公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
三九二 時事新報 第一五二六五号 大正一五年一月一日 政治と経済の並行(DKB80018m)
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三九二 時事新報 第一五二六五号 大正一五年一月一日
政治と経済の並行
支那の現状は他山の石
渋沢栄一
老齢無為、遂に米寿の新年を迎ふる事となつた。先年渡米に際して米寿は未だ五年の後にありとの漢詩をものした事があつたが、其の五年も早過ぎて、全く想像も及ばなかつた此の祝ひの歳が再び快よく私
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を迎へて呉れた事を心から感謝して居るものである。新進気鋭の方々は、恐らく私に世に所謂隠居を奨められるであらう。年齢から申しても考察力の実状から申しても、斯うした忠告は実に当を得たものであると、私自ら充分に承知して居るのである。然し亦一面、眼界を拡げて社会奉仕と云ふ点に着眼したならば、其処には年齢とか階級とかの差別は無く、凡ゆる人が皆一様に協力して国家社会の為めに最善の努力を尽す事が、人間として当然為す可き唯一無二の義務であらうと信ずるものである。斯うした見地より私は出来る丈け自らを鞭撻し喜んで世の中の為めに一臂の力を致して来た。亦将来に対しても身心の許す限り絶えず此の目的に向つて努力する事を誓ふものである。
然し私は一年の計を樹つ可き此の元旦にあたつて、以上の如き頗る漠とした自己中心の感想以外に、より切実な問題に付いて充分なる意見を吐き得ない事を衷心より遺憾とする。けれ共、一度眼を転じて其の大局、換言すれば政治的意味に於ける吾経済界の大勢に注目したならば、其処には未だ未だ改善を要す可き
幾多の欠陥 の存する事を指摘し得ると思ふ。一言以て之を云へば現在の経済界は、余りに政治界と懸隔して進みつつあると云ふ事である。但し之れは政治界を中心としての見方であつて、逆に之れを経済界本位に於て観たならば、結局政治界が経済界の進歩と歩調を合はせずに進みつつあると云ふ事に帰着するのである。元来此の両者が常に並行す可きものである事は今更呶々するまでもない事にて、明治維新後の吾経済界が驚く可き進展を示したことも、結局は此の両者が常に並び進む事を忘れなかつた為である、と云ふ事が出来よう。私は此の維新当時にあつて斯うした転換期に身を処して居た関係上、如何に政治経済両者の並行が必要なものであるかを直接に痛感したものの一人である。歴史は繰返すと云ふこともあるから、其当時の状態が現在の参考にもなればと思ひ、次に私の直接経験した当時の想ひ出を述べることとしよう。
私が過去に於て政治と云ふものに直接関係したのは今日から顧みれば既に早や五十有余年の昔、明治二年の大蔵省入りの時であつた。一体私は其当時政治に直接携はると云ふ事は自分の本分ではないとの考へを抱き、又その前年の渡欧より帰国するに当つても、先づ我国の経済界を改革する事が刻下の一大急務であると信じ、此の目的に向つて
懸命の努力 を為す可く心私かに誓つて居た際の事とて、此の大蔵省入りの問題は相当私を困却させたものである。従つて私の辞意は非常に堅かつた。斯うした困難な場合に於て、私の心を最も強い力で己れの方に引張つて行つたのが、先年逝かれた大隈侯であつた。当時私の年齢は二十九で、大隈侯が三十一歳であつたと記憶して居る。平常から大隈と云ふ人物は仲々に偉い者であるとの話は聞いて居たが、さうした直接の交渉に当つて始めて其の真価を痛感した次第である。大蔵省に入れとの大隈侯の勧めに対する私の辞退理由は「財政の事務に通ぜず」と云ふにあつたが、之れが反つて彼れに反馭の言質を与へるところとなつて、遂に私は絶体絶命官界に身を置く結果となつた。解り易く云へば私は侯の能弁に云ひ負かされて仕舞つたのである。其時
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大隈侯は斯んな風な云ひ方を以て私の辞退理由を反馭した。「貴下が財政に通ぜずと云へば我輩も亦然りと云はなければならぬ。然し現下の国情に顧みて我々が只知らざるが故に之れを放擲すると云ふ様な無責任な事をして置けるものであらうか。貴下は政治界に入らず経済界の改革に向つて進むと云はれるが、然らば問ふ、貴下果して経済の事に通ぜらるるやと。即ち知らざるが故に為さずとの理由は成り立たないんである。亦之れを実際問題として考ふるも、貴下の目的たる経済界の改革を計るには、財政の実務を採る事に依て、其の経済界に一の地位を得る事も亦必要となつて来るのではなからうか。云々」
先づ大要以上の如き論法を以て遂に私は大蔵省入りを余議なくせられる事となつたのである。其後明治四年に至つて大隈侯は参議となり井上侯が之れに代つて財政の事に従ふや更に侯に従つて微力を致す事となり、同六年に至つて始めて野に下る事を得た。即ち此間に於ける
私の経験 は年数よりすれば頗る短いものであるが、時に恰も明治維新の大建設期にあり、凡ての組織が其の緒につかんとする際の事とて、其の得るところも蓋し尠少なものではなかつたと思ふ。扨て斯うした有意義な経験に於て注目す可きものは、此の建設期に於て政経両者の協力が完全に行はれた事である。大隈侯と井上侯とやり方には自ら非常な差異が存して居たけれ共、結局此の両者を完全に提携せしむる事に付いては凡て一致して居た。又私も其後財界に身を置いて、微力乍らも此の目的の為めに出来る丈けの努力をして来た積りである。玆に両者並行の行はれざる結果、国家全体の危期に瀕して居る同情す可き国がある。即ち隣邦支那は其好適例と云ふ事が出来よう。支那の財界には我々の学ぶ可き幾多の識者が存在して居るにも拘らず、経済界全体の衰微は実に悲しむ可きものがあり、それが全く財政と掛離れて進みつつある事に原因して居るのであるから、我国としても当然之れを他山の石として現在並に将来に向つての警とすべきものでなからうか。
以上に於て私の新年所感は一通り了つた。明治維新に対して大正維新と云はれて居る今日、我々は国家の為めに、自我のみによる徒らな主張を捨て、維新の大局に向つて勇往邁進す可きであらう。