デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16

別巻

談話四 余録

談話(四)
新聞・雑誌に掲載せられたる談話(承前)
大正期 三九一 竜門雑誌 第四四七号 大正一四年一二月

■資料

三九一 竜門雑誌  第四四七号 大正一四年一二月  進退を共にした井上馨侯(DKB80017m)
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三九一 竜門雑誌  第四四七号 大正一四年一二月
    進退を共にした井上馨侯
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                      青淵先生
      一
 故井上侯爵とは伊藤公爵や大隈侯爵よりも接触の度が多かつたのである。大蔵省を辞職する際の如き、謂はば進退を共にした訳である。その後井上さんは依然政治界にあり、私は実業界に転じたが、最後迄何かにつけて相談し合つて来た。
 初め私が大蔵省に奉職する時には大隈さんに、奉職してからは大隈さんよりは伊藤さんに引立てられたことは、夫々の人達に就ての談話の中で詳しく話して置いたのであるが、明治四年に大隈さんが参議となり、大蔵卿を大久保利通さんが勤められた折、井上さんが大輔としての任にあり、総ての事務を全然委任的に処理して居た。故に大輔と云うても、井上さんは大蔵卿と同様の地位にあつて、四年、五年、六年の春まで大蔵省の仕事をせられた。そして又、私が真に大蔵省の仕事をしたといふ時期もその間であつて、井上さんの下で働いたのであつた。で、人からは私が大いに手腕を振つたなどと云はれて居るが、大した仕事も出来なかつた、ただ夜に日を次いで刻苦勉励したのみである。
 井上さんは言論の人でなく実際の人で、大体にずんずん実行すると云ふ側の人であつたから、時々理論ぬきで我儘を云ふことがあつた。従つて話にしても学問的でなく可成り粗雑な嫌ひはあつたが、実に何事にも通じて居て、不規則ながら思ひの外の事を知つて居り、意外の事を云ひ出されることがあつた。又非常に多能な方であつた。而して案を立てることなどは得手で、実に湧くが如くであり又変通自在で、これで悪ければ斯うすると云ふ風で、実務に長けた人であつた。然し気が短く、直ぐに大声で人を叱りつけたので、大蔵省で井上さんを「雷」と呼んで居たが、それに関連して私を「避雷針」と云つた。其意味は、勿論私も怒りつけられることはあつたが、さまで他の人の様に怒りもせず、終りまで何事も相談づくであつたから、「雷」の井上さんが呶鳴り出すと「渋沢君に頼む」と云つて、私を避雷針代りにしたからである。
 私が大蔵省へ出仕した事情は屡々云うたやうに大隈さんに私の心情を打ち明け「仰せに従ひませう」と云ふので、深く意見の交換も行つて居た。当時大隈さんが大輔、井上さんが少輔であつたから、井上さんは「詳細は大隈から聞いた」と云ふ風で、最初から親切にしてくれた。そして大蔵省の改正係の組立は大隈さんがしたが、後に係の指揮者は井上さんで係長は私であつた。その実行調査の事項は、貨幣制度の確立とか、公債発行並に取扱ひ制度とか、銀行の組織等で、新しい此等の仕事に対しては伊藤さんが四年の初めに米国で調べて来たものを実施しようとしたのであつた。その衝に当つたのが井上さんであつた。其の時は大輔になつて居たのである。
 一体井上さんも伊藤さんも長州人で甲乙なかつた訳であるが、薩州人たる大久保利通さんに、伊藤さんは嫌はれた。米国から帰つた時アメリカ風を吹かせたと云ふので、折角調べて来た財政経済の制度も大蔵省へ置いたまま、大阪の造幣局長に左遷せられたのであつた。処が
