公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
三九九 経済往来 第一巻第三号 大正一五年五月 学問と実際 【渋沢栄一】(DKB80025m)
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三九九 経済往来 第一巻第三号 大正一五年五月
学問と実際
渋沢栄一
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日本の経済界はどうも能率があがらぬ。かう云ふ感じが私にはしてゐる。さて然らばそれはどう云ふ訳か、又どうしたらそれを良くすることが出来るか。私自身経済界の実際から遠ざかつてゐるので、どうもその原因及び之れが対策に付いてはつきりしたことが判らない。よく世間にはアダムスミスがどうとか、ジョン・スチュアート・ミルがどう言つたとか、さう云ふ符牒を並べる人がある。又書画骨董屋がいや狩野派はどうとか四条派はかうだとか云ふ。そして、さう云ふ符牒を並べることは偉さうに見えるが、それで決して実際が判るものでない。実際を知るには矢張実際に携はつてみつちりと実際を研究せねばならぬ。私は最早しばらく実際から離れてゐるので、どうもこの日本の経済界に能率があがらぬことを痛感してゐても、さてそれがどんな原因でどうしたらそれを良くすることが出来るか判らぬ。
しかしかう云ふことが言へるかと思ふ。私が財界を隠退して実際に携はることをせぬと、直ちに財界の実際のことが判らなくなる。従つて私がかれこれ財界のことを言うたからとて、それは決して適切な意見でもなく、それで能率があがる訳のものでもない。能率があがるあがらん処か、さう云ふことを言ふ能力がなくなつてゐるかも知れぬ。それと同じに、国民の多数が、実際に携つてゐるものもゐないものも空論をしてゐる。之れが能率のあがらぬ原因ではないかと思ふ。即ち学者は殆ど実際をかへり見ない。又実際に携つてゐるものは、ただ表面的に携はつてゐて、本当に眼光紙背に通ると云ふやうに実際を見ない。之れが能率のあがらぬ原因ではないかと思ふ。
日本の経済界においても、本当によく研究されたものには、大いに能率のあがつてゐるものがある。工業においては紡績業を始め可成りある。又農業においては養蚕業の如きがある。桑の栽培と云ふ点においては尚不十分であるが、蚕種、蚕の飼育と之の方面は却々発達してゐる。之れを以て見ても本当に実際を研究し、そしてそれを思ひ切つて適用すれば大いに能率をあげ得るのである。しかるに本当に実際を研究すると云ふことが非常に欠けてゐる。実際に携はつてゐるものがうはのそらであるのと、研究的訓練のある学者の研究題目は実際問題が少ない。そこで日本は学問と実際とがかけ離れてゐる。
学者に皆実際問題を研究してくれと頼むことは頼むものの無理であるが、少くとも学校の教育方面をして、多数の学生にもつと実際問題に趣味をもたせるやうにし、学校を出たら実際問題を学者的に突込んで研究するやうな訓練を与へて貰ひたい。今の多くの学校の教育のやうに、只西洋のことを話して、それを筆記させ暗記させるのでは、本当に日本の実際問題の能率をあげる足しとはならぬ。
しかし又学者の方ばかり責めてゐてはならぬ。実際家においてもつと学問を取り入れ、西洋の新らしいことで良いこと、又必然さうなるべきことに対しては率先してそれに順応することが必要である。それに良く順応して来たのが紡績業で、前に云ふ如く日本の工業のうちでは良く発達し、能率をあげ得てゐるものであるが、若し日本人が昔の儘手で廻す車で一日七十五匁なり多くて百匁引いてゐたのでは、決して今日の如く綿糸を諸外国に売出す、綿織物を輸出すると云ふことは
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出来なかつたに違ひない。ところが幸ひ西洋で発明された紡績機械も之れが良いとなると早速之れを取入れて利用した為めに、日本は今日世界に於ける有数の綿業国となつた。之の例に見ても判る如く、刻々改良を加へられ、又全然新らしい機械の発明があつて、今まで使つてゐた機械は到底競争に堪へぬことが見えた時、古きを捨て新らしきにつくと云ふことが、総ての産業において必要である。
私は財界を隠退してから実業家でなくなつた。そこで中立の立場に立つて資本家と労働者との間を円満にし、お互に協力して経済界全体の能率をあげることに多少骨折つてゐるが、私は実業家側からはどうも渋沢は過激なことを言ふ、日本の産業を害するものであると云ふやうな小言を受け、一方労働者側からは、何んだ渋沢は資本家の手先きとなつて吾々の要求を容れぬ、新しいものに対する理解がないと叱られることが屡々ある。
しかし私の立場から見るとその何れも偏してゐると思はれる。前にも云つた如く、紡績業に付いて見ると、機械が発明され之が利用されるやうになると、必然に工場制度が生れて来る。之れは革命である。さうなると之れに働くものは多くなり、昔家内工業時代少数の徒弟が主人の下において働いてゐた如き主従関係はなくなつてくる。そこで工場の主人である資本家は、新らしい革命に応じた態度で労働者に対せねばならぬ。しかるに日本の多くの資本家は、昔の如く労働者を家来の如く思うて使はんとする、そこに資本家の余りに旧習に囚はれた態度がある。
一方労働者側を見ると、之れは又全然反対で、極端に新らしい学問にかぶれ、それをその儘資本家に向けて要求して来るものもある。又資本家を一図に悪いもののやうに思つてゐるものもある。そこで中に立つ私は両方から叱られるやうになるのであるが、之れは要するに労資問題に付いて言へば、資本家と労働者がお互に研究し合ひ、諒解し合ふと云ふことをせぬからであり、経済界全体として見ると、学問と実際の接触が不十分であることにその能率のあがらぬ原因の主要な部分があるのではないかと思ふ。