公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
三九八 現代 第七巻第五号 大正一五年五月 叱言のいひ方 【子爵 渋沢栄一】(DKB80024m)
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三九八 現代 第七巻第五号 大正一五年五月
叱言のいひ方
子爵 渋沢栄一
◇叱言にも中庸が必要
元来叱言といふものは、言ふ方でも亦聞かされる方でも、お互ひに心持のよいものではない。で成らう事なら大抵の事は簡単な注意を与へる位の程度で、叱言を云はずに済ます様にしたいものであるが、物事によつてはさう計りも行かず、殊に本人の将来の為に却て叱言をいふ方が利益になる場合も尠くないのであるから、叱言といふ事も絶対に排すべきでない。併し其の程度宜しきを得るといふことは、仲々難かしい事である。
世の中には後進に対して飽くまでも親切で、どんな欠点や失策があつても深く之を咎めぬ計りか、何所までも之を庇護して行かうとする人と、少しの欠点や失策にもガミガミと頭から怒鳴りつけて之を完膚なきまでに叱り飛ばす人とがあるが、双方共に程度を超えては宜しくない。何故かといふに、親切に後進を引立てる事は結構であるが、それがため後進の依頼心を助長せしめ、其の発奮心を鈍らする惧れがある。又、余りに矢釜しく罵り責める時は、大に後進を発奮せしむる動機ともなるが、時には間違つた考へを起させたり、或は慢性の様になつて、悪賢こい方に発達せしむるやうな惧れもある。中庸を得るといふことは何事にも必要であるが、叱言のいひ方にも之を忘れてはならない。
◇叱言の寛厳を律する標準
それから叱言をいふには、如何なる場合でも、自分本位であつてはならぬと思ふ。例へば何等かの過失をしたについて之を叱責するに際しても、外部に現れた結果よりも、先づ過失を醸すに至つた其人の心事に立入つて、之に依り軽重を決する様にしなければならぬ。尤も人によつては、人間は万能でないから過失は寛大に見過す方がよいと言ふけれども、決してさうではない。或る種類の過失は社会のためにも又本人の将来のためにも、之れを叱責することは必要である。
過失には大勢に於て、無意識の過失と有意識の過失とがある。誠意を以て事に当りながら、計画に手落があつたとか、形勢に対する判断を誤つた為に生じた過失などは、所謂無意識の過失であるから、単に将来を注意する位にとどめて余り追求して責むべきでない。又一時の出来心から物慾に禍されたやうな過失も、本人の平素の言動が正しければ寛恕すべきである。だが、世の中には初めから過失の陣立を整へ偏に自分の利益をのみ計らんとする者がある。手近い例を挙げると、最初から事業の失敗を予定計画として会社を創立するやうな不所存者が居る。之などは有意識の過失であつて、社会の利益幸福を増進する点からするも、本人を改悛せしむる上から観るも、飽くまで詰責すべきである。
過失に対する叱言の寛厳は、先づ大勢に於て斯うした標準で律する様にすればよいと思ふ。そして自分の怒りを他人に移すやうな事をせず、本人の将来を考へ、之を大にして国家社会のためと云ふことを念
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頭に置くやうにしたいと思ふ。
◇直言の叱責と間接的な戒告
無くて七癖といふ諺もある通り、円満に発達した人でも何かしら欠点を有つてゐる。況んや平凡人には種々な欠点が多いが、しかも自分では其欠点を知らずにいる人もあるし、知つて居りながら之を改めようとしない人もある。
万人に対して完全無欠な人たれと望んだ処で、それは不可能な事であるから、少し位の欠点については一々口喧ましく叱言をいふのは考へものであるが、本人のために是非改めさせたいと思ふやうな欠点については、成るべく穏やかに之れを戒めるやうにしなければならぬ。だが、自分の子供であるとか弟妹であるとか、親しい間柄の後進に対しては明らかに欠点を指摘して戒告を加へる事もよいが、相当分別ある年輩の者に対しては、相手の性質又は欠点の種類により、面と対つて直言するよりも婉曲に間接的にする方が遥かに効果のある場合が尠くない。「円い玉子も切り様で四角、物も言ひ様で角が立つ」と俗謡にもあるが如く、如何に道理に適つたことでも、露骨に単刀直入に頭から叱責すれば、却て下らぬ反抗心などを起させる事が往々ある。斯ういふ場合には寧ろ間接的に戒告を与へて自ら反省せしむる様にした方が遥かに効果が多いと思はれる。
尚ほ直言するについても、能く時と場合とを考へる様にしなければならぬ。処かまはず本人の欠点を挙げ、衆人の前で之を暴露するが如きは慎しむべき事柄であつて、且つ理路井然と道理に基いて説く事をせず、無茶苦茶に怒鳴り立てて叱責するが如きは、叱言の効果を損ふものである事を覚らなければならぬ。
◇虚心坦懐の心情が肝腎
次に叱言をいふ際には、必ず他人の居らぬ処ですべきである。故井上馨侯は偉い人ではあつたが非常に口喧ましい性質で、来客でもあつた時に取次に出た女中が何かヘマな真似でもすれば、ガミガミ叱責し果ては罪もない客にまで怒を遷して不機嫌な様子をされたものであるが、斯ういふ事は客に対して礼を失する計りでなく、叱責される本人にとつても、反省よりも寧ろ反感を抱かしむる場合が尠くないのであるから、是非とも慎しむ様に心掛くべきである。
それから、叱言は其の場限りのものとし、戒告を与へた上は釈然として再び之を念頭に置かぬやうな襟度が必要である。過ぎ去つた事に飽くまで執著し、之を何時までも問題にして繰り返すのは愚の極である。何事も既往に溯て人を咎めて立てするのは、古傷を探すと同様で宜しくない事である。孔子は「成事は説かず、遂事は諫めず、既往は咎めず」と訓へられて居るが、之れは全く至言であつて、叱言をいふには此の教訓の趣旨を能く翫味し、万事に淡然としてネチネチした態度を去り、虚心坦懐の心情を以てすれば先づ謬りはなからうと思ふ。