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一方井上さんは大輔となり、大久保大蔵卿に代つて其の事務に任じたので、真に大久保さんと井上さんとは相許し合つて仕事に任じて居たと云へる。又私はそれ等の仲間と云ふ地位ではなかつたけれども、井上さんは専ら共々に仕事をしようと、私などにも親しく接して来たのである。私も其の志なり手腕なりを信頼せられたので大いに働いた。従つて改正係から権大丞、それから大丞、続いて勅任官三等出仕となり、少輔と同地位に進められた。其時吉田と云ふ少輔が欧洲へ行つたので、其代りの事務を執つて居たが、其後遂に辞職するやうになつたのである。
 扨て、大蔵省の仕事を本当にやり出したのは四年の春からで、井上さんが大阪から出て大輔となり、大蔵卿の伊達さんが止めて大久保さんが代り、伊藤さんは大阪へ行つて留守であり、専ら井上さんが伊藤さんの調べて来た制度の実施に当つたのである。従つて私も、井上さんと親しく接し、お宅の方へも伺つて殆ど形と影との如くにして居たのである。
      二
 私達当時の考へでは、現在の有様で政治を進めて行くことは難しい必ず現状を打破して一つの政体を確立し、全国を統一しなければならぬと深く感じて居た。其の時は未だ藩はそのまま残されて地方の政治を専らにし、郡県制度にならぬ以前であつたから、所謂廃藩置県の必要を力説したものである。然し根本的に其の実際に就て立入つた相談を受ける程の地位ではなかつた。当時廃藩置県の議論は中々喧しく薩州と長州とで之を主張し、他を圧へつけて実行すれば出来ると唱へるものなどあり、私なども同様の意見を持つて居た。よくは記憶しないが、今日の閣議のやうな評議の席が江戸城内の舞台で屡々開かれた。省の卿とか大輔とかの人々、今の大臣とか次官とか云ふ人が集つて評議した。会議は二三ケ月も続いたと思ふ。西郷(隆盛)、木戸、大久保、大隈、伊藤、江藤と云ふやうな人達が出席して評議して居たが、私は内書記の様な大内史と云ふ兼任を命ぜられて、会議に列席して居た。同役に杉浦愛蔵も居たのである。
 此御議事に付て一挿話がある。それは御議事は重大なる評議であるから、三条、岩倉両公にも出席を乞はねばならぬといふことになり、両公に建議しようと云ふのでその建議書を私が書く事になつたから、私は直ちに之を文章とした。此書面は木戸さんから二度ばかり修正せられて或る日の議に上つた処、其時西郷さんの答が人と変つた処のある有様に驚いた訳である。西郷さんとは、私が京都で一ツ橋の家来となり周旋役のやうなことをやつて居る時会つて知つて居るが、其時分とは大に趣を異にし、此の議事の間では、西郷さんは堂々たる参議であるのに、私は秘書役であつたから、直接口をきく様な事はなかつたのである。
 木戸さんから、会議に三条、岩倉両公に出てもらふことにしようと思ふと云ふことから、建議書の話をすると、西郷さんは直ぐに、
 「左様な議を君側の人々に図る必要が何処にあるか」と云ふ。
 「いやある、議に参加してもらつて、実行に先だち、上の御諒解を
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あらかじめ受けるのが主意である」と誰かが説明した処、
 「何んの効能もありますまい。兎に角未だ戦争が足りませんね。戦争をしないと治まりますまい」と云ふ。
 「戦争も必要ならせねばなりますまいが、戦争を無闇にすることは出来ますまい」
 「さうかも知れぬ。然し人気がこのままでは駄目である。それには戦争ですぞ」と戦争一点張りである。
 で、結局三条公や岩倉公を議に参加を乞うても効果はないと云ふのである。私も三度から建議書を書いた関係から大に憤慨し、大蔵省へ帰つてからも「判らぬ人だ」と井上さんに話し、私はこんなことでは評議は駄目であると思つたのである。確か六月一日かであつたかと思ふが、其後は出ずにしまつた。
 然るに暫くしてから、井上さんが
 「西郷さんはどうも馬鹿げた事を云ふ人だと思つて居たら、馬鹿げて居ない。あれが皆で評議して居る廃藩置県論なのだ。そしてそれをやらうと云ふのだが、とつつけもない処から云ひだすものだから、人に判らぬので、実はさうすると騒動が持ち上ると云ふのであつた」と聞かされた。
