公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
三九七 竜門雑誌 第四五〇号 大正一五年三月 ○青淵先生説話集 ○中略 娯楽は生活の必要条件(DKB80023m)
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三九七 竜門雑誌 第四五〇号 大正一五年三月
○青淵先生説話集
○中略
娯楽は生活の必要条件
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娯楽に対して誤れる見解
今回は新春にふさはしい「娯楽」についてお話する。さて人世の慰安と相俟つて講究すべきは娯楽の問題であらう。然り矣、娯楽は慰安を得せしむべき一の方法である。故に娯楽は人世に取つて甚だ大切なことで、これを軽く看過すことは出来ない。然るに世人は往々娯楽といへば、その意味を単に遊ぶことといふやうに、極めて悪意に取つて解釈してゐるが、これは誠に見当違ひの謬見といはねばならぬ。尤も日本旧来の習慣から考へて見れば、欧米諸国とは大いにその風俗を異にしてゐたから、殊更娯楽というて多くは善い方の遊びが少なかつたのである。従つて今日の生活に要求する所の娯楽の意味とは稍々その解釈を異にしてゐるから、そこで娯楽といふ事実に対して未だ偏見を抱くものあるは強ち恕すべからざることでもあるまい。而して今私の目して娯楽といふのは、所謂「克く務め克く遊ぶ」の後半句たる、「克く遊ぶ」といふ方を指したものである。
娯楽は何故に人世に取つて大切なものであるかといふに、凡そ人間の精神にも体力にも一定の限度があるもので、決して百年不休にこれを働かし得るものでない。大いに働かせることがある代りに、又大いに遊ばせたり楽しませたりすることが無くてはならぬ。換言すれば、人間は活動的であると同時に、又一方にはそれを慰め楽しませる娯楽が無くてはならぬ。人は誰しも大なる活動をする反面には、大なる娯楽を得んとするの欲望がある。即ち娯楽は活動の内助者とも言ふべき価値あるものだから、人生に取つて必須なる事項であることは固より言を俟つまでもないことと信ずる。併しながら、娯楽は其の性質上より善悪が混同され易いものである。それ故にこれだけは十分注意してその善悪を区別しなければならぬが、人生に取つて左ばかり大切な要目であるならば、吾人は出来得る限り善良なる娯楽を選び、それに依て楽しみを得るやうに仕たいものである。
娯楽は善いものを選択せよ
私は旧時代に生育した人間であるから、今日の少青年がするやうな野球や、テニスや、撞球、銃猟、さてはスキーと云つたやうな娯楽は何一つ知らない。さればと云つて俗曲を謡うたり舞踊をやるといふやうな娯楽もない。唯だ従来人と談話したり、事を謀り世上の事務を処する、謂はば普通人の目して仕事とするやうな事を娯楽として来た。娯楽としては極めて平凡なるものである。そして又善意の娯楽として私は庭園なぞも好む。彼処へ道を通じ、此処へ樹木を植ゑるとか、石の配置を考へるとか、樹の枝振に工夫するとか、或は木に芽が萌えた草に花が咲いたとかいふことを楽しみとするのは、心を慰め元気を養ふ上に大なる力あるものだと思つてゐる。
けれども私の娯楽中には甚だ宜しくないものもある。私は屡々いふことであるけれども、彼の維新前後に於ける社会秩序の混乱時代に身を処して来たので、周囲の境遇上悪いことの娯楽を覚えたのであつたが、若い時代の習慣はなかなかぬけ去らぬもので、今日までそれが余弊を残してゐる。私は過去に於ける経験から打算して、娯楽の如きものに就ても、矢張りその初めが大切であると切に思ふのである。一度
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習慣になつたことはなかなか改められないものであるから、娯楽なぞも悪い習慣をつけぬやうなものを、最初から選ぶことが肝要である。殊に娯楽としては悪い方のものが余分に面白い。善いことは心の刺戟が少いから面白くない。それ故動もすれば人は悪い娯楽には染み易い傾向があるものだけども、それも習慣的に或る程度までは抑制することが出来ようと思ふ。一度その面白味を知ると、これを二度仕て見度いといふが人情の常である。故に非常なる克己心のある人なら格別、左もない者は最初から悪い処へ接しないやうにするのが何よりの得策で、これを習慣性にして仕舞へば、遂に善良なる娯楽を以て娯楽とする何等の不足をも感ぜぬやうになるのであらう。
屋外的娯楽と四畳半式の娯楽
