公開日: 2024.12.1 / 最終更新日: 2025.3.16
四〇二 実業之世界 第二三巻第八号 大正一五年八月 私の利用される心持ち 【子爵 渋沢栄一】(DKB80028m)
別巻第8 p.84-86 ページ画像PDM 1.0 DEED
四〇二 実業之世界 第二三巻第八号 大正一五年八月
私の利用される心持ち
子爵 渋沢栄一
- 別巻第8 p.085 -ページ画像
私は国家社会の為に
なることは及ばずながら尽して来て居る積りであり、又今後も老躯を提げて出来得る限り尽さうと心掛けて居る。それでこれまで多くの人にお目にかかつて来たわけである。もとより多くの人々の中には表面上丈けのみ私を尊敬して居て、実は利益的のみの立場から利用しようとする者もないとは言へぬ。はつきり利用するのだと判ると私は之れを避ける。利用されるのを知りつつ之れに応ずるのは愚にされたことになる。
けれども亦中には
私の説は尤だ、思想も共鳴すると云ふので私を訪ねて来て呉れて、自分の都合で多少私を利用するやうな事があつても、夫は余り避けぬ事にして居る。一向宗の人々が阿弥陀仏を信ずると云ふことからして阿弥陀仏を利用されることがあるのと同様の意味で、私を利用する者のあるのは已むを得ないと思ふ。故にその説を聞いたり、話したいと云ふときにはお目にかかり意見も述べる。かう云ふことも見やうによつては多少私を利用したことになるか知れないが、之れは
英雄でも賢人でも
免れない事柄である。故に之は私として恥かしくもなく、又恥とすべきことでもないと思ふ。唯利益的の立場のみから、本当に利用の為に利用されることはイヤであるから避ける。又そんな意味に利用されるのを平気で居るのは社会国家の為にもならぬと信じます。
お断りして置くが渋沢は阿弥陀仏のやうな絶対慈悲者とは違ふけれども、唯例を引いたまでであるから左様御承知ありたい。
又、中には、渋沢の思想に共鳴して説を聞きに来たりして、時にこんな事があるからと云つて頼み込む事がある。是等の人達は極く良い意味で、その反面には渋沢を利用しようと云ふことで来られるのである。之の如きはその人の生活の為にするので、それ程咎むべきことでないことと思ふ。
聊か利用すると云ふので、之れを避けると云ふのは、余り潔癖過ぎる。余り小さ過ぎると思ふ。
孟子はかう云ふことを
言つて居る。「伯夷は聖の清なるものなり、伊尹は聖の任なるものなり、柳下恵は聖の和なるものなり、孔子は聖の時なるものなり」伯夷は清浄潔白で、武王が道に背いて天下を取つたと云ふので周の粟を食まずと首陽山に隠れ餓死し、聊かでも曲つたことを許さなかつた。伊尹は国を以て己が任とし、不明の太甲をして仁を知らしめなければ止まぬと云ふ厳しい人であつた。柳下恵は温和で三度その職を黜けられても、正しきを行つたから辱としないと云つてその国を去らなかつたと云ふ程穏かな人であつた。
この三人は何れも聖人
であるが、或る一つを固く持つて動かなかつたと云ふ頑固な所があつた。所が孔子はその時に臨み変に応じてその処置をとつて誤りがなかつた。丁度三聖を合して居るので、孟子は孔子を之れを集大成と言うて居る。余り清くてもいけない、水清ければ魚が棲まないやうなも
- 別巻第8 p.086 -ページ画像
のである。又その信ずる所、即ち事に当るに自ら責任を持つてやると云ふ事は極くよい、それが余り厳しくてもいけず、と言つても余り穏かに過ぎても中庸正鵠を得たことにならないから、この辺を余程考へなくてはならぬ。
私は三聖の如くその一つを固く取つて、自分の利用さるる事を何処までも避けると云ふよりも、利用されることを知つて居つて、その用ゐ方が悪くなく
悪意がなければ
聊かの利用位は利用されても良いと思ふ。ただ本当に道具と使つて純然たる利用の為に利用されることはどうしても避けるのみである。
常に利用されることを恐れて、あの人の平生はどうである、之れは私を利用するのではないかと云ふ風に、その心事を忖度して要心のみして居れば利用されることはないかも知れないが、それ程まで利用を恐れ避けるに及ばない。そんなに自分の都合のみ考へるやうでは、団体生活と云ふものに余り不忠実すぎると思ふ。
私は人を見れば泥棒と思へ
と云ふやうな心持で居るのはイヤです。
私は利用されたことは幾らもあるが、利用されたことの為めに、人の名誉を毀損したり、人に迷惑をかけたことはない。ある仕事をやるについて寄附金を募集するから之れに賛同して呉れと云ふので、之れに賛同した為めに、見る人によつて私は利用されたと云ふ人もあるかも知れないが、その仕事が有意義であり、国家社会を利するものであつたら、それに利用されてもその利用を悪いとは思はれない。尤もその寄附金が正しい道に使はれなかつたり、目的以外の方に使はれたりすることがないこともない。例へば招待会の費用になつたりして仕舞ふことがある。かう云ふことは無論自分の為めになるとも言はれんが永い間にはこんなことがないとも限るまいが、不完全の人間の寄り集まりの社会では仕方のない事であらう。こんな事も全然さけられぬでもないが、それには、団体生活をやめて山の中にでも這入るか、人を見れば泥棒と思へと云ふ調子に行かねばならぬことになりはせぬだらうか。