 此事は内密の話であつたが、主な人々の間にも色々の説があり、山県さんとか三浦さんなども説があつたさうである。西郷さんと云ふ人は一寸斯う云ふ風な言ひ方をする人であつた。この話は井上さんとの直接の話には関係がないやうであるけれど、私が秘書官の様な仕事をした当時のつけたりの話で、何時か誰かに西郷さんとの関係を談話した時にも話したことがあるのである。
      三
 遂に廃藩置県は実行せらるることになつた。それが発表せられたのは四年七月十三日であつた。其後の大蔵省は非常に多忙となり、その為め普通ならば十四日、十五日、十六日は所謂盆で、地獄の釜の蓋のあく日と云ふのでお休みの訳であるが、私達は寸暇もなく徹宵して働いた。
 先づ第一に、藩所有の武器である城のこと、鉄砲の始末、それから財産である金穀の処分など、井上さんの注意がよく行きとどいた。就中藩の紙幣を政府が処分せねばならぬことに対しては、其の価格の変動を惹起するから余程気を付けねばならなかつた。即ち藩の紙幣は発行価格より下つて居た。例へば百匁の紙幣は五十匁に下つて居る。それを政府紙幣に引替へると云へば忽ち百匁に引返す、とそれを所有する者は偶然の僥倖を得る事になる。そんなことのない様にせねばならぬのである。井上さんは、廃藩と同時に、当時の紙幣相場及び二三ケ月以来の紙幣相場を調査させて置き、且つ其他に付ても深く注意して此の移り変りに対する適当の措置を執つたので、仕事は見事にすらすらと運んだ。又藩の借金の始末に就ては相当苦心した。曾て水野越前守が貸借棒引の政策を採用したことがあるが、この制度にかかつたものは、新旧の別なく貸金が取れぬので弊害があつた。其処で今度は期限によつて三別し、ずつと旧いものと、其後のもの、及び明治以後の
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新らしいものとした。旧いものは期限が切れた時効にかかつたものとして切捨てとし、其後は明治前までのもので相当を支払ひ、新しい明治以後三年までのものは全額を支払ふことにした。
 支払ひは政府の公債を以てし、旧の方は五十ケ年年賦、新の方は年四分利で何年かの据置とした。斯くて藩の紙幣、借金、武器の始末が先づ完了した。そして井上さんの定めた方針に従つて大丞であつた私が主として事に当り、局の中には、小野義真、岡本健三郎、渡辺清、安場保和、谷鉄臣など五六人でやつたと記憶して居る。
 其内八九月の頃でもあつたか、何かの理由で井上さんが大蔵省へ出て居なかつた日であつたが、政府で陸軍省の歳費額を八百万円に、海軍省の歳費額を弐百五拾万円に定めると云ふ議があつて、大久保卿は已むを得ずこれに同意せねばならぬと云ふことで、其頃大丞の職に居た自分と、谷、安場の三人へ下問があつたに依て、私は斯う云つた。
 「予算を定めることは収入の途がついてからでなくてはなりません収入の予算が出来ぬ今日、支出の予算を計上するのは順序を誤つて居るのみならず、全然見込がつきますまい。殊に廃藩後で見当さへつけられない。左様なことは一国の財政を処理する上に出来ない事であります。又予算の性質から云つても不可能なことで問題になりません」と云つた。井上さんは出席して居ず、他の人々は居たが何も言はず、私が筆頭だつたので云つたのであつた。処が大久保さんは閣議で之れを承認して来て居たと見え、
 「陸海軍の予算がたてられぬとすれば、陸海軍には金はなくてもよいのか、君の議論を極論すると陸海軍は無くてもよいと云ふことになるが、左様云ふ意味であるか」と大久保さんは意外のことを云はれるので、
 「それは大蔵卿のお言葉とも思はれませぬ。日本に軍備がなくてどうしませう。支出予算は収入の概算が出来てからするのが本体であるといふので、不用だと云ふのではありません」と答へた処、「それでは井上大輔も出て居ないから熟考しよう」と云つて頗る御機嫌が悪かつた。
 私はこれでは到底駄目であると考へ、又其の他の話もあつたので、辞表を持つて井上さんを訪ね、その日の話を詳しくして、