一体旧時の娯楽は静止的であるに反し、今時の娯楽は多く活動的である。西洋人なぞは遊ぶ時は何事も忘れて遊び、多く屋外に大仕掛の方法で娯楽を取る。私が曾て欧米諸国で目撃した所に由れば、老人も青年と同じやうに投球もやればフットボールもやつてゐたので、これは却て危害がありはしないかと思はれたほどでる[思はれたほどである]。日本の現在では、未ださうした仕方に依て老若共楽といふところまでゆかないが、新時代の教育を受けた人々が老人になつた頃には、若い人達と娯楽の一致と云ふことが実現するに至るであらう。それは後の話で、今日では矢張り壮年乃至老年者の娯楽の大部分は、日本在来のものの中に求められてゐる。就中庭園を愛し花卉を楽しみ、或は書画骨董を蒐集し、古物を愛翫する。或は詩歌俳諧に遊び、文章を綴つて娯楽するが如きは蓋し選ぶべき娯楽たるを失はぬであらうと思ふ。碁を囲んだり将棋を指すのもよいが、それに伴うて弊害の起る様な娯楽には、寧ろ接近せぬ方が安全である。要するに娯楽は慰安に取つて大なる助けとなるものであるから、同じやるなら趣味ある有益なことに仕度いものだ。
世間にはまま資力あるに任せて一枚の画に数万金を投ずることを惜まぬ者もある。又自分の自由になるからと云うて大金を投じて温室をしつらへ、世界の草木花卉を集めてこれを世に誇る人もある。それらは矢張り同じく趣味ある娯楽には相違ないけれども、或は贅沢に流るるの嫌ひがありはせぬか。私は寧ろ左様いふ娯楽に与したくないのである。すべて足るを知りて分を守るの間に、娯楽をも求めなければなるまいと思ふ。
遊びにも働きにも不熱心
西洋人の娯楽が比較的屋外主義であるに反し、日本人の娯楽が兎角四畳半式なることは、何というても日本人が欧米人に一歩後れてゐると謂はねばなるまい。欧米人は老幼男女の別なく多人数の中に出で、殆ど吾を忘れて遊ぶ風があり、すべて娯楽も公開的のものが多い。例へば公園で各種の遊戯を演じて遊ぶとか、或は野外運動を行ふとかいつたやうに、何事も大仕掛で且つ開放的にやるのである。然るに日本人の娯楽は全くそれとは反対で、なるべく外には出ぬやうにし、その遊ぶ仲間も自己に附随した三四の者とか、知己朋友と相会して遊ぶとかいふ位なもので、野外へ出て公開的に娯楽を得ようとするが如き場合は、若い人達を除いては殆どないというてもよい程である。
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又その遊び方を見るも、外国人は多く専心的に遊んでゐる。一度娯楽を得ようと欲すれば、最早他の何事をも顧みるに遑なく、全く心をそれに打ち込んで、他意なく遊びに熱中するらしく見える。否、事実彼等は左様に熱中して仕舞ふのである。然るに日本人の遊び方はさういふ風ではない。用向とか仕事とかには専心的にやる者もあるが、遊びに向つて専心的にやる者は少い。寧ろ従来それを善い風習と見てゐなかつた。併しながら自分等の意見では、仕事も専心的にやるが、遊ぶにもまた専心的にやるがよいといふのであつて、此の間劃然たる区別を立て、何処までも規則的にやるがよいと思ふのである。現在日本人の遊ぶ所を見るに、遊んでゐるのか倦けているのか解らないやうな風で、その甚だしきは、仕事してゐるのか遊んでゐるのかさへ解らないやうなものもある。これは誠に面白くない風習ではあるまいか。殊に日本人の常として、青年時代には遊びらしい遊び方をする者もあるが、中年から老年になるといやに老い込んで仕舞ひ、彼の欧米諸国で老人が平気で屋外運動をやつてゐるのとは比すべくもないやうになつて仕舞ふ。併しこれは一つは習慣にも因るであらうし、なお又家屋の構造や衣服の関係にも因ることであらうから、此の点も今後は考へられるやうにならうと思ふ。
娯楽の進化向上も時の問題
欧米人の衣服は私共の所謂洋服で、それに靴穿きといふ、見るから軽快な身拵へである上に、家屋の中にまで靴の儘で這入れるといふ便がある。それに日常テーブルに椅子の生活であるから、起居振舞が頗る簡易に出来るので、自ら心神もそれに伴うて快活に動き得られる。ところが日本人はさうでない。衣服といひ、邸宅といひ、これを西洋人に比してその手数のかかることは雲泥の差のみでない。従つて何事も億劫になるから、外へ出てよい処も遂に家の中で済ますといふことになる。そこで動作挙止が何となく因循になつて仕舞ふ。
近来は生活改善の叫びが大分大きな波紋を描いて、衣食住の上に良い変化を見せるやうになつて来た。洋服を著る人の多くなつて来たのは著しい事実で、今日では少くも東京の如き大都会では一般の事務服になりかけて来た。住居の如きも所謂文化住宅なるものが頻々と現はれるやうになつて、椅子テーブルの生活が追々殖える傾向にある。食事の如きも、普通の家庭に手軽の洋食位ゐは拵へると云ふことになって、だんだん洋式と云ふと語弊があるか知れないが、兎に角日本人の生活が近代化しつつあることは事実である。そこで娯楽の方もそれに伴つて野外的になり、公開的になるのは当然で、今後は時の問題であると思ふ。何にしても、私は、彼の欧米人が、老人に及ぶまでも青年に譲らぬ元気の点だけは、是非日本人もこれを見倣ひ度いものだと思ふ。
兎に角娯楽は遊ぶ意味だというて、これを閑却に附し去ることは甚だ宜しくない。克く務め克く遊ぶといふことを心とし、娯楽の場合にも働く場合と同様に精神を籠めるがよいのである。
(商業世界一月号所載)