めたのである。伊藤さんも余程考へた模様で、勿論私の言のみで動いたのではあるまいが、その時の自由党を纏め、自ら首脳となつて世間に乗り出さうとしたのが、此覚書の出来た当時、即ち明治三十一年頃政友会組織の時である。そして結局は多数の政治となる、多数人の賛同に依て政治を行ふことが本筋であると云ふのが伊藤さんの考へで、それに渋沢が賛成した、それがこの書面の主意である。今日から見れば名文でもなく、寧ろ何の意味か解らぬが、同主義である旨を契つて書いたものに外ならない。
 其処で愈々伊藤さんは政友会を起すことに決心した。私は之を奨めた関係上、伊藤さんの方では、私も入党し、内閣組織の時には閣員の
 - 別巻第8 p.051 -ページ画像 
一人にはならないまでも大いに後援する位に思つて居たらしい。従つて伊藤さんは「政党を組織するのに同意した以上、他に同意したと云ふことを宣明し、宣伝に力を尽してくれるであらう、当然政治家として党の為め尽力してくれる事と思つて居た」と云うて私を詰つたのである。併し私は「さう云ふ地位には立たない」と答へた処、「それでは友を売る者だ」と云うて大いに苦情を言はれた。そこで「それは伊藤さん貴方が解釈を間違へて居る。皆のよく知つて居るやうに、私は役人になりたくない。最初大蔵省へ出たのも大隈さんの説得で一時的のものであつた」など前後の関係を懇々説いた。しかし伊藤さんは「之に力を尽してくれないのは親切が薄い、人情が少なすぎる」と不満の情を示し、私が種々弁解したに拘らず、どうも十分に解けなかつたので、遂には井上さんに話して貰つて諒解を得たこともあつた。
      六
 それから二三年経た後であるから多分明治三十四年であつたと思ふ井上さんが総理大臣にならうとして、遂にならなかつたことがある。これは伊藤さんと山県さんとで後継内閣は井上さんに譲りたいと云ふのであつた。この話を受けた井上さんは直ちに私に大蔵大臣をやつてくれと云ふ。而も直接の交渉の上へ内務大臣になると云ふ芳川さんを通じて又頻りに慫慂して来たが、私は最早役人にはならないと確固たる覚悟をして居るので之をきつぱり断つた処、井上さんが、渋沢が出なければ自分も引受けぬと云ひ出した。其処で今度は山県さん、伊藤さんの方から人情づくで私に大蔵を引受けてくれと云つて来て、「君がやれば井上もやるのだから」と切に奨められたが、初めから私は政治はやらぬと決心して居るので断然お断りすると申出でた。然しどうしても聞かず、「自己一身の為め不人情を敢てしてもよいのか」などと頻りに云はれるので、私は「人情の為めならば主義を没却してもよいと云ふ筈はない。然し左様に熱心に勧められるのを一概に断ることも出来ませぬから、第一銀行を一しよにやつてゐる人々にも相談し、銀行経営の上から皆の者にも判断して貰つて、皆が承知したなら引受けませう」と答へて置いて、事の顛末を詳しく銀行の重役に話した。その時の重役は佐々木、日下、西園寺等の人々で、種々協議の末「今銀行を離れてもらつては困る」と云ふことであつたから、日下君が代表で山県さんと伊藤さんの処へ断りに云つてもらつて、兎に角きつぱりと断つた。そして私の為めではなかつたらうが遂に内閣は成立せず沙汰やみとなり、結局桂内閣が出来たやうな訳であつた。
 要するに伊藤さんは大政治家で、井上さんの如く実務について仕事を為した人ではないが、実に優れた人物であつた。日本の政治上に遺した功績は喋々するまでもなく世人の知悉せる処である。
 此処に博邦公が示された処の書面は、別に秘密にする程のものでもあるまいから、これに関連して伊藤さんとの関係を思ひ出すままに斯く談話した所以である。(十一月八日談話)