 「貴方がよろしいとお考へならばお決めになつたらよいでせうが、私は不可だと思ふ」と云ひ、辞職したい旨を述べた。処が井上さんは自分もその事では心配して居るとて、
 「今暫く待つて呉れ。少し相談したいことがある。実は旧い人達に外国の事情を知らせる必要があるので、内密だが近く大使を派遣して条約の改正旁々海外視察をさせることになつて居る。今の処岩倉公が大使となつて渡航する下相談になつて居る。左様なると大久保卿も一緒に出掛けることとなる筈である。然しこの若し話が洩れては面白くないから内密にして貰ひたいが、さう云ふ訳だから君も一月位大阪へ行つてくれぬか、いま造幣局が人が居なくて困つて居る。三井に兌換券を作らせるのだから、其方の仕事をする為め、大阪へ出張して呉れ」と如何にも城府を開いた懇篤な話であるから、
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 「では命令に従ふが、時期が来たら辞職するから其時には留めないで下さい」と申しますと、
 「いや最初から君の意志はよく判つて居る。仕事だけをやつて呉れ給へ。働き手がなくて困つて居るのだから是非頼む。喧しく云ふ連中は居ても、事務は少しも運ばないので困る」と切に奨められたのであつた。それで九月末であつたと思ふが大阪へ出張し、十一月の十五日に帰京した。処が私の実父が大病だと云ふので翌十六日に田舎へ馳せつけ月末遂に亡くなられたので、東京へ帰つたのは十二月であつた。
 其十二月に井上さんの云うて居た条約改正の目的と、制度変更の披露を兼ねた長老連の海外見学旅行が出発した。一行は岩倉、大久保、木戸、伊藤、山口など大変な人数であつた。然るに先づ米国では条約改正の協議をしようとした処、委任状を持たないといふ理由で断わられ、伊藤さんがわざわざ委任状を取りに帰京した話などがあつた。
      四
 私は五年の春、大蔵少輔事務取扱として三等出仕を命ぜられ、井上さんの下に一年間何事によらず相談され、又仕事を委されて之を取り行つて居た。兎に角私が大蔵省で大いに働いた時期と云ふのは、廃藩置県後の整理の時からである。井上さんといふ人が極く性急な人だから俄かに註文を出すので中々困難であつたが、取調のことなども改正係に相当な人があつたから、よく出来得たのである。こんなことで最も働いた折には三日三晩不眠不休で働いた事もあるが、それで余り疲労を覚えもしなかつた。中には「もう堪へられぬから寝かしてくれ」と云ふ者などあつた程で、其間諸制度改正の始末、銀行の新制度等、新らしい仕事が数々あつた。井上さんはそれ等の事に就て総て順序立てて議論を立て実行に移らうとするではなかつたが、よく私の説にも調和し又私の説をよく容れてくれた。そして注意が頗る行きとどいて先へ先へと進むと云ふ風だつたから、非常に働きよかつた。尚ほ他の人々との折合も、私が専横なことを少しもしなかつたので別に嫌はれる事もなく勤め得られた。同時に当時は血気旺んな若さであつただけ仕事が輻湊すればする程働けた。実に当時は大蔵省の仕事を盤根錯節の間に処理したと云へる程で、過失もあつたか知れないが、井上さんが磊落の人で自分の考へを遠慮なく云ふ人だつたから、思ひのままに仕事が出来たのであつた。殊に私に対しては政治界に志のないことを諒解して居て、よく尽して呉れた。
 又経済界のことでは、金融の制度を整備するに努め、伊藤さんの調べて来た米国の銀行制度を実施しようと井上さんも私も主張した。それに対して吉田清成君は英国の制度がよいと云つたが、私は米国式を事実やつて見ねばならぬと考へ、先づ資本を多数の人から集めるより三井を主として実行するのがよいと云ふので、此処に第一国立銀行を起したのであつた。銀行の組織は後に誤つて居たことが判り、伊藤さんも、井上さんも、私も此仕組を作るに就て失敗したのであるが、当時は固く執つて動かず、其の主意を以て進み、且つ人にも奨めて居たが、愈々組織の出来たのは井上さんの力である。従つて銀行の創始に対しては、井上さんに感謝しなければならぬであらう。五年の十一月
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に国立銀行条例が発表せられ、銀行組織の基礎が定つた。折から三井が是非之を行り度いと云ふことであつたから、前述のやうに第一国立銀行を起したのである。
 廃藩置県の後、整理した処の太政官札を先づ兌換券にする。又其の兌換券に対する正貨準備を為す為め、今日で云ふ緊縮策を採らねばならぬと論じたのが、井上さんなり私なりの大蔵省側の者達であつた。然るにこの緊縮政策は攻撃の焦点となつた。又百事新らしい時のこととて、幾分勢力争ひの気味もあつたらうが、出納の権を大蔵省が握つて居る為め、緊縮策など唱へるに対し、横暴であると思はれた。従つて予算編成の時であつたと思ふ、大蔵省案が否決せられて、井上さんが辞職すると云ひ出した。前年の時にも同様の話があつた。その時には三条公は「井上の考へを変へさせるには渋沢に努めてもらふより外はない」とて、自ら小川町の私の処へ来られて、
「今、井上君に大蔵省を出られては事務に当然支障を来すから、井上君として親切が少いやり方である。是非留まつてもらふよう尽力して呉れ」と懇ろに説諭を受けた。当時は一時の弥縫によつて先づ折合が付いた。然るに六年には井上さんも断然たる決心をしたらしい。この事件は悪く云へば一種の勢力争ひで、司法の江藤新平さんなどは「大蔵は専横だ」と頻りに攻撃して居たのである。故に井上さんは「僕の云ふ通りにならなかつたら覚悟して居る。君も其の積りで居て呉れ」と云つて居たが、遂に五月三日の日に、
 「いよいよ破裂した。辞表を出す。到底駄目だ」と云うて内閣の会議の顛末を話され、
 「大隈は事情をよく知つて居るから、何とか心配して呉れてもよいのに、多数に巻かれて、どうか成るだらうと云ふのだ。斯うなつては会計紊乱である」とのこと、私は予て左様なるだらうとは思つて居たが、重だつた大蔵側の人々も井上さんを止める訳にも行かず、ただ吃驚して居た。其処で私は、
 「それなら私も辞表を出したい」と云つた処
 「それでは大蔵省が闇になるから困るではないか」と云ふ。
 「いや困るのは私も同様で、私は最初から大蔵省に長く居る積りはない。ただ大隈さんからの話しで就職し、又貴方から重用されたから今まで居たのである。今貴方が辞職すれば、或はその後私に来るかも知れぬ。若しそんなことになると大に困る。元来私は貴方より先へ辞職しようと考へて居た。これはよく御承知の筈である。左様な訳であるから後に残ることは絶対に出来ない」と申述べ、遂に辞職を共にすることになつた。
 それより先、私自身として内閣諸公の行り方が余りに積極に過ぎるのを見て、私達の意見とは到底合致せざるを信じたのである。其処で此の積極政策を不可とした論文を那珂通高といふ人に書かして置いたが、私は辞表を出した翌日、其稿本を携へて井上さんを訪問して柳橋で面会したが、丁度芳川顕正君も来て居り、芳川君が井上さんに意見書を読んで聞かせた処、
 「実に名文だが、君が書いたか、中の議論より文章の方が甘い」な
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どと云ひ、全く同意見であるから二人で出さうと云ふことで、終に其意見書を両人の奏議として出すことになつたが、それには名文過ぎ、品がよ過ぎる。抽象的ではいかぬ、内容に数字を入れ「現金はこれだけあるに対し借金はこれだけ」と書き入れよう、と云はれたので同意し、又財政の基本数字から借金の数字まで詳しく入れた。其の所謂奏議の全文は次の如きものである。
  ○「財政改革ニ関スル奏議」略ス。本資料第三巻第七四三頁ニ収ム。
 これは内密の書面として提出したのであつたのに、井上さんがそれを曙新聞に発表したものだから、井上さんは罰金を取られたやうな訳であつた。
 以上で井上さんと私との役人時代のことは一段落となつた。其の後井上さんと大隈さんとの考へは一致しなかつた。然しずつと後には大隈内閣成立の時に口をきいたりして、両人の間は決して悪くはなかつた。一方私と井上さんとは財政経済のことに就ては常に意見が一致し最後まで信じ合うて来たのは思ひ出しても誠に気持がよい。
     五
 斯様に井上さんと私とは進退を共にしたのであるが、両者の辞職した主意は夫々異つて居る。政府の執つた政策が形式に流れ、実際を重んずる処がないと云ふ点には、二人の意見は合致したのであるが、私の意志は第一に大蔵省の首脳として井上さんに代つて仕事をさせられるやうになつては困る、これは云ふまでもなく、私自身予て希望して居る実業の為めに尽力し、其の成果を収めようと考へたからである。此点は大隈さんにも、井上さんにも話して了解を得て居たので、遂に其の年起された第一銀行を経営することになつたのである。
 井上さんは自ら表面には出でなかつたが、其後益田君等を使ひ貿易会社を起しなどした。それが今日の三井物産であるが、井上さんは依然政治家を以て任ぜられ、一両年の内には朝鮮使節、又黒田さんなどと英国使節に命ぜられたりした。私は銀行業者として居たから、自づと両者の地位に相違が出来て来たが、第一銀行設立の翌年、三井と共に第一に出資して居た小野組の蹉跌から問題が起つた時、井上さんは朝鮮へ行かれる前であつたが、「渋沢の為めのみでなく、我が経済界の為め、第一銀行の困難を救ひ、その立直しをせねばならぬ」とて、其の方法など心配し、種々三井方面のことを親切に取扱つて呉れた。
 其後井上さんは朝鮮から英国へ赴き、次で十四年大隈さんが政党組織のことで意見を異にして一種の諭旨免官のやうになつて退き、松方さんが代つた当時英国から帰られて、外務省に居られた。爾来二人の位置が違つて居たため、二人の間は多少疎遠のことなどもあつたが意志は常に相通じて変らない。従つて井上さんは経済界の事に不満があると私の所へ来て「これではいけない」などと云ひ、時に呼び付けられたりして、意見を交換するといふ風で、井上さんは色々と経済界の世話をせられた。殊に三井のことには力を尽したのである。
 明治十四年頃と思ふ。政党の事に関しそれを起すと云ふではなかつたが、同志を相寄らしめ政治的教育をすると云ふことで、其時分に福地源一郎君のやつて居た東京日日新聞に資金を提供してやることにな
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り、銀行業者側も其発展に力添へしたことがある。私も一万円程出し新聞の発展を望んだ一人である。そして福地君は頻りに政治思想の普及を図るべく、色々の事を書きたてたが、私自身は六年以後政治の実際には当らぬと固く決心しその信念で進んで居たから、日々新聞に援助はしても、私が政治界に勢力を張らうなどとは少しも考へて居なかつた。併し、井上さんの方は政治観念が強かつたので、この時分にも屡々私は「政治の事に就て渋沢は貴方の相談相手にはならぬ」と云ひ云ひして居た。
 それから明治二十二年頃、全国市町村の自治制が布かれることになつた。其時分井上さんは内密で「自治制研究会」と云ふものの援助をした。小松原などと云ふ人も居たと思ふが、独逸人の自治制に詳しい者から自治制度の事を聞き、井上さんが先導となつて自治党とでも云ふやうな政党が出来かかつたりしたこともある。そして私にも「仲間になつてやつて呉れ」と云はれたが、「それは困る」と云つて、相談相手の中から省いて欲しいと押問答したりしたが、それは永くやらなかつたやうである。
 三十四年伊藤さんが台閣を下り、山県さんや伊藤さんの胆入りで井上さんに後継内閣をやらせようとしたことがある。而して内務に芳川顕正、大蔵に私をと云ふ訳で、私は其の勧誘を数回受けた。使として芳川君が来たり、楠本正隆君又は園田孝吉君などが来て頻りに勧めたが、私が頑として応じないものだから、遂には山県さん、伊藤さんから懇切に説かれ、或は脅迫に近い強い言葉で勧められたので「情誼から言へばお受けしなければならぬかも知れぬが、私の信念からはお断りしなければならない。然し折角の御示しで御座いますから銀行の人々に相談をしてみませう。其で皆が同意でありますれば御受け致しませう」と答へ、銀行の重役であつた西園寺、日下、佐々木などの諸君に相談した処、「大蔵大臣はやるべきでない。今銀行を退かれては困る」と云ふことであつたので、銀行から断つてもらひ、井上さんには「斯う云ふ訳である。相済まぬが悪しからず」と云うて断つた。その為めでもあるまいが井上内閣は遂に流産に終り桂内閣が成立した。後に井上さんは「若し失敗して退くやうだと末路に名を傷ける。君が引受けて呉れなかつたのが幸で、私も内閣を引受けなくてよかつた」と云つて居たが、その後内閣組織を中止したお祝をしようと云ふことで御馳走になつたこともあつた。こんなお祝は類のないものである。
 それから後は、時々変つたことのあつた度に寄り合つて話合つて居た。尤もある場合には、議論を闘はすと云ふやうなこともないではなかつた。
      六
 外国との交渉が繁くなつて来てから、伊藤さんは露西亜の東洋進出を非常に気にして、日本が朝鮮に対し積極的に出ることは露国の心象を害する、事を好むやうに取られては困ると心配して居たが、井上さんも同意見であつて、朝鮮で日本は我物顔に振まつてはならぬと云つて居た。而して京城と釜山の間の鉄道敷設が計画され、韓国政府と交渉があったが、更に要領を得ず荏苒歳月を経過した。処が来国人[米国人]モー
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ルスが京城仁川間の鉄道敷設の特許を得て居るから、之を譲受けて先づ之を成功し、更に本来の目的に進むことにすることとなり、結局この仁川京城間の鉄道を私達がシンヂケートを組織して資金を集め、之で買収して会社を造つたのである。これは大隈さんが外務大臣の時であつた。伊藤さんはそれを懸念し、井上さんなどと一緒になつて反対した。然し、山県、桂等の人達は賛成した。それから明治三十六年日露の風雲が急を告げるに及んで、児玉さんが心配して私の処へ飛んで来て、「実業界の人々が戦争を好まぬのは当然なれども、戦争を嫌ふなれば反対に戦争をやれと云つて呉れ」と云ふ。其処で戦争に非常に関係の深い郵船会社に相談して、開戦の場合には、御用を努めるといふ書面を出させた。
 その夏であつた。犬吠岬へ私が避暑して居た処、井上さんから電報で「国家の大事だからすぐ帰れ」と云つて来たので、直ぐ帰京して見ると、
 「日露の交渉が切迫したが、朝鮮の鉄道はどうなつた。早く敷設せせばならぬ[敷設せねばならぬ]。さう緩慢では困る」と云ふので、私は、
 「貴方のように我儘では困る。会社の創立に努めて居るが、貴方は反対説ではなかつたか」となじると、
 「理窟を云ふのはよさう。何んとか成らぬか」と云はれるので、
 「金があれば出来るけれども、金が無いから困つて居ります」と答へたが、此時には井上さんの心配で金が出来、彼の京釜鉄道が出来て古市公威君を社長として成立したのであつた。
 日米関係に付ては井上さんも私と同説で、力を添へられたものの一つである。然るに其内井上さんは身体が弱く以前のやうな活動は出来ぬ模様であつたが、大正二年に中日実業会社が出来る時には、大いに尽力せられ、又製鉄所のことも大隈内閣の成立した時分非常に心配して居られた。此頃では片岡商工大臣が製鉄事業のことを考慮して、其の事業の大項目に注目して居るやうであるが、私も当時から井上さんの注意にて種々此事に心配したのである。
 斯様に私と井上さんとは、長い間直接間接に相共に働き久しく変ることなく、国家のこと、経済界のことに努力して継続的に交誼を厚うして来た訳である。そして井上さんは稀に見る敏活な勉強家で、又極く正直な親切な人であつた。政治に関し経済に就てはよく小言も云はれるけれども、一つの目的を定めるとそれを変へずに進んだ。兎に角私とは明治四年から亡くなられるまで二つとない関係を保つて来たのであつた。(十一月二十七日及び三十日